酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







雪溶け







 梅の花が咲いていた。

 数人の門徒たちが梅の花を眺めながら世間話をしている。門徒たちの顔も自然とほころんでいた。

 ようやく長い冬も終わりを告げ、雪溶けの季節が近づいて来た。

 冬の間、二十五日の講と二十八日の報恩講の日以外は比較的、静かだった吉崎御坊も、雪溶けと共に参詣者の数も徐々に増えて行き、賑やかになって行った。

 長い冬の間、蓮如はどこにも出掛けず、ほとんど書斎に籠もったままだった。

 講の時には新しく書いた御文を発表したが、それ以外は御文も書かず、ほとんど毎日、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の著した『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書写していた。

 蓮如は親鸞聖人の教えを改めて読む事によって、今更になって、去年、門徒たちを戦に追いやった事を後悔していた。後悔はしていたが、あの時、どんな態度を取ったらよかったのか、答えは出なかった。もし、親鸞聖人だったら、あの時、どんな態度を取ったのだろうか。 

 本願寺の法主(ほっす)になって以来、ただ、ひたすら、親鸞聖人の教えを広めるために生きて来た。異端(いたん)を退け、正しい教えを広める事が自分の役目だと信じて疑わなかった。

 考え方が少し狭かったのかもしれん、と蓮如は思った。

 正しい教えを広めるため、高田派の教えは悪いと言ったために、高田派と対立するようになって行った。確かに高田派の教えは悪いに違いないが、悪いと言われた高田派門徒の気持ちなど少しも考えなかった。もう少し、相手の立場になって考えて行動していたら、こんな結果にはならなかったかもしれない。高田派の坊主たちをどうにもならない所まで追い込んでしまったのは、自分の考えが狭すぎたからに違いない。すべての者たちを救うという阿弥陀如来様のように、もっと大きな心を持たなくてはいかんと反省した。

 風眼坊舜香は吉崎の門前町に家を借りて、町医者を開業していた。

 蓮崇(れんそう)の多屋を出て、ここに移って来たのは正月の十日の事だった。風眼坊は、もうしばらく様子を見るため、この地にいる事に決め、いつまでも蓮崇の多屋の世話になっているわけにもいかないので、蓮崇に空家はないかと相談した。

 一応、捜してみるが、多分、空家などないだろう。雪が溶けたら新しい家を建ててやると蓮崇は言ったが、次の日、幸運にも丁度いい空家が見つかった。太物屋(ふとものや)(絹以外の織物を扱う店)の番頭が家族と共に住んでいて、戦の後、野々市(ののいち)に新しく店を出すために引っ越して行ったという。持主はその太物屋で、風眼坊が医者だと聞くと、喜んでお貸ししましょうと言ってくれた。

 蓮如がこの地に来て、この地が栄えてから建てた物なので当然、まだ新しく、部屋も四つあり、台所の土間も広く、広い縁側もあって、ちょっとした庭まで付いていた。風眼坊が一人で暮らすには広すぎると感じる程の家だった。

 引っ越しして来た晩、蓮崇と慶聞坊(きょうもんぼう)が酒をぶら下げて、お祝いにやって来た。引っ越しといっても、荷物などほとんど無く、藁布団(わらぶとん)と暖房のための(たきぎ)位のものだった。

「なかなか、いい所ですね」と慶聞坊が部屋の中を見回しながら言った。

「しかし、何となく、照れ臭いのう」と風眼坊は頭を掻いた。

「何がです」と蓮崇が聞いた。

「わしは今まで、ずっと山伏じゃった。自分の家を持つなんて事は思ってもおらなかった。もっとも、この家は借りもんじゃが、家を借りるなんて思った事もない。いつも、山の中で寝たり、宿坊に泊まったりしておった。女子(おなご)の所に世話になっておった事もあったが、早い話が、いつも、人様の家に厄介(やっかい)になっておったというわけじゃ。山伏じゃから、それが当然だと思っておった。まさか、わしがうちを借りるなんて、何となく、おかしな気分じゃ」

