酔雲庵

侠客国定忠次一代記

井野酔雲

創作ノート




萩原進著『群馬県遊民史』より





  • 農業を嫌い、農村に不満を持ち、商、工業の二次産業に走り、金銭の獲得を狙って、若者たちは村を飛び出し、風与出者(風斗出者)となった。一定の場所に定住し、一定の職業に定職を持つ事を嫌い、遊民となって村を出て行き、無宿者となって都会の厳しい現実に負け、多くは無頼、犯罪人となり、反社会集団の一員となって、転落して行く。
  • 4月8日の赤城山大洞の山開きの時に鈴ケ岳で行う関八州の親分の博奕。
  • 天保の前の文化・文政時代は奢侈に流れた江戸時代切っての爛熟時代。
  • 中山道‥‥‥新町──倉賀野──高崎──板鼻──安中──松井田──坂本──碓氷峠──軽井沢
  • 例弊使街道‥‥‥倉賀野──玉村──五料──境──太田──足利──日光
  • 三国街道‥‥‥高崎──金古──渋川──金井──南牧──横堀──中山──塚原──布施──須川──相俣──猿ケ京──永井──三国峠──浅貝
  • 信州街道‥‥‥高崎の豊岡──里見──室田──三ノ倉──大戸──長野原──草津──渋峠──善光寺
  • 沼田街道‥‥‥前橋──田口──米野──溝呂木──津久田──森下──沼須──沼田
  • 日光裏街道‥‥‥玉村──駒形──大胡──大前田──神梅──足尾銅山──日光
  • 横川の三之助、松井田町新井の山田城之助。
  • 東海道の清水の次郎長。甲州街道の黒駒の勝蔵。中山道の安中草五郎、沓掛時次郎、伊奈の勘太郎。千葉街道筋の笹川繁蔵、千葉の飯岡助五郎。
  • あずま街道が国定村を通る。西国定村に県下でも珍しい六本辻がある。織物で知られる伊勢崎に近い。
  • 上州の関所‥‥‥戸倉、猿ケ京、杢ケ橋、大笹、大戸、狩宿、碓氷(横川)、西牧、砥沢、白井、大渡、実正、福島、五料、川俣。
  • 国定村は天保9年まで代官領。天保9年より12年まで、旗本林肥後守領となり、12年より嘉永元年まで、再び、代官領となり、嘉永元年より前橋藩の松平大和守領となる。
  • 田部井村は代官領。
  • 代官所‥‥‥代官の下に元締(30両5人扶持)2人、手代(20両5人扶持)8人、書役(5両1人扶持)2人、侍(3両2分1人扶持)3人、勝手賄(5両1人扶持)1人、足軽(3両1人扶持)1人、中間(2両1人扶持)13人が標準だった。手附は手代と同格で役目の上には差別はなく、元締は手附、手代の中から優れた者が選ばれた。
  • 代官の属吏には手附と手代の二種類あり、手附は小普請役の系統からの出身者。勘定奉行の銓衡で採用され、代官の下につく。手代は代官が採用して勘定奉行の許可を得て任命した。したがって、手代は百姓でも町人でもなれた。
  • 天領、大名領、旗本領、寺社領は警察権もおのおの独立していた。
  • 関八州取締出役は禁制であった博奕行為、暴力、帯刀、盗み、歌舞伎や手踊りの娯楽、奢侈行為を取り締った。2人で2ケ国、3人で2ケ国というように巡回した。実際には2人だけで巡回しても効果はあがるはずはなく、『目明し』『岡っ引』がかなり使われた。
  • 羽倉外記(17901862)‥‥‥岩鼻代官。
  • 中山誠一郎‥‥‥八州取締。
  • 賭場の掛け金の宰領をした事から親分の事を貸元と呼んだ。
  • 縄張り‥‥‥掛場を開く権利区域。
  • 掛場‥‥‥旅籠屋、民家、寺院、神社など。川原のナカッチマ(中洲)、桑畑の中、国定村の六道の辻、古墳の石室内など。
  • 忠治の岩屋‥‥‥鈴ケ岳説、湯の沢温泉上の忠治の岩屋説、梨木温泉近くの山腹の岩穴説あり。
  • 世良田の祇園の祭礼の博奕、三夜沢赤城神社の祭礼の博奕、子持神社の祭礼の博奕など。
  • サイコロの材質は鹿の角、象牙といった物が多く、安物は土製の物も使われる。
  • テラ銭は2分から6分。時には1割に及ぶ。テラ銭を入れる箱をテラ銭箱という。
  • 草履は脱いで懐に入れて座敷に上った。






