多気の都
4
太郎と楓が多気の都に来てから、すでに、十日が経とうとしていた。 あれからずっと、無為斎の屋敷にお世話になっている。楓とお涼が仲良くなり、引き留められるままに十日も経ってしまった。 太郎にしても、なぜか、立ち去りがたかった。 無為斎という人間に、なぜか、惹かれていた。神道流の剣術の事もそうだったが、ただ、それだけではなかった。どこに惹かれるのかわからないが、無為斎が何かを持っていて、その何かに惹かれて行くようだった。それは人間的なもの、無為斎の人間的な大きさかもしれなかった。 無為斎は毎日、百姓のように土にまみれて畑仕事をしていた。剣を持つ事はない。一度、太郎と立ち会った時以外、木剣さえ手にしなかった。 太郎は無為斎と一緒に百姓仕事をやったり、町に下りて、川島先生の道場で町民や農民を相手に剣術を教えていた。川島先生もよく、酒を飲みにやって来た。 太郎が夕方、町道場に行き、稽古が終わり、ここに帰って来る時は、いつも、川島先生は一緒に付いて来た。 橘屋の旦那も時々、顔を見せた。そんな時はいつも、気を利かせて酒をぶら下げて来た。 太郎は十日間、心の迷いについて考えていた。 前に高林坊と立ち会った後、心の迷いが生じ、百日間の山歩きで、それを乗り越えた。しかし、また、新しい心の迷いが生じた。 無為斎は人間、生きている限り、迷いは必ず生まれて来ると言った。それも一度や二度ではない。一つの迷いを乗り越えれば、また、新しい迷いが生まれる。それを次々に乗り越えて、人間は成長して行く。また、成長すればする程、難しい迷いにぶつかる。迷いにぶつかり、それを乗り越えて行く事が生きるという事なんじゃと言った。 心の迷い‥‥‥それは、池田長左衛門の事だった。 楓に言われて、いやな事は忘れようと思った。しかし、忘れきれなかった。それが、心の迷いとなって剣に現れ、無為斎に感づかれた。やはり、忘れようとしないで、その問題に真っ向から取り組まなければならなかった。 太郎は毎日、その事を考えていた。 五ケ所浦を出る時、あの山で池田一味五人を斬り捨てた。あれは仕方のなかった事だ。ああするしか仕方がなかった。それは太郎も楓と同じように思っている。しかし、楓は正しい事をしたと思って納得しているが、太郎にはなぜか、納得できなかった。何かが引っ掛かっていた。それは、一体、何なんだろうか‥‥‥ どうして、ああいう結果になってしまったのか、太郎は落ち着いて、一つ一つさかのぼって考えてみる事にした。 水軍の者が池田一味にやられた。 太郎は池田一味に付け狙われていた。 水軍と陸軍の対立。 原因は御前試合にあった。太郎の知らない内に決められた御前試合。 その御前試合でも、太郎はやるべき事をやっただけだった。初め、木剣でやって勝ち、真剣でやって勝ち、組み討ちでも勝ち、そして、最後に、後ろから斬り掛かって来た池田長左衛門の手首を斬った。武士として当然の事をしたまでだった。しかし、あの時も後味が悪かった。なぜなんだろう‥‥‥ わからなかった。 何かが引っ掛かっていた。 その何かがわからなかった。 楓とお涼は仲が良かった。いつも、二人で何かをやっていた。お涼は楓よりも一つ年上で、京から来た お涼はいつも手拭いを頭に被って、何かしら仕事をしていた。 川島先生の町道場には、夕方になると道場があふれる程の人が集まって来ていた。若い連中がほとんどだが、中には橘屋のような年配の人も若者たちに交じって稽古に励んでいる。また、稽古とは関係なく道場に来て、川島先生と世間話をしていく年寄りたちもいた。あの道場は町の寄合所のような感じだった。 稽古の内容は剣術と槍術の二つに分かれていた。 