「いいじゃありませんか。時には町人の気分を味わってみるのもいいかもしれませんよ」と慶聞坊は縁側から庭を眺めながら言った。

「このまま、ずっと、ここに腰を落着けてくれれば、もっといいがのう」と蓮崇は言った。

「まあ、当分は、成り行きに任せてみよう」

 三人は囲炉裏(いろり)を囲んで、酒を飲み始めた。

「風眼坊殿、これからここで一人暮らしとなると、飯の支度やら何かと大変じゃありませんか」と慶聞坊は心配した。

「なに、年中、旅をしておるから飯を作る事なら慣れておる。大丈夫じゃ」

「しかし、医者をやって行くにしても一人では大変でしょう。誰か、下女(げじょ)でも雇った方がいいですよ」

「慶聞坊殿、心配いらん。そこのところはわしに任せろ」

「蓮崇殿、下女の心配などいらんよ」と風眼坊は手を振った。

「分かっております。任せて下さい」

「何をたくらんでおるんじゃ」

「いや、ただ、飯なら、わしの所から、時折、運ばせるという事ですよ」

「ああ、そうか。それじゃあ。わしの所からも運ばせますよ」と慶聞坊も言った。

「そんな心配なんかいらんよ。どうせ運んでくれるのなら、飯より、これの方がいいわ」と風眼坊は酒盃(さかづき)を上げて笑った。

「そうじゃのう。風眼坊殿には酒の方がいいのう」と蓮崇も笑った。

「ところで、蓮崇殿、野々市の方はどんな具合じゃ」

「ええ。今のところは、まだ動いてはおりません。ただ、新しい守護所を作るようです」

「新しい守護所?」

「城ですね。今の守護所は守るのに適しておりませんからね。野々市の東にある山の上に新しく城を作って、その裾野に富樫次郎の屋敷を作るようです」

「城作りか‥‥‥いよいよ、本願寺を敵に回す事に決めたのかのう」

「かもしれません。ただ、どういう出方で来るのか、まだ、分かりませんね」

「また、戦になるのでしょうか」と慶聞坊が聞いた。

「守護方の出方次第じゃな。本願寺方から守護に仕掛ける者はおらんじゃろうからな」

「もし、仕掛けて来たらどうします」

「戦うわけにはいかんから、逃げるしかないのう」

「黙って、逃げるのですか」

「上人様が戦う事を許さんからのう。仕方ない」

「もし、攻められたら門徒たちもたまりませんね」

「ああ。しかし、守護方は上人様が戦を許さない事を知っておる。これ幸いに門徒たちを攻めて来るじゃろう」

「どうするんです」

「そこのところを、今、色々と考えておるんじゃ。何とかして門徒たちの身を守る事はできんものかと」

大義名分(たいぎめいぶん)じゃな」と風眼坊は言った。

「そうです。上人様を動かす事のできる大義名分です」

「敵には大義名分はあるんですか」と慶聞坊は聞いた。

「あるんじゃ。荘園を横領しとらん国人はおらんからのう。当然、門徒となっておる国人たちも荘園を横領しておるんじゃ」

「それは、守護側におる国人たちだって同じでしょ」

「ああ、同じじゃ。早い話が、今、守護大名となっておる者たちは皆、荘園を横領して勢力を強めて来たんじゃが、自分たちの事は棚に上げて、荘園を横領したという大義名分を掲げて国人門徒を攻めるに違いない」

 守護職(しゅごしき)とは幕府から任命され、その国の管理をするのが任務だった。決して、その国が領国となるのではなく、ただの任地に過ぎなかった。初期の頃は任地替えも度々、行なわれていたが、やがて、世襲(せしゅう)されるようになるに連れて、その国において勢力を持つようになって行った。

 荘園は元来、守護不入の地で、荘園領主の送った代官(荘官)によって支配されていた。ただ、守護は段銭(たんせん)棟別銭(むねべちせん)と呼ばれる田畑や家に掛かる税を取り立てる権利を持っていた。その税は、本来、幕府から命ぜられ、天皇の御所の造営修理、伊勢神宮の式年造替(しきねんぞうたい)や天皇の即位の儀式に使われるものだったが、次第に、守護自体の収入源となって行った。その税は荘園内の土地や家にも掛かかり、守護は税を取り立てるために守護不入の地に入ろうとした。しかし、隠し田畑のある荘園は守護の入る事を拒み、多額の礼銭を払った。

 守護が任地に勢力を持って行くのと同様に、荘園の代官として荘園を支配していた武士たちも、その土地に根を張って勢力を持ち、国人と化して行った。国人と化した代官が荘園領主の言う事を聞かなくなると、領主は、その国の守護に年貢を取り立ててくれるように頼まざるを得なかった。年貢の取り立てを請け負った守護は、堂々と守護不入の土地だった荘園に入って行き、隠してあった田畑からも税を取り、やがては武力を以て横領して行くようになって行く。そして、お互いに荘園を横領する事によって勢力を広げて来た守護大名と国人たちは被官関係となって行った。

