上州国定村の忠次は剣術道場を開くため、念流の道場に通っていた。 十七歳の時、誤って人を殺してしまい、玉村宿の親分、佐重郎の紹介で武州藤久保に隠れていた大前田栄五郎を頼った。栄五郎の男気に惚れた忠次は博奕打ちになろうと決心する。 正月に藤久保に挨拶に来た高萩の万次郎と知り合い、兄弟分となり、一年後、上州に戻った忠次は栄五郎の兄弟分、百々村の紋次親分の子分になった。 百々一家は境宿を中心に縄張りを持っていたが、その縄張りを島村の伊三郎親分が狙っていた。伊三郎は紋次の代貸を引き抜いて境宿に進出して来た。信頼していた子分に裏切られた紋次は酒浸りとなり、ついに中風で倒れてしまった。 紋次を見舞いに来た前橋の福田屋栄次郎の口添えで百々一家の跡目を継ぐ事になった忠次は、栄次郎の客人だった日光の円蔵を迎え、一家を立て直す決心をする。 円蔵の策により、女渡世人に壷を振らせ、賭場に客を集める事に成功した忠次は、伊三郎を倒すため、伊三郎の代貸たちを争わせようと考えた。作戦はうまく行き、伊三郎の代貸たちは殺し合いを始めた。平塚の助八が中島の甚助を殺して、旅に出たのだった。 世良田の祇園の賭場の事で、忠次の子分、三ツ木の文蔵が袋叩きにされた事に腹を立てた忠次は、伊三郎を殺すのは今しかない、と円蔵と共に暗殺計画を立て、七月の二日の夜、世良田へと向かう伊三郎を殺した。 伊三郎を殺した忠次らは旅に出、留守は円蔵らが守ったが、伊三郎の子分たちの襲撃は無く、伊三郎が死んだ事によって、跡目争いが始まり、島村一家は分裂した。 一年余り、信州に隠れていた忠次と文蔵が百々村に戻って来ると、留守を守っていた円蔵は境宿を取り戻し、新しい子分も増えていた。 伊三郎がいなくなって、日の出の勢いの忠次は本拠地を百々村から、国定村の隣村、田部井村に移し、名前も国定一家に改めた。玉村宿の佐重郎の誘いで、玉村の八幡宮の賭場を主催した忠次は各国の親分たちと知り合い、名を売った。 天保の飢饉の時は、蔵持ちの旦那たちに隠し米を出させて飢えた人々を救い、日照りに備えて、田部井村と国定村の沼も浚った。 縄張りも広がり、子分も増え、絶頂の忠次だったが、子分の裏切りによって、文蔵が捕まってしまった。何とかして取り戻そうとしたが失敗した忠次は、子分たちに文蔵を取り戻す事を命じて旅に出た。大戸の関所を目の前にし、怒りが治まらない忠次は長脇差を振り上げて、関所破りをしてしまった。 各地の親分のもとに草鞋を脱ぎ、四国の金毘羅参りをして、忠次が帰って来たのは二年後だった。留守を守っていた子分たちと再会を喜んでいると、円蔵が顔色を変えてやって来た。関所を破ってしまったため、まだ危険だという。忠次は子分の千代松の家に隠れ、江戸で曝し首にされた文蔵の墓を立てると、また旅に出た。 それから一年余り、旅をした忠次はこっそりと戻って来た。天保の改革が始まり、幕府の役人たちが忠次を血眼になって探し回っていた。忠次は赤城山に隠れたが黙ってはいなかった。山開きの日に各国の親分衆を集めて、山の頂上で大賭博を催した。 赤城山の賭博を成功させた忠次は四ケ月後、田部井村の又八の家で日待ちの賭場を開帳した。大勢の子分たちに見張りをさせ、各地から旦那衆が集まって賑わった。しかし、夜明け近くに八州役人に率いられた大勢の捕り方に囲まれた。忠次は無事に逃げ切ったが、三人の子分が殺され、八人の子分が捕まってしまった。赤城山に隠れながら、忠次は子分たちを助けようとしたが、警固が厳重で助けられず、裏切り者だと睨んだ三室の勘助を板割りの浅次郎に殺させ、旅に出た。 