沖縄の酔雲庵

尚巴志伝

井野酔雲







真名井御前




 京都に着いたササたちは、三日後の夕方、箕面(みのお)の大滝に来ていた。大滝の下に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した瀧安寺(りゅうあんじ)があった。弁才天堂(べんざいてんどう)を中心に多くの僧坊が建ち並び、大勢の山伏がいた。

 ササの連れの人数が多すぎるため、お忍びで行くのは危険だった。御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)の名前は隠すが、高橋殿の広田神社参詣という触れ込みで護衛の兵に守られての旅だった。護衛を務めたのは将軍様の近習(きんじゅ)、細川右馬助(うまのすけ)(満久)で、右馬助は阿波(あわ)の国(徳島県)の守護を務めていた。

 右馬助が率いる二十名の武士が馬に乗って前後を固め、豪華な三つのお輿(こし)の周りに侍女たちが従っていた。お輿に乗っているのは坊門局(ぼうもんのつぼね)対御方(たいのおんかた)平方蓉(ひらかたよう)で、御台所様と高橋殿は侍女に扮して、侍女に扮したササたちと一緒に歩いていた。御台所様は久し振りの旅にウキウキしていた。高橋殿に付き物のお酒と食材を積んだ荷車も従っていて、総勢五十人余りの大げさな一行になっていた。

 中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)も一緒に来ていて、阿蘇弥太郎(あそやたろう)と昔の事を懐かしそうに話しながら歩いていた。二人は同い年で、共に慈恩禅師(じおんぜんじ)の弟子だった。三十五年前、慈恩禅師が弥太郎を連れて京都に来た時、一緒に修行をしていて、その時以来の再会だった。兵庫助の娘の奈美は一行には加わらず、陰ながら皆を守っているようだった。

 瀧安寺に着くと役僧たちに迎えられ、かつて先代の将軍(足利義満)が宿泊したという豪華な宿坊に案内された。住職が直々に挨拶に来て、高橋殿は機嫌良く、役僧たちに豪華な反物(たんもの)を与えていた。

 役僧たちが引き上げたあと、ササたちはホッとしてくつろぎ、大滝を見に行った。役行者が選んだだけあって素晴らしい滝だった。

「気持ちいい」と言って御台所様は喜んだ。

 若ヌルたちはキャーキャー騒いでいた。そんな若ヌルたちを見ながら、「子供たちも連れて来ればよかったわ」と御台所様は言った。

 御台所様には十歳の娘と八歳の息子と三歳の娘がいた。

「そうですね」とササはうなづいたが、子供たちが一緒ならもっと大げさな一行になっていたに違いないと思った。

 滝の近くにある弁才天堂には役行者が彫った弁才天様が祀られてあった。天川(てんかわ)の弁才天様とよく似ているが、持ってる楽器がヴィーナではなくて琵琶(びわ)に変わっていた。

 観音堂の如意輪観音(にょいりんかんのん)様にお参りをして、行者堂に行って、ちょっととぼけた顔をした役行者像にお祈りをしたら、「待っておったぞ」と役行者の声が聞こえて、ササたちは驚いた。

「ここはわしが若い頃に修行した所なんじゃよ」

「その時、如意輪観音様を彫ってお祀りしたのですね?」とササは聞いた。

「そうじゃ。そして、弁才天様を知ってから、弁才天様を彫って、瀬織津姫(せおりつひめ)様としてお祀りしたんじゃよ」

「瀬織津姫様も一緒にいらっしゃるのですか」

「いや。瀬織津姫様はスサノオの神様と一緒にサラスワティ様に会いに行かれたよ」

「えっ、クメールの国(カンボジア)まで行かれたのですか」

「瀬織津姫様はお前が吹いた笛を聴いたら、急に元気になったようじゃ。昔、ピーパという楽器を演奏した事があって、その事を聞いたスサノオの神様がサラスワティ様がヴィーナという楽器を弾くと言ったんじゃ。そしたら、サラスワティ様に会いに行こうと出掛けてしまったんじゃよ」

 京都に着いた翌日、御台所様と一緒に御所に行く時、船岡山に寄ってお祈りをしたが、スサノオ様の声は聞こえなかった。まだ、富士山にいるのだろうと思っていたのに、瀬織津姫様と一緒にクメール王国に行ったとは驚いた。

