酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







飯道山







 太郎の飯道山での修行が始まった。

 吉祥院の中の修徳坊、そこが太郎の寝起きする宿坊となった。

 次の朝、太郎は西光坊元内という先達に連れられて行場に連れて行かれた。

 下から山を見上げた時は岩山のようには見えなかったのに、山頂の近くには、かなり大きく奇妙な形をした岩々がそそり立っていた。

 行場はちょうど本堂の裏あたりにあった。

 『西の覗き』『平等岩』『蟻の塔渡り』『胎内くぐり』『不動登り岩』『鐘掛け岩』などの行場があり、絶壁の上から逆さ吊りにされたり、絶壁をよじ登ったり、岩壁に張り付くように横に進んだりする行だったが、赤目の滝の行場を経験した太郎には何でもなかった。

 一番高い岩の上に立てば琵琶湖まで見えると西光坊は言った。生憎、今日は霧が巻いていて何も見えなかった。

 行が終わると西光坊は山内の案内をしてくれた。

 飯道寺の本堂、観音堂、飯道神社、修験道の開祖、(えん)小角(おづぬ)を祀る行者堂、武術の守り本尊である摩利支天(まりしてん)を祀るお堂、その他の寺院や宿坊を見て回った。

 武術の道場にも案内されたが、まだ、誰もいなかった。

 午前中はそれぞれ作業をやり、武術の稽古は午後からだと言う。

 武術は、剣、槍、棒、薙刀の四つの部門に分かれている。自分の好きなものを選ぶ事ができた。太郎は勿論、剣術を選んだ。

 この山で武術の稽古に励んでいるのは山伏ばかりではなく、甲賀はもとより伊賀の郷士たちも多くいるとの事だった。皆、太郎と同じ位の若い連中ばかりだと言う。

 一通り、案内が終わると、「今日はこれで終わりだ。のんびりと休んでおけ」と西光坊は言った。「明日からは休む暇もない位、厳しいからな」

 西光坊は不動院に太郎を連れて行った。

 不動院には風眼坊と栄意坊、それと、高林坊が楽しそうに話をしていた。

「おお、太郎坊」と栄意坊が手を上げた。「どうじゃな、ここで一年間、やれそうか」

「はい、頑張ります」

「ほう。これが、おぬしの弟子か」と高林坊が太郎を見ながら言った。「なかなか、いい面構えをしとる‥‥‥しっかりやれよ」

「はい」と太郎は頷いた。

 高林坊は見るからに山伏と言った感じだった。風眼坊や栄意坊よりひと回りも体が大きく、目もギョロッと大きく、口も大きかった。棒を振り回すまでもなく、普通の人間なら睨まれただけで逃げ出してしまいそうだった。

「太郎」と今度は風眼坊が言った。「今日はもう、いいのか」

「はい、明日から始めるそうです」

「そうか、今晩、三人で飲むんだがお前も来い。一年間は酒も飲めなくなるからのう」

「ハハハ、酒も女も当分の間、お預けじゃ」と栄意坊は笑った。

 夕べ、みんなで飲みに行くはずだったのに高林坊が外出中でいなかった。

 太郎は入山の手続きをして修徳坊に入り、疲れていたせいか、そのまま寝てしまった。

 風眼坊と栄意坊は高林坊の帰りを待っていたが、高林坊が帰って来たのは今朝になってからだった。

「誰じゃ、昼間っから馬鹿笑いしておる奴は」と言いながら、一人の老山伏が入って来た。

「あっ、親爺!」と風眼坊が叫んだ。

「久し振りじゃのう」と栄意坊はうなった。

「何じゃ、お前らか、まだ、ぬけぬけと生きておったか」

「何を言うか、親爺こそ‥‥‥相変わらず威勢がいいのう」と栄意坊は笑った。

「三馬鹿が揃いおったか、あと一人、馬鹿がおったのう」

「火乱坊じゃ」と高林坊が言った。

「お前ら四馬鹿は、今でも、この山の語り草になっとるぞ。しかし、あの頃はひどかったのう。四人の馬鹿どもは、わしの言う事など一言も聞かん。好き勝手な事ばかりやっていやがった‥‥‥わしもあの頃は、まだまだ若かったしの‥‥‥今ではこのお山もおとなしいもんじゃよ、ふん」

