酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







雪溶け







 夜明け前だった。

 朝を迎えて、早起きの鳥たちが鳴きながら飛び回っていた。

 突然、馬のいななきが聞こえたかと思うと、ひづめの音と共に土煙を上げて、一頭の馬が勢いよく駈けて来た。馬には入道頭の武士が乗っていた。薙刀(なぎなた)を背負った武士は飛ぶような速さで馬を走らせ、北へと向かって行った。

 慶覚坊(きょうがくぼう)であった。

 蓮崇からの知らせを受けた慶覚坊は、次の日の朝、まだ暗いうちから現場に飛んで行った。途中、手取川が雪溶け水で増水していて容易に渡れなかったが、安吉(やすよし)源左衛門の力を借りて、何とか、その日のうちに大桑の善福寺に着く事ができた。

 すでに、善福寺は武装した門徒たちによって守られていた。

 慶覚坊が馬から下りて名を告げると、門番は慌てて庫裏(くり)の中に入って行った。しばらくして出て来た住職の順慶(じゅんきょう)は慶覚坊の姿を見て驚いていた。

「早いのう。吉崎では、もう、今回の事件が噂になっておるのか」

「いや、噂にはなっておらん。上人様の耳に入る前に何とかせにゃならんので、こうして、やって来たわけじゃ」

「そうか、そうじゃのう。ところで、その格好はどうしたんじゃ」

 慶覚坊は墨染(すみぞめ)法衣(ほうえ)ではなく、武士の格好だった。

「なに、途中、川に落ちてのう。急いでいたもんで、安吉殿に借りて来たんじゃ」

「川に落ちたのか。それにしても、そなた、武士の姿も様になっておるのう」

「これでも昔は武士じゃったからのう」

「おお、そう言えば、そなた、薙刀の名人じゃったの。忘れておったわ。まあ、入ってくれ。今、高坂殿と松田殿、それと、田上殿と辰巳(たつみ)殿が来ておる」

 善福寺の庫裏の一室では、囲炉裏を囲んで、小具足(こぐそく)姿の砂子坂道場の高坂四郎左衛門、長江道場の松田次郎左衛門、田上道場の田上五郎兵衛、辰巳道場の辰巳右衛門佐(うえもんのすけ)の四人が、緊張した面持ちで酒を飲んでいた。

 慶覚坊はお互いに挨拶を済ませると現在の状況を皆から聞いた。

「木目谷は、すでに敵に占領されておる」と辰巳右衛門佐が言った。

 右衛門佐は高橋新左衛門の一族で、犀川(さいがわ)の上流を本拠地に持つ国人だった。犀川上流の川の民と山の民を支配していた。犀川は浅野川とは違って川の上流に大寺院がないため、物資の流通は少なかった。もっとも犀川の河口には宮腰(みやのこし)という加賀を代表する湊があり、その湊から犀川の支流である伏見川を上り、野々市へとつながる川は水上交通も盛んだった。しかし、犀川の本流の方は水量が豊富なわりには、それ程、栄えていなかった。特に、右衛門佐が領する上流辺りには荘園もなく、水上輸送は必要なかった。右衛門佐が抱えている川の民は物資を運ぶ者たちではなく、太い材木を(いかだ)に組んで宮腰まで運ぶ、勇ましい男たちだった。山の民はその材木を切る杣人(そまびと)である。要するに、辰巳右衛門佐は国人とはいえ、材木商人の(あるじ)とも言えた。

「敵の数はどれ位ですか」と慶覚坊は聞いた。

「そうじゃのう、二千位かのう」

「二千か‥‥‥」

「不意討ちだったのです」と田上五郎兵衛は言った。

 田上五郎兵衛は高橋新左衛門の配下だったが、木目谷よりも下流を本拠地としていたため、攻められる事はなかった。木目谷が襲われたとの急報を聞き、慌てて武装し、兵を引き連れて木目谷に向かったが、すでに遅かった。木目谷は槻橋近江守を大将とする大軍に占領され、三百人足らずの兵ではどうする事もできず、口惜しいが引き下がって来たのだった。

