酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







陰の五人衆







 九月十五日の盛大な飯道山の祭りも終わり、秋も深まって冬が近づいて来ていた。

 五人の特訓は続いていた。

 木登りは五人とも、すでに身に付けていた。特殊な(かぎ)を縄の先に付け、それを投げて木の枝に引っかけ、縄を伝わって登って行く。初めのうちは、鉤を投げても枝に引っかけるのがうまくいかなかったが、毎日の訓練で皆、うまくできるようになった。

 望月家の見取り図も皆の頭の中に入っている。望月三郎の友、杉谷与次郎のお陰で、兵力もおおよそわかった。手ごわいのは望月が言った通り四人だけだった。薙刀を使う望月又五郎、槍を使う池田甚内、剣を使う山崎新十郎と高畑与七郎、その他に雑魚(ざこ)が十四人いるとの事だった。

 望月三郎が薙刀の望月又五郎、芥川が槍の池田甚内、三雲が剣の山崎新十郎、服部が剣の高畑与七郎を、それぞれ相手にする事に決まった。太郎は雑魚十四人を受け持つ事になった。

 望月三郎は薙刀組に移り、芥川は槍組に移り、それぞれ研究していた。太郎は大勢を相手にするため飛び道具の手裏剣の稽古を始めた。どうしたわけか、金比羅坊が五人を何かと助けてくれた。

 ある日の夜、五人が木登りの練習をしている所を金比羅坊に見つかった。

「また、お前らか。今度は何をやるつもりだ」

「ただ、剣術の稽古をしているだけです」と太郎は言った。

「ほう、猿の真似をするのが剣術の稽古か」

「身を軽くするためです」

「まあ、いいだろう」と金比羅坊は機嫌よさそうに笑った。「お前らが何をするのか知らんが、まあ、わしにできる事があったら助けてやるぞ」

 太郎は金比羅坊に手裏剣の名手、橋爪坊道因を紹介してもらった。

 そして、夜になると金比羅坊は薙刀を持って、槍の円行坊義天と一緒に稽古を付けにやって来てくれた。五人の腕はみるみる上達していった。

 太郎はまず、手裏剣の基本の技を身に付けると、次には、どんな体勢から投げても百発百中になるように訓練した。早打ちの稽古もした。勿論、手裏剣だけでなく、剣の修行の方も怠りなかった。まだ、三人の師範代に勝つ事はできないが、師匠の風眼坊と模範試合をした望月彦四郎とは互角の腕になっていた。三雲と服部も太郎程ではないが、同期の者たちに比べるとずば抜けて強くなっていた。

 稽古を終えると太郎は、「どうだ」と望月に尋ねた。「又五郎に勝てそうか」

「まだまだだ」と望月は首を振った。「どうも薙刀というのはやりづらい」

「お前も薙刀にしたらどうだ」

「駄目だ、使いづらくて。剣の方がやりやすい」

「お前の方はどうだ」と太郎は芥川に聞いた。

「俺の方はもう少しだ‥‥‥まあ、何とかなるだろう。お前の手裏剣はどうなんだ」

「俺の方ももう少しだ。あと、早打ちができれば完成だ」

「おい、お前ら」と金比羅坊が口を挟んだ。「そろそろ、わしにも教えろ。一体、何をしでかすつもりなんだ」

「何もしません。ただ、強くなりたいだけです」と望月は答えた。

「あと一月ちょっとで、お山を下りなくちゃならないんで、今のうちに、みっちり鍛えてるんですよ」と三雲が言った。

「ふん、好きにしろ。何もお前ら、無理にお山を下りなくてもいいんだぞ。いたければ、いたいだけいればいい」

 金比羅坊は円行坊と去って行った。

「あいつには喋ってもいいんじゃねえのか」と芥川が金比羅坊の後ろ姿を見ながら言った。「それ程、悪い奴じゃねえようだぜ」

「いや、喋らん方がいい」と望月はきっぱりと言った。「これは、あくまでも俺の仇討ちだ。それに、このお山が拘わって来るとなると後で面倒な事になる」

「そうか、それもそうだな」と芥川は納得した。「このお山は常に中立でなけりゃいけねえな」

「そうだ」と三雲も頷いた。「お山を下りて、お互いに敵同志になろうとも、このお山では誰もが修行できなけりゃならねえ」

「すると、太郎坊が一緒なのはまずいんじゃねえのか」と服部が太郎を見た。

「俺は大丈夫だ。お山を下りる時は武士の姿になるし名前も出さん。手拭いで顔を隠したっていい。お前たちだって隠しておいた方がいいんじゃねえのか」

「そうだな」と三雲、芥川、服部の三人は顔を見合わせた。

「表に立つのは望月だけだ。他の者は望月の陰になるんだ。名前も名乗らん。働くだけ働いて、後はさっさと消える‥‥‥もし、成功したとしても表に名前が出るのは望月だけだ。俺たちは成功しても、失敗して殺されたとしても名前は残らん。望月の陰になりきるんだ。できるか」太郎はそう言って、三人の顔を見回した。

