沖縄の酔雲庵

尚巴志伝

井野酔雲







ミャーク




 ササ(運玉森ヌル)たちを石垣に囲まれた狩俣(かずまた)の集落に入れてくれた白髪白髭の老人は、女按司(うなじゃら)の『マズマラー』の夫の『クマラパ』という明国(みんこく)の人だった。正確に言えば、クマラパが琉球に行った時、まだ明国は建国されていなかったので、(げん)の国の人だった。

 クマラパは元の国が滅びる時の騒乱に巻き込まれて命を狙われ、十歳違いの妹、フォーヤオを連れて琉球に逃げて行った。全真道(ぜんしんどう)の道士で、険しい山の中で厳しい修行を積んで、様々な霊力を身に付けていた。

 泉州(せんしゅう)の商人の船に乗って琉球に行ったクマラパとフォーヤオは、船の中で出会ったカルーと一緒に津堅島(ちきんじま)に渡った。船乗りとして乗っていたカルーは片言(かたこと)だが元の国の言葉がしゃべれ、年齢が同じ位だったので仲よくなっていた。

 津堅島に来たクマラパとフォーヤオは琉球の言葉を学びながら平和な時を過ごしていた。フォーヤオはみんなから可愛がられて、チルカマという名前で呼ばれた。津堅島に来た時、十三歳だったチルカマも年頃になって、島の男たちに騒がれるようになった。すると仲のよかった娘たちがチルカマを嫉妬するようになって、チルカマは家に閉じこもるようになってしまった。

 そろそろ津堅島を離れた方がいいかもしれないとクマラパは思って、カルーに相談した。カルーがミャーク(宮古島)という南の島に行くと聞いて、一緒に行く事に決め、ミャークにやって来たのだった。

 カルーはクマラパ兄妹をミャークに連れて行った五年後、泉州からの帰りに倭寇(わこう)の襲撃を受けて殺されてしまう。カルーはサハチの側室、ナツの祖父だった。

 ミャークに来た翌年、チルカマは『石原按司(いさらーず)』の若按司に見初められて嫁いだ。異国から来た娘でも城下の人たちに歓迎されて嫁いだので、クマラパも安心した。

 その年、明国の福州から家族を連れて逃げて来た商人が大浦(うぷら)に落ち着いた。クマラパは彼らを助けてグスク造りを手伝った。その商人は『ウプラタス(大浦多志)按司(あず)』を名乗って土地を開墾して、井戸を見つけたりしたので人々が集まって来て、城下は栄えて行った。

 十年間、大浦にいたクマラパは旅に出て、各地の有力者たちを訪ねた。不思議な術を使う男としてクマラパの名は有名になっていて、有力者たちも歓迎してくれた。

 ミャークに来て十七年が経った時、クマラパは狩俣で女按司のマズマラーと出会った。ヌルでもあるマズマラーは霊力も高く、クマラパと気が合った。居心地がいいので、狩俣に落ち着いて三十年余りが経ったという。

 マズマラーは女按司だけあって、威厳のある人だった。美しい顔をしているが、目付きは鋭く、男たちにも恐れられているようだった。年の頃はササの母親、馬天(ばてぃん)ヌルと同じ位で、雰囲気も母に似ているとササは思った。

 マズマラーも琉球の言葉がしゃべれた。クマラパから教わり、神様からも教わったという。

「大きな(いくさ)があったと聞きましたが、それで村を石垣で囲んでいるのですか」とササは聞いた。

「三十年前にひどい戦があったのよ」とマズマラーは顔をしかめた。

「倭寇じゃった」とクマラパが言った。

「わしが元の国にいた頃、倭寇が元の国の沿岸を荒らし回っていたんじゃ。反乱を起こした方国珍(ファングォジェン)張士誠(ヂャンシーチォン)も倭寇を味方に付けていたという。元の国が滅んだのも倭寇が関わっていたんじゃよ。三十年前にミャークに来た倭寇は船団を率いてやって来たんじゃ。その頃、ヤマトゥ(日本)は南北朝(なんぼくちょう)の争いをしていて、敗れた南朝の水軍が逃げて来たようじゃ。大将は『佐田大人(さーたうふんど)』と呼ばれていた。大勢の配下を引き連れてミャークにやって来たのは佐田大人だけではない。明国から大浦に来たウプラタス按司もそうだし、南部の上比屋(ういぴやー)に住み着いた平家の残党たちもいる。この島に住み着いて、交易に励んでくれれば何の問題もなかった。ところが悲劇が起こったんじゃ」