「ピーパって琵琶の事ですか」とササは聞いた。

「多分、琵琶の前身の楽器じゃろう」

 琉球には琵琶はなかった。お土産に持って帰ろうかとササは思った。ウニタキかミヨンが弾くだろう。

「広田神社は今、御手洗川(みたらしがわ)のほとりに建っておるが、昔は甲山(かぶとやま)の裾野にあったんじゃ。今、元宮(もとみや)がある所じゃ。そこに瀬織津姫様が暮らしていた屋敷があったんじゃよ。神功皇后(じんぐうこうごう)様が創建した由緒ある古い神社なんだが、それほど大きな神社ではなかった。今のように大きな神社になったのは真名井御前(まないごぜん)のお陰なんじゃよ。真名井御前が広田神社の近くに神呪寺(かんのうじ)を建てて、広田神社と瀬織津姫様の事を世間に広めたんじゃ。それを助けたのが空海(くうかい)じゃった。淳和(じゅんな)天皇の(きさき)だった真名井御前と大僧都(だいそうず)となった空海のお陰で広田神社は有名になって、二人の死から二十年後に神位(しんい)従五位下(じゅごいげ)になり、三十年後には正三位(しょうさんみ)になり、四十年後には従一位(じゅいちい)まで登ったんじゃよ」

「神位って何ですか」

「神様に与えられた(くらい)じゃよ。熊野の神様が正二位じゃから、広田神社の方が格が上というわけじゃ。人間が勝手に作ったものじゃが、位が上がれば領地も増えて、神社も豊かになるというものじゃ。最盛期には六甲山(ろっこうさん)一帯が、広田神社の領地だったんじゃよ。鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも)も土地を寄進して、平家討伐を祈願している。神宮寺(じんぐうじ)もできて僧坊が建ち並ぶようになると甲山の裾野では狭くなってきて、火災に遭って全焼したのを機に、今の場所に遷座(せんざ)する事になったんじゃ。瀬織津姫様が暮らしていた頃は甲山は海の近くにあったらしいが、川から流れてきた土砂で海が埋められて、今では海から大分離れている。南の島からいらした瀬織津姫様は航海の神様でもあったので、海の近くに別宮ができて、浜の南宮(なんぐう)と呼ばれている。その浜の南宮の秘宝として、瀬織津姫様の宝珠(ほうじゅ)がある」

「えっ、瀬織津姫様の宝珠?」

「その事を瀬織津姫様に聞いたんじゃが、知らんと言っていた。その宝珠はトヨウケ姫様が豊姫様に贈ったものらしい。トヨウケ姫様は丹後の国(京都府北部)に玻璃(はり)(水晶)の工房を持っていたようじゃ」

「玻璃って何ですか」

「透明で綺麗な石じゃよ。それを丸く加工したものが宝珠じゃ。トヨウケ姫様はカヤの国(朝鮮半島にあった国)の鉄を手に入れるために宝珠を作っていたらしい」

「豊姫様の宝珠が浜の南宮にあるのですか」

「高橋殿と御台所様が一緒なら宮司(ぐうじ)が見せてくれるじゃろう」

 ササは役行者に御礼を言って別れた。

 翌日の正午(ひる)前に広田神社に着いた。大鳥居の前には市場があって賑やかだった。参道には神官、巫女(みこ)、山伏たちが行き交い、山伏に連れられた参拝客の一行もいた。鳥居をくぐって境内(けいだい)に入ると宮司たちが大歓迎して高橋殿を迎えた。先代の将軍は明国に使者を送っていたので、航海の無事を広田神社に祈願して、その都度、多大なる礼物(れいもつ)を贈ったらしい。

 宮司の案内でササたちは本殿を参拝した。拝殿から見ると本殿は五つあった。五所大明神(ごしょだいみょうじん)様と呼ばれていて、広田神を中心に、八幡(はちまん)神、住吉神、南宮神、八祖神が祀られてあるという。どんな神様なのか、宮司に聞いたら、広田神は武庫津姫(むこつひめ)様、八幡神は八幡大神様、住吉神は住吉大神様、南宮神は神功皇后様、八祖神はタカミムスヒノ神様だと教えてくれた。タカミムスヒノ神様とはどんな神様かと聞いたら、天地を創造した神様だと言う。

