酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート




赤松政則の略歴



1455年 近江の国、浅井郡須賀谷にて生まれる。幼名は次郎法師丸。 1歳
1456年 12月 赤松遺臣、偽って南朝に仕える。 2歳
1457年 12月 赤松遺臣、北川御所、川上御所を襲うが失敗する。 3歳
1458年 8月 小寺藤兵衛、神璽を奪回して内裏に返還する。 4歳
9月 赤松家、再興される。
1459年 赤松家、加賀半国、出雲の国宇賀荘、伊勢の国高宮保を宛がわれる。 5歳
宇賀荘の替地として、備前の国新田庄を拝領する。
4月 父、義祐、神器掠奪戦の時の重傷がもとで死す。
1461年 8月 次郎法師丸、松原八幡宮に二百俵、妻鹿瀬川の田を寄付。 7歳
1465年 11月 次郎法師丸、元服して、次郎政則を名乗る。 11歳
浦上美作守則宗に助けられて、多くの功績あり。洛中で名声を得る。
1467年 1月 応仁の乱、始まる。 13歳
5月 政則、播磨、備前、美作を宛がわれ、赤松軍は数日で播磨を平定する。
次いで、備前福岡を陥れる。
8月 赤松軍、大内軍に猪名野で破れ、播磨に帰る。加賀守護代の間島河内守、戦死。
姫路城の本丸、鶴見丸、亀井丸を修理する。
1468年 11月 政則、侍所所司に任じられる。 14歳
1469年 中村五郎左衛門、三ヶ年戦って、美作を平定する。 15歳
11月 政則、播磨備前美作三ヶ国の守護職と兵部少輔に任じられる。
12月 姫路城に目代として小寺豊職を置き、本拠地を置塩城に移す。
1470年 2月 天王寺合戦。浦上則宗は山名教之、一色義直を攻めて大勝する。 16歳
1471年 4月 政則、父申恩院の十三回忌の法要を建仁寺で行う。 17歳
1472年 政則、細川氏の娘、亜喜(16)を嫁に迎える。 18歳
1473年 3月 山名宗全(70)、死す。 19歳
5月 細川勝元(44)、死す。
6月 政則、京都を出て、領国経営に乗り出す。
1474年 5月 政則の長女、まつ、生まれる。 20歳
政則、美作に出兵する。
9月 政則、上村柳(16)を側室に迎える。
1477年 11月 応仁文明の乱、終わる。 23歳





置塩城下、赤松政則の屋形図



置塩城下、赤松政則の屋形図




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