1790年 | 島村の前島に船問屋佐七の長男に生まれる。本姓は町田。 | 1歳 | |
1806年 | 武州牧西村の兵馬親分の弟分になる。 | 17歳 | |
1810年 | 木崎宿の孝兵衛親分(28)の兄弟分になる。 | 21歳 | |
1813年 | 無宿者となり、島村一家を張る。縄張りは島村、平塚河岸。 | 24歳 | |
平塚河岸の助八(1790−1833.24)を子分にする。 | |||
島村の定吉(1790−.24)を子分にする。 | |||
島村の林蔵(1792−.22)を子分にする。 | |||
小島の彦六(1797−.17)を子分にする。 | |||
1814年 | 平塚の留五郎(1799−.16)を子分にする。 | 25歳 | |
1815年 | 田島喜右衛門の娘(1797−.19)を嫁に貰い、立作に住む。 | 26歳 | |
1816年 | 中島河岸の甚助(1792−1833,25)を子分にし、中島河岸を縄張り内に入れる。 | ||
1817年 | 7月12日 | 大前田栄五郎(25)、久宮の丈八親分を殺し、大前田一家勢力を広げる。 | 28歳 |
尾島の貞次(16)を子分にする。 | |||
1818年 | 木島村の孝兵衛親分の勧めで関東取締出役の道案内になる。 | 29歳 | |
1819年 | 武州牧西村の平野梅(1801−.19)を妾にする。 | 30歳 | |
世良田村の弥七(1793−1834,27)を子分にし、世良田村を張り内に組み込む。 | |||
1820年 | 百々村の紋次(1793−,28)、境宿を縄張りに一家を張る。 | 31歳 | |
中瀬の信三(1805−.16)を子分にする。 | |||
1822年 | 一人娘のいち、生まれる。 | 33歳 | |
1823年 | 武州中瀬河岸の藤十(1795−,29)を子分にし、中瀬河岸を縄張り内に入れる。 | 34歳 | |
浪人永井兵庫(1791−.33)、用心棒になる。 | |||
1824年 | 前島河岸の秀次(1796−,29)を子分にし、中瀬河岸を縄張り内に入れる。 | 35歳 | |
1825年 | 八斗島河岸を縄張り内に入れる。 | 36歳 | |
いち(4)を引き取り、妻(29)を離縁する。 | |||
1826年 | 国定村の忠次、無宿者を殺す。玉村の佐重郎より見逃すように頼まれる。 | 37歳 | |
境宿を縄張り内に入れようと企み、紋次に誘いを掛けるが紋次は断る。 | |||
1827年 | 10月 | 国定村の忠次、百々村の紋次の子分になる。 | 38歳 |
1829年 | 10月 | 柴宿の啓蔵(1797−.33)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。 | 40歳 |
1830年 | 5月 | 木島の助次郎(1791−1842.40)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。 | 41歳 |
武士の惣次郎(1796−.35)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。 | |||
6月 | 忠次、中瀬の賭場を荒らし、簀巻きにされる所を福田屋栄次郎に助けられる。 | ||
8月 | 百々村の紋次が病に倒れ、忠次が跡目を継ぐ。 | ||
1833年 | 3月 | 三ツ木の文蔵、境宿の桐屋で伊三郎に殴られる。 | 43歳 |
平塚の助八が中島の甚助に殺される。甚助も助八の子分に殺される。 | |||
1834年 | 6月 | 世良田の祇園祭りの賭場で三ツ木の文蔵、伊三郎と争い殴られる。 | 44歳 |
7月2日 | 世良田の長楽寺境内で日待ちの博奕が行われていた。その夜、境宿横町の島屋で酒を飲んだ後、世良田に行く途中、米岡村原山で忠次らに殺される。 | ||
原山は道の南に民家が2戸あり、道の北の窪地に水田あり、溝に清流流れ、小溝に添い山林あり、少しく高見なり。忠次郎らは伊三郎を挟み打ちにした。 | |||
・その夜、伊三郎は弁慶縞の帷子を着ていた。 | |||
1843年 | 娘いち(22)に幸吉(佐十郎)を婿に迎える。 | ||
1845年 | 11月15日 | 孫、丑松(佐十郎)生まれる。 | |