酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

井野酔雲






二人の女







 天正五年(一五七七年)の元旦、二十四歳になった三郎右衛門は去年の十一月に生まれた長女の小松を抱きながら、静かな新年を迎えていた。越後の上杉謙信は越中に出陣中で関東に出て来る心配はなく、湯本家では柏原城に詰めている者たち以外は家族と共に新年を迎えていた。

 翌日は例年のごとく海野兄弟に新年の挨拶をするため岩櫃城に向かった。去年の柏原城の無血開城以来、三郎右衛門の名は有名になっていた。今まで、善太夫の跡継ぎに過ぎなかった三郎右衛門はようやく、草津の領主として皆に認められた。何となく三郎右衛門に辛く当たっていたような長門守でさえ、ニコニコしながら善太夫殿はいい跡継ぎを迎えなさったと始終、機嫌がよかった。

「兄上はな、善太夫殿の奥方、お鈴殿をそなたが追い出したものと勘違いしていたんじゃよ」と能登守は長門守が席をはずすと、三郎右衛門にそっと言った。「それに、兄上はわしの娘婿の左京進が湯本家を継ぐべきじゃとずっと思っていたんじゃ」

「そうだったのですか」

「わしもそう思っておった。しかし、そなたが各地を旅をし、京都で上泉殿の道場で修行していると聞いて気が変わった。さすが、善太夫殿じゃと思ったわ。わしも長い間、旅をしていたからわかる。お屋形様となる者はしっかりと世間の動きというものを知らなくてはならん。この吾妻の山の中から世間を見ていただけでは世の中に遅れてしまう。これからは益々、世の中の流れは速くなるじゃろう。そなた、忍びを使って各地の情報を手に入れているそうじゃの。いい事じゃ。お互いに、この吾妻郡を敵から守り通そうではないか」

「はい」と三郎右衛門は力強くうなづいた。

「それにしても、柏原城の事は見事じゃった。白井では、あの城の事を狐火城と呼んで恐れているそうじゃ。雨の降る夜は未だに、狐火が飛び回っているそうじゃの」

 あの時、三郎右衛門は何もしなかった。ただ松明をかついで城に近づいて行っただけだった。命懸けで活躍したのは月陰党の者たちなのに、彼らの存在はまったく消え、すべてが三郎右衛門の手柄になっていた。城攻めの前、東光坊が彼らの手柄を褒めてやってくれと言った意味が、ようやく三郎右衛門にもわかって来た。武士ならば戦死したとしても、それなりに丁重に扱われるが、彼らが亡くなっても公表される事はなく、闇に葬られてしまう。お屋形様である三郎右衛門が彼らの活躍をちゃんと認めてやらなければならないのだった。

「武田のお屋形様じゃがの」と能登守は言っていた。

「武田のお屋形様がどうかなさいましたか」と三郎右衛門は我に返って聞き直した。

「近いうちに祝言を挙げなさるらしい」

「えっ、武田のお屋形様には奥方様がいらっしゃらなかったのですか」

 お屋形様の事は以前、真田喜兵衛から聞いた事はあったが、奥方様の事まで詳しく聞いてはいない。長男がいると聞いて、てっきり奥方様がいるものと思い込んでいた。

「以前、織田弾正(信長)の姪を迎えたんじゃが、その奥方様は御長男の武王丸殿を産むとすぐに亡くなわれてしまった。その後、お屋形様は正式な奥方様をお迎えになってはおらんのじゃよ」

「そうだったのですか。まったく知りませんでした」

「織田弾正は信玄殿をもっとも恐れておったんじゃ。信玄殿の機嫌を取るために様々な贈り物もした。そして、今のお屋形様、四郎殿に是非に自分の姪を嫁に貰ってくれと言って来たんじゃ。当時、四郎殿は諏訪四郎と名乗っていて武田家の総領ではなかった。信玄殿もいいじゃろうと承諾したんじゃよ。ところが、信玄殿が駿河進攻を決めると総領だった太郎(義信)殿と対立した。太郎殿の奥方様は駿河の今川殿の娘だったんじゃ。武田家は信玄派と太郎派に分裂しそうになったんじゃが、信玄殿はすばやく対処して、太郎派の者たちを捕らえて殺し、太郎殿は幽閉された揚げ句に自害なされたんじゃ」

「はい。その事は真田喜兵衛殿より聞きました」

「うむ。仕方なかったんじゃよ。治部大輔(義元)殿が織田弾正に討たれた後の今川家はかつての勢いを失い、放って置けば徳川に攻め滅ぼされてしまうかもしれなかった。徳川に奪われるなら、武田の領土にしようと信玄殿は決心なされたのじゃろう。たとえ、総領の太郎殿を犠牲にしてもな‥‥‥織田弾正は四郎殿に嫁いだ姪が亡くなってしまうと、今度は自分の長男、奇妙丸(信忠)に信玄殿の娘を嫁に貰いたいと言って来た。信玄殿はまあいいじゃろうと、それも承諾したんじゃよ」

「織田弾正の長男の嫁は武田家の娘だったのですか」

「いや。約束はしたが実現はしなかった。奇妙丸と婚約したのは信玄殿の五女でお松殿というんじゃが、当時、奇妙丸は十一歳、お松殿は七歳じゃった。順調に行けば五、六年後には祝言を挙げたじゃろうが、武田家と織田家の間が不仲になり、婚約は自然解消という形になってしまったんじゃよ」

 三郎右衛門の知らない事がまだまだ多かった。敵対している武田家と織田家が婚姻で結ばれていたなんて考えられない事だった。お屋形様の跡継ぎの武王丸殿には武田家と織田家と武田に滅ぼされた諏訪家の血が流れていた。何となく恐ろしく、何となく哀れだった。

「奇妙丸というのは、秋山殿がおられた美濃の岩村城を攻めた時の大将だった織田勘九郎ではありませんか」

「おお、そうじゃよ」と能登守はうなづいた。

 やはり、そうだった。武田家の娘と婚約していたのは上泉伊勢守の高弟、疋田豊五郎に新陰流を教わっている岐阜城主となった勘九郎だった。

「という事はお松殿というお方ももう年頃になってるのではありませんか」

「うむ。もう十六、七じゃろうのう」

「その後、嫁に行かないのですか」

「嫁に行ったという話は聞かんからのう。甲府におられるんじゃろうな。いや、随分と話がそれてしまった。今度、武田のお屋形様が迎える奥方様は北条家の娘なんじゃよ」

「えっ、北条家ですか。でも、北条家と武田家は同盟を結んでいるのでしょう」

「結んではいるが、織田と徳川に対抗するために結び付きを強化しなければならんのじゃろう。その事もあって喜兵衛殿も今年の正月は甲府から帰って来られないのじゃ」

 喜兵衛が帰って来られないのは三郎右衛門も知っていた。今年は帰れないので真田へは挨拶に来なくてもいいと喜兵衛から知らせが届いていた。

「そこでじゃ。吾妻衆からも誰かを送らなければならん。わしの伜が行く事になっておるんじゃが、そなたも一緒に行ってくれんか。そなたは以前、甲府に行った事もあろう。お互いに真田家の一族でもあるしな」

「はい、それは構いませんが」

「そうか。行ってくれるか。伜の奴も喜ぶじゃろう。伜の奴、甲府で生まれ、十二歳まで向こうにいたんじゃが、その後、甲府には行ってはおらん。武田家の家臣たちが居並ぶ中に出て行くのは心細いと怖じけづいておるんじゃ。そなたが一緒なら大丈夫じゃ。伜をよろしく頼むぞ」

「はい‥‥‥」

 伜を頼むと言われても三郎右衛門は困った。能登守の伜、中務少輔は三郎右衛門よりも十歳も年上だった。それでも、能登守から見ると頼りなく見えるのか、三郎右衛門が一緒なら大丈夫だとすっかり安心していた。

