酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







早雲庵







 真っ白に雪化粧した富士山が神々しく(そび)えている。

 駿府の町も、村々にも、華やかな雰囲気が漂っている。

 文明七年の新年が明けていた。

 東や西では戦の最中だったが、ここ駿河の国は今川氏のお陰で戦場になる事もなく、平和な毎日が続いていた。

 駿府のお屋形では琴の調べの流れる中、着飾った女房たちが晴れ晴れとした顔をして、新年の挨拶を交わしていた。北川殿の屋敷では、お屋形の今川治部大輔(じぶのたいふ)義忠が家族と一緒に楽しい一時を過ごしていた。長女の美鈴は七歳になり、長男の竜王丸(たつおうまる)は五歳となっていた。

 浅間(せんげん)神社は初詣での人々で埋まり、誰の顔もほころび、口々におめでとうと言い合っていた。

 駿府から一山越えた石脇の早雲庵にも正月はやって来ていた。早雲庵の正月は、これといって普段と余り変わりないが、それでも何となく、みんな浮き浮きしていた。早い話が、正月だというのに行く所もない連中がゴロゴロしているのだった。

 早雲は狭い(いおり)の中に誰がゴロゴロしていても何も言わなかった。一応、早雲庵と呼ばれていても、早雲自身、この庵が自分のものだとは思っていない。小河(こがわ)の長谷川次郎左衛門尉が早雲のために建ててくれたものだったが、早雲は来る者は拒まなかった。別に歓迎するわけでもないが追い出す事もしない。来たい者は来たい時に来て、出て行きたい時に出て行った。

 今年の新年をここで迎えたのは七人だった。主の早雲、富嶽(ふがく)という名の絵師、三河浪人の多米(ため)権兵衛、銭泡(ぜんぽう)と名乗る乞食坊主、円福坊という越後の八海山の老山伏、大和から来た鋳物師(いもじ)の万吉、そして、春雨という女芸人が狭い早雲庵で新年を迎えていた。

 富嶽、多米、円福坊、万吉の四人は早雲庵の常連だった。富嶽と多米の二人は、すでに、ここの住人と言えるし、円福坊と万吉の二人は年中、旅をしていて、この地に来ると必ず早雲庵に顔を出し、しばらく滞在しては、また旅に出て行った。二人共、早雲がこの地に庵を建てるまでは、小河の長谷川次郎左衛門尉の所に世話になっていたが、次郎左衛門尉の屋敷よりも、こっちの方が気楽なので、いつの間にか早雲庵の常連となっていた。今回、たまたま年の暮れに早雲庵に来た二人は、そのまま、ここで新年を迎えた。

 早雲がこの地に来て、すでに三度目の正月だった。去年の正月も一昨年の正月も、今年のように七、八人の者が早雲庵にいたが、女が居座っているのは初めての事だった。

 春雨という女は年の頃は二十七、八の京から来た踊り子で、去年の十二月の十日頃から、ここに居着いてしまっていた。

 春雨がここに来た時、珍しく、早雲庵には誰もいなかった。春雨は腹を減らして寒さに震え、日の暮れる頃、ようやく、ここにたどり着いた。一晩、泊めて貰おうと誰もいない庵の中で待っていたが、誰も帰って来なかった。疲れていた事もあって、春雨はいつの間にか囲炉裏の側で眠ってしまった。朝になって目が覚めると、勝手な事をして悪いとは思ったが、有り合わせの物で雑炊(ぞうすい)を作った。ようやく雑炊ができ、食べようと思った時、誰かが庵に入って来た。

 乞食坊主だった。この乞食がこの庵の(あるじ)なのか、と春雨は疑った。

「すまんがのう。何かを食わせてくれんかのう。もう、三日も何も食っておらんのじゃ」と乞食は、今にも死にそうな声を出して言った。

 春雨は、何と答えたらいいのか分からなかったが、主が帰って来たら謝ればいいと思い、その乞食と二人で雑炊を平らげた。

「どうも、御馳走様でした」と乞食坊主は春雨に両手を合わせた。

「やっと、生き返ったわね」と春雨は言った。

 春雨は自分の事を言ったのだったが、乞食は勘違いして、お陰様で、と言って、また両手を合わせた。

「いいのよ‥‥‥ねえ、あんた、この辺の人」と春雨は乞食に聞いた。

「いえ、違います」と乞食は首を振った。

「ふうん。じゃあ、どこの人」

「どこといって別に決まってはおらんが、昔は京の都にいた事もあるのう」

「へえ、あんた、京の人なの」

「はい。戦が始まる前の事ですわ」

「ほんと、実はあたしも京から来たのよ」

「ほう、そうですか」

 二人がありし日の都の話をしていると、また、誰かが訪ねて来た。

「和尚さん、おるかね」と外で呼んでいた。

 春雨が出て行くと、漁師が魚をぶら下げて立っていた。春雨を見て不思議そうな顔をしていた漁師は持って来た魚を見せると、「和尚さんは留守かい。まあ、これを食ってくれや」と春雨に魚を渡した。

 帰ろうとする漁師に春雨は声を掛けた。

「ねえ、ちょっと。あたしも和尚さんを待ってるんだけど、いつ帰って来るのか知らない」

「さあ、分からんのう。旅に出たとすれば、しばらくは帰って来んじゃろうのう。昨日は、いたんじゃから、当分、戻っては来んじゃろう。駿府のお屋形様の所に行ったのなら、その内、帰って来るじゃろう。絵画きさんもおらんのかい」

「ええ、誰もいないわ」

「そうか、誰もいないとは珍しいのう。必ず、誰かがおるんじゃがの」

「ここに住んでるのは和尚さんだけじゃなかったの」

「いや、色んなお人が出入りしておるのう。和尚さんがいなくても誰かがおるんじゃが‥‥‥まあ、しばらく待っていれば、誰かが戻って来るじゃろう」

 そう言うと、漁師は帰って行った。

 春雨は漁師の言った事を考えながら、魚をぶら下げて庵の中に戻った。

「御馳走様でした」と乞食坊主は帰ろうとした。

「ねえ、あんた、どこ、行くの」と春雨は聞いた。

「別に当てはございません」

「じゃあ、もう少しいてよ」

「しかし、人様のうちに長居するわけにも‥‥‥」

「いいのよ。ここはあたしのうちじゃないのよ」

「はあ?」と乞食坊主は怪訝な顔をした。

「あたしもあんたと同じで、おなかを減らして、昨夜、ここに来たの。そしたら誰もいなくて、悪いとは思ったんだけど勝手に上がり込んで、勝手に雑炊を作ってたのよ。食べようとした時に、あんたが来たっていうわけ。だから、あんたもここの主人に無断で、ご飯を頂いたっていう事になるのよ」

