酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







松阿弥







 みんなが帰って来て、急に賑やかになった。

 太郎は『浦浪』の一室から、外を眺めながら夢庵から言われた事を考えていた。

 いつまでも、こんな所に隠れていてもしょうがない事はわかっている。宝も捜し出した事だし、そろそろ、表に出る頃合だとも思っていた。夢庵が間に立ってくれれば、うまく行くような気もした。阿修羅坊が連れて来た松阿弥とやらを倒したら、思い切って別所加賀守に会ってみようと決心した。

 太郎がぼんやり外を眺めていると、見た事ないような職人が中庭に入って来た。どうも紺屋(こうや)の職人のようだった。その職人は太郎に軽く頭を下げると、「すんません。太郎坊様とかいうお方はおりますかいの」と言った。

「太郎坊というのは、わたしだが」

「はあ、そうですか。あの、行者さんが会いたいと言っておりますが‥‥‥」

「行者? どこにいるんだ」

「あの、あっちです」と職人は河原の方を指さした。

 一体、誰だろう、と河原まで出てみると、そこにいたのは阿修羅坊だった。

「やあ、元気か」と阿修羅坊は馴れ馴れしく、太郎に声をかけて来た。今まで、太郎の命を狙っていた事など、すっかり忘れてしまったような口振りだった。

「どうしたんです」と太郎は阿修羅坊の顔色を窺った。

「ちょっと、話があってのう」

「よく、ここがわかりましたね」

「ああ、偶然、おぬしの連れを河原で見つけてのう、後を付けて来た。あの金勝座とかいうのも、おぬしの仲間か」

「ええ」

「おぬしには色々な仲間がいるようじゃのう」

「話とは何です」

「まあ、立ち話も何じゃから座って話そう」

 阿修羅坊と太郎は川の側の石の上に腰を降ろした。

「浦上殿に、おぬしの事を話した」と阿修羅坊は言って太郎の反応を見た。

 太郎はただ川の流れを見ていた。

「考えておく、と言った。ところで、おぬし、念流というのを知っておるか」

「聞いた事はあります」

「そうか、その念流の使い手を連れて来た。おぬしがそいつを倒せば、おぬしを赤松家に迎えるそうじゃ」

「えっ、ほんとですか」太郎は探るように阿修羅坊を見た。

 阿修羅坊は任せておけと言うように頷いた。「おぬしの事をよく言っておいた。浦上殿も、敵に回すより味方にした方がいいと気づいたんじゃろ。おぬしを楓殿の亭主として迎えるそうじゃ」