 荘園領主である公家や寺社たちは荘園の横領を幕府に訴え、幕府は守護に、横領した者を罰せよ、と命ずるが、横領を取り締まる側の守護が荘園を横領しているのだから、力を持たない領主たちは泣き寝入りするより他なかった。

 応仁の乱以後、力を持たない者たちの荘園はすべて、守護を初め、力のある国人たちに横領され、残っていた荘園は幕府に関係ある者たちの荘園か、勢力を持っている寺社や幕府に保護された禅寺の荘園くらいのものだった。

「大義名分か‥‥‥」と風眼坊は唸った。

「上人様は、守護の命には従えとおっしゃる。本所(ほんじょ)(領主)には、必ず、年貢を払えとおっしゃる。しかし、そんな事、百姓たちには分からん。百姓たちは毎年、必ず、年貢は絞り取られておる。ただ、その年貢が本所のもとに届かないのは、百姓たちを支配しておる国人たちが横領しておるからじゃ。しかも、年貢を横領した国人たちは、自分が横領したとは言わないで、守護のせいにしておる。確かに、戦続きで守護は厳しい守護(やく)を取り立てておる。百姓たちから見たらたまったものではない。本願寺の坊主となった国人たちに(あお)られれば、百姓たちはすぐにでも守護に反抗して行くじゃろう。上人様が押えようとしても、押える事はとてもできんじゃろう」

「また、戦になるのですね」と慶聞坊は言った。

「それは確かじゃ。ただ、大義名分がないと門徒たちが一つにまとまらん。一つにまとまらなければ本願寺は負ける」と蓮崇は厳しい顔付きで言った。

「いっその事、思い切って幸千代(こうちよ)を担ぎ上げたらどうじゃ」と風眼坊は言った。

「はい。わしも、その事は考えました。しかし、幸千代の側に(ぬか)熊夜叉(くまやしゃ)が付いております。幸千代だけなら飾りになりますが、熊夜叉は危険です。たとえ、次郎を倒しても、熊夜叉がいる限り同じ事の繰り返しになります」

「熊夜叉か‥‥‥」

 幸千代はあの戦の後、加賀を抜け出して京に逃げ、西軍の大内氏の陣中にいて、加賀の情勢を窺っていた。

「本願寺と切り放して考えれば、上人様の考えに従わなくても済むわけでしょう」と慶聞坊が言った。

「それはそうじゃが、一旦、門徒となった者を本願寺と切り放す事はできまい」

「でも、上人様はいつも言っておられます、信仰の世界では阿弥陀如来のもとでは皆、平等だが、実生活においては世間の決まりを守れと。生きるか死ぬかというのは信仰の問題と言うより実生活の問題です。実生活において、決まりを守っておったにも拘わらず、その生活を(おびや)かす者がおるとすれば、生活を守るために戦わなくてはなりません。それは、信仰上の問題ではないと思います」

「うむ。確かにそうじゃ」と蓮崇は唸った。「人間は信仰だけで生きておるわけではないからのう。信仰抜きで戦えばいいんじゃが」

「しかし、門徒は門徒じゃ」と風眼坊は言った。「門徒が一揆を起こせば、信仰抜きとは言えんぞ」

「いや、一揆には国人一揆というのもある」と蓮崇は言った。「本願寺の坊主を抜きにして、国人一揆という形にすればいいんじゃ」

「しかし、その国人というのは本願寺の坊主じゃろ」

「それはそうじゃが、多分、守護方も本願寺の寺院を攻める事はないじゃろう。攻める理由がないからのう。攻めるとすれば国人門徒たちじゃ。そこで、こっちも本願寺の寺院たちには見て見ぬ振りをしてもらうんじゃ。本願寺の寺院が動かなければ、守護と国人の争いという事になる。上人様に迷惑を掛ける事にはならんじゃろ」

「そう、うまく行くといいが‥‥‥」

「いや、うまくやるんじゃ。それ以外に門徒たちを救う道はない」

「わしもそう思います」と慶聞坊も言った。

 しかし、風眼坊は何となく不安を感じていた。本願寺において国人門徒たちは指導者的立場にあったが、国人たちだけで守護の富樫を相手にして勝てるとは思えなかった。守護を倒すつもりだったら、この前のように本願寺が一丸にならなければ難しいだろうと思った。