「何と、わしは知らずに人様の物を無断で食べたと言うのか」

「そういう事ね」

「何とした事じゃ」

「だから、あんたもここの主が戻って来るまで、ここにいて、あたしと一緒に謝ってよ」

「‥‥‥仕方ないのう」

 昼過ぎになって、主の早雲が戻って来た。

 春雨は乞食坊主と二人で庵の中の掃除をしていた。早雲は勝手に上がり込んでいる二人を見ても何も言わなかったが、綺麗に片付けてある庵の中を見回して、二人にお礼を言い、土産じゃ、と言って二人の前に御馳走を並べた。

 春雨が、勝手に上がり込んで、飯まで食べた事を謝ろうとしたら、絵画きと呼ばれている坊さんと浪人者が帰って来て、また、土産だ、と言って御馳走を並べた。早雲たちが話を始めてしまい、春雨は言い出すきっかけを失ってしまった。ようやく、話が一段落すると浪人者が言った。

「早雲殿、ところで、その別嬪(べっぴん)さんはどなたです」

「いや、わしは知らん。おぬしらの知り合いじゃろ」

「いや、わしらは知らん。てっきり、早雲殿の知り合いじゃと思っておったわ」と絵画きは言った。

「あの、申し訳ありません」と春雨は謝った。事の次第を皆に話したが、誰一人として文句も言わず、まあいい、これだけの御馳走があるんじゃ。みんなで食べようと、その話は打ち切りとなった。

 早雲は昨日、駿府に出掛けていた。駿府のお屋形様が凱旋(がいせん)して来たので、そのお祝いに出掛けたのだった。

 絵画きの富嶽と多米権兵衛は留守番していたが、小河の長谷川次郎左衛門尉から、今晩、お茶会をやるから来ないかと誘いが来て、次郎左衛門尉の屋敷まで出掛けていた。

 お茶会といっても、現代のお茶会とは違って『闘茶(とうちゃ)』と呼ばれる、何種類かのお茶を飲み分ける遊びだった。ただ、お茶を飲み分けるだけではなく、お互いに景品を持ち合い、勝った者は景品が貰えるという勝負事だった。そして、そのお茶会の後には、必ず、宴会が付き物で、夜が更けるまで飲んで騒いだ。庶民たちの娯楽として、当時、闘茶は下々の者の間にまで流行っていた。

 富嶽と多米の二人には勿論、景品として持って行く物はなかった。しかし、その点は次郎左衛門尉がいつもうまくやってくれた。ちゃんと二人の景品まで用意した上で招待しているのだった。その景品というのも並大低の物ではなかった。高価な品々がずらりと並び、それらの品々を平然とやり取りしていた。もっとも、二人の目当てはそんな高級品ではない。お茶会の後の豪華な宴会が目当てだった。次郎左衛門尉は早雲を招待しに来たのだったが、留守なら仕方がない、お二人だけでもどうぞ、と言うので、喜び勇んで出掛けて行ったのだった。

 春雨と乞食坊主の銭泡は、その日から早雲庵に居着いてしまっていた。

 春雨は京の四条河原で踊っていた曲舞女(くせまいおんな)だった。あの頃は春雨も若く、京で一、二を争う程の踊り子だった。在京している武士たちの屋敷に招待されて舞った事も何度もあった。お公家さんの屋敷にも出入りした。誰からもちやほやされて毎日が華やいでいた。

 しかし、京の都で戦が始まった。突然の事にとても信じられなかった。どうせ、すぐに終わるだろうと楽観していたが、戦は終わるどころか、益々、大きくなって行き、建ち並ぶ屋敷や寺社は次々に燃えて消えた。春雨の一座も、とうとう京を離れなければならなくなった。

 春雨は一座と共にあちこち流れ歩いた。京での華やかな生活が、まるで嘘のような悲惨な旅だった。旅をして回るのは子供の頃から慣れてはいても、一度、覚えてしまった贅沢な暮らしを忘れる事はできなかった。戦はいつまで経っても終わらなかった。そして、いつしか京を出てから七年の歳月が経ち、春雨も年を取って行った。

 一座には若い娘も入り、春雨の存在は徐々に影が薄くなって行った。いくら踊りがうまくても若さには勝てなかった。一座と共に駿河の府中まで来て、春雨は舞台に出してもらえず、座頭(ざがしら)と喧嘩して悪態を付き、飛び出してしまった。飛び出してから後悔しても遅かった。今更、戻るわけにも行かず、かといって、踊りしか知らない春雨には生きる術が分からなかった。

 一座は駿河の公演が終わったら京に戻るはずだった。春雨も早く京に帰りたかった。しかし、一座から飛び出した今となっては京に帰ってもしょうがなかった。この年では、どこの一座でも使っては貰えない。笛や鼓でもできれば使ってはくれるが、春雨にはできなかった。若い頃、踊りは若いうちだけだから笛や(つづみ)を習っておいた方がいいよ、とよく言われたが、春雨はそんな先の事なんか考えもしなかった。自分の踊りに自信を持っていたし、若い者には負けないと思っていた。今でもそう思っているが、舞台に上がれなければ、どうしようもなかった。

 確かに、客たちは若い娘たちの方を喜んだ。客たちに見る目がないんだ、と思っても、客商売の舞台では、客を呼べなければ話にならなかった。一座から捨てられた春雨は、これから、どうしようか、と空きっ腹を抱えて、海を見ながら考えていた。どう考えてみても春雨には踊りしかなかった。結局、謝って、一座に戻ろうと京に向かう一座を追った。そして、一山越えた所で日が暮れかかり、小高い丘の上に建つ早雲庵にたどり着いたのだった。今更、座頭に謝って一座に戻るのもしゃくだった春雨は、何となく居心地のいい早雲庵の住人となってしまった。