 参拝のあと、宮司は立派な客殿に案内して、豪華な昼食を用意してくれた。

「このお屋敷は先代の将軍様が兵庫に来た時の宿所として建てたの。今の将軍様が広田神社に寄贈したのよ」と高橋殿が言った。

 金閣を造った将軍様らしく、贅沢な造りの客殿だった。食事に付き物のお酒も楽しんだ。若ヌルたちは酔っ払ってしまい、玻名(はな)グスクヌルと喜屋武(きゃん)ヌルに任せて、ササ、シンシン、ナナ、カナの四人は御台所様と高橋殿と一緒に、元宮に向かった。中条兵庫助と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)覚林坊(かくりんぼう)が護衛のために付いて来た。

 元宮は女神山(目神山)の北側で、正面に甲山を望む地にある小さな神社だった。甲山は神様が降臨するのに相応しい形のいい山だった。

「瀬織津姫様はここで暮らしていたのね」とササは甲山を見上げながら言った。

「広田神社には将軍様と一緒に来た事があるけど、ここに来たのは初めてだわ。いい所ね」と御台所様が楽しそうに言った。

 ヤマトゥに来る度に兵庫から上陸して、京都に行く時にこの辺りを通っていたのに、瀬織津姫様の事は知らなかった。南の島を探しに行ったお陰で、瀬織津姫様を知る事ができた。ササは感謝の気持ちを込めて、元宮でお祈りをした。

「母から聞いたわよ」と声が聞こえた。

「武庫津姫様ですか」とササは聞いた。

「そうよ。母の跡を継いで、武庫津姫を名乗ったわ。でも、晩年は丹後に行って、与謝津姫(よさつひめ)を名乗ったのよ」

「与謝津姫様ですか」

「今、丹後の国と呼ばれている京都の北の方を昔は与謝と呼んでいたの。そこに拠点を造って、貝殻の交易範囲を広げたのよ。わたしが亡くなってから四百年余りが経って、トヨウケ姫が与謝にやって来たわ。その頃、わたしの子孫たちが宝珠を作っていたの。トヨウケ姫は宝珠作りの規模を拡大して、カヤの国との交易を始めたわ。カヤの国から鉄を手に入れて、宝珠作りも発展して、豊姫が持っていたような立派な宝珠が造れるようになったのよ。残念ながらトヨウケ姫は子孫を残さなかったけど、弟のホアカリの子孫たちがわたしの子孫と一緒になって、与謝を発展させて来たのよ」

 精進湖(しょうじこ)で会った時、トヨウケ姫様が子孫を残さなかった事を悔やんでいたのをササは思い出した。

「祖父が亡くなってから、父と一緒に(いくさ)をしていて、気がついたら子供を産めない年齢(とし)になっていたわ。子孫がいないのは寂しいものよ。あなたは必ず、子孫を残しなさいね」とトヨウケ姫様はササに言った。

「瀬織津姫様は女神山で雨乞いの祈祷をしたのですね?」とササは聞いた。

「そうよ。その頃は女神山とは呼ばれていなかったけどね。雨乞いはわたしもやったのよ。母が役小角(えんのおづぬ)と出会ったのも女神山だったわ。あの頃の母は富士山に籠もっていないで、娘たちの所を巡っていたわ。丁度、母がここに来ていた時、役小角がやって来て、面白い男がやって来たと言って声を掛けたのよ。あの時、母がいなかったら、わたしは声を掛けていなかったでしょう。そしたら、今のように広田神社は発展しなかったでしょうね。戦で焼かれて、その後、再建される事もなく、忘れ去られたかもしれないわ。役小角が天川に弁才天社を建てて母を祀って、そこで修行した空海が母の事を知ったわ。そして、空海は京都の六角堂(頂法寺)で、わたしの子孫の小萩と出会った。小萩は空海から母の事を聞いて、広田神社を発展させたのよ」

「小萩というのは真名井御前様の事ですね?」

「そうよ。面白い子よ。神呪寺であなたを待っているわ。早く行ってあげなさい」

 ササたちは武庫津姫と別れて、女神山に登った。

 山の中にはあちこちに大きな石があった。それらの石は誰かが意図して置いたようで、大昔の磐座(いわくら)のようだった。山頂にも祭壇のような岩があって、瀬織津姫様が雨乞いの祈祷をした場所に違いなかった。

