酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

井野酔雲






長篠の合戦







 天正三年(一五七五年)の草津の山開きが近い頃、武田四郎(勝頼)は父、信玄の遺志を継いで、上洛のための出陣命令を領国内に下した。

 去年、高天神城を落として武田軍の健在振りを天下に示したので、いよいよ、織田弾正(信長)を倒し、弾正に追い出された将軍足利義昭を京都に迎えなければならない。武田の家中は一丸となって、打倒織田に燃えていた。

 三郎は善太夫より留守を任された。京都まで行きたかったが、もし、善太夫が戦死した場合、跡を継ぐ者が残っていなければならないと言われ、返す言葉はなかった。

 従兄の左京進は武田軍が上洛した留守を狙ってやって来るに違いない上杉軍に備えて、前線の柏原城を守っていた。草津の町奉行を勤めていた弥五右衛門は目付役として出陣する事になり、左京進の弟、雅楽助が草津町奉行に任命された。今まで善太夫の馬廻衆として活躍していた雅楽助は戦場から離れたくないと善太夫に懇願した。

「今回の出陣は長引く事となろう。徳川を倒し、織田を倒し、京都まで行くとなると、いつ帰って来られるかわからん。その間、留守をしっかりと守ってもらわなくてはならんのじゃ。おぬしと左京進の兄弟には、これから先も三郎の両腕として、湯本家のために働いてもらわなくてはならない。今回は三郎を助けて留守を守ってくれ」

 善太夫にそう言われ、雅楽助はうなづいた。草津の町奉行に任命された雅楽助だったが、草津の事はほとんど知らなかった。三郎は雅楽助に草津の事を色々と教えなければならなかった。

 東光坊は去年の夏より、忍び集団を作るため、白根山中で若い者を鍛えていた。見込みのありそうな男六人、女四人を領内から選び、一年間の厳しい修行の後、残った男三人と女二人をお屋形に連れて来た。

 善太夫は縁側まで出て来て、鍛え抜かれた五人の若者たちを眺めながら、「ものになりそうか」と聞いた。

「何とか、死ぬ覚悟だけはできております」

 東光坊は後ろで控えている若者たちを振り返り、善太夫に紹介しようとしたが、

「一年足らずの修行では、まだ無理じゃろう」と善太夫は言った。

 確かにその通りだと東光坊も思っていた。

「もう一年、みっちりと仕込むつもりでございます。ただ、今回の大戦に連れて行けば何かの役に立つだろうと連れて参りました」

「今回は忍びは連れてはいかん」と善太夫は意外な事を言った。

「えっ」と東光坊は善太夫を見上げた。

「戦が大きすぎるんじゃ。敵も味方も多くの忍びが暗躍する事になろう。源太左衛門殿は当然、円覚坊殿が作った忍び集団を活躍させる。真田氏だけでなく、武田の武将たちが皆、一流の忍びを使うに違いない。わしが忍びを連れて行っても、返って邪魔になるだけじゃ。敵の間者と間違われ、殺されてしまうかもしれん。急ぐ事はない。立派な忍び集団を作ってくれ」

「かしこまりました」と東光坊は重々しくうなづき、若い者たちを雪山の中に帰した。

 出陣の前、お屋形の庭で三郎は善太夫と木剣で立ち合った。お互いに清眼(中段)に構え、相手の動きを見守った。善太夫と立ち合うのは初めてだった。自分の腕を見せてやろうと得意になっていたが、どうしても打ち込む事はできなかった。

 こんなはずはない。草津に帰って来てからも武術の稽古は怠りなくやって来た。師匠の東光坊を除いて、吾妻郡に自分より強い者がいるはずはないと思っていた。

 三郎は右足を後ろに引くと同時に木剣も後ろに引き、新陰流独自の(しゃ)の構え(下段の脇構え)となった。すると、善太夫も同じ構えに移った。その後、二人は動く事なく、時間だけが流れて行った。二人の間を桜の花びらがチラチラと舞っていた。

 三郎は父親の強さを改めて知った。若い頃、厳しい修行を積んだとは聞いていたが、これ程、強いとは思ってもいなかった。打ち合えば完全に自分が負けるだろう。まだまだ修行を積まなければと思った。

「よし、これまでじゃ」と善太夫は言うと、満足そうにうなづいて構えを解いた。

 三郎も構えを解くと頭を下げた。体中から汗が吹き出していた。

「さすがじゃな」と善太夫は嬉しそうな顔をして三郎を見た。

「三郎、新陰流の極意は何じゃな」

 突然の質問に三郎は戸惑った。顔の汗を拭い、しばらく、父親を見つめていたが、「平常心(びょうじょうしん)だと思います」と答えた。

「うむ。平常心も必要じゃ。しかし、新陰流の極意は『和』じゃよ。その事をよく肝に銘じておけ」

「『和』ですか」と三郎は首をかしげた。

 善太夫はうなづくと、「愛洲移香斎殿のお言葉じゃ」と言った。

「流祖様の‥‥‥」

「今はわからんかもしれんが、やがて、わかる日が必ず来る」

 善太夫は三郎に移香斎と上泉伊勢守の事を話して聞かせた。三郎は興味深そうに聞いていたが、新陰流の極意が『和』だという事は理解できなかった。人を殺すための武術の極意が『和』だなんて、どうしても理解できなかった。三郎は何度も『和』という言葉を噛み締めていた。

「留守をしっかり頼むぞ。京都に行くのは久し振りじゃ。お前の話を聞くと随分と変わったらしい。京土産をどっさり持って帰るからな、楽しみに待っていろ」

 善太夫は六十人の家臣を引き連れて真田へと向かった。三郎に戦の状況を知らせるため、戦に参加しないという条件で、東光坊の配下の忍びを五人連れて行った。

 吾妻郡から善太夫と共に真田に向かったのは鎌原城主の鎌原筑前守(かんばらちくぜんのかみ)、西窪城主の西窪治部少輔(さいくぼじぶしょうゆう)(がん)ケ沢城主の横谷左近(よこやさこん)、三島城主の浦野下野守、岩下城主の富沢但馬守、植栗城主の植栗河内守、岳山(たけやま)城主の池田佐渡守の嫡男、池田甚次郎たちだった。彼らは一徳斎の墓参りをした後、真田源太左衛門、兵部丞の兄弟に率いられて甲府へと向かった。

 箕輪城の内藤修理亮も瀬下豊後守に留守を任せて、甲府に向かっていた。

 草津の山開きを雅楽助と共に無事に済ませた三郎のもとに第一報が届いたのは、桜の花も散って、湯治客が賑わい始めた四月の半ばだった。武田家の菩提寺である恵林寺で戦勝祈願の法会(実は信玄の三回忌)を大々的に行ない、武田のお屋形様は一万五千余りの大軍を率いて徳川の本拠地、三河の国に向かったという。それから一月の間は何の音沙汰もなかった。留守を狙って上杉謙信が攻めて来る事もなく、前線の柏原城で何度か、小競り合いがあった程度で、吾妻郡は比較的、平和な時が流れた。

 山ツツジが咲き誇っている五月の半ば、東光坊の配下、円実坊が三河の国からやって来た。武田軍は徳川方の長篠城(鳳来町)を包囲して攻撃を始めたと言って、絵図を広げて見せた。長篠城は徳川三河守の本拠地、浜松城と以前の本拠地、岡崎城のほぼ中程にあり、この城を奪い取れば、徳川の領地は分断される事になった。