「野々市の方はどうじゃ。動く気配はあるのか」と慶覚坊は聞いた。

「各地から続々と兵が集まって来ておるそうじゃ」と順慶が言った。

「本気でやる気じゃな」

山川(やまごう)の城にも、二千人近くの兵が詰めておる」と辰巳右衛門佐が言った。

「山川に二千か‥‥‥木目谷と合わせて四千か‥‥‥」

 山川城は木目谷の南西にあり、その間を浅野川と犀川が流れているが半里程しか離れていなかった。南加賀の守護代、山川三河守の本拠地で、一族の山川亦次郎(またじろう)が守っていた。

「それで、今、湯涌谷には何人の門徒がおるんじゃ」

「そうじゃのう、五千人というところかのう。その中で兵力となるのは三千人といったところか」

「三千か‥‥‥木目谷を占領しただけで、敵はまだ、湯涌谷には攻めてはおらんのじゃな」

「ああ。動いておらん。兵を集めておるんじゃろう」

「多分な。不案内の山の中を攻めるのは難しいからのう」

「守護を倒すのなら、今が絶好の機会じゃ」と順慶は言った。

「敵の方から仕掛けて来たんじゃからのう」と高坂も言った。

「いや、それはできん」と慶覚坊は強く言った。

「どうして、できんのじゃ」

「上人様が絶対に許さん」

「何じゃと。現に門徒が守護にやられておるんじゃぞ。上人様は門徒を見殺しにするつもりか」

「仕方がないんじゃ。上人様には、守護を倒せと命ずる事はできんのじゃ」

「悪いのは守護の方じゃぞ。今回の戦では卑怯(ひきょう)にも不意討ちをして、抵抗もできない門徒たちを百人以上も殺したんじゃ」

「しかし、上人様は絶対に、守護を倒せとは命じない。守護を倒せ、と命ずる事は、幕府を倒せ、と命ずるようなものじゃ。いくら、幕府の勢力が衰えたとはいえ、幕府に刃向かったら本願寺は破滅する」

「それじゃあ、わしらが守護にどんな目に合わされても、上人様は動かんと言うのか」

「動かん」

「上人様が命令を下さなければ、この前のような大軍は集まらん」と高坂は慶覚坊を睨んだ。

「そういう事じゃ」と慶覚坊は厳しい顔付きで頷いた。

「大軍が集まる以前に、わしらは守護を敵にして戦う事もできんのか」と松田は、そんな事、信じられんという顔をして慶覚坊を見つめた。

「その通りじゃ。上人様は守護に刃向かう以前に、門徒たちが戦をする事も許さん。この前の戦の時、松岡寺が襲撃され、蓮綱(れんこう)殿の命が危ない状況になっても、上人様は戦をする事を許さなかった。今回も、守護に攻められて門徒たちが犠牲になっても、上人様は戦の命令は出さんじゃろう」

「なら、この前は、どうして、戦の命令を出したのじゃ」と辰巳右衛門佐が若い松田を押さえるようにして聞いた。

 蓮如の近くにいた坊主たちは当時の事情をよく知っていたが、吉崎から遠く離れた北加賀の門徒たちには詳しい事情は分からなかった。蓮如が戦の大義名分として掲げた『法敵打倒!』の法敵の意味は、教義上の敵、高田派門徒ではなく、本願寺門徒に害を及ぼす者だと理解していた。彼らの考えからいえば、守護の富樫次郎は、まさしく倒さなければならない法敵に違いなかった。

「この前の時は法敵となる高田派がいた。それに、幕府から富樫次郎を助けよ、との奉書が届いたんじゃ。今回は法敵となる高田派はおらんし、幕府も守護を倒せとは言わん。上人様としては門徒を助けたいのは山々じゃが正当な名分がないんじゃ」

「それじゃあ、わしらはどうしたらいいんじゃ。敵が攻めて来たら、黙って逃げろと言うのか」

「それも一つの手じゃ。この加賀の国から門徒全員が立ち退くのも面白い」

「馬鹿な事を言うな。そんな事、できるわけない」

「ああ。そこで残る手段は、今回の戦を本願寺から切り放して考えるんじゃ」

「なに」

「本願寺の門徒としては戦はできん。しかし、わしらは本願寺の門徒である以前に、まず、生きて行かなければならん。それぞれ、毎日の暮らしというものがある。その暮らしを脅かす者に対して戦うというのは当たり前の事じゃ。土地を奪われれば奪い返すというのは当然の事じゃ。わしらは坊主じゃが、他の者たちは皆、門徒である前に、それぞれの仕事がある。上人様もおっしゃっておられる。毎日の仕事に励み、そして、念仏を唱えろ、と」