「面白え」と服部が言った。「俺たちは望月の陰か」

「陰か‥‥‥」と芥川もうなった。

「望月三郎と陰の四人衆か‥‥‥面白え、やってやろうじゃねえか」と三雲は拳を突き上げた。

「みんな、すまん」と望月は頭を下げた。

「何を言ってる。仲間じゃねえか」と服部は望月の肩をたたいた。

「やるぞ!」

「おう!」







『法華経』の講義を聞きながら、太郎は鼾をかいて寝ていた。

「太郎坊!」と講師が怒鳴った。

 太郎が寝ぼけた顔を上げると講師は「出て行け」というように指で示した。

 太郎は素直に外に出た。

「やる気がないなら、もう二度と、ここへは来るな」と太郎は何度も怒鳴られた。それでも、太郎は懲りもせずに毎日、ここへ来た。来たからといって、まともに最後まで講義を聴いている事などめったにない。居眠りをして追い出されるか、さもなければ、そっと内緒で逃げて出る。

 初めの頃、智積院を追い出されると太郎は裏山の日だまりに行って昼寝をしていた。

 今日も太郎はそこに向かった。しかし、そこで昼寝はしない。さらに奥の方に入って行った。山の中に入ると太郎は足を速めて山を下り始めた。山を下りるといっても堂々と参道を下りて行くわけではない。一年間の修行の間は山を下りる事は禁じられていた。また、金比羅坊にでも見つかったら何をさせられるかわかったものではなかった。

 太郎は山の中を自分だけの道を作り、里まで下りて行った。山を下りると沢に出た。後は沢沿いに歩けば里に出る。太郎は通い慣れた道を素早く駈け下り、里の道に出ると錫杖を突きながらのんびりと歩いた。

 山に入ってから、すでに八ケ月が過ぎ、太郎も山伏としての貫禄が付いて来ていた。体格も一回り大きくなり、心の方も成長していた。行き交う村人たちは皆、『聖人様』と言って挨拶をして行く。太郎は彼らに片手拝みをして挨拶を受ける。まんざら悪い気もしない。

 目的の花養院に着くと太郎は腰の刀を鞘ごと抜き、塀に立て掛け、刀の(つば)に足を載せると塀の中を窺った。この刀の鍔は普通の刀の鍔より少し大きい。太郎がこの時のために考えて、大きい物と取り替えたのだった。

 初めの頃は堂々と門から入って行ったのだが、あまりちょくちょく来るので松恵尼に見つかり怒られた。それ以来、太郎は門から入るのはやめ、塀から覗いて楓を呼ぶ事にした。

 塀から覗くと、すぐそこで娘たちが薙刀の稽古をしていた。皆、この辺りの娘たちで、二十人近くの娘が稽古をしている。

 松恵尼が薙刀の名手で、古くからこの寺で娘たちに薙刀を教えていた。松恵尼の正体ははっきりわからない。由緒ある武士の娘とも、また、後家とも言われていた。この寺に落ち着いてから、もう二十年近くも経っている。もう四十歳に近いはずなのだが、とても、そんな歳には見えない。二十代と言っても通る程、若く見えた。

 最近、松恵尼はほとんど娘たちの稽古には顔を出さない。楓が松恵尼に代わって娘たちに教えていた。

 太郎が塀から覗いているのを最初に気がついたのは美代という十二、三歳の娘だった。

 美代は楓に教えた。

 楓は太郎をチラッと見ると顔を赤らめて、「消えろ」と合図をした。

 太郎は塀から顔を引っ込め、刀から飛び降りて楓が来るのを待った。

 しばらくすると楓は稽古用の木の薙刀を抱え、怒った顔をして太郎の所に来た。

「塀から顔を出すのは、もう、やめて下さい」と楓は言った。「みっともないわよ」

「しょうがないだろ、門から入れば怒られる」

「しょうがないけど、恥ずかしいわよ」

 塀の向こうから、クスクスと笑っている声が聞こえてきた。

 楓は薙刀を塀に立て掛けると、太郎の刀の鍔に飛び乗り、塀から中を覗き、「真面目にお稽古しなさい」ときつく言った。

 あまり勢いよく飛び乗ったので立て掛けてあった刀が傾き、楓はバランスを崩し、キャーと悲鳴を上げながら刀から落ちた。

 太郎は素早く楓を抱きとめた。

「急に重たい女が乗ったので刀がたまげたんだ」太郎は楓を抱きながら笑った。

「何ですって!」

 塀の中の娘たちは大声を出して笑っていた。

「静かにしなさい」と楓は塀の中に叫んだ。

「それ程、重くないな」と太郎は言った。「きっと、いい女子(おなご)が乗ったので、たまげたんだろう」

「ありがとう。でも、降ろしてくれません」楓は顔を赤らめた。

「いやだ、このまま、お山までさらって行く」と太郎は笑った。

「ねえ、降ろして。誰かに見られたら、どうします」

「見られたっていい」と言いながらも太郎は楓を降ろした。

 太郎と楓は小川のほとりを歩いていた。

 枯れたすすきの穂がそよ風に揺れていた。

「ちょくちょく、お山を下りて来て、大丈夫なの」楓は心配そうに聞いた。

「大丈夫さ、誰も知らない。お前の方は大丈夫なのか、尼さんに怒られないのか」

「怒られる。でも、平気。あたし、今まで、ずっと真面目だったし」

「今は真面目じゃないのか」

「今だって真面目よ。それに、松恵尼様も太郎坊様の事はよく知っているし」

「俺の事を知ってる?」と太郎は立ち止まった。

「ええ、あなたのお師匠さんの風眼坊様と松恵尼様は古くからの知り合いなの。あたしがまだ小さい頃から風眼坊様はよく花養院に来てたわ。あなたを連れて来た時も風眼坊様は寄ったのよ。その時、あなたの事を言っていた。もし、縁があって、あなたに会うような事があったら、あなたの事をよろしく頼むって松恵尼様に言ってたわ」