「そうですか‥‥‥ところで、その念流の使い手というのは何者です」

「松阿弥という時宗の僧じゃ。浦上殿の所に食客(しょっかく)としていたらしい。ちょっと気味の悪い男じゃ。手ごわい相手かも知れん」

「その松阿弥という男は何を使います」

得物(えもの)(武器)か」

 太郎は頷いた。

「わからんのう。わからんが、多分、仕込み杖じゃないかの」

「仕込み杖?」

「ああ、奴の持っている杖がな、どうも、仕込み杖のような気がする」

「刀が仕込んであるという事ですか」

「多分な。わしも念流とかいう剣術の事はよく知らんが、昔、山名宗全のもとに念流を使う奴がいてのう。首を斬るのが得意だとか聞いた事がある」

「首を?」

「あっという間だそうじゃ。あっという間に、敵の首が飛んでいるそうじゃ」

「そんな奴がいたのですか」

「噂じゃ。本当かどうかはわからん」

「念流か‥‥‥」

「いつやる」と阿修羅坊が聞いた。

「明日の早朝」と太郎は迷わず答えた。

「場所は?」

「この前の荒れ寺」

「よし、わかった。敵は一人じゃ。おぬしも一人で来い。わしが検分役を務める」

 太郎は頷いた。

「ところで、宝捜しの方はどうじゃ」

「まだです」

「そうじゃろう。そう、簡単には見つかるまい。瑠璃寺には行ってみたか」

「行きましたけど、何もつかめませんでした」

「やはり、駄目か。これから、どこを捜すつもりじゃ」

「赤松村と城山城の城下を当たってみるつもりです」

「うむ、わしも赤松村が臭いと睨んでおったんじゃ。見つかるといいがのう。まあ、それより明日は勝てよ。楓殿を悲しませたくないからのう」

 太郎は頷いた。

「おぬし、愛洲水軍の伜だそうじゃのう。愛洲氏といえば、昔、南北朝の頃、赤松氏と共に南朝方で活躍したそうじゃ。しかし、建武の新政で、赤松氏と同じく、大した恩賞も貰えなかった。赤松氏は反発して播磨に戻り、やがて、足利尊氏と組んで南朝を倒し、足利幕府に協力して三国の守護職を手に入れた。愛洲氏の場合は場所が悪かった。伊勢に南朝の大物、北畠氏が入って来たからのう。結局、北畠氏に食われた形になって、伊勢の隅に追いやられてしまった。もし、立場が逆だったら愛洲氏が三国の守護職になっていたかもしれんのう」

 太郎も、祖父、白峰から南北朝の頃の愛洲氏の活躍は何度か聞いた事があった。しかし、阿修羅坊がどうして急に、そんな事を言い出したのかわからなかった。

「愛洲氏も源氏だそうじゃな」

「ええ」

「由緒ある家柄というわけじゃ。しかし、赤松家に迎えるには釣り合いが取れんそうじゃ。何せ、楓殿はお屋形様の姉上じゃからな。おぬしはお屋形様の兄上という事になるわけじゃ。わかるか。赤松家と釣り合いのとれる家柄の名前に変えてもらうかもしれん」

「そうですか‥‥‥」

 太郎にとって名前など、どうでも良かった。現に今、太郎は四つの名前を持っている。本名の愛洲太郎左衛門久忠、山伏名の太郎坊移香と火山坊移香、そして、職人名の三好日向。今更、もう一つ名前が増えようと、どうって事はなかった。

「まあ、明日は頑張ってくれ」と言うと阿修羅坊は立ち上がった。

「右手は大丈夫ですか」と太郎は聞いた。

「ああ、骨はくっついたらしい。心配するな。もうすぐ元に戻る」

「そうですか」

「おぬし、また、棒を使うのか」

「いえ、刀を使います」

「うむ、その方がいい。ところで、ここに戻って来る途中、面白い噂を聞いた。信じられなかったが、この城下に来てみたら、その噂で持ち切りじゃ。その噂を流したのはおぬしか」

 太郎は頷いた。

「やはりのう‥‥‥楓殿の亭主として、堂々と城下に入場するつもりか」

「ええ」

「まだ、時期が早いぞ。もう少し待ってくれ。今、入場したとしても、おぬしが楓殿の亭主だとは信じてもらえまい。楓殿にも会わせて貰えんじゃろう。城下を騒がす、ふとどき者として捕まり、殺されるのが落ちじゃ。もう少し待てば、美作守が後押ししてくれるじゃろう。それには、明日、松阿弥を倒し、わしがもう一度、京に帰り、戻って来るのを待っていてくれ。悪いようにはしない。わしに任せてくれ」

 そう言うと阿修羅坊は河原を北の方に歩いて行った。

 太郎は阿修羅坊の後姿を見ながら、楓の言ったように、本当はいい奴なのかも知れないと思った。







 雨が降っていた。

 太郎は昨夜のうちから、この荒れ寺に来ていた。金比羅坊も一緒にいた。

 一人でいいと言ったのに聞かなかった。向こうも阿修羅坊と松阿弥の二人なのだから、こっちも二人でもおかしくない。わしはただ、阿修羅坊を見張っているだけじゃと言った。無理に断っても、隠れて付いて来るのはわかっていたので、一緒に行く事にした。

 あの後、伊助から一度、連絡があった。阿修羅坊は城下に出て行ったが、松阿弥の方は浦上屋敷から一歩も外に出ないと言う。浦上屋敷に忍び込もうと思っていた太郎も、松阿弥の事は、阿修羅坊から大体、聞いたのでやめる事にした。