 次の日の朝早く、風眼坊の新居に闖入者(ちんにゅうしゃ)がやって来た。

 前の晩、遅くまで飲んでいたし、早起きしても別にする事もない。どうせ、自分一人しかいないのだから、久し振りにゆっくり寝ていようと風眼坊は思っていた。ところが、朝早くからたたき起こされた。

 闖入者は、お雪だった。

 お雪は荷物を抱えてやって来ると、さっさと板戸を全開にしてしまった。

 部屋の中は急に明るくなり、外から冷たい空気が入り込んで来た。

「お早うございます、先生。いい天気ですよ」と言って、お雪は風眼坊の枕元に座り込んだ。

「何じゃ、朝っぱらから」と風眼坊は布団を被り、寝ぼけた声で言った。

「あたし、今日から、ここに住む事になりました。よろしくお願いします」

「何じゃと」と風眼坊は布団から顔を出した。

「あたし、御山を追い出されたんです。先生、ここに置いて下さい」

「なに、追い出された」と風眼坊は起き上がると目をこすり、お雪を見つめた。「何があったんじゃ」

「何もありません。蓮崇様から、門徒でない者を御山に置くわけにはいかん、と言われまた」

「まだ、門徒になっていなかったのか」

「はい」

「どうして」

「先生が門徒にならないからです」

「何で、わしが関係あるんじゃ」

「あたしは先生の弟子です。先生が門徒にならないのに、あたしが門徒になるわけにはいきません」

「あれは蓮如殿と旅をしておった時の話じゃ。今は弟子ではない」

「いいえ。先生がここで町医者を始めたという事は、まだ、あたしも弟子です。先生の仕事を助けます」

「助けてくれるのはありがたいが、ここに置くわけにはいかん」

「どうしてです」

「どうしてだと‥‥‥わしも男だからじゃ」

「あたしは女です」

「そんな事は分かっておる」

「あたし、決めたんです。お医者様になって怪我人や病気の人を助けるって。先生と一緒に旅して分かったんです。あたしがやるべき事はこれだって。あたしを一人前のお医者様にして下さい。お願いします」

「そなたが、そう決めたのなら教えてやろう。しかし、ここで一緒に暮らすのは、まずいんじゃないかのう」

「どうしてです」

「そなたはまだ若い。これからじゃ。好きな男ができて嫁に行く事もあろう。わしと一緒に暮らしておったら、あらぬ噂が立ち、嫁に行けなくなるぞ」

「そんな事、構いません。あたしが好きなのは先生です」

「何じゃと」

「あたし、先生が好きなんです。ずっと側にいるって決めたんです」

「ちょっと待て。ちょっと顔を洗って来るから、待ってろ」

 風眼坊は布団から出ると、お雪から逃げるように裏にある井戸に向かった。

 確かに、お雪の言うように、いい天気だった。積もった雪が日差しを浴びて眩しかった。

 朝っぱらから脅かしやがる‥‥‥まったく、はっきり、物を言う女だ。まあ、お雪がはっきりと物を言う女だと思ったのは、今に始まったわけではない。初めて会った時から、そう思っていた。しかし、朝っぱらから、あんな事を面と向かって言われるとは思ってもいなかった。さすがに、風眼坊でも戸惑ってしまっていた。

 冷たい水で顔を洗って、さっぱりすると風眼坊はお雪の待つ部屋へと戻った。すでに、布団はたたんであった。

 お雪は風眼坊を見るとニッコリと笑った。

「あたし、ここにいてもいいのですね」

「仕方ないのう。ただし、わしの娘という事にしろ」

「娘ですか」

「そうじゃ。年が違い過ぎるからの」

「上人様と裏方(うらかた)様も親子のように年が離れています。それでも立派に夫婦です」

「それはそうじゃが、わしには妻も子もおるんじゃよ」

「構いません。遠い所にいるんでしょ。ここではあたしが先生の奥さんです」

「勝手に決めるな」

「先生はあたしの事、嫌いなんですか」

「嫌いではない」

「好きですか」

「まあ、好きじゃのう」

「よかった。嫌われてたらどうしようかと思った。先生と一緒に暮らせるなんて夢みたい。あたし、生まれて初めて幸せになれたのね」

 お雪はうっとりとした目付きで風眼坊を見つめていた。

 風眼坊は何も言えなかった。ただ、お雪が幸せだと言うのなら、それでもいいのかもしれないと思った。幼い頃、家族を失い、それ以後、自分というものを捨て、ひたすら仇討ちに生きて来た。幸せなんていう言葉なんか、まったく縁がなかったのかもしれない。そのお雪が、風眼坊と一緒にいて幸せだと感じるのなら、それでいいのだろう。風眼坊にしてみれば、お雪と一緒に暮らす事に文句などあるはずはなかった。自分の娘を嫁に出した後、娘のような若い女と一緒に暮らすなんて、風眼坊の方こそ夢のような事だった。