 楓は小川の流れを見ながら、しゃがみ込んだ。

 太郎も楓の横に座った。

「そうだったのか‥‥‥師匠は俺の事、何と言ってた」

「馬鹿な小僧を一人、拾って来たって言ってたわ」と楓は笑った。

「馬鹿な小僧だと?」

「ええ。でも、剣の才能はある。鍛えれば大物になるかもしれんとも言ってた」

「俺が大物に?」

「あたしもそう思う。あなた、ちょっと馬鹿みたいな所あるけど、大物かもしれないって」

「俺が馬鹿だって?」

「そうよ。だって、尼寺の中をあんな所から覗くなんて普通じゃないでしょ。もう、二度としないでよ」

「わかった‥‥‥今度から、わからないように忍び込むよ」

「それじゃあ泥棒じゃない」

「そうだ、泥棒だな。お前を盗みに行くんだから」

「あたしはそう簡単に盗めないわよ」と楓は薙刀で太郎を斬る真似をした。

「お山を下りる時は盗んで行くさ」と太郎は楓の薙刀を受ける真似をした。

「いつ、下りるの」

「一年という約束だから、来年の三月」

「そう‥‥‥もうすぐね」

「うん、もうすぐだ」

 太郎は小川に小石を投げた。

「あなたのお師匠さんね、あたしたちの事、予想してたのよ」と楓が言った。

「何だって」と太郎は楓の顔を見た。

「久し振りにあたしを見てね、あのチビが、もう、こんなに大きくなったのかってね、これはまずいな。絶対に、太郎坊にあたしを見せちゃいかんだって、お寺の奥に隠して置けって松恵尼様に言ったのよ」

「ハハハ、俺が急にやって来たから隠す暇もなかったわけだ」

「そうね‥‥‥あたしもびっくりしたわ。突然、現れるんだもの。帰ったと思ったら、また戻って来て、天狗様の話をしてくれだなんて‥‥‥あたし、頭がちょっとおかしいんじゃないかと思ったわ。そしたら、今度は天狗様に化けて、鐘に乗っかって、お山に登って行く。おまけに雨まで降らせて‥‥‥まったく、あなたは変わってるわ。やる事が何でも突飛なのよ‥‥‥」

「もう少ししたら、また、突飛な事をやる」

「え? 今度は何やるの」

「大した事じゃない」と太郎はまた、小石を投げた。

「あまり無茶しないでよ」

「心配か」

「心配よ。この間だって雨が降らなかったら、どうしようって、あたし、お山の方を見ながら、一生懸命、祈ってたんだから」

「きっと、お前の祈りが通じたんだな‥‥‥雨が降ったのは」

「そんな事ないけど‥‥‥」

「俺はそろそろ帰る。ばれると二度と下りられなくなるかもしれんからな。また来る」

 太郎は立ち上がった。

「うん‥‥‥」と楓は太郎を見上げて笑った。

 二人は花養院の方に戻って行った。

 太郎は急に立ち止まり、楓の名前を呼ぶと、楓に向かって小石を弾いた。

 楓はとっさに薙刀で小石を払った。

 太郎の姿を捜したが、もう、どこにもいなかった。

 楓は首を傾げて、「まるで、ほんとの天狗様みたい‥‥‥」と呟いた。







 今日は十二月二十五日、稽古仕舞いの日だった。

 年末から年始にかけて山は忙しくなる。正月の十五日までは武術の稽古は休みになっていた。

 芥川、三雲、服部ら、一年間の修行で山に来た者たちは、いよいよ、今日で終わりである。長く辛かった一年間の修行もようやく終え、明日には晴れて山を下りられるのだった。

 剣術の組では無事に一年間の修行に耐えて残ったのは、わずか十一人だけだった。初めの山歩きで半分は振り落とされ、剣術の組に入ったのは二十人近くいたが、厳しい修行に耐えられなくて途中で山を下りて行ったり、怪我をして山を下りて行った者たちも何人かいた。長かった一年だったが、いよいよ、今日で終わりだった。

「今年の稽古も本日をもって終了となる」と師範の勝泉坊善栄が修行者を集めて言った。

「今日は一年の最後を飾るために試合を行なう。今までの修行の成果を充分に発揮してもらいたい。負けた者はなお修行に励み、勝った者も決して驕らず、さらに強くなるよう修行に励んでもらいたい。また、お山を下りる者たちも一年間の修行は終わったと安心などしてはいけない。お山を下りてからが本当の修行だと思い、お山での修行の事を忘れず、なお、一層の努力で剣の修行に励んでもらいたい。今日の試合はおおよそ互角の力のある者同士を組ませた。それでは、試合の組み合わせを発表する」