この当時はまだ、武士と農民、町民ははっきりと分かれていない。戦が起これば皆、狩り出される。農民や町民でも刀の一振り位は持っている者が多い。また、竹を切れば竹槍がすぐできる。剣と槍が農民や町民にとって手頃な武器と言えた。 川島先生は何人かの若い者に任せっきりで、ほとんど道場には出ないで、年寄りたちと無駄話をしていた。そして、夜になると決まって酒を飲んでいた。お陰で太郎も多気にいる間は毎晩、酒を飲むという事になった。 太郎は愛洲の水軍剣法の達人と紹介され、皆に剣術を教えていた。水軍という事が皆に珍しがられ、海や船の事など色々な事を聞かれ、道場に集まる人達の中に溶け込んで行った。 太郎は初めの頃は大小二本の刀を差していたが、なぜか、場違いな気がして、やがて、小刀だけを差して行くようになっていた。川島先生は町民に成り切ってしまったのか、普段、刀を持ち歩いてはいなかった。 ある日、一人の旅の武士が訪ねて来た。武家道場に行って試合を申し込んだら断られ、こちらに行けと言われたと言う。 「そうですか。それでは私がお相手いたしましょう」と川島先生は気軽に言って、木剣を持って道場に出た。 その時は、まだ、みんなが集まって来る前で、川島先生と太郎ともう一人、良く遊びに来る油屋の隠居爺さんの三人しかいなかった。 旅の武士は 「一本勝負では実力は良くわからないでしょうから、三本勝負という事にしましょう」と川島先生が言うと、相手の浪人は、「かしこまった」と頷いた。 川島先生と浪人は木剣を構えて、向かい合った。 太郎と油屋の隠居爺さんは先生の家の縁側から試合を見ていた。 「いつもと同じじゃ」と隠居爺さんは言った。 「いつもと同じ?」と太郎は隠居爺さんを見た。 「見ていればわかる」と隠居爺さんは笑った。 三本勝負はすぐに終わった。一本目は先生が勝ち、二本目は浪人が勝ち、三本目は先生が勝った。 「ほら、いつもの通りじゃ」と隠居爺さんは言った。 隠居爺さんの話によると、今までに何人もの侍が先生に試合を申し込んできたが、先生はいつも三本勝負をして、二本は勝って一本は相手に勝たせていると言った。 「それじゃあ、今のもわざと負けたのですか」と太郎は聞いた。 隠居爺さんは笑いながら、頷いた。 試合の終わった二人は、話をしながら戻って来た。 浪人は、先生に身の上話や世間話をして、東の方へ行くと旅立って行った。 浪人が帰った後、太郎は、「どうして、わざと負けるのですか」と聞いてみた。 「それは、相手によって決める」と先生は答えた。「ここに来る連中はほとんど神道流がどんなものか知りたくて来る者ばかりだ。そんな奴には三本のうち一本を勝たせてやれば、おとなしく帰って行く。余計な争い事を避けるのも神道流の極意だ」 「争い事を避ける‥‥‥」 「ああ。『天真正伝神道流』の天真とは自然のまま、あるがまま、自然の真理という事じゃ。その自然の真理を正しく伝える神の道だ。それは争い事のない太平の世のために使う剣の事だ。つまらない争い事や喧嘩などに使う剣ではない。まあ、わしにもよくわからんがのう。長威斎殿がそんなような事を言っていた」 太郎は川島先生の言った事をよく噛みしめていた。 つまらない争い事や喧嘩などに使う剣ではない‥‥‥ 争い事を避けるのも神道流の極意‥‥‥ 太郎は稽古を終えての帰り道、ずっと、その事を考えていた。川島先生は今日はちょっと用があると言って付いては来なかった。 川島先生とあの浪人は試合をしたが、お互いに恨みがあってしたわけではない。お互いに剣を志す者として、自分の腕を試したまでだった。お互いに相手を認め合って、気持ち良く別れて行った。 太郎と池田長左衛門の試合はあんな風になってしまった。 