「敵兵はおよそ五百人。落城は目に見えております」と円実坊は余裕を持った表情で笑った。

「たった五百の兵が守る城を一万五千で攻めているのか」そう聞きながら、三郎は円実坊が描いた絵図をじっと見ていた。

 絵図には武田軍の配置も詳しく書き込まれてあった。大野川と寒狭(かんさ)川の合流地点に長篠城があり、武田のお屋形様のいる本陣は長篠城の北にある医王寺山にあった。本陣の前面に一条右衛門大夫、土屋右衛門尉らと共に真田源太左衛門の陣がある。湯本家の者たちもそこから長篠城を攻めているに違いなかった。さらに、その前方に馬場美濃守、小山田備中守、武田左馬助(さまのすけ)、内藤修理亮、小幡尾張守らが長篠城を囲んでいる。寒狭川を挟んで対岸に、原隼人佑(はやとのすけ)穴山玄審頭(あなやまげんばのかみ)、武田逍遙軒(しょうようけん)山県三郎兵衛(やまがたさぶろうひょうえ)らが陣を敷き、大野川の対岸の鳶ケ巣山に武田兵庫助の陣があった。

「三河の国を手に入れるためには、どうしても必要な城なのでございます。それに、三河守をおびき出すためでもあるのでございます」

「おびき出して倒すのだな」

 三郎は長篠城から視線を浜松城へと移し、どこで決戦が行なわれるのだろうかと考えた。

「三河守は三方ケ原で武田軍に痛い目に会い、武田軍を恐れております。三河守の本拠地を攻めても籠城されたら勝負になりません。三方ケ原の時のように野戦に持ち込まなければならないそうでございます」

 三郎は浜松城の北に書き込まれた三方ケ原という文字を見てから顔を上げた。

「三河守は出て来るのか」

「多分。長篠城を助けに来ないで見捨ててしまえば、三河守は信用を失います。徳川に付いた者たちは皆、武田に寝返ってしまうでしょう」

「成程、そういう事になるのか‥‥‥」

 三郎は再び、絵図を眺めた。長篠城が落ちれば、東三河が武田領となるのは確実で、武田領の駿河と東三河に挟まれた遠江の者たちも武田に寝返るに違いなかった。

「今頃、徳川との決戦が始まっているかもしれません」と円実坊は言った。

 三郎は庭の方を眺めた。今にも雨が降りそうな空模様だった。三河の方では雨が降っているかもしれない。雨の中、湯本家の者たちが必死になって戦っている様子を思い描きながら、三郎は武田軍の必勝を祈った。

「三河守を倒したら、尾張に進攻して織田弾正と戦うのだな」

「三河守がいなくなれば、織田弾正の命もそう長い事はないでしょう。京の都に武田の旗がなびくのも以外に早いかもしれません」

 円実坊は温泉に入って汗を流すと次の吉報を知らせるために三河に戻って行った。

 草津は静かだった。例年、梅雨時は湯治客は少なく、武田の負傷兵がいるだけだったが、今年は負傷兵もいなかった。武田のお屋形様が大軍を率いて出陣しているため、たとえ、負傷していても留守を守るように命じられたのかもしれなかった。

 三郎は雅楽助と町内を見回った後、お屋形に戻る雅楽助と別れ、善太夫の宿屋の前に立って、小雨に煙る湯池をぼんやりと眺めていた。

 今頃はもう徳川軍を倒し、尾張に向かっているのだろうか。それとも、徳川三河守は織田弾正に援軍を頼み、五年前の近江姉川の合戦の時のように一緒になって武田軍と戦っているのだろうか。

 三郎はふと、織田弾正が鉄砲を手に入れるために堺港を手に入れたと言った小野屋の女将の言葉を思い出した。姉川の合戦の時、弾正は一千挺余りの鉄砲を持っていたと噂されていた。あれから五年が経ち、どれ程の鉄砲を手に入れたのだろうか。一千五百挺、あるいは二千挺、どっちにしても武田軍より多くの鉄砲を持っているのに違いなかった。城を守るには数多くの鉄砲があれば有利だが、野戦においては鉄砲よりは騎馬の方が有利だった。鉄砲の撃ち合いは敵と味方がぶつかり会う前に行なわれるだけで、敵と味方が入り乱れてしまえば鉄砲の出番はなかった。ただ、織田弾正という武将は何をやるかわからないという不気味さが恐ろしかった。

「なに、ぼんやりしてるの。濡れるわよ」と声を掛けられ、振り返ると菅笠を被った小野屋の女将が笑っていた。

「どうしたんです」と三郎は目を丸くして、女将を眺めた。

 去年、真田で別れてから一年が経っていた。そういえば、明日は一徳斎の一周忌だった。正式に公表していないので法事も行なわれないようだが、女将は真田に行くつもりなのだろう。

「あなた、お嫁さんを貰うんですってね。お祝いを言いに来たのよ」

 女将の格好は旅支度ではなかった。雨に濡れたので、伊勢屋で着替えたらしい。

「そのために、わざわざ、小田原から来てくれたのですか」

「そうよ。あなたには色々と辛い思いをさせちゃったからね。幸せになって貰いたいのよ」

「ありがとうございます。まあ、どうぞ、中にお入り下さい」

 三郎が女将を部屋に案内すると、若い娘がお茶を持って入って来た。

「あら、もしかしたら妹さんじゃないの」と女将は三郎の妹、おしのを知っていた。

「祖母を手伝っているんですよ」

「お母さんにそっくりになって来たわねえ」

 おしのは恥ずかしそうに頭を下げると下がって行った。

「いくつになったの」と女将は、おしのの後ろ姿を見送りながら三郎に聞いた。

「十七です」

「あら、もう十七になったの。この前、会ったのはいつだったかしら。まだ十歳位の可愛い女の子だった。ほんと、月日の経つのは速いわねえ。いやになっちゃうわ。そろそろ、お嫁に行く頃じゃないの」

「そうなんです。父上が戻って来たら西窪殿の所へ嫁ぐ事になっているんです」

「そうだったの。西窪様というと蔵千代様かしら」

「はい。今は家督を継いで、治部少輔と名乗っています」

「そうだったわね。治部少輔様なら丁度いいかもしれないわね」

 女将は静かにお茶を飲むと庭の紫陽花を眺めた。軒先をかすめてツバメが飛んで行った。

「お母様もこちらにいらっしゃるの」ふと思い出したかのように女将は聞いた。

「いえ、母は小雨村の方に」

「あら、そう。久し振りに会いに行こうかしら」

「会ってやって下さい。母も喜びます」

「そうね‥‥‥話は変わるけど、あなたの婚礼のお祝いに鉄砲を持って来たわ」

「えっ、鉄砲ですか」

「そう。色々と考えたんだけど、鉄砲が一番いいんじゃないかと思って。武田のお屋形様も鉄砲を集めているけど、湯本家まで回っては来ないでしょうからね」

 確かに女将の言う通りだった。この吾妻の地にいて鉄砲を手に入れるのは容易な事ではない。時々、岩櫃城に上方から来た商人と称して鉄砲を売りに来る者がいるが、戦場から盗み取ったろくでもない代物(しろもの)を高く売っていた。銃身に玉薬(火薬)のカスが詰まっていて役に立たない鉄砲でも、持っていれば箔が付くといって引っ張り凧だった。情けないが、それが実情だった。

