酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

井野酔雲






沼田攻撃







 北条軍が上野から引き上げた後、真田喜兵衛は着実に勢力を広げて行った。中之条古城、横尾八幡山城、尻高城を攻め取り、中山城、名胡桃城、箱崎城を調略をもって味方に引き入れた。小川城も時間の問題と言える。柏原城も攻め落とし、後は沼田の倉内城、白井城、廐橋城を奪い取れば、東上野へと進出できる事となった。廐橋城は箕輪の内藤修理亮が担当し、倉内城は喜兵衛が担当している。両城が武田方となれば、挟まれた白井城は自然に落ちるだろうと見られた。

 柏原城が落ちた後、白井勢が攻めて来る事もなく、表向きは平穏な日々が流れた。そんな頃、信濃仁科郷(大町市)より武田のお屋形様の弟、仁科五郎(盛信)が草津にやって来た。前もって知らせを受けていたので、三郎右衛門は金太夫の宿屋に部屋の用意をして待ち受けた。

 仁科五郎は十人の供を連れただけの軽装でやって来た。その供の中に二年前、御寮人様を連れて来た落合九郎兵衛がいた。

「その節はえらいお世話になった。後で御寮人様から聞いたんじゃが、そなたはすべてをご存じだったそうじゃのう。二人とも心から喜んでおったわ。ありがとう」

「いえ。お客様に楽しんでいただくのが、わたしどもの勤めでございますから」

「そうか、そうか。今回、我らのお屋形様は高遠に移る事になった。織田徳川に対する前線に行くわけじゃ。これからはのんびりもできまいと思われ、草津に来たんじゃよ。よろしく頼むぞ」

 九郎兵衛は陽気に笑った。前回は御寮人様を守る任務があったので緊張していたが、今回はお屋形様のお供なので、いくらか気が楽なのかもしれなかった。

「どうぞごゆっくりして下さいませ」と三郎右衛門は丁寧に頭を下げ、充分な持て成しができるように九郎兵衛から五郎の好みを聞いた。五郎が酒好きなのは知っていたが、やはり、女の方も好きらしい。三郎右衛門は草津中の遊女屋から美しい女たちを集めて宴に出させるように金太夫に命じた。すでに、金太夫の宿屋には里々たちが仲居として入り、仁科五郎を陰ながら守る手筈となっていた。

 村内を見て歩いた後、滝の湯に入った五郎は美女たちに囲まれて御機嫌で酒を飲んでいた。三郎右衛門も五郎に勧められるまま宴に加わり、五郎の隣に座っていた。

「やはり、いい所だ。お松やお菊の話を聞いて、俺も行きたくなってな、思い切って出て来たんだ。来てよかったよ」

「お松御寮人様は出家されたまま甲府におられるのですか」

「うむ。今は甲府にいるが、俺は高遠に呼ぼうと思っているんだ。出家したとはいえ、甲府にいると何かとうるさいらしい。越後と同盟して、誰かが喜平次のもとに嫁がなくてはならなくなった。お屋形様はお松にも声を掛けたらしい。お松はきっぱりと断り、お菊が行く事になったんだが、お菊にとって、それが幸せなのかどうか、俺にはわからん」

 五郎は遠くを見つめるような目をして首を振った。三郎右衛門は二年前のお菊御寮人様の面影を思い出していた。あの時はまだ十五歳で、あどけない顔をしていた。

「お菊御寮人様がご自分で行くとおっしゃったのですか」と三郎右衛門は聞いた。

 五郎はうなづいた。「あいつも嫁に行く事など諦めていたからな。突然、湧いて来た話に戸惑ったようだが、あいつはお松のように出家するような度胸はない。自分が行くしかないと諦めたんだろうな。喜平次という男、滅多に口も利かず、何を考えているのかわからん男だという。苦労すると思うが、幸せになってくれと願うしかないわ」

 その夜は疲れたと言って、五郎は気に入った遊女を連れて早めに休んでしまった。

 次の日は天気がよかったので、三郎右衛門が案内して白根山に登った。山の中の仁科郷で育った五郎は山登りが好きらしく、まるで、山伏のように足が達者だった。

 その日、落合九郎兵衛は雅楽助の案内で岩櫃城に向かった。九郎兵衛は海野能登守の弟子だという。前回来た時、是非とも会いたかったが、御寮人様を放って勝手な事はできないと諦めた。今回は五郎に許可を得、喜んで師匠に会いに出掛けた。能登守は吾妻に帰って来る前、甲府にいた事があり、九郎兵衛はその時、弟子となって能登守から新当流の武術を習っていた。

 白根登山から帰ると五郎は温泉に入って汗を流し、その夜も美女に囲まれて酒を飲んだ。五郎は三郎右衛門と酒を飲みながら身の上話をポツリポツリと語り始めた。

 五郎が仁科氏を継いだのは十一歳の時で、甲府から仁科郷に移ったという。移った当時は、仁科氏を滅ぼした武田に反発する者が多くて大変だったが、領民たちのために働き、何とか領内をまとめて来た。今ではお屋形様として、一応、認められたらしいと笑った。木崎湖畔に建つ森城の城主として海津城の春日弾正と共に越後に対する守りを固めて来た五郎は、上杉と武田が同盟した事によって、その役目を終え、新たに織田徳川に対する守りを固めるために高遠城へ移動する事になった。仁科郷の方は本拠地として家老の等々力次右衛門が留守を守る事になっているという。

 五郎は酒が強かった。年齢は三郎右衛門と同じ位かと思っていたが、話を聞いているうちに三つ年下の二十三歳だとわかった。うまい酒だと言いながら五郎は満足そうに盃を重ねた。その酒は小野屋から取り寄せた伊豆の銘酒、江川酒だった。五郎は御機嫌で、昨夜とは違う遊女を誘って寝間に入った。

 次の日は生憎の雨降りで五郎は温泉巡りで一日を過ごし、夜になるとまた宴を開いた。その夜は仲居に扮していた里々たちが芸を披露した。里々の横笛、ミナヅキの琴、サツキの鼓に合わせて、フミツキ、ハヅキ、ナガツキ、そして、もう一人、見た事もない女が華麗に踊った。

「ほう、さすがだな。仲居たちも一流の芸を身につけているとは、草津で一番の宿屋だけの事はある。見事だ」

 五郎はうっとりしながら、フミツキたちの踊りに堪能した。三郎右衛門も彼女たちの踊りを見るのは初めてで、大したものだと感激した。殺されたムツキたちも北条家の武将たちに、あのような踊りを披露したに違いない。そう思うと可哀想な事をしてしまったと改めて悔やまれた。