もし、あの時、太郎がわざと負けていたらどうなっただろうか。 そんな事をしたら、太郎の道場はつぶれてしまっただろう。そして、陸軍の奴らは完全に水軍を馬鹿にするに違いない。 池田長左衛門‥‥‥決して、悪い奴ではないと父は言っていた。今まで、誰にも負けた事がなく、太郎に初めて負けたとも言っていた。 太郎はなぜ、池田があんな風になったのか、相手の立場になって考えてみる事にした。 まず、池田は戦に出て、一度も負けた事のない陸軍の勇者だった。多分、愛洲家の中で、自分が一番強いと思っていたのかもしれない。 そこに、俺が帰って来て剣術道場を開き、戦でも活躍した。俺の活躍は殿にまで聞こえた位だから、当然、池田の耳にも入っただろう。池田はそれを聞いて面白くなかったに違いない。池田だけでなく陸軍全員が快く思わなかったのかもしれない。 そして、御前試合。 父の話だと、初めの予定では、俺が自分の道場の者を相手に剣術を披露するはずだった。それがああいう形になってしまった。もしかしたら、陸軍の者が手を回して、俺を公衆の面前でたたきのめしてしまおうとたくらんだのかもしれなかった。池田にしろ、陸軍の連中にしろ、絶対に勝つ自信があったに違いない。しかし、ああいう結果になってしまった。負けるなんて思ってもいなかった池田は公衆の面前で、しかも、殿の見ている前で負けてしまい、逆上して、あんな態度に出てしまったのだろうか‥‥‥ そして、右手首を斬られ、二度と戦に行けない体となって、やけになり、俺を恨んで、つけ狙い、水軍の者たちにいやがらせをして行くようになって行った。 それじゃあ、俺が戦で活躍した事がいけなかったのか‥‥‥ 俺はみんなに俺の剣術をわかってもらおうと必死だった。しかし‥‥‥よく考えてみると、自分の強さをみんなに見せたいと思っていなかったとは言えない。飯道山で厳しい修行に耐えて来た、その成果をみんなに見てもらいたかった。道場のためとは言いながら、あの頃の俺は得意になっていた。それが、陸軍の連中には鼻持ちならなかったのだろう。 水軍と陸軍が仲の良くないのは知っていた。それは今に始まった事ではない。しかし、二年も留守にしていて、今、愛洲家がどういう状態になっているのかなんて考えてもみなかった。俺は自分の事しか考えていなかった‥‥‥ 御前試合が終わって、水軍と陸軍の対立が激しくなって来てから、俺の剣術によって、二つが一つにまとまってくれればいいなどと虫のいい事を考えていた。 結局は自分の事しか考えなかった俺が、水軍と陸軍の対立をなお一層、煽ってしまい、ああいう結果になってしまったんだ‥‥‥ 俺が剣術の修行をしたのは、強いとみんなから誉めて貰いたいためではなかったはずだ。そんな、ちっぽけな剣術ではなかったはずだった。 去年の俺は本当にいい気になっていた。自分の道場を持ち、みんなから、強い、凄いと誉められ、回りの事など考えもせず、有頂天でいた。一人で浮いている存在だった。 いくら、強くなったとしても、その使い方がわからなかったら何にもならない。かえって、弱い方が回りを傷つけないだけ、ましだろう。 快晴和尚が前に言った事があった。 ‥‥‥世の中の事をはっきりと見極める目を持たなくてはならん。 そんな事はすっかり忘れていた。世の中を見極めるどころじゃなかった。全然、見ようともしなかった。五ケ所浦に帰って来た時、今の五ケ所浦の状況、水軍と陸軍の対立の様子などをはっきりと見極めれば、自分のいる立場というのがわかっただろう。そうすれば、あんな結末にはならなかったかもしれなかった。 『陰の術』を使えば何だって調べられた。五ケ所城に忍び込んで、殿様の事だって調べられた。しかし、そんな事はやらなかったし、やろうとも思わなかった。 これからは武術だけでなく、物事を見極める目や、心の修行もしなければ駄目だと太郎は悟った。そして、太郎の剣術、『陰流』も神道流のような、大きなものにしなければならなかった。