「慶覚坊殿。一体、何が言いたいんじゃ」と順慶が口を挟んだ。

「要するに、今回の戦を本願寺の戦ではなく、国人たちの守護への反抗という形にしたいんじゃ」

「国人一揆か‥‥‥」と高坂が言った。

「そうじゃ。国人一揆じゃ。本願寺一揆ではなく、国人一揆にするんじゃ。国人たちの一揆となれば、上人様は関係ない。わしもそうじゃが、順慶殿も今回は動かないでもらいたいんじゃ。今回の戦は、飽くまで、国人たちだけの一揆にして、本願寺の坊主は一切、関係しないんじゃ」

「しかし、奴らが攻めて来たらどうするんじゃ」

「いや。奴らは本願寺の寺には攻めては来ないじゃろ。奴らが、今回の戦に掲げている大義名分は『荘園横領』じゃ。荘園を横領したかどによって高橋殿は攻められた。本願寺は今の所、所領を持ってはおらん。守護としても、本願寺の寺院を攻める理由はないんじゃよ。ただ、一揆の中に坊主の姿があるとまずい。同じ穴の(むじな)と見なされて、攻めて来る可能性はある」

「うむ。国人一揆か‥‥‥そなた、川に落ちたなどて言って、最初から、その格好で出て来たんじゃな」と順慶は言った。

「まあ、そういう事じゃ。この辺りを坊主がうろうろしているのはまずいからのう」

「成程のう。そなた、国人に成り済まして戦に参加するつもりじゃな」

「国人というよりは浪人じゃがな」

「浪人か‥‥‥わしも、その浪人とやらになるかのう」

「戦に参加するなら、それしかない。今回の戦には坊主は一切、参加せん。勿論、『南無阿弥陀仏』の旗も無しじゃ」

「坊主が浪人になるのはいいとしても、本願寺の名を出さないとなると難しいぞ」と高坂は言った。

「本願寺の名を出さないとすると、どれだけの兵が集められるじゃろううか。単なる国人一揆だとすると、関係のない百姓たちを動員する事は難しい」

「確かに、それは言える。しかし、富樫の兵力は今の所、どう多く見ても一万はおらんじゃろう。国人たちだけでも一万位の人数は集められると思うがのう。同じ位の兵力で戦うとすれば、後は作戦次第じゃ。しかも、野々市の守護所の守りは薄い。国人たちが一つにまとまれば守護を倒す事も夢ではない」