「あの頃の親爺は、おっかなかったぜ」と栄意坊が髭を撫でた。

「何を言うか‥‥‥それより、いい若えもんが、こんな所で茶なんかすすってねえで、みんなに手本でも見せてやったらどうじゃ」

「おお、そうじゃ」と栄意坊が手を打った。「わしは久し振りに、おぬしの棒とやりたくて、わざわざ、やって来たんじゃ」

「そうじゃな‥‥‥よし、久し振りにやるかのう」

「おう」

 かつての四天王と呼ばれた風眼坊、栄意坊、高林坊の三人が模範試合をやると言うので、山の中は大騒ぎになっていた。

 試合は剣、槍、棒の各部門から一番強い者を代表として一人出し、それぞれが風眼坊、栄意坊、高林坊を相手にする。その後、風眼坊と栄意坊と高林坊の三人が交替で戦うというふうに決まった。

 試合場には全山の修行者が集まって来ていた。わざわざ、この試合を見るために山に登って来る者も続々といた。中には僧坊の屋根や木に登って、試合場を見下ろしている者も何人かいる。

 太郎はこの人の波を見て驚いていた。よくわからないが千人近くの人間が集まって来ている。この山にそれ程の人が修行していたのか‥‥‥

 凄い所に来たもんだ‥‥‥

 法螺貝が鳴り、太鼓の音が響き渡った。

 辺りが急に静かになり、親爺と呼ばれている老山伏が正装して登場した。

 第一試合、甲賀の郷士、望月彦四郎と風眼坊舜香。

 木剣を腰にはさんだ二人が登場し、三間程、離れて立ち、まず、老山伏に合掌し、相手に向かって合掌した。

 老山伏の「始め」の合図でお互いに構えた。

 風眼坊は中段、彦四郎も中段に構え、二人共、そのまま、近づいて行く。

 二間程、近づくと、彦四郎は中段から八相の構えに移った。

 風眼坊は剣先を右斜め下の下段に移した。

 お互いに、その姿勢で相手を見つめたまま動かない。

 観衆は固唾を呑んで、見守っていた。

 やがて、彦四郎が「エーイ」と掛声をかけ、八相の構えのまま進み出た。

 風眼坊も「ヤー」と彦四郎に合わせ、進み出る。

 彦四郎は八相の構えから、風眼坊の左肩めがけて剣を打ち下ろした。

 風眼坊は体を沈めると、彦四郎の剣を迎えるように下段から剣を上げ、彦四郎の両腕を下から打ち、そのまま、彦四郎の剣を左横に押えた。

「それまで!」

 第二試合、甲賀郷士、高山右近二郎と栄意坊行信。

 九尺の木槍を持った二人は、互いに合掌をして構えた。

 右近二郎も栄意坊も、槍先を少し上げた中段に構えている。

 右近二郎が少しづつ左の方に進むと、栄意坊も、それに合わせて左に進んで行った。

 二つの槍先を中心に二人は回転をし、二人の場所が入れ代わった時、右近二郎の方から進み出て、栄意坊の胸元めがけて槍を突き出した。

 栄意坊はその槍を下に払い落とし、構えを下段に変えた。

 槍の柄の後ろの方を持った右腕を高く上げ、槍先を地面すれすれまで下げ、右近二郎の出方を待っていた。

 右近二郎は払い落とされた槍の先を左側に引くと、栄意坊の槍を横から払うように突き出した。

 栄意坊は右近二郎の突き出した槍を巻き落とすと、そのまま、大きく踏み込み、右近二郎の胸元を軽く突いた。

 第三試合、岩之坊真安と高林坊道継、山伏同士での棒術の試合となった。

 合掌がすむと二人は、六尺棒を構えた。

 岩之坊は棒を胸の高さに水平に構え、高林坊は下段に構えた。

 お互いに近づき、一間程、離れた所まで来ると止まり、睨み合った。

 掛声と共に岩之坊は水平に構えていた棒を高林坊の右横腹をめがけて、左片手で横に払った。

 高林坊は下段の棒を縦にして、それを受け止めた。

 岩之坊は受け止められた棒をすぐに振り上げると、振り上げた棒の先を右手でつかみ、左手の中を棒をすべらせ、高林坊の胸を突いて来た。