 一方、乞食坊主の方は早雲庵の建つ丘のすぐ下で寝ていた。朝になって、食べ物の匂いで目が覚め、匂いに誘われるままに早雲庵にやって来たのだった。

 頭を丸め、ぼろぼろになった墨染めの衣を着てはいるが、早雲や富嶽と同じように偽坊主だった。この偽坊主も居心地のいい早雲庵が気に入ったとみえて、出て行こうとはしなかった。不思議な事だったが、この乞食坊主は以前、京において早雲と面識があった。しかし、お互いに気づかず、十日程経った後に、お互いに話の内容から、相手が誰なのか分かったのだった。当時、早雲の方は足利義視(よしみ)申次衆(もうしつぎしゅう)の武士、乞食坊主の方は『伏見屋』という幕府に出入りしていた羽振りのいい商人だった。

 お互いに、変わり果てた相手の姿が信じられなかった。

 伏見屋は戦のお陰で、商売の方はうまく行ったが家族を失ってしまった。伏見屋が取り引きに出掛けている留守、屋敷が西軍の足軽に襲われた。伏見屋としても、浪人たちを雇い、厳重に守りを固めていたが足軽の数が多すぎた。東軍との取り引きがうまく行き、喜んで帰って来ると屋敷はすでに燃え落ちていた。

 伏見屋は愕然(がくぜん)となった。そして、その後に取った行動が、今の乞食坊主となる原因だった。伏見屋は家族たちの心配をするよりも隠しておいた財産の心配をした。慌てて、焼け落ちた屋敷内に飛び込むと財産が無事かどうか確かめた。幸いにも隠しておいた財産は無事だった。伏見屋は胸を撫で下ろした。そして、家族の事を思った。家族の者は皆、無残な姿で殺されていた。

 伏見屋は家族を失って、初めて、自分は今まで何をして来たのだろうと考えた。

 家族のために働いて来たのではなかったのか。

 それが、いつの間にか、家族の事は忘れ、銭を儲ける事に取り付かれていた。財産は残ったが、家族がいないのでは意味がなかった。

 伏見屋は財産をすべて持って、南都、奈良に向かった。奈良には、茶の湯の師匠、村田珠光(じゅこう)がいた。伏見屋は珠光の家に世話になりながら、毎日、豪遊して暮らした。珠光のために、珠光が理想とする茶室を作ったり、名物と呼ばれる茶道具を集めたり、銭に糸目を付けずに遊び暮らした。また、珠光の回りには遊び上手が揃っていた。毎日、退屈する事もなく楽しく過ごした。これ以上の贅沢はないと言われる程の贅沢を味わった。そして、財産を使い果すと伏見屋は頭を丸め、銭が泡と消えたので、自ら銭泡(ぜんぽう)と名乗り、墨染め衣を身にまとって奈良から姿を消した。

 贅沢の限りを付くし、無一文となったが、伏見屋には後悔はなかった。返って気持ちがよかった。それからの伏見屋は銭を稼ぐ事は一切しなかった。珠光の弟子だという事も口に出さなかった。村田珠光は将軍の茶の湯の師匠だった。その事を口に出せば、大名なら放っては置かなかっただろう。珠光の始めた『佗び茶』は、すでに噂にはなっていたが、それを実際に知っている者は京や奈良の一部の人たちだけだった。地方の大名たちは、その『佗び茶』を知っていると言えば飛び付いて来るだろう。しかし、銭泡となった伏見屋は、お茶の事など一言も喋らず、腹を空かしていても乞食坊主のままでいた。

 早雲は伏見屋の話を聞いていた。

「珠光殿も喜んでいた事でしょう」と早雲は聞いた。

 早雲は珠光のお茶会に義視と一緒に参加した事があったので、珠光の事は知っていた。

「はい。あの時は実に楽しかった。決して、今が楽しくないと言うわけではないがの。あの時、最高の贅沢を経験したお陰で、返って、今の無一文の生活も楽しく思えるのかもしれんのう」

「もう、商売はなさらないのですか」

「銭はもう必要ないんじゃ。銭が無くても、月があり、山があり、海がある。そして、季節毎に様々に変わる自然を眺めておれば飽きる事はない。腹を空かしておっても何とかなる。死ぬ時が来たら逆らわずに死ぬだけじゃ」

「銭泡殿、ここには好きなだけいて下さい。結構、ここも楽しい所ですよ。わしも、この地に落ち着くつもりはなかったんじゃが、居心地がいいのか、もう、この地に来て、二年半にもなるわ」

「ええ、いい人ばかりですな。そなたの人徳で、いい人ばかりが集まって来るんじゃろうのう」

「人徳なんて、そんなもんじゃないですよ。ただ、気ままに、やりたい事をやっておるだけです」

「お言葉に甘えて、春になるまでお世話になる事にします」

「どうぞ、好きなだけいて下さい」

 銭泡と春雨の二人は、そのまま、早雲庵に居続けた。

 銭泡の方は問題ないが、春雨の方は問題だった。春雨は別に気にしていなかったが、今まで、女っ気のなかった早雲庵に女が加わるのは回りの方で気にし出した。

 年は少し取ってはいても春雨は、誰が見てもいい女だった。そんな女が同じ屋根の下で暮らすとなると、まず、多米が意識し出した。

 富嶽がたまりかねて、春雨のための離れを作ろうと言い出した。早雲も最近のみんなの様子が変な事に気づいて同意し、早雲庵の南東に、小さな小屋、春雨庵が建てられた。

 春雨は大した女だった。男をあしらう事には慣れていた。多米が言い寄ろうが、村の男たちが変な目付きをしようが一向に気にしなかった。毎日、みんなの食事の面倒を見、早雲庵に訪ねて来る者たちの世話を焼いていた。