大前田栄五郎(1793−1874)



  • 勢多郡宮城村大前田の名主格の家に生まれた。本姓は田島。祖父の新之丞は間違いなく名主だった。父を久五郎といい名主を務めたと伝えられる。草相撲が強く、地方の横綱格であった。大前田には日光裏街道が通っていた。滝登(たきのぼり)という名で暴れた父の久五郎がやくざになり、大前田村を中心に苗ケ島、女渕、月田、大胡を結ぶ範囲をその縄張りにした。その子は3人あり、総領が要吉といって盲目であったという。次が栄五郎、その妹になをというのがあった。兄要吉も親父の跡目を継いでやくざであった。母はきよといった。
  • 栄五郎は小さい時から性質が強気で負けん気、気性が激しく『火の玉小僧』と呼ばれた。少年時代から剣術を好み、村の角田常房という浅山一伝流の使い手に教わった。
  • 25歳の時、栄五郎は久宮(くぐう)の丈八という親分を殺し、兇状持ちとされお尋ね者として手配される。捕まり、佐渡島へ流刑となる。後、島破りをする。
  • 栄五郎は名古屋を中心として特別の勢力があったらしく、伊豆から東海地方にかけてが縄張りだった。上州1国の親分というよりも関東、東海、甲州といった県外において知られた博徒であった。
  • 栄五郎は島破りをしてから41歳まで旅の草鞋をはき、やくざ仲間の仲裁をしていた。
  • 栄五郎一家には指し立て貸元が全国に五百人もいて、ただの貸元と称する者は三千人はいたという。
  • 栄五郎の子分‥‥‥小林虎五郎(江戸屋) 館林。栄五郎と互角の大親分。
                      森久八 静岡県下足柄。通称大場(だいば)の久八。栄五郎の舎弟。
                      浅部貞造 山田郡浅部村。
                      福田倉造 新堀村。
                      羽鳥周造 石井村(富士見村)
                      高橋米八 駒形駅
                      内田和一 鳥取村(前橋市)
                      相川佐重郎 静岡県田方郡三島町
                      渡辺清次郎 同     字芝
                      角田専兵衛 羽毛村
                      北爪清造 室沢村(宮城村)
                      根岸源次郎 埼玉県比企郡菅谷村
                      田島要吉 大胡。栄五郎の実兄。






国定忠治(1810−50)