 高林坊はそれを右に避け、岩之坊の両腕めがけて棒を打ち下ろした。

 岩之坊はそれを受け止めると払い落とし、また、高林坊の胸を突いて来た。

 高林坊は今度は、それを左に打ち落とした。

 次に岩之坊は高林坊の右腕を狙って、棒を打ち下ろして来た。

 高林坊は岩之坊の棒を巻き落とし、棒を回転させ、岩之坊の肩を狙って打ち落とした。

 岩之坊は高林坊の棒を下から、すくい上げるように受け流し、高林坊の頭めがけて棒を打ち下ろした。

 高林坊はそれを左横にかわすと、岩之坊の両腕を押えるように棒を打ち下ろした。

 太郎は棒術というものを見るのは初めてだった。

 使い方によって、ただの棒が剣にもなり、槍にもなり、薙刀にもなるという事を、太郎はこの試合で知った。しかも、棒には刃と柄の区別がない。どちら側も武器となった。

 自分もぜひ、この棒術というものを身に付けてみたいと思った。そして、この棒術が水軍の船の上での戦でも大いに役に立つように思えた。

 その後、風眼坊舜香と栄意坊行信で剣と槍の試合、風眼坊と高林坊道継で剣と棒の試合、栄意坊と高林坊で槍と棒の試合が行なわれた。

 剣と槍は剣が勝ち、剣と棒は棒が勝ち、槍と棒は槍が勝った。

 太郎は最初から最後まで、固唾を呑んで見守っていた。

 五ケ月近く、風眼坊に剣を習い、自分ながらも強くなったと多少、自信を持っていたが、まだまだ上には上がいる。本当に強くなるには、もっと厳しい修行を積まなくては駄目だと実感した。







 朝霧で光る山の中の細い道を太郎は西光坊元内と共に歩いていた。

 首から法螺貝を下げ、腰に小刀を差し、予備の草鞋をぶら下げ、尻に曳敷(ひっしき)という毛皮を付け、弁当を背負い、金剛杖を突いていた。

 太郎は一睡もしていなかった。

 夜明け近くまで飲んで、騒いで、語り合って、風眼坊舜香と栄意坊行信は帰って行った。

「太郎坊、強くなれよ」と栄意坊は髭だらけの顔で笑った。

「一年後にまた来るからな」と風眼坊は太郎の肩をたたいた。

 太郎は二人に強く頷くと高林坊道継と共に、夜が明ける前に山に戻った。

 宿坊に着くと皆、もう、起き始めていた。

 太郎は皆と一緒に宿坊の掃除をして『法華経』の読経をし、朝食を済ませた。

 太郎が属しているのは天台宗系の山伏だった。飯道山には天台宗系の山伏と真言宗系の山伏が共に修行していたが、天台宗系の山伏の方が圧倒的に多かった。

 朝食を済ませ、皆と一緒に午前中の作業に行こうとした時、西光坊元内が来て、「お前はまだ、作業はしなくてもいい」と言った。「まず、足腰を鍛える事だ」

 近江の国、甲賀にはあまり高い山はないが、飯道山クラスの六百メートル前後の山がいくつも連なっていた。そして、それらの山々には、それぞれ山伏が入っていて修行の道場となっていた。

 修験道の本場、大峯山では熊野から吉野までを結ぶ山々を修行して歩く道を『奥駈け』と称していた。飯道山でもそれを真似て、『奥駈け』と称する山道があった。

 飯道山から西に阿星(あぼし)山、金勝(こんぜ)山、竜王山、太神(たながみ)山へと続く六里半(約二十六キロ)の道のりだった。

 阿星山は山頂の阿星寺を中心に、山内に多くの伽藍、僧坊が建ち並び、北麓の表参道入り口には東寺(長寿寺)、西寺(常樂寺)を中心に、『阿星山三千坊』と言われる程、僧坊が建ち並んで栄えていた。

 金勝山の山頂には、俗に観音寺と呼ばれる大菩提寺(金勝寺(こんしょうじ))があり、僧坊が建ち並び、北麓には金勝寺の鎮守、大野神社を中心に『金勝寺二十五別院』が(いらか)を並べている。