勘助殺しを機に国定一家を潰そうと考えた八州役人たちは総動員して忠次たちを探し回り、次々に大物の子分たちを捕まえた。軍師だった円蔵も捕まり、忠次の縄張りは縮小した。その後、忠次は四年近くを旅で過ごし、上州に戻って来ても隠れる生活が続いた。逃げる事に疲れた忠次は四十歳になると、跡目を境川の安五郎に譲り、兄弟分のいる会津に行って、のんびり暮らそうと思った。しかし、突然の発作に襲われた忠次は体が動かなくなり、田部井村の名主の家に隠れている所を捕まった。 江戸に送られた忠次は関所破りをした事によって磔刑を言い渡され、雪のちらつく寒い日、大戸の関所で処刑された。 |
国定忠次 | 1810-1850 | 上州佐位郡国定村の富農、長岡与五左衛門の長男に生まれる。本名は長岡忠次郎。 |
日光の円蔵 | 1802-1843 | 野州都賀郡落合村に生まれる。寺に入れられ晃円と名乗るが、寺を逃亡して日光の円蔵を名乗り、無宿者となる。忠次と出会い、軍師として活躍する。 |
弁天のおりん | 1806-不詳 | 伊勢国出身の女渡世人。旅先で円蔵と出会い、妻となる。 |
三ツ木の文蔵 | 1809-1838 | 忠次の子分。上州新田郡三ツ木村の貧しい農家に生まれる。手裏剣の名手。 |
国定の清五郎 | 1810-不詳 | 忠次の子分。国定村の富農、松原清兵衛の次男に生まれる。 |
五目牛の千代松 | 1810-1846 | 忠次の子分。上州佐位郡五目牛村の富農、菊地家の長男に生まれる。 |
曲沢の富五郎 | 1810-1842 | 忠次の子分。上州佐位郡曲沢村の富農の次男に生まれる。 |
吉祥天のお辰 | 1810-1842 | 忠次の子分。上州桐生町の車屋の娘で、家を飛び出し女渡世人となり、旅から旅へと渡り歩き、忠次と出会って子分になる。 |
保泉の久次郎 | 1811-1842 | 忠次の子分。上州佐位郡保泉村に生まれる。 |
神崎の友五郎 | 1811-1838 | 忠次の子分。下総国出身。 |
田部井の又八 | 1812-1842 | 忠次の子分。上州佐位郡田部井村の富農の三男に生まれる。 |
山王道の民五郎 | 1812-1841 | 忠次の子分。上州那波郡山王道村の繭買商人の家に生まれる。居合抜きの名手。 |
甲斐の新十郎 | 1812-不詳 | 忠次の子分。甲斐国出身。 |
国定の次郎 | 1813-不詳 | 忠次の子分。国定村の富農の長男に生まれる。 |
八寸の才市 | 1813-1838 | 忠次の子分。上州佐位郡八寸村に生まれる。鉄砲の名人。 |
上中の清蔵 | 1814-不詳 | 忠次の子分。上州新田郡上中村に生まれる。三ツ木の文蔵の妹、おやすの夫。 |
観音のお紺 | 1815-不詳 | 忠次の子分。上州群馬郡水沢村に生まれる。 |
新川の秀吉 | 1815-1843 | 忠次の子分。上州勢多郡新川村に生まれる。 |
太田宿の日新 | 1815-1842 | 忠次の子分。上州太田宿に生まれる。 |
下植木の浅次郎 | 1816-1842 | 忠次の子分。上州佐位郡下植木村に生まれる。父親が屋根職人だったため、板割の浅次郎とも呼ばれる。 |
羽衣のお藤 | 1817-不詳 | 忠次の子分。田部井村に生まれる。弁天のおりんの弟子となり、国定一家の壷振りになる。 |
お鶴 | 1808-1876 | 忠次の妻。上州佐位郡今井村の旧家、桐生家の娘。 |
お町 | 1810-1870 | 忠次の妾。田部井村の富農、尾内市太夫の娘。幼い頃、両親を亡くし、親類で名主を務める尾内小弥太の養女となる。 |