「一気に倒すか‥‥‥」

 慶覚坊は大きく頷いた。

「すでに、各地に使いの者を送ってある。そろそろ、武装した門徒たちが各地から集まる頃じゃ」と順慶は言った。

「うむ。ただ、ここを本陣にするのはまずいのう。ここには、寺を守る最低の兵だけを置き、後は、どこかに移した方がいいのう」

「わしの所を本陣にすればいい」と田上が言った。

「おお、そうじゃのう」と順慶は言った。「おぬしの道場なら、丁度、木目谷の敵を挟み討ちにする位置じゃ。本陣とするには絶好の場所じゃのう」

「本陣はそこ、と言う事で、まず、敵の状況を調べんとならんのう」

「それも、すでに、やっておる」

「そうか、やっておるか。そのうち、蓮崇殿が来るとは思うが、それまで、順慶殿、本陣の方を頼みます」

「蓮崇殿が来られるのか」

「ええ。二、三日したら来るじゃろう」

「慶覚坊殿はどうするんじゃ」

「わしは湯涌谷に行って来るわ」

「木目谷に敵がうようよいるんですよ」と田上が言った。

「わしは元、山伏じゃからのう、山の中を通って行くわ」

「何と‥‥‥」

「向こうの状況を見て来るわ。それに、敵を挟み討ちをするには、上と下の息が合ってないと成功せんからのう。わしが、その連絡をしようと思ってのう」

「そうか。そいつは有り難い。わしらも湯涌谷には誰かを送らにゃならんとは思っておったんじゃが、慶覚坊殿が行ってくれるとは心強い。頼みますぞ」

「慶覚坊殿、わしも一緒に連れて行って下さい」と松田が言った。

「高橋殿はわしの義理の父親なんです。この目で無事な事を確かめたいのです。お願いします」

「道のない山の中を歩く事になるぞ」

「山歩きには慣れております」

「慶覚坊殿、そいつを連れて行ってやって下さい」と順慶は言った。「そして、そいつに湯涌谷の状況を持たせて山を下ろさせれば、慶覚坊殿がすぐに下りて来なくても済むじゃろう。慶覚坊殿をただの物見や伝令に使うのは勿体ない。上にいて兵の指揮をした方がいい」

「なに、上には高橋殿と石黒殿がおられる。わしの出番などないわ。じゃが、一人で行くよりは二人の方がいいかもしれんのう。明日の朝、一番で出掛けるぞ」と慶覚坊は松田に言った。

「はっ。有り難うございます」

「慶覚坊殿、まず、景気づけに一杯行こう」と順慶が酒盃を差し出した。

「すまんのう」と言って慶覚坊は酒を受けた。

「富樫次郎も、ようやく守護になれたものを、あえなく、国人一揆によって散る事になろうとはのう。可哀想な事じゃ」と辰巳右衛門佐は笑った。

「元々、守護になる器じゃなかったのよ」と順慶は言った。

「幸千代にしろ、次郎にしろ、哀れなもんじゃのう。国人たちは寝返れば済むが、奴らは寝返る事もできん。家臣たちに祭り上げられて、本願寺を敵に回すとはのう。いや、本願寺ではなく、国人たちをのう」と慶覚坊は言って酒を飲んだ。

「確かに、哀れと言えば、哀れな事じゃ」

 雪溶けの季節になったとはいえ、夜になると、まだ寒さは厳しかった。

 囲炉裏の火を囲みながら、六人は皆、今回の戦の勝利を確信して疑わなかった。







 強い春風が吹いていた。

 慶覚坊たちが善福寺にて囲炉裏を囲んでいた頃、善福寺より北に二里程の所にある倉月庄では、主立った者たちが山本若狭守の屋敷に集まって、今回の木目谷の戦について、どう対処したらいいのか検討していた。

 こんなにも早く、守護と本願寺が争いを始めるとは、まったく意外な事だった。倉月庄の者たちは、前回の戦の時、共に協力して勝利を得た富樫次郎と本願寺が争う事などないだろうと思っていた。思っていたというよりは、誰もが、それを願っていた。いつかは争わなければならないという事は誰にも分かっていた。それでも、しばらくのうちは互いに争う事はないだろうと思っていた。

 倉月庄は北西に河北潟(かほくがた)、南西を浅野川、北東を森下川、南東を医王山(いおうぜん)へと続く山々に囲まれた、広々とした平野であった。

 室町時代の初期、儒教(じゅきょう)を専門とする家柄の中原氏が荘園領主となったが、後に庶流の摂津氏に、ほとんどの所領を奪われた。摂津氏は今でも幕府の奉公衆として幕府内で勢力を持っている。

 摂津氏が倉月庄の領主といっても、倉月庄のすべてを領地としていたわけではなかった。当時の治水技術では、どんな土地でも田畑にするというわけには行かなかった。田畑になり易い土地から荘園となって行ったため、摂津氏の荘園も倉月庄内の各地に散らばっていた。

 中原氏以前、源平の合戦の頃、自ら土地を開発して土着した者や、富樫氏と同じ斎藤氏の一族の者たちの中にも、この地に根を張る者があった。彼らは時代の変わり目をうまく乗り越えて、徐々に勢力を広げ、生き残って来た者たちであった。彼らは常に時の権力者と手を結び、隣の者たちの隙を狙いながら領土を広げて来たのだった。

 富樫家の家督争いが始まり、加賀の国に戦乱が絶えなくなって来た頃より、倉月庄の者たちは生き残るために、今まで争って来た隣の者たちと手を結ぶようになり、前回の戦の時、本願寺の門徒となって以来、倉月庄の国人たちは完全に一つにまとまっていた。すでに、倉月庄内の土地の取り合いなどしている場合ではなかった。庄が一つにまとまらなければ、この先、生きて行く事も危ぶまれる状況になっていた。庄内の国人たちは、何かある毎に寄り合って物事を決めていた。