5
太郎の心の迷いはなくなった。 しかし、今度は無為斎という存在が太郎の前に立ちはだかって来た。 隙だらけに見えた無為斎を、なぜか、打つ事ができなかった。 無為斎の発する目に見えない、何か大きな力で包み込まれるような気がした。あれは、一体、何なんだろう‥‥‥ そして、『天の太刀』。太郎には無為斎が打って来るのがわかっていた。なのに、避ける事ができなかった。どうしてだろう‥‥‥ 心に迷いがあったからか。 いや、それだけではない。無為斎と太郎では実力が全然違う。五ケ所浦で道場を持ち、いい気になっていた自分が恥ずかしく思えた。まだ、上には上がいるものだ。修行を積まねばならない。修行を積んで、無為斎と同じ位の境地、いや、それ以上の境地に行かなければならない。 太郎は楓とも相談をして飯道山に帰る事にした。 無為斎にその事を言うと、せっかくだから、もう少し待ちなさいと言った。 五日後に、先代の教具卿の一周忌の法要があるという。色々な人が集まって来るから、将来のために顔を見ておいても損にはならないだろう。わしの供という事で連れていってやると言った。 北畠氏の法要なら、各地から大物が集まって来るに違いない。愛洲の殿も来るかもしれない。太郎はまだ、政治に興味を持っていなかったが、無為斎の言う通り、見て行く価値はありそうだと思い、出立を延期した。 太郎は川島先生の道場に通っているうちに、宮田の八郎という男と仲良くなって行った。 八郎は百姓の三男に生まれ、太郎より三つ年下の十八歳で、侍になるのが夢だった。 八郎の家は小さな百姓で、持っている土地も狭く、その土地は長兄のものになっている。次兄は山奥の土地を切り開き、家を出て分家していた。八郎は長兄の世話になっているが、厄介者扱いされていた。 八郎もいつまでも長兄の世話になってるわけにはいかなかった。いつかは家を出なければならない。しかし、次兄のように山の中の狭い土地を耕して、分家したくはなかった。朝から晩まで苦労して働いても、食っていくのが精一杯な暮らしはしたくなかった。それよりも、戦に出て活躍をして侍になりたかった。 八郎は十六の時に一度だけ、戦に出た事があった。その時はただ逃げ回っていただけだった。人を斬るのは恐ろしかったし、斬られるのはもっと恐ろしかった。 八郎は強くなるために町道場に通い始めた。しかし、銭がなかった。川島先生もただで武術を教えているわけではない。いくらかの銭か、銭に代わる物を貰っていた。八郎は何も持っていない。飯を食わせて貰っているだけでも肩身の狭い思いをしているのに、銭など貰えるはずはなかった。そこで、八郎は先生に頼み、銭の代わりに雑用をして働くという条件で剣術を習っていた。 八郎は朝早くから道場に来て、道場の掃除や先生の身の回りの世話をやき、剣術の稽古に励んだ。先生の道場に通い始めて二年になり、今では先生の代わりに皆に教える程の腕になった。もう、雑用などしなくてもいいと言われているが、家にいても邪魔物扱いされるだけだと道場に来ては雑用をやっていた。 太郎はそんな八郎に剣術を教えてやった。 八郎は太郎に、「どうして、そんなに強くなったんや」と羨ましそうに聞いた。 「子供の頃から剣の修行をしていたからさ」と太郎は答えた。 「そうか、お侍さんは小せえ頃から剣を持ってるんやな」 「それだけじゃない。俺は二年間、山で厳しい修行を積んで来た」 「山で修行?」 