 ササたちはお祈りをした。

「懐かしいわ」と言ったのはトヨウケ姫の声だった。

 ササたちは驚いた。

「トヨウケ姫の案内で広田神社の奥の宮まで行って来たのよ」とユンヌ姫が言った。

「奥の宮ってどこにあるの?」

武庫山(むこやま)(六甲山)の山頂よ。女人禁制(にょにんきんぜい)になっているからササたちは行けないわ」

「ここも女人禁制なの?」

「山伏たちがそう決めたのよ。役行者が石の(ほこら)に瀬織津姫様を祀って、真名井御前が修行した所よ」

「真名井御前様の頃は女人禁制じゃなかったの?」

「空海と真名井御前が修行したので、武庫山は有名になったのよ。やがて、山伏たちが集まって来て、女人禁制になってしまったの」

「トヨウケ姫様もそこで修行したのですか」

「違うわよ」とトヨウケ姫は笑った。

「山の中を走り回って修行を始めたのは役小角よ。わたしが生きていた頃は仏教も道教もなかったわ。わたしは丹後から京都に出て行った小萩をずっと見守っていたの。小萩が修行していたから知っていたのよ。生前にも、ここに来た事はあったけど、武庫山の山頂には登らなかったわ」

「トヨウケ姫様がここに来た時は、まだ広田神社はなかったのでしょう」

「なかったわ。武庫津姫様が暮らしていた屋敷の跡地に、琉球のウタキのように石が祀ってあったわ」

「トヨウケ姫様は琉球に行った事があるのですか」

「三度、行ったわ。初めて行ったのは祖母(豊玉姫)が琉球に帰る時、一緒に付いて行ったの。十八の時だったわ。二度目に行ったのは、祖父(スサノオ)が亡くなって戦が始まって、母(玉依姫)に頼まれて、祖母を迎えに行ったのよ。三度目は祖母が亡くなって、遺品を叔母(アマン姫)に届けに行った時よ。ユンヌ姫と仲良くなったから、久し振りに琉球に行くわ」

 歓迎しますとササは言って、お祈りを終えた。

 女神山を東側に下りて、小高い丘を越えると神呪寺が見えた。思っていたよりも大きくて立派なお寺だった。

「凄いわね」とササが言うと、

「南北朝の戦でここも被害を受けて、先代の将軍様が修繕したのよ」と高橋殿が言った。

「でも、この大伽藍(だいがらん)を造ったのは鎌倉の将軍だった源頼朝らしいわ」

「えっ、鎌倉の将軍様がどうして、こんな遠くにあるお寺を建てたのですか」

「さあ、詳しい事はわからないわ。お寺の住職なら知っていると思うわ」

 立派な山門をくぐって境内に入ると山伏や僧侶が大勢いた。高橋殿が来る事を知っていたのか、偉そうな袈裟(けさ)を着た住職が出迎えた。住職の案内で本堂に上がり、御本尊の如意輪観音様にお祈りをしたあと、住職の話を聞いた。

 住職の話によると、神呪寺の住職は京都の仁和寺(にんなじ)の住職である永助法親王(えいじょほうしんのう)が兼帯していて、自分は代理だと言う。代理の住職に神呪寺の歴史を聞いたら、得意になって話してくれた。

 淳和天皇の妃だった真名井御前が神様のお導きによってこの地に来て、空海のもとで出家して如意尼(にょいに)と号した。如意尼は空海が彫った如意輪観音様を本尊として、神呪寺を創建した。四年後、如意尼は三十三歳の若さで亡くなってしまう。如意尼が亡くなった翌日、空海も高野山(こうやさん)で亡くなったという。

 創建当初は甲山の中腹にあったが、戦乱や災害にあって荒廃してしまう。それをこの地に移して再建したのが源頼朝だった。

 頼朝は如意輪観音様を信仰していて、神呪寺の御本尊が空海の彫った如意輪観音様だと知って再建する事にしたのだという。その後、南北朝の戦があって、ここも赤松氏が陣を敷いたりして破壊されたが、北山殿(きたやまどの)(足利義満)によって修繕されたと言って、代理住職は高橋殿に両手を合わせた。

 境内には大師堂(だいしどう)、不動堂、行者堂、薬師堂(やくしどう)があって、池の近くには弁才天堂もあり、五重の塔も建っていた。順番に参拝したが、真名井御前の声は聞こえなかった。案内すると言った代理住職の申し出を断って、ササたちは奥の院に向かった。