 竜王山は奇岩、怪石が立ち並び、金勝寺の奥の院、狛坂(こまさか)寺を中心に僧坊が並んでいる。

 そして、最後の太神山は山頂近くの成就院不動寺を中心に、多くの僧坊が並び、山岳信仰の霊場として栄えていた。

 太郎は西光坊に連れられて、まず、飯道山の山頂に登った。飯道寺のある所が山頂だと思っていたが、本当の山頂はもう少し登った所だった。

 山頂には飯道権現と修験道の祖、役の小角を祀る祠があり、西光坊と共に真言を唱えた。

 山頂から北を見ると、山々の向こうに青く琵琶湖が見えた。

 西光坊は西の方の山を錫杖で示し、「あれが太神山だ。あそこまで行く」と言った。

 太神山はいくつもの山が連なった向こうに見えた。

「今日はあそこまで行って泊まり、明日、また戻って来る。よく道を覚えておけ」

 飯道山を北に下りて、また登ると地蔵菩薩を祀った山に出た。そこで、また、真言を唱えて山を下りた。細い道の回りには小さな石のお地蔵さんが、いくつも並んでいた。

 次の山には虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が祀ってあった。

 そこから一里程で阿星山に着く。阿星山に近づくにつれて、怪石、奇岩が増えてきた。

 阿星山はこの辺りで一番高い山で山頂近くに阿星寺があったが、飯道山程、僧坊は建ち並んでいなかった。樹木の中にひっそりと本堂が建っている。

 静かだった。

 この山では武術の修行はやっていないようだった。山伏の姿もあまり見えない。

 西光坊に聞くと、この山にも山伏は数多くいるが、ほとんどが里の方に下りているとの事だった。

 阿星寺の本尊、釈迦如来(しゃかにょらい)に参拝し、山頂の祠を拝み、金勝山に向かった。

 金勝山の観音寺は広かった。僧坊がずらりと並んでいる。

 本堂の千手観音を拝み、山頂に向かった。

 尾根づたいに竜王山に向かい、山頂の八大竜王を拝んだ。

 竜王山を過ぎると、太郎の目の前に異様な山が迫って来た。それは、岩だらけの山だった。岩だらけと言っても、尖った岩がいくつも立ちはだかっているのではなく、丸い石ころが、いくつも積み重なっているような不思議な山だった。

「あの山は何ですか」と太郎は西光坊に聞いた。

「あれは五百羅漢じゃ」と西光坊は言った。「あの岩、ひとつひとつが羅漢さんじゃ」

「あそこを通って行くんですか」

「ああ、あの中を通って行く」

 太郎は今まで見た事もない、奇妙な山を見つめていた。

 二人は岩がゴロゴロしている細い道を歩き、金勝山の奥の院、狛坂寺に向かった。

 狛坂寺で岩に彫られた阿弥陀如来を拝み、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を祀る山を下りると、岩に囲まれた沢に出て、小さな滝が落ちていた。

 観音の滝と言い、側に十一面観音を祀った祠が建っていた。

 その滝から一里ちょっと急な坂を登ると薬師如来を祀る山があり、その山を下りて、また登ると最後の太神山だった。

 山頂には宿坊が建ち並び、不動寺の本堂には大きな不動明王が祀られていた。

 寺の裏にそびえる岩をよじ登ると山頂に出て、役の行者を祀る祠の前で真言を唱えると、奥駈けの行は終わりだった。

 山頂からの眺めは素晴らしかった。琵琶湖が青く光り、今まで歩いて来た竜王山、金勝山、阿星山、飯道山の山々がずっと見渡せた。

 日はまだ、高い。

「どうだ、疲れたか」と西光坊は琵琶湖の方を眺めながら言った。

「いいえ」と太郎は答えた。

 実際、それ程、辛くはなかった。昨夜は一睡もしていなかったが、変化に富む山道を歩くのは楽しかった。

「うむ」と西光坊は満足そうに頷いた。「こんなもんで疲れてたんじゃ話にならん。明日は飯道山に帰る。次の日からは一人だ。一人でここまで来て泊まり、また帰る。その次からはここには泊まらんぞ。朝、飯道山を出て、ここまで来て、そして、また帰るんだ」