「おお、天狗に剣を教わっていた」 「えっ! 天狗に?」 「それは戯れ言だが」と太郎は笑うと、八郎に飯道山の事を話してやった。 八郎は目を輝かして太郎の話を聞いていた。 「おらも行ってみてえ」と八郎は夢見るように言った。 飯道山の一年間の修行は正月の十四日に受け付けがあり、十五日から始まった。 毎年、修行者が多くなっているので、その日以外は受け付けなかった。今年はもう駄目だった。それに、飯道山もただでやっているわけではなかった。銭が必要だった。しかも、食費は自分持ちだった。太郎の場合はすべて、師匠の風眼坊が面倒をみてくれたが、後で、望月や芥川に聞いてみたら、かなりの費用が掛かったと言っていた。あの山の近くにいても、ある程度、裕福な家の者しか修行できないのだった。いくら、剣の素質のある者でも銭がなければ修行はできなかった。太郎はその事を八郎に話した。 八郎は、これから、一生懸命、銭をためると言った。 太郎が大丈夫か、と聞くと、何とかなると胸をたたいた。 剣の修行をする前は、自分に自信がなくて何もできなかったが、剣の修行をしてからは、自分に自信が持てるようになった。二年間、一生懸命やったら、自分でも驚く位、強くなった。やろうと思えばできない事はない。きっと、来年の正月までに銭をためて、飯道山に行くと八郎は力強く言った。 「よし、山で待っているぞ」と太郎も力強く答えた。 八郎は銭をためると言う。どういう風にためるのか聞かなかったが、八郎はきっと、ためて山に来るだろうと太郎は思った。 太郎は自分と八郎を比べてみた。 太郎は侍の家に、しかも、水軍の大将の家に生まれた。生まれながらにして侍だった。そして、それは当然の事と思っていた。八郎は貧しい農家に生まれ、侍になろうとしている。銭をためて剣を習おうとしている。もし、これが逆だったらどうなったろう。 太郎は侍の家に生まれて良かったと思った。反面、どうして同じ人間なのに、こうも差があるのだろうと思った。 前に師匠が、まず、侍である事をやめて、ただの人間になれと言った事があった。あの時は、何を言っているのかよくわからなかったが、今、ようやく、わかりかけていた。 侍の目には見えない物というものがある。今の世の中をはっきり見るには侍の目から見たり、百姓の目から見たり、町人の目から見たり、木地師の目から見たり、あらゆる目で見なければならない。ただの人間に成り切って、ただの人間の目で、はっきりと見なければならない。無為斎もそうに違いない。剣術の達人だが、それだけでなく、それを越えて、ただの人間になりきっているのだ。本物の人間に‥‥‥ 世の中には色々な人間がいる。太郎はその色々な人間に会いたくなった。色々な人間を知り、色々な世界を知り、人間の本当の姿というものが知りたかった。そして、しばらくは侍をやめてみようと思った。 北畠教具卿の法要は盛大だった。 驚く程の人が各地から集まって来た。時節がら、皆、武装してやって来る。警備も厳重になり、街道の脇のあちこちに、各地から来た武装した武士たちがたむろしていた。 太郎は無為斎に連れられて法要に参加し、無為斎に色々な人を教えてもらった。 まず、将軍足利義政の代理として 守護大名では河内の畠山弾正少弼政長、尾張の斯波左兵衛佐義敏、近江の京極治部少輔政高、若狭の武田大膳大夫国信、越前の朝倉弾正左衛門尉孝景、駿河の今川治部大輔義忠、甲斐の武田刑部大輔信昌、東軍の面々が、それぞれ代理を出していた。 伊勢国内の豪族たちは、ほとんど、顔を見せている。 一族の主な者には大河内氏、坂内氏、大宮氏、木造氏、藤方氏、岩内氏、波瀬氏など、被官では、関氏、神戸氏、長野氏、雲林院氏、家城氏、中山氏、奥山氏、野呂氏、本田氏、榊原氏などがいた。 