酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



赤松一族の年表(嘉吉元年〜明応五年)



嘉吉 元年(1441) 9月 赤松教康、伊勢国若木谷薬師堂にて自害。
3年(1443) 7月 赤松満直(夢前町熊部城主)、再起を図る。
文安 元年(1444) 10月 満政、則尚、京都より播磨に下り挙兵する。
2年(1445) 正月

満政父子、再興を図るもならず、三草山に敗れ、有馬元家を頼るも3月24日殺される。

8年(1448) 則繁、討たれる。
享徳 3年(1454) 11月 則尚、義政に許され、播磨に下る準備をする。
康正 元年(1455) 4月

則尚、郎党三千余騎を連れ、姫路に入り、近辺の山名の諸構を三木通武に預け、鵤庄壇特山を領し、室山を攻める。持豊、但馬より攻め来て坂本に入る。教祐、これを攻めるも、赤松兵逃散する。則尚、備前鹿久居島で5月2日、自害する。

この年、政則生まれる。
2年(1456) 12月 赤松遺臣、偽って南朝に仕える。
長禄 元年(1457) 12月

北山御所、川上御所を襲い、尊秀王、忠義王を弑し、神璽を取るも、郷士に奪われて取り返され失敗する。

2年(1458) 8月27日

小寺藤兵衛性説、尊雅王を十津川に弑し、神璽を奪い南朝絶える。

8月30日 内裏に返還、
9月19日 赤松家再興される。
3年(1459)

赤松家、加賀半国(河北、石河二郡)、出雲国宇賀庄、伊勢国高宮保、宛てがわれる。宇賀庄の替地として備前新田庄が闕地だったので拝領。

寛正 2年(1461) 8月 次郎法師丸、松原八幡宮に二百俵、妻鹿瀬川の田を寄付。
6年(1465) 6月 赤松残党狩り。
11月26日

次郎法師丸、加冠し、政則と改める。浦上則宗に助けられ、多くの功績あり。洛中で名声を得る。

応仁 元年(1467) 5月

政則、播磨備前美作を宛てがわれ、兵を集め、数日で播磨平定、次いで、備前福岡を陥れる。

8月

赤松軍(赤松下野守政秀、宇野越前守則尚、小寺藤兵衛尉則職、明石道祖鶴丸ら)、大内軍に、猪名野に破れ、播磨に帰る。加賀守護代、間島河内守、戦死。

11月 政則、播磨備前美作三ケ国の守護職と兵部少輔に任じられる。
姫路城、本丸、鶴見丸、亀井丸を修理する。
2年(1468) 2月 小寺は加賀の将富樫と戦う。
3月 伊和東の地を伊和神社に寄付する。
11月 幕府(細川勝元)、政則を侍所所司とし、義視を殺せと命じる。
義視、東軍の陣を抜け出し、西軍の陣に入る。
文明 元年(1469

中村五郎左衛門、三ケ年戦って美作平定する。よって、播磨備前美作三ケ国の旧領を復す。

3月 政則、播磨一の宮に私領を寄進する。
12月 姫路城に目代小寺豊職を置き、政則は置塩城に移る。
2年(1470) 2月

天王寺合戦、浦上則宗は山名教之、一色義直を攻めて大勝する。小寺則職、赤松政秀等もこれを助ける。

3年(1471) 4月8日 政則、父性尊の十七回忌を修し建仁寺大昌院を修営する。
6年(1474) 政則の長女、まつ生まれる。
11年(1479)

政則、因幡国の私部郷の地頭毛利次郎(民部大輔)を支援し、山名政豊に背かせる。

9月 山名政豊、但馬に帰国し、因幡に攻め入り、赤松党を敗走させる。
11月 応仁文明の乱終わる。
12年(1480)

政則、備中吉備神社参拝、福岡一泊、三石城にて浦上則国に面し、置塩に帰る。

◇この頃、寺社本所領保全を守る政則と家臣らの間に対立が起こり、分裂の兆しあり(裏に山名氏の工作もあり)。

14年(1482)