「ありがとうございます。何よりの贈り物です。喜んで頂戴いたします。でも、女将さんにはほんとお世話になりっぱなしで、何のお返しをしたらいいのか」

「そんな事、気にしなくていいのよ。白根の硫黄が充分に役に立ってるんだから。伊勢屋に置いてあるの。後で運ばせるわ」

「ありがとうございます」と三郎は丁寧に頭を下げた。

「会っては来なかったけど、善太夫様は岩櫃の方にいらっしゃるの」

「いいえ。父上は三河に出陣しました」

「えっ、善太夫様も行ったの」女将はまさか、と言ったような顔をして三郎を見た。

「ご存じなかったのですか」

「知らなかったわ。前回、信玄様が出陣なさった時は、善太夫様を初めとして吾妻の武将たちは出陣しなかったでしょ。今回も留守を守っていると思ってたわ」

「今回は真田のお屋形様に率いられて、吾妻衆も出陣したんです」

「そうだったの‥‥‥」

「今頃、徳川勢と戦っているかもしれません」

「そうね」と言ったまま、女将は呆然として急に黙り込んでしまった。

「どうかしたのですか」と三郎が聞くと、

「あら、御免なさい」と笑ったが、何かをじっと考えているようだった。

「岐阜の織田様は出て来るのかしら」と女将は独り言のように呟いた。

「出て来ないんじゃないですか」と三郎は言った。「去年の高天神城の時も間に合わなかったし、その前の三方ケ原の時も出て来なかったでしょう。織田弾正殿は武田軍を恐れているようです。今回も出ては来ないと思いますけど」

「でもね、今の織田様は以前とは違うわ。信玄様が上洛しようとした時、織田様の回りは敵だらけで、簡単に動く事はできなかった。信玄様がお亡くなりになってから、織田様は越前の朝倉、近江の浅井を滅ぼして、将軍様も追放してしまったわ。伊勢長島の一向一揆も皆殺しにしてしまったし、織田様は確実に回りの敵を倒してしまったのよ。今回は徳川様を助けるために出陣して来るに違いないわ」

 三郎も噂で、織田弾正が敵対していた朝倉と浅井を倒した事は聞いていた。でも、草津にいると織田弾正の事は遠い国の出来事で、関東には縁のない事だと思って、それ程、気に掛けてはいなかった。女将の話によると織田弾正は確実に勢力を伸ばしているようだ。これからは充分に気をつけて織田弾正の動きを見守らなくてはならないと思った。

「すると、武田軍は徳川と織田の連合軍を相手に戦う事になるんですね」

 女将は両手に持った茶碗の中のお茶を見つめたまま返事をしなかった。三郎は少し不安になって、「勝てるでしょうか」と聞いてみた。

 女将は顔を上げると茶碗を茶台に戻して、三郎を見た。

「野戦に持ち込めば、武田軍の方が有利でしょう。織田様が武田の騎馬隊を恐れているのは事実よ。でも、織田様には数多くの鉄砲があるわ。武田四郎様が無理に攻撃を仕掛けなければいいんだけど」

「織田弾正はどの位の鉄砲を持っているのですか」

「確かな事はわからないけど、三千挺は持ってるでしょうね」

 三千挺と言えば、今の吾妻郡の兵力二千と真田の兵力一千、すべての兵が鉄砲を持っているという事になる。よくもそれだけの鉄砲を集められたものだと驚きを越えて、ただ感心するしかなかった。

「武田はどの位なのです」

「一千挺あるかどうかって所でしょう」

「三倍か‥‥‥」

「問題は数じゃないのよ。鉄砲をどう使いこなすかなの。織田様は今までの武将と違って、独創的な事をするのが好きだから何をしでかすかわからないわ。善太夫様、大丈夫かしら」

「父上は大丈夫ですよ」と三郎は言ったが、一瞬、不安がよぎった。

「そうね、心配のし過ぎね」と女将は笑った。

「そうですよ」と三郎は力強く言って、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 女将は、ちょっと用があるから、それを片付けてからまた来ると言って、雨の中、出て行った。

 女将が出て行ってからすぐ、伊勢屋から鉄砲が届けられた。鉄砲の事にそれほど詳しくない三郎にも、それが最新式の鉄砲だとすぐにわかった。こんな高価な物を十挺も贈られ、改めて、お礼を言うために伊勢屋に行くと、女将の姿はすでになかった。急用ができたと言って、慌てて草津を後にしたという。三郎は何があったのだろうと首を傾げながら、心の中で感謝をした。

 草津の事を雅楽助に任せ、長野原の山中で、女将から貰った鉄砲の稽古をしていた三郎のもとに戦場からの報告が届いたのは二十一日の昼過ぎだった。

 長篠から草津まで、およそ七十五里(約三百キロ)の距離を走り通して来た浄楽坊は、三郎の前にひざまずいた。今は雨がやんでいるが、昨夜から今朝にかけて土砂降りだった。その中を休まず走って来たとみえて、柿染めの衣は乾いた泥にまみれていた。

「去る十八日の夕刻、いよいよ徳川と織田の軍勢が長篠城の西、設楽ケ原に現れました」

「なに、織田弾正が現れたのか‥‥‥」

 やはり、女将の言った通り、織田弾正はやって来た。織田と徳川の連合軍を相手に戦うとなれば、厳しい戦になりそうだった。

「それで、敵の兵力は?」

「まだ詳しくはわかりませんが、徳川が五千、織田が一万。ほぼ武田軍と同数の模様でございます」

「互角か‥‥‥織田の鉄砲の数は?」

「まだ、そこまでは」

「織田と徳川の後詰が来たのは十八日と言ったな」

「はい、さようでございます」

「三日前か‥‥‥すでに戦は始まったな、いや、もう終わったかもしれん」

「はい、今頃は織田と徳川を蹴散らして、三河から尾張に向かっているかもしれません」

「うむ、御苦労だった。草津に行って、ゆっくり湯に浸かって、疲れを取ってくれ」

「はっ」と頭を下げると浄楽坊は去って行った。その姿は湯に浸かるどころか、休みもせずに、真っすぐ長篠に向かうようだった。

 次の日、雨の降る中、玉川坊がやって来た。城下にある自宅で着替えて来たとみえて、着物は濡れてはいなかったが、髷を結っていない長い髪はびっしょりだった。

「十八日に長篠城の後詰に来た織田徳川の連合軍は陣地を固めるのに必死で、一向に攻めて来る気配がございません。やはり、織田弾正は武田軍を恐れているものとみえます。十九日、武田のお屋形様は軍議を開き、今後の事を決める模様でございます」

「敵は攻めて来ないで陣地を固めているのか‥‥‥確かに、女将が言ったように、織田弾正は何をするかわからんな」

「はあ」と玉川坊はポカンとした顔をした。

「いや、こっちの事だ。陣地を固めるとはどういう事だ。堀でも掘っているのか」

「はい。堀を掘って土塁を固め、柵を立てて、まるで城でも築いているような有り様でございます」

「何だと、という事は敵は攻める意志はなく、こちらが攻めるのを待っているというのか」

「はい、そのようでございます。野戦では勝ち目がないとみて、陣地を固めているのでございます」

「鉄砲を構えて待っているのだな」

「そのようでございます」

「軍議の結果はどうなった」

 玉川坊は首を振った。「結果が出る前にこちらに向かいましたので」

「そうか」

 玉川坊が帰った後、三郎は円実坊が描いた絵図を眺めた。設楽ケ原は長篠城の南側にあり、東には寒狭川と大野川が合流した豊川が流れていた。織田と徳川の連合軍はそこに陣地を築いているという。堀を掘り、土塁を築いて守りを固め、一万五千の兵が籠もっているとなれば、これはもう城と同じだった。しかも、三千挺の鉄砲がある。攻め落とすのは容易な事ではなかった。

 翌日の昼前、双寿坊がやって来た。久し振りにお天道(てんとう)様が顔を出し、いい天気だった。きっと、いい知らせだろうと三郎は機嫌よく、双寿坊と会った。

「十九日の軍議では結論が出ず、二十日の軍議で決戦と決まりました。敵の陣地は半里(約二キロ)にも及ぶ長いものでございます。兵力は分散し、突破できない事はないでしょう。一ケ所を破り、後方に回る事ができれば、敵は総崩れとなりましょう」

