酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







多気の都







 太郎と楓はのんびりと旅をしていた。

 とりあえず、目指す所は伊勢の国司、北畠氏の本拠地、多気の都だった。

 太郎はどうも後味が悪いとずっと気にしていた。

 自分では正しい事をしたつもりでも、五人もの生命を断ってしまった。他にもっといい方法はなかったのだろうか‥‥‥

 奴らを生かしておいたら愛洲家は分裂してしまう。それに、奴らは妹や弟の事も言っていた。俺がいなくなったら、奴らは俺の代わりに妹や弟に手を出したに違いない。やはり、殺すしかなかったんだ‥‥‥

 しかし、何かが引っ掛かっていて、自分で自分を納得させる事ができなかった。

「まだ、さっきの事を考えてるの」と楓が太郎の顔を覗いた。

「いや」と太郎は首を振った。

「ああするしか、しょうがなかったのよ。早く忘れた方がいいわ」

「ああ」

「あの五人がいなくなったんだから五ケ所浦も平和になるわ。きっと、水軍も陸軍も仲良くなって、一つになれるわ。あなたは新しい旅の門出に五ケ所浦の悪い鬼を退治したのよ。もしかしたら、天狗の太郎坊様があなたに乗り移って鬼退治したのかもしれないわ」

「天狗の太郎坊か‥‥‥懐かしいな」

「二人の新しい旅の門出なんだから、いやな事なんて忘れましょう」

「そうだな‥‥‥」

 楓の言う通り、新しい旅の門出だった。

 去年の五月、飯道山を後にして、五ケ所浦に帰って来た。まさか、こんなにも早く、故郷を後にして、また、旅に出るとは思ってもいなかった。しかし、『陰流』を完成させなければならなかった。『陰の術』もまだ完成してない。もっと、もっと修行を積んで、それらを完成させなければならない。それは五ケ所浦にいては無理だった。何かと忙しくて、そんな事をしている暇はなかった。また、もっと色々な人にも会いたいし、色々な所へも行ってみたかった。

 楓の言う通り、いやな事は忘れてしまおうと太郎は思った。




 多気の都には三日目に着いた。

 途中、街道にはいくつも関所が設けてあり、通行の取り締まりが厳しかったが、父が用意してくれた手形のお陰で問題なく通る事ができた。

 さすがに『伊勢の京』と言われるだけあって、多気の都は賑やかだった。驚く程の家々が建ち並び、大勢の人で賑わっていた。

 街道の両脇には市が立ち、街道に沿って流れる川の河原にまで、びっしりと店が並んでいる。食べ物はもとより日用雑貨、衣服、農具から武器や甲冑、馬までも、あらゆる物が売っていた。また、河原の一画では念仏踊りや猿楽(さるがく)などの見世物もやっている。

 伊勢神宮の門前町、宇治と山田も賑やかだが、また、あそことは違う、華やかさがあった。

 これが都というものか、と太郎は人波に揉まれながら感心していた。戦が始まる前の京の都もこんな風に賑わっていたんだろうな、と思った。

 楓は着物や(くし)やかんざしなどの店を見つけると太郎の手を引っ張って連れて行き、楽しそうに見て回った。

 とりあえず、二人は父の紹介してくれた旅籠屋『橘屋』に落ち着いた。

 それは立派な旅籠屋だった。

 この辺りには宿屋がかなり並んでいるが、その中でも橘屋の大きさは際立っていた。あまりに立派過ぎて、かえって、二人はまごついて、おどおどしてしまった。太郎の身分からすれば、この位の旅籠屋に泊まるのは当然な事なのだが、あまり慣れていない。今まで、旅はしても、ほとんどが野宿か寺に泊まるかで、ちょっと贅沢をしても、木賃宿か安い旅籠屋に泊まる位だった。

 父も何度か、この旅籠屋を利用しているらしく、旅籠屋の主人は父の事を知っていた。海にばかりいるものだと思っていた父が、こんな所に何度も来ていたなんて、何となく変な気がした。

 旅籠屋の主人は太郎たちを丁寧に持て成してくれた。太郎たちが驚いていたのと同じく、主人の方でも驚いていた。この物騒な時期に供も連れずに、たった二人だけで、しかも、女連れで五ケ所浦から来るなんて、大した度胸だと感心していた。

 この旅籠屋の主人の名は弥兵衛といい、四十半ば位の年で、腰の低い、生まれながらの商人という感じの男だった。旅籠屋を始めてから五代目で、北畠氏がここを本拠地に決め、ここに移って来てから、ずっと、ここで旅籠屋をやっているとの事だった。