  • 長岡家は国定村では、国定氏に次ぐ素封家であった。
  • 天保5年(1834)7月2日、忠治は島村の町田伊三郎(45)を殺す。
  • 忠治は身長5尺5分、体重23貫、髭が濃く、胸毛も伸び、眉は太く濃く、目玉はギョロッとして大きく、色の白い無口な男だった。
  • 忠治の信州行きのコースは室田→三ノ倉→権田→萩生峠→大戸→須賀尾→狩宿→六里ケ原→車坂→小諸。
  • 鹿沢温泉の角間峠を越え、角間山の中腹を通り北信地方に抜けた。角間山の古道に『三望ケ池』という所があり、その近くに自然の岩窟があり、忠治が一夜を明かしたと言われている。
  • 須坂寿泉院の忠治地蔵はもと野沢温泉にあった。
  • 勢多郡新里村新川の善昌寺の裏続きの二百メートルほどダラダラ坂を登った小丘陵の七、八合目辺りにある岩が突き出していて、その下がひさしのようになっている場所がある。
  • 勘助殺しで手配された者は下植木村の浅次郎、八寸村の七兵衛、堀口村の定吉(27)、保泉村の宇之吉、保泉村の久次郎、国定村の忠次郎、日光の円蔵、室村の茂八、室村の孫蔵、下田中村の沢五郎。この中の3人が9月25日、信州小諸に出る車峠で逮捕される。
  • 天保131119日以前に日光の円蔵は捕まる。
  • 大戸の寄場‥‥‥岩島村、坂上村、長野原村、六合村、草津町、嬬恋村が一つの組合だった。
  • 忠治の助命嘆願のため、菩提寺養寿寺の貞然法印を初め、国定村のため名主、15ケ村の人々130余名のほかに、越後、常陸、下野の者も助命運動をし、願書が百を越えた。
  • 忠治の処刑の役は穢多頭、浅草の矢野弾左衛門と非人頭、車善七。
  • 処刑場所は大戸宿が萩生に戻る字広瀬という所の刑場。刑場跡に忠治の胴体は埋められ、首はその傍らに三日間さらし首にされた。お徳が手を回して、その首を盗み出し、ひそかに伊勢崎在に隠し、さらに国定村養寿寺の住職貞然に託して隠した。
  • 当時、多野郡吉井町の馬庭念流の樋口家、月夜野町後閑の櫛渕道場、佐波郡赤堀村の本間道場らがあった。
  • 当時、前橋から江戸までを三日路とよんで、二泊三日かけた。
  • 忠治の本妻、お鶴180876)は佐波郡今井村(赤堀村)の旧家桐生家に生まれる。桐生家と長岡家は昔から血縁関係であった。忠治の死後、栃木県烏山の山伏である右京と夫婦になり、磐城の平で明治9年1121日に死す。
  • 忠治の妾、お町181070.7.20)は田部井村尾内市太夫の娘だったが、6歳の時、母と死別し、同族尾内小弥太の養女となり、16歳の時に伊与久村の深町某のもとに嫁いだが、二年くらいで別れ、忠治に見初められて妾となる。1836年、忠治の実家に入籍する、忠治の死後、新田郡田中村の田中秀之進の妾になる。お町の兄は庄八(180763.10.15)。
  • 忠治の妾、お徳1816−)は勢多郡朝倉村(前橋市)の旧家に生まれ、武芸などもできたが、一家が落ちぶれ玉村宿の女郎屋に身を売った。二年後、五目牛村(赤堀村)の農民千代松に請け出されて後妻になったが、5、6年で夫が死亡し、忠治の妾となる。忠治はやもめ暮らしのお徳の家に通い詰めた。お徳の家の裏は広い梨畑があり、抜け穴があった。気性の烈しい凄みのきく女。
  • 茅場の長兵衛(−1836)忠治の弟分。草津在住。信州中野の博徒原七に殺される。
  • 神崎の友五郎(−1837)下総国出身。道案内の茂七を殺した時、懐中の物に手を付け杯を返される。
  • 八寸村の才市(−1839)鉄砲の名人。天保10年さらし首。
  • 三ツ木の文蔵(180940.6.29処刑)世良田村大字三ツ木出身。俗称大見山文蔵。手裏剣の名人。妹の名はやす。天保8年3月28日、世良田の朝日屋(世良田の祇園で有名な八坂神社の参道入り口の西角にあった)の賭場で襲われ、逃げるが捕まる。
  • 山王道の民五郎(−1841)酒癖が悪く、時々、忠治の意に背いたが信頼され、留守を取り仕切っていた。玉村の主馬になぶり殺しにされる。
  • 板割の浅次郎(−1842)下植木村。足が速く、槍術を得意とした。天保13年さらし首。
  • 日光の円蔵(180243)下野板橋生まれ、軍師と呼ばれる。天保13年牢死。
  • 新川の秀吉(−1843)赤城大手配の初期に捕まり放免となり、一家に戻る。天保14年再逮捕の末、牢死。
  • 境川の安五郎 勢多郡水沼村(黒保根村)出身の力士くずれ。一時、江戸角力に加わり二段目位まで行ったが地方巡業の時は大関格ではばを利かしていた。忠治の跡目を継ぐ。
  • 下中の清蔵 忠治逮捕後、安五郎と共に行方不明になる。文蔵の妹やすの夫。
  • 国定村清五郎 忠治の弟分。忠治が倒れた時は足を洗っていたが、忠治を助け遠島になる。
  • 甲斐の新十郎 謎の人物。
  • 五目牛の千代松(−1846)お徳の夫。五目牛に大きな屋敷を持つ。
  • 日真 孫子を講じる書生。
  • 桐生町屋のお辰 
  • 島村の伊三郎(17901834.7.2)本姓は町田氏。武蔵国牧西の兵助と兄弟分になり、伊三郎が弟分。縄張りは島村一円から世良田村、木崎宿におよぶ区域。一人娘の名はいち、一族から幸吉を婿に迎える。
  • 玉村宿の京蔵、主馬(−1842)兄弟 
  • 三室の勘助(180042.9.8)本姓中島。浅次郎の伯父。