 まさか、初日から患者が訪ねて来るとは思ってもいなかったが、蓮崇と慶聞坊が門徒たちに宣伝しているとみえて、五人の年寄りが体の具合が悪いと言って訪ねて来た。風眼坊は患者たちから話を聞き、症状に合う薬を与えた。

 代物(だいもつ)(代金)の方は、まだ、決めていなかったが五(もん)程貰う事にした。五文と言えば、米にして約五合、塩なら一升程、買う事ができた。当時、人夫(にんぷ)の賃金として一日二十文位、職人の賃金として一日五十文前後だった。初日に二十五文もの収入があったとは、なかなか幸先がよかった。毎日、十人程の患者を診て、五十文もの収入があれば、薬を仕入れても、二人位、楽に食べて行く事ができた。

 風眼坊とお雪が一緒に暮らし始めて、二ケ月が過ぎた。

 誰もが羨む程、仲睦まじい夫婦だった。そして、町医者の方もうまく行っていた。患者が来ない日はないと言っていい程、毎日、怪我人や病人が訪ねて来ていた。また、寝たきりの病人がいると聞けば、雪の積もった山の中でも気安く飛んで行った。

 長かった冬もようやく終わり、積もっていた雪も溶け、夜の冷え込みも緩くなって行った。

 患者もいなくなった夕方、風眼坊は縁側で、乾燥させた薬草を薬研(やげん)を使って砕き、粉薬を作っていた。

 お雪は台所で夕飯の支度をしている。

 以外にも、お雪の作る料理はうまかった。次郎の側室(そくしつ)だったので、料理なんか、まったく知らないだろうと思っていたのに、家族を亡くしてから、叔母と二人であちこちを点々としたため、その頃より叔母と一緒に食事の支度はしていたと言う。そして、御山(おやま)にいた時も、蓮如の妻、如勝より色々な料理を教わったらしかった。

 風眼坊も御山にいた時、御馳走になった事があり、大層、立派な料理だった。初めて、その料理を出された時、蓮如は毎日、こんな贅沢をしているのか、と思ったが、それは違った。蓮如の食事は実に質素なものだった。立派な料理は遠くから来た門徒たちを持て成すためのものだった。蓮如は本当に門徒たちを大切にしていた。

 日の暮れる頃、血相を変えた慶聞坊が風眼坊の家に飛び込んで来た。慶聞坊は門から入って来ると、そのまま土間の方に行こうとしたが、縁側にいる風眼坊を見つけると、「風眼坊殿」と叫びながら縁側の方にやって来た。