 五ケ所浦の方々はよく利用してくれるが、二人だけで来たのは初めてだと笑いながら言った。

 太郎は父から紹介してもらった倉田無為斎の事をさりさりげなく聞いてみた。

 弥兵衛は無為斎を知っていた。知っているが、今、どこにいるかはわからない。町にいると、あちこちから武術の修行者が訪ねて来て、うるさいので山に隠れてしまったのだと言う。

 弥兵衛は太郎に、「武術の修行をなさっておられるのでございますか」と聞いた。

「はい」と太郎は答えた。

「そうでしたか」と弥兵衛は頷くと、「恥ずかしながら、実は、私もやっているんですよ」と笑いながら言った。

 弥兵衛の話によると、多気の都には武士たちの道場はもとより、町人や農民たちに武術を教える道場もあるという。

 多気では神道流の武術が盛んだった。

 神道流は下総(しもうさ)の国(千葉県北部と茨城県南西部)の住人、飯篠長威斎(いいざさちょういさい)が鹿島、香取の両神宮に祈願して編み出した武術流派で、長威斎は一時、京に出て来て将軍義政にも武術指南をした事があった。

 今は亡き先代の北畠権大納言(ごんのだいなごん)教具は上京した時、長威斎の武術を見て、自分も習いたいと思い、長威斎の弟子の無為斎を多気に連れて来たのだった。教具は無為斎のために立派な道場を建て、自らも武術に励んだため、神道流は益々、盛んになって行った。

 今の殿、北畠右近衛少将(うこのえしょうしょう)政郷は武術よりも風流を好んだが、時代が乱世だけに、町人や農民たちの中にも武術を習いたいと言う者も多くいて、町の道場も栄えているとの事だった。

 弥兵衛は無為斎の居場所を、明日、町道場の先生に聞いてみてあげましょう、と言って出て行った。

「よかったわね」と楓は笑った。「あの人、いい人みたいだし、きっと、無為斎っていう人、捜してくれるわよ」

「うん、そうだな。でも、無為斎ってどんな人かな。父上の話だと、もう隠居した老人だと言うし、今の主人の話だと山の中に隠れていると言うし‥‥‥」

「仙人みたいな人かしら」

「かもな」

「ねえ、もう一度、市に行きましょうよ。珍しい物が一杯あるわ。さすが、多気の御所様だわ。ねえ、そう言えば松恵尼様、良くは知らないけど北畠のお殿様と関係あるのよねえ。よく、ここの事を聞かされたわ」

「松恵尼様か‥‥‥」と太郎は窓から外を眺めながら言った。

 丁度、庭を挟んで街道に面している部屋で、人々が行き交っているのが見えた。

「そうだ。何か、お土産、買って行かなくちゃ」と楓も外を見ながら言った。

「そうだな。急に出て来たから、何も、お土産、持って来なかったな」

「ねえ、早く行きましょうよ」

 楓にせきたてられて、太郎は楓と共に賑わいの中に入って行った。







 次の日の昼過ぎ、太郎と楓は橘屋弥兵衛に連れられて、大きくて豪勢な北畠氏の居館、多気御所の前を通って町道場へと向かった。

 御所の辺りには武家屋敷がずらりと並んでいた。同じ通りなのに橘屋の前とは雰囲気が全然違っている。御所の回りは勿論の事、武家屋敷の門の前には重々しく武装した武士たちが道行く人々を睨みつけていた。

 武家屋敷の建ち並ぶ一画を抜けると、また、町人たちの町となり、寺の門前には市が立っていた。その市の中を通り抜け、細い路地に入り、河原に下りて舟橋を渡って、しばらく行くとたんぼの中に出た。そのたんぼの中に町道場はあった。

 竹垣に囲まれた道場の門に『天真正伝神道流兵法(てんしんしょうでんしんとうりゅうひょうほう)指南所』と書かれた板が掲げてあった。

 道場内には稽古している者は誰もいない。隅の方で若い男が一人、薪を割っていた。

 皆、仕事をしているため、稽古が始まるのは夕方からだと言う。

 門をくぐると弥兵衛は若い男に声を掛けた。「八郎や、先生はおるかね」

 八郎という男はこちらを向くと、「あっ、旦那、ええ、先生はいますよ。夕べ、遅くまで飲んでいて、今さっき、起きたばっかや、今、飯を食ってますわ」と言って、太郎たちを見ながら頭を下げた。