「え! 一日で往復ですか」

「そうだ。それを百日間行う」

「百日間?」太郎は目を丸くして、西光坊を見つめた。

「そうだ」と西光坊は当然の事のように頷いた。「まず、第一の関門だ。これができなければ、あの山で修行する資格はないというわけだ。百日間、この山道を歩けば自然と体ができてくる。それからだ、剣を握るのはな」

「それでは、あの山で修行している人たちは皆、百日間、ここを歩いたのですか」

「そうとも言えんな‥‥‥普通は一月だ」と西光坊は言うと岩の上に腰を下ろした。

「お前は特別なんだよ。毎年、正月になると、この辺りの若い者が山に修行に来る。その数は毎年、増えてくる。今年は百人程いた。一年間、武術を習いに来るんだが、一ケ月の山歩きに耐えられなくて山を下りて行く奴もかなりいる。百人のうち、一ケ月後に残ったのは半分の五十人程だった‥‥‥だが、お前は特別じゃ。風眼坊殿に頼まれてな。お前も風眼坊殿の弟子なら百日間、歩き通すんだな」

「百日間‥‥‥」

 どうして、こんな所を百日間も歩かなければならないのだろうか。

 百日間と言えば三ケ月以上もある。三ケ月以上も毎日、毎日、同じ道を歩くなんて馬鹿じゃないのか、と太郎は思った。しかし、師匠がやれと言ったのならやらなければならない。もし、途中でやめたら負け犬だと思われる。負け犬だと笑われたくなかった。

「風眼坊殿はここを百日間、歩いたのですか」と太郎は聞いてみた。

「百日なんてもんじゃないな。千日位、歩いているんじゃないか。風眼坊殿は何度も百日行をやってるよ。あの人がここで修行していた頃は、みんなが毎年、一回は必ず、百日行をやっていたらしい。最近はみんな、怠けちまって百日行をする奴なんて、ほとんどいなくなっちまった。わしらが最後じゃないか。わしらより若い連中は百日行なんて知らんだろう。お前が久し振りに、その百日行をやるわけだ‥‥‥それにしても、お前は大した人を師匠に持ったもんだな。わしも一度、風眼坊殿と一緒に歩いた事があったが、なにしろ速い。まるで山の中を飛んでるようだ。まるで天狗だな。大した人だよ‥‥‥まあ、それだけ、お前に見込みがあるんだろ。師匠に負けないように頑張れよ」

「はい」と太郎は力強く頷いた。

 師匠の風眼坊は毎年、百日行をやっていた‥‥‥

 この道を千日も歩いていた‥‥‥

 師匠がやっていたのなら、俺もやらなければならない。

 琵琶湖を見つめながら太郎は、「やるぞ!」と気合を入れた。







 愛洲太郎左衛門久忠は山伏、太郎坊移香になりきり、毎日、山の中を歩き回っていた。

 山の中を往復十三里(約五十キロ)歩くのは、かなり辛かった。

 初めのうちは朝早く出掛けても、帰り道の途中で日が暮れ、真っ暗な山道を歩き、やっとの思いで宿坊にたどり着く事ができた。

 ただ、目の前の細い道だけを見て、歩くだけが精一杯だった。

 十日目頃から、ようやく足も慣れ、一ケ月も続けると回りの景色を見る余裕も出て来た。

 雨の日も風の日も、毎日、休まずに歩いた。一日でも休めば、初めからやり直すか、この山を下りて行くか、どちらかだ、と西光坊は言った。師匠のように強くなるには、どんな事があっても歩き通さなければならなかった。

 その日の天気によって、毎日、歩いている道でも色々な変化があった。山の色は変わり、光の具合で形までも変わって見える事もあった。そして、山の中には色々な生き物が生活していた。小さな虫、色々な種類の鳥、リス、ウサギ、猿、イタチ、たぬき、きつね、亀、そして、鹿も時々見かけた。色々な花を咲かせ、実を結ぶ草木も色々とあった。また、山独特の霊気のような物を強く感じる事もあった。山は単なる山でなく、山自体が一つの生き物のように感じられた。

 季節もいつしか、春から夏に変わっていた。

 下界の事など一切、考えずに、ただ、山の中を歩き回っていた。

 今年の梅雨はあまり雨が降らず、山歩きには丁度よかったが、六月の初め頃、梅雨の雨が一遍に降ったかと思われる程、山はもの凄く荒れた。強風が吹き、大粒の雨が降り続いた。太郎は滝にでも打たれるように山の中を歩いていた。