 踊りが終わった後、五郎は盃を差し上げたいと言って仲居たちを呼んだ。仲居たちは一人づつ名を名乗り、遠慮しながら盃を頂戴した。見た事もない女はフウゲツと名乗った。三郎右衛門は驚いて、一瞬、身を引いた。よく見ると風月坊の女装姿だった。美女たちの中にいても決して見劣りしない程、女っぽかった。七人の美女たちは丁寧に頭を下げると引き下がって行った。

「仲居にしておくには勿体ない女子たちだな」五郎は仲居たちの後ろ姿を見送りながら言った。

「なにせ、この宿には身分の高いお客様が御利用いたしますので、それなりの仲居を揃えておかなければならないのです」と三郎右衛門は説明した。

「成程な。今まで、どのようなお方がこの宿に泊まったのだ」

 五郎は興味深そうな目を仲居たちから三郎右衛門へと移した。

「武田家の武将、あるいは北条と同盟していた頃は北条家の武将も利用いたしました。わたしが家督を継いでからはお松御寮人様とお菊御寮人様が一番、高貴なお方でございました」

「あの二人が一番か」と五郎は笑った。

「なにせ、高貴な御婦人方が来られたのは初めてでございまして、どう接待したらいいのか、まごついてしまいました」

「そうだったのか。そいつはすまなかった。草津の湯は一体、いつ頃、開かれたのだ」

「言い伝えでは天平年間(七二九〜七四八年)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)殿が開いたと言われております」

「天平年間とはいつの事だ」

「およそ八百年程前の事でございます」

「ほう、八百年か。この宿屋はその当時から続いておるのか」

 女装した風月坊とハヅキが新しい酒を運んで来た。五郎はチラチラと仲居たちを見ていた。五郎が風月坊を気に入りはしないかと冷や冷やしながら三郎右衛門は話を続けた。

「その当時、宿屋があったかどうかはわかりません。湯本家の先祖が草津にいたかどうかもわかりません。建久四年(一一九三年)、源頼朝殿が三原野の狩りに来られましたおり、草津に上ってまいりました。その時、頼朝殿の御案内をした者がわたしどもの先祖で、頼朝殿より湯本の姓と三日月の家紋を賜ったと言い伝えられております」

「ほう。頼朝殿といえば鎌倉に幕府を開いた源氏の大将だったな。その頼朝殿が草津に来ていたとは知らなかった」

「それ以後、湯本家は草津を守ってまいりました。その当時、鎌倉の武将たちが草津に来られたと思われますが記録には残っておりません。記録に残っております所では百年程前、本願寺の蓮如(れんにょ)上人様が来られたと聞いております。連歌師の宗祇(そうぎ)と宗長も来られたようでございます」

「おう、宗祇、宗長というのは聞いた事があるぞ。なあ、九郎兵衛」と五郎は岩櫃から戻って来た落合九郎兵衛に声を掛けた。

 九郎兵衛は真っ赤な顔をして、うなづいた。顔付きに似合わず、酒はあまり強くないようだった。

「連歌をする者にとって、宗祇殿、宗長殿というお方は神様のような存在でございます」

「九郎兵衛には神様が何人もいるんだよ」と言いながら五郎は楽しそうに笑った。

「なあ、おぬしの神様を湯本殿に教えてやれ」

「はい。新当流の流祖、塚原卜伝殿、茶の湯の開祖、村田珠光殿、それに、先代の武田のお屋形様でございます」

「もう一人おるだろう」

「はっ、さて、どなたであったろう」九郎兵衛は無骨な指を折りながら考えていたがわからないようだった。

「おぬしのかみさんだよ」と五郎は言った。

「ははっ、もっともで。恐ろしい神様でございます」

 九郎兵衛の言った事に皆、大笑いをした。

「九郎兵衛は俺の(もり)役でな。様々な事を教わった」

「すると、仁科殿も新当流を」

「ああ、厳しく仕込まれたわ」

「岩櫃の師匠より聞いたんじゃが、湯本殿は新陰流の達人らしいのう」と九郎兵衛が言った。

「ほう、新陰流か。新陰流といえば上泉伊勢守殿だな。噂は聞いている」

 三郎右衛門が京都で修行を積んだと言うと、是非、聞かせてくれとせがまれ、三郎右衛門は京都の話を聞かせた。話が織田信長の事に及ぶと五郎は真剣な眼差しで聞いていた。

 翌朝、挨拶に行くと五郎は三郎右衛門を近くまで呼び寄せ、「お松から聞いたんだが、山の中にいい温泉があるそうだな。そこに連れて行ってはくれんか」と言う。

 三郎右衛門がうなづくと、

「頼みがあるんだが、仲居のハヅキを連れて行くわけにはいかんかな」と五郎は照れ臭そうに言った。

「ハヅキですか」

「うむ。無理ならいいのだが」

 昨夜、五郎は遊女を誘わなかった。おかしいと思っていたが、どうやら、ハヅキが気に入ったらしい。

「本人に聞いてみます」

「頼む」と言いながら五郎は笑った。その笑顔は武田家の武将ではなく、二十三歳の若者の笑顔だった。三郎右衛門は五郎の素顔を見たような気がした。

 里々とも相談し、ハヅキの気持ちを聞くと、喜んで承諾した。三郎右衛門は五郎と九郎兵衛と小姓の清水栄次郎、そして、里々、ハヅキ、ナガツキ、九郎兵衛のお気に入りの遊女、深雪を連れ、山中の湯小屋へと向かった。小姓の栄次郎はまだ十五歳の若武者で、なかなかの美男子だった。来た当初より遊女たちに騒がれていた。それでも、本人は知らぬ顔をして常に五郎の近くに控えていた。

 ハヅキが湯本家の重臣の娘だと思い込んでいた五郎は、ハヅキが領内の農民の娘だと知って喜んだ。ハヅキは里々に言われた通り、月陰党の事は隠し、十歳より金太夫の宿屋に奉公して、様々な芸事を習ったと言った。

 三郎右衛門は五郎に誘われ、共に湯に浸かった。栄次郎と九郎兵衛は恐れ多いと遠慮した。当然、女たちも遠慮して入らなかった。宿から用意して来た弁当と酒を飲み、楽しい一時を過ごした。

 五郎は湯小屋が気に入り、翌日は里々に案内させ、ハヅキだけを連れて出掛けた。帰って来ると、五郎は三郎右衛門を呼び、ハヅキを忘れる事はできない。できれば、このまま連れて帰りたいと言った。里々から二人の様子を聞くと、五郎とハヅキは仲良く温泉に浸かり、五郎が話す仁科郷の事など興味深そうに聞いていたという。