 神呪寺から参道が続いていて、途中には真名井御前が空海と一緒に修行をしたという滝があった。

「真名井御前様と空海様はいつ頃の人ですか」とササは高橋殿に聞いた。

「空海は弘法大師(こうぼうだいし)と言って、高野山に真言密教(しんごんみっきょう)のお寺を造った偉いお坊さんで、遣唐使(けんとうし)と一緒に唐の国に行って、仏教の修行を積んできた人なのよ。五百年以上も前の人でしょう」

「役行者様は空海様よりも古い人なのですね?」

「役行者は修験道(しゅげんどう)の祖と言われている人だから、空海よりも古いわよ。空海は役行者が開いた葛城山(かつらぎさん)とか大峯山(おおみねさん)とかで修行をしているわ」

平清盛(たいらのきよもり)が兵庫に福原の都を造った時は、神呪寺はあったのですね」

「その頃は奥の院の所にあったんだと思うわ。でも、源氏と平家の戦で、破壊されてしまったんじゃないかしら。広田神社もね」

 甲山の裾野に石段があって、登って行くと山門があり、その正面に奥の院があった。境内はそれほど広くもなく、頼朝が今の地に移したのもうなづけた。奥の院を守っている老僧が出迎えて、本堂に案内してくれた。ここの御本尊様も如意輪観音様で、ここの仏像の方が古そうだった。

「これは内緒ですが、この如意輪観音様が大師様が彫られたものです。桜の大木で如意尼様の姿を写したのです」と老僧は言った。

 如意輪観音様は首を傾げて物思いにふけり、腕が六本あって、蓮の花の上に座って、左足を下げ、右足は曲げて左膝の上に乗せていた。優しそうな顔をしているが、真名井御前は女人禁制を破って大峯山に登った女傑(じょけつ)のはずだった。

 一番目の右手は頬に当てて、二番目の右手で如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ち、三番目の右手で数珠(じゅず)を持っている。一番目の左手は蓮華座(れんげざ)に置いて、二番目の左手は蓮のつぼみを持ち、三番目の左手の指先で法輪(ほうりん)を回している。如意宝珠は意のままに願いをかなえてくれる玉で、法輪は仏様の教えが広まって行く様子を表現している。如意輪観音様は如意宝珠と法輪を持ったありがたい仏様で、武庫津姫様の本地(ほんじ)としてお祀りしていると老僧は説明してくれた。

 ササたちは老僧から教わった真言を唱えて、お祈りを捧げた。

「待ちくたびれたわよ」と声が聞こえた。

「真名井御前様ですか」とササは聞いた。

「そうよ。そこまで来たから、こっちに来ると思っていたのに新しいお寺の方に行ってしまったわね」

「申し訳ありません。真名井御前様があちらにいらっしゃると思ったのです」

「あそこは騒がしくて苦手なのよ。頼朝には感謝しているけどね」

「鎌倉の将軍様は、ここの御本尊様を守るために神呪寺を再建したのですか」

「違うわよ。この御本尊様を守るのなら、御本尊様は向こうの本堂に遷座するはずでしょ。頼朝が再建したのは上西門院(じょうさいもんいん)の願いを聞いたからなのよ」

「上西門院て誰ですか」

「頼朝が伊豆に流される前に仕えていた人よ。鳥羽天皇の娘さんよ。頼朝はその人のお陰で、殺される事もなく流罪(るざい)で済んだの。恩返しだと思って神呪寺を再建したのよ」

「上西門院様は神呪寺と関わりがあるのですか」

「上西門院のお屋敷には歌人たちが出入りしていて、その中に西行(さいぎょう)がいたの」

「えっ、西行法師ですか」とササは驚いた。

 西行法師は思紹(ししょう)が尊敬している歌人だった。思紹は西行法師の歌集を持って旅をしていて、西行法師にあやかって自ら東行法師と名乗っていた。西行法師が頼朝と同じ時代の人だったなんてササは知らなかった。

「西行は役行者と空海を尊敬していて、山々を巡っては歌を詠んでいたのよ。そして、天川で瀬織津姫様の事を知ったの。その後、ここにも来て、広田神社が瀬織津姫様を祀っている事を知って、その事を上西門院に教えたの。上西門院は広田神社にお参りに来て、神呪寺にも来たわ。当時、神呪寺は寂れていたけど、住職から空海とわたしの話を聞いて、再建しなければならないと思ったのよ。上西門院は後白河天皇(ごしらかわてんのう)の姉だったけど、平家との戦が続いて、神呪寺の再建はかなわなかったわ。それで、平家を滅ぼした頼朝に再建を頼んだのよ。頼朝も西行から瀬織津姫様の事を聞いていたみたい」