「またかい、しょうがないのう」

 弥兵衛は、ちょっと待っててくれと太郎たちに言って、道場の隅に建つ小さな家に入って行った。

 八郎という男も家の中に入って行った。

「飲兵衛みたいね、ここの先生」と楓が言った。

「うん。俺の師匠も飲兵衛だったぜ」と太郎は言った。

「あの、風眼坊様が?」

「ああ、酒を飲むのも修行のうちだって、よく言っていた」

「へえ、そうなの‥‥‥あなたもお酒の修行をしたの」

「いや、俺はたまに飲むだけさ」

「無為斎っていう人も飲兵衛かしら」

「どうかな‥‥‥」

「山に隠れて何やってるのかしら」

「さあな‥‥‥」

「だって、もう、お年寄りでしょ、今さら修行でもないし、やっぱり、毎日、お酒、飲んでるのよ」

 弥兵衛が出て来て、手で差し招いた。

「先生は無為斎殿の居場所を御存じだそうです」と弥兵衛は小声で言った。

 太郎と楓は弥兵衛と一緒に家に入った。

 町道場の先生、川島与三郎は、「狭い所ですが、まあ、どうぞ」と二人を部屋に上げた。

「ちょっと、散らかってますがな、何せ、女っ気がないもんで」

 川島与三郎は小太りの目のくりっとした四十半ば位の男だった。

「愛洲殿、無為斎殿に会いたいそうじゃが、何か、御用でもおありですかな」川島は太郎たちを囲炉裏端に案内し、腰を下ろすと言った。

「いえ、用という程の事ではありませんが、一緒にお酒でも飲みたいと思いまして‥‥‥」

「何、酒を」と川島は丸い目をさらに大きくして太郎を見つめた。「わざわざ、無為斎殿と酒を飲むために訪ねて参ったと申すか」

「はい」と太郎は頷いた。

 川島はしばらく、太郎と楓を交互に見ていたが、「こいつはいい」と膝をたたくと急に大笑いした。

「愛洲殿とやら、おぬし、面白い奴よのう。いや、失礼した。無為斎殿の神道流を見に来たと言うのなら断ろうと思っておったが、酒を飲みに来たと言うのでは断れんのう。色んな奴らがあちこちから無為斎殿を訪ねて来てのう。無為斎殿はうるさがって山の中に隠れてしまったんじゃ。まあ、それだけじゃないがの‥‥‥ここだけの話じゃが、本当は若い女子と二人きりで山の中で楽しんでおるんじゃよ」

 川島はまた、大口をあけて笑った。

「無為斎殿はもう、お年寄りだと聞きましたが‥‥‥」と太郎は聞いた。

「ああ、もう七十の爺いじゃよ、いい年して、みっともないと言うか羨ましいと言うか、五十も違う若い女子と二人で暮らしておるわ。橘屋の旦那、これは内緒だぞ」

「はい、わかっております」と弥兵衛は真面目な顔で頷いた。

「そうか、酒を飲みに参ったか‥‥‥うむ、わしも最近、無為斎殿に会っておらんし、久々に酒でも飲みに行こうかのう。どうじゃ、橘屋も一緒に行かんか」

「はい。私も、ぜひ、無為斎殿に会ってみたいと思っておりました」

「よし、それじゃあな、七つ時(午後四時)頃どうじゃな。わしが橘屋に行く。無為斎殿のいる山は白口門の先じゃからな」

「はい、かしこまりました。お酒の方は私が用意いたしましょう」

「そいつは助かる」

「しかし、先生、道場の方はいいんですか」

「ああ、大丈夫じゃ。わしなどおらんでも、中村と宮田がちゃんとやってくれておる。奴らも強くなったもんじゃ。そこいらの威張っているだけのへなちょこ侍よりは、よっぽど強いぞ」と川島は笑った。

 三人は道場を後にした。

「なかなか、やりますな」と弥兵衛は道場の外に出ると太郎に言った。

「一緒に酒を飲みたいというのはいい。私も驚きましたよ。まさか、あんな事を言うなんて思いもしませんでした。川島先生もあれで、ちょっと臍が曲がってる所がありますからな、兵法の話などしたら無為斎殿に会わせてもらえなかったかもしれません。あれは、初めからの作戦だったのですか」