 師範の話が終わると試合の組み合わせが貼り出された。

 三雲源太は岩木坊円外と、服部藤十郎は流蔵坊善月と試合をやり、太郎の相手は、何と金比羅坊だった。試合数は全部で二十試合、三雲は十五番目、服部は十六番目、太郎と金比羅坊は一番最後、師範、師範代で試合に出るのは金比羅坊、ただ一人だった。

「おい、大丈夫か」と三雲が心配して太郎に聞いた。

「何とかなるだろう」と太郎は勝泉坊と打ち合わせをしている金比羅坊を見た。

 はっきり言って勝つ自信はなかった。しかし、この山に来てから太郎は剣の事しか考えず、やるだけの事はやって来た。自分の実力がどれ程なのか試すのに金比羅坊が相手なら不足はないと思った。

「あまり無理するなよ。おめえが怪我でもしたら、明日の計画は終わりだぜ」と服部が小声で言った。

「わかってる。みんな、怪我だけはしないようにしようぜ」

「おい、見ろよ。俺たち三人だけだぜ、十試合以後にやるのは」と三雲が貼り出された組み合わせを眺めながら言った。「一年組の奴らは皆、十試合より前だ‥‥‥まさか、一年で、こんなに強くなれたとは自分ながら驚くぜ」

「そうだな」と服部ももう一度、組み合わせを見た。「太郎坊が入って来るまでは、俺たちも遊び半分でやってたからな‥‥‥うまく、おめえに乗せられたみてえだな」

「そんな事はない。みんなで夜遅くまでやった成果さ」

 太郎は何度もよじ登った樹木を見上げた。

「よく、やったよな‥‥‥」と三雲も樹木を見上げ、しみじみと言った。

「いよいよ、明日が仕上げだ‥‥‥うまく、やろうぜ」服部は力強く、拳を上げた。

 三雲源太は岩木坊と鍔ぜり合いをやり、岩木坊を突き飛ばし、岩木坊が胴を払って来るのをかわして、敵の伸びきった両小手を上から打ち勝った。

 服部藤十郎と流蔵坊の試合は長引いたが、最後に流蔵坊の上段からの木剣を服部は横に受け流し、敵の右小手を打ち勝った。

 十九試合めは望月彦四郎が鳥居兵内に勝ち、いよいよ最後の試合、太郎坊と金比羅坊の番がやってきた。

 お互いに合掌が済むと剣を構えた。

 金比羅坊は左足を前に出し、木剣を胸の前に剣先を右上に斜めに構え、太郎は左足を前に出し、木剣は顔の右横に垂直に立てる『八相の構え』に構えた。

 三(けん)の間をおいて、二人はその構えのまま動かなかった。

 太郎は不思議な位、静かに落ち着いていた。この山に来てから、太郎はいつの日か、目の前にいる金比羅坊をやっつけてやると剣の修行に励んで来た。何度もひどい目に合わされ、憎らしくてたまらない金比羅坊だった。しかし、今、太郎の心の中は、そんな恨みや気負いなど、まったく消え、静かに澄んでいた。

 試合を見ている者たちは物音一つ立てずに、二人に釘付けになっていた。

 太郎はゆっくりと木剣を移動させた。八相の構えから左拳を中心に剣先を徐々に後ろに倒して行った。

 太郎の剣が水平になった時、大きな掛声と共に金比羅坊は太郎に近づいて来た。

 太郎も金比羅坊に合わせるように近づき、二人の木剣が素早く回転した。

 二人の動きが止まった時、金比羅坊の木剣は太郎の横にかわされており、太郎の木剣は金比羅坊の両小手の上、紙一重の所で止まっていた。

「それまで!」と勝泉坊が言った。

 二人は木剣を引き、互いに合掌した。

「やった!」と三雲が叫んだ。

 皆が二人に拍手を贈った。

「とうとう、お前に追い越されたな」と金比羅坊は太郎に近づくと言った。

「追い越すなんて‥‥‥」

「いや、お前はもっと強くなれる‥‥‥風眼坊殿が言った通りじゃ」

「師匠が‥‥‥」

「おう。わしも風眼坊殿に剣を習った。お前とは兄弟弟子というわけだな。わしは風眼坊殿からお前を鍛えてくれと頼まれたんじゃ。どんな事をしてもいい。もし、それに耐えられなくてお山を下りるようだったら、わしの目が狂っていたという事じゃ。しかし、どんな事にも耐え、お山に残っているようだったら、おぬしもいつか、あいつに負けるかもしれんぞと風眼坊殿は言った。まったく、その通りになったわけじゃ‥‥‥よくやった。だが、まだまだ上には上がいるっていう事を覚えておけ。風眼坊殿はわしなんか、とても及ばん位に強い。お前が今の調子で修行を積んでいけば、きっと、師匠より強くなるだろう‥‥‥まあ、これからも頑張れよ」

 金比羅坊は太郎の肩をたたくと笑った。

「はい‥‥‥」

 太郎は金比羅坊の顔を見ていた。その顔の中には今まで憎らしいと思っていた金比羅坊はいなかった。今までの憎らしい仕打ちは皆、自分のためだったのかと思うと胸がジーンとしてきた。