 長野原城に戻ると三郎右衛門は東光坊を呼んだ。甲府に行かなければならなくなった事を告げ、出掛ける前に、月陰党の若い者たちに改めて、お礼を言いたいので呼んでくれと頼んだ。

「女たちはすぐにでも呼べるが、男たちは無理じゃな」と東光坊は首を振った。

「男たちはどこかに行ったのか」

「奴らは修行する前はただの村人じゃ。戦の事など何も知らん。今、どこに誰がいて、誰と誰が戦っているのか、ちゃんと知ってもらわん事には仕事にならんからの。柏原城の落城後、すぐに旅に出した。まあ、一年間は旅をしてもらう事になろう」

「そうか‥‥‥女の方は旅には出さないのか」

「女には必要あるまい。返って、戦の事など知らない方がいい。時には敵方に下女や女中になって出向く場合もある。その時、何も知らない方がうまく行くじゃろう」

「成程。それで、あの二人は今、どこで何をしてるんだ」

「あれ、ご存じないのか」と東光坊は笑った。「ここにいる。お屋形の台所で働いているはずじゃ」

「えっ、そんなの見た事ないぞ」

「去年の暮れからいるはずじゃ」

「そうなのか‥‥‥」

 元旦の朝、三郎右衛門はお屋形で働く女たちを集めて新年の挨拶をしたが、ムツキとキサラギの二人を見た覚えはなかった。

「柏原城の後、あの二人は小田原に行った」と東光坊は意外な事を言った。

「えっ、小田原に?」

「ああ、正直言って扱いに困っていたんじゃよ。女の忍びを作ったのはいいが、どうやって使ったらいいのかよくわからなかった。そこで、この前、小野屋の女将さんが草津に来た時、女将さんに頼んでみたんじゃ。そしたら、引き受けてくれた。女将さんは忍びの事はよく知らないが、女としての躾なら教えてあげられると言ってくれたんじゃ。何でも経験してみるのがいいじゃろうと思ってな、伊勢屋の者に頼んで小田原に送ったんじゃよ」

「そうだったのか」

 自分の生まれた村から出た事もない二人の娘が小田原に行って、驚いている様が目に浮かぶようだった。田舎娘も都と呼べる小田原で小野屋の女将に厳しく躾られれば、元々が美人なのだから見違えるような女になったに違いない。三郎右衛門は二人に会うのが楽しみだった。

「そして、去年の暮れ、戻って来た。なんと汚い尼僧になって現れたわ。わしの家の門前に立ち、お経を読み続け、うるさいから小銭をやって追い返そうとしたら、二人とも大笑いしやがったよ」

「師匠にもわからなかったのか」

「ああ、うまく化けおった」

「それで、今度は女中に化けているというのか」

「とりあえずは、ここに置き、陰ながらお屋形様を守ってもらおうと思ってな」

「俺を守る? 俺はまだ、命を狙われる程の大物じゃない」

「命は狙われる事はないかもしれんが、敵の忍びが草津にいる事は確かじゃ。気をつけるに越した事はない」

「そうか。とにかく、二人を呼んでもらおうか」

「それはやめた方がいい。あの二人は近在の娘で生活に困って奉公に来た事になっている。お屋形様が直々に声を掛けたら、他の者たちが変に思い、二人もいづらくなってしまうじゃろう」

「声を掛ける事もできんのか」

 三郎右衛門はがっかりした。すぐに会えるものと思っていたのに、そう簡単には行かなかった。

「みんなの前ではな」と言ってから東光坊は三郎右衛門の顔付きを見て、「夜になったら密かに、この部屋に来るように言っておく」と付け足した。

「頼む。是非、もう一度、お礼を言っておきたいのだ」

「うむ」とうなづくと東光坊は、「甲府の事じゃがな」と話題を変えた。

「向こうにいる多門坊より知らせが入ったんじゃが、輿入れは今月の二十二日らしい。花嫁御寮は北条のお屋形様の妹で、まだ十四じゃという。武田のお屋形様は三十二じゃ。親子とまでは言わんが、随分と年の離れた夫婦じゃな。花嫁と一緒に護衛の兵も甲府に残る事になり、今まで人質として上野原城(北都留郡)にいた琴音殿の御亭主、四郎殿は小田原に返されるらしい」

「えっ、四郎殿が小田原に」

「いや、小田原じゃなくて小机の方かもしれんが、琴音殿のもとに帰るようじゃ」

「そうか‥‥‥それはよかった」

 素直に喜ぶべき事なのだろうが複雑な気持ちだった。琴音の幸せを祈る一方で、北条四郎に嫉妬していた。

「五年余りも離れ離れじゃった‥‥‥可哀想にのう」

 その夜、三郎右衛門が独りで書見していると音もなく二人の女が現れた。

「お呼びでございましょうか」とムツキに声を掛けられ、三郎右衛門は驚いて振り返った。

「ほう、見事なもんだな。まったく気づかなかったぞ」

 ムツキとキサラギは女中の姿のまま、両手をついて頭を深く下げていた。

「顔を上げてくれ」と言うと、二人は顔を上げ、三郎右衛門を見つめた。

 二人とも、何となく、やぼったいという感じがして、どう見ても下働きの女中だった。小田原に行って何をしていたのだろう。初めて会った時、二人とも美しいと思ったのは錯覚だったのだろうかと首を傾げた。

「お前たちを呼んだのは、改めて、この前の事のお礼を言いたかったからだ」

「その事は前回、充分なお礼をいただきました」とムツキが言った。着膨れしているのか、半年前より随分と太ってしまったように思えた。

「いや。あの時は東光坊に言われて、お礼をしたまでだ。お前たちの本当の価値がわからなかった。今はわかっている。心から、お礼を言う。ありがとう。そして、これからもよろしく頼むぞ」

「ありがたきお言葉、今後ともお屋形様のために命を懸けてお仕えいたします」

 ムツキが言って頭を下げるとキサラギも一緒に頭を下げた。太ってしまったムツキに比べて、キサラギの方は青白い顔した冴えない娘だった。初めて会った時、いい女だと思った自分が情けなく思えた。

「うむ、下がっていい」

「失礼いたします」と言って二人は去って行った。

 二人の後ろ姿を眺めながら、三郎右衛門はもう一度、首を傾げた。

 正月の十五日、三郎右衛門は海野中務少輔と共に甲府へと向かった。途中、雪山を越えなければならなかったが、四日目の十八日の晩には甲府の真田屋敷に入り、喜兵衛と再会した。

 甲府はまるで祭りのように賑やかだった。甲府の人々は北条との婚礼を心から喜んでいるようだった。武田と北条が共に組んで、織田徳川の連合軍と戦えば、必ず勝てるだろうと誰もが噂していた。

 三郎右衛門と中務少輔は喜兵衛と共に婚礼の準備を手伝った。躑躅ケ崎のお屋形内には、すでに花嫁が住む新御殿が完成していた。普請奉行を務めたのは喜兵衛だという。三郎右衛門たちは喜兵衛の案内で立派な御殿を見せてもらい、躑躅ケ崎のお屋形内も見せてもらった。そして、喜兵衛に紹介され、武田のお屋形様、四郎(勝頼)とも間近で会う事ができた。噂では何事も父信玄と比較され、能無しのように言われているが、実際に側で見ると立派な武将のように思えた。鼻筋の通った、なかなかの美男子で、頭もよさそうだった。会ったのが正式の場ではなく、新御殿だったので、お屋形様は気軽に声を掛けてくれた。