「決戦は二十日だったのか」

「いえ、二十日の昼過ぎより雨が降って参りましたので、決戦は翌日に決まりました」

「二十一日か。二日前だな‥‥‥」

「さようでございます」

「父上は前線にいるのか」

「はい。真田のお屋形様に率いられ、およそ十町(一キロ)程の距離をおいて織田軍と対峙しております」

「そうか‥‥‥」

 敵の陣地が半里にも及ぶものと聞いて、三郎は武田軍の勝利を確信した。しかし、信長が持っている三千挺の鉄砲の事が気に掛かっていた。

 直ちに戻り、一刻も早く吉報をお届けいたしますと言って、双寿坊は帰って行った。

 その日の日暮れ近くだった。三郎が長野原のお屋形の奥の一室で幻庵の一節切を吹いていると急に屋形内が騒がしくなった。馬のいななきが聞こえ、遠侍(とおざむらい)に詰めていた弟の小四郎が血相を変えて駈け込んで来た。

「兄上、大変でございます」

 何事だと行ってみると、所々に乾いた血がこびり付いている破れた柿染め衣を来た仙遊坊がひざまずいて待っていた。側には今にも倒れそうな、汗びっしょりの馬が苦しそうにいななき、手綱を押さえていたのは双寿坊だった。双寿坊は昼間見た通りの姿だったが顔色は悪く、仙遊坊の姿はただ事ではなかった。留守を守っている者たちが集まって来て、心配顔で見守っていた。

 ここで聞くべきではないと判断した三郎は二人を奥の部屋に通し、共に留守を守っていた家老の湯本弥左衛門を呼んだ。弥左衛門は仙遊坊の姿を見て、すべてを悟ったかのように顔を歪め、三郎を見て首を振った。

 三郎は二人が話し出すのを待った。二人とも頭を下げたまま、じっと黙り込んでいた。

「どうしたのだ。負け戦になったのか」三郎は我慢しきれずに問い詰めた。

 仙遊坊は顔を上げると泣きべそをかいたような顔をしてうなづいた。

「お屋形様が、お屋形様が戦死なさいました」

「何だと、まさか‥‥‥父上が戦死‥‥‥そんな馬鹿な‥‥‥」

 三郎には信じられなかった。たとえ、負け戦になったとしても、あの善太夫が戦死してしまうなんて、一瞬たりとも考えた事はなかった。

「申し訳ございません。わしらが付いていながら、お屋形様を助けられなくて」

 仙遊坊と双寿坊は泣きながらひれ伏した。

 弥左衛門は気が抜けたような顔をして、泣いている二人を眺めていた。

「どうしたんだ。何があったんだ。どのようにやられたんだ。織田弾正の鉄砲にやられたのか」三郎は両拳をグッと握り締めながら、ひれ伏している二人を問い詰めた。

「さようでございます」と仙遊坊が顔を上げ、涙を拭きながら答えた。

「敵の鉄砲にやられ、味方は総崩れとなり、戦場はもう、死体だらけの無残な有り様でございました。武田の名だたる武将の方々も何人も戦死された模様でございます‥‥‥お屋形様の命令で、わしらは戦には参加できませんでした。敵の間者に間違われて捕まる事も考えられますので、戦場に近づく事さえできなかったのでございます。二十一日の早朝より戦は始まりました。長篠城への総攻撃を合図に、武田軍の総攻撃が始まりました。敵味方の鉄砲の音が響き渡り、それはもう、雷がまとめて落ちて来たかと思う程の物凄い音でございました。味方は敵の鉄砲を食い止めながらも出撃を繰り返し、敵が築いた土塁や堀を攻略して行きました。あともう少しで、敵の後方に抜けられると思った時、敵の猛反撃にやられ、味方は総崩れとなりました。一旦、崩れた陣を立て直す事もできず、次から次へと現れる敵兵に味方は討ち取られたのでございます。(ひつじ)の刻(午後二時)頃には設楽ケ原での戦は終わり、敵は退却する武田軍の追撃に移りました。配下の者たちを順番にこちらの方に向かわせましたので、その日、向こうにいたのはわしと円実坊の二人だけでございました。とにかく、お屋形様の安否を確認しなければ帰れないと、わしらは山から出て戦場に向かいました。そこはまるで地獄のように悲惨な有り様でございました。驚く程の数の血だらけの死体が転がっておりました。わしらは真田勢が戦っていた辺りに行き、湯本家の者たちを捜しました。何人か見つけましたが、お屋形様の姿は見つかりません。首を取られてしまったのかと首のない遺体も捜しましたが見つかりません。無事に退却した事を祈りながら、無残に切られた湯本家の指物(旗)を持って引き上げようとした時、宮崎陣介殿に声を掛けられました」

「おお、陣介は無事じゃったか」と黙って聞いていた弥左衛門が呻くように言った。

「はい、御無事でございました。陣介殿からお屋形様がお亡くなりになった事を聞きました。そして、湯本家の生存者がいないか、もう一度、確かめてから、お屋形様のもとに行ったのでございます。お屋形様は空き家となった農家におりました。驚いた事に、小野屋の女将さんがお屋形様を見守っておられました」

「何だと、女将さんがいたというのか」と今度は三郎が驚いて聞いた。

「はい。草津で若様とお会いになって、不吉の予感がして飛んで来たとの事でした」

「そうか‥‥‥」

 女将が草津に来たのは十八日の昼近くだった。それが、たった三日後の午後には長篠にいるとは信じられなかった。

「お屋形様のお側におられたのは女将さんと浦野佐左衛門(すけざえもん)殿だけでございました。お屋形様の死に呆然としておりますと、早く、若様にお知らせしろと女将さんに言われ、夢中になって飛んで参ったのでございます」

 三郎は傷の手当をしろと言って二人を下がらせた。二人と入れ替わるように、東光坊が現れた。

「師匠、父上が戦死なされた」と三郎は言った。声がかすれていた。東光坊の顔を見た途端に、目が潤んで来た。三郎は俯き、目頭をこすった。

「話はすべて聞いた」と言って、東光坊は部屋の隅に腰を下ろした。

「負け戦になるとは‥‥‥父上がお亡くなりになるとは‥‥‥まったく、信じられん」三郎は独り言のように呟いていた。

「若様」と弥左衛門が涙に潤んだ顔を上げて、三郎を見つめた。

「若様がお屋形様を継がなければなりません」

「俺がお屋形様に‥‥‥そんなの早すぎる。俺にはそんな自信はない」

「大丈夫じゃ。お前なら立派に勤まる」と東光坊は三郎をじっと見つめて、うなづいた。

 三郎は首を振りながら、「できない。そんなの無理だ。無理に決まっている」と無意識に言っていた。

「若様」と弥左衛門がもう一度、力強く呼んだ。

 三郎は弥左衛門を見た。そして、東光坊を見た。二人とも、しっかりしてくれと言うように三郎を見ていた。

「すみません。ちょっと独りにして下さい」と三郎は二人に言った。

「家中の者たちに知らせなくてはならん。広間に皆の者を集めるから、若様も気を落ち着けたら出て来て下され」弥左衛門はそう言うと目頭を押さえ、東光坊を連れて部屋から出て行った。

 しばらくして、三郎の部屋から一節切の調べが聞こえて来た。広間に集まった家臣たちは三郎の吹く一節切を聞きながら胸がジーンとなり、すすり泣きを始めた。

 それから六日後の五月二十九日、小雨の降る中、小野屋の女将と共に塩漬けにされた善太夫の遺骸が草津に帰還した。







 善太夫と戦死した者たちの葬儀も無事に終わった。

 三郎は善太夫の跡を継いで湯本家のお屋形様となり、湯本三郎右衛門(幸綱)を名乗った。三郎右衛門という名は、箕輪攻めで戦死した実の父親の名で、元服した時から名乗っていたが、三郎右衛門と呼ばれる事はなく、ただの三郎で通っていた。お屋形様となり、改めて、三郎右衛門という名を肝に銘じ、二人の父親のためにも、湯本家を守って行かなければならないと決心を新たにした。