 前回、会合(かいごう)を持ったのは正月だった。野々市の守護所に挨拶に行くべきかどうかが問題だった。本願寺の門徒になったとはいえ、倉月庄と野々市は近すぎた。門徒になっても武士である以上、知らん顔をしているわけにはいかなかった。結局、代表を送るという事に決まり、以前、次郎の家臣だった疋田豊次郎と幕府奉公衆である摂津氏の嫡流である中原兵庫助(ひょうごのすけ)が行く事となった。倉月庄の中には幸千代に付いていた者もかなりいたが、寝返ったという事で、特に問題もなく乗り越えた。そして、今回の戦騒ぎだった。

 戦の事を最初に知らせて来たのは善福寺だった。至急、兵を集め、参陣してくれと言って来た。倉月庄の主立った者たちは集まった。答えの出ないまま顔を突き合わせている時、恐れていた守護からの使いが来た。至急、武装して野々市に集まれと言う。

 中立でいる訳にはいかなかった。

 前回の戦の時、中心になって活躍した山本若狭守、中原兵庫助、諸江丹後守、大場越中守、疋田豊次郎、千田(せんだ)次郎左衛門、浅野右京亮(うきょうのすけ)、高桑六郎左衛門の八人が、唸りながら顔を並べていた。

 山本若狭守は賀茂社領の河北郡金津庄の庄官(代官)、山本氏の一族で、河北潟を渡って倉月庄に土着した国人で、河北潟の湖上運搬に携わる舟人たちを支配していた。

 中原兵庫助は、かつては倉月庄内の各地に荘園を持つ名族で、今は荘園のほとんどを庶流の摂津氏に奪われてはいたが、名門として生き続けていた。

 諸江丹後守と大場越中守の両名は源平の頃、源義仲と共に加賀に攻め入り、平氏を倒し、そのまま、この地に土着して勢力を広げ、早い時期から本願寺の門徒となっていた。

 疋田豊次郎、千田次郎左衛門、浅野右京亮、高桑六郎左衛門の四人は、富樫氏と同族の斎藤氏の出であり、斎藤氏の系列は加賀の国の各地に散らばって国人化していた。

 彼らの先祖が、この地に土着したのは二百年以上も前の事であり、その間に同族同士での争いも絶えず、弱い者は容赦なく滅び去って行った。そして、今も、それぞれが先祖代々の土地を失わないようにと必死になっていた。

「恐れていた事態が、とうとう来たのう」と山本若狭守が面々を見ながら言った。

「どっちかに決めなければならんのか」諸江丹後守が言った。

「どっちかに決めなければ、また、味方同士で戦う事になる」と疋田豊次郎が言った。

「わしは、守護についた方がいいと思うがの」と中原兵庫助は言った。「次郎殿は幸千代殿とは違い、幕府から正式に任命された守護じゃ。守護を敵に回す事は幕府を敵にするも同じじゃ。とても、そんな事はできん」

「かと言って、本願寺を敵にする事もできんぞ」と高桑六郎左衛門が言った。「この前の戦で、門徒にならなかった国人どもは本願寺にやられて土地を奪われておる。何しろ、兵力にしたら富樫と本願寺では比べものにならん」

「しかし、今回、本願寺の門徒たちが、どれ位集まるかが問題じゃ」と大場越中守が言った。「前回の戦の時は法敵である高田派を倒すために、上人様は戦の命を下した。しかし、今回の戦では上人様が動くとは思えん」

「門徒たちがやられておるのに、上人様は動かんと言うのか」千田次郎左衛門が聞いた

「多分、動かんのう」と諸江丹後守が言った。「越中守とわしは、そなたたちより古くから門徒となっておって、上人様の教えは、そなたたちよりは詳しいつもりじゃ。上人様の教えの中には戦というものはない。上人様は絶対に戦をする事を許さんのじゃ。まして、相手が守護では戦を命じる事など絶対にない」

