酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート




嘉吉の変





嘉吉元年5月4日 結城氏朝の首級が京に届く。

(1441)  19日 春王、安王(足利持氏の遺児)の首級も届く。

      23日 将軍義教、夫人の実家、正親町三条実雅の祝宴に招待される。

      26日 管領細川持之の祝宴に招待される。

    6月24日 西洞院二条上ルの赤松邸の祝宴に招待される。

         土用の入りというのに朝から雨に風さえ加わって、うすら寒さを覚える一日だった。

        ・申刻(午後4時)に義教の行列、赤松邸に入る。

           供には、左衛門督三条実雅、

               管領細川右京大夫持之、

               侍所山名弾正持豊、

               畠山持永、細川讃岐守持常、京極高数、大内持世 

               細川持春、山名熈貴、赤松伊豆守貞村、一色五郎義範

         迎える赤松邸

           満祐(性具入道)は狂乱を装い富田邸に謹慎中。

           主役は19才の長男彦次郎教康が勤める。

           介添えとして、叔父の左馬助則繁。

                    ・赤松家ひいきの観世の猿楽。

            三番目の『鵜羽』を演じている時、邸内に不意に物音。

            安積監物行秀──将軍義教の頸を斬り落とす。

                     細川下野守持春−討死。

                    山名中務大輔熈貴−討死。

                    大内持世−重傷。

  • 噂はすぐに京中に広まったが、諸大名はいずれも迷った。この度の変事が、赤松総領家ひとりの行動か、あるいは、かねて計画された諸大名与同の謀反か?
  • 諸大名は誰一人として赤松追討に出ようとせず、自門を固めてて情報の蒐集につとめていた。
  • 満祐は自邸に火をかけ、本国に引き揚げる。浦上四郎宗安が先陣、総勢七百騎。
  • 管領細川持之は禁中に参内し、変事を奏上し、伊勢伊勢守貞経の邸に詰めて諸大名の動きを見る。
  • 相国寺の蔭凉軒季瓊真蘂(赤松一族上月氏の出身)は赤松邸に駆け付け、将軍の遺体を焼け跡から拾いだし、足利氏の菩提寺、等持院に納める。
  • 満祐は将軍の首を奉じて、本国に向かい、首は河合村の中村弾正の堀城に預け、書写の坂本城に帰る。
  • 管領細川持之は義教の子、千也茶丸(義勝)を伊勢貞経の邸から室町御所に移す。
  • 満祐と持之の仲が良かったので、世人は、管領が内々承知で行われた事だという噂も立つ。
  • 7月6日 義教の葬儀。武家大名で出席は持之のみ。
  • 7月 管領、諸大名に赤松氏征討を命ずる。