「上州からわざわざ祝いに来てくれたのか。御苦労じゃった。祝言が終わった後、府中の町を見物して行くがいい」

 お屋形様は喜兵衛と何やら相談をして去ろうとしたが、振り返って三郎右衛門を見た。

「草津の事はいつも喜兵衛より聞いている。いい温泉だそうじゃのう。わしものんびり温泉に浸かりたいものじゃ。そのうち、世話になるかもしれん。その時は頼むぞ」

「はい。かしこまりましてございます」

 突然、声を掛けられ、三郎右衛門は驚くと共に感激していた。このお屋形様なら命を預けても悔いはないと三郎右衛門はこの時、そう思った。

 北条家と武田家の婚礼は三郎右衛門が思っていた以上に華麗で盛大だった。きらびやかな花嫁行列は呆れる程、長々と続いた。護衛の軍勢も含め、総勢一万はいるだろうと町人たちは噂していた。その行列の中に小野屋の女将がいた。北条家の婚礼となれば当然、来るだろうとは思っていたが、なぜか、尼僧姿ではなかった。

 五日間にも及ぶ婚礼も無事に終わり、後片付けも済み、北条の軍勢も引き上げた後、三郎右衛門は小野屋に顔を出した。以前、東光坊と来た時は知らなかったが、小野屋の行商人、梅吉と共に京都へ向かう時、世話になっているので場所は知っていた。行ってみると店はそのままだった。看板だけが『伊勢屋』から『小野屋』に変わっていた。

 女将はまだいるだろうかと、店にいた女に声を掛け、振り返った顔を見て三郎右衛門は驚いた。息が止まるかと思う程の驚きだった。

 女は笑いながら三郎右衛門を見つめ、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

「お前はもしかして‥‥‥」三郎右衛門は女を見つめた。

「お久し振りでございます」と女も三郎右衛門をじっと見つめた。

 襷掛けに前垂れ姿の商家の奉公人という格好だったが、女は数年前、三郎右衛門の前から突然、消えてしまった里々に違いなかった。

「どうして、お前がこんな所にいるんだ」

「きっと、三郎様がここに来られると思いましてお待ちしておりました」

 三郎右衛門を見つめている里々の目は涙で潤んでいた。その目を見ているうちに昔の事がつい昨日の事のように思い出された。

「お前、あれからずっとここにいたのか」

「いいえ。小田原におりました。ここへは女将さんと一緒に参りました」

「あの行列の中にいたのか」

「いいえ。行列とは別に」

「そうか。あれからずっと女将さんの所にいたのか」

「ずっとではありませんけど」

 もっと詳しい話を聞きたかったが、女将が現れたので、里々は引っ込んでしまった。

「いらっしゃい。やはり、会ってしまったのね」

「これは一体、どうなっているんです、まったく‥‥‥」と言って、三郎右衛門はまた唖然となった。

 女将の後ろに隠れて、クスクス笑っていたのはキサラギだった。甲府に発つ前に会った時とは違い、初めて会った時のように美しい顔をしていた。

「お前は‥‥‥どうして、お前がこんな所にいるんだ」

 三郎右衛門は女将に連れられて客間に通された。キサラギも里々も呼ばれ、もう一人、三郎右衛門の知らない娘が現れた。三人共、ここで働いているのか、同じような格好をしていた。

「狐にでもつままれたような顔付きね。まず、わたしの格好から説明するわ。善太夫様がお亡くなりになって、出家しようとしたのは事実よ。でも、できなかった。出家する前に、跡継ぎを見つけなければなかったのよ。跡継ぎは決まったわ。この娘よ」そう言って、女将は三郎右衛門の知らない娘を紹介した。

「お(みお)っていうの。わたしの姪なのよ。今、小田原のお店で修行中なの。この娘が一人前になるまでは出家できないわ。心の中では出家して善恵尼になっているんだけど、まだ無理なのよ。そのうち、この娘も草津に行くかもしれないからよろしくね」

「はい」と言いながら、三郎右衛門はお澪を見た。女将の姪だけあって、やはり美人だった。

「よろしくお願いします」とお澪はしおらしく頭を下げた。

 女らしいその姿を眺めながら、ふと風摩党の事が頭の中によぎった。この娘も忍びの術を心得ているに違いないと思った。

「キサラギはあなたの護衛として、あなたを追って来たのよ」と女将は言った。

「俺の護衛だって」と三郎右衛門はキサラギを見た。

 キサラギは古くからいる奉公人のような顔をして座り、三郎右衛門を見ていた。

「東光坊様に命じられました。玉川坊様と円実坊様と一緒に来ましたけど、女将さんがおられるのを見つけて、お店のお手伝いをしておりました」

「それにしても、お前、この前会った時と顔付きが全然違うじゃないか」

「あれは女将さんに教わって、お化粧していたのです。女将さんから変装の仕方を色々と教わりました。あの顔でお屋形様の前を通っても、お屋形様は全然、お気づきになりませんでした」

「成程な。師匠がわからなかったのも無理はない」

「えっ」

「何でもない。こっちの事だ」

「今度は里々の事ね」と女将は里々と三郎右衛門の顔を見比べながら言った。

 三郎右衛門はキサラギから里々へと視線を移した。里々は俯いていた。

「何となく、あなたがここに来るような気がして、連れて来たくはなかったんだけど、お澪と里々は仲良しでね、一緒に行くって聞かないのよ。あなたが来ない事を願ってたんだけど、やっぱり、会ってしまったわね。もともと縁があるのかしらねえ。後はあなた方の問題よ。二人でよく話し合いなさい」

 女将はお澪とキサラギを連れて出て行った。残された二人はしばらく黙り込んでいた。話したい事が色々あって何から話したらいいのかわからなかった。

「会いたかった」と言いながら里々は涙を流した。

 目の前にいるのは里々に間違いないのだが、何となく、以前と雰囲気が違った。遊女から足を洗って商家に奉公したというだけでなく、何かが以前とは違うような気がした。

「俺も会いたかった。別れも告げずに消えてしまうなんて」

「でも、会ってしまったら別れが辛くなるし‥‥‥もう二度と会えないと思っていたのに、こんな所で会うなんて」

「女将が言う通り、縁があったんだろう」

 里々は涙を拭うと、「お子さんが生まれたんですってね」と言って、微かに笑った。

「女将から聞いたのか」

 里々はうなづいた。そして、寂しそうな顔をして、「お嫁さんも可愛い人だって聞きました」と言った。

「そうか‥‥‥これからどうするつもりなんだ」

 里々は三郎右衛門から視線をはずして庭の方を眺めた。三郎右衛門は里々の横顔を見つめながら、別れてからどれくらい経ったのだろうかと考えていた。

 あれは年の暮れ、一徳斎殿が箕輪で倒れて、父上が見舞いに行って薩摩守殿と会い、お松との縁談を決めて来た時だった。年が明けると、お松の婚約が公表された。あれは正月の十日だった。里々に会いに行ったら、里々はいなかった。あの後、一徳斎殿が亡くなり、翌年、父上も亡くなった。もう三年も前の事だった。

「女将さんには恩があるし、もう少し、小田原のお店で働かないと」と里々は言った。

 あれから三年間、里々は何をして来たのだろう。ふと、不安がよぎった。三郎右衛門は改めて、里々を見た。以前よりも落ち着いたように感じられるのは気のせいだろうか。

「もしかしたら、お前、嫁に行ったのではないのか」と聞いてみた。

「いいえ」と里々は首を振った。

「そうか‥‥‥」

 里々の答えを聞いて心は決まった。もう離したくはなかった。

「草津に戻って来ないか」

「草津に行っても、あたしが遊女だった事はみんな知ってるし」

 そんな事、気にするなと言おうとして、三郎右衛門はお松の事を思った。お松が里々の事を知っているのを思い出した。薩摩守も知っている。子供が生まれたばかりなのに騒ぎの元を連れ帰るわけにはいかなかった。