 太郎は荒れ寺の縁側に座って河原の方を見ていた。

 草が長く伸びていて、川の流れは見えなかった。

「よく、寝たわい」と金比羅坊が近づいて来た。「よく、降るのう」

「もう、秋ですね」と太郎は言った。

「おう、すっかり涼しくなったのう」

「甲賀を出てから、もうすぐ、一月になりますねえ」

「もう、そんなになるか」と金比羅坊は言って、縁側に腰を下ろすと河原の方を見た。

「飯道山は相変わらず、忙しいでしょうね」

「ああ。もうすぐ秋祭りじゃのう」

「秋祭りか‥‥‥そう言えば、金勝座も秋祭りには出るんでしょう」

「そうじゃのう。出るじゃろうのう」

「そろそろ、帰らなけりゃなりませんね」

「まだ、大丈夫じゃろ。おぬしが無事に城下に迎えられるのを見届けてから帰るじゃろう」

「金勝座のみんなが、いなくなると淋しくなりますね‥‥‥金比羅坊殿も一緒に帰るんですか」

「わしか‥‥‥わからんのう。もう少し様子を見ん事にはのう」

「話は変わりますけど、金比羅坊殿に娘さんがいたなんて、初めて知りましたよ」

「別に隠していたわけじゃないがのう」

 伊助が花養院の様子を話してくれた時、今、金比羅坊の娘が孤児院を手伝っていると言ったのだった。金比羅坊の娘は、ちいと言う名の十四歳で、よく子供たちの面倒を見ているとの事だった。金比羅坊殿には悪いが、とても、金比羅坊殿の娘とは思えない程、綺麗な娘さんだと伊助は言った。

「他にも、お子さんはいるんですか」と太郎は聞いた。

「五郎というガキがおる」と金比羅坊は照れ臭そうに言った。

「何歳です」

「八つじゃ」

「へえ、驚きですよ。女がいるっていうのは知ってましたけど、まさか、子供が二人もいたなんて、とても信じられませんよ」

「そりゃ、お互い様じゃ。おぬしの弟子たちも、おぬしに女房と子供がいたなんて信じられんと言っておったぞ」

 太郎は笑った。「そう言えば、師匠にあんな大きな子供がいたなんて、びっくりしましたよ」

「おう。わしも全然、知らんかったわい。あれには、わしもびっくりしたわ」

「みんな、独り者のように見えて、家族がいるんですね」

「ああ、あの阿修羅坊にもおるらしいしな」

「伊助殿や次郎吉殿にもいるんでしょうね」

「おるじゃろうのう」

「松阿弥にもいるんでしょうか」

「さあな、時宗の坊主だというから、いないかもしれんのう。しかし、坊主も裏で何をやってるかわからんから、子供がおるかもしれん」

「金比羅坊殿、探真坊の父親が山崎新十郎だったって知っていました?」

「山崎新十郎?」と言ったが、金比羅坊は思い出せないようだった。

「昔、望月屋敷を襲撃した時、望月又五郎の手下だった男です」

「何じゃと。本当か、そいつは」金比羅坊は驚いて、目を丸くして太郎を見つめた。

 太郎は頷いた。「探真坊は俺を仇と狙っていたんです。いや、今でも狙っているかもしれません」

「仇と狙っている奴を、おぬしは弟子にしたと言うのか」

「成り行きで、そうなりました」

「大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥そうじゃったのか、探真坊がのう」

「まだ、いるかも知れません。俺を仇と狙っている奴は‥‥‥」

「しかし、それは仕方のない事じゃろう。おぬしも、むやみに人を殺しているわけではあるまい。剣術で生きて行く限り、それは宿命というものじゃないかのう」

「金比羅坊殿はどうです」

「わしか‥‥‥わしも何人もの人を殺して来た。わしを仇と思っている奴もおるじゃろうが、今の所、まだ、会ってはいない」

「そうですか‥‥‥」

「どうしたんじゃ。急にそんな話をしたりして」

「わかりません。ただ、これから決闘をするわけですけど、俺は松阿弥という奴を知りません。向こうも俺を知らないでしょう。お互い、知らない同士がどうして殺し合いをしなければならないのだろうって思ったんです」