 長篠の合戦の湯本家の被害は想像以上のものだった。出陣した六十人のうち、無事に故郷に戻った者はたったの十三人しかいなかった。家老だった湯本五郎左衛門、草津の町奉行だった湯本弥五右衛門、旗奉行の湯本新九郎、鉄砲奉行の山本小三郎、弓奉行の山本与左衛門、槍奉行の富沢孫次郎と坂上(さかうえ)武右衛門、小荷駄奉行の本多儀右衛門、馬廻(うままわり)衆の湯本助右衛門、黒岩忠右衛門、宮崎彦八郎、小林長四郎など主立った家臣が皆、戦死してしまった。湯本助右衛門は三郎右衛門の叔父で生須(なます)湯本家を継いでいた。

 鉄砲隊の中には、以前、共に鉄砲の稽古をした黒岩忠三郎もいた。鉄砲奉行になるんだと暇さえあれば稽古を積んでいたのに異国の地で戦死してしまった。幸い、鉄砲は小野屋の女将の手下によって回収され、無事に戻って来ていた。

 使番を勤めていた関作五郎、馬廻衆の湯本孫六郎と山本与次郎、弓隊にいた小林又七郎、槍隊にいた富沢孫太郎と中沢久次郎、小荷駄隊にいた市川藤八郎は一緒に白根明神で武術の修行を積んだ仲間だった。彼らも皆、死んでしまった。

 なんで、奴らが戦死しなければならないんだ。まだ、二十二、三の若さなのに、どうして死ななければならないんだ‥‥‥何のために奴らは死んで行ったんだ‥‥‥

 ふと、出陣する前、善太夫が言った言葉が脳裏によみがえった。

「新陰流の極意は『和』じゃ」

 人を殺すための武術の極意がどうして『和』なのか、よくわからなかった。

 流祖、愛洲移香斎はいつの日か、戦のない平和な世の中が来る事を願っていたのだろうか。移香斎の弟子だった北条幻庵は移香斎の弟子が各地にいて活躍していたと言っていた。移香斎は各地にいる弟子たちを使って、平和な世の中を作ろうとしていたのだろうか。

 京都で道場を開いている上泉伊勢守も移香斎の意志を継いで、『和』のために新陰流を教え広めているのだろうか。伊勢守の弟子には、敵である織田弾正の家臣たちもいる。共に修行を積んだ堀久太郎も長篠の合戦に参加したのだろうか。これから先、久太郎と敵味方に分かれて戦う事になるのだろうか。共に新陰流を学んだ者同士が戦ったら伊勢守は悲しむに違いない。

「新陰流の極意は『和』じゃ」と言った善太夫の最期の言葉を噛み締め、三郎右衛門は様々な思いを巡らせていた。

 東光坊が各地に放った忍びの活躍によって、詳しい状況が知らされると、驚きと共に悲しみは増えるばかりだった。なんと、吾妻衆を率いて行った真田のお屋形様、源太左衛門が戦死していた。弟の兵部丞も戦死し、矢沢薩摩守の三男、源三郎も戦死していた。そして、東光坊の父親で真田の忍び集団を作っていた円覚坊も壮絶な戦死を遂げていた。

 吾妻勢では鎌原城主の鎌原筑前守、三島城主の浦野下野守、岳山城の池田甚三郎、甚四郎の兄弟、沢渡の富沢治部少輔、岩下城主の富沢但馬守の長男、勘十郎らが戦死し、雁ケ沢城主の横谷左近、植栗城主の植栗河内守が重傷を負っていた。そして、彼らが率いて行った兵たちの半数以上が故郷に戻っては来なかった。

 さらに、武田軍においては勇名を馳せた名だたる武将が数多く戦死していた。お屋形様の叔父、武田兵庫助、信濃牧之島城主の馬場美濃守、上野箕輪城主の内藤修理亮、駿河江尻城主の山県三郎兵衛、陣場奉行の原隼人佑、侍大将の土屋右衛門尉、同じく甘利郷左衛門、足軽大将の横田十郎兵衛、同じく三枝勘解由左衛門と錚々たる顔触れが亡くなっていた。今後、武田家が立ち直るのは容易な事ではないだろうと誰もが思った。

 お屋形様となった三郎右衛門は善太夫や亡くなった者たちの死を悲しむ暇もなかった。湯本家を再編成しなければならず、また、負傷して草津に押し寄せて来た武田家の武将たちの世話もしなければならなかった。改めて、従兄の雅楽助を草津の町奉行に任命し、草津の事は任せていたが、休む間もない程に忙しかった。

 梅雨もようやく上がった六月の半ば、武藤喜兵衛が草津に来たとの知らせが長野原に届き、三郎右衛門は直ちに草津に向かった。喜兵衛は風呂上がりのさっぱりした格好で待っていた。一緒に喜兵衛の叔父である矢沢薩摩守がいた。

 お互いにお悔やみの挨拶をした後、「まさか、俺が真田家を継ぐ事になるとは思ってもいなかった」と喜兵衛は苦笑した。

「やはり、喜兵衛殿が真田家を継いだのですね」

「ああ。二人の兄貴が一遍に死んじまったからな。まったく、こんな事が起こるとは‥‥‥今になっても信じられん事だ。上の兄貴には九つになる娘が一人いるだけで跡継ぎはいなかった。下の兄貴にはいるが、まだ二歳なんだ。お屋形様の命で、俺が真田家に戻る事に決まったよ。おぬしも湯本家の跡を継いだそうだな。これから、さらに戦乱の日々が続く事になろう。よろしく頼むぞ」

 三郎右衛門は真田家のお屋形様となった喜兵衛に頼むぞと言われ、姿勢を改め、かしこまって頭を下げた。

「なに、そんなに堅くならなくてもいい。お互いに武田家の家臣という立場は同じだ。真田家は吾妻衆の寄親という立場にいるが、寄子たちの助けがなければ何もできんのだ。これからも一致団結して、上杉勢と戦おうではないか」

「かしこまりましてございます」

「こんな時に何なんじゃが、松の事なんじゃがな」と薩摩守が言った。「この際、早いうちに祝言を挙げた方がいいじゃろう。武田のお屋形様には、すでに許しを得ている。そなたもお屋形様になったからには早いうちに跡継ぎを作らなければならんからのう。松はなりは小さいが体は至って丈夫じゃ。今まで病らしい病に罹った事もないからの」

「いや、恋の病とやらに罹ってるらしいな」と喜兵衛が楽しそうに笑った。

「まったくじゃ。真田におぬしの親父の供養塔があるんじゃが、松の奴、まるで、おぬしに会いに行くように、いそいそと花を持って毎日、通っておるわ。わしが言うのも何じゃが、あれはいい嫁になる。三郎右衛門殿、松の事をよろしく頼む。松の親父に代わってお願いする」

 薩摩守は三郎右衛門に頭を下げた。

 三郎右衛門はまたかしこまって、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と丁寧に頭を下げた。

「四十九日が済んだら、盛大にやろうじゃないか。伜の奴、無事に戻って来たんじゃがのう、源太左衛門殿と兵部丞殿を助けられなかったと嘆いておるわ。一時は殉死をすると騒いでいたんじゃが、ようやく落ち着いた。娘の花嫁姿を見たら、少しは気も紛れるじゃろう」

 その夜、喜兵衛と薩摩守は草津に泊まった。薩摩守は草津に来たのは久し振りだと温泉に浸かり過ぎ、湯疲れして先に休んでしまった。三郎右衛門は喜兵衛と酒を酌み交わしながら、長篠の合戦の模様を詳しく聞いた。当時、喜兵衛はお屋形様の側近くにいたので状況をすべて把握していた。