「いえ」と太郎は答えて、楓と顔を見合わせると笑った。「あの時、川島殿を見て、ひらめいたのです」

「そうでしたか。さすが、違いますな、大将になられるお方は」

 弥兵衛は太郎が照れてしまう程、太郎を誉めた。

 楓は太郎の横で笑っていた。

 弥兵衛は川島与三郎の事を道々、話してくれた。

 今から十年程前、北畠教具に呼ばれて倉田無為斎が多気に来た時、三人の弟子を連れて来た。その中の一人が川島与三郎だった。あとの二人は新発田権右衛門、森本辰之介で、新発田は今、北畠氏の家臣となり武家の武術指南をしている。森本はここに二年ばかりいたが下総に帰ってしまった。

 川島はなぜか、武家を嫌って北畠氏の家臣にもならず、六年前から町に出て来て道場を開き、町民、農民を相手に気楽にやっている。若い頃から飯篠長威斎について旅ばかりしていたため、未だに嫁も貰わず、独り者で、回りの者が色々と世話をやいてるが、なかなかうまく行かない。

 ちょっと酒が好きじゃが、いい人なのにな、と弥兵衛は言った。

「ついでじゃから、お武家様の道場も見て行きなさるかな」と弥兵衛は御所の側まで来ると太郎に聞いた。

「はい、できれば‥‥‥」

 弥兵衛は頷くと御所の手前を左に曲がった。

 御所を囲む濠に沿って奥の方へと進んで行った。御所の反対側には犬追物(いぬおうもの)の馬場があり、その奥に武術道場はあった。進むにつれて、木剣の音や掛声が聞こえて来た。盛んに稽古をやっているらしい。

 さすが、北畠氏の武術指南所だけあって立派な道場だった。広い庭があり、正面に大きな建物が建っていた。まるで、大寺院の本堂を思わせる、その建物が室内道場だと言う。庭の左側は高い塀で隔てられ、中は見えなかったが、弥兵衛が言うには町道場の倍程もある広い道場だと言う。塀の向こう側は静かだった。皆、建物の中で稽古をしているらしい。

 弥兵衛は二人を庭の所に待たせ、道場の中に入って行った。

 弥兵衛は随分と顔が広いようだった。父はいい人を紹介してくれた、と太郎は父に感謝した。

 弥兵衛はなかなか戻って来なかった。

 太郎は塀の隅にある木戸を開けてみた。鍵は掛かっていなかった。太郎はちょっと中を覗いた。確かに、そこは広い道場だった。そして、塵一つない程、綺麗に掃かれてあった。室内道場の方を見ると、大きな扉が開け放しになっていて中の様子がよく見えた。

 およそ、三十人位の者が稽古に励んでいる。時節がらか、槍と薙刀の稽古をしている者がほとんどで、剣の稽古をしている者はいなかった。

「ねえ、早く帰りましょうよ」と楓が声を掛けた。「何か、いやな予感がするわ」

「そうだな、ここで問題は起こしたくないしな」と太郎は木戸を閉めた。

 弥兵衛はやっと戻って来た。

「新発田殿は留守じゃった。師範代の藤田殿がおったが、よそ者には見せるわけにはいかないそうじゃ。どうしても見たかったら町道場に行けと言っていた。見たからといって減るものでもないのにのう」

「いいですよ。帰りましょう」

 帰り道、武士たちは町道場の先生を馬鹿にしておるんじゃと弥兵衛は話した。

 先生は武士たちに何を言われても気にしないで平気でいるが、それが、また、良くない。一度、奴らを懲らしめてやればいいんじゃ。あそこの道場の師範、新発田殿より川島先生の方が本当はずっと強いんじゃと弥兵衛は言った。

 それは本当ですか、と太郎が聞くと、ああ、わしは知っていると答えた。

 あれは、もう十年も前の事だが、無為斎殿がまだ来たばかりの頃、先代の御所様が御前試合を行なった。京からも飯篠長威斎殿や、そのお弟子さんたちもかなり来て賑わった。わしは、ある人の紹介で特別にその試合を見る事ができた。その時、川島先生と新発田殿が試合をしたんじゃ。圧倒的に川島先生の方が強かったんじゃよ。あの試合を見たのは武士でもお偉方ばかりじゃったから、今、道場で稽古している連中は誰も知らん。だが、川島先生の方が強いのは事実じゃ。