 太郎は金比羅坊に合掌すると、「ありがとうございました」と礼を言った。

「改まって何をする。照れるじゃねえか。これからも、よろしく頼むぜ。太郎坊殿」

 金比羅坊は豪快に笑った。







 その日の深夜、太郎坊、望月三郎、芥川左京亮、三雲源太、服部藤十郎の五人は、ひそかに山を抜け出した。

 山の上では雪が散らついて来ていたが、里の方は降っていなかった。

 白い息を吐きながら、五つの影は素早く山を下りて行った。

 杣川まで来ると三雲は、「ちょっと、待ってろ」と言って闇の中に消えた。

 四人は河原で待っていた。

 空は曇っていて月も星も出ていない。今にも雪が降りそうだ。望月家を襲うには、おあつらえ向きの空模様だった。

「どこに行ったんだ、奴は」と芥川が言った。

「母ちゃんに会いにでも行ったんじゃねえのか」と服部が言った。

「水盃でも交わしに行ったのか」と芥川は笑った。

「今頃、母ちゃんのおっぱいを吸ってるのさ」と服部も笑った。

「どうせ、まだ、早いんだ。奴が来るまで待とう」と太郎は川の流れを見ながら言った。

 太郎は久し振りに侍の格好をしていた。飯道山の山伏がこの襲撃に関係してはうまくないので、楓に頼んで古着を捜してもらったのだった。

「お〜い」と誰かが遠くで叫んだ。

「誰だ」と望月は闇の中をすかし見た。

「ばれたか」と芥川も闇を探った。

「あれは金比羅坊だぜ」と服部が言った。「やばいぜ、逃げるか」

「いや」と太郎は制した。「お前らはもう一年の修行は終わったんだ。逃げる必要はない。望月にしたって、うまく行けば、もうお山に戻らなくてもよくなる。問題は俺だけだ。俺なら何とかなる」

 金比羅坊は走り込んで来ると息を切らせながら、「おい、お前ら」と言った。「わしも仲間に入れろ。何をやるのか知らんが、わしも入れてくれ」

 望月は太郎の方を見た。

 芥川も服部も、「どうする」というような顔で太郎を見た。

「わしは今日からお前らの師ではない。ただの仲間じゃ。おい、太郎坊、わしも仲間に入れてくれんか」

「どうする」と太郎は望月に聞いた。

「うん。まあ、多い方がそりゃ助かるが‥‥‥」

「仲間に入れてもいいんじゃないのか」と芥川は言った。

「自慢じゃないが、わしの馬鹿力は何かと役に立つぞ」と金比羅坊は自分の腕をたたいた。

「そうだな」と太郎。「金比羅坊殿にも力を貸してもらおうか」

 そうしようという事に決まり、望月は金比羅坊にこれからの計画を教えた。

「仇討ちか‥‥‥それにしても五人だけでやるとはのう。お前らも大した奴らじゃのう」

「金比羅坊殿」と太郎は言った。「ちょっと、その格好ではまずいんですよ」

「なぜじゃ」

「お山が望月の仇討ちに加わるのはまずいんですよ」と芥川が説明した。

「おう、そうじゃな‥‥‥よし、ちょっと待ってろ。着替えて来る」

「着替えるって、どこで」と服部が聞いた。

「やぼな事を聞くな。女子の所じゃわい。待ってろよ」と金比羅坊は走り去った。

「必ず、待ってろよ。すぐ戻る」と闇の中から、念を押した。

 金比羅坊が消えると、芥川は大きく溜息をついた。「どうなってんだ」

「まさか、金比羅坊が来るとはなあ」望月も驚いていた。

「まあ、いいじゃないか、奴は役に立つ」と太郎は言った。「奴は望月と一緒に門から入ってもらおう。奴の馬鹿力で門を開けてもらうんだ」

「そいつはいいや。うん、丁度いい」と望月は頷いた。「俺もどうやってあの門を開けるか考えていたんだ」

「奴の馬鹿力なら、絶対、開けられる」と芥川は笑いながら言った。

「いいとこ、あるな」と望月は言った。

「ああ。最初は憎らしい奴だと思っていたけどな」と服部が言った。

「根はいい奴だよ」と太郎は言った。

 三雲が風呂敷包みを抱え、息を切らせて戻って来た。

「おめえ、どこ、行ってたんだ」と芥川が三雲の袖をつかんだ。

「ちょっとな。いいもんがあるんだ、見てくれ」三雲は抱えていた風呂敷包みを開いた。

 中には黒い着物が入っていた。

「何だ、こりゃ」と服部は着物を持ち上げた。

「俺たちの舞台衣装さ」と三雲は着物を広げて見せた。「みんなでこれを着るんだ。決まるぜ。上から下まで黒づくめ、陰の五人衆よ」

「どうしたんだ、こんなの」と望月が聞いた。

「ちょっと、姉御に頼んで作ってもらったんだ。俺たちの晴れ舞台だ。ちゃんと決めなくちゃな」

 五人は三雲が持って来た着物を身に着けてみた。

 黒い単衣(ひとえ)栽着袴(たっつけばかま)、黒い脚半(きゃはん)を足に巻き、黒い頭巾(ずきん)まで付いていた。

「こいつは、なかなか、いいじゃねえか」と芥川は黒装束に身を固めて跳びはねた。「こいつで顔を隠せば誰だかわからん。三雲、おめえ、なかなか頭いいな」

「それ程でもねえよ。この前、太郎坊が望月三郎と陰の四人衆って言ったろ。あの言葉が気にいってな。どうせ、陰になるなら徹底して陰になった方がいいって考えたんだ。これで、まさしく陰だぜ」