「平家がミャークにも来ていたのですか」と安須森(あしむい)ヌルが驚いた顔をしてクマラパに聞いた。

「平家も来ておるし、藤原氏も来ておるよ。なぜか、源氏の話は聞かんのう。佐田大人の奴らは南部の与那覇(ゆなぱ)の入り江に船を泊めたんじゃが、あそこは浅いんじゃよ。たまたま、満潮の時に入ってしまったようじゃ。潮が引いたら皆、座礁してしまった。おまけに台風が来て船は壊れてしまったんじゃ。船がなくなって、奴らは交易ができなくなってしまった。一千人もいたら食うにも困って、奴らは盗賊となってしまったんじゃよ。鋭いヤマトゥの刀を振りかざして、あちこちを荒らし回った。奴らが最初に狙ったのは、この島で一番栄えている野崎(ぬざき)(久松)じゃった。しかし、野崎には知将と言われる『野崎按司』がいたので諦めたようじゃ。野崎の東方(あがりかた)にあった美野(みぬ)という(しま)は襲われて、娘たちは連れ去られて、他の者たちは皆殺しにされた。家々は焼かれ、食糧は奪われたんじゃ。知らせを聞いてわしも見に行ったが、言葉に表せないほど悲惨なものじゃった。幼い子供たちも皆、無残に殺されていた。その後、村が再建される事もなく、今も荒れ地になったままじゃよ。ウプラタス按司も奴らにやられてしまった。明国から平和を求めてやって来たのに、皆殺しにされてしまったんじゃ。まったく、許せん奴らじゃ。狩俣にも奴らは攻めて来たが、石垣のお陰で追い返す事ができた。大嶽按司(うぷたきあず)高腰按司(たかうすあず)内里按司(うちだてぃあず)久場嘉按司(くばかーず)、みんな、奴らにやられてしまった。その時、立ち上がったのが根間(にーま)の『目黒盛(みぐらむい)』だったんじゃ。目黒盛の誘いに、野崎按司、荷川取(んきゃどぅら)北宗根按司(にすずにあず)、南部の上比屋按司(ういぴやーず)、そして、わしらも加わって、奴らを倒したんじゃ。今までバラバラだったミャークの者たちが、奴らを倒して一つにまとまったんじゃよ」

「すると、その目黒盛という人がミャークの王様なのですか」と安須森ヌルが聞いた。

 クマラパは笑った。

「王様ではないのう。だが、『豊見親(とぅゆみゃー)』と呼ばれている。琉球で言う『世の主(ゆぬぬし)』と同じようなものじゃろう。根間豊見親とか、目黒盛豊見親と呼ばれている」

「琉球に来た『与那覇勢頭(ゆなぱしず)』様も健在なのですね?」とササが聞いた。

「ああ、健在じゃ。与那覇勢頭は目黒盛豊見親の重臣で、目黒盛の命令で琉球に行ったんじゃよ。佐田大人との戦で大怪我をしたんじゃが、見事に役目を果たして琉球に行って来たんじゃ」

 与那覇勢頭に会いたいと言ったら、クマラパは会わせてやると約束してくれた。

 ササたちはクマラパとマズマラーにお礼を言って別れ、小舟(さぶに)に乗って、夕日を背にしながら愛洲(あいす)ジルーの船に戻った。帰りが遅いので、皆、心配していた。

 ササたちは順調よと言って、ミャークに無事に着いたお祝いの(うたげ)を開いた。お酒を飲みながら、狩俣で出会ったクマラパの事を皆に話した。津堅島にいた人がミャークにいたと聞いて、皆、驚いていた。さらに、クマラパがササと安須森ヌルの祖父、サミガー大主(うふぬし)を知っていたと聞いて、皆、信じられないといった顔をした。きっと、神様のお導きに違いないと皆で神様に感謝した。

 翌日、珊瑚礁(さんごしょう)に気をつけながら船を南下させて、『白浜(すすぅばま)』という砂浜の近くまで行った。白浜は少し窪んだ所にあって、二隻の船が浮かんでいた。ヤマトゥ船ではなく、進貢船(しんくんしん)を小さくしたような明国の船だった。