      B大手──大将、阿波守護細川持常。

                         備中守護細川阿波守基之、淡路守護細川淡路守成春

              赤松氏庶流家の伊豆守貞村、播磨守満政、有馬持家

              西方から伊予の河野氏、安芸の武田、吉川氏

      B搦手の大将、但馬守護山名持豊。

 ◇坂本城に宗徒の侍八十八人、総勢都合二千九百騎が参集。

◎赤松一族  佐用 小寺 上月 中村 太田 在田 間島 永良 宇野 別所 

       七条 有馬 釜内 福原 江見 得平 小河 柏原 萩原 中島 

       櫛田 神出 葉山 広瀬 豊福 

◎赤松幕下  依藤 浦上 櫛橋 安積 薬師寺 神吉 志方 英保 魚住 角田

       島村 福岡 長浜 衣笠 富田 栗生 内海 袖垣 宇津 広峰

       白国 多賀屋 難波 糟谷 後藤 井口 恒屋 掘 中山 尾上

       小松原 黒田 竹中 佐野 柳井 須賀院 須貝 田中 世良田 石見

       前川 原 村田 伊東 佐谷 栗山 菅原 芝田 八木 村上

       芳賀 芝 野中 頓宮 平野 飽間 荒田 和木田 大多和 志水 金沢

 ◇赤松氏の軍師、喜多野性用

            B大手の須磨・明石方面 長男彦次郎教康を大将として、

                                   浦上・依藤・櫛橋・中村・魚住・釜内・別所・

                  間嶋らの諸将を配し、明石の和坂に本陣を置く。

      B丹波より播磨へ越える三草口 宇野能登守国裕に将兵五百騎で守る。

      B搦手の但馬口 弟伊予守義雅を大将として、

              当時出家して網干の龍門寺に入っていた弟の直操

                           家老の上原備後守

              佐用・永良・宇野・富田・粟生らの諸将一千騎を

              生野峠の手前田原に陣を取らせる。

      B因幡より入る戸倉口 甥の常陸彦五郎則尚。

      B備前国 小寺伊賀守職治を大将として、

           上原・薬師寺・河匂らの将士八百騎。

      B美作口 弟左馬助則繁。



  • 満祐、備中国井原庄(岡山県後月郡吉井町)の善福寺に弟と共に禅僧となって世を忍んでいた足利直冬の孫、冬氏(二十九才)を迎える。冬氏は名を改め義尊と称し、『井原御所』と呼ばれる。
  • 冬氏が立った後、残った弟の禅僧は、備中守護細川氏久に討たれる。
  • 7月11日、細川持常、赤松貞村・赤松有馬持家らの追討軍、京を出発。西宮に本陣をすえる。
  • 浦上七郎兵衛・櫛橋左京亮・依藤太郎左衛門・中村丹波守ら七百五十騎の軍勢、海陸に分かれ、兵庫の庫御所にいた有馬持家を夜襲するが、失敗して同士討ちとなる。
  • 山名持豊の軍、京の土倉から軍資金を略奪。管領が持豊を討とうとしたので、持豊は謝罪し、7月28日、但馬に向かって出発。この日、周防・長門・豊前・筑後四ケ国の守護である大内持世、没する。
  • 7月22日、満祐、将軍の首を加東郡の安国寺に運び、盛んな葬儀を行う。この後、将軍の首を京に返す。相国寺長老瑞溪周鳳が、播磨に下向して受け取る。
  • 8月19日、淡路守護細川成春率いる軍船が、赤松の前営の塩屋の関を襲う。赤松氏敗れ、狭い須磨の道で留められていた細川持常、武田信賢、赤松貞村らの軍は明石まで進み、人丸塚に陣する。細川成常の兵船も明石の津に入る。
  • 8月24日、和坂に陣する彦四郎教康、浦上、依藤、櫛橋、中村、魚住、釜内、別所らの諸将、一斉に人丸塚に攻め寄せる。討手は須磨浦の敦盛塚の辺りまで追い返される。
  • 8月25日、午後から大風が吹き出す。細川軍、必死に反撃する。吉川駿河守経信の部将、高戸勘解由左衛門・田坂五郎太郎・沢津修理亮らが戦死。
  • 8月26日、大暴風雨。教康のもとに、但馬口の味方が大敗して、山名の軍勢が一挙に播磨に侵入しつつあるとの情報が入り、無念だったが坂本城まで撤退する。その途中、加古川の増水で、河舟や筏が転覆して溺死した将兵多し。
  • 赤松伊豆守貞村、赤松軍の悲運を喜び、太山寺に戦勝祈願させる。
  • 8月28日、搦手の山名持豊、垣屋、久世、羽淵らの諸将を従え、四千五百騎をもって生野坂を下り、大山口を守る龍門寺直操の率いる赤松軍を攻撃。大山口を守っていた佐用・永良・宇野・富田・粟生ら一千騎は、敗れて粟賀まで退く。
  • 8月29日、粟賀での防戦も空しく、市川を渡り、西岸の田原口で陣を立て直す。
  • 8月30日、伊予守義雅を大将とし、早朝から申刻(午後四時)まで、必死に防戦したが、討死、手負数知れぬ状況となり、無残な敗北で、夕暗にまぎれ坂本城をさして逃走した。
  • 9月1日、東は明石和坂から、北は田原口から、続々と敗戦の将士が坂本城に集まって来る。龍門寺直操、敗戦の責任を負い自害する。
  • 9月3日、坂本城、落城。赤松軍は城山城に籠る。