「織田と徳川の連合軍が設楽ケ原に現れたのは五月十八日だった。翌日、我が武田軍は決戦するべく、長篠城攻撃を小山田備中守殿に任せ、鳶ケ巣山の砦を兵庫助殿に任せて、設楽ケ原に進軍したんだ。ところが、敵はまったく攻めては来ないで、陣地を固めるのに必死になっていた。お屋形様は重臣たちを集め、軍議を重ねた。敵が攻めて来ないなら、長篠城を落として、今回は引き上げた方がいいと言う者と、敵を目前にして背を見せて逃げたら武田の恥になる。攻めて来ないのなら、こちらから攻めて、追い散らせてやれと言う者が対立した。お屋形様は忍びを放って敵情を調べ、敵が築いている陣地が半里にも及ぶ長さがあるという事を知ったんだ。半里もの長さで陣を展開すれば、当然、敵陣の厚みは薄くなる。一ケ所が破れ、敵の後方に回る事ができれば、敵は混乱に陥り壊滅するに違いない。そう結論を出し、決戦に踏み切ったんだよ。誰もが勝てると確信して、決戦に及んだんだ。二十一日の早朝より決戦は始まった。敵の鉄砲にやられ、味方の損害はひどかったが、昼近くになると第一、第二の土塁を崩し」

「えっ」と三郎右衛門は驚き、「敵はそんなに幾重にも土塁を築いたのですか」と聞き返した。

「そうなんだ。真田隊が最初の土塁を確保した時、俺は(かね)掘り衆を連れて、そこまで行って土塁に上がって見た。第二の土塁が見えたよ。当然、土塁の前には空堀があった。第二の土塁を確保した時、俺はお屋形様の側にいて、知らせを聞いて、さらに第三の土塁がある事を知ったんだ。織田弾正は武田の騎馬隊を相当に恐れていたようだ。真田隊が第二の土塁を確保した頃になると、あちこちで第一の土塁を壊し始めていた。お屋形様は一番早く第二の土塁を確保した真田隊の所に穴山玄審頭殿の隊を送ったんだ。第三の土塁を壊せば敵の背後に出られ、勝利は目に見えていた。しかし、真田隊が第二の土塁を壊し始めようとした時、敵の鉄砲隊が左右から攻撃して来て真田隊はやられた。一旦、兵を引き、陣を立て直して攻撃に移れば、被害は真田隊だけで済んだんだ。ところが、真田隊を救援に行った穴山殿が敵の攻撃に反撃する事もなく、さっさと退却してしまった。穴山殿を追って敵が勢いよく追撃して来た。敵の陣を突破するはずが、逆に味方の陣が敵に突破されてしまったんだ。味方は混乱に陥り、陣を立て直す事もできず、逃げるしかなかった」

「穴山殿というのは武田の一族だと聞いておりますが」

「そうだ」と言って喜兵衛は舌打ちした。「玄審頭殿の母親は先代のお屋形様の姉上殿なんだ。そして、玄審頭殿の奥方は今のお屋形様の姉上殿だ。お屋形様から見れば従兄であり義理の兄上でもあられるお人なんだよ」

 喜兵衛は一息に酒を飲み干すと、口を歪めた。

 三郎右衛門は喜兵衛の酒盃に酒をつぎながら、「そのお人が負け戦の原因を作ったのですか」と聞いた。

 喜兵衛は驚いたような顔をして三郎右衛門を見て、首を振った。

「敗因はそれだけではないんだが、玄審頭殿が退却せずに、踏み留まっていてくれたなら、あんなに惨めな負け戦にはならなかっただろう。もう一つの敗因は鳶ケ巣山の奇襲だったんだよ」

「鳶ケ巣山の奇襲? そんなのがあったのですか」

 三郎右衛門は円実坊の絵図を思い出した。鳶ケ巣山というのは長篠城の東を流れる大野川の対岸の山だった。

「その事に誰も気づかなかった。織田弾正は武田軍を恐れて陣地を構えていると見せながら、密かに別動隊を鳶ケ巣山に向け、決戦のあった二十一日の早朝、鳶ケ巣山を占領してしまった。敵は鳶ケ巣山から長篠城に入り、武田軍を挟み打ちにしたんだよ。その知らせが届いたのは決戦が始まって一時(二時間)ほど経った頃だった。織田軍が長篠城に入ってしまえば退却する事もできん。しかも、鳶ケ巣山にあった兵糧もすべて奪われてしまった。残る手段は敵の陣地を突破して、敵を追い散らすしかなくなってしまったんだ」

「敵が鳶ケ巣山を攻めるかもしれないとは考えなかったのですか」

 喜兵衛はくやしそうな顔をして酒を飲んだ。

「残念ながら誰も考えなかった。鳶ケ巣山というのは敵から見ると、長篠城よりも向こうに見える山なんだ。しかも、決戦の行なわれた設楽ケ原の東には険しい豊川が流れ、その川を越えて、道なき山中を通らなければならない。まして、決戦の前日には雨が勢いよく降っていた。まさか、あの雨の中、道なき山中を通って鳶ケ巣山を攻めて来るとは‥‥‥」

 喜兵衛はそこで言葉を切り、首を振ると月明かりに照らされた庭を眺め、「草津は涼しくていいな」と言って、力なく笑った。

 喜兵衛はしばらく庭の方をじっと見つめていた。時々、頬の肉がピクピクと動いていた。

「織田弾正という男、やはり、恐ろしい男ですね」と三郎右衛門は喜兵衛の横顔に言った。

「ああ、実に恐ろしい男だ」

 喜兵衛は低い声でそう言ってから、三郎右衛門を見ると、「そういえば、おぬし、以前、京都で織田弾正と会ったとか言っていたな」と聞いた。

「いえ、会ったわけではなく、ただ、遠くから見ただけです」

「それでも、人となりはわかろう」喜兵衛は興味深そうな目を向けた。

 三郎右衛門はうなづいた。「織田弾正が初めて将軍様をお連れして京都に入って来られた時、京の人々は大騒ぎでした。織田の兵に略奪させれると心配したのですが、織田の軍勢は規律正しく、決して略奪などしませんでした。将軍様のために立派な御殿も建て、誰もが弾正の事を褒め、評判のいい殿様だったのです。ところが、比叡山の僧侶を皆殺しにした頃より、何をしでかすかわからない恐ろしい殿様だ。決して、逆らわない方がいいと誰もが思うようになりました」

「比叡山の焼き打ちか。噂に聞いておる。亡くなられたお屋形様もひどい事をするものじゃと嘆いておられた。去年の秋には本願寺の門徒を二万人余りも焼き殺したそうだな」

「はい、そのようです」

「確かに恐ろしい男だが、この先、何度も戦わなくてはなるまい。そして、いつの日か、倒さなくてはなるまいな」

 織田弾正を倒すのは難しい事だと思った。しかし、すでに織田弾正は遠い存在ではなく、武田の目の前に立ち塞がる敵になっていた。喜兵衛の言うように、いつかは倒さなくてはならなかった。

「まあ、しばらくのうちは態勢を立て直さなければならない。勿論、吾妻衆もだ」

 翌日、三郎右衛門は真田喜兵衛の供をして岩櫃城へ向かった。

 岩櫃城は険しい岩山の中腹にある堅城で、政治的にも吾妻郡の中心となっていた。城代として城を守っているのは海野長門守と能登守の兄弟で、二人とも、すでに六十を過ぎた老将だった。長門守には三人の男子がいたが、長男と次男は二十四年前に戦死し、三男は夭折(ようせつ)し、その後、男子に恵まれず跡継ぎはいなかった。能登守には二人の男子がいて、長男の中務少輔は岩櫃城にいて、跡継ぎとして戦でも活躍していた。次男の彦次郎は人質として甲府に行き、その後、駿河の江尻城主となった山県三郎兵衛の家臣になっていた。