 ササたちが小舟に乗って白浜に上陸すると、クマラパが娘のタマミガを連れて待っていた。クマラパがウミンチュ(漁師)たちに頼んで小舟を出してくれたので、最低限の船乗りたちを残して、皆がミャークに上陸した。

 タマミガはササより二つ年上で、琉球の言葉が話せた。ササがお母さんの跡を継ぐのねと聞いたら、ヌルの跡は継ぐけど、按司は兄が継ぐだろうと言った。昔は女の按司が多かったけど、だんだんと男の按司が多くなってきたと言ってタマミガは笑った。

 ササはクマラパとタマミガにみんなを紹介した。若ヌルたちは砂浜で武当拳(ウーダンけん)套路(タオルー)(形の稽古)をやっていた。それを見たクマラパは驚いて、

「明国の拳術ではないのか」とササに聞いた。

「武当拳です」

「武当拳といえばヂャンサンフォン(張三豊)殿が編み出した拳術ではないか。どうして、武当拳を身に付けているんじゃ」

「わたしたちは皆、ヂャンサンフォン様の弟子なのです」

「なに、どういう事じゃ? ヂャンサンフォン殿が琉球にいるというのか」

 ササはうなづいた。

 クマラパは驚いたあと、「そうじゃったのか」と一人で納得したようにうなづいた。

「わしは若い頃、少林拳(シャオリンけん)をやっていて、師匠からヂャンサンフォン殿の噂を聞いて、武当山(ウーダンシャン)に行ったんじゃ。武当山はひどい有様じゃった。寺院は破壊されて、誰もいなかったんじゃよ。まさか、ヂャンサンフォン殿が琉球に行ったとは知らなかった」

 琉球に行ったのは、その時ではないと言おうとしたが、説明が長くなるので、ササはやめた。

「刀を差しているので、剣術はできそうだと思っていたが、武当拳までやるとは恐れ入ったのう」

 若ヌルたちは玻名(はな)グスクヌルに任せて、安須森ヌル、ササ、シンシン(杏杏)、ナナ、愛洲ジルーとゲンザ(寺田源三郎)が与那覇勢頭に会いに向かった。

 タマミガはシンシンが明国から来た事を知ると、しきりに明国の事を聞いていた。父親の故郷に興味があるようだった。

 ほとんど平らな島だが、左の方に山らしいのが見えたのでササはクマラパに聞いた。

「あの山は大嶽(うぷたき)(野原岳)じゃよ。ミャークで一番高い山じゃ。あそこにグスクがあったんじゃが、佐田大人の奴らに滅ぼされてしまったんじゃよ」

「あとで連れて行って下さい」とササは言った。

 クマラパは笑ってうなづいた。

「大嶽按司の長男は戦を嫌って農民(はるさー)になったお陰で助かった。戦が終わったあと、大嶽の裾野を開墾して新しい村を造って、その村の長老になっている。長老になっても毎日、野良仕事に励んでいる面白い男じゃよ」

「この辺りにもグスクはあったのですか」と安須森ヌルが聞いた。

「この辺りは北銘(にしみ)(西銘)と呼ばれていて、北銘按司がいたんじゃよ。だが、石原按司に滅ぼされてしまった。わしの妹は石原按司の倅に嫁いだんじゃよ。幸せに暮らしていたんじゃが、北銘按司の従兄(いとこ)糸数按司(いとぅかずあず)に滅ぼされてしまったんじゃ」

「妹さんは無事だったのですか」

「無事じゃった。わしに夫と息子の(かたき)を討ってくれと言ってきたが、わしが手を出すまでもなく、バチが当たって、突然、亡くなってしまったんじゃよ」

 そう言ってクマラパは楽しそうに笑った。

 しばらく行くと小高い丘の上に集落があって、その先に石垣で囲まれたグスクが見えた。それほど大きなグスクではなかった。

与那覇(ゆなぱ)スクじゃ」とクマラパが言った。

「ミャークではグスクの事を『スク』と呼んでいるんじゃよ。按司の事は『アズ』じゃ。昔はティダとか大殿(うぷどぅぬ)と呼ばれていたらしい。女子(いなぐ)の按司は『ミドゥンアズ』と言う。ヌルの事は『チカサ』と呼んでいるが、村を代表するヌルは『ウプンマ』と呼ばれている。ここは『イナピギムイ』といって、目黒盛が両親から譲られた土地なんじゃ。しかし、両親は目黒盛が三歳の時に亡くなってしまって、この土地は七兄弟という悪い奴らに奪われてしまった。目黒盛はここで七兄弟と決闘をして勝って、土地を取り戻したんじゃよ。そして、グスクを築いて、与那覇勢頭に守らせたんじゃ」