「西行様は頼朝様と会っていたのですか」

「上西門院に頼まれて様子を見に行っていたのよ。出家した僧なら罪人となった頼朝とも会えるわ。十四歳の時に伊豆に流されて、挙兵するまで二十年間も頼朝は孤独だったのよ。妻を迎えて子供もできたけど、世間とは切り離されていたわ。流刑地(るけいち)から見る富士山が唯一の慰めだったのよ。西行から富士山の神様が瀬織津姫様だと聞いて、神呪寺の如意輪観音様も瀬織津姫様だと聞いたのよ。それで、上西門院から神呪寺の再建を頼まれて、喜んで引き受けたのよ」

「真名井御前様は、どこで瀬織津姫様と出会ったのですか」

「そこの女神山よ。わたしが六角堂にいた時、空海様から如意輪観音様の本当のお姿は瀬織津姫様だって聞いたけど、その時はよくわからなかったの。大伴皇子(おおともおうじ)様が天皇になって、わたしを迎えに来たの。わたしは驚いたけど断る事はできなかったわ。天皇のお妃になるなんて、夢を見ているような信じられない話よ。でも、御所はわたしのいるべき場所ではなかったわ。四年後、空海様に頼んで御所から抜け出したの。空海様は天皇に信頼されていたから、御所に出入りしていたのよ。わたしは空海様に連れられて広田神社に来たわ。広田神社は哀れなほどに寂れていたのよ。それに、祭神の瀬織津姫様のお名前も消されてしまって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)荒魂(あらみたま)になっていたのよ」

「天照大御神の荒魂ってなんですか」

「空海様が言うには、アマテラス様を皇祖神(こうそしん)として伊勢の神宮に祀ったので、アマテラス様以前の古い神様は皆、消されてしまったらしいわ。でも、由緒ある古い神社を潰す事はできないし、祟りも恐ろしいので、天照大御神の荒魂なんて名前を付けたんだろうって言っていたわ。荒魂っていうのは荒々しい状態の魂の事よ。このままだと瀬織津姫様は忘れ去られてしまう。何とかしなければならないと思ったわ。空海様と相談して、瀬織津姫様を鎮守神(ちんじゅがみ)として、お寺を建てる事に決めたの。それが神呪寺よ。空海様は天皇の勅願寺(ちょくがんじ)として鷲林寺(じゅうりんじ)も建てたわ。勿論、鷲林寺の鎮守神も瀬織津姫様よ。ここに来た時、わたしは二人の侍女と一緒だったの。二人もわたしと一緒に出家して、空海様のもとで修行したのよ。山の中での修行は厳しかったけど、御所にいた時に比べたら、わたしは生き返ったかのように楽しかったわ。そして、ある日、女神山で瀬織津姫様のお声を聞いたのよ。驚いたわ。わたしが神様のお声を聞くなんて。空海様の厳しい修行に耐えたお陰よ。瀬織津姫様に広田神社の事を頼まれて、わたしは以前に増してやる気を出したわ」

「山伏のように山中で修行を積んだのですか」

「そうよ。空海様は山の中をまるで飛んでいるような速さで駈けるのよ。あとを追うのは大変だったけど、わたしたちは必死になってあとを追ったわ。雪の降る中、山頂で座り続けた事もあったわ。厳しい修行に耐えて、わたしは阿闍梨位(あじゃりい)という真言密教で最高の(くらい)を空海様からいただいたのよ」

「その位があったから女人禁制の大峯山にも登れたのですね」

「そうじゃないわ。わたしが空海様の弟子だと言っても信じてくれなかったわ。わたしは気合いの術を使って、山伏たちを動けなくして、大峯山に登ったのよ」

「気合いの術?」

「そうよ。空海様から教わったのよ。山の中で呼吸を整えながら座っていると、だんだんと気力が強くなって、気合いの術が使えるようになるのよ」

 気合いの術はヂャン師匠から聞いた事があった。空海と役行者はヂャン師匠のような人だったのかとササは納得した。

「山中で出会った山伏たちも文句を言ったので、気合いの術で動けなくしたわ。わたしが弥山(みせん)で修行をして山を下りたら、瀬織津姫様の化身(けしん)が現れたって噂になっていたのよ。大峯山に登ったあと、わたしは空海様が登った各地の霊山に登ったわ。女人禁制なんてお構いなしにね。そして、広田神社の神様、瀬織津姫様の化身だって言い触らしたのよ。山伏たちのお陰で、広田神社の名前も瀬織津姫様の名前も広まって行ったわ」