 三郎右衛門は東光坊を呼び、里々も交えて相談した。武田家中に湯本家の忍びが入るのも今後のためにはいいかもしれないという事となり、連絡役として誰かを密かにつける事に決まった。

 五日間、草津に滞在した五郎は、「いい骨休みになった。高遠に行ってからも暇を見つけてまた来よう。その時はお松も連れて来るよ」と機嫌よく言って、ハヅキを連れて帰って行った。その後を山伏姿の水月坊と光月坊が従った。

 草津の『万屋』にいた水月坊は東光坊の話を聞くと真っ先に自分が行くと言い出した。ハヅキの事が好きなのかと聞くと、そうではなく、お松御寮人様にもう一度、会いたいという。

 水月坊はお松御寮人様が甲府に行って出家した事を知らなかった。まだ、仁科郷にいるものと思っていた。東光坊が出家した事を告げると水月坊は驚き、「何という事を‥‥‥」と嘆いた。

「仁科殿は今度行く事となった高遠に、お松殿を呼ぶと言っておった。もしかしたら、会えるかもしれんぞ」

「出家しても構いません。お松御寮人様を陰ながら守ってさし上げたい」と水月坊は顔を赤くして言った。

「もし、お松殿が高遠に来られたら、守ってやる事じゃな」と東光坊が冗談半分に言うと、「はい、命に代えましてもお守り申し上げます」と真面目な顔付きで答えた。

 水月坊は浮き浮きしながら、光月坊と共に仁科郷に出掛けて行った。

 八月の末、箕輪城主の内藤修理亮は廐橋城の北条安芸入道を内応させる事に成功した。安芸入道は伜の丹後守を越後の戦で亡くし、本拠地の北条城も奪われてしまった。七十歳近くになって何もかも失った安芸入道は武田を相手に戦をする気力もなく、内藤修理亮と玉村の宇津木左京亮の誘いに乗ったものと思われる。

 九月になり、真田喜兵衛が甲府から帰り、草津にやって来た。真田の兵たちは先に岩櫃城に向かったが、久し振りに温泉に入りたくなってやって来たという。

「仁科殿が来たらしいな」と滝の湯に浸かりながら喜兵衛は言った。

「はい。高遠城に移るそうですね」

「うむ。織田徳川と戦うにあたって仁科殿を遊ばせておくわけには行かないからな」

 小雨が降っているせいか、滝の湯は珍しくすいていて、喜兵衛と三郎右衛門の二人だけだった。

「北条を敵に回してしまい、織田徳川に集中できなくなりましたね」と三郎右衛門は言った。

「今更、言っても仕方あるまい。何とか、今の状況を乗り越えなくてはならない」

「武田のお屋形様に嫁いだ北条の奥方様はどうなるのです。北条に返すのですか」

「いや。お屋形様は返すおつもりだったが、奥方様はお断りになったそうだ。姫様もお生まれになられ、実家とはきっぱり縁を切ると言ったらしい。奥方様と共に甲府にいた北条家の者たちは奥方様と共に残った者もいるし、帰った者もいる」

「そうでしたか。実家と縁を切って残られましたか」

「奥方様がおられる限り、いつの日か、また、北条と武田が結ぶ事もあるかもしれん。先の事はまったくわからんからな」

「そうですね。先の事はわかりません」

「わしらのやるべき事は上野の平定だ。上野から北条を追い出さなくてはならん」

「いよいよ、沼田攻撃ですね」

「うむ。今回の作戦は武田のお屋形様の伊豆攻撃と同時に行なわれる。北条軍は武田の大軍を迎え撃つため、伊豆に兵を集中させ、上野に兵を送る事はできないだろう。沼田を落とす絶好の機会だが、まだ時期が早過ぎる。まずは利根川以西を固めなければならん。名胡桃城、小川城、そして川田城を落とすのが、今回の目的だ。利根川の渡河点を手に入れん事には沼田は攻められんからな。中山にいる叔父御(矢沢薩摩守)が婿殿(海野中務少輔)と一緒にうまくやっているらしい」

 三郎右衛門が薩摩守の事を聞こうとしたら、女たちの笑い声が聞こえて来た。声のする方を見ると、若い娘が四人、キャーキャー騒ぎながら入って来た。湯船の中を見て、すいていてよかったと言い合いながら着物を脱ぎ始めた。草津の娘たちではなかった。湯治客らしい。娘たちはキャーキャー言いながら裸になると湯船に入って来た。

 喜兵衛は目を点にして娘たちを眺めていた。三郎右衛門の視線に気づくと、照れ臭そうに笑い、「目の保養だな」と言って、楽しそうに滝を浴びている若々しい娘たちの姿を堪能した。

 翌朝早く、三郎右衛門は喜兵衛の供をして岩櫃に向かった。三郎右衛門の兵たちも昨日のうちに岩櫃城に入っていた。

 軍議の席で、上杉が味方となり北条が敵となったので、新たに北条に対する守りを固めるための配置替えが行なわれた。北を守っていた者たちは沼田攻めに加えられたが、東を守っていた者たちはそのままという事になった。三郎右衛門は兵を引き連れて柏原城に入り、守りを固めた。

 その頃、北条相模守(氏政)は武田氏を挟撃しようと徳川三河守(家康)と同盟を結んでいた。







 天正七年(一五七九年)九月十五日、武田四郎(勝頼)は大軍を率いて伊豆に出陣し、黄瀬川を挟んで北条相模守(氏政)の軍と対峙した。お互いに戦うのは初めてだった。北条の先代のお屋形様、万松軒(氏康)が亡くなった後、武田と北条の同盟は結ばれ、以後、七年間、同盟は続いた。天正五年には四郎と相模守の妹の婚礼があり同盟が強化されたにもかかわらず、上杉謙信の突然の死によって同盟関係は破れた。

 四郎は川向こうに展開する北条軍を眺めながらも後方が気になっていた。北条と同盟を結んだ徳川三河守(家康)が動けば挟み撃ちを食らってしまう。目の前の敵に集中して攻撃を仕掛ける事ができなかった。思った通り、三河守は動いた。十七日に掛川に出陣したとの報が入ると四郎は大した攻撃もせずに兵を引き、江尻城主の穴山玄審頭(げんばのかみ)に徳川の動きを警戒させて甲府に帰った。北条軍も追撃する事なく引き上げて行った。