 長門守、能登守、中務少輔の三人に迎えられ、喜兵衛、矢沢薩摩守、そして、三郎右衛門は城内へと入った。前以て知らせてあったのか、吾妻郡の主立った武将たちが本丸の広間に集まっていた。鎌原氏、西窪氏、横谷氏、植栗氏、大戸(おおど)氏、池田氏の六人で、湯本氏を含めて吾妻七騎と呼ばれていた。海野兄弟と吾妻七騎が武田家の家臣になっていて、真田氏の指揮下にあった。

 鎌原氏は当主だった筑前守が長篠で戦死し、跡継ぎの孫次郎はまだ十二歳だった。仕方なく、隠居していた祖父の宮内少輔(くないしょうゆう)が老体に鞭打ち、やって来ていた。

 西窪氏の当主は治部少輔で二十歳、父親は十年前の岳山合戦で戦死し、蔵千代と呼ばれていた十歳の時、家督を相続した。長篠に出陣したが、家臣たちに守られ運よく生き延びて戻っていた。

 横谷氏は当主の左近が長篠で重傷を負い、跡を継いだ信濃守が来ていた。

 植栗氏も当主の河内守が長篠で重傷を負っていて動けず、十九歳の嫡男、彦五郎が来ている。

 大戸氏は留守を守っていて長篠に行かなかった丹後守が来ていた。丹後守の名代として出陣した同族の三島城主、浦野下野守が戦死していた。

 池田氏は当主の佐渡守が去年の合戦で片足を失い馬に乗る事ができず、長男の甚次郎が来ていた。甚次郎は二人の弟と共に長篠に出陣した。甚次郎は無事だったが、甚三郎、甚四郎の二人の弟は帰って来なかった。

 居並ぶ十人の武将を前に、喜兵衛は真田家のお屋形様として挨拶をし、今後の事を相談した。

「亡くなった者たちの所領を安堵し、跡継ぎを速やかに決め、また、才能ある者をどしどし採用して適所に配置するようにしてほしい」と喜兵衛は言ってから、しばらく間を置き、「これは真田の事なのだが、屋形を移す事にした。これからは戸石城を本拠地にして、麓の伊勢山の地に新しい屋形を作る事に決めた。もうすでに普請も始まっている。今年中には完成させようと思っている。完成したら、そなたたちも招待しようと思っているので、是非、来てほしい」

 その後、喜兵衛は長門守より敵の状況を詳しく聞き、味方の将の配置を確認した。

 岩櫃城は城代として海野長門守、能登守兄弟が守り、前線の柏原城は植栗彦五郎、湯本左京進、海野の家臣である荒牧宮内少輔が守っている。同じく前線の岩井堂城は海野の家臣、富沢伊予守、富沢豊前守、唐沢玄審助、割田下総守、佐藤将監(しょうげん)、塩谷掃部助(かもんのすけ)らが守っている。大戸の手古丸城は大戸丹後守が守り、三島城は丹後守の家臣、浦野中務大輔と海野の家臣、一場太郎左衛門が守っている。岳山城は池田甚次郎と海野の家臣、桑原大蔵、鹿野(かの)新左衛門が守り、蟻川岳の要害は海野の家臣、蟻川入道と植栗彦五郎の伯父、神保佐左衛門が守っていた。

 絵地図を眺めながら喜兵衛はうなづいた。

「うむ、とりあえずはそれでいいだろう。ただ、戦力の補充は成るべく早く、行なってほしい。今回の負け戦で武田方が弱っていると見て、近い内に上杉勢が攻めて来る事となろう。決して、敵に弱みを見せてはならん。敵に付け入らせてはならんのだ」

「喜兵衛殿に言われるまでもござらん。そなたのお父上、一徳斎殿に頼まれ、吾妻の地を任されてから、わしらはこの吾妻郡を守り通して来た。これからも見事に守り通して見せますぞ」と海野長門守が言って、能登守と顔を見合わせると力強くうなづいた。

 喜兵衛もうなづき、皆の顔を見回した。

「今回はこれで引き上げる事にする。真田の方も大変でな、色々と忙しい。また、甲府へも行かなければならん。腰が落ち着いたら、改めて来る事になろう。それまで吾妻の事、よろしくお頼み申す」

 喜兵衛はそう言って、矢沢薩摩守を連れて岩櫃城を後にした。三郎右衛門も一緒に帰ろうとしたら、能登守に引き留められた。今後の事を相談したいと言う。

 喜兵衛の一行を見送った後、残った者たちは再び、本丸の広間に集まって車座になった。

「まず、湯本殿に聞きたい事がある」と長門守が怒ったような顔をして言った。「そなた、どうして喜兵衛殿と一緒に来たのじゃ」

「一緒に来いと言われたからですが」と三郎右衛門は素直に答えた。何となく、皆の雰囲気がおかしかった。不審の目で三郎右衛門を見ているようだった。

「ほう。長野原で喜兵衛殿を迎え、一緒に来たと申すのか」

「いえ。草津に喜兵衛殿が来られたとの知らせが長野原に参り、慌てて、草津に向かったのでございます」

「喜兵衛殿が来る事を知らなかったのか」

「はい。知りません」

「そいつはおかしいぞ。わしらは皆、喜兵衛殿から知らせを受け、ここに集まって来たのじゃ。そなただけ、その事を知らなかったとはおかしな事じゃ」

「本当でございます。わたしは知りませんでした。ここに来て、皆が揃っているので驚いた程でございます」

「ふーむ。一体、どういう事じゃ」長門守は信じられんという顔をして能登守を見た。

 能登守はじっと三郎右衛門を見つめていた。

 三郎右衛門は皆の顔を見回してから、長門守に視線を戻して説明をした。

「喜兵衛殿は以前から、ここに来られる時は必ず、草津に寄っておりました。それで、今回も草津の湯に浸かってから行くつもりだったのではないでしょうか。それで前以て、知らせをよこさなかったのだと思いますが」

「成程な。そなたは喜兵衛殿と随分と仲がいいと見える。それで、喜兵衛殿は昨夜、草津に泊まったのか」

「はい」

「そなた、草津で喜兵衛殿と何を話したのじゃ」

「長篠の合戦の事を聞きました」

「それだけか」

「それだけです」

「そうか」と言ったが、長門守は三郎右衛門が何かを隠しているのではないかと疑っているようだった。

「兄上、その事はもういい」と能登守が口を挟んだ。「それより、今後の事を決めなくてはならん」

 わかったというように長門守が渋々とうなづくと、能登守は話を続けた。

「わしらは今まで、一徳斎殿に従って武田方として戦って来た。しかし、一徳斎殿はすでにいない。一徳斎殿の跡を継がれた源太左衛門殿も長篠でお亡くなりになられた。そして、先程、挨拶があったように喜兵衛殿が真田家のお屋形様となられた。長篠の合戦では武田勢は織田徳川の連合軍に敗れ、多大な損害を被った。もし、今、上杉の大軍が攻めて来たら、援軍を期待するのは難しいじゃろう。この吾妻の地を守り抜くために、吾妻衆として今後どうしたらいいか、その対策を練ってみたいと思って、皆に残ってもらったんじゃ」