「そうだな、小田原にいた方がいいかもしれない。あそこは賑やかな都だし、あそこに住み慣れたら、草津なんかでは暮らせまい」

「そんな事はありません。あの、三郎様はいつ草津に帰るのですか」

「明日帰る」と言ってから、一日ぐらいなら延ばせるかもしれないと思った。

「明日ですか‥‥‥あのキサラギって娘、忍びの者なんですってね」

「キサラギがそんな事を言ったのか」

「いいえ。女将さんがそう言っていました。草津の山奥で忍びの者を育てているらしいって」

「お前、お澪っていう娘と仲良しだそうだが、あの娘も忍びなのか」

「お澪ちゃんのお父さんは風摩党の組頭なの。当然、お澪ちゃんも武芸の達人らしいわよ」

「やはりな。ただの娘ではないと思っていた」

「でも、小野屋の女将さんを継ぐのは大変な事ですよ」

「だろうな。店もあちこちにあるようだし、女手一つでよくやりこなすと感心するよ」

「あたし、お澪ちゃんを助けて、小野屋のために働こうと決めていたの」

 里々の目が輝いた。すでに、新しい生き方を見つけたようだった。

「そうか。それもいいかもしれないな」

「縁があれば、また会えますね」そう言いながら里々は寂しそうに笑った。

「ああ、会えるさ。きっと、また会えるさ。今度、会ったら昔みたいに一緒に飲もう」

「はい。楽しみにしております」

 三郎右衛門は里々と別れて真田屋敷に帰った。供の者たちが帰り支度をしていた。三郎右衛門も荷物をまとめるのを手伝った。中務少輔は甲府最後の夜だからと遊びに出掛けたが、三郎右衛門はそんな気分になれなかった。一人でぼうっと庭に咲く梅の花を眺めながら、里々の事を思っていた。寂しそうな目で三郎右衛門を見つめた里々の顔が頭から離れず、無理やりにでも草津に連れて帰り、内緒でどこかに隠しておこうかと考えていた。小さな宿屋をやらせてもいいし、お茶屋をやらせてもいい。方法はいくらでもあるが、やはり、お松の気持ちを考えるとそれはできなかった。三郎右衛門を信じて尽くしてくれるお松を裏切る事はできなかった。

 悶々としながら夜が明けた。三郎右衛門は里々を諦め、草津へと向かった。中務少輔は馬を並べて、昨夜、遊女屋でいい思いをしたと得意になって三郎右衛門に語って聞かせた。三郎右衛門はうわの空で聞いていた。キサラギから里々がどうなったか聞きたかったが、キサラギが三郎右衛門の前に姿を現す事はなかった。







 甲府から帰って来た三郎右衛門は二人の女に悩まされていた。一人はやっとの思いで忘れたのに、思いもしない場所で再会した里々、もう一人は陰ながら三郎右衛門を守って甲府まで行ったキサラギだった。

 二度と会う事はない、忘れようと思っても、再会した時の里々の顔が瞼から離れなかった。それに、顔付きも体つきも三年前と同じように見えたのに何かが違っていた。その何かがわからないのも気に掛かっていた。

 キサラギは甲府から帰るとやぼったい女中に戻って、何もなかったような顔をして台所で働いていた。生須村にいる父親が急に倒れたと言って半月間、休みを貰ったらしい。冬住みの間はキサラギもおとなしかった。三郎右衛門と出会っても、頭を下げるだけで言葉を交わす事もなかった。やがて、草津の山開きとなり、三郎右衛門はお松と子供を連れて草津のお屋形に移った。台所で働く女中たちも何人かは草津に移った。ムツキは草津に移ったが、キサラギは長野原に残ったらしい。

 その頃、上杉謙信が大軍を率いて関東に攻めて来るとの風聞が流れ、三郎右衛門は兵を率いて柏原城に詰めていた。草津の事は雅楽助に任せ、左京進と共に柏原城を取り返そうと攻めて来る白井勢と戦っていた。幸い、謙信の関東出陣は中止となり、白井勢も城攻めを諦めて引き上げて行った。三郎右衛門が長野原に戻って来たのは五月の初めだった。具足(甲冑)を脱ぎ、妻子のいる草津に行こうと思ったが、留守の間に起こった様々な事を片付けているうちに暗くなってしまい草津行きは諦めた。その夜、キサラギが三郎右衛門の部屋に突然、現れた。

「お屋形様、お話がございます」とキサラギは頭を下げたまま言った。

「何だ、何かあったのか」

 何か重要な情報を持って来たのかと思い、三郎右衛門はキサラギ見た。キサラギは顔を上げると真剣な顔付きをして三郎右衛門を見つめた。キサラギは素顔に戻っていた。女中の格好ではなく、少し着飾っているようだった。どこかに行って来たのかと思いながら、三郎右衛門はキサラギが話すのを待った。

 キサラギは何かを言いかけたか、何も言わずに俯いた。行灯(あんどん)の明かりのせいか、キサラギの仕草が色っぽく感じられた。

「どうしたんだ」と三郎右衛門は声を掛けた。

 キサラギは顔を上げると意を決したかのように口を開き、「あたし、お屋形様の事がずっと好きでした」と言った。

 突然の告白に三郎右衛門はうろたえた。

「お前、何を言ってるんだ」

「いいえ、聞いて下さい。お屋形様のために働きたいと思って、厳しい修行にも耐えて参りました。陰ながらお屋形様を助けようと決心いたしました。でも、毎日、お屋形様のお側にお仕えしているうちに、もう我慢ができなくなりました。お願いでございます。今宵、一夜だけ、お側に置いて下さいませ」

「お前、何を言っているんだ」

「お屋形様はあたしが嫌いなのでございますか」とキサラギは泣きそうな顔をして三郎右衛門ににじり寄って来た。

「嫌いではない。嫌いではないが、そんな事はできん」

「お願いでございます、お屋形様」

 キサラギは目に涙を溜めて、三郎右衛門に訴えていた。三郎右衛門はその涙に負けそうになったが、じっと堪えた。

「お前の気持ちは嬉しいが、それはできん」

「お松様のように名のある武将の娘でないと駄目なのでございますね」

「何を言う。そんな事はない」

「先代のお屋形様は側室をお二人もお持ちになられたと聞いております」

「お前を側室にしろというのか」

「いいえ、そんな事は言っておりません。たった一度、一度だけでいいのでございます。所詮、あたしは陰なのです。側室になれるとは思ってもおりません」

「陰か‥‥‥」

 思い詰めたようなキサラギに負け、その夜、三郎右衛門はキサラギを抱いた。鍛え抜かれたその体は、まるで鋼鉄のようにしなやかで、三郎右衛門が今まで知っている女とはまるで違っていた。そして、信じられなかったがキサラギは生娘だった。子供の頃から陰ながら三郎右衛門に憧れ、他の男には目もくれなかった。十六になった六月、東光坊の配下に声を掛けられ、三郎右衛門のために働けると喜んで山に入って修行を積んだ。その修行の中には遊女に化けるための手練手管もあったが、もと遊女だったという老女が師範だったため、実際に男に抱かれたわけではない。初めての仕事だった柏原城では敵の武将に抱かれそうになったが、最後の一線は守り通した。どうしても、最初の男は三郎右衛門以外にはいないと決めていたのだという。三郎右衛門に抱かれた後、これで思い残す事なく、どんな任務でもやり遂げられるとキサラギは寂しそうな顔をして言った。

 その後、キサラギはさえない女中に化けたまま、三郎右衛門に近づいて来る事はなかった。そのいじらしさが可愛く思え、キサラギの存在は三郎右衛門の心の中に深く入り込んだ。