「大変な事が起こりました」と息を切らせながら言った。

「どうした、蓮如殿に何かあったのか」と風眼坊は聞いた。

「いえ、違います。戦です。戦がまた始まったのです」

「何じゃと」と風眼坊は手を止め、慶聞坊を見上げた。

「一体、どこで、戦が始まったんじゃ」

「石川郡です」

「まあ、座って、落ち着いて話せ」

 慶聞坊は頷いて、縁側に腰を下ろすと、「大変な事になったもんじゃ」と呟いた。

 風眼坊は薬研と薬草を片付けながら、「いつ、始まったんじゃ」と聞いた。

一昨日(おととい)です。木目谷の道場が富樫勢に攻められ、湯涌谷(ゆわくだに)まで逃げたそうです」

「富樫勢は急に攻めて来たのか」

「そうらしいです」

「蓮崇殿は現場に行ったのか」

「いえ、慶覚坊(きょうがくぼう)殿に連絡して、慶覚坊殿に行ってもらう、と言っておりました」

「慶覚坊にか‥‥‥蓮崇殿はまだ動かんのか」

「今、頼善(らいぜん)殿が留守なので、蓮崇殿が御山からいなくなるわけにはいかないのです」

「蓮如殿はまだ知らんのじゃな」

「はい。まだ知りません。しかし、そのうち、本泉寺などから知らせが入る事でしょう」

「おぬしはどうする」

「わたしも動けません」

「じゃろうのう‥‥‥雪溶けと共に敵は動き出したか‥‥‥」

「はい‥‥‥」

「その木目谷の道場主というのは国人門徒なのか」

「そうです。高橋新左衛門という国人です」

「やはりのう。荘園横領を大義名分にして、攻めて来たんじゃな」

「はい。しかし、無茶な事を言って来たようです」

「無茶な事?」

「横領した荘園を本所に返し、しかも、去年の年貢を本所に払え、と言って来たんです」

「なに、去年の年貢?」

「はい。しかし、そんなものはすでにありません。去年、年貢米のほとんどを幸千代に徴収され、残っていた年貢米も本願寺のために使ってしまったはずです」

「成程のう。それで、その高橋とやらは敗れてどうしたんじゃ」

「湯涌谷に逃げ込んだらしいのですけど、それから、先、どうなったのかは分かりません。そのうち、また、新しい情報が入るとは思いますが」

「そうか‥‥‥」

「あら、慶聞坊様」とお雪が台所の方から声を掛けた。「お久し振りです。どうぞ、今晩は、ゆっくりしていって下さいね」

「お内儀(ないぎ)、そうもいかんのです」と慶聞坊は言うと立ち上がった。「そろそろ、戻ります」

「そうか。いや、わしも行こう。久し振りに蓮如殿に会いたくなったのでな」

 風眼坊はお雪に一言、声を掛けると、慶聞坊と共に御山に登った。







 一揆が再燃した。

 それは、守護富樫勢の一方的な攻撃で始まった。

 北加賀守護代の槻橋近江守(つきはしおおみのかみ)はおよそ一千の兵を引き連れ、高橋新左衛門の道場及び、屋敷を不意に襲撃した。あまりにも急の襲撃だったため、新左衛門は立ち向かう事もできず、浅野川に沿って谷の中へと逃げ込み、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門を頼った。槻橋近江守は見せしめのためにと、百姓たちにも容赦なく攻撃したため、新左衛門を初め、門徒たち二千人余りが湯涌谷へと逃げ込んだ。

 槻橋近江守は木目谷から新左衛門を追い出すと、そのまま、その地に陣を敷き、湯涌谷を睨んでいた。

 守護富樫次郎は、今年の初め、守護として加賀国内の荘園や家臣たちの領地を確認すると共に、横領されている荘園については元の領主に戻すようにと命じた。

 当然、高橋新左衛門のもとにも、その命令は来たが新左衛門は無視した。守護自身が石清水(いわしみず)八幡宮や伏見稲荷社の荘園を横領していながら、そんな勝手な命令を出しても、誰も従うはずはなかった。新左衛門にしても、富樫が守護として幕府や荘園領主の手前、一応、形だけの命令を下したものだと思った。命令に従わなくても、まさか、攻めて来る事など絶対にあり得ないと高をくくっていた。

 高橋新左衛門が横領していた荘園は大桑庄の一部と若松庄の一部だった。大桑庄の荘園領主は公家の甘露寺親長(かんろじちかなが)、若松庄の荘園領主は同じく公家の烏丸資任(からすますけとう)だった。現地にいない荘園領主から見れば、それは確かに横領という事になろうが、実際、新左衛門は武力を持って、それらの荘園を手にしたわけではなかった。

 荘園といっても、昔のように守護不入の地などと言ってはいられなかった。侵略されずに荘園を保ち続けて行くには、常に在地の権力と手を結ばなければならなかった。特に加賀の国のように守護がころころと変わるような所では、荘園を守るため、荘官(代官)自身も武力を持ち、回りの状況に対処して行かなければならない。その中で、武力を持たない公家たちの荘園は守護や地頭、あるいは力を持ち出した国人たちに侵略されて行った。残った荘園は幕府と何らかの関係のある公家や寺社、そして、自らも武力を持つ大寺院のものだった。それらの荘園も応仁の乱以降、幕府の力が弱まって来るに連れて侵略されていった。長い間、荘園を守っていた荘官たちにとって、領主から独立する機会が訪れたと言ってもよかった。今まで、幕府や守護を恐れて領主に反抗する事ができなかった荘官たちは、預かっていた荘園、すべてを自分のものにしようと考えた。いかに時の流れと言え、それだけでは彼らは独立する事はできない。独立するには後ろ盾となる者を必要とした。