 弥兵衛は橘屋に着くまで、川島先生の事を話し続けた。

 太郎と楓は川島先生が来るまで部屋で待つ事にした。







 太郎と楓、橘屋弥兵衛は川島先生に連れられて多気の都を抜け、北を守る白口の砦の門をくぐり、川に沿って北上した。小さな村を過ぎた所で右に曲がり、山の中へと入って行った。

 薄暗い細い山道を四半時(三十分)程、歩くと急に視界が開け、眺めのいい所に無為斎の隠居する屋敷があった。

 太郎は粗末な草庵を想像していたが、とんでもなかった。それは、大きくて立派な公家の御殿のようだった。

 門をくぐると綺麗な水の流れている小川に橋が掛かり、その橋を渡ると、また、大きな門があり、その門をくぐると広い庭に出た。

 左側に庭園があり、右側に大きな屋敷が並んでいた。その屋敷の大きさは田曽浦にある太郎の屋敷は勿論の事、父の屋敷よりも、愛洲の殿の屋敷よりも大きかった。その大きな屋敷が二つ並び、渡り廊下でつながっている。くぐって来た門の方を見ると、その門の上が渡り廊下になっていて、池の側に建つ離れの屋敷へと続いていた。

「ほう、随分、御立派なお屋敷で‥‥‥」と弥兵衛は口をあけたまま感心していた。

「凄いわね、まるで御殿だわ」と楓も目を見開いて無為斎の隠居所を見ていた。

「凄い‥‥‥」と太郎もあいた口がふさがらなかった。

 誰だって山の中にこんな建物があるなんて思いはしない。驚くのは当然だった。

 立派なのは建物だけではなかった。庭園も立派だった。広い庭に色々な木が植えられ、大きな石が並べられ、山があり、池があり、川まで流れていた。池には島が浮かび、その島には赤い太鼓橋が架けられてあった。太鼓橋はもう一つ、川にも架けられ、向う側にも行けるようになっている。そして、その庭園の向こうには山々の連なる大自然が広がっていた。

「これは、先代の御所様の道楽なんですよ」と川島先生は言った。

 先代の北畠教具は上京した時、将軍義政の花の御所の建物や庭園を見て、その華麗さ、贅沢さに驚き、ぜひ、多気の御所もこのようにしたいと思った。そして、京から建築、造園の専門家、宮大工や山水河原者らを呼び寄せ、御所の改築を行なった。

 それが病み付きになり、足利義視が伊勢に逃げて来た時には、わざわざ、教具みずから采配をふるい、迎賓館まで建てている。

 無為斎が隠居して山に籠もりたいと言うと、さっそく、いい場所を捜しだして工事を始めてしまった。無為斎としてはわざわざ、隠居所など作ってもらう気など毛頭なかったが、教具は任せておけと立派な隠居所を作ってしまった。

 教具としては将来、自分の隠居所を作ろうと思い、そのための手本として、無為斎の隠居所を作っていたわけだが、作っているうちに熱中してしまい、初めの計画よりもかなり贅沢なものとなってしまった。ところが、教具は無為斎の隠居所の完成から二年後に亡くなってしまい、自分の隠居所を作る事はできなかった。

「ちょっと、待っていて下され」と川島先生は言うと屋敷の入り口の階段を昇って行った。

 屋敷の戸は開けられたままで、中まで見えたが、人影は見当たらなかった。これ程の屋敷なら、使用人も数多くいるはずなのに、やけに静かだった。

 三人は庭園を散歩しながら待っていた。

 庭園の方から屋敷を見ると、奥の方は全く使っていないのか、戸が締め切ったままになっている。武家屋敷で言えば手前の屋敷が、常に暮らしている屋敷で、奥の屋敷が客の接待に使う晴れの屋敷のようだった。今は亡き教具卿が来た時は、その屋敷で接待したに違いない。しかし、今、その晴れの屋敷は戸を閉ざしたままになっていた。その屋敷の奥にも小さな離れが付いていた。

 辺りは暗くなって来た。

「ねえ、凄いわね」と楓が小声で太郎に言った。「無為斎っていう人、こんなお屋敷を貰って隠居してるなんて、よっぽど偉い人だったのね」

「ああ、凄いな」

「もしかしたら、あたしたちなんか、直接、口も聞けないような偉い人なんじゃないかしら」

「まさか、そんな事はないだろう」と太郎は言ったが、無為斎っいう人間がどんな人なのか、まったくわからなくなって来ていた。

 神道流の達人で、隠居して山に籠もっていると聞いた時、太郎は智羅天を思い出していた。山伏でないにしろ、あんな感じの人だと思っていた。それが、川島先生の話だと、若い娘と一緒に暮らして楽しんでいると言うし、隠居して住んでいる所はこの立派な御殿だし‥‥‥太郎には無為斎がどんな人間なのか、さっぱりわからなかった。