 春雨は訪ねて来る者たちに、勝手に、早雲和尚の弟子だと名乗っていた。しばらくすると、早雲ではなく春雨に会いに来る者も現れ、早雲庵はいつも賑やかだった。

 そして、文明六年の年は暮れ、年は改まって文明七年となった。







 海のように広い霞ケ浦を挟んで、鹿島神宮と香取神宮が向かい合って建っている。鹿島神宮も香取神宮も、新年を祝う着飾った参拝客で溢れていた。

 早雲の弟子、才雲(さいうん)孫雲(そんうん)の二人は常陸の国(茨城県北東部)鹿島で新年を迎えていた。

 二人は去年の春、早雲の供をして鹿島神宮にやって来て、そのまま、この地に置いて行かれたのだった。

 鹿島神宮は対岸にある香取神宮と共に武神を祀り、武術が盛んだった。早雲は駿河のお屋形、今川治部大輔義忠の武運を祈るために、この地にやって来た。早雲がこの地に来たのは二度目だった。前に来たのは駿河に向かう前だった。その時は、ただ参拝しただけだったが、今回は二人の弟子が、せっかく、ここまで来たのだから、どうしても武術修行を見たいと言うので、鹿島の森の奥にある武術道場に行ってみた。飯道山のように山の上ではなかったが、道場の雰囲気は似ていた。修行に励んでいるのは神宮寺の山伏、この辺りの郷士、そして、神宮の神官たちだった。剣術、槍術、棒術、薙刀術に分かれて稽古に励んでいた。

 三人が木陰から稽古を眺めていると、棒を持った山伏が近づいて来て睨み、「何か用か」と言って来た。

「有名な鹿島の太刀というものを、この目で見たくなったのでな、少し見せてもらっておる」と早雲は答えた。

「ほう、御坊殿は見ただけで武術というものが分かるとは、なかなかの腕と見えるのう」と山伏は喧嘩を売るような態度だった。

「いや、わしには武術の事など分からんが、ただ、国への土産話にと思って覗いて見ただけじゃ。修行の邪魔になると言うのなら、すまなかった。この大勢の人たちの修行振りを見ただけで、いい土産話ができた。失礼致しました」

 早雲は二人を促して、その場から去ろうとした。

「待て、ただ稽古を見ただけではつまらんじゃろ。どうじゃ、実際に鹿島の太刀を見てみる気はないか」

「いえ、結構でございます」と早雲は頭を下げた。

 その時、武士が近づいて来て、山伏に声を掛けた。

「こいつらが覗き見をしていたんじゃ。どうせ、香取の回し者じゃろう」と山伏は武士に言った。

「そうか」と武士は早雲たちを見てから、「おぬしは稽古に戻ってくれ。わしが話を付ける」と言った。

 山伏は去って行った。残った武士は、「どうも、失礼いたした」と早雲たちに謝った。

「御坊殿はどちらから参ったのですかな」

「駿河です」と早雲は答えた。

「ほう、駿河から、はるばると‥‥‥わざわざ遠くから来てくれたのに、嫌な思いをさせてしまいました。お詫びと言っては何ですが、お茶でも飲んで行って下さい」

 早雲たちは武士に案内されて、道場のはずれに建つ小屋に案内された。

 その小屋の中では、師範たちが休んでいた。

 早雲たちを連れて来た武士の名は塚原土佐守(とさのかみ)といい、この道場内でも、かなり偉い男のようだった。早雲は土佐守とお茶を飲みながら、半時程、世間話をした。

 早雲も土佐守も四十歳半ばの同じ位の年頃だった。土佐守の話によると、戦の始まる前、彼は京の都に行った事があり、その行き帰りに駿河の今川氏のお屋形に寄り、大層な御馳走で持て成されたと言う。

 もう十年以上も前の事だが、神道流(しんとうりゅう)を開いた飯篠長威斎(いいざさちょういさい)と数人の弟子たちが京に向かい、将軍義政の御前で武術を披露し、長威斎はそのまま将軍の武術師範として、しばらくの間、京に留まった。その一行の中に土佐守もいた。京に滞在中に長威斎の弟子たちは各地の武将の武術師範となって散って行ったが、土佐守は長威斎のもとを離れず、一年近く、京に滞在して後、長威斎と共に香取に帰って来た。香取に戻ると長威斎は隠居してしまい、土佐守は鹿島に帰って修行者たちの指導に当たり、今に至っていた。

 鹿島では鹿島神道流、香取では香取神道流というが、当時、この二つの武術は同じものだった。鹿島神宮にも、香取神宮にも、古くから伝わる武術があり、それらを一つにまとめて『天真正伝(てんしんしょうでん)神道流』としたのが飯篠長威斎だった。長威斎は幼い頃より香取の武術を身に付け、さらに、鹿島の武術を吉川呼常より習った。そして、呼常の娘を嫁に貰い、長男の修理亮(しゅりのすけ)を香取の地に置き、次男の山城守(やましろのかみ)を鹿島の地に置いて、武術の指導に当たらせていた。塚原土佐守は山城守のもとで武術師範をしていた。

 土佐守が長威斎と共に京に来た時、早雲も京にいたが、まだ、足利義視の申次衆になっていなかったので、長威斎一行の噂は耳にしても実際に見る事はできなかった。

 早雲がそろそろ帰ろうとした時、思わぬ男と再会した。その男は木剣を引っ提げて、小屋の中に入って来ると、「暑いのう」と言って、浴びるように水を飲んだ。

 その水の飲み方に見覚えがあった。見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。しかし、その男が、大原殿と呼ばれた時、早雲は思い出した。

「大原殿」と早雲は笑いながら、その男に声を掛けた

 呼ばれた男はキョトンとして、早雲を見たが誰だか分からないようだった。

「久し振りじゃのう。わしじゃ、伊勢新九郎じゃ」

「伊勢新九郎‥‥‥おお、おぬしか。懐かしいのう。しかし、一体、どうしたんじゃ、その格好は」

「おぬしこそ、何でまた、こんな所におるんじゃ」

 二人は二十年程前、飯道山で共に修行した仲だった。丁度、風眼坊たち四天王が活躍していた頃だった。当時、新九郎は京の伊勢家に居候していたが、久し振りに訪ねて来た風眼坊と会い、そのまま、飯道山まで行ったのだった。故郷を出る時、新九郎と風眼坊の武術の腕は互角だった。しかし、三年間、会わないうちに風眼坊は見る見る腕を上げ、新九郎には、とても太刀打ちできなかった。元来、負けず嫌いな新九郎は風眼坊に負けるものかと修行を積むために飯道山にやって来た。