 その頃、岩櫃城にいた真田喜兵衛は北条軍に備えながら着実に沼田攻めの下準備を進めていた。前以て調略のしてあった下川田城、上川田城、名胡桃城は真田軍に包囲されると抵抗する事もなく開城した。下川田城主の山名信濃守、上川田城主の発知(ほっち)図書助、名胡桃城主の鈴木主水正が越後に送った人質は武田の手に移っていた。人質の無事を喜び、三人は武田に忠誠を誓った。ただ、北条にも人質を取られているため、今後の展開次第ではまた寝返る事も考えられる。早いうちに沼田の倉内城を落とさなければならなかった。

 小川城は飽くまでも北条に付くべきだと主張していた南将監(しょうげん)が、小川可遊斎と北能登守に城を追い出され、武田方となった。南将監は利根川を渡り、対岸にある明徳寺城に逃げ込んだ。

 真田軍の大将、矢沢薩摩守は中山城から本陣を名胡桃城に移し、利根川以西の下川田城、上川田城、名胡桃城、小川城に吾妻衆を入れて守りを固め、倉内城を窺っていた。

 作戦成功の知らせが岩櫃に届くと喜兵衛は名胡桃城の対岸にある明徳寺城を攻略するため、自ら兵を率いて名胡桃城に向かおうとした。ところが、廐橋より北条軍が進攻して来たとの報が入った。喜兵衛は名胡桃行きを中止し、前線の柏原城と岩井堂城に警戒するよう命じた。

 五千余りの兵を引き連れた北条安房守(氏邦)は武田に寝返った廐橋城を包囲し、軽く威嚇した後、北上して白井城に入った。

 柏原城を守っていた三郎右衛門たちは守りを固めて、北条軍の動きを見守った。武田に奪われた柏原城を取り戻すため、大軍が攻めて来る事も充分に考えられた。もし、攻めて来たら、決して城を明け渡す事なく、北条軍を足止めさせてやろうと城兵は皆、必死の覚悟を決めた。しかし、北条軍は攻めては来なかった。柏原城など、いつでも落とせると甘く見たのか、沼田へと向かって行った。

 十月二十一日、北条軍の名胡桃城と小川城の攻撃が始まった。名胡桃城と小川城は利根川の西岸の崖上にある城で、一里も離れていない位置にあった。利根川を渡った北条軍は二手に分かれて両城に猛攻を加えた。各地で小競り合いが始まったが、矢沢薩摩守は無理をさせず、籠城戦に持ち込んだ。すでに十月も末、一月、我慢すれば雪が降って来る。雪に弱い北条軍は引き上げるに違いないと見ていた。

 予想より早く、十一月の初めに大雪が降って来た。一晩で二尺余りも積もった雪は両城を囲んでいる北条軍の動きをふさいだ。さらに、やむ気配もなく降り続く雪に兵たちの動揺が広がり、安房守は歯噛みしながらも引き上げ命令を下した。雪解けまで情勢が変わる事はないと判断した安房守は、倉内城を藤田弥六郎、渡辺左近允、金子美濃守に任せ、猪股能登守を撤退させる事とし、利根川の渡河点を堅守するため明徳寺城の守りを強化して引き上げて行った。

 伊豆から甲府に戻って来た武田四郎は喜平次との約束を果たすため、お菊御寮人様の嫁入りの準備を始めた。十月二十日、お菊御寮人様は信松尼となったお松御寮人様に別れを告げ、越後に向けて旅立って行った。小諸城主の武田左馬助が護衛として従った。

 花婿の喜平次は二十五歳、花嫁のお菊御寮人様は十七歳。春日山城下はまだ戦後の復興が間に合わず、荒れ果てていたが、お菊御寮人様は城下挙げての大歓迎を受けた。婚儀も盛大に行なわれ、甲斐の御前様と皆から尊称された。

 甲府に来ていた仁科五郎は妹を見送ると高遠城へと入った。

 高遠城は元々、諏訪一族の城で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした後、秋山伯耆守が伊那郡代として入り、四郎が諏訪氏を継ぐと秋山伯耆守に代わって城主となった。信玄の嫡男、太郎(義信)が自害してしまうと、四郎は甲府に呼ばれ、信玄の弟、逍遙軒が入った。そして、今度、四郎の弟、仁科五郎が城主となり、逍遙軒は下伊那の大島城(松川町)へと移り、織田徳川に対する守りを強化した。

 十一月半ば、四郎は十三歳になった嫡男、武王丸を元服させ、武田太郎信勝を名乗らせると再び、伊豆へと出陣して行った。

 年が明け、天正八年(一五八〇年)の正月十一日、真田喜兵衛は兵を率いて、岩櫃城から名胡桃城へと移り、沼田攻撃を再開した。雪のあるうちに一気に倉内城を落とすべく、各地から兵をかき集めて沼田攻めに参加させた。柏原城からも植栗河内守が参加する事となり、兵を率いて名胡桃城へと向かって行った。河内守が抜け、三郎右衛門は柏原城を任される形となり、沼田攻めには参加できないが、ようやく思い通りに作戦を立てられると張り切った。

 三郎右衛門たちが柏原城を狙っていた時、箱島の寄居城を前線基地にしたように、白井勢は祖母島の福島城を前線基地として柏原城の奪回を狙っていた。福島城と柏原城との距離は一里も離れていない。目障りな福島城を落としてしまえと三郎右衛門は東光坊を呼び、作戦を練った。

「あの城を守っているのは福島佐渡守じゃ。この城の攻防戦の中心になっているのが奴で、前回、狐火の時も大将として、この城を守っていた。奴がいる限り、再び、この城を奪い取ろうとするじゃろう。そろそろ眠ってもらった方がいいかもしれんな」

 三郎右衛門は東光坊の顔を見つめ、「暗殺するのか」と小声で聞いた。

 二人は植栗河内守が使っていた本丸屋敷内の囲炉裏の間にいた。この城にある屋敷は城主が代わる度に何度も焼け落ち、その都度、建て直していた。今の屋敷は去年の七月に河内守が縄張りをして建てたものだった。吾妻川に面した崖上にあるため、冬は冷たい風が強く、寒さが厳しかった。河内守は自分の部屋にも囲炉裏を作っていた。

「それもできん事はないが、それをやるとお屋形様の名に傷がつく。卑怯な真似はしない方がいいじゃろう。とにかく、敵の動きを探り、いい方法を考えよう。ところで、高遠から光月坊が戻って来た」

「水月坊の奴はお松御寮人様と出会えたようか」と三郎右衛門はニヤニヤしながら聞いた。

「甲府で会ったらしいな」と東光坊も笑いながら答えた。「今は信松尼と名乗っているそうじゃが、尼になっても思わず見とれてしまう程に美しく、あれなら水月坊が惚れ込むのも無理はないと光月坊も納得しておったわ」