愛洲氏も勿論、来ている。五ケ所浦の殿、愛洲三河守忠氏、玉丸城の愛洲弾正少弼吉忠、一之瀬城の愛洲伊予守忠方の三人の城主が顔を見せていた。もしかしたら、父が来ているかもしれないと思って捜してみたが見当たらなかった。 その他、公家衆が十数人、変わった所では刀工の村正、明珍派の甲冑師、連歌師の春楊坊専順、茶人の村田珠光、猿楽の観世座の大夫などがいた。 法要が終わり、無為斎と共に帰りながら、さすが、北畠氏は凄いと思った。あの中にいたら、愛洲氏など小さいものだった。 しかし、疲れた。法要がこれ程に疲れるものとは知らなかった。 無為斎の屋敷に戻ってみると、珍しい客が待っていた。 松恵尼だった。 法要に来たのだが、久し振りに無為斎に会って行こうと思って、ここに寄ってみたら、楓が出て来たので、びっくりしたと言った。 楓の方も同じだった。お涼は畑に行っていて、楓は屋敷の掃除をしていた。ほとんど、人など訪ねて来ないのに誰かが訪ねて来た。しかも、女の声だったので出て行ってみると、松恵尼がそこにいた。 楓は最初、狐にでも化かされているのかと思った。 「無為斎殿と松恵尼様は知り合いだったのですか」と太郎は不思議そうに聞いた。 「ええ、そうですよ」と松恵尼は笑った。「無為斎殿がここに来た当時から知っています。初めて会ったのが、あの御前試合だったかしら」 「そうだったのう。早いもんじゃ。あれから、もう十年か‥‥‥」 「この御隠居所が完成した時も偶然、ここに来ていて、御所様に連れて来ていただきました」 「そうじゃったのう」と無為斎は懐かしそうに頷いた。「御所様は自分の御隠居所を造らずに、このわしのために、こんな立派な御屋敷を造ってお亡くなりになってしまわれた。まさか、わしより先にお亡くなりになるとはのう‥‥‥」 「ええ‥‥‥まだ、四十九だというのに‥‥‥」 太郎は松恵尼と北畠教具との関係が知りたかったが、そんな事を聞ける雰囲気ではなかった。松恵尼はしんみりとしていた。 一時程、松恵尼は無為斎と昔話をして帰って行った。 これから、ちょっと奈良に用があるので、奈良に寄ってから甲賀に帰るとの事だった。 「楓から聞いたわよ。また、戻って来るんですって。みんな、あなたに会いたがってるわ。みんな、待ってるわよ。いつでも帰ってらっしゃい」と松恵尼は言って手を振った。 松恵尼を送って囲炉裏端に腰を下ろすと、無為斎は、「そろそろ、帰りますかな」と太郎に聞いた。 「はい、明日にでも」と太郎は楓を見ながら言った。 「そうか、それじゃあ、また、川島でも呼んで酒でも飲もうかのう」 「はい、私が呼んで参ります。ところで、無為斎殿、松恵尼殿は一体どんなお人か、御存じないでしょうか」と太郎は聞いてみた。 「わしも、よくは知らんのじゃがのう」 「お願いです、教えて下さい」と楓が言った。「私は松恵尼様に育てられました。でも、私にも松恵尼様の事は少しもわかりません。これから、また、甲賀に帰って、松恵尼様のお世話になります。松恵尼様にはお世話になりっぱなしです。少しでも松恵尼様の事がわかれば、松恵尼様のために何かしてあげられるかもしれません。お願いです、知っている事だけでも教えて下さい」 「そうか、そなたは松恵尼殿に育てられたのか。母親同然というわけじゃな」 「はい」 「わしも本人の口からは何も聞いとらん。皆、人から聞いた事じゃ。本当だか嘘だかは知らん。それでもいいかな」と無為斎は楓と太郎を見比べた。 「はい」と楓は頷いた。 「そうじゃのう。まず、生まれだが伊勢平氏、関氏の一族の娘として生まれたそうじゃ。いきさつは知らんが御所様に見初められて側室に上がったらしい。