 一方、大原源五郎は甲賀の郷士の伜で、四天王のお陰で、武術が盛んになり始めていた飯道山に登って来ていた。

 二人は一年間、同じ釜の飯を食べながら、飯道山での厳しい修行に耐えて来た仲だった。

 早雲は源五郎に歓迎され、彼の屋敷に招待された。彼は今、近江守と名乗り、この辺りの支配者、鹿島氏の家臣となっていた。

 源五郎は飯道山を下りてから諸国に修行の旅に出た。この鹿島の地に来た時、塚原土佐守と試合をして見事に負け、長威斎の弟子となった。そして、この地で嫁を貰い、今では三人の子供もあり、大きな屋敷に多くの家来たちに囲まれて暮らしていた。

 早雲はのんびりと十日間も大原の屋敷に世話になり、弟子の二人を大原のもとに預けて、駿河に戻って来た。弟子の二人は武術を身に付けたいと言うし、大原は二人位、居候が増えても変わらんから置いて行け、わしが武術をたたき込んでやると言うので、早雲は二人をこき使ってくれと置いて来た。

 才雲と孫雲の二人は毎日、朝早くから雑用などをして働き、昼過ぎから屋敷内の道場で、近江守の弟子という岩田勘兵衛から剣術を習った。二人とも武術を習うのは初めてで、まったくの素人だったが真面目に稽古に励んでいるお陰で腕を上げて行った。

 鹿島に来て半年が経ち、二人の腕は近江守の目に止まる程となり、今度は塚原土佐守の道場に通う事となった。

 ここ鹿島では飯道山のやり方とは違い、武術を習いたい者は、まず、師範のもとで修行を積み、何年かの修行に耐え、腕を上げた者だけが鹿島神宮の道場で修行ができるというやり方だった。したがって、武術道場はあちこちにあり、武士だけでなく百姓や漁師たち、あらゆる身分の者たちが稽古に励んでいた。それらの道場にも階級があり、腕を上げる毎に上級の道場に移り、そこでまた、修行を積み、最後には鹿島神宮の道場で修行を積んだ。鹿島神宮の道場で修行を積めば、師範として道場を開く事ができるが、幼い頃より修行を積んで来た者でも神宮の道場に入るのは難しい事だった。

 年末年始と才雲と孫雲は大原の屋敷で忙しく働き、武家の正月というものを初めて経験していた。







 雪が降っていた。

 春雨は早雲庵の離れ、春雨庵で、ぼんやりと落ちて来る雪を眺めていた。

 どうして、あたしはこんな所にいるんだろう、と考えていた。

 確かに、ここにいれば毎日が楽しかった。毎日、色々な人が訪ねて来て、色々な話をしてくれた。ここに来て、初めて、世の中には色々な人がいるんだな、と思った。

 春雨は今まで、自分の舞台を見に来てくれる色々な人たちを舞台の上から見て来た。でも、それは、ただ、漠然と見ていたに過ぎなかった。今まで、自分の踊りをみんなが同じように見ているものと思っていた。しかし、人は一人一人、みんな違っていた。たとえ、同じ物を見ても考える事は一人一人が違っていた。そんな事は当たり前の事だが、春雨は気づかなかった。

 春雨は自分の踊りに自信を持っていた。その踊りが田舎の連中に分からないのは、見る目のない客の方が悪いのだと思っていた。ここに来て、色々な人たちと話をしてみて、春雨は自分の考えが間違っていたのかもしれないと思うようになっていた。世の中には色々な人間がいる。しかし、その様々な人間が共通に美しいと感じる物があるに違いないと思った。例えば、道端に咲く可憐な花とか、例えば、西の空を真っ赤に染める夕焼けとか、例えば、朝日に輝く富士の山とか、どんなにひねくれている者でも美しいと感じる物があるに違いないと思った。

 今までの自分の踊りには、どこか、押し付けがましいところがあったように思えて来た。京の都で、あれだけ評判になった踊りを見せてやる。さあ、よく見るがいい、と言うような押し付けがましいところがなかったとは言えなかった。道端に咲く花にしろ、夕焼けにしろ、富士山にしろ、そんな押し付けがましいところは少しもなかった。

 春雨は舞台から離れてみて、初めて、踊りというものの難しさ、深さを知ったような気がした。しかし、今となっては、もう、踊りの事はどうでもよかった。それよりも、踊りを捨ててしまって、これから先、どうやって生きて行けばいいのだろう。

 毎日、楽しく過ごしていても、これから、どうしたらいいんだろう、と考えない日はなかった。

 銭泡法師のように、今まで好き勝手に生きて来た人なら、将来の事など考えずに、ここで、毎日、楽しく暮らしていればいいだろうが、春雨にはそんな暮らしはできなかった。すでに二十七歳になってしまったとはいえ、人並みな暮らしがしたかった。人並みに夫を持って、子供を産み、家族のために生きたかった。

 今までに、そんな男がいなかったわけじゃない。ただ、運がなかっただけだった。若い頃には、命懸けで男に惚れた事もあった。踊りを捨ててまでも、その男と一緒に暮らしたかった。しかし、それは実現しなかった。子供を(はら)んだ事もあった。しかし、流産してしまった。

 春雨がここに落ち着いたのは、はっきり言って早雲に惚れたからだった。一目会った時から、春雨は早雲という男に惹かれた。そして、一緒に暮らしているうちに、益々、惹かれて行った。春雨の気持ちも知らず、当の早雲は春雨にはまったく興味が無さそうだった。

 春雨は自分という女に自信を持っていた。男なら誰でも自分の魅力に参ると思っていた。たとえ、僧侶であろうと男に違いなかった。現に富嶽にしろ、銭泡にしろ、隠れては春雨に言い寄って来ていた。早雲もいつか言い寄って来るに違いないと思って待っているのだが、早雲は言い寄っては来なかった。春雨を女と見ていなかった。男女の差別なく皆と同じように春雨にも接していた。そんな目に会うのは初めてだった。腹も立ち、しゃくに思うが、春雨の心は益々、早雲に惹かれて行き、ここから出て行く事は不可能になっていた。

「どうしたんだろ」と春雨は呟いた。「どうして坊主なんかに惚れたんだろ。まあ、いいか。納得するまで、ここにいて、飽きたらどこかに行こう。銭泡さんじゃないけど、世の中、何とかなるもんだわ」