 草津は賑やかだった。山開きの時、戦騒ぎがあって客の出足は悪かったが、五月になると続々、客がやって来た。天正二年(一五七四年)の暮れ以後、上杉謙信が攻めて来ないので関東の地では大戦がなく、人々は安心して旅をする事ができた。北条領の武蔵や武田領の信濃からの客が多く、時には小田原や甲府からはるばるやって来る者もいた。負傷兵の数も減り、湯治を兼ねた遊山旅の者も多くなって来た。

 当時、草津の事を宣伝していたのは白根明神に所属している山伏たちだった。彼らは先達(せんだつ)と呼ばれ、古くは各地にいる白根信仰の信者たちを白根山に連れて行き、その帰りに草津の温泉で精進(しょうじん)落としをしていたのが、いつの頃からか、白根信仰よりも草津の温泉に入る事を目的とした客が多くなり、宿屋の客引きのような存在になっていた。東光坊の配下の山伏たちも白根明神に所属していて、各地を旅して情報を集めるだけでなく、白根明神のお札を配って歩き、草津の宣伝もちゃんとしていたのだった。

 客が多く集まって来ると芸人たちも多く流れて来た。様々な商人たちもやって来て市を開き、草津は益々、賑やかになって行った。

 五月二十一日の善太夫の三年忌の二日前、小野屋の女将が草津に来たとの知らせが金太夫から長野原に届いた。去年の事もあるので岩櫃からの出陣令にすぐ対応ができるように準備をしてから、三郎右衛門は草津へと向かった。里々がその後、どうなったのか女将から聞きたかった。自然に心は逸り、三郎右衛門は馬を飛ばした。

 女将は金太夫の宿屋の最上級の部屋にいた。金太夫も去年に懲りて、今年はその部屋を女将のために確保していた。今年も北条家の名だたる武将を連れて来たのかと思ったが、そうではなかった。去年と同じく尼僧姿の女将は二人の女と一緒にいた。一人は幻庵の妻で琴音の母親だった。会うのは七年振りだった。琴音の事が心配なのか、白髪が増えて随分と老けてしまったように思えた。もう一人は琴音の母親と同年配の知らない女だった。

「いらっしゃいませ」と三郎右衛門は善恵尼に挨拶をし、「お久し振りです」と琴音の母親に頭を下げた。

「幻庵様から話を聞いて、是非、草津に行きたいとおっしゃるのでお連れしたのよ。今回はわたしも少しのんびりするつもりなの。よろしくお願いね」

「どうぞ、ごゆっくりしていって下さい」

「いつぞや、琴音もお世話になりまして、ずっとふさいでいたあの娘が、草津から帰って来てから、すっかり元気になって‥‥‥ありがとうございました」

 琴音の母親がそう言って頭を下げた。

「いつぞや、わたしもお世話になりました」ともう一人の女が言った。

「えっ」と三郎右衛門はその女を見た。顔に見覚えはなかった。しかし、その声には聞き覚えがあった。三郎右衛門は女の顔をじっと見つめた。顔付きはまったく違うが、その目には見覚えがあった。

「まさか、お前は‥‥‥」

「里々よ」と善恵尼が言った。「どうしても草津に帰るってきかなくてね、しょうがないから連れて来たのよ。あなたには会いたいけど、前の自分を知っている者には会いたくないってね。それで、あんな格好をして来たのよ」

「そうか、帰って来たのか」と言うと里々は三郎右衛門を見つめてうなづいた。

 何だか、変な気分だった。目の前にいるのは三郎右衛門の母親とも言える中年女だった。里々が化けているとわかっていても、中年女を必死になって口説いているような気分だった。それにしても、諦めていた里々が戻って来るとは夢を見ているようだった。

「まさか、その格好でずっといるつもりではあるまい」

「わたしが帰って来た事を誰にも知られたくはないのです」

「ずっと隠れて暮らすのか」

 里々は首を振った。

「その事は二人でゆっくりと話す事ね。わたしは若葉様と一緒にお湯に入って来るわ」

 善恵尼は三郎右衛門の後ろで控えていた金太夫も連れて出て行った。

 二人だけになると里々は三郎右衛門を見つめ、「わたしを月陰党に入れて下さい」と言った。

 思ってもいなかった事を言われ、三郎右衛門は戸惑った。里々の目は真剣そのものだった。確かに、月陰党に入れば誰の目に触れる事もない。しかし、遊女だった里々が厳しい修行に耐えられるとは思えなかった。

「やめた方がいい」と三郎右衛門は首を振った。

「お願いです。お屋形様のお役に立ちたいのです」

「気持ちはありがたいが、月陰党に入るには厳しい修行を積まなければならんのだ」

「修行は積みました」と里々は言った。

 三郎右衛門は驚いた顔をして里々を見た。キサラギたちと同じように変装する修行は積んだらしいが、他にも何かの修行を積んだのだろうか。

「草津を離れて小田原に行ってすぐに、わたしは風摩砦に入れらたのです」

「風摩砦だと? お前は風摩なのか」

 三郎右衛門は心の中で身構えた。里々は北条の忍びになって戻って来たのかと疑った。

 里々は落ち着いた顔をして首を振った。

「違います。風摩砦と言っても、風摩党とは関係ないのです。北条家の武術道場で、北条家の家臣の子息たちが修行を積んでいます。重臣たちの娘もいて、わたしも一緒に武術や芸事を習いました」

「風摩党とは関係ないのに風摩砦というのか」

「わたしも詳しい事は知りませんけど、初代の風摩小太郎様が、北条家の若い者を鍛えようと箱根の山中に道場を開いたそうです。いつしか風摩砦と呼ばれるようになったようですけど、風摩党とは関係ありません。そこで修行を積んで風摩党に入る人もいますけど、また別の所で修行するようです。その場所は誰も知りません。かなりの山奥のようです」

「ほう。すると風摩砦というのは別に秘密の場所でもないんだな」

「ええ、北条家の者たちなら皆、知っています。北条家の名だたる武将の方々は皆、若い頃、そこで修行を積んだそうです。でも、誰もが入れるわけではなくて、選ばれた者しか入れないと聞きました」

「お前は選ばれたのか」

「女将さんが推薦してくれたようです」

「素質があったんだな」

「そうかもしれません。武術なんて縁もなかったのに、自分でも不思議なくらい上達して行きました」

 三郎右衛門は膝の上に重ねられている里々の手を見た。見覚えのある手だった。手の甲を見ただけでは厳しい修行を積んだのかどうかはわからなかった。ただ、その手は顔のように老けてはいなかった。

「甲府でお前と再会した時、以前とどこかが違うと感じたのは、お前が武芸の達人だったからだな」

「武芸の達人だなんて、そんな」と里々は照れ臭そうに笑った。その時、右手を口元まで持って行った。

 三郎右衛門は自然な仕草で里々の右手をつかむと手のひらを眺めた。剣ダコができていた。里々は恥ずかしそうに手を引っ込めた。

「あたしなんかより、お澪ちゃんの方がずっと強いんですよ」

「お澪ちゃんというのは小野屋の跡継ぎだったな」

「そうです。わたし、お澪ちゃんと一緒に修行したんです。お澪ちゃんから風摩党に入れって言われたんですけど、わたし、断りました。風摩党に入ると決して抜け出せないと言われて、何となく恐ろしくなったのです。二年間、風摩砦で修行して、その後は小野屋さんで働いていました。女将さんにはお世話になりっぱなしだったし、少しくらいは恩返しをしようと思って。そして、甲府で三郎様と再会して、わたし、草津に戻ろうと決心しました。月陰党に入って、三郎様を陰ながら助けようと決めたのです。甲府から小田原に帰ったわたしは女将さんにその事を打ち明けました。女将さんは笑って、あなたがそういうのを待っていたのよと言って、お竹様というお婆さんを紹介してくれました。今は隠退しているけど、若い頃はくノ一と呼ばれる忍びの者として活躍したそうです。わたしはお竹様から忍びの術を習いました」