  • 江戸屋虎五郎(18141896)三河国生まれの相撲取り、シコ名は獅子ケ嶽。三河で相撲の相手を投げ殺し、館林荒宿(下町)の香具屋弥七に匿われる。館林町連雀町の親分江戸屋の岡安兵右衛門(17951856)に見込まれ、娘ちかの婿となり、江戸屋の跡を継ぐ。大前田栄五郎の筆頭幹部。
  • 観音丹次(1774−)
  • 高瀬仙右衛門(17881860)邑楽郡大高島村。
  • 須田門吉(−1863.8.3)赤城村樽。栄五郎の子分。
  • 新井利右衛門(18331917)赤城村溝呂木。門吉と兄弟分。25歳で堅気になる。
  • 関口文之助(17901863)前橋。白銀屋。
  • 黒岩寅五郎(17931873)嬬恋村大笹。田代一家。
  • 村上嘉四郎(18141900)吾妻郡東村五町田。大前田栄五郎の幹部。伊香保から五町田を経て沢渡、草津への街道を基盤とした親分。吾妻東部から北群馬郡にかけて300人からの子分を持っていた。二足の草鞋。
  • 中島栄作(182181.3.18)北群馬郡吉岡村大久保。大久保一家。大前田栄五郎、国定忠治と兄弟分。妻ははる(18191900.1.1