「信松尼様か‥‥‥」

 お松御寮人様が草津に来てから二年半が過ぎていた。あの時、すでに出家する覚悟を決めていたのだろうか。あの時より、さらに美しさを増したであろうお松御寮人様の尼僧姿を思い描きながら、三郎右衛門は御寮人様の今の気持ちをあれこれと考えてみた。五郎が言うように未だに許婚者(いいなづけ)の事を思い続けているのか、それとも、今の世をはかなく思って仏の世界に身をゆだねたのか‥‥‥結局、何を考えているのか、わからなかった。ただ、出家した者にいうのもおかしなものだが、幸せになってもらいたいと願った。

「信玄殿の『信』とお松の松いう字じゃ。武田家では代々お屋形様は『信』という字を名乗っておられるんじゃ。今のお屋形様は諏訪家をお継ぎになられたので『信』の字を名乗らなかったがのう。お松殿は出家するにあたって、武田家の『信』を貰ったとみえる。ただ、お松殿の許婚者だった織田勘九郎の(いみな)も信忠じゃ。もしかしたら、そっちの『信』を貰ったのかもしれん」

「織田家も代々、『信』を名乗っているのか」

「そのようじゃな。仁科五郎殿は高遠城内に信松尼様のために新しい屋敷を建てているらしい。桜の咲く頃、信松尼様を呼ぶそうじゃ」

「そうか、水月坊の願いがかなったという所だな。それで、ハヅキの方はどうなんだ」

「五郎殿の奥方様は今、妊娠中でな、仁科郷にいるんじゃよ。子供が産まれても、すぐには高遠までは行けんじゃろう。ハヅキは側室に迎えられて、五郎殿と仲睦まじく暮らしているそうじゃ」

「それはよかった」と三郎右衛門は安心した。女好きな五郎は何人も側室を持っていて、ハヅキが肩身の狭い思いをしているのではないかと心配していたが、そんな事もないようだった。

「仁科郷に行って、すぐに側室に迎えられたのか」

「いや、そうではないらしい。仁科郷では落合殿の屋敷にいたそうじゃ。五郎殿も奥方様には弱いらしい。高遠に移ってから、晴れて側室として迎えられたようじゃ」

「すると奥方様はハヅキの事を知らないのか」

「今の所はな。噂ではハヅキは湯本家の娘だと思われているらしいぞ」

「それは光栄じゃないか。たとえ、側室であれ、湯本家の娘が武田のお屋形様の弟に嫁いだ事になる」

「そうじゃな。もし、ハヅキが男の子を産めば跡継ぎ様になるという事も考えられる」

「そうか。そこまでは考えなかった。正式に養女にしておけばよかった」

「十九のハヅキが、二十七のお屋形様の娘になるのか」

「養女なら別に構うまい」

「構わんがの。なに、心配しなくても、五郎殿も噂通り、湯本家の娘として奥方様に紹介するに違いない。どこの馬の骨ともわからない娘を側室に迎えたと言えば反対されるに決まっている。武田家の家臣の娘と聞けば奥方様も仕方ないと諦めるじゃろう」

「そううまく行けばいいがな」

「なに、うまく行くさ。何なら、お屋形様がハヅキを養女に迎えたという書き付けをハヅキのもとに届けるがいい」

「おう、それがいい。さっそく、書くとしよう。光月坊はまだいるのか」

「いや、もう戻った。他の奴に頼めばいい」

 三郎右衛門は去年の正月の日付で、ハヅキを養女に迎えたという書き付けと我が娘、ハヅキをよろしくお頼み申すという仁科五郎宛の手紙を書き、東光坊に渡した。

「ハヅキのお陰で、仁科家の者たちが親しみをもって草津に来る事となろう」

 そう言って笑うと東光坊は去って行った。

 二日後、キサラギがサツキ、ミナヅキ、フミツキ、ナガツキの四人の娘たちを率いてやって来た。里々は体の具合が悪いとかで砦に残っているという。

 三郎右衛門がキサラギを抱いてから三年近くが経っていた。あの後、キサラギは一度も三郎右衛門に近づいて来なかった。師範代として砦にいる事が多く、久し振りに見るキサラギは外見はまったく変わってないのに、忍びとしての貫禄が充分に感じられた。

 キサラギたちはみすぼらしい農婦に扮して、様子を見て来ると言って、冷たい北風の吹く中、出掛けて行った。北条の風摩党を恐れ、若い者たちの活動は自粛されていたので、キサラギたちは張り切っていた。

 柏原城は吾妻川の支流、沼尾川の西岸にあり、沼尾川が武田領と北条領を分けていた。柏原城が北条領だった頃は沼尾川には吊り橋が架けられてあったが、今は防衛上、橋はない。キサラギたちは身軽に崖を下り、対岸へと向かった。

 すぐに戻って来るだろうと思ったのに、なかなか戻って来なかった。キサラギたちより先に東光坊が新月坊、山月坊、円月坊、風月坊を連れて行っているはずだが、何をしているのか連絡はない。雪でおおわれた対岸を眺めながら、三郎右衛門はキサラギたちの心配をしていた。風摩の者たちがこんな所にいるとは思えないが、もしや、殺されてしまったのではと不安だった。

 夜になって、ようやく東光坊が戻って来た。

「敵は油断している。まさか、福島城まで攻めて来る事はないと思っているようじゃ。城兵は百人もおるまい。落とすのは簡単じゃが、その後、守り通すとなると難しい。あそこは福島佐渡守の本拠地じゃ。佐渡守を殺して占領しても領民たちの反感を買う事になる」

「放っておいた方がいいというのか」

「福島佐渡守という男、領民に慕われているんだ。殺すには惜しい」

「寝返らせる事はできないのか」

「白井に人質を取られている。白井を奪い取らない限りは難しいじゃろう」

「白井か‥‥‥」

「廐橋は武田方となった。喜兵衛殿が沼田を奪い取れば白井も武田方となるじゃろう。そうすれば奴もここに攻めて来る事はあるまい」

「放っておくのか」

「できればな」

 三郎右衛門は少し考えてから、「キサラギたちはどうしている」と聞いた。

「張り切って出掛けたんじゃが、佐渡守の屋敷に行って幸せそうな家族たちを見たら、みんな、やる気をなくしたようじゃ。武田方から見たら、何度も柏原城を奪い取る憎らしい奴じゃが、奴も必死なんじゃよ。領地がたまたま境目になったため、前線を守らなくてはならなくなった。領地を守るために必死になって生きているんじゃよ」