「三十年前の戦の時も、与那覇勢頭様はここを守っていたのですか」と安須森ヌルが聞いた。

「守っていた。佐田大人が来る二年前に琉球の進貢船がミャークに来たんじゃよ。嵐に遭って流されて来たらしい。進貢船の大きさにミャークの者たちは皆、驚いた。目黒盛は琉球が明国と交易をしている事を知って、琉球に行かなければならないと思ったんじゃ。そして、与那覇勢頭、当時はマサクと呼ばれていたが、マサクをこのグスクに入れて、白浜で船を造らせたんじゃよ。船造りは八重山(やいま)まで行って材木を手に入れる事から始まった。ウプラタス按司の船を真似して、琉球まで行く船を造ったんじゃ。その時、わしも手伝ったんじゃよ。その船もようやく完成して、琉球に行こうとした年、目黒盛と佐田大人の戦が起こったんじゃ。マサクは大怪我を負ってしまったが無事に回復して、翌年、琉球に行ったんじゃよ」

 グスクの御門番(うじょうばん)は不思議そうな目付きでササたちを見ていたが、クマラパが何かを言うと驚いた顔をしてからグスク内に入れてくれた。石垣の中は仕切られていないで、曲輪(くるわ)は一つだけだった。奥の方に垣根に囲まれた屋敷があって、入り口の所に背の高い男が立っていた。

 男はクマラパを笑顔で迎えた。クマラパが与那覇勢頭だとササたちに教えた。

 与那覇勢頭は五十代半ばくらいで、(よろい)姿が似合いそうな貫禄のある男だった。日に焼けた顔をしていて、今でも船頭(船長)として船に乗っている事を物語っていた。琉球中山王(ちゅうさんおう)の娘が使者としてミャークに来たと聞いて驚き、クマラパから詳しい事情を聞いていた。

「中山王の武寧(ぶねい)が滅ぼされたとは驚いた」と与那覇勢頭はササたちに言った。

「与那覇勢頭様が琉球に行った頃は、中山王は浦添(うらしい)グスクにいましたが、今は首里(すい)が琉球の都です。あの頃の浦添よりも首里の城下は栄えています」とササは言った。

「首里?」と与那覇勢頭は首を傾げたが、「首里天閣(すいてぃんかく)が建っていた小高い丘の事ですか」と聞いた。

「そうです。首里天閣はもうありませんが、あそこに首里グスクができて、その城下が都になったのです」

「ほう、そうだったのですか。察度(さとぅ)殿に招待されて首里天閣に登って、素晴らしい眺めを楽しみました。あれから、もう二十年余りが経ったんじゃのう」

 与那覇勢頭は当時を思い出していたようだが、ササたちを歓迎して屋敷に入れてくれた。通された会所(かいしょ)らしい部屋に、ヤマトゥの屏風(びょうぶ)南蛮(なんばん)(東南アジア)の大きな(つぼ)が飾ってあった。

大神島(うがんじま)のガーラさんから、与那覇勢頭様は『ターカウ(台湾の高雄)』に行っていると聞きましたが、そこで倭寇と交易をしているのですか」とササは聞いた。

「琉球との取り引きをやめてから、ヤマトゥの商品を手に入れるためにターカウまで行ったのです。倭寇の拠点だと聞いていたので、捕まってしまう恐れもあったのですが思い切って行ってみたのです。クマラパ殿も一緒に行ってくれました。野崎按司(ぬざきあず)はターカウと交易をしていたので、野崎按司の配下のヤマトゥンチュ(日本人)も連れて行きました。行ってみて驚きましたよ。港には様々な船がいくつも泊まっていて、まるで、都のような賑わいだったのです。倭寇に連れ去られて来たのか、朝鮮(チョソン)や明国の女たちもいました。倭寇の首領は『キクチ殿』と言って、豪華な屋敷で王様のように暮らしています。一緒に行ったヤマトゥンチュが話を付けてくれたので、わしらは歓迎されて、その後、ずっと交易を続けているのです。今は二代目がキクチ殿を継いでいます」