「何が何とかなるんじゃ」と早雲の声がした。

 振り返ると、土間に早雲が立っていた。

「しんみりとしていて、そなたらしくないのう」と早雲は笑った。

「あっ、お帰りなさい。やっと帰って来たんですね」春雨は嬉しそうに早雲を迎えた。「早雲様がなかなか帰って来ないので、あたし、淋しかったんですよう」

「何を言うか」

「だって、みんな、どこかに行っちゃうんだもの」

「みんな、どこかに行ったって」

「ええ。権兵衛さんは一昨日から、いなくなっちゃったし、絵画きさんは今朝早く、雪が降ってるのに、どこかに出掛けちゃうし」

「ほう、権兵衛は出て行ったか」

「ええ、あたしに一言も言わずに消えちゃったわ」

「それは、そなたがいじめるから逃げて行ったんじゃろ」

「あたしがいじめるなんて、権兵衛さんがしつこくするからですよ」

「それは、そなたのような女子(おなご)と一緒に暮らしておったら、男なら誰でも、ちょっかい出したくなるさ」

「早雲様も?」と春雨は聞いてみた。

「ああ、当然じゃ」と早雲は頷いた。

「ほんと?」

「ほんとじゃとも。ただのう、わしが先頭になって、そなたを追いかけ回しておったら、示しがつかんじゃろうが」

「うまい事、言っちゃって、早雲様の言う事は本当なんだか、冗談なんだか分かりゃしない。あたし、本気にしちゃうから」

「わしは嘘は言わんよ」と早雲は笑った。

「じゃあ、今度、夜這いに来てよ。あたし、待ってるから」

「おう。その内な」

「まったく‥‥‥いい加減な事ばっかり」春雨は膨れた顔をして早雲を睨んだ。

「そなたは、いい女子じゃのう」と早雲はまた、笑った。

「早雲様、絵画きさんは雪の降る中、朝早くから、どこに行ったんですか」

「ああ、富嶽か。また、富士山を描きに行ったんじゃろ」

「何も雪の降る中、行かなくても富士山は消えやしないのに」

「富士山はいつでもあるんじゃが、雪の方は、いつでもあるっていうもんじゃないからのう。この辺りはあまり雪は多くないんじゃ。雪景色を描くには雪が降ってる時に行かないと描けないんじゃろう」

「へえ、絵を描くのも大変なんですね」

「らしいのう。しかし、奴の絵はここに来て見る見る上達して来ておる」

「そうなんですか」

「今川のお屋形様が、いい絵を随分と集めておってのう。時折、見せてもらっておるんじゃ。奴が絵を見る時の目は真剣そのものじゃ。一つの絵を飽きもせずに一日中眺めておる事もあったわ」

「絵を一日中‥‥‥」

「そうじゃ。富嶽も昔は武士じゃった。京で戦が始まった時は、奴も武士として戦に出たらしい。何があったのか詳しくは知らんが、武士をやめて絵を描き始めた。特に、誰かに習ったというわけでもない。わしはたまたま富士山の裾野で富嶽と出会ってのう。意気投合して、ここに連れて来たんじゃ。ここに来てからも、ここにいる時よりも旅に出ておる方が多いと言えるのう。わしも、よく旅に出る方じゃから行き違いになる事も多くてのう。まあ、年末年始位じゃろうのう、みんながここに集まるのは」

「それじゃあ、絵画きさんはしばらくは帰って来ないのですか」

「ああ、一度、出掛けたら、まあ、一月は戻って来んじゃろう」

「そうなんですか‥‥‥早雲様はまだ旅には出ないんでしょう」

「まあ、今のところはの」

「権兵衛さんは、どこに行ったのです」

「さあな。そなたに振られて、やけになって戦にでも行ったんじゃないのか」

「そんな‥‥‥」

「また、そのうち戻って来るさ。もし、戻って来なければ、それでもいいがのう。いつまでも、こんな所でゴロゴロしていてもしょうがないからのう」

「あたしがここに来たから、みんな、ばらばらになっちゃったのかしら」

「そんな事はない。そなたのせいで、みんな色気立って来た事は確かじゃが、ここに来る連中たちは皆、ただ、ここに遊びに来ておるだけじゃ。ちょっと、のんびりしたくなると、ここにやって来る。しかし、ここに長居する事はない。しばらく、ここにおれば分かる事じゃが、色々な連中がここに来て、勝手に寝泊りして行く。旅から帰って来て、知らない人間がいなかった試しはない。いつも、見た事もない奴が我家のごとくに住んでおる‥‥‥それでいいんじゃよ。この早雲庵は誰の物でもないんじゃ」

「そうなんですか。それで、この前、あたしと銭泡さんが勝手に上がり込んでいても、変だとは思わなかったんですね」

「ああ、そういう事じゃ。だから、そなたも遠慮する事はない。行く所がなければ、ずっとここにいても構わん。かえって、いてくれた方がいいかもしれん。留守の間に、どんな奴が訪ねて来たか聞けるからのう。ただ、時折、物騒な奴らもここに来るからのう。そなたの身が心配じゃが‥‥‥」

「あたしの事なら大丈夫です。一座にいた頃から危険な目には慣れてますから。自分の身を守る(すべ)は心得ています」

「そうか、それなら心配ないのう。まあ、しばらくはここにいて、これからの事を考えればいい」

 早雲はそう言うと立ち上がった。出て行こうとしたが、急に振り返ると、「おう、忘れておったわい」と言った。「銭泡殿がお茶を点てると言うんで、そなたを呼びに来たんじゃったわ」

「お茶?」

「ああ、駿府のお屋形様から銘茶を貰って来てのう。そいつの味見じゃ」

「銭泡さんがお茶を点てるんですか」と春雨は不思議そうに聞いた。

「今は、あんな乞食のような格好をしておるが、数年前までは、幕府に出入りしていた商人じゃ。大きな屋敷や蔵をいくつもを持っておってのう、贅沢な暮らし振りじゃったわ」

「へえ、あの銭泡さんが‥‥‥とても、信じられない」

「茶の湯の腕も一流じゃ」

 早雲は春雨を連れて、春雨の離れから出た。

「こいつは積もりそうじゃのう」と早雲は早雲庵の屋根の上を眺めた。

「そうですねえ」と春雨は空を見上げた。

「静かな正月じゃのう」

「そうですねえ」

 二人は並んで早雲庵に入って行った。

 それから四日後の事だった。春雨の身に思わぬ事が起こった。

 早雲庵の者たちは誰もが一度、春雨の舞いを見たいと思っていた。そこで、小河の長谷川次郎左衛門尉の屋敷で、春雨の舞いを見るという事が、春雨には内緒で決まっていた。勿論、踊りには唄が付き物だった。長谷川屋敷では一流の囃し方を集め、春雨のための衣装も舞台もすべて用意した。