「そうか‥‥‥湯本家が福島佐渡守に恨みがあるわけじゃなし、無理に攻める事もないか」

「そういう事じゃな。キサラギたちもこのままでは帰れんじゃろうから、ちょっと白井に行って来よう」

「風摩党は大丈夫なのか」

「大丈夫とは言えんが、そろそろを食い扶持を稼がんとのう」

「そうか。充分に気を付けてくれ」

「うむ。無理はせんよ」

 東光坊が去った後、三郎右衛門は月明かりの中に浮かぶ沼尾川の対岸を眺めた。シーンと静まり返り、平和そのもののように見えた。ふと、上杉謙信の事が思い出された。謙信は助けを求める者がいない限り、どんなに有利な状況でも自分から進んで戦はしなかった。それでいいのかもしれないと三郎右衛門は思った。

 雪のちらつく二十一日の夜、明徳寺城攻撃は開始された。七百余りの兵を率いた真田喜兵衛は利根川を渡ると密かに明徳寺城を包囲し、兵たちを雪の中に隠した。海野中務少輔に五十ばかりの兵をつけ、松明を掲げ、鬨の声を挙げさせながら攻めさせた。鉄砲の撃ち合いで始まり、火矢が次々に城へと放たれた。敵は少数だ、追い散らしてしまえと城兵は城から打って出た。中務少輔は予定通り、兵を引いた。待ってましたと喜兵衛は伏兵(ふくへい)たちに突撃命令を下した。突然、雪原の中から現れた兵に驚き、たばかれたかと敵兵は慌てて城に戻ろうとしたが遅かった。すでに真田軍が城内に押し寄せていた。敵を城外に誘い出してしまえば、兵力の上回る真田軍の勝ちだった。二百の敵兵は半数近くが討ち取られ、生き残った者は倉内城へと逃げて行った。

 明徳寺城に入った喜兵衛は首実検の後、矢沢三十郎と佐藤将監を城代に命じ、沼田に対する守りを固めると名胡桃城へ引き上げた。

 雪が解けた三月下旬、北条安房守は二千の兵を率いて沼田にやって来て、小川城と名胡桃城を攻撃した。名胡桃城にいる矢沢薩摩守は北条軍を迎え撃つため、万全の守りを固めて待ち受けた。

 雪解けで利根川は増水し、渡る事はできず、北条軍は橋を架けなければならなかった。薩摩守は敵が橋を架けている事を聞いても攻撃はさせず、北条軍を恐れて籠城している風を装った。北条軍は真田勢をあなどり、橋を架けると小川城を目指して進撃した。細い山道は雪が解けてグシャグシャで足場が悪い。もたもたしている所を潜んでいた伏兵に攻撃され、北条軍は泥まみれになって利根川まで押し戻され、狭い橋に殺到した。我先にと争い、半数近くが利根川に転落して溺死した。

 北条の進撃と同時に、名胡桃城の背後を狙って白井勢も子持山を越えて進撃して来た。挟み撃ちにするつもりだったのに、北条軍が追い返されたため、しばらく中山峠で待機していた。二十四日の夜、大雨が降り、利根川はさらに増水した。北条軍が利根川を渡る事は不可能と見た薩摩守は白井勢に攻撃を仕掛け、見事に追い返した。

 (うるう)三月になり、柏原城を守っていた三郎右衛門は名胡桃城に呼ばれた。名胡桃城から春原(すのはら)勘左衛門が兵を率いて柏原城に入り、三郎右衛門は左京進と共に湯本勢を率いて名胡桃城に向かった。なぜ、急に沼田攻めに参加する事ができるのかわからなかったが、湯本家の者たちは張り切って前線へと向かった。桜の花が満開に咲き誇る沼田街道を三日月紋の旗指物をなびかせながら勇ましく行軍した。

 名胡桃城は沼田攻めの本陣となっていて、一千近くの兵が待機していた。総大将の矢沢薩摩守が率いる真田勢と名胡桃城主の鈴木主水正が率いる名胡桃勢、海野中務少輔が率いる岩櫃勢、植栗河内守が率いる植栗勢、小川城からも北能登守が来ていた。武田の人質となって甲府にいた尻高源次郎は、上杉の人質となっていた弟の源三郎と共に尻高城主に復帰して参加していた。

 指令された般若(はんにゃ)曲輪に入り、兵の配置をしていると海野中務少輔がやって来た。

「待っていたぞ。すぐに軍議が始まる。本丸まで来てくれ」

「かしこまりました」

 三郎右衛門は後の事を左京進に任せ、中務少輔と共に本丸へと向かった。

「どうして、ここに呼ばれたのかわからんという顔付きだな」と中務少輔は三郎右衛門の顔を見ながら、ニヤッと笑った。

「叔父上(中務少輔)が呼んでくれたのですか」

「いや、親父だよ」

「能登守殿が? 能登守殿もここにおられるのですか」

「親父は中山城にいて、白井に対する守りを固めている。利根川の水が引けばまた北条軍がやって来る。その前に倉内城を落とさなければならん。おぬし、上泉伊勢守殿より兵法を学んだそうだな。柏原城を無血開城した時のような知恵を借りたいと思って呼んだんだよ」

「そんな‥‥‥俺の知恵だなんて‥‥‥」

「まあ、堅くならず楽にする事だ。薩摩守殿も孫娘の婿殿に活躍して貰いたいのだろう」

 中務少輔は三郎右衛門の肩をたたくと、気楽な顔をして笑った。

 軍議の席で、新たに加わった三郎右衛門のために、今の状況が三郎右衛門の義父、矢沢三十郎によって告げられた。三十郎は川向こうの明徳寺城を守っているが軍議に呼ばれていた。

 倉内城は沼田氏の城だった。上杉謙信が初めて関東に攻めて来た時、城主の沼田万鬼斎は謙信に従った。万鬼斎には跡継ぎとして嫡男の弥七郎がいたが、(めかけ)の産んだ平八郎を可愛がり、弥七郎を殺してしまう。内乱の末、万鬼斎と平八郎は城を追い出され、会津へと没落した。以後、倉内城は謙信より派遣された越後の武将が城代として入った。万鬼斎をそそのかしたのは妾の兄、金子美濃守だったが、美濃守は土壇場で寝返り、その後も倉内城に残っていた。謙信が亡くなった時の城代は河田伯耆守と上野中務少輔で、河田伯耆守は越後に進撃したが敗れて沼田に戻り、今は八崎(はっさき)城(北橘村)を守っている。上野中務少輔は北条軍と戦い敗れて切腹した。そして、今は北条方の城となり、北条安房守の家臣の藤田弥六郎、渡辺左近允(さこんのじょう)と金子美濃守が守っていた。金子美濃守は立ち回りがうまく、未だに生き延びていた。