 豪雨は二日間続いた。

 強い雨と風で、前がまったく見えなかった。道に迷い、雨に濡れながら薄暗い山の中をさまよい歩いていた。何度も風に吹き飛ばされそうになり、木にしがみつきながら、やっとの思いで歩いた。それでも、太郎は「何くそ!」と歩き通した。

 ずぶ濡れになりながら、太郎が阿星山の山頂に立った時だった。不思議な事に急に雨がやみ、風もやんだ。

 辺りは急に静かになった。

 太郎は山頂の祠の前にしゃがみ、真言を唱えていた。

 霧が深くたちこめ何も見えない。自分だけが小島にポツンといるような錯覚を覚えた。

 西の方の雲の間から、わずかに光が差し込んできた。それは何とも言えず、この世のものとは思えないような風景だった。

 太郎は立ち上がり空を見上げた。西の方を見て、そして、飯道山の方、東の方を見た時だった。太郎はそこに不思議な物を見た。

 そこには、この山の本尊、お釈迦様の姿がはっきりと見えた。

 太郎は思わず合掌をした。そして、我知らず『法華経』を唱えていた。

 お釈迦様はしばらく、太郎を見守っていたが、やがて、遠のいて行った。

 その時の光景は太郎の心に深く焼き付いていった。

 もう一つ、太郎の心に焼き付いた事があった。それは一人の老山伏だった。

 初めて会ったのは阿星山から金勝山に行く途中の岩に囲まれた山道だった。

 その老山伏は高い岩に腰掛けて太郎を見ていた。太郎は阿星山の修験者だろうと思い、一応、挨拶をして通り過ぎた。その時は別に何とも思わず、すぐに忘れてしまった。

 その後、会ったのは一ケ月程たった頃の事だった。前と同じ岩の上に座って、やはり、太郎を見ていた。また、太郎は挨拶をして通り過ぎた。そして、金勝山を通り、竜王山を通り、狛坂寺に行く途中の岩の上に、その老山伏が座って太郎を見ているのに出会った。

 馬鹿に速いな、抜道でもあるのだろうか、と太郎は思ったが、合掌して通り過ぎた。そして、次に太神山に向かう途中の岩の上に座り込んで、老山伏は太郎が登って来るのを待っていた。

 老山伏は太郎を見ると笑った。きつねにでも化かされているのかと思った。太郎は老山伏に声を掛けた。老山伏は返事をしないまま岩陰に消えた。

 太郎は老山伏の後を追いかけようと思ったが、とても、行けるような所ではなかった。今、太郎が立っている所とその岩の間は深い崖になっていて飛び付く事もできない程、離れていた。登る道は別にあるのだろうと諦めた。

 帰り道、老山伏が座っていた岩を調べてみたが、どちらの岩も、そう簡単に登れる岩ではなかった。道から見ると簡単に登れそうに見えるが、実際、登ろうと思って、その岩の下まで行ってみると垂直の岩壁にぶつかり、下から見上げるだけでも凄い岩だった。

 こんな岩を平気で登り、てっぺんに座り込んで、のんきそうに笑っているとは、あの老山伏は一体、何者なのだろうか。太郎は興味を引かれて行った。

 飯道寺に戻り、先達の山伏たちに聞いてみても誰も知らなかった。そんな老山伏など見た事もないという。それはきっと、天狗に違いないと笑いながら言う先輩もいた。

 その後、あの老山伏には会わなかった。太郎も、あれは、もしかしたら、天狗だったのかもしれないと本気で思ったりもした。

 いよいよ、山歩き、最後の日だった。いつもの岩の上に老山伏は座っていた。太郎は老山伏に合掌して、頭を下げると、「聖人様」と声を掛けた。

 老山伏は笑いながら、太郎を見た。

「いよいよ、今日で百日目じゃな」と老山伏はかすれた声で言った。

「え、どうして知ってるんです」

 老山伏は笑っているだけで答えなかった。そして、太郎がちょっと目をはなした隙に消えていた。また先回りして、どこかで待っているのだろうと思い、歩き続けた。しかし、老山伏はどこにもいなかった。

 太郎の百日間の奥駈け修行は無事に終わった。





飯道j山




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