 そこに現れたのが本願寺だった。

 守護は当てにならなかった。守護に保護を求めても、その守護はすぐに変わってしまう。守護が変わる毎に、多額の礼銭を持って挨拶に行かなければならない。また、下手に守護に近づき過ぎれば、新しい守護に痛い目に会う事もある。荘官たちは、そんな守護を頼るよりも本願寺を頼る事にした。有力な国人たちが次々に門徒となって行くのを見ていた彼らは、自らもその道を選び、門徒となって行った。

 大桑庄と若松庄においてもそうだった。二つの荘園の荘官は、まず、大桑善福寺の門徒となった。しかし、善福寺は武力を持っていない。そこで、善福寺の門徒であり、武力も持つ国人の高橋新左衛門の配下という形となった。

 以前、高橋新左衛門とそれらの荘園の荘官は争いを繰り返していた。隙あらば侵略しようとする新左衛門に対して、頑強に荘園を守り通して来た。その二人が戦う事なく、自分の配下になるという事は、いかに時の流れとはいえ、新左衛門にとって笑いの止まらない程、愉快な出来事だった。

 高橋新左衛門は浅野川を押えて勢力を広げて行った国人だった。祖先は浅野川の上流にある医王山海蔵寺の山伏だったと言う。その山伏が浅野川の輸送権を手に入れて山を下り、木目谷に腰を落ち着け、浅野川の川の民を支配して行った。

 浅野川は医王山と加賀側の里を結ぶ重要な水路であり、途中には山崎の窪市(くぼいち)という大きな市もあり、河口は河北潟を経て宮腰(みやのこし)の湊につながっていた。山内にある数多くの寺院で消費される物資のほとんどは、この浅野川によって運ばれ、また、山内で作られた薬や櫛や扇などは商品として、山崎窪市を初め、さらに遠く、京の都までも運ばれて行った。

 新左衛門の父親は五郎左衛門といい、すでに亡くなっていたが、五郎左衛門は浅野川の川の民を支配するだけでなく、浅野川流域の土地をも支配しようと試みた。しかし、それは難しい事だった。五郎左衛門の頃の時代になると加賀国内での争いが絶えず、浅野川流域の国人たちも互いに争い、弱い者は滅ぼされ、強い者だけが残り、五郎左衛門がその中に割り込む隙はなかった。

 五郎左衛門は土地を手に入れる事は諦め、浅野川の輸送権、すべてを支配しようとした。浅野川の水路を利用しているのは医王山だけではない、当然、川の流域にいる国人たちや寺社も利用していた。

 当時、川というのは無縁の地とされ、武士の支配対象にはならなかった。五郎左衛門はその川を支配しようとした。その川で生活する者たちをすべて支配しようとした。

 川の民は古くは聖徳太子の信仰を持っていたが、遊行聖(ゆぎょうひじり)の布教によって時宗の徒になる者が多かった。浅野川の流域にも幾つかの時宗の道場ができ、川の民のほとんどが時宗の徒となって行った。

 五郎左衛門はその時宗を利用した。自ら、時宗の徒となって川の民を支配する事に成功した。天台宗である医王山は、五郎左衛門が時宗の徒になった事に腹を立てたが、銭を積む事によって解決した。すでに、五郎左衛門は医王山の後ろ盾が無くても、浅野川を支配する事ができる程に成長していた。そして、新左衛門の代になって時宗から本願寺に鞍替えをして、さらに勢力を強めて行った。

 守護から荘園を横領したと言われても、新左衛門にはそんな事をした覚えはなかった。配下に荘園の荘官はいるが、その荘園を横取りした覚えはない。まして、その荘園の年貢米を奪い取った覚えもなかった。その年貢米を奪い取って行ったのは守護の方だった。戦のためと言いながら各荘園からしぼれるだけ取って行った。去年の年貢米を領主に払えと命ずるが、去年の年貢米のほとんどは幸千代に力づくで奪われ、残っていたものは本願寺の兵糧米となって消えていた。

 新左衛門は守護の命を無視した。

 無視をしても、守護となった富樫次郎が本願寺の門徒に刃向かうはずはないと過信していた。新左衛門から見れば、富樫次郎など本願寺によって守護になったようなものだった。本願寺の門徒に刃向かうような事があれば、幸千代のように法敵として退治すればいいと考えていた。門徒たちは幸千代を倒した時のように武器を持って集まり、あっという間に、次郎など倒してしまうだろうと簡単に考えていた。

 門徒たちは自分の立場で物を考え、蓮如の立場というものを考えなかった。本願寺門徒に敵対する者は皆、法敵だと考え、上人様も同じように考えるに違いないと信じていた。彼らは信仰と現実社会を同じものとしてとらえていた。