「そうか、上人様は動かんのか‥‥‥」と豊次郎は言った。

「上人様が動かんのなら門徒たちも集まるまい。門徒たちが一つにならなかったら、守護の方が絶対に有利じゃ」と兵庫助が言った。

「それは、分からんぞ。上人様が命じなくても門徒たちが黙ってやられておるとは思えん」と右京亮が言った。

「上人様の教えに背いてまでも、守護と戦うと言うのか」と豊次郎は聞いた。

「生きるためじゃ。今回、守護は荘園の横領という名目を掲げて国人門徒を攻めておる。まず、最初に狙われたのが大桑庄を横領しておった高橋殿じゃ。国人門徒にしてみれば、誰でも狙われる可能性を持っておる。次の標的になる前に、手を組んで守護を倒そうとするかもしれん」

「それは言えるのう」と六郎左衛門は言った。「国人門徒だけでも、守護に対抗するだけの力は持っておるはずじゃ」

「そうなると、どっちが勝つか、まったく分からん事となるのう」と若狭守は言った。

「しばらく、様子を見るしかないのう」

「様子を見る? そんな悠長な事はしておれんぞ」と右京亮は言った。

「いや、様子を見るというのは両方に兵を送り、状況を見るという事じゃ」

「戦になったらどうする」

「負戦となった方が、何とか、その場をごまかして逃げて来るんじゃ」

「後になって、敵側に仲間がいたという事がばれたら、どうするつもりじゃ」と六郎左衛門が聞いた。

「その時はその時じゃ。勝手に抜駆けしたと言って、ごまかすしかあるまい。子供に家督を譲ってでも家だけは守らなくてはならん」

「うむ、それしかないようじゃのう」

 話し合いの末、諸江丹後守と大場越中守と浅野右京亮の三人が本願寺方に行き、中原兵庫助と疋田豊次郎と千田次郎左衛門の三人が守護方に行き、山本若狭守と高桑六郎左衛門の二人は倉月庄に残り、守りを固めるという事となった。

 次の日、それぞれ百人の兵を引き連れて戦場へと向かって行った。







 川から湯気が立ち昇っていた。

 岩陰に隠れた所に露天風呂があり、娘が五人、湯に浸かっていた。まだ、嫁入り前のあどけない顔をした娘たちだった。娘たちはキャーキャー言いながら楽しそうに温泉に入っていた。

 のどかな風景だったが、その川を少し下って行くと同じ場所とは思えない風景が展開していた。そこには武装した兵がうようよいて、大声を上げながら忙しそうに作業をしていた。

 浅野川の上流にある湯涌谷だった。

 兵たちは濠を掘り、土塁を築いて柵を巡らし、守りを固めていた。本願寺の門徒たち、約三千人が武装して、下流の木目谷を占拠している敵の動きを見守っていた。

 湯涌谷の大将は石黒孫左衛門といい、木目谷の高橋新左衛門とは従兄弟(いとこ)同士だった。その二人が兵たちの指揮を執り、兵たちは皆、意気込んでいた。

 慶覚坊は松田次郎左衛門を連れて湯涌谷に来て、勇ましい兵たちの動きを見て安心した。この谷にいる門徒のほとんどは山や川で仕事をしているため、力もあり、山伏のように素早く敏捷だった。この狭い谷の中を、武士たちが攻め込んで来ても勝てるはずはないと確信した。

 慶覚坊は新左衛門と孫左衛門と会い、今後の作戦を検討し、木目谷の下流にある田上の本陣の準備が出来次第、機先を制して、一気に敵を挟み討ちにしようと決めた。

 松田次郎左衛門が、その作戦を知らせるため石黒孫左衛門の部下を一人連れて山を下りて行った。日取りが決まり次第、その部下が山に登って来る事になっていた。

 この湯涌谷を本拠にする国人たちを湯涌谷衆と呼び、石黒孫左衛門がその代表となっているが、孫左衛門がこの谷すべてを支配していたわけではなかった。狭い谷の中に、多くの国人たちがひしめき合い、互いに争いを繰り返していた。