「うん。こいつはいい」と服部も頭巾をかぶりながら言った。

「だけど、お前、姉御に喋ったんじゃねえだろうな」と芥川が三雲を横目で睨んだ。

「喋るわけねえだろ」

「こんな物作らせて変に思わなかったか」

「大丈夫さ。お山を下りる最後の日に、仲間たちとこれを着て一年間の修行の成果を披露するんだって言ったんだ」

「成程な。これを着て、最後にお山で一暴れするわけか」

「それも面白えな」と服部は宙返りをした。

「さて、行くか」と黒づくめの三雲は言った。

「ちょっと、待て」と望月が止めた。「金比羅坊が来る」

「金比羅坊?」

「ああ、どういうわけか、あいつが仲間に入った」

 服部が成り行きを説明した。

「どうなってんだ」と三雲は太郎を見た。

「さあな。俺にもわからんが、もうじき来るはずだ」

「へえ、面白えもんだな」

「お〜い」と叫びながら金比羅坊は戻って来た。

 山伏から侍姿に変わっていたが、見慣れないせいか、何となくおかしかった。

 黒づくめの同じ格好をした五人を見ながら、「どうしたんだ、その格好は」と聞いた。

「我ら、陰の五人衆」と三雲は舞台さながらに見得を切った。

「陰の五人衆?‥‥‥ほう、わしも仲間に入れろ」

「もう、ない。それに、金比羅坊殿に着られるような大きな物はないわい」

「金比羅坊殿、顔を見られたらまずいでしょう。これで顔を隠した方がいい」と望月は金比羅坊に頭巾を渡した。

「おお、そうか」と金比羅坊は頭巾をかぶって顔を隠した。「どうじゃ、似合うか」

 似合うか、と聞かれても、はっきり似合うとは言えない。侍姿の金比羅坊が黒頭巾をかぶった姿は、どう見ても山賊か強盗だった。

 五人は遠慮しながら笑った。

 金比羅坊は一人で納得して、「そうか、似合うか」と大笑いした。

「よし、準備はできた。行こう」太郎が言うと、皆、笑うのをやめ、杣川沿いに目的地に向かった。

 望月家の近くの神社まで来ると、六人は夜が明けるのを待ち、もう一度、計画の検討をした。

 決行は夜明け前の明るくなりかかった頃。この時が一番、敵の気が緩んでいる。

 まず、太郎、芥川、服部、三雲の四人が塀の四隅にある見張り櫓に登り、見張りの者を倒し、倒したら、それぞれ口笛で鳥の声を真似て合図する。

 四人全員が見張り櫓に登ったら、太郎が刀を振って門の前で待機している望月と金比羅坊に合図をする。そしたら、望月と金比羅坊は門を破って中に入って行く。

 四隅を占拠した四人は敵の弓矢で飛び出して来る敵をやっつけ、矢が尽きたら下に降りて、それぞれ、目当ての相手と戦い、倒す。

「見張り櫓に登ったら、まず、敵の口をふさぎ、敵の首を斬る事。俺たち四人はなるべく、声は出さない事。あくまでも陰になりきる事」と太郎は言った。

 六人は皆、自分のやるべき事を納得すると横になり、夜が明けるのを待った。

「太郎坊」と金比羅坊が太郎の横で声を掛けた。「おぬしは不思議な男じゃのう」

 太郎は金比羅坊を見た。

 金比羅坊は星一つない夜空を見上げていた。

「初めて会った時、この小童(こわっぱ)がと思っとったが‥‥‥面白い男じゃ‥‥‥風眼坊殿が弟子にするだけの事はある‥‥‥」

 太郎も冬の夜空を見上げながら、金比羅坊の話を聞いていた。

「わしはのう」と金比羅坊は言った。「これでも昔は武士じゃった‥‥‥戦にも何度も出てのう‥‥‥兜首を取って名を上げたかった‥‥‥わしは戦場で矢傷を負って倒れている所を風眼坊殿に助けられたんじゃ‥‥‥風眼坊殿の手当てのお陰でわしは助かった。もし、風眼坊殿に助けられなかったら、わしは死んでいたかもしれんのう‥‥‥」