 しかし、上人である蓮如から見ると、門徒に敵対するだけでは法敵とはならなかった。蓮如の考えでは、現実社会においては社会の決まりに従い、毎日毎日を過ごし、その生活の中において本願寺の教えを信じ、阿弥陀如来に感謝して念仏を唱えよ。そうすれば必ず、極楽浄土に往生できると説いていた。

 そこに、蓮如と門徒たちの間に考え方の違いがあった。

 人は誰でも確信という物を欲しがる。それは信仰の世界においても同じだった。念仏を唱え、極楽に行けると坊主に言われても、何かの確信が欲しかった。そして、蓮如が嫌っていた異端の教えが流行る事となった。人々は極楽往生の確信を得るために、坊主たちに多額の志しを与え、その志しの多寡(たか)によって往生は決められた。門徒たちは、これだけ多くの志しを収めたのだから往生は確実だと思い、坊主はその事を保証した。また、名帳(めいちょう)に自分の名が記入される事によって、その確信を得た。その教えは貧しい者たちには縁のない教えだった。そこに蓮如が現れ、貧しい者たちの間にまで教えを広めた。教えはどんどん広まって行った。しかし、貧しい者たちでも確信が欲しいと思う気持ちは同じだった。念仏を唱えれば救われる。そう言われても、その(あかし)が欲しかった。

 誰もがそう感じていた時、一揆が起こった。

 本願寺の門徒として法敵を退治する、と言う名目のもと、門徒たちは一揆に参加した。初めは誰もが不安を感じながら一揆に参加していた。法敵とはいえ相手は守護であった。代々、加賀の国を支配していた富樫家であった。守護に立ち向かう事など、今まで考えてもみなかった下層階級の者たちが一揆に参加していた。同じ門徒と呼ばれる仲間が続々と武器を持って集まる事によって不安は吹き飛び、一種の集団心理によって、力を合わせれば何でもできると思うようになって行った。ただ、お互いに門徒であるというだけで、今まで知らなかった連中たちとも近親感がわき、一つにまとまる事を可能とした。そして、守護である富樫幸千代を門徒の力によって倒した。そこに初めて、確信というものを門徒たちは持った。その確信は、死んだ後、極楽に往生するというものではなく、今、現在を門徒たちの力によって変える事ができるという確信だった。

 守護を相手に戦う事など、考える以前に絶対に不可能だった事が、門徒たちが力を合わせる事によって可能となった。門徒の誰もが、蓮台寺城を取り巻く門徒の数を見て圧倒されていた。自分たちの仲間はこんなにもいる。こんなにもいれば何でもできる。そして、実際にできた。その事を身を以て体験した門徒たちに怖い物はなかった。守護の富樫次郎が何を言おうと平気だった。もし、門徒たちが次郎に襲われる事になったとしても、きっと、また、大勢の門徒たちが助けに来てくれる。そう確信していた。

 突然の守護勢の襲撃に敗れた新左衛門は大勢の門徒たちと一緒に浅野川の上流、湯涌谷に逃げ、湯涌谷において合戦の準備を始めた。新左衛門にしろ、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門にしろ、一気に富樫次郎を滅ぼすつもりでいた。各地の門徒に連絡を取り、幸千代の時と同じように次郎を攻め滅ぼすつもりでいた。

 新左衛門も孫左衛門も江沼郡の門徒たちとは違い、この間の戦の時、蓮如がどれ程、辛い立場に立って苦しんでいたのかを知らなかった。二人共、蓮如の教えは御文を通して充分に理解していた。蓮如が争い事を好まない事も知っていたし、社会の決まりを守れ、という事も知っていた。その教えを知っていたから松岡寺(しょうこうじ)が危機に陥った時も動かなかった。しかし、蓮如は『法敵を倒せ』と命令した。彼らはどれだけの苦悩の後で、蓮如がその命令を出さなければならなかったか、という事を知らなかった。蓮如が『法敵を倒せ』という事を命じた事によって、彼らは本願寺門徒に敵対する者は、すべて法敵で、それらは退治しなければならないと勘違いした。今回の場合、彼らから見れば、富樫次郎は本願寺門徒に害を及ぼす、法敵に他ならなかった。

 新左衛門は湯涌谷において、浅野川の川の民を自由に操りながら着々と戦の準備を進めていた。





湯湧谷




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