「まあ、それはそうじゃが、そんな事を言ってしまえば、きりがないぞ。戦にしたって、知らない者同士が、何の恨みもないのに殺し合いをしておるんじゃ」

「どうして、そんな事をしているんでしょう」

「そんな事はわからん。ただ、戦に勝つためにやってるんじゃろう」

「勝つためにか‥‥‥」

「そうじゃ、勝つためにじゃ」

 雨はやむ気配はなく、返って強くなって来たようだった。

「遅いのう。奴ら、本当に来るんかい」

「雨がやむのを待ってるんですかね」

「そんな事もあるまいが‥‥‥腕貫(うでぬき)を付けた方がいいぞ。雨で刀がすべるかもしれん」

「ええ、もう付けました」と太郎は刀の(つか)を見せた。

「うむ」と金比羅坊は満足そうに頷いた。

「‥‥‥おっ、来たらしいぞ」と金比羅坊は立ち上がった。「いや、伊助殿じゃ」

 びっしょりになった伊助が寺の中に駈けて来た。

「もうすぐ、来ます。ひどい雨になりましたね」

 金比羅坊は伊助に乾いた手拭いを渡した。

「この雨の中、やるんですか」と伊助が顔を拭きながら聞いた。

「敵は二人だけですか」と太郎は伊助に聞いた。

「ええ、二人だけです。良くはわかりませんが、松阿弥という奴、どうも体の具合が悪いみたいですよ。途中で何度も咳き込んでいました」

「ふん、風邪でもひいたか」と金比羅坊が笑った。

「いや、どうも労咳(肺結核)のような気がします。顔色も良くないし、体も痩せ細って、まるで骨と皮のようです」

「労咳病みか‥‥‥」と太郎は呟いた。

「気を抜くなよ」と金比羅坊が言った。「たとえ、相手が病人だろうと決闘は決闘じゃ。気を緩めたら負けるぞ」

「ええ、わかっています」

 赤い傘が二つ見え、やがて、阿修羅坊と松阿弥の姿が草の中に見えて来た。阿修羅坊に赤い傘は似合わなかった。

 太郎は松阿弥の姿をじっと見つめた。確かに伊助のいう通り、病人のようだった。顔まではよく見えないが、痩せているのはわかった。頭を丸め、色あせた墨衣を着て、どこにでもいる時宗の僧と変わりなかった。二人は真っすぐ荒れ寺の方に来た。