            国人ら、多く降参する。

  • 坂本城を陥れた山名持豊は、揖保川の東岸の觜崎の西福寺を本陣とする。
  • 9月8日、備前国を守っていた小寺伊賀守職治以下八百騎は、松田、勝田氏らの謀反によって敗退し、白旗城は太田・間島の一族が警固するのみ。戸倉口を守っていた常陸彦五郎則尚の勢も戦わずして撤退。この時、則尚は伊和神社に一振りの太刀を奉納する。
  • 山名修理大夫教清・同相模守教之の率いる因幡・伯耆の三千余騎が、佐用・広岡(旧大広村)を経て、栗栖庄千本村に着いたという知らせを聞き、持豊は二万余の全軍をして揖保川を渡り、城山を包囲させる。ただ、西南の室津に通じる方は、室津から上陸して進みつつある赤松播磨守満政にまかせる。
  • 9月9日、山名軍、早暁より攻撃開始。五百余騎の城兵は必死に防ぎ、寄手はなかなか山頂の城に近付けず。
  • この夜、伊予守義雅と彦五郎則尚が、ひそかに脱出。これを知った城兵は志気沮喪し、脱走者も相次ぐ。
  • 9月10日、山名軍の総攻撃が卯の刻(午前6時)から始まり、夕方には本丸も危なくなった。
  • 満祐は、教康と則繁に逃げるように命じる。手薄だった満政の守る西南の方より、容易に脱出し、教康は室津に、則繁は備前に向かう。義尊(直冬)も定願寺から備中に逃れる。
  • 満祐は安積行秀に介錯を命じ、一族六十九人と共に自害して果てる。行秀は一門の自害を見届けた後、城に火を放ち、赤松勇士の最後の華を飾った。
  • 伊予守護義雅は、播磨守満政の陣に、幼児をつれて降参し、幼児を満政に託し、播磨守の陣中にて自害(四十五才)。満祐を預かっていた富田土佐守も満政に降参。
  • 義雅の遺児千代丸は9才。満政はひそかに室津に隠し、使いを建仁寺大昌院の宝洲に遣わして、迎えを乞う。宝洲は弟子の天隠龍沢(20才)をして迎えさせた。天隠は室津で千代丸を受け取り、摂津の昆陽野で、義雅の夫人の実家である三条家の使いに渡した。(義雅夫人の父は、当時大納言の三条実量)三条家の所領近江浅井郡丁野村へと送られ、そこの成願寺(時宗)に入れられた。
  • 9月18日、満祐と安積行秀の首が山名持豊から、京に届く。義雅の首も満政から届く。
  • 9月28日、教康、伊勢国にて自害。教康は17人の武士をつれて、室津から船で伊勢に向かい、多気城に北畠教顕(顕雅、満雅の弟)を訪ねた。教顕は二、三日城中に泊めたあと、発覚を恐れて、奥の方若木谷の馬場城に匿ったが、教康はついに自害する。10月1日、教康の首は京に送られ、赤松邸ら梟首された。
  • 9月末、赤松伊豆守貞村、播磨で死す。子の教貞が継ぐ。
  • 閏9月21日、論功行賞

             山名持豊  播磨国守護職

             山名教之  備前国守護職

             山名教清  美作国守護職

             細川持春  摂津国中島郡

             赤松満政  播磨国東三郡(明石、加古、印南)

  • 1011日、持豊は数多の将兵を従えて播磨に入部の式を行う。
  • 嘉吉2年1月22日、管領細川持之、満政の播磨三郡を召し上げ、持豊に与える。
  • 3月21日、畠山持国の所に現れた井原御所義尊、殺される。
  • 嘉吉3年6月、赤松播磨守満政の子、満直、管領より赤松家の惣領職に任じられる。
  • 文安元年(1444年)1025日早暁、満政は、満直、則尚らの一族を率い、京都を下向し播磨に向かう。持豊は本国但馬に帰り、合戦の準備を始める。
  • 文安2年正月、持豊の軍に敗れた満政は、摂津有馬の赤松持家を頼って逃げ、則尚は西の方に逃げる。
  • 持家、満政を助けて挙兵する。北隣の丹波の守護細川勝元、これを討つため出兵。
  • 3月、有馬郡にて、丹波勢との合戦があり、有馬方は三百七十人が討たれ、持家は大敗する。自家の保全のため、持家は満政父子を討つ。
  • 文安5年8月8日、赤松左馬助則繁、隠れ家の当麻寺を囲まれ、無念のうちに自害。その首は京都で梟首。城山城から逃れた後、則繁は室津から、筑前の守護少弐氏を頼り、更に朝鮮に渡り、その一州で猛威を振っていた。文安5年正月、少弐教頼は則繁と共に肥前に上陸し、大内氏と戦うが敗れ、則繁は播磨に逃れたが、もはや、山名氏の領国となっていて、どうする事もできず、河内の畠山氏を頼る。それを知った幕府は、細川持常をして、則繁を討たせる。
  • 享徳4年4月、山名教豊、西播地方で赤松牢人を集め、勢力を増しつつある彦五郎則尚を討つため、武者三百騎、歩卒数千人を従え、但馬に下る。
  • 5月、山名持豊と教豊に率いられた但馬の軍勢が大挙して播磨に入り、書写坂本城に入る。この大軍に対して、合戦におよばず敗退して、則尚らは備前に逃れ、大島郡鹿久居島において、一族・家人二十余人と自害し、共に戦った有馬小次郎も自害。




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