第二部
5.敵襲
三月二十一日、 その頃、二高女の卒業式が二十三日に行なわれるという噂がどこからともなく伝わって来て、千恵子たちは浮き浮きしていた。迫り来る敵を壊滅し、日本が勝って、まもなく戦争も終わるだろうと誰もが信じ、卒業したら何をするとお互いに夢を語り合っていた。千恵子は勿論、看護婦養成所に入って正式な看護婦になり、浩子おばさんと姉と一緒に県立病院に務めたいと思っていた。そして、もし、行けるなら安里先輩がいる東京の病院に転勤したいと密かに考えていた。 二十三日の朝が来た。千恵子たちは起床ラッパが鳴る前に小川で髪を洗っていた。卒業式には身綺麗にして出たいと第四内務班のほとんどの者が不寝番が去った後、抜け出していた。やがて、第五内務班の者たちも来て、今日の何時にどこでやるのか、校長先生や教頭先生は来られるのか、父兄も来るのだろうかと囁き合っていた。 日朝点呼の時、米田軍曹は卒業式の事なんて一言も言わなかった。一体、どうなってるのと皆、首を傾げながら内務班に戻った。食事当番が飯上げに行っている間も、卒業式はどうなったのと千恵子たちは不安な面持ちで話していた。 「みんな、大変よ」と由紀子と幸江が駈け込んで来た。「あたしたちの卒業式、できないみたいよ」 皆が由紀子と幸江の回りに集まって来た。二人とも小柄で、ハキハキしている所が気に入られたのか鬼軍曹と恐れられる米田軍曹に可愛がられ、急速に仲良しになっていた。 「 「米田軍曹から聞いたの」とトヨ子が聞いた。 「班長さんは何も教えてくれないの。矢野兵長さんから聞いたのよ」 「それじゃあ、あたしたちの卒業式はどうなっちゃうの」 「わからないわ。積徳高女もいつやるかわからないんだって」 皆が嘆いていると食事当番が朝食を運んで来た。千恵子は当番だった佳代に由紀子たちの話を教えた。 「えっ、そんな。ここに来なけりゃ卒業できないって言うんで、親の反対を押して来たのよ。どうして卒業式が中止になっちゃうの。そんなのないわよ。あたし、班長さんにはっきりと聞いて来る」 佳代は四月から連隊区の司令部に就職する事が決まっていた。初月給を貰ったら、母親に金歯を入れてやるんだと楽しそうに言っていた。今にも飛び出して行こうとする佳代を千恵子たちは引き留めた。 「まあ、落ち着いてよ。ご飯を食べたら、みんなで聞きに行こうって事になったのよ」 「あっ、そうなの。それがいいわ。みんなして押しかけましょ」 朝食を食べている時、突然、空襲警報が鳴り響いた。ここに来て初めての事なので、演習なの、それとも本物なのと皆、おろおろしていた。窓から空を見上げても敵機の姿は見えなかったが、兵隊たちは慌ただしく営庭を行き来していた。 「ただ事じゃなさそうよ」と晴美が言った。 「また、飛行場かしら」と千恵子は言った。 皆が窓際に集まって不安そうに様子を見ているのに、トヨ子一人だけは平気な顔してご飯を食べていた。 「あんた、太っ腹ねえ」と小百合が呆れた顔して言った。 「腹が減っては戦はできないって言うでしょ。ここは野戦病院よ。兵隊さんが守ってくれるわ。大丈夫よ」と言いながらお代わりをした。 「トヨ子の言う通りね。慌ててもしょうがないわ」晴美も食べかけのご飯を食べ始めた。 「みんなも食べておいた方がいいわ。防空壕の中に入ったらお昼も食べられないかもしれないわよ」 まだ大丈夫みたいねとトヨ子と晴美を真似して千恵子たちも食事の続きを始めた。 米田軍曹が入って来た時、皆は平気な顔してご飯を食べていた。何かを言おうとして米田軍曹は言葉を飲み込んだ。生徒たちは口をモグモグさせながら慌てて整列した。 「まったく、たまげたもんだよ、平然と飯を食ってるとはな。お前たちには空襲警報が聞こえないのか」米田軍曹は苦笑した。