  • 大前田四天王‥‥‥新井梅吉(異名梅の神、前橋市東善、1839−)、須田門吉(赤城村樽、−1863)、村上嘉四郎(五町田、18141900)、
  • 大前田10人衆‥‥‥関口頼之、鈴木辰五郎、
  • 大前田一家の伍長‥‥‥吉田藤太郎、村山玉五郎、
  • 月田の栄次郎(1793−)‥‥‥大前田久五郎の子分。栄五郎の兄弟分。
  • 吉田藤太郎(1849−)‥‥‥異名は乱国、興行師。大前田10人衆の一人関口頼之の子分で大前田一家の伍長。前橋市岩神。
  • 広田久米吉(1864−)‥‥‥異名は八百栄、乱国の子分、古物商。前橋市向町生、後榎町住。神梅丹次と肝胆照らす仲。
  • 横室桂太郎(1864−)‥‥‥異名は馬鹿桂、乱国の子分。勢多郡上川渕村生、後前橋市立川町住。
  • 梅沢幸五郎(1858−)‥‥‥乱国の子分。勢多郡上川渕村後閑。
  • 定方茂平太(1853−)‥‥‥乱国の子分。前橋市立川町住。
  • 石原儀兵衛(1843−)‥‥‥栄五郎の子分。大胡町住。
  • 茗荷松源蔵(−1842)‥‥‥川田一家の親分。力士崩れ。国定忠治も源蔵の家に泊まった事がある。
  • 村上嘉四郎(18141900)‥‥‥五町田一家の親分。伊香保──五町田──中之条──沢渡──草津の温泉道に発達した。三百人の子分を持つ。
 ・松村定吉(  −)‥‥‥嘉四郎の四天王、祖母島村。
 ・町田権次郎(1858−)‥‥‥嘉四郎の子分、尻高村。
 ・西山昇(1860−)‥‥‥嘉四郎の子分、岩下村。
 ・高平喜作(1855−)‥‥‥嘉四郎の子分、中之条町。
 ・内田長三郎(1855−)‥‥‥嘉四郎の子分、草津町草津。
 ・小林鎌足(1865−)‥‥‥嘉四郎の子分、横尾村。
 ・角田徳太郎(1877−)‥‥‥嘉四郎の子分、植栗村。
 ・篠原秋蔵(1875−)‥‥‥嘉四郎の子分、西中之条。
  • 田中代八(−1784)‥‥‥大久保一家の初代親分。駒寄村大久保。
  • 中島栄作(182081)‥‥‥大久保一家の親分。吉岡村から渋川市一帯に縄張りを持つ。大前田栄五郎の弟分。国定忠治とも交渉あり、忠治が赤城山に籠もった時、炊き出しをした。
 ・外山和五郎(  )‥‥‥栄作の跡目を継ぐ。
 ・善養寺重次郎(1823−)‥‥‥和五郎の弟分。榛東村長岡。
  • 江戸屋虎五郎(181496)‥‥‥館林市。大前田一家の四天王。香具師の親分。
 ・堀越喜三郎(1844−)‥‥‥江戸屋虎五郎の跡目を継ぐ。表向きは旅人宿兼飲食店をやる。
  • 堤勘助(1847−)‥‥‥小林一家を継ぐ。佐波郡赤堀村。
  • 高瀬仙右衛門(17881860)‥‥‥邑楽郡大高島村の船問屋に生まれる。足を洗い、1821年、関東取締出役の相談役を引き受ける。
  • 神梅丹次(18641929)‥‥‥本名は神沢丹次郎。法神流の中沢貞Tより剣術を習う。
  • 新井利右衛門(18331917)‥‥‥門吉の兄弟分。24,5歳で足を洗う。
  • 白銀屋文之助(17901863)‥‥‥前橋市白銀町。
  • 黒岩虎五郎(17931873)‥‥‥嬬恋村大笹。田代一家。




  • 7代目加部安左衛門光重(16991787)‥‥‥酒造、麻の仲買、麻手、繭手の融通により財をなす。
  • 8代目加部安左衛門(17431814
  • 9代目加部安左衛門(    −  )
  • 10代目加部安左衛門兼重(  −1846)‥‥‥江戸に住んだ事もあり。
  • 11代目加部安左衛門(  −1862)‥‥‥忠治の処刑の時、酒を飲ませる。




  • 畔上つま‥‥‥忠治の処刑の3日後、野沢温泉に忠治地蔵を建てる。
  • 玉村の京蔵、主馬兄弟‥‥‥子分が二百名といわれた一家。忠治は山王の民五郎、八寸の才一、五目牛の秀吉の3人に殴り込みをさせる。