「お前が忍びの術を‥‥‥」三郎右衛門は唖然とした顔で、里々を見つめた。里々を見ているつもりでも、里々には見えなかった。

「忍びの術だけではありません。陰流の小太刀、薙刀、弓、吹矢、手裏剣、それに、笛や琴、歌や踊り、茶の湯などの芸事も身につけました」

「そいつはすごい」と思わず言ってから、三郎右衛門は里々の体を改めて眺めた。二年間もの厳しい修行を積んだのなら、キサラギのように引き締まった体をしているはずだったが、着物の上からはわからなかった。中年女に化けるため、腹の辺りに、かなりの布を巻き付けているようだった。

「女将さんは草津に帰って、娘さんたちを鍛えなさいって言いました」

「そうか。そいつはいい考えだ。お前が娘たちの師範になればいいんだ。東光坊も娘たちの扱いに困っていた。女のお前が師範になれば、すべてうまく行くだろう」

「はい、お願いします。わたしにやらせて下さい」

「うむ。俺の一存では決められないが、まず、大丈夫だろう」

 三郎右衛門はすぐに東光坊を呼んだ。もしかしたら、父円覚坊の三年忌のため真田に行ったかもしれないと思ったが、東光坊はまだ長野原にいて、すぐに飛んで来た。三郎右衛門が里々の事を話すと、

「そうか、戻って来たのか」と言いながらキョロキョロと辺りを見回した。

「お久し振りです。その節はお世話になりました」と里々は頭を下げた。

 東光坊はキョトンとした顔で、目の前にきちんと座っている中年女を見た。三郎右衛門は東光坊を見ながら面白そうに笑った。

「どういう事じゃ。浦島太郎の玉手箱でも開けたのか」

 東光坊に連れられて三郎右衛門と里々は草津の外れにある鬼ケ泉水へと向かった。里々は姿形だけでなく歩き方まですっかり中年女に成り切っていた。

 東光坊が何をするつもりか見守っていると、やがて、ムツキが小走りにやって来た。久し振りに見たムツキは相変わらずの田舎娘丸出しだったが、長野原にいた頃のように太ってはいなかった。やはり、あの時は着膨れしていたのだった。

 東光坊はムツキにその女を殺せと命じた。三郎右衛門は驚いてやめさせようとした。ムツキは東光坊と三郎右衛門を見ながら、どうしたらいいのか迷っていた。里々の方は驚いた風でもなく、平然とした顔で立っていた。

「お屋形様、月陰党は命懸けの忍び集団じゃ。ムツキに勝てないようなら月陰党に入る資格はない」

「しかし、何も真剣でやらなくても」

「師範になる程の腕があれば、ムツキの技など簡単にかわせるはずじゃ」

 里々は大丈夫というように三郎右衛門にうなづいてみせた。

 東光坊はやれとムツキに命じた。

 ムツキは厳しい顔付きでうなづくと、隠し持っていた匕首(あいくち)(鍔のない短刀)を抜き、里々に向かって斬りつけた。匕首が光を反射してきらめき、里々の首が斬られてしまうと三郎右衛門は顔をしかめた。里々は身軽に飛びのき、ムツキの匕首を避けた。二度三度とムツキは攻めるが里々は簡単にかわしていた。そして、匕首が宙に舞ったかと思うと、里々はムツキの腕を逆に取り、落ちて来た匕首を見事につかむとその刃をムツキの首に突き当てた。

「それまで」と東光坊が叫んだ。

 里々はムツキの腕を離し、匕首をムツキに返した。

「見事じゃ。それ程の腕になるには余程、厳しい修行に耐えて来たのじゃろう。今、山に、まもなく二年間の修行を終える娘が二人と一年間の修行を積んだ娘が四人いる。そして、来月、新たに五人の娘が入る。その娘たちに、そなたの技を仕込んでくれ」

 里々はひざまずくと、「かしこまりました」と東光坊と三郎右衛門に頭を下げた。

「この人、女の師範なのですか」とムツキが聞いた。

「そうじゃ。お前とキサラギも改めて、教えを請うがいい」

「はい、お願いいたします」

 里々はそのまま、ムツキと一緒に白根山中にある月陰砦へと入って行った。

 二人を見送りながら、「里々の強さがわからなかったのか」と東光坊が聞いた。

「あれ程に強いとは‥‥‥」三郎右衛門は呆然として、里々の後ろ姿を見つめていた。

「昔の里々に惑わされているんじゃよ。座っていた時も歩いている時もどこにも隙はない。初めて会った時、あれが里々だとはわからなかった。しかし、何者じゃろうと気になっていたんじゃ。ただ者ではない事はすぐにわかったぞ」

「そうだったんですか。俺もまだ修行が足りませんね」

「惚れた弱みじゃ。ところで、里々は何であんな姿で現れたんじゃ」

「遊女であった自分を恥じているようです」

「そうか‥‥‥ところで、お屋形様、未だに里々の事を思っているのか」

「忘れようと思っていたが、こんな身近にいるとなれば無理だろうな」

「昔から、女に惚れやすい性質(たち)だったからな。もう、わしは何も言わんよ」

 やれやれ、里々が戻って来るとは、と独り言を言いながら東光坊は帰って行った。

 三郎右衛門は振り返り、山の方を眺めた。すでに二人の姿は消えていた。

 善太夫の三年忌は生憎の雨降りだったが、法要も無事に済んだ。今年は白井勢も攻めては来なかった。三郎右衛門は善恵尼と琴音の母親を接待するため、法要が済んだ後も草津に残った。

 山に入った里々はその後、三郎右衛門の前には現れなかった。お屋形の女中に扮していたムツキもキサラギも改めて里々から武術を習うため山に入って行った。二人は小雨にあるお屋形の方に移されたという事になっていた。

 三年忌の日から毎日、冷たい雨が降り続いた。善恵尼たちは梅雨が上がるまで、草津にいようかしらと言っていた。そんな頃、甲府にいる真田喜兵衛より手紙が届いた。梅雨が明けた頃、武田のお屋形様の妹が二人、草津に行くので丁重に持て成してくれと書いてあった。そして、お屋形様自身の手で、よろしく頼むとも書いてあった。

 三郎右衛門は慌てた。武田のお屋形様の妹が来るなんて思ってもいない事だった。今まで、武田家の武将は来た事がある。武将たちの持て成し方はある程度、わかるが、武田一族の御寮人様の持て成し方はわからなかった。当然、二人だけではなく大勢の侍女たちも来るに違いない。三郎右衛門はどうしたらいいのかわからず、善恵尼に相談した。

「四郎様の妹二人というと松姫様と菊姫様かしら」と善恵尼はやはり知っていた。

「松姫様と菊姫様?」と三郎右衛門は聞いた。

「ええ、多分ね。もう一人、真里姫様がいらっしゃるけど、真里姫様は木曽様に嫁がれたはずよ。松姫様と菊姫様も婚約はしてらっしゃったんだけど、結局、お嫁にはいかなかったの」

 善恵尼は文机に座って何かを書いていた。尼僧になったので、写経をしているのかと思ったら、流麗な字で和歌が書いてあった。三郎右衛門が見ているのに気づくと恥ずかしそうに見ないでと言った。