 太郎は黙って金比羅坊の横顔を見ていた。

 金比羅坊は空を見上げたまま、その後は喋らなかった。

 やがて、東の空が明るくなり始めて来た。

「そろそろ、やるか」と三雲が言った。

「ああ」と太郎は起き上がった。

「望月、いよいよ、やるぜ」と太郎は望月に声を掛けた。

 望月は頷くと皆の顔を見回した。

 皆、望月の方を見て、頷いた。

「よし、行くぞ」と太郎は言った。

「おう!」と金比羅坊が吠えた。

 なぜか、おかしかった。三雲が噴き出すように笑うと皆、一斉に笑い出した。

 金比羅坊まで一緒になって笑い、皆の緊張がほぐれた。

 六人は小川づたいに望月家に向かった。

「ここで、皆、着物を濡らして行こう」と太郎は立ち止まった。

「えっ?」と三雲が言った。「どうして、濡らすんだ」

「濡らしておいた方が、もし、斬られても傷が軽くてすむ」

「本当か」と今度は服部が聞いた。

「本当じゃ」と金比羅坊が頷いた。「まじないだと思って濡らして行け」

 太郎は小川の水を手ですくい着物を濡らした。

「冷てえな。着物が凍っちまうぜ」と文句を言いながらも、皆、太郎にしたがった。

 望月家は固く門を閉ざし、静まり返っていた。

 六人は飯道権現に成功を祈ると、それぞれ散って行った。

 太郎は表の左隅の見張り櫓を受け持っていた。まず、空濠の中に板切れを二枚放り投げた。板切れはあらかじめ望月の幼なじみの杉谷に用意してもらい、神社に隠してあった。その板切れの上に飛び降り鉄菱を避け、鉤の付いた縄を見張り櫓の柱、目がけて投げ付けた。鉤が音を立てたが上から矢は降って来なかった。鉤はうまく引っ掛かり、太郎は縄を頼りに塀をよじ登った。

 見張り櫓の中を覗くと、着膨れした見張りの男が弓を抱きながら熟睡していた。太郎は素早く、見張り櫓に飛び移ると小刀を抜き、男の口を押えて首を掻き斬った。驚く程の血が噴き出し、男は声を出す間もなく息絶えた。

 太郎は死んだ男から弓と矢を取ると身を潜め、塀の中を見下ろした。

 太郎のいる見張り櫓のすぐ下に大きな蔵があり、門の脇で槍を持った男が一人、壁にもたれて居眠りをしているのが見えた。男の側には消えかかった篝火(かがりび)が燃えている。門の向こう側には(うまや)があり井戸があった。庭には居眠りしている門番以外に人影はなく、静まり返っていた。

 太郎と反対側、門の右側の見張り櫓から芥川が弓を上げて合図をしていた。左を見ると三雲は血の付いた刀を振っていた。

 太郎は芥川と三雲に手まねで服部の事を聞いた。

 二人共、大丈夫だというふうな合図をした。どうやら、成功したらしい。口笛を吹く必要はなかった。

 太郎は刀を大きく振って、望月と金比羅坊に合図を送ろうと思ったが計画を変更した。

 太郎は見張り櫓の梯子を素早く降りた。足音を忍ばせ、門の脇で眠りこけている男に近寄ると刀を抜き、男の首を斬り落とした。首のなくなった体が血を噴き出しながら、ゆっくりと横に倒れた。