「ミャークから何を持って行くのですか」と安須森ヌルが聞いた。

「シビグァー(タカラガイ)、ヤクゲー(ヤコウガイ)、ブラゲー(法螺貝)、ガラサーガーミー(タイマイ)の甲羅、ザン(ジュゴン)の干し肉と塩漬け(すーちかー)、干しシチラー(ナマコ)、ミャークで取れるのはこんな物です。あとは南蛮の商品を持って行きます」

「南蛮の商品もあるのですか」と安須森ヌルは驚いてササたちを見た。

「野崎按司が南蛮と取り引きをしています。ターカウの南に『トンド(マニラ)』という国があります。野崎の『アコーダティ勢頭(しず)』が若い頃、トンドまで行って取り引きを始めたのです。もう四十年も前の事で、今でもトンドとの取り引きは続いています」

 トンドの国というのはシーハイイェン(施海燕)から聞いたような気もするが、ササはよく覚えていなかった。

「すると、琉球に行っていた時も南蛮の商品を持って行ったのですか」と安須森ヌルが聞いた。

「勿論です。中山王の察度殿は喜んでくれました」

「それなのに、どうして琉球に行かなくなったのですか」

「詳しい事は知りませんが、察度殿は若い頃にヤマトゥに行った事があるらしくて、船乗りの気持ちをよくわかってくれました。遠くからよく来てくれたと歓迎してくれたのです。しかし、察度殿が亡くなって、跡を継いだ武寧はわしらを見下したような目で見て、わしらの事は家臣たちに任せっきりで、わしらに会おうともしなかったのです。船乗りたちがあんな男のために危険を冒してまで琉球に行く必要はないと言い出して、行くのをやめてしまったのですよ」

「そうだったのですか。察度様で思い出しましたが、察度様から刀をいただきませんでしたか」

「見事な刀をいただきました。目黒盛殿が大切にしているはずです」

 英祖(えいそ)の宝刀を目黒盛が持っていると聞いて、安須森ヌルはササと顔を見合わせて喜んだ。

「話は変わりますが、古いウタキ(御嶽)はどこにありますか。ミャークに来た事を神様に挨拶しなければなりません」とササが言った。

「古いウタキと言えば『漲水(ぴゃるみず)ウタキ』でしょう。目黒盛殿の根間グスクの近くにあります。御案内しますよ」

 与那覇勢頭が馬を用意してくれたので、馬に乗って漲水ウタキに向かった。景色を眺めながらゆっくりと行ったが半時(はんとき)(一時間)もしないうちに根間の城下に着いた。石垣で囲まれたグスクの周りには家々が建ち並んでいて、ここがミャークの都のようだった。その城下を通り越して、海岸の近くにクバの木が生い茂った森があった。森の隣りにヌルの屋敷があって、『漲水のウプンマ』と呼ばれているヌルがいた。

 漲水のウプンマは三十代半ばくらいのヌルで、七歳くらいの娘と庭で遊んでいた。ササたちを見ても驚くわけでもなく、歓迎してくれた。

 漲水のウプンマは琉球の言葉がしゃべれた。琉球に行ったのですかと聞いたら、神様から教わったのよと言って笑った。

 男たちはヌルの屋敷で待っていてもらった。ササたちは刀を預けて、森の裏にある海辺で(みそ)ぎをして、ウプンマと一緒に漲水ウタキに入った。森の中に広場があって、神様が降りて来る石が置いてあった。久高島(くだかじま)のフボーヌムイ(フボー御嶽)とよく似ていた。

 ササたちはウプンマと一緒にお祈りを捧げた。神様の声は聞こえたが、ミャークの言葉で理解できなかった。お祈りを終えたあと、ヌルの屋敷に戻って、ウプンマから神様の事を聞いた。

 南の国からやって来た『コイツヌ』と『コイタマ』という夫婦の神様を祀っている。二人はこの辺りに住んでいる人たちの御先祖様だけど、詳しい事はわからないという。アマミキヨ様の事を聞いたが、ウプンマは知らなかった。