田部井の嘉藤太 | 1807-1863 | 忠次の兄弟分。お町の実兄。本名は庄八。 |
三室の勘助 | 1800-1842 | 上州佐位郡三室村の名主、中島勘蔵の長男。 |
百々の紋次 | 1793-1842 | 百々一家の親分。上州佐位郡百々村の羽鳥家の次男に生まれる。 |
木島の助次郎 | 1791-1848 | 百々一家の代貸。上州佐位郡木島村の大谷助右衛門の長男に生まれる。 |
境の新五郎 | 1794-1830 | 百々一家の代貸。上州佐位郡境宿に生まれる。 |
玉村宿の佐重郎 | 1794-1857 | 上州那波郡玉村宿の旅籠屋角万屋の主人であり、博奕打ちの親分。関東取締出役の道案内を務める。 |
大前田の要吉 | 1786-1867 | 大前田一家の親分。上州勢多郡大前田村の富農、田島久五郎の長男。 |
大前田の栄五郎 | 1793-1874 | 要吉の実弟。旅で名を売った大親分。 |
獅子ケ嶽の重五郎 | 1798-1864 | 武州藤久保村の親分。大前田栄五郎の弟分。 |
高萩の万次郎 | 1805-1885 | 武州高萩村の名主、清水弥五郎の長男。鶴屋一家の親分。 |
福田屋栄次郎 | 1793-不詳 | 上州勢多郡月田村に生まれる。大前田栄五郎の兄弟分。前橋の旅籠屋、福田屋の養子となり、関東取締出役の道案内を務める。 |
栗ケ浜の半兵衛 | 1794-不詳 | 上州佐位郡伊勢崎町に生まれる。伊勢崎一家の親分。大前田栄五郎の兄弟分。 |
茗荷松の源蔵 | 1790-1842 | 上州利根郡川田村の川田一家の親分。百々の紋次の兄弟分。 |
八寸村の七兵衛 | 1791-1859 | 佐位郡八寸村の親分。百々の紋次の兄弟分。 |
合の川の政五郎 | 1788-1860 | 上州邑楽郡大高島村の船問屋、高瀬仙右衛門の次男に生まれる。旅で名を売った大親分。信州の権堂村に落ち着き、女郎屋を営み上総屋源七を名乗る。 |
島村の伊三郎 | 1790-1834 | 上州佐位郡島村河岸の船問屋、町田家に生まれる。島村一家の親分。関東取締出役の道案内を務める。 |
平塚の助八 | 1790-不詳 | 伊三郎の代貸。 |
世良田の弥七 | 1793-1834 | 伊三郎の代貸。 |
不流三左衛門 | 1804-1874 | 上州佐位郡萩原村の香具師の大親分。 |
西野目宇右衛門 | 1796-1850 | 田部井村の富農、西野目家に生まれ、本間道場の師範代を務め、後、名主になる。 |
本間千五郎 | 1784-1874 | 上州佐位郡赤堀市場村の剣術道場の主人。丹頂と号し、俳人としても有名。 |
加部安左衛門 | 1804-1862 | 上州吾妻郡大戸宿の分限者。 |
お篠 | 1814-不詳 | 信州野沢の湯宿の女将。 |
お徳 | 1816-1889 | 群馬郡中里村の岸家に生まれる。忠次の子分、千代松の妻となる。 |
お貞 | 1825-不詳 | 上州佐位郡伊与久村の名主、大谷益左衛門の三女。 |
寅次郎 | 1844-1867 | 忠次の長男。野州都賀郡大久保村で育つ。忠次の死後、十歳の時、出家し、永野村長谷寺に入る。十五歳の時、出流山千手院、満願寺の大宝観秀の弟子となり千乗を名乗る。慶応三年十二月、大谷刑部国次と名乗り、出流山で旗揚げした勤王倒幕軍に加わるが、幕府軍に敗れ、処刑される。 |
高野長英 | 1804-1850 | 陸奥国水沢に生まれる。長崎に渡り、シーボルトに学ぶ。蘭方医。 |