一年後に子供を産んだが死産じゃったそうじゃ。前後して、父親が戦で討ち死にして、不幸が重なり、また、側室同士での女の揉め事もあったらしい。松恵尼殿は出家なさった。そして、母親と二人して、この城下から消えたんじゃ。甲賀に行ったのは母親の実家が甲賀だったらしい。わしの知っているのはこんな所じゃ」 「そうだったのですか‥‥‥」と太郎は言って楓を見た。 楓は俯いたまま黙りこんでいた。しばらくして顔を上げると、「御所様の側室‥‥‥」と小声で言った。 「今でも綺麗じゃが、若い頃はもっと綺麗だったんじゃろのう」 「無為斎殿、松恵尼様にはもう一つ顔があります。御存じですか」と太郎は聞いた。 「もう一つの顔?」 「はい。奈美殿と言って、よくはわかりませんが、どうも、商人のようです」 「商人‥‥‥商人と尼僧の二つの顔か‥‥‥成程のう」 「わかりますか」 「わしの推測じゃがのう、多分、松恵尼殿は御所様のために情報集めをしていたのかもしれんのう」 「情報集め?」 「そうじゃ、こう戦があちこちで頻繁に起こると、いつ、どこで、誰と誰が戦をやっているのか、誰と誰が手を結ぼうとしているのか、色々な情報を早く知り、それに対しての対応を考えなければならん。北畠氏は今の所、伊勢の国をほとんど平定しているが、豪族たちが、いつ、寝返るとも限らん。また、伊勢の回り、尾張、近江、伊賀、大和、志摩などの国の状況も知らなければならん。勿論、京の都の事もじゃ。あらゆる情報をいち早く手に入れ、事が大きくならないうちに対処しなければならんのじゃ。これからの戦はただ、力だけを以て敵を倒すという事では駄目じゃ。回りはすべて敵だと思い、手を結ぶべき相手とは手を結び、倒すべき敵は戦を始める前にあらゆる手をうち、絶対に勝てると思う戦だけをやるんじゃ。そのためにはまず、情報集めが重要になる。御所様はあちこちに、そういう情報を集める者を置いたに違いない。松恵尼殿もそのうちの一人として働いていたのじゃろう」 太郎は無為斎の話を聞いていて、情報集めというのは『陰の術』だと思った。 松恵尼は陰の術を使って、北畠氏のために情報集めをしていたのだった‥‥‥ 表向きは尼僧として、裏では商人として活躍していたのだろう。松恵尼の事だから、何人もの尼僧や商人たちを使って、彼らをあらゆる所に潜入させ、情報を集めていたに違いない。以前に世話になった小野屋長兵衛という奈良の商人も松恵尼の手下だったのかもしれない。とすると松恵尼は余程大きな組織を持って情報集めをしていたに違いない。北畠氏が後ろ盾にいれば、それも可能だろう。しかし、驚きだった。松恵尼がそれ程の人だったとは‥‥‥ ところで、師匠の風眼坊は知っているのだろうか‥‥‥ 知っているだろうな。師匠はとぼけるのがうまいからな。知っていながら知らん振りっていうわけだ。 「それでは、情報集めをするために尼さんになって甲賀に行ったのでしょうか」と太郎は聞いた。 「それはどうかな、多分、その時は本当に出家したんじゃろう」 楓は黙って無為斎の話を聞いていた。 「わしがここに来た当時は、松恵尼殿も一年に一、二度、顔を出す程度じゃったが、京に戦が始まってからというもの、頻繁に、ここに来るようになった。松恵尼殿が情報を集めていたというのなら、それも納得のできる事じゃ」 知らない間に外は暗くなっていた。 「川島先生を呼んで来ます」と太郎は言うと外に出て行った。 「橘屋の旦那も呼んで来るがいい」と無為斎が太郎の背中に声を掛けた。 「わかりました」と答え、太郎は町道場に向かった。
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