 春雨に取っては夢のような事だった。もう、踊りの事は諦めていた。二度と舞台に立つ事はないと思っていた。

 春雨は蝶の様に舞台狭しと舞った。そして、その舞いは喝采(かっさい)で迎えられた。信じられない事だった。自分の舞いを認めてくれる人たちがいる事を春雨は改めて知った。そして、その後、春雨は駿府のお屋形様の前でも舞った。お屋形様を初め、奥方様や女房たちも皆、春雨の舞いに喝采を贈った。たった二度だけの喝采だったが春雨は嬉しかった。自分を認めてくれる人たちがいる事を知って嬉しかった。







 早雲は銭泡を連れて小坂の山を越えていた。

 山を下りた所に、お屋形様の弟、中原摂津守(せっつのかみ)の屋敷があった。その屋敷には三日前に来ていた。今日、向かっている所はもう少し先だった。

 新年の挨拶に、お屋形様のもとに行った時、お屋形様は銭泡が京の伏見屋だと見抜いてしまった。もっとも、早雲が銭泡と会った時とは違い、ぼろを纏ってはいなかったし、頭は剃っていても小綺麗ななりをしていた。

 お屋形の義忠は京に行った時、戦の最中だったにしろ、京の文化を取り入れる事に熱心だった。当時はまだ、村田珠光(じゅこう)も将軍の側にいて武将たちに茶の湯の指導をしていた。義忠も勿論、珠光から茶の湯を習った。当時、義視の側近にいた早雲も義忠と茶の湯を共にした事があった。また、義忠は伏見屋たち町人の茶の湯の会にも顔を出していた。特に、伏見屋は珠光の直々の弟子だと聞いて、よく出入りしては目利き(鑑定)の事などを尋ねていたらしかった。

 義忠は駿河に帰って来ても、自分なりに茶の湯の研究は続けていた。続けてはいたが、分からない事も色々とあった。しかし、分からない事があっても教えてくれる者がいなかった。戦が終わって京に行ったら、珠光の弟子を何としてでも、この駿河に連れて来ようと思っていた。そんな時、突然、伏見屋がこの駿河にやって来た。願ってもない事だった。義忠は銭泡を質問責めにして、自分の所持している唐物(からもの)や茶道具を銭泡に見せて鑑定してもらい、さっそく、お茶会を開いた。ほんの挨拶に来ただけだった早雲と銭泡は、お屋形から帰してもらえず、六日間も駿府に滞在する羽目となってしまった。

 お屋形様も銭泡に付きっきりで茶の湯を習いたかったが、武将たちが次ぎ次ぎに新年の挨拶をしに来るので、そうもいかなかった。暗くなってからでないと自分の時間が持てなかった。

 早雲と銭泡は、お屋形様が挨拶に出ている昼間、何をしていたかというと、正月早々から、埃にまみれて蔵の中に入り、今川家代々の蒐集品(しゅうしゅうひん)の整理をしていた。埃まみれにはなったが、これがまた、結構、楽しいものだった。

 蔵の中からは色々な物が出て来た。今川氏が駿河に本拠地を移して、すでに百年が経ち、蔵の中には今川家代々の歴史が詰まっていた。特に、四十年程前、義忠の祖父、範政が将軍義教を迎えた時、接待に用いた数々の品物が、そっくり出て来た時は驚きだった。四十年前の物とはいえ、それらはすべて、四十年経った今でも一流の物ばかりが揃っていた。

 銭泡は六日間で蔵から出て来た蒐集品のすべてを鑑定し、夜になると、お屋形様に茶の湯の指導をした。銭泡と一緒にいた早雲も自然と茶の湯を身に付けて行った。今まで、お茶会には出た事あっても、本気で茶の湯を学ぶ気などなかった早雲も、六日間、銭泡と共にいた事で、改めて、茶の湯の深さというものを知って行った。

 銭泡がお屋形様に茶の湯を指導したという事は瞬く間に噂となり、今川家の家臣たちの耳に入って行った。丁度、正月だった事もあって、各地から家臣たちが新年の挨拶に来ていたため、噂が広まるのも早かった。お屋形様の屋敷から戻った五日後には、さっそく、鞠子(丸子)の斎藤氏から茶の湯の指導を頼まれ、次には、お屋形の弟、中原摂津守に招待され、そして、今度は、お屋形様の叔父の小鹿逍遙入道(おじかしょうようにゅうどう)に招待され、今、早雲は銭泡を連れて小鹿屋敷に向かっていた。

 小鹿逍遙入道は今川家の長老だった。お屋形様の父親、範忠には四人の兄弟があり、長男の範豊は家督を継ぐ以前に亡くなり、範忠は次男だった。三男は範満、四男は範頼で、範忠も範満も、すでに亡くなっていた。四男の範頼が小鹿の地に来て小鹿姓を名乗り、今は隠居している逍遙入道だった。

 早雲と銭泡は藁科(わらしな)川を渡り、しばらく行くと阿部川(安倍川)を渡った。当時は現代の様に、藁科川と阿部川は合流していない。阿部川は賤機山(しずはたやま)のすぐ西を流れ、いくつもの支流を生みながら駿河湾へと流れ込んでいた。また、浅間神社と駿府屋形の間を支流の北川が北西に向かって流れていた。その北川の側に建てられたのが北川殿の屋敷だった。

 小鹿新五郎範満の屋敷は阿部川を渡り、さらに、阿部川の支流を渡って半里ばかり先の久能山の裾野の小高い丘の上に建っていた。屋敷は三間程の幅のある空濠と一丈余りの土塁に囲まれ、土塁の隅には見張り(やぐら)が建っていた。

 門番に用向きを告げると、御隠居様の屋敷は南側にあると言って案内してくれた。御隠居屋敷もやはり、濠と土塁に囲まれていたが、見張り櫓はなく門番もいなかった。門をくぐると右側に見事な庭園が見渡せ、離れの座敷が庭園の中に建てられてあった。見るからに風流を楽しんでいるようだった。