 そう言って真名井御前は楽しそうに笑った。

「真名井御前様は神呪寺ができてから四年後に亡くなったと聞きましたが、お亡くなりになる前に各地の山々に登ったのですか」

 真名井御前はまた笑って、「あれは嘘よ」と言った。

「淳和天皇はわたしが出家しても、わたしを連れ戻そうとしていたの。正良親王(まさらしんのう)様に天皇の座を譲ったあと、神呪寺の近くに鷲林寺を建てて、そこで暮らすと言い出したのよ。淳和天皇には可愛い皇后(こうごう)がいて、そんな事をしたら皇后が可愛そうだわ。そんな時、空海様が亡くなってしまったの。空海様が亡くなれば、天皇は強引にわたしを京都に連れ戻そうとするでしょう。それで、空海様が亡くなった前日にわたしも亡くなった事にして、神呪寺から旅立ったのよ。各地の山々を巡って、天皇がお亡くなりになったあと、故郷の丹後に帰って静かに暮らしたわ。故郷で慈雲寺を創建して、そこにいた時、広田神社が従五位下の神位を贈られ、従三位になって、正三位になって、わたしが六十六歳の時、従一位になったのよ。嬉しかったわ。空海様もきっと喜んで下さると思って安心したわ。その四年前だったわ。富士山が大噴火して、瀬織津姫様が造った村が埋まってしまったのよ。それ以来、瀬織津姫様のお声を聞いた事がなかったのに、突然、瀬織津姫様のお声が聞こえたので、とても驚いたわ。あなたのお陰らしいわね。瀬織津姫様を蘇らせてくれて、ありがとう」

 神様から御礼を言われて、ササは何と答えたらいいのかわからなかった。

「わたしにもあなたの笛を聞かせてくれないかしら。この山にも鎮魂すべき霊たちが大勢いるのよ」

 ササは笛を取り出して、瀬織津姫様の事を思いながら吹き始めた。

 阿蘇山から瀬織津姫様がここに来て、娘が武庫津姫を継いで、この山の(ふもと)で暮らした。その頃、ここは海の近くだったという。それから五百年余りの時が流れ、豊姫様が来て、瀬織津姫様が暮らしていた屋敷跡に広田神社を創建した。まだ仏教が伝わっていない頃なので、それは小さな(ほこら)だったのかもしれない。

 それから何百年か経って、役行者様がやって来て、瀬織津姫様の声を聞く。役行者様は天川に瀬織津姫様を弁才天様として祀る。役行者様が生きていた時、伊勢に神宮ができて、伊勢津姫様が封印されてしまう。

 それから百年位経って、空海様が天川の弁才天社に籠もって瀬織津姫様を知る。空海様は六角堂で出会った真名井御前様に瀬織津姫様の事を教え、寂れてしまっていた広田神社を再興する。

 広田神社と瀬織津姫様の存在が世間に認められて、従一位の神位を贈られた頃、富士山が噴火して、瀬織津姫様が造った都は埋まってしまう。

 ササは瀬織津姫様に関する長い歴史に思いを馳せながら笛を吹いていた。

 シンシンとナナはターカウ(台湾の高雄)で阿蘇津姫様を知ってから今日までの長い旅路を思い出していた。カナは富士山で出会った神様たちを思い出していた。神様の声は聞いていても、神様の姿を目の当たりにするのは初めてだった。

 高橋殿はササの吹く笛に感動して、胸の奥に抑えていた芸心が騒ぎ出しているのを感じていた。若い頃から念願の女猿楽(おんなさるがく)をそろそろを始めなければならないと思っていた。

 御台所様は如意輪観音様に両手を合わせながら、ササの笛の音に(いざな)われて古代の神様の世界に酔いしれていた。

 奥の院を守っている老僧は、神様と会話をしているササたちを見て驚き、もしかしたら観音様の化身ではないかと思い、心の中でお経を唱えながら、心地よくて神々しい笛の調べに聴き入っていた。





箕面の大滝



ササが行った頃の広田神社の推定位置



女神山(目神山)



神呪寺、奥の院(現在の神呪寺)




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