 倉内城の兵力は北条軍と沼田勢合わせて、およそ一千。一千の兵が守る城を落とすには最低でも三倍の兵力がいる。甲府から援軍が来ない限り、それだけの兵力は集められない。もし、集められたとしても、敵が籠城してしまえば北条軍の後詰(ごづめ)が来てしまう。薩摩守は調略をもって倉内城を奪い取ろうと考えていた。

「金子美濃守が上杉に差し出した人質は我らの手の内にある。他に沼田衆の西山市之丞、下沼田豊前守、久屋(くや)三河守、恩田越前守ら主立った者たちの人質もいる。人質を利用すれば沼田衆は寝返るじゃろう。問題は藤田弥六郎と渡辺左近じゃ。この二人を何としても寝返らせたい」

 三十郎はそう言ったが、北条の家臣である二人を寝返らせる事など無理に決まっていると誰もが口にした。三郎右衛門もそう思っていた。

 軍議が終わった後、三郎右衛門は海野中務少輔に声を掛けられ、薩摩守が待つ部屋へと行った。薩摩守と共に三十郎もいた。

「小三郎は元気か」と薩摩守はニコニコしながら聞いた。

「はい。健やかに育っております」

「それはいい。草津の温泉に浸かっていれば丈夫な子に育つじゃろう」

 そう言って笑うと三十郎とうなづき合った。

「さっきの話じゃがな、何かいい知恵はないものかのう。できれば戦は避けたい。沼田は重要な拠点じゃ。沼田衆と争う事なく、城を奪い取りたいのじゃ。沼田衆の反感を買ってしまうと、城を奪い取っても、また、すぐに北条に奪い返されてしまうからな」

「沼田衆の寝返りはうまく行きそうなのですか」と三郎右衛門は薩摩守に聞いた。

「北条軍は今、伊豆で武田軍と対峙している。以前のように大軍を上野に集める事はできんじゃろう。また来るとしても、鉢形の安房守だけじゃ。先月、わしらは見事に安房守を追い返した。廐橋城は武田方となり、沼田と白井は孤立している状態じゃ。本領を安堵してやれば必ず寝返る。金子美濃守を初めとした沼田衆は倉内城の三の丸を守っている。すでに密使が入っている。近いうちにいい返事が届くじゃろう。沼田衆を味方に付ければ倉内城の兵はおよそ半数になり、三の丸から攻める事ができるが、残った本丸と二の丸を落とすのは難しい」

「敵の藤田弥六郎と渡辺左近とはどのような男なのです」

「藤田弥六郎は北条安房守の義弟じゃ。安房守の奥方の弟じゃな。兄と弟がいて、兄は用土新左衛門といって謙信殿が亡くなった後、北条軍が沼田に進出した時、倉内城の城代となったが、上野中務少輔が反乱を起こして城を追い出され、安房守の怒りを買って国元に追い返されたらしい。弟は彦助といって、弥六郎と共に本丸にいる。渡辺左近の方は安房守の家臣という事しかわかってはおらん」

「敵を倒すにはまず、敵を知る事です。調べれば何か弱みが出て来るかもしれません」

「鉢形まで行って調べろというのか」と薩摩守は三郎右衛門を見つめた。

「はい」と三郎右衛門は迷わず、うなづいた。

「鉢形には風摩がいるぞ」

「わかっています。でも、風摩を恐れていたら、北条とは戦えません」

「そうじゃな。誰か忍びの者を鉢形に飛ばしてみるか」

「うちの者にやらせていただけませんか」と三郎右衛門は身を乗り出した。

 薩摩守は三十郎と顔を見合わせてから、「そうして貰えると実に助かる」と言った。

「真田家の忍びは今、沼田城下と白井城下を見張っている。お屋形様と共に甲府に行っている者もいるし、鉢形まで手が回らんのが実情なんじゃ。真田の忍びを作った円覚坊の伜、東光坊が作った忍びなら充分な働きができよう。頼むぞ」

 三郎右衛門は力強く、うなづいた。薩摩守の話し振りから、湯本勢を呼んだのは最初から湯本家の忍びが目当てだったらしいとわかったが、それだけ頼りにされているのは嬉しい事でもあった。

 三郎右衛門は般若曲輪に戻り、与えられた長屋の一室に入ると左京進と東光坊を呼び、作戦を練った。

 東光坊は一旦、長野原に帰り、月陰党の者たちを集め、白根山中からキサラギも呼び、娘たちを率いさせた。

 里々は妊娠していて、東光坊の家で休養していた。子供の父親は勿論、三郎右衛門だった。里々から告白されたのは二月の半ばで、すでに六ケ月になっているという。三郎右衛門は驚いた。武将として子供は多い程いいが、お松に何と言い訳したらいいのか困った。浮気は絶対にするなと言われているし、里々の事を何と説明したらいいのかわからなかった。三郎右衛門が遊女だった頃の里々といい仲だったのをお松は知っている。でも、その里々が戻って来て、忍びの者として働いている事は知らなかった。生まれて来る子供のためにも、早いうちにお松に知らせた方がいいと思うが、お松の怒りを思うと口にする事はできなかった。あれから二ケ月近くが経ち、里々のおなかは益々大きくなるのに、お松には話していなかった。

 鉢形城下に入った東光坊は風摩党を警戒しながらも、配下の者たちを使って藤田弥六郎と渡辺左近允の周辺を探った。キサラギたちは近在から野菜を売りに来た農婦に化けて北条家の家臣たちの屋敷を回って噂を集めた。

 閏三月半ば、円月坊が名胡桃城に戻って来て、今までにわかった事を三郎右衛門に知らせた。

 藤田弥六郎の兄、用土新左衛門は鉢形城の近くにある用土城主で、安房守の怒りを買って沼田から引き上げた後、謹慎していたが、去年の暮れに亡くなっていた。病死という事になっているが、用土城下の噂では安房守に毒殺されたに違いないという。噂の真相は今の所、はっきりとはわからなかった。ただ、新左衛門の評判はあまりよくない。安房守の義兄という身分を誇示して、武将としての器もないくせに、いばり散らしていたらしい。安房守も扱いに困って沼田に飛ばしたが、失敗して逃げ戻って来た。反省して、おとなしく謹慎していればいいものを毎晩、宴を開いて騒いでいたという。義兄を表立って殺す事もできず、密かに毒殺したのではないだろうかと思われる。それと、安房守という男は家臣に対して、かなり厳しく、失敗した者を許す事は滅多にない。失敗して殺された家臣もかなり多く、家臣たちは安房守を恐れているとの事だった。