 川島先生は戻って来ると首を振った。「おかしいな、誰もいませんよ」

「誰もいない? こんな大きな屋敷に」と弥兵衛は屋敷を眺めながら言った。

「ええ、前に来た時には、使用人が随分、居て、賑やかだったんですけどねえ」と川島先生は首を傾げた。

「どうしたんでしょうな、無為斎殿はもう、どこかに行かれてしまったのでしょうかねえ」

「いえ、人が住んでる気配はあります。もしかしたら、ちょっと、市にでも出掛けたのかもしれません」

「そうですな、それでは少し待ってみますか」

 四人が太鼓橋を渡って、中の島に行こうとした時だった。

 門とは反対側の方から話し声が聞こえ、やがて、汚れた野良着を着た老人と若い娘が現れた。

 老人は鍬をかつぎ、娘の方は野菜を抱え、笑いながら話をしていた。

 川島先生は二人の方に近づくと、「お久し振りです」と言って、頭を下げた。

「やあ、川島か、珍しいのう」と老人は日に焼けた(しわ)の深い顔で笑った。

「今日はお客さんを連れて参りました」

「おお、そうか。今、畑から野菜を取って来た所じゃ。まあ、上がれ。さあ、皆さん、どうぞ」

 太郎、楓、橘屋の三人は橋の上で呆然としていた。

 川島先生が声を掛けなければ、誰も、この老人が無為斎だとは信じはしないだろう。この屋敷の使用人が畑から帰って来たものだと思っていた。どう考えてみても、この屋敷と、この鍬をかついだ主人は絶対に不釣合いだった。しかし、太郎も楓も橘屋もどこか、ほっとしていた。

 無為斎は広い屋敷の中の一番狭い部屋にみんなを案内した。

 この部屋しか使っていないと言う。前は何人もの使用人を置いていたが、全員、追い返した。こんな広い屋敷にいて、使用人に囲まれていたら下界にいるのと同じで、隠居して山に隠れた意味がない。今ではたった二人きりで、のんびり楽しく暮らしていると言う。

 それでも、先代の御所様の生きていた頃は、結構、訪ねて来る客もあったが、御所様が亡くなってからというもの、忘れられたように誰も来なくなって、少し寂しい気持ちもしていたと言う。

 太郎たちは無為斎たちに歓迎された。

 その晩は、無為斎の若妻、お涼の手料理を肴に六人は飲み明かした。

 楓が思っていた通り、無為斎は飲兵衛だった。しかし、仙人のようではなかった。仙人のように長い白髪に長い白髭などなく、頭はつるつるに光っていて、髭は綺麗に剃ってあった。体つきもがっしりとしていて、顔色も良く、とても、七十歳には見えなかった。長年、神道流で鍛えているせいか動きもてきぱきとしている。見た感じは武術の達人というよりは禅僧のような感じを受けた。

 無為斎は酔うにつれて、若い頃の修行の事や戦の事、師の飯篠長威斎の事など、懐かしそうに話し出した。

 長威斎は若い頃、鹿島に古くから伝わる中古流の名手として戦にも何度も出て、一度として負けた事がなかったという。六十余歳で隠居してのち、思う所あって、香取大神に祈願して、千日間の厳しい修行をし、満願の日に自ら悟って、『天真正伝神道流』を開いたのだと無為斎は言った。

「わしよりも十五歳も年上じゃが、長威斎殿は未だに元気でいらっしゃる」

 太郎の知らない関東の地の話もしきりに出た。

 常陸(茨城県北東部)の鹿島神宮と下総の香取神宮は霞ケ浦を挟んで、向かい合って建っている。三里程しか離れていなかった。鹿島、香取の両神は武術の神として崇拝され、古くから両神宮では武術の研究が盛んで、武術の聖地として、各地から武芸者たちが集まり栄えていた。鹿島、香取に伝わる古流をまとめ、自らも工夫をし、神道流としたのが長威斎だった。神道流は総合武術で剣、槍、薙刀、棒、弓、すべての武術が含まれていた。