「今後の対策じゃと?」と鎌原宮内少輔が言った。「そんな事は、今のまま武田方として、上杉と戦うのに決まっておろうが」

 宮内少輔は目を吊り上げて怒鳴った。能登守は不敵に笑いながら宮内少輔を見ていた。

「鎌原殿の領地は信濃に近いからのう、もっとも安全じゃ。武田方に着くのは当然じゃな。しかし、もし、この城を敵に取られてしまえば安全とは言えんじゃろう」

「能登守殿、もしや、裏切る気ではあるまいのう」宮内少輔が言うと、皆の視線が一斉に能登守に集まった。

「そうではない。わしが言いたいのは、今後、吾妻衆は以前より増して一致団結せねばならんと言う事じゃ。上杉勢が東から攻めて来れば、柏原城と岩井堂城が前線となる。しかし、大軍に攻められたら、その二つの城は一溜まりもない。やはり、この岩櫃で敵を食い止めるしかあるまい。敵が北から攻めて来れば蟻川城と岳山城で食い止めなければならない。岳山と岩櫃が敵の手に落ちれば吾妻は全滅となろう。また、今は味方ではある北条も以前のように敵となる事も考えられる。北条が敵となり南から攻めて来れば、大戸の手古丸城が前線となる。今回の長篠の負け戦で様々な噂が飛び交っている。信玄殿の死は未だに公表されてはいないが、敵は皆、知っている。今後、敵から寝返りの誘いが来るかもしれんが、決して、そんな誘いには乗らず、一致団結して、この吾妻の地を守り抜こうではないか。武田の家臣である以前にわしらは吾妻衆である。その事を肝に銘じてほしい。わしの言いたいのはそれだけじゃ」

「意見のある者はおるかな」と長門守が皆の顔を見回した。

「今更、改めて言う程の事でもあるまい。吾妻衆が一致団結するのは当然の事じゃ」

「まあ、鎌原殿の言う通り、一徳斎殿と共に戦って来た、わしらとしては当然の事なのじゃが、若い者たちにはわからんと思ってな、この場をもって改めて言ってみたんじゃよ」

「成程、そういう事か」と鎌原宮内少輔は改めて、一同の顔を眺めた。

 湯本三郎右衛門を初めとして、西窪治部少輔、植栗彦五郎と一徳斎を直接に知らない者がいた。

「意義のある者もいないので、改めて、吾妻衆は武田の先鋒として真田喜兵衛殿と共に上杉と戦う事に決めた。それでよろしいな」と能登守は皆の顔を見回した。

 皆、厳しい顔付きでうなづいた。その後、それぞれが長篠での被害状況を説明し、具体的に今後の事を話し合った。評定が終わったのは日暮れ間近になっていた。集まった者たちはそれぞれ、城内にある屋敷に引き上げた。

 岩櫃城の城内には吾妻七騎の屋敷と海野氏の重臣たちの屋敷があった。城代の海野長門守は本丸にある屋敷に住み、能登守は二の丸にある屋敷に住んでいる。能登守の嫡男、中務少輔の屋敷は二の丸の南側にあった。中城(なかじろ)と呼ばれている広い曲輪には奉行所と八幡社があり、一徳斎が使用していた真田屋敷もあった。海野氏や海野家の重臣たちは家族と共に城内の屋敷で暮らしているが、真田氏や吾妻七騎の武将たちは非常時以外は本拠地にいるので、留守を守る者が数人残っているだけだった。

 湯本家の屋敷は中城と天狗の丸の中程にあり、平川戸の城下町の近くにあった。一徳斎に滅ぼされた斎藤越前守が岩櫃城主だった頃は斎藤家の重臣だった海野能登守の屋敷だった。能登守が造ったという立派な庭園があり、庭園内には茶室も建っている。屋敷の床の間には能登守が描いた見事な山水画も飾ってあり、お茶道具や様々な書物も能登守から譲られた物だという。三郎右衛門が能登守と話をしたのは今日が初めてだった。ギョロッとした鋭い目付きをしていて近づき難い感じを受けるが、風流も充分に理解している立派な武将のようだった。

 三郎右衛門が共に連れて来た家臣たちと一緒に飯を食べていると海野能登守が何の前触れもなく、のそっと庭に入って来た。三郎右衛門が慌てて、そこらを片付けようとすると手を振って、「そのままでいい。少し付き合ってくれんか」と縁側に腰を下ろし、持って来た瓢箪(ひょうたん)を捧げた。

 三郎右衛門はすぐにお椀と適当な肴を用意して縁側に行った。

「善太夫殿も戦死したそうじゃな。あれ程の腕を持ちながら惜しい事をした」

 以前、善太夫から能登守が武術の達人で岩櫃城内で武術を教えていると聞いた事があったのを三郎右衛門は思い出した。

「善太夫殿とは何度か、武芸の話をしながら飲んだものじゃ」

「そうだったのですか」

「うむ。まあ飲め」

 三郎右衛門は能登守と酒を酌み交わした。東の空に満月が出ていた。

「いい面構えをしておる。京都まで行き、上泉伊勢守殿の道場で修行を積んだそうじゃのう。善太夫殿もいい跡継ぎに恵まれたものじゃ。湯本家も安泰じゃな」

「いえ、そんな‥‥‥」三郎右衛門は照れながら、能登守に酒を注いだ。

「わしも昔、京都に行った事があるんじゃよ。今は亡き将軍様に武芸を教えた事もあった」

「えっ、将軍様にですか」

 強いとは聞いていたが、将軍様に教える程の腕前とは知らなかった。三郎右衛門は改めて能登守を見直した。能登守は静かな顔をして月を眺めていた。

「わしの師匠はな、やはり亡くなってしまわれたが、塚原卜伝(ぼくでん)殿というお方なんじゃ。卜伝殿と一緒に若い将軍様に武芸を教えたんじゃよ。残念な事に、その将軍様は松永弾正とかいう男に殺されてしまった‥‥‥わしはな、十八の時、武芸の修行を積むために旅に出たんじゃ。師匠に連れられて、あちこち旅をした。信玄殿と出会い、甲府に留まったのは三十三の時じゃった。甲府で妻を迎え、戦にも参戦したが、やはり、一ケ所には留まる事ができないのか、妻子を甲府に残して、また旅に出た。京都に行ったのはその時じゃ。師匠と偶然に出会い、将軍様に武芸の指導をしたんじゃよ。故郷の羽尾(はねお)に帰って来た時には四十六になっていた。わしは兄貴の勧めもあって斎藤越前守に仕え、ここに道場を開いた。一徳斎殿が攻めて来るまでの八年間、わしは若い者を鍛えた。しかし、その若い者たちはほとんど戦死してしまった。一徳斎殿によって斎藤氏は滅ぼされ、わしは兄貴と共に領地を奪われて信濃に行き、一徳斎殿に身柄を預けられる事になった。三年後、一徳斎殿によって岩櫃の城代に選ばれ、再び、吾妻に戻る事ができた。わしが生まれた羽尾の土地は湯本氏のものとなっていたが、その代わりに斎藤氏の遺領を与えられた。わしは再び道場を開いて、若い者たちに武芸を教えたんじゃ。わしが岩櫃に戻って来てから、もう九年になる。数多くの者たちに、わしは武芸を教えた。その内の半数以上の者たちが戦で死んで行ったんじゃよ。今回の戦でも、わしの弟子たちが多く亡くなってしまった。戦がある度に、教え子が死ぬんじゃよ。まったく、やりきれんわ」

 能登守は酒を飲みながら、ぼそぼそと話を続けた。

 三郎右衛門は能登守の話を黙って聞いていた。能登守は半時(一時間)近く、教え子の事を話し続けた。

「愚痴を聞かせてしまって、すまなかった。武芸者の事は武芸者にしかわからんと思ってな。そなたなら、わしの気持ちもわかってくれるじゃろうと思ったんじゃよ。善太夫殿にも言ったんじゃが、人を殺すための武芸ではなく、人を生かすための武芸をこれからも教えて行くつもりじゃ」

「人を生かすための武芸ですか」

「そうじゃ。新陰流の極意である『和』と同じじゃよ」

 能登守は笑うと機嫌よく帰って行った。





長篠の合戦



岩櫃城




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