「そのお姫様というのはおいくつなんですか」

「松姫様は十七歳位になるんじゃないかしら。菊姫様は十五歳位かしら」

「二人共、お嫁に行ってもいい年頃なんですね」

「そうよ。松姫様が婚約なさったお相手はね、織田様の御長男の勘九郎様だったのよ」

「ああ、思い出しましたよ。以前、岩櫃の海野能登守殿より松姫様の事は聞きました。何でも、織田弾正の方から信玄殿に頼んで婚約が決まったとか」

「そのようね。織田様は信玄様をもっとも恐れていましたからね。お二人が婚約なさったのはお二人共、まだ子供の頃だったのよ。婚約が決まると信玄様は松姫様のために新しい御殿をお建てになって、織田家の嫁として大切にお育てになられたの。でも、三方ケ原の合戦の時、徳川方に織田家の侍がいて、信玄様はお怒りになり、織田様と縁を切ってしまわれたの。でも、婚約は解消にはなさらなかった。松姫様はその後も新しい御殿に住んでいらっしゃった。菊姫様の方は信玄様が本願寺と手を結んだ時に伊勢の長島に嫁ぐ事が決まったの。でも、織田様に攻められて長島の本願寺門徒は全滅してしまった。菊姫様のお相手の方も戦死してしまったんじゃないかしら。信玄様がお亡くなりになると、お二人は兄上様がおられる信州の仁科郷(大町市)にお移りになったって聞いているわ」

 三郎右衛門は仁科郷というのがどこにあるのか知らなかった。後で調べればわかると思い、その事は善恵尼に尋ねなかった。

「今も仁科郷におられるのですか」

「多分ね。甲府にはおられないわね」

「仁科郷にいる兄上様というのは?」

「仁科五郎(盛信)様といって、松姫様、菊姫様と同じ母親なのよ。信玄様が仁科家を滅ぼして、五郎様にその名跡を継がせたの」

「という事はお二人の姫様は仁科郷から来られるのですね」

「多分、そうでしょう」

「どうしたらいいのでしょう。そんなお姫様が草津に来られた事はありません。どう持て成したらいいのかわかりません。申し訳ありませんが、金太夫やこの宿の者たちに色々と教えてもらえないでしょうか」

「そんな事はかまわないわよ。梅雨が明けたらいらっしゃるって書いてあったわね。それまで、草津にいてもいいわよ」

「えっ、本当ですか」

「わたしも跡継ぎができたしね。小田原の方はお澪がやってくれるでしょう。久し振りにのんびりしなくちゃね。それに、若葉様が草津を気に入ってしまって、なるべく長くいたいと言っているし。今もお湯に入りに行ったのよ」

「ありがとうございます。女将さんがいてくれたらもう何の心配もございません。よろしくお願いいたします」

「北条家と武田家は再び親戚になったんですものね」と善恵尼は笑った。「あなたはご存じかしら。武田四郎様の姉上様は北条家に嫁いだのよ。今のお屋形様(氏政)の奥方様は信玄様の長女だったの。でも、同盟が崩壊した時、奥方様は甲府に追い返されてしまったのよ。お屋形様と奥方様は仲睦まじかったのに可哀想だったわ。奥方様は無理やり子供とも別れさせられて、甲府に帰ると間もなく、悲しみのうちに亡くなられてしまったの。万松軒(氏康)様がお亡くなりになって同盟が復活すると、お屋形様はすぐに奥方様のお骨を分けていただいて、早雲寺内に黄梅院をお建てになられたのよ。その後、お屋形様は正室をお貰いになっていないわ」

「そんな事があったのですか」

「今の世は、武将の娘に生まれたら、なかなか幸せにはなれないのよ。松姫様と菊姫様も今後、どうなるかはわからない。せめて、草津に来た時くらいは楽しい思いをさせてやらなくちゃね」

「そうですね」と言いながら、三郎右衛門は琴音の事を思い出していた。

 五月の末、新たに三人の若者が二年間の修行を終えて山を下りて来た。雲月坊、残月坊、円月坊と名付けられた若者は砦で師範を務める行願坊に連れられて旅へと出て行った。ヤヨイ、ウヅキと名乗る娘は里々から武術を習うため砦に残っているという。

 去年、五人、今年も五人が月陰党に入った。このまま行けば、十年後には五十人に膨れ上がる。忍びの者が多くなるのはいいが、そう多くなると彼らを食わせて行く事ができなくなってしまう。三郎右衛門は心配になって東光坊を呼んで、その事を相談した。

「心配いらん」と東光坊は少しも気にしていなかった。

「山の砦で奴らは武術の修行だけをしているわけではない。炭焼きをしたり陶器を焼いたり、桧物(ひもの)や竹細工、薬を作ったり、弓の矢も作っている」

 職人に扮して敵地の乗り込む事もあるので、砦では武術だけでなく、様々な技術も身につけさせていた。

「しかし、それだけでは、奴らの修行中の食い扶持も出まい」

「うむ。はっきり言って、食い扶持はでない。この事はお屋形様には言いたくはなかったんじゃが、隠して置くわけにもいくまいな。忍び集団を作れと先代のお屋形様より命じられた時、わしは真っ先にその事を心配したんじゃ。わしの配下の山伏たちは霞場(かすみば)(縄張り)を持っていて、そこの信者たちを草津に連れて来たり、護摩(ごま)を焚いたりして、何とか食っては行ける。しかし、白根明神としても、毎年毎年、山伏を増やすわけには行かない。どうやって、奴らを食わせて行くかが問題じゃった」

「奴らも一応、白根明神に所属していると前に言わなかったか」

「あれは名目だけじゃよ。奴らの霞場は白根明神とは縁もない西国じゃ。山城(京都府)の国や播磨(兵庫県)の国を霞場に貰っても食っては行けまい」

「成程。それでどうする事にしたんだ」

「先代のお屋形様と相談して、敵地を撹乱する事で食い扶持を得る事に決めたんじゃよ」

 三郎右衛門がよくわからないという顔をしていると、

「早い話が略奪じゃよ」と東光坊は言った。

「食い扶持を盗むという事か」

「そういう事じゃ。戦になれば敵の兵糧を奪い取るのは当然の事じゃ。それを少し早めにやるという事じゃな」

「今までにどこを荒らしたんだ」

「主に白井城下じゃな。柏原城も敵に奪われた時、荒らした事がある」

「まるで、盗賊だな」

「そうかもしれんが、敵地を撹乱するのも戦じゃよ」

「そうか、わかった。ただ、盗賊働きをして、敵に捕まらないようにしろよ」

「その事は充分に心得ている」

 綺麗事だけでやって行けるとは思っていないが、まさか、月陰党が盗賊働きをしていたとは驚きだった。しかし、東光坊の言うように戦に略奪は付きものだった。負け戦になれば、金銀財宝は勿論の事、酒や食料は奪われ、女子供はさらわれた。信濃の佐久郡では武田家に反抗していた者たちが戦に敗れ、男たちは金山に送られて人足として死ぬまでこき使われ、女たちは遊女にさせられたと聞いている。敵から食料を奪い取る位は目をつぶらなければならない。この乱世を生き残るためには、その位の事はしなければならないのだと自分に言い聞かせた。

「話は変わるが里々はどうしているんだ」と三郎右衛門は何げなく聞いた。

 思っていた通り、東光坊はニヤニヤと笑った。「やはり、気になるようじゃな」

「あれ以来、姿を見ないからな」

「困ったもんじゃな」と言って、東光坊は積んである書物の上に載っていた絵地図を手に取って眺めた。善恵尼の話を聞いてから、仁科郷の位置を調べるために見ていた信濃の国の絵地図だった。