 無為斎も川島先生も若い頃、師の長威斎と共に両神宮で修行を積んで来たと言った。また、武術の修行をする者は一度は必ず、両神宮を訪れなければならないとも言った。

 太郎も行ってみたいと思った。今の自分はまったくの自由の身である。行こうと思えば、明日にでも行けた。いっその事、このまま関東の地まで、行ってしまおうかとも思った。

 朝、目が覚めたら、楓はすでに起きていて、いなかった。

 昨夜(ゆうべ)、楓とお涼は先に休んだが、太郎たちは遅くまで飲んでいた。無為斎は久し振りに客人を迎え、嬉しかったのか、一人で喋りまくっていた。

 太郎は起きると支度をして(かわや)に向かった。

 すでに外は明るかった。昨夜は、つい調子に乗って飲み過ぎたようだった。

 頭が少し重かった。厠で用を済ませ、昨夜、みんなで飲んでいた部屋を覗いて見ると、綺麗に片付けられ、楓が朝食の用意をしていた。

「早いな」と太郎は楓に言った。

「何、言ってんのよ。橘屋さんは、もう、ずっと前に帰って行ったわよ」

「へえ、もう、みんな、帰っちまったのか、俺たちは取り残されたのか」

 楓は首を振った。

「帰ったのは、橘屋さん一人よ。川島の先生はまだ寝てるわ」

「何だ、そうか。俺が一番最後まで寝てたんかと思った。無為斎殿は?」

「わからないわ。起きてる事は確かだけど、どこで何してるのかわからないわ」

「ふうん。元気な爺さんだな」

「とても、七十には見えないわね」

「ああ。俺はちょっと散歩でもして来るよ」

「もうすぐ、御飯よ」

 太郎は頷くと庭の方に向かった。

 それにしても、立派な庭園だった。

 太郎は石に腰掛けて池を覗いた。鯉が何匹も泳いでいた。

 昨夜は酔った。しかし、気持ちのいい酔い方だった。

 無為斎殿も川島先生も酒が強かった。途中までははっきりと覚えているが、後半の方はあまり覚えていない。二人の話を聞いてばかりいて、自分ではあまり喋らなかったつもりだが、はっきりと覚えていない。

 調子に乗って、陰の術や陰流の事などの話しはしなかっただろうか。

 その二つはまだ、人に自慢して話せるような事ではなかった。まして、大先輩の前で言える事ではなかった。多分、言ってはいないと思うが、よくわからなかった。やはり、師匠の言う通り、酒の修行もしなければ駄目だなと思った。

 それにしても、神道流というものを一度、見てみたいものだ。成り行きから、見せてくれとは言えなくなってしまったが、ここまで来たら神道流を見るまでは帰れないなと思った。

「愛洲殿」

 川島先生の声がした。

 太郎が振り返ると、川島先生は大きなあくびをして体を伸ばしていた。

「おはようございます」と太郎は挨拶をした。

「おお、昨夜はよく飲んだのう」

「はい、ちょっと飲み過ぎました」

「何を言うか、若いもんが。橘屋はどうした、まだ、寝てるのか」

「いいえ。もう、帰ったそうです」

「何だ、もう、帰った? 相変わらず忙しい奴よのう」

 川島先生はまた、大きなあくびをした。

「どうじゃ、朝飯前にちょっと体を動かさないか」

「えっ?」

「おぬしの山伏流剣術とやらを見たいんでな」

「はい、ぜひ、お願いします」

「よし、待っておれ。木剣を見つけて来る」

 川島先生が木剣を持って来ると、二人は間を置いて構えた。

 お互いに中段の構えだったが、川島の方が腰の位置が低かった。やはり、神道流は甲冑を身に着けての陸の剣法だった。

「いくぞ」と川島は言うと間合を詰め、剣を振りかぶった。振りかぶり方も、やはり、兜を意識して、頭上ではなく右肩の上だった。

 右肩に振りかぶった剣を川島は、太郎の左腰を狙って横に打って来た。

 太郎はそれを、剣を振りかぶると共に体を後方にずらして、ぎりぎりの所で避けた。避けると同時に川島の右手を狙って剣を打ち下ろした。

 川島は太郎の剣を木剣で受け止めると、そのまま、力まかせに太郎の剣をはじき、はじかれて体勢を崩した所を打とうと思ったが、太郎は体勢を崩さなかった。

 太郎は下段に構えた。

 川島は不思議な構えをした。左足を大きく踏み出し、両手を胸の辺りで交差させ、剣の刃を上に向け、剣先を太郎に向け、剣を左上腕に載せるように構えていた。以前、師の風眼坊から教わった『(かすみ)の太刀』の変形だった。