文化 | 7年 | (1810) | 忠次、国定村に生まれる。 |
8年 | (1811) | 式亭三馬の『浮世床』の初編が刊行される。 | |
11年 | (1814) | 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』第一輯が刊行される。 | |
13年 | (1816) | 浦賀にイギリス船、渡来する。 | |
文政 | 3年 | (1820) | 江戸の戯作者、十返舎一九、吾妻郡草津村の俳人、黒岩鷺白を訪れる。 |
4年 | (1821) | 貞然、長岡家の菩提寺、養寿寺の住職となり、寺子屋を営む。 | |
5年 | (1822) | 吾妻郡内の商人ら、同郡大戸村の加部安左衛門の手先商人となり、繭、麻、煙草などを集荷する。 | |
8年 | (1825) | 江戸中村座で『東海道四谷怪談』が初演される。 | |
9年 | (1826) | 幕府、無宿者・農民・町人の長脇差携帯を禁止する。 | |
10年 | (1827) | 幕府、関東全域の取締り強化のため、取締出役の下に改革組合村を設置する。 | |
11年 | (1828) | 館林藩士、生田万、藩領外に追放され浪人となる。 | |
幕府、シーボルトを長崎出島に幽閉する。 | |||
武州久下村出身の蘭医、村上随憲、上州境宿で開業する。 | |||
12年 | (1829) | 葛飾北斎、『富嶽三十六景』を描く。 | |
天保 | 元年 | (1830) | おかげ参りが大流行する。 |
3年 | (1832) | 鼠小僧次郎吉、江戸小塚原で処刑される。 | |
天保の飢饉が始まる。 | |||
4年 | (1833) | 歌川広重、『東海道五十三次』を描く。 | |
諸国、飢饉となり、各地に打ち壊しが起こる。 | |||
5年 | (1834) | 国定忠次、島村の伊三郎を殺す。 | |
7年 | (1836) | 諸国、飢饉となる。奥羽は最も甚だしく死者十万に及ぶ。 | |
8年 | (1837) | 大坂町奉行所与力、大塩平八郎、大坂で乱を起こす。 | |
生田万、越後国柏崎の陣屋を襲撃して自刃する。 | |||
徳川家慶、十二代将軍となる。 | |||
10年 | (1839) | 幕府批判等により、渡辺華山・高野長英が捕らえられる。 | |
水野忠邦、老中筆頭となる。 | |||
11年 | (1840) | イギリス・清国間にアヘン戦争が起こる。 | |
遠山金四郎、江戸北町奉行になる。 | |||
12年 | (1841) | 幕府、天保の改革を始める。 | |
関東取締出役に臨時取締出役二十六人が加えられる。 | |||
13年 | (1842) | 幕府、人情本を禁じ、為永春水・柳亭種彦を処罰する。 | |
14年 | (1843) | 水野忠邦、老中を罷免される。 | |
弘化 | 元年 | (1844) | 江戸城本丸焼失する。 |
水野忠邦、再度、老中筆頭になる。 | |||
2年 | (1845) | 幕府、浦賀に砲台を築く。 | |
水野忠邦、病気を理由に老中を辞職する | |||
4年 | (1847) | 善光寺大地震。 | |
嘉永 | 元年 | (1848) | 幕府、信州松代藩の佐久間象山に洋式野鉄砲を造らせる。 |
外国船、頻繁に渡来する。 | |||
2年 | (1849) | 関東取締出役が増員され、三地域分担制が拡大される。 | |
3年 | (1850) | 国定忠次、大戸で処刑される。 |