 そんな状況だったこの谷に、蓮如の叔父、如乗(にょじょう)によって本願寺の教えが入って来た事により、この谷の様相も変わって行った。ここでも門徒化は下層階級から始まって国人たちを巻き込んで行った。そして、石黒氏は国人たちの中で真っ先に門徒となり、如乗のために道場を開いた。その道場には湯涌谷中の門徒たちが集まり、他の国人たちも黙って見ているわけにも行かず、次々と門徒となって行った。有力国人たちが皆、門徒になる事によって国人たちは一つにまとまった。

 そして、如乗が亡くなった後、湯涌谷の道場に来たのが下間蓮崇だった。蓮崇はこの谷で八年間、教えを広めた後、蓮如のもとへと行った。蓮崇が蓮如の執事となった事により、蓮崇の門徒である湯涌谷衆の株も上がった。

 加賀と越中の国境近くの山奥の谷が、蓮崇によって脚光を浴びる事となった。狭い山奥で、世間とはほとんど関係なく、ひっそりと暮らして来た湯涌谷衆にとって、急に世界が開けたようなものだった。そして、前回の戦では、門徒たちと力を合わせて、守護の富樫幸千代を倒した。今、思い出しても、それは夢の中の話のようだった。先祖代々、狭い谷の中で暮らし、戦と言えば隣同士で行なう喧嘩のようなものだった。何万もの兵が動くという大きな戦など、噂に聞く位で、実際、自分たちとは無縁なものだと思っていた。ところが実際に、数万もの兵の動く大戦に自ら参加し、しかも勝利したのだった。

 湯涌谷の国人たちは、いつまでも、こんな谷に引っ込んでいる事はない。そろそろ、わしらも広い平野に出る頃だ、と自覚し始めていた。守護の富樫を倒し、谷から出て行くのも夢ではないと考えていた。

 慶覚坊は蓮崇の豪華な屋敷で休んでいた。

 凄い屋敷だった。まるで、殿様の屋敷といえる程だった。こんな山の中に、こんな豪勢な屋敷を建てるとは蓮崇も変わった奴だ、と慶覚坊は思っていた。蓮崇がこの屋敷で暮らすのは、一年の内でほんの数日に過ぎないだろう。その屋敷内で、普段、使われているのは、今、湯涌谷道場を任されている義弟の下間信永(しもつましんえい)家族が暮らしている一画だけだった。その他の部屋は、主人がいなくても下人たちが毎日、掃除をして、埃一つなく綺麗になっていた。

 慶覚坊は、そんな屋敷の客間で、のんびり、くつろいでいた。

 蓮崇は、この豪勢な屋敷で湯涌谷の国人たちを集めて、殿様のように振る舞っていたのだろうか、と慶覚坊は思った。

 この谷の者たちから見れば、法主(ほっす)である蓮如の側近くに勤めている蓮崇は、殿様に違いなかった。詳しくは知らないが、蓮崇は如乗に連れられて本泉寺に来るまでは、越前本覚寺で下人だったという。子供の頃、貧しかった反動から、こんな屋敷をこの山中に建てたのかも知れなかった。

 慶覚坊が、そんな事を思っている時だった。突然、外が騒がしくなった。

 一体、何事じゃ、と外に出てみると、兵たちが慌てて逃げ惑っていた。

 慶覚坊が一人を捕まえて事情を聞くと、敵が攻めて来た、と言う。

 信じられなかった。

 充分、見張りは立ててある。敵が動けば、すぐに分かるはずだった。一体、何事が起こったのか、と慶覚坊は薙刀を抱えて本陣に向かった。

 本陣には石黒孫左衛門も高橋新左衛門もいなかった。兵の指図をしていた湯涌次郎左衛門に事情を聞くと、敵が横から攻めて来た、と言う。

「横? 山の方から攻めて来たのか」と慶覚坊は聞いた。

「そうです。木目谷にいる敵は(おとり)だったんじゃ。正面から攻めて来ると思わせておいて、横から攻めて来やがったわ」

「山の中には、まだ、雪があるぞ。雪の中を通って来たとなれば、それ程、大勢ではあるまい」

「いや、二千人はおるだろうとの事じゃ」

「なに、二千人‥‥‥信じられん」

「山之内衆じゃ」

「なに、山之内衆か‥‥‥そうか、奴らならやりかねん。そうか、山之内衆か。すっかり、奴らの事を忘れておったわ。奴らはまだ門徒じゃなかったんじゃのう。失敗したわ」

 とにかく、この谷は何としてでも守らなけりゃならん、と慶覚坊は前線に向かった。

 山之内衆二千の兵は、湯涌谷の南にある高尾山から湯涌谷に攻め下りて来た。最初に、敵の軍隊を見つけたのは露天風呂に入っていた娘たちだった。雪を被った高尾山を眺めながら、のんきに湯に浸かっていた娘たちは身の危険など、まったく感じていなかった。