 太郎は下段から、八相に構えを変えた。

 川島はその構えから右足を踏み込みながら、剣を巻き返すように太郎の左首を狙って来た。

 太郎はそれをかわすと、伸びきった川島の両手を狙って剣を打ち下ろした。しかし、太郎の剣は川島の剣に受け止められた。太郎は剣をはじかれる前に引き、また、八相の構えに戻った。

 川島は中段の構えに戻った。

 しばらくは二人共、そのままで動かなかった。

「それまでじゃ」と無為斎の声がした。

 太郎と川島は構えを解き、木剣を下ろした。

 いつの間にか、無為斎が庭園の太鼓橋のそばに立って、二人を見ていた。

 屋敷の方では、楓とお涼も二人の方を見ている。

 無為斎はニコニコしながら、二人に近づいて来た。

「いい勝負じゃな」

「やあ、なかなかやりますよ」と川島は笑った。「まさか、これ程、強いとは‥‥‥山伏の剣術などと軽い気持ちでかかったら、とんでもない。やあ、参った、参った」

「愛洲殿、今度は、わしの相手をしてくれんかな」と無為斎が言った。

「はい、よろしくお願いします」と太郎は頭を下げた。

 願ってもない事だった。まさか、無為斎が相手をしてくれるとは思ってもいなかった。

 太郎と無為斎は木剣を構えた。

 太郎は中段、無為斎は下段だった。

 無為斎は下段に構えるといっても、構える風ではなく、ただ、木剣を持っているだけという感じだった。隙だらけだった。

 太郎は中段に構えたまま、無為斎の目を見つめた。

 無為斎の目はぼんやりとしていた。何を考えているのかまったくわからない。やる気がないというか、ただ、ぼんやりと立っているだけだった。

 太郎は木剣を上段に上げた。

 無為斎の変化はなかった。

 打とうと思えば、どこでも打てた。

 ところが、なぜか、打つ事ができなかった。

 太郎は少しづつ間合いを詰め、上段から、八相の構えに移した。

 無為斎はまったく、変化しない。

 どうした事か、太郎には打ち込む事ができなかった。

 前に、飯道山で高林坊と初めて立ち会った時と同じだった。何もしないでいる無為斎の存在が、やたらと大きく感じられる。しかし、あの時の高林坊は太郎を押しつぶすかのようだったが、無為斎の場合は太郎を静かに包みこんで行くようだった。

 不思議な力に包み込まれ、太郎は身動きができなかった。

 無為斎の木剣が少しづつ上がって、中段の構えとなった。

 無為斎の木剣の剣先が太郎の胸を刺すかのように向けられた。

 太郎は八相に構えたまま動けなかった。

 無為斎は静かに間合を詰めながら、少しづつ剣を上げていった。

 やがて、剣は天を刺すかのように、無為斎の頭上に真っすぐに立った。

 そして、その剣は太郎の左腕めがけて落ちて来た。それは、ゆっくりと落ちて来たように思えたが素早かった。

 太郎に避ける間がなかった。

 無為斎の剣は太郎の左腕をかすりながら落ちて行った。

 無為斎は元の下段に戻ると剣を引いた。

 太郎も剣を引き、無為斎に頭を下げた。

「どうじゃな、今の剣が神道流の極意、天の太刀じゃ」と無為斎は言った。

「天の太刀?」

「うむ、鹿島に古くから伝わる鹿島の太刀の一つじゃ。剣の極意なんていうものは、昔から変わりはせんものじゃ」

「天の太刀‥‥‥初めて見せていただきました」と川島先生が厳粛な面持ちで言った。

「愛洲殿、そなたは確かに強い」と無為斎が言った。「強いが、今のそなたには心に迷いがある。心に曇りがあると剣はにぶる。どんな達人でも心が曇っていれば、それは命取りになる。人は生きている。生きている限り、色々な迷いが生じてくる。その迷いを一つ一つ乗り越えなければならん。剣の道で生きていく限り、常に、心を磨いていなければならんのじゃ」

「参ったな。わしの事を言われているみたいじゃのう」と川島先生が笑った。

「はい、おしまいよ」とお涼が手を打った。「朝飯前のお稽古はおしまいよ。ご飯の用意ができてますよ」

「そうか、腹、減ったのう」と無為斎は木剣をかつぎながら屋敷の方に行った。

「皆さんもどうぞ」とお涼は皆をうながした。





多気御所




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