 太郎は門のかんぬきを外すと門を開き、外で待っている望月と金比羅坊に合図をした。二人は木陰から現れると門に向かって走り込んで来た。

 すでに、もう、辺りはすっかり明るくなっていた。

 太郎は望月に、「あとは頼んだぞ」と言い、金比羅坊に頷くと、また、見張り櫓の上に戻り、弓を構えて身を潜めた。

 望月は太郎が見張り櫓に戻るのを確認すると、左手で刀の鍔を押え、右手で柄を握り、静まり返った屋敷に向かって進み出た。

 金比羅坊は望月の後ろを守るように門の中央に仁王立ちになって、首なしの門番から奪った槍を構えていた。

 予定通りだと太郎の倒す雑魚はあと十人だった。太郎のいる見張り櫓の横に離れの屋敷があり、どうやら、そこが侍たちの部屋のようだった。

 太郎はその屋敷から出て来る侍に、弓の狙いを定めて待機した。

「望月又五郎!」と望月三郎は大声で叫んだ。

 しばらくして、屋敷の中から物音や人の声が聞こえて来た。

「又五郎、出て来い!」と望月はもう一度、叫んだ。

「何じゃ」と槍をかついだ男が太郎の狙っていた離れの中から威勢よく出て来たが、太郎と芥川の弓矢に射られ、悲鳴を上げると音を立てて倒れた。

 二人目の男も見張り櫓からの矢に射られ死んで行った。

 三人目の男は、やられている二人の姿を見て、「曲者(くせもの)じゃ!」と叫んだ。

 屋敷の中の物音や人の声が激しくなってきた。

「又五郎、出て来い!」と望月は叫んだ。

「誰じゃ、わしの名を呼ぶのは」

 胴丸を身に着け、望月家の家紋、九曜星の紋を付けた兜をかぶり、薙刀を手にした望月又五郎が槍の池田甚内、剣の山崎新十郎、高畑与七郎を従え、屋敷の中央から姿を見せた。

「我は亡き出雲守(いずものかみ)長春が一子、三郎長時なり、父の仇を討ちに参った」

 望月三郎はゆっくりと刀を抜くと、切っ先を望月又五郎に向けて腰を落とし中段に構えた。

「小童め、まだ、生きておったか。たった二人で来るとはいい度胸だ」

 その時、太郎の射た矢が又五郎の顔を掠めた。芥川の矢は山崎新十郎の太刀によって払い落とされた。

「二人ではないわい」と金比羅坊がニヤリと笑った。「この家の回りはすでに包囲してある。観念して、さっさと首を斬られい」

「何を小癪な‥‥‥者ども、出会え!」と又五郎は薙刀を上げた。

 胴丸に身を固めた兵が楯に隠れながら離れから四人、裏の方から五人出て来た。予想していたよりも敵の数は多いようだった。

 太郎と芥川は見張り櫓の上から手当り次第に矢を放ったが、ほとんど楯に遮られ、効果はなかった。後ろの見張り櫓にいた三雲と服部は、すでに見張り櫓から降りて屋敷の陰に隠れ、後ろから敵を狙った。不意を突かれ二人の敵が倒れた。

 太郎と芥川も見張り櫓から降りると、太郎は走り回りながら雑魚どもを手裏剣で打ち、芥川は刀を抜いて目指す槍の池田甚内にかかって行った。

 望月三郎は望月又五郎と戦っていた。

 三雲と服部も山崎と高畑を相手にしている。

 金比羅坊は片っ端から近づいて来る者を叩き斬っていた。

 太郎は素早く移動しながら手裏剣を投げている。投げれば必ず、敵の顔に当たった。太郎の手裏剣の餌食となった者は皆、顔を真っ赤にして戦意をなくし、わめいていた。そして、金比羅坊に斬られて行った。

 太郎の手裏剣が最後の一本になった時、もう、倒す相手はいなくなっていた。

 望月三郎は見事に望月又五郎を倒し、芥川は池田を、三雲は山崎を、服部は高畑を倒し、金比羅坊は太刀を振り上げたまま下ろすべき所を捜していた。

 廐の方では馬が騒いで暴れている。

「何じゃ、もう、終わりか‥‥‥」金比羅坊は気が抜けたように太刀を下ろした。

「わりと、あっけなかったな」と三雲は刀の血を振った。

「そうだな、相手が弱すぎるぜ」と芥川は倒した池田甚内の槍を蹴飛ばした。

 服部は倒れている敵を一人一人、止めを差していた。

 望月三郎と太郎は屋敷の中に入って行った。

 すでに裏口が開かれ、家の者たちは皆、逃げていた。

「ちょっと、まずかったな」と太郎は望月を見た。「後ろを固めるのを忘れた」

「まあ、仕方ねえさ。女、子供を斬ったってしょうがない」

 望月は家の中を懐かしそうに眺めていた。

「しかし、その女、子供が怖いぜ。いつか、お前に仕返しに来るだろう」

「その時はその時さ‥‥‥とにかく仇は討った‥‥‥」

 望月はやっと取り戻した自分の家を見て回った。

 太郎は望月を家の中に残したまま外に出た。

 闘いに熱中していて気がつかなかったが、いつの間にか雪が散らついていた。

「みんな、怪我はねえか」と太郎は声を掛けた。

「ピンピンしてるぜ。まだまだ、やれらあ」庭石に腰掛けていた三雲が答えた。

 芥川が腕を斬られ、服部が脚を斬られたが、二人共、かすり傷で大した傷ではなかった。金比羅坊は怪我一つなく、まだ、充分、力が余っているようだった。

「うまく、行ったな」と太郎は言った。「さて、これからがまた大変だぜ」

「これから、まだ、何かあるのか」と服部が不思議そうな顔をした。

「後片付けだ。こんな血だらけの所に望月のおふくろを呼べるわけねえだろう」と太郎より先に芥川が答えた。

「俺たちがやるのか」と三雲は庭に転がっている無残な死体を見ながら言った。

「他に誰がいる」と太郎が皆を見渡した。

「みんな、一年間、お山で修行をしたんだろ。仏様は大切にしなきゃいかんぞ」と金比羅坊は立ち上がった。

「最後の修行だ。やろうぜ」と芥川も立ち上がった。

 いつの間にか、太郎の後ろに来ていた望月が、「すまんな、みんな」と頭を下げた。

「気にすんなよ。俺たちは好きでやったんだからな」と芥川は言った。

「そうだ、気にするな」と服部も言った。

 仏様を裏の竹籔に埋め、皆でお経を唱え、庭の血を清め、屋敷の中を綺麗に整え終える頃には、近隣の豪族たちや、昔、望月三郎の父、出雲守に仕えていた侍などが馳せ集まって来ていた。

 太郎と金比羅坊は後の事を皆に任せ、雪の降る中、山に帰って行った。

「おぬし、不思議な奴じゃのう」金比羅坊は帰り道、太郎を見ながら、しみじみと言った。

「あれだけの働きをしながら、自分の名を表に出さんとはのう」

「俺は陰ですよ」と太郎は言いながら、裏口から逃げて行った女、子供の事を考えていた。

 やがて、子供が成長し、飯道山で武術を習い、望月と同じように父の仇と言って、望月を狙うのではないだろうか‥‥‥

 しかも、同じ望月家同士で‥‥‥

 かと言って、太郎に逃げ惑う女、子供が斬れるか、と問われたら、斬れると言いきる自信はなかった。

 太郎は初めて、武士というものの非情さを知った。





望月屋敷




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