「まあ、今から慌てていたんでは従軍看護婦など勤まらんからな。これから裏山の防空壕に避難する。食事当番は食罐と食器を洗い、他の者たちは当番が戻って来るまで部屋の掃除をしろ」 食事当番が戻って来て、第四内務班が二列縦隊で避難する時、兵営内にはもう誰も残っていなかった。隣の内務班を覗くと食器が散らばり食罐も汚れたまま置いてあった。 「なによ。あたしたちだけじゃない」と佳代が同じ食事当番だった留美に言っていた。 「炊事班だって、どこかに避難しちゃって、誰もいなかったのにね」 裏山の防空壕はかなり広かった。遠くの方から爆弾の音が聞こえ、時々、地響きがした。所々にランプが灯る薄暗い穴の中に籠もったまま、退屈な時が流れて行った。 どこが空襲されているのか誰も教えてくれなかった。また、那覇港や小禄飛行場だと思うが、もしかしたら、那覇の県庁や第三十二軍の司令部のある首里がやられているのかもしれなかった。父や首里のおばあちゃんは大丈夫だろうか。何もする事がなく、ただ黙ってじっとしていると、いやな事ばかり考えて不安で胸がいっぱいになってしまう。もっと楽しい事を考えようと千恵子は安里先輩の事を思った。 「チーコ、どうしたの。頭が痛いの」と澄江が心配した。 「えっ、そうじゃないけど」 「あたし、穴の中って苦手なのよ。なんか息苦しくなって」 「そうよね。一体、いつまで、こんな中にいるのかしら」 「歌でも歌えたら、少しは気が紛れるのにね」と佳代が言った。 「小声で歌えば大丈夫じゃない」と和美が言った。「鬼軍曹はいないみたいだし」 千恵子は晴美の方を見た。二列縦隊のまま防空壕に入ったので、前から二番目にいる晴美は千恵子たちからかなり離れていた。晴美が側にいれば一緒に歌えるのに残念だった。 「香りも高きふるさとの〜(故郷の白百合)」と佳代が小声で歌い出した。 澄江が続き、千恵子も続いた。次々に伝染して皆が小声で合唱し、壕内にしんみりと響き渡った。その後、誰かが『仰げば尊し』を歌い出した。 「あっ、班長さんに聞くのを忘れた」と佳代が言った。空襲騒ぎで卒業式の事をすっかり忘れていた。『仰げば尊し』をみんなで歌い、校歌も歌った。 その日、空襲警報が解除されたのは夕方の五時過ぎだった。防空壕から出て内務班に戻ると、さっそく夕食の飯上げだった。昼食が抜きだったのでおなかがグーグー鳴っていた。他の班は朝食の後片付けに 日夕点呼の時、米田軍曹から今日の空襲の被害が報告された。やはり、小禄飛行場、北飛行場、中飛行場、那覇港に集中していて、市街地の被害は少なかったようだった。卒業式の事を聞くと米田軍曹は困ったような顔して、うーんと唸った。 「お前たちの気持ちもわかるが、何と言っても今は非常時だ。卒業式はもうしばらく延期してもらいたい」 「しばらくって、いつまでですか」と佳代が聞いた。 米田軍曹は言葉に詰まったようだが、すぐに厳しい顔をして、「勝利の日までじゃ」と言った。「勝利の 勝利の日までと言われて、皆、諦めるしかなかった。今のこの状況で卒業式をやったとしても、下級生はいないし、父兄も参加できない。どうせやるなら、戦争に勝利した後、華やかな卒業式をしたいと誰もが思っていた。 翌日も朝食の最中の七時頃、空襲警報が鳴り響いた。食事当番はさっさと食罐と食器を洗いに行き、他の者は部屋の掃除をして、米田軍曹に率いられて、また防空壕へと避難した。昨日と同じように那覇の方から爆撃音が絶え間なく響き渡って来た。昼頃からは東の方も騒がしくなって来た。ドーン、ドドーンと地の底から太鼓を打っているような不気味な音が聞こえて来た。 「何なのあれ」と皆で耳を澄ますが、初めて聞く音なので何だか見当もつかない。正体がわからないので余計に恐ろしく感じられた。千恵子たちが不気味な音についてあれこれ言っていると米田軍曹が新垣看護婦と一緒にやって来た。