「生憎の天気じゃな」と阿修羅坊は太郎と金比羅坊と伊助を見ながら言った。

 松阿弥は三人をちらっと見ただけで、草原の方を見ていた。

「やりますか」と太郎は言った。

「どうする。雨のやむのを待つか」

「わたしはどっちでも構いません」

 阿修羅坊は頷くと、「松阿弥殿、こちらが、そなたの相手じゃ」と松阿弥に太郎を紹介した。

 松阿弥は太郎を見た。一瞬だったが、太郎は松阿弥の目を見た。その目は修羅場を何度も経験して来た男の目だった。

「阿修羅坊殿、ちょっと話がある」と松阿弥はかすれた声で言った。

「何じゃ」

 松阿弥と阿修羅坊は三人から離れて行った。

「わしは赤松家のために、この仕事を引き受けた」と松阿弥は言った。

「そんな事は知っておる」

「奴を殺す事は、確かに、赤松家のためになるんじゃな」

「なる。奴を殺すために、わしは手下を四十人も失った。このまま生かしておくわけにはいかん」

「わかった‥‥‥始めよう」

 雨の中、決闘は始まった。

 山伏姿の太郎は刀を中段に構えて松阿弥を見ていた。

 松阿弥は杖に仕込んであった細く真っすぐな剣を胸の前に、刀身の先を左上に向け、斜めに構えていた。

 お互いに、少しづつ間合いを狭めて行った。

 二人の間合いが二(けん)になった時、二人は同時に止まった。

 太郎は中段の構えから左足を一歩踏み出し、刀を顔の右横まで上げ、切っ先を天に向けて八相の構えを取った。

 松阿弥は剣を下げ、下段に構えた。

 太郎は八相の構えから刀を静かに後ろに倒し、無防備に左肩を松阿弥の方に突き出し、刀は左肩と反対方向の後ろの下段に下げた。

 松阿弥は右足を一歩引くと下段の剣を後ろに引き、驚いた事に、太郎とまったく同じ構えをした。

 二人とも左肩越しに、敵を見つめたまま動かなかった。

 じっとしている二人に雨は容赦なく降りそそいだ。

 阿修羅坊も金比羅坊も伊助も雨に濡れながら二人を見守っていた。

 太郎は革の鉢巻をしていたが、雨は目の中にも入って来た。顔を拭いたかったが、それはできなかった。

 松阿弥の方は鉢巻もしていない。坊主頭から雨が顔の上を流れていた。松阿弥は目を閉じているようだった。

 松阿弥が動いた。素早かった。

 太郎も動いた。

 それは、ほんの一瞬の出来事だった。

 松阿弥が太郎に斬り掛かって行き、太郎がそれに合わせるように松阿弥に斬り掛かった。しかし、剣と剣がぶつかる音もなく、剣が空を斬る音が続けて二回しただけだった。

 そして、何事もなかったかのように、二人は場所をほんの少し変えて、また、同じ構えをしながら相手を見つめた。

 見ていた三人にも、一体、今、何が起こったのか、はっきりわからない程の速さだった。

 松阿弥は素早く駈け寄ると、太郎の首を横にはねた。太郎の首は間違いなく胴と離れ、雨の中、飛んで行くはずだった。しかし、太郎は松阿弥の剣をぎりぎりの所で避け、逆に、松阿弥の伸びきっていた両手を狙って刀を振り下ろした。

 松阿弥は危うい所だったが、見事に太郎の刀を避け、飛び下がった。

 それらの動きが、ほんの一瞬の内に行なわれ、二人はまた同じ構えをしたまま動かなかった。

 松阿弥にとって、すでに体力の限界に来ていた。今の一撃で終わるはずだった。今まで、あの技を破った者はいなかった。いくら、病に蝕まれているとはいえ、腕が落ちたとは思えない。それを奴は避けた。避けただけでなく、反撃までして来た。

 何という奴じゃ‥‥‥

 誰にも負けないという自信を持っていた。それが、あんな若造に破られるとは‥‥‥

 松阿弥は笑った。それは皮肉の笑いではなかった。心から自然に出て来た笑いだった。

 今まで死に場所を捜して来た松阿弥にとって、自分よりも強い相手に掛かって死ねるというのは本望と言ってよかった。剣一筋に生きて来た自分にとって、それは最高の死に方だった。血を吐いたまま、どこかで野垂れ死にだけはしたくはなかった。

 瞼の裏に、妙泉尼の顔が浮かんで来た。

 妙泉尼が望んでいた太平の世にする事はできなかった。しかし、自分なりに一生懸命、生きて来たつもりだった。もう、思い残す事は何もなかった。

 松阿弥は死ぬ覚悟をして、太郎に掛かって行った。

 運命は、松阿弥の思うようにはならなかった。

 剣が太郎に届く前に、松阿弥は発作に襲われて血を吐いた。地面が真っ赤に染まった。そして、血を吐きながら松阿弥は倒れた。

 見ていた者たちは、太郎が目にも留まらない素早さで、松阿弥を斬ったものと思い込んだ。

 太郎は刀を捨てると、倒れている松阿弥を助け起こした。

 松阿弥は目を開けて太郎の方を見ながら笑った。そして、そのまま気を失った。







 松阿弥は生き返った。

 決闘の後、太郎たちは倒れた松阿弥を戸板に乗せて、『浦浪』まで運んで来た。

 すでに皆、起きていて、どうしたんだ、と大騒ぎになった。金勝座のお文さんが、手際よく、みんなを指図して、すぐに松阿弥の手当を行なった。

 濡れた着物を脱がして体を拭くと、乾いた着物を着せ、布団の中に寝かせ、冷えきった体を暖めた。熱も出ていたので、伊助の持っている解熱の薬と滋養強壮の薬を飲ませて安静にした。

 伊助にも太郎にも、労咳に効く薬というのはわからなかった。

 阿修羅坊は、みんなに迷惑がかかるので、ここに置いておくわけにはいかない。わたしの知っているうちがあるから、そこに連れて行くと言ったが、お文さんは許さなかった。

「あんた、この人の連れかい。よくまあ、こんなになるまで放っておいたもんだね。殺す気かい。駄目だよ。今、動かしたら、一番、危ないんだからね。どこに連れて行くんだか知らないけど、どうせ、ろくに世話なんか、できやしないんだろ。歩けるようになるまで動かしちゃ駄目だよ」とびしっと言われた。

 さすがの阿修羅坊も一言も返せず、お文の言うがままだった。

 阿修羅坊は松阿弥の事を皆に頼み、浦上屋敷に帰って行った。

 松阿弥は五日間、横になったままだった。 

 みんなの介抱のお陰で、松阿弥の具合も少しづつ回復に向かって行った。今まで無理をしていて、ろくに休みもしなかったのだろう。顔色もよくなり、目付きも穏やかになって行った。