浦上則宗の三石城、留守城主、松田元隆に横領される。興福寺領鹿田庄代官、松田元成は細川政元の威を借り、所領を冒す。

15年(1483) 7月 宇野下野守、東寺領矢野庄を押妨する。
9月

松田元成叛く。元成、山名俊豊の助けを受け、浦上則国、櫛橋則伊の守る福岡城を囲む。則国、援を政則に求める。政則は、将軍義尚に訴え、松田元成追討の許可を得る。

11月14日 山名政豊、播磨国に進撃。
12月16日

政則、則国の援に小軍(赤松下野守、浦上掃部助村宗)を与え、自らは旧領朝来郡を制するため、千五百騎を率いて真弓峠に向かう。

12月18日 粟賀庄に本陣を置き、先陣を真弓峠まで進める。
12月25日

未明、垣屋越前守率いる但馬勢二千騎に攻められ、真弓峠の先陣は雪の中を敗走。赤松軍、武将34人を含む三百余人の者が討死。政則は、敗報を本陣で聞き、姫路に退却する。

真弓峠の敗走を聞いた赤松下野守、浦上掃部助らは播磨に引き上げる。

16年(1484) 正月 松田元成、福岡城を開城させ、三石城を攻める。
山名政豊、播磨に攻め入る。政則、海路堺に走る。
2月6日

浦上則宗、小寺則職、中村祐友、依藤弥三郎、明石祐実ら、政則を廃し、有馬則秀の子慶寿丸(澄則)を奉じ播磨に打ち入り、山名氏と戦うが敗れ、三石に退く。

山名政豊、坂本に入り、播磨を略す。
2月9日 別所則治、政則を奉じ入京し、将軍義政に頼る。
3月5日 則宗、大山寺(上郡)に三国平定を祈る。
9月29日

蔭凉軒主亀泉集証や前将軍義政の仲介で将軍義尚に拝謁して、政則、赤松家の家督を再認識される。

10月初旬

政則、播磨に下る。途中、山崎で滞留し、12月、有馬郡に入り、越年する。(浦上則宗との和解がうまくいかないため、播磨に入れなかった)

17年(1485) 2月 浦上則宗、備前福岡に山名松田の連合軍を破り、大打撃を与える。
閏3月4日

政則、播磨光明寺に着陣(小寺、中村、宇野、別所、櫛橋らの諸将、従軍する

閏3月5日

備前土師河原、研石城の合戦にて、浦上軍、山名軍に惨敗して、浦上則国は戦死する。

閏3月27日

政則、蔭木城に山名軍の垣屋越前守を攻め、大勝。押領せる興福寺領を同寺に還付する。

6月4日 片島合戦、赤松(浦上)軍敗れる。
6月14日

室合戦、赤松(浦上)軍敗れる。浦上掃部介、嶋津左京亮、粟井新左衛門尉以下数十人討ち死にする。

6月26日

政則、松原八正寺に命じて、寺領内の野伏を集める事を要請する《後藤則孝、櫛橋則伊(英賀在陣)の連署》。

8月10日 松原の野伏、山名軍を撃退する。
18年(1486) 正月6日 赤松軍、英賀城に攻め来る山名軍を破る。
4月16日 赤松軍、英賀にて山名軍に敗れる。
4月28日 赤松軍、坂本城の山名軍を破る。
12月29日

吉川駿河守経基、政則に味方し、播磨国に派兵し、以後、赤松軍有利となる。

19年(1487) 3月10日 政則、吉川勢の応援を得て、坂本城を攻める。
3月13日

坂本城東口より浦上則宗が攻め入り、西口からは小倉小四郎が攻撃し、城は落ちる。攻撃軍は入城と共に城内の各所に放火したため、ほとんどの建造物が消失。赤松軍では、長津尼次郎兵衛尉、浦上与三郎が討死。吉川軍では、吉川孫右衛門尉経為が槍傷を被る。山名政豊の行方も一時不明となる。

長享 元年(1487)

赤松軍、破壊された坂本城を放棄すると、直ちに、山名政豊が入城して拠点とする。

9月 浦上則宗、政則の代理として、六角成敗に赴く。
10月 政則、腫気に罹り、苦しむ。
2年(1488) 4月7日

赤松軍、坂本城に山名政豊を攻める。三日間の戦闘の末、赤松軍勝利するが、完全に城を落とす事はできなかった。

上月又三郎、安阿弥討死。
7月18日

山名政豊、闇に紛れ坂本城を出奔する。《山名氏の分裂(裏に赤松氏の工作あり)》

7月19日 坂本城、落城
7月20日 山名軍、備前福岡城から退去する。
◇別所則治、戦功により、東播八郡が与えられる。
9月29日 政則、湯治のために美作に行く。留守居役小寺勘解由左衛門。
延徳 3年(1491) 長女まつ、義村の妻となる。政則、義村を養子に迎える。
明応 3年(1494) 嫡男、次郎丸生まれる。
4年(1495) 4月20日 政則、細川勝元の女(めし)を夫人とする。
・長女まつ、孫(晴政)を産む。
5年(1496) 2月29日 政則、従三位に叙せられる。
4月25日

政則、加西郡坂田庄久斗山長円寺で卒す。置塩で葬う(42歳)。

養子の七条家政資の長男義村(のち政村と改名、もと佐用郡平尾庄の城主)を、跡継ぎとする事を遺言する。



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