  • 飯塚臥龍斎興義(17801840)‥‥‥気楽流。緑野郡下大塚村(藤岡市)に生まれる。通称、徳三郎。
  • 児島善兵衛信将(17721836)‥‥‥気楽流。那波郡宮子村(伊勢崎市)に生まれる。金左衛門と称し、領主旗本跡部氏の宮子村陣屋代官職を務める。臥龍斎の新町道場に入門し気楽流の免許皆伝を得る。
  • 五十嵐金弥信好(17751850)‥‥‥気楽流。佐位郡茂呂村に生まれる。初め金弥と称し、のち弥右衛門と改める。児島善兵衛の門に学び、免許皆伝、道場を開き、門弟一千人という。晩年は伊勢崎藩主酒井伊賀守より領内取締役を命じられ、帯刀を許され、若干であるが禄を賜る。風流酒を愛し、五山と号して俳諧をよくした。
  • 斎藤武八郎在寛(17941881)‥‥‥気楽流。佐位郡伊与久村に生まれる。初め直心影流を村内の畑野見龍斎安之に学び、のち五十嵐金弥より気楽流を学ぶ。1830年、免許皆伝。邸内に道場を開き、多くの門弟が集まる。領主酒井下野守に認められ伊勢崎藩校の柔術指南役となる。
  • 加藤勝馬勇清(1810−)‥‥‥気楽流。佐位郡下淵名村(境町)に生まれる。初め勝之進と称し、のち勝馬と改める。五十嵐金弥に学ぶ。師の没後、斎藤武八郎に学び免許皆伝を得る。









群馬県史より





上野の諸藩



前橋藩 結城松平家(親藩)15万石。1842年、4代斉典の時、17万石になり明治維新となる。
丑・卯・巳・未・酉・亥年の4月に参勤し、翌年4月に帰国。
高崎藩

1717年、大河内松平家(譜代)7万余石。1771年、3代輝高の時、8万余石になり明治維新。
初代松平輝貞は老中格、3代輝高と5代輝延が老中、4代輝和が大坂城代、6代輝承が奏者番、9代輝聴が寺社奉行、10代輝声が陸軍奉行を務めた。
8万石の高崎藩の軍役は1727人、馬375頭。老中、寺社奉行は定府。

館林藩

1712年、越智松平家(親藩)5万余石。1769年、6万余石となる。
1836年、井上家(譜代)が6万石で入部し、1845年、秋元家(譜代)が6万石で入部、明治維新となる。
3代松平武元が老中、4代武寛が奏者番、5代斉厚が奏者番兼寺社奉行を務め、初代井上正春が老中、2代秋元礼朝が奏者番となる。
松平家は毎年8月に参勤し、翌年2月に帰国。

沼田藩

1742年、土岐家(譜代)3万余石。そのまま明治維新となる。
初代土岐頼稔が老中、3代定経が大坂城代、2代頼熈・8代頼潤・9代頼功・10代頼寧が奏者番、11代頼之が若年寄を務めた。
土岐家は毎年12月に参勤し、翌年8月に帰国。

安中藩

1749年、板倉家(譜代)2万石。1767年、3万石となり、明治維新となる。
初代板倉重形が寺社奉行、3代勝清が老中、4代勝暁・6代勝尚・7代勝明が奏者番を務めた。
板倉家は毎年8月に参勤し、翌年2月に帰国。

伊勢崎藩

1681年、酒井家(譜代)2万石。そのまま明治維新となる。
2代酒井忠告が奏者番、3代忠温・4代忠哲・7代忠恒・8代忠強が老中指揮下の大坂城番を務めた。
酒井家は毎年12月に参勤し、翌年8月に帰国。

小幡藩

1767年、松平家(譜代)2万石。そのまま明治維新となる。
初代松平忠恒・2代忠福・3代忠恵が若年寄、4代忠怒が奏者番兼寺社奉行となる。
松平家は子・寅・辰・午・申・戌年の6月に参勤し、翌年6月に帰国。

吉井藩

1709年、鷹司松平家(親藩)1万石。そのまま明治維新となる。
松平家は定府。

七日市藩

1616年、前田家(外様)1万石。そのまま明治維新となる。
11代の藩主ほとんどが、老中指揮下の駿府城番や大坂城番を務めた。
丑・卯・巳・未・酉・亥年の6月に参勤し、翌年6月に帰国。





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