 漲水のウプンマと別れて、ササたちは根間グスクに行って目黒盛豊見親と会った。

 目黒盛豊見親は与那覇勢頭より三つくらい年上で、大将という貫禄があった。目の上に目立つ黒いアザがあったが、決して醜くなく、なにか特別な人という感じがした。

 言葉が通じないので、与那覇勢頭の通訳で話をした。目黒盛豊見親はササたちが滞在する屋敷を用意してくれ、昼食も用意してくれた。今晩、歓迎の宴を開くので、それまでゆっくりしていてくれと言った。

 日が暮れるまで、まだたっぷりと時間があるので、ササたちはクマラパの案内で野崎に向かった。トンドの国と取り引きをしているというのが気になっていた。

「今は根間が都のように栄えているが、以前は野崎が一番栄えていたんじゃよ」とクマラパが馬に揺られながら言った。

「トンドの国に行ったというアコーダティ勢頭様を御存じですか」と安須森ヌルが聞いた。

「よく知っておるよ。奴は若い頃、ウプラタス按司のグスクに出入りしていたんじゃ。その頃、わしもウプラタスにいたんで、奴に明国の話をしてやった。奴は興味を持って、いつか必ず、明国に行くと言って、明国の言葉を学び始めたんじゃ。十八歳の時、奴は小舟に乗って明国を目指したんじゃよ」

「小舟で明国に行ったのですか」と安須森ヌルは驚いた。

「残念ながら明国には行けなかったんじゃ。ドゥナン(与那国島)まで行って引き返して来たんじゃよ。ドゥナンの者に小舟では黒潮(くるす)を乗り越える事はできないと言われたようじゃ。しかし、奴は諦めなかった。小舟でドゥナンまで行って来た事が認められて、野崎按司の援助で船を造る事になったんじゃ。その船を造ったのがわしなんじゃよ。その時、わしは初めて船を造ったんじゃが、それが後に与那覇勢頭の船を造るのに役立ったというわけじゃ。奴はその船に乗って、黒潮を乗り越えてターカウまで行った。わしも一緒に行ったんじゃよ。明国に行くつもりだったんじゃが、明国は海禁政策をやっていて、下手に近づけば捕まってしまうぞと倭寇たちに脅されたんじゃ。わしもやめた方がいいと言って、トンドに向かう事にしたんじゃよ。トンドは元の国に滅ぼされた(そう)の国の商人たちが作った国じゃった。言葉も通じて交易もうまく行った。南蛮の商品をたっぷりと積んで帰って来て、野崎按司を喜ばせたんじゃよ」

 野崎は港の周りに発達した集落で、家々も多く建ち並んでいて賑やかな所だった。アコーダティ勢頭の屋敷は海の近くにあった。屋敷の周りには田んぼが広がっていて、稲穂が伸びていた。

赤米(あかぐみ)じゃ」とクマラパが言った。

「アコーダティ勢頭がトンドから持って来て植えたんじゃよ。もう少ししたら稲穂が赤くなる。アコーは赤い穂の事で、ダティは里の事じゃ。いつしか、この辺りはアコーダティと呼ばれるようになったんじゃよ」

 アコーダティ勢頭は白髪頭の老人だったが、体格のいい海の男だった。琉球から来たというと、遠くからよく来てくれたと歓迎してくれた。アコーダティ勢頭は明国の言葉はしゃべれるが、琉球の言葉もヤマトゥ言葉もしゃべれなかった。シンシンが通訳をして、トンドの国の事を聞いた。

 トンドには広州の海賊が来て、明国の商品を持って来る。旧港(ジゥガン)(パレンバン)やジャワの船も来て、南蛮の商品を持って来る。ターカウの倭寇も来て、ヤマトゥの商品を持って来るという。シーハイイェンとスヒターの事を聞くと、アコーダティ勢頭は名前は聞いた事があるという。その二人は王様の娘なのに、ヤマトゥまで行って来たと一時、商人たちの間で話題になっていたらしい。

「今は二人とも琉球にいます」とササが言うと、アコーダティ勢頭は知っているというようにうなづいた。

 ササたちの歓迎の宴にアコーダティ勢頭と野崎按司も招待されたようで、一緒に根間に向かった。

 城下の屋敷に帰ると、玻名グスクヌルと若ヌルたち、マグジ(河合孫次郎)、女子サムレーのミーカナとアヤーが待っていた。目黒盛の家臣が白浜まで迎えに来たという。船乗りたちは白浜に残っているが、近所の女たちが炊き出しをしているので心配ないと言った。





与那覇スク



根間スク



漲水ウタキ



野崎




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