 案内してくれた門番が帰ると、逍遙入道、自らが出て来て、早雲たちを屋敷の中に案内した。案内された十畳間は庭園に面し、山水四季が描かれた襖に囲まれていた。

 早雲は目の前に座っている逍遙入道には前に会った事があった。応仁の乱が始まった頃、お屋形様と一緒に上京して来て、常にお屋形様の側にいたのが、当時、式部大輔(しきぶのたいふ)と呼ばれていた逍遙入道だった。早雲がこの地に来て、しばらく、お屋形様の屋敷に世話になっていた時、式部大輔の顔が見えないのでおかしいと思っていたが、まさか、隠居していたとは驚きだった。

「お久し振りです。伊勢殿、そして、伏見屋殿」と入道は言って笑った。

「驚きましたよ。式部殿が隠居なさっておったとは‥‥‥どうして、また、隠居などを」

「早雲殿、これはまた、おかしな事を聞かれる。そなたの方こそ出家なさるとは、わしに取っては驚きじゃ。将軍様の側近くに勤めておりながら潔くやめてしまうとはのう。伏見屋殿もそうじゃ。あれだれの財産を持ちながら店をたたんで、さすらっておられる。お二人共、まだ、わしよりお若いというのに‥‥‥」

「成程、人の事をとやかく言えませんな」と早雲は笑った。

「もう、わしらの時代は終わったんじゃよ」と入道は言った。「早雲殿、わしは、そなたが駿河に来られたというのは噂を聞いて知っておった。わしは初め、幕府の命で、何かを探るために今川家に入り込んで来たのかと思った。頭を丸めて出家しているとはいえ、北川殿の実の兄上じゃ。その立場を利用して、何かをたくらんでいるのではないかと疑っておったんじゃ。しかし、そなたはしばらくして、お屋形様の屋敷から出て行かれた。それでも、わしはそなたの事を信じなかった‥‥‥そなたの噂は時々、聞いた。山西に小さな庵を構えて気楽にやっていると聞いた。一年経ち、二年経ち、ようやく、わしは考え違いをしていた事に気づいたんじゃ‥‥‥わしはそなたが羨ましいわ。まったく好き勝手に生きている。わしも隠居しているとはいえ、そなたのように好きに旅になど出られん。そなたと一度、話がしてみたかったんじゃ。もしかしたら、わしと同じ心境になって出家したのかもしれんと思ってな」

「逍遙殿、わたしが世を捨てたのは、武士の世界がつくづく嫌になったからです」と早雲は言った。

「さようか‥‥‥わしもそうじゃ」と入道は頷いた。

 逍遙入道は、幼い頃より家督相続の争いに巻き込まれ、武士というものの非情さを身に染みて味わっていた。

 逍遙入道の父親で、お屋形様の祖父に当たる範政は六十歳を過ぎて若い嫁を貰った。そして、生まれたのが千代秋丸と呼ばれた逍遙入道だった。範政は千代秋丸を可愛いがった。千代秋丸が七歳になった時、家督を継ぐはずだった範政の長男範豊が跡継ぎを作らずに亡くなってしまった。範政は幕府に千代秋丸の家督を願い出た。当時、次男の範忠は二十五歳、三男の範満は二十歳で、二人とも将軍の奉公衆として在京していた。

 兄の突然の死を聞いた二人は慌てて駿河に帰ろうとしたが、国元からの連絡によると、駿府の屋形はすでに武装した兵に囲まれ、帰る事は難しいだろうとの事だった。まさか、父親が自分たちに対して、そんな事をするとは信じられなかったが、父親が千代秋丸に家督相続を願い出たと聞いて、信じざるを得なかった。

 時の将軍義教は父親の願いを許さず、次男の範忠の家督を主張した。義教が千代秋丸の家督を許さなかったのは、ただ、千代秋丸が幼少だったからだけの理由ではなく、千代秋丸の母親が鎌倉の扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定の娘だったからだった。その頃、義教は幕府の命に従わない鎌倉公方の持氏と対立していた。今川氏のいる駿河の国は幕府の支配の及ぶ最前線だった。駿河の国と北に接する甲斐の国(山梨県)と東に接する伊豆の国、相模の国は、鎌倉公方の支配下にあった。鎌倉公方と対立関係にあった幕府としては、最前線を守る今川氏が鎌倉方になる事を恐れていたのだった。今川家の家督相続は、今川家だけの問題ではなく、幕府を左右する程、重大な問題だった。

 そんな中、範忠は自ら家督相続の資格を放棄して出家してしまった。範忠としては父親に反対してまで自分が家督を継ごうとは思わず、自分が身を引けば事がうまく行くだろうと考えたのだが、かえって、事は複雑になって行った。範忠が出家すると幕府内に力を持つ山名氏が千代秋丸を支持し、山名氏に対抗する細川氏が三男の範満を支持した。

 今川家の家督争いは幕府内の勢力争いと変わり、京の都において、今にも戦が始まるかという雰囲気にまでなったが、家督が決定しない内に父親の範政が亡くなり、将軍義教が飽くまでも範忠を主張したので、ようやく、範忠が還俗して家督を継ぐ事に決定した。正式に家督を継いだ範忠は兵を引き連れて帰国し、千代秋丸を支持する国人たちを倒して駿府の屋形に入った。

 千代秋丸は国人たちに守られながら駿府を後にした。すべて、千代秋丸の意志ではなかった。千代秋丸は幼い内に父親を亡くし、兄弟たちとも別れて暮らさなければならなかった。千代秋丸が母親と共に駿府に戻ったのは、それから三年後の事だった。駿府に戻って来てからも反範忠派の者たちに担ぎ上げられ、範忠に対抗した時期もあったが、範忠が亡くなり、義忠の代になってからは義忠をよく助け、三年前に二十五歳になった長男の新五郎に家督を譲ると、まだ四十六歳だというのに頭を丸め、さっさと隠居してしまった。自分の役目はすでに終わったとでも言うような、あっさりとした隠居の仕方だった。

 俗世間と縁を切った逍遙、早雲、銭泡の三人の坊主頭は小春日和の日差しの中、和やかに話を交わしていた。

 夕方になると、元、逍遙の家臣で、今は隠居しているという久保秋月斎、大内南風斎が訪ねて来て、五人で風流なお茶会が始まった。





早雲庵



鹿島神宮




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