「あの後、里々は素顔を見せたよ。相変わらず、いい女子じゃった。ムツキの奴、素顔を見て跳びはねる程、驚いておった。中年女とばかり思っていたのが、自分と大して年が違わないんじゃからな。ビシビシと娘たちを鍛えておるよ。教えるのもなかなかうまい。そして、思った以上の強さじゃ。男たちも手玉に取っておる。もしかしたら、あそこにいる師範たちよりも強いかもしれんな」

「そんなにも強いのか」

 風摩砦と呼ばれる北条家の武術道場での二年間は、月陰砦の二年間よりずっと厳しかったに違いない。里々は何を思って、その厳しい修行に耐えて来たのだろうか。遊女から足を洗いたい一心だったのか。俺の事を忘れようと必死になっていたのだろうか。

「それにな、やはり女子じゃ。あの砦を住みやすいようにと次々に改良している。あの砦の近くに温泉の湧いている所があってな、今までは適当に穴を掘っては温泉に浸かっていたんじゃが、里々は石を組んで立派な露天風呂を作り、男たちに覗かれないように小屋掛けまでした。いい温泉じゃ。お屋形様も一度、来るがいい」

「あの近くにそんな所があったのか」

「なに、近くに温泉があって、水場もあるから、あそこを選んだんじゃよ」

「そうだったのか。そのうち、暇を見て行ってみよう」

「そうして下され。お屋形様が直々に顔を出せば奴らの励みにもなる」

「わかった」

 三郎右衛門は東光坊と共に長野原に移った。そろそろ、柏原城に詰めている兵を交替させなくてはならなかった。東光坊は白井の動きを探って来ると行って、そのまま出掛けて行った。もしかしたら、盗賊働きをするための下見に行ったのかと思ったが、三郎右衛門は何も言わなかった。

 六月の十日、東光坊が戻って来た。やけに早いなと思っていると後ろに水月坊、山月坊、新月坊と三人の若い者を従えていた。一年間の旅を終えて、少しは山伏らしくなっていた。

「白井城下でこいつらと会ってな、これから仁科郷に行って来ようと思っているんじゃ」

「仁科郷といえば」

「そうじゃ。御寮人様たちがいつこちらに向かうのかを知らせようと思ってな」

「それは助かる。お願いします」

 日が暮れるというのに、小雨の降る中、東光坊たちは出掛けて行った。彼らを見送ると三郎右衛門は自室に入り、武田家の姫たちの事を考えた。

 長女は同盟のために北条家に嫁ぎ、次女は親族の結束を固めるために穴山玄審頭に嫁ぎ、三女は木曽口を押さえるために木曽伊予守に嫁いだ。四女は早世、五女の松姫は敵となった織田勘九郎と婚約していて、六女の菊姫は本願寺の一族と婚約したが、相手は戦死してしまった。菊姫の場合、相手が亡くなってしまったので諦めもつくだろうが、松姫の場合はまだ生きている。幼い頃より織田家に嫁ぐと回りの者たちから言われ、本人もその気になっていたのだろう。ところが相手は武田家の最大の敵となってしまった。松姫は今、どんな気持ちでいるのだろうか。善恵尼が言ったように、草津にいる時は悲しい事は忘れて楽しい思いをしてもらいたい。草津に来た時の琴音のように、できるだけやりたいようにさせてやりたいと思った。

 ふと、人の気配を感じ、またキサラギが来たのかなと思って振り返ると、そこにいたのは里々だった。そこらにいる村娘という格好で、顔は素顔に戻っていた。三郎右衛門がポカンとしていると、

「御挨拶に参るのが遅くなって申し訳ございません」と頭を下げた。

「いや。お前の事は東光坊から聞いた。頑張っているようだな」

「はい。色々とやる事がございまして、ようやく、一段落いたしました」

「そうか。うまく行きそうか」

「はい、大丈夫です」と里々は微かに笑った。

 里々の笑顔を見たのは久し振りのような気がした。

「そうだ。一緒に酒を飲む約束だったな」

「覚えておいででしたか」と里々は嬉しそうに笑った。

「覚えているとも。楽しみにしていたんだ。すぐに用意をさせよう」

「お屋形様、それはうまくございません。こんな村娘と酒を飲むなどと言ったら家臣の者たちが怪しみます」

「うむ、それもそうだな」

 城下の飲み屋に行こうと思ったが、昔の里々を知っている者がいるかもしれなかった。

「いい所がございます」と里々が言った。「お誘いに参ったのでございます。今から出られますでしょうか」

「大丈夫だが、一体、どこに行くのだ」

「山の中でございます」

「なに、これから山の中に行くのか」

「雨もやみ、月が出ております」

「雨はやんだか。いいだろう。久し振りに山歩きをするか」

 三郎右衛門は家老の湯本弥左衛門に急用で草津に戻ると告げ、馬に跨がり里々を後ろに乗せて草津に向かった。草津の外れで馬を下り、月明かりの中、山中へと入って行った。

 里々は素早かった。三郎右衛門は必死になって後を追った。獣道のような細い道をどんどん山奥へと入って行く。道の下を沢が流れているのか、水の音が聞こえて来た。月陰砦に行くのだろうと思っていたが、どうも道が違うらしい。

 里々は少しも休まず、走るような速さで歩き続け、一度も三郎右衛門の方を振り返らなかった。半時(一時間)近くも歩き続けただろうか、やがて、湯煙りが立ちのぼるのが見え、河原のほとりに小屋が建っていた。里々の姿は見えない。

 小屋の中を覗くと囲炉裏の中で火が赤々と燃えていた。囲炉裏のある板の間には酒の用意がしてあり、片隅に着物が脱ぎ散らかしてある。その先に石で囲まれた湯船があり、里々の白い肌が火の光を浴びて輝いていた。

「さすが、お屋形様、見事について参りましたね」

 長い髪を頭の上にまとめて、里々は湯船の中で笑っていた。

「なに、あれ程の山歩きなど何でもない。若い頃には師匠に連れられて大和の大峯山も登ったんだ」

「東光坊様から聞きました。お二人であちこち歩き回ったそうでございますね。そんな所に立っていないで、どうぞ、お入りになって下さい。いい湯でございます」

「ここだったのか。お前が作った湯小屋というのは」三郎右衛門は小屋の中を見回してから草鞋を脱ぎ、板の間に上がり込んだ。

「修行者たちのために作りました。というのは口実で、実はお屋形様のために作りました」

「なに、俺のために」

「はい。お屋形様と二人だけになれる所が欲しかったのでございます」

「そうか。山中でなければ、お前と二人だけでは会えないのか」

「わたしはお屋形様の陰ですから、人前では会う事はできません」

「そうか、陰か‥‥‥」

 キサラギも前にそう言ったのを思い出していた。

「俺は甲府でお前に会ってから、お前を小田原から連れ戻して、側室に迎えようと思っていた。もう、それもできんのだな」

「お屋形様‥‥‥そう思っていただくだけで幸せでございます」

「陰か‥‥‥」と呟きながら三郎右衛門は着物を脱ぎ、湯船に入った。

「いい湯だな‥‥‥お前と一緒に湯に入るのも久し振りだ」

「もう遠い昔のような気がいたします。あの頃の里々はもう亡くなりました。そして、新しく生まれ変わったのでございます」

 まさしく、里々は生まれ変わっていた。遊女だった頃の寂しそうな面影や守ってやらなければならないと思うような頼りなさは微塵もなく、生き生きとした強い女になっていた。それでも、やはり、里々は里々で、あの頃と同じように愛しかった。いや、あの頃よりも、今の里々の方が愛しいかもしれなかった。

 三郎右衛門は里々の輝く瞳を見つめながら、引き締まった体を抱き寄せた。

 着替えもちゃんと用意してあった。雨露で濡れた着物を囲炉裏端に干し、乾いた着物に着替えると、二人は寄り添いながら酒を酌み交わした。





躑躅ヶ崎屋形跡




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