 金勝座の女たちは、お文さんを初めとして、みんながよく面倒をみてくれていた。

 松阿弥は、すでに自分が死んでいるものと思っていた。

 最初に目が覚めた時、丁度、笛吹きのおすみが看病していたが、松阿弥は妙泉尼だと思い込み、ようやく、死ぬ事ができたと安心して、また眠りに落ちて行った。

 次に目を覚ました時にはお文さんがいた。最初、妙泉尼だと思ったが、何となく違うような気がして、よく見たら知らない女だった。そして、自分がまったく知らない場所に寝かされている事に気づいた。

 わしは、まだ生きていたのか‥‥‥と思いながら、また眠りに落ちて行った。

 三度目に目を覚ました時には太一と太郎がいた。女は知らないが、男の顔は見覚えがあった‥‥‥

 松阿弥は思い出した。

 情けない、敵に助けられたのか、と思った。体を動かそうと思ったが、体中が重く、動かす事はできなかった。

 また、眠った。

 次には夜中に目を覚ました。体が大分、楽になったように感じられたが、まだ動かす事はできなかった。力が全然、入らなかった。夜中だから誰もいないだろうと思っていたのに枕元に誰かがいた。決闘の時、太郎坊と一緒にいた山伏だった。

 わしが逃げると思って見張っているのか、と思った。しかし、その山伏は頭に乗せてある手拭いを取り換えてくれた。

 どうして、敵にこんな事をするのかわからなかった。松阿弥には理解できなかった。

 松阿弥は朝までずっと、寝た振りをしながら起きていた。枕元にいる山伏は小まめに手拭いを換えてくれた。そして、夜が明ける頃、今度は太郎坊が来て山伏と交替した。しばらくすると、今度は娘が来て、太郎坊と交替して行った。みんなが自分の事を心配して、看病してくれているという事がわかった。

 どうして、わしのような者をこんなに看病してくれるのだろう、松阿弥にはわからなかった。今まで、自分の事をこれ程、心配してくれたのは妙泉尼、ただ一人だけだった。

 どうして、わしなんかに、これ程、親身になって世話をしてくれるのか、わからなかったが、松阿弥は好意に甘える事にした。

 五日目に、ようやく起きる事のできた松阿弥は、お文の作ったお(かゆ)を食べた。そのお粥は涙が出る程、うまかった。妙泉尼の死以来、涙なんか流した事もなかったのに、その時は、なぜか、涙があふれて来て止まらなかった。松阿弥の意志に逆らって、涙の流れは止まらなかった。

 七日目に布団から出て、少し歩けるようになった。歩けるようになっても、松阿弥はほとんど喋らなかった。喋らなかったが、松阿弥がみんなに感謝しているという事は、みんなにも充分に伝わっていた。

 十一日目に、松阿弥は、色々とお世話になりました、とみんなにお礼を言って、みんなに見送られて但馬に帰って行った。例の仕込み杖は持っていなかった。




 松阿弥は但馬の国に帰り、妙泉尼の墓の側に小さな草庵を建て、剣の事はすっかり忘れて、ひっそりと暮らしていた。

 乞食坊主と呼ばれながらも、そんな事は少しも気にせず、人の為になる事なら何でも、ためらわず行なっていた。人に誉められたいとか、人に良く見てもらおうとか、そんな事は少しも思わず、些細な事ながら人の為になると思った事は何でもやった。

 剣を捨てて初めて、妙泉尼が死ぬ前に言っていた、人の為に何かをしたいという意味が、ようやく松阿弥にもわかるようになっていた。

 松阿弥は心の中に生きている妙泉尼と一緒に、人の為になる事なら何でも実行に移していた。

 いつでも死ねる覚悟はできていたが、死はなかなか、やって来なかった。

 いつの間にか、松阿弥の回りに子供たちが集まって来るようになっていた。子供たちに何かをしてやるわけではなかった。時々、一緒になって遊んでやるくらいだったが、子供たちは、松阿弥の事を、和尚、和尚と言って集まって来た。

 そのうちに、集まって来た子供たちに読み書きを教えるようになった。ただで読み書きを教えてくれるというので、子供たちがどんどん集まって来た。松阿弥は集まって来た子供たち一人一人に丁寧に教えた。

 そして、太郎と決闘した日より三年目の秋、松阿弥は子供たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。

 その死に顔は穏やかだった。





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