整列した後、由紀子が米田軍曹に音の事を聞いた。 「あれは 「カンポー」と由紀子は聞き返した。千恵子にもカンポーとは何の事かわからなかった。 「敵が軍艦から大砲を撃っているんだ。港川がやられているらしい」 港川といえば東風平から五キロ足らずの所だった。艦砲というのがどれだけの大きさの大砲だかわからないが五キロ位の距離は飛んで来るのではないかと不安になった。それに、軍艦から砲弾が飛んで来るという事は、敵の軍艦が港川の近くまで来ているという事だった。もしかしたら、敵は港川から上陸して来るのかもしれない。皆が敵の上陸に脅えていると、「静まれ」と米田軍曹が怒鳴った。 「心配するには及ばん。すでに敵の上陸に備えて万全の準備が整っている。お前たちは与えられた使命である看護婦に専念すればよろしい。これから実地訓練を行なう」 新垣看護婦が針の付いていない注射器を弁当箱のような箱から出した。米田軍曹は後は頼むぞと言うように新垣看護婦にうなづくと出て行った。 千恵子たちは新垣看護婦から注射の打ち方を教わった。今までは講義ばかりだったので、あたしたちも看護婦になれると憧れていたけど、実際に注射器を手にして、本当に患者さんに注射なんて打てるのだろうかと不安になった。皮下注射や静脈注射など講義では聞いていても、実際にできるという自信はなかった。薄暗い防空壕の中で注射の打ち方を教わっても、千恵子にはよくわからず、あたしがやらなくても誰かがやってくれるだろうと気楽に思っていた。昨日と同じように夕方の五時頃には空襲警報は解除になった。 内務班に戻って夕食を食べ終わった頃、米田軍曹がやって来た。今日の被害状況を教えてくれるのかなと思ったら、「本日をもって看護教育を終了とする」と言った。 もしかしたら明日の日曜日は休暇になるのかなと思ったけど甘かった。 「君たちは山部隊の第一野戦病院に配属される事に決まった。第一野戦病院は 米田軍曹が去った後、千恵子は澄江に、「八重瀬岳ってどこ」と聞いた。澄江も知らなかった。和美が知っていた。 「ここから南に二キロ位行った所が富盛よ。きっとその近くにある山じゃない」 「港川の近く?」と澄江が聞いた。 「うん。ここよりは近いかもしれない」 「どうして、そんな危険な所に野戦病院があるの」 「そんな事、あたしにはわからないわよ。でも、きっと、山の中にあるから大丈夫なんじゃないの」 「ほんとに大丈夫なのかしら」千恵子は艦砲が八重瀬岳まで飛んで来ない事を祈った。 由紀子が調べて来た所によると積徳高女は 千恵子たちは除隊の事など考えもしなかったが、第四内務班からも希望者が三、四人いたようだった。 いつもなら消灯ラッパが鳴り響く頃、連絡を受けて駈けつけて来た与那覇先生の引率で、第四内務班と第五内務班の二高女の生徒は第一野戦病院へと向かった。 ぼんやりと半月が出ている空に時々、照明弾が上がって昼間のように明るくなった。千恵子たちが初めて見る照明弾だった。爆弾が来たと大騒ぎしたら、パッと辺りが明るくなって目の前の道が急によく見えた。 「気をつけろ。照明弾の後には爆弾が落ちて来るからな」と引率の衛生兵が叫び、全員、サトウキビ畑の中に身を隠した。幸い、爆弾は落ちて来なかった。 千恵子たちが向かっている前方から不気味な音が鳴り響き、花火のような艦砲も撃ち上げられ、どこに落ちたのかわからないが地響きが伝わって来る。生きた心地もなく冷や冷やしながらサトウキビ畑の間の道を南へと進んで行った。だんだんと生まれ故郷の那覇から離れて行き、戦場の真っ只中に連れて行かれるようで心細くて恐ろしかった。
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山部隊第一野戦病院跡