 弟の弥六郎は鉢形城下に屋敷を持ち、妻と二人の娘がいる。妻は安房守の家老の娘で、なかなのしっかり者、妻のお陰か、弥六郎の評判はいい。幼い頃より安房守に仕え、戦でも活躍していて、安房守の信頼も厚い。

 渡辺左近允は安房守の側近衆の一人で、城下でも名の売れた武将だった。鉢形城下に屋敷を持ち、妻はいるが子供はいない。なかなかの遊び人で、戦のない時は遊女屋に入り浸りで盛り場の女たちにも人気があった。家臣にも慕われているらしく、留守を守っている者たちは一緒に沼田に行けなかった事を嘆いているという。

 三郎右衛門は円月坊の報告を聞くと、円月坊を待機させて、本丸にいる矢沢薩摩守のもとへ向かった。

「安房守は失敗を許さないか‥‥‥うむ、それは使えるかもしれんな。去年の暮れ、用土新左衛門が殺された事を弥六郎が知っているかどうかじゃ。もし、知らなければ、それも利用できる」

「渡辺左近の方はまだ弱みは見つからないようです」

「うむ。しかし、失敗を許さないという安房守の性格は渡辺にも通用する。もし、倉内城を奪われれば、渡辺も殺されるじゃろう。それに子供がいないというのは寝返る可能性も高いというわけじゃ。遊び好きらしいが、妻との仲が冷えているとすれば完璧じゃな。それ相当の恩賞を与えれば寝返るじゃろう。まずは、弥六郎に兄上の死を知らせてやるか」

 三郎右衛門は般若曲輪に戻ると、円月坊に渡辺左近允と妻との仲を探り、さらに、遊女屋に馴染みの遊女がいたら、うまく連れ出して来るように命じた。ただし、遊女屋には風摩党がいるかもしれないので充分に注意するようにと付け加え、鉢形に戻した。

 それから五日後、東光坊が月陰党の者たちを連れて戻って来た。全員、無事に戻ったと聞き、三郎右衛門は喜んだ。

「鉢形には古くから宗徳坊が潜入していて、風摩党の事は調べてある。危険な所には一切、近寄らなかったし、目立つ行動も控えたんじゃよ。宗徳坊の話によると、越後から戻って来ない者もかなりいるらしい」

「風摩党がか」

「そうじゃ。赤目の銀蔵とやらにやられたのかもしれん。また、銀蔵を倒すために越後に行った者もいるらしいな。銀蔵のお陰で危険も少なかったのかもしれんな」

「そうか。それで、渡辺の弱みは見つかったのか」

「うむ、見つかった。渡辺左近允は養子じゃった。妻の父親は小田原にいて、かなりの地位の武将らしい。左近允はあの辺りの地侍の伜で、戦で活躍して安房守に認められ、渡辺家の婿養子となったんじゃ。夫婦仲はいいとは言えん。左近允は妻に頭が上がらんようじゃ。馴染みの遊女は何人もいるが、これは、というのはいない。しかし、隠し女がいた。キサラギたちが探ってくれたんじゃが、奴の生まれ在所に幼なじみの女がいて、奴の母親と一緒に暮らしていた。お互いに好き合った仲だったそうじゃが、左近允に渡辺家に婿養子の話があった時、身を引いて、その後、ずっと独り身を通している。左近允も妻には内緒で通っているらしい」

「妾というわけか」

「妻には内緒じゃからな、妾と言えるかどうか。お屋形様と里々の関係みたいなものじゃな」と東光坊は三郎右衛門の顔を見ながら笑った。

「それを言うな」

 三郎右衛門は苦々しい顔をして、窓の外を眺めた。山々の新緑が眩しかった。

「早いうちに話した方がいいぞ。薩摩守殿に怒鳴られる覚悟をしてな」

「わかっている。それで、どうしたんだ。その女を連れて来たのか」

「ああ、母親と一緒にな」

「そいつは上出来だ。他に身内はいないのか。左近允が寝返ったせいで殺されるような者は」

「父親は何年も前に戦死し、二人の姉は嫁ぎ、弟は左近允と一緒に倉内城にいる。女の方は両親はすでに亡く、兄は殺された用土新左衛門の家臣になっている。左近允の妻は重臣の娘じゃ。離縁されても殺される事はあるまい」

「よし、御苦労だった。これでうまく行くだろう。みんなに礼を言ってくれ」

 薩摩守の調略は見事に成功した。沼田衆の内応と渡辺左近允の内応を取り付け、残りは藤田弥六郎ただ一人となった。弥六郎の気持ちはかなりぐらついているが、義兄を裏切る事はできないらしい。

 薩摩守の知らせを受け、甲府にいた真田喜兵衛が名胡桃城に来たのは四月の三日だった。この時、喜兵衛は安房守を名乗っていた。安房守というのは上野の国の守護だった上杉氏が代々、名乗っていた官名だという。安房守を名乗る事によって、何としても上野の国を平定しなければならないと喜兵衛は覚悟を新たにしていた。

 八日には金子美濃守が沼田衆五百人を率い、渡辺左近允が家臣五十人を連れて、名胡桃城に降伏して来た。喜兵衛改め真田安房守は投降して来た主立った者たちと対面した後、ただちに出陣命令を下し、利根川を渡って倉内城を包囲した。

 三郎右衛門も矢沢薩摩守に従い、包囲軍に加わった。東光坊は月陰党を率いて白井へと向かった。倉内城が落ちる前に、白井勢や北条軍が来ないように、敵の使者の行き来を見張っていた。

 倉内城には藤田弥六郎率いる北条勢が二百余りと近在からかき集めた雑兵が三百近く籠もっていた。包囲軍の大将、薩摩守は藤田弥六郎に使者を送り、投降を勧めた。

 包囲してから十日後、藤田弥六郎はようやく落ちた。ただし、どうしても寝返らない者もいて、それらの者たちを無事に逃がせてほしいという条件付きだった。安房守は承諾し、翌朝、弥六郎より倉内城を受け取った。寝返りを潔しとせず、城を出て行ったのは弥六郎の弟、彦助で数人の家臣を連れて、白井城へと向かった。

 安房守は本丸をそのまま藤田弥六郎に任せ、二の丸に海野能登守と中務少輔の父子を入れ、三の丸に矢沢薩摩守と三十郎の父子を入れて守らせた。なお、藤田弥六郎は武田家に忠誠を誓い、名を改めて能登守を名乗った。





名胡桃城跡




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