 彼女たちは、敵が攻めて来るかもしれないので危ないからと指定された避難場所から抜け出して、のんきに温泉に浸かっていた。

 娘たちは、川向こうから突然、武装した兵が続々と出て来るのを目にした。驚いた娘たちは腰が抜けたかのように動く事ができなかった。ただ、見つかったら殺されるという事は彼女たちにも分かった。娘たちは固まって、岩陰にじっと身を隠していた。幸いに敵に発見されなかったが、味方に早く知らせなければならない、と考える者は一人もいなかった。やがて、下流の方で合戦が始まり、人々の悲鳴が聞こえて来た。

 娘たちは恐ろしくなって、着物を抱えると裸のまま避難場所へと逃げて行った。

 完敗だった。

 湯涌谷の下流にある木目谷の敵に対して防御を固めていたため、山之内衆の攻めて来た南方はまったくの無防備だった。敵が攻めて来た事を知った時、すでに手遅れとなっており、陣を立て直す事もできず、逃げるだけが精一杯だった。もしもの事を考え、年寄り、女、子供らは避難させてあった。まず、彼らを無事に逃がし、皆、越中の国へと落ちのびて行った。

 慶覚坊も薙刀を振り回して、敵を倒して行ったが、ばらばらになってしまった味方を立て直す事は不可能だった。仕方なく、慶覚坊も越中へと逃げて行った。

 山之内衆が湯涌谷で暴れている時、ようやく、木目谷と山川(やまごう)城にいた敵も動き出した。

 これを見ていた田上の本陣も動き出した。決戦の予定は明日の早朝だった。今朝、その知らせを持たせて山に登らせた。予定は明日だったが、敵が動いたのなら動かないわけにはいかない。きっと、上の連中も敵の動きを見て、攻め下りて来るだろう。挟み討ちに合って敵は全滅するだろう、そう思いながら、田上に集まった門徒たちは浅野川を攻め登って行った。

 田上の本陣には四千人近くの門徒が集まっていた。

 その中心となって指揮を執っていたのは善福寺順慶(じゅんきょう)とその兄である浄徳寺慶恵(きょうえ)だった。二人とも慶覚坊を真似て、武士の格好に甲冑を着けていた。そして、田上五郎兵衛、高坂四郎左衛門、辰巳右衛門佐、松田次郎左衛門が兵を引き連れて布陣し、高橋新左衛門の配下となっている若松庄と大桑庄の荘官二人も加わっていた。新たに加わった者としては、倶利伽羅(くりから)の国人、越智伯耆守(おちほうきのかみ)、倉月庄の浅野、諸江、大場の三人、手取川流域の国人、安吉源左衛門と笠間兵衛(ひょうえ)が代理の者に兵を付けて派遣し、能美(のみ)郡板津の国人、蛭川(ひるかわ)新七郎と同じく能美郡山上の国人、中川三郎右衛門も代理を送って来た。吉崎からは和田長光坊が来ていた。蓮崇はまだ来ていなかった。

 勝利を確信して攻め登って行った国人門徒たちの夢はあっけ無く、崩れ去った。

 狭い谷間に入った途端、前を行く敵が一斉に向きを変えて、攻め下りて来た。攻め登る門徒たちは上から味方が攻め下りて来たので、敵は逃げて来るものと勘違いした。

 敵が逃げて来るぞ、今だ、攻め登れ!

 逃げて来る敵を倒すのはわけ無いが、攻め下りて来る敵を倒すのは難しい。しかも、山川城にいた敵が側面からも攻め、更に、知らないうちに、後方からも敵勢が攻め登って来ていた。後方から来たのは野々市に待機していた兵だった。

 挟み討ちにするはずが、逆に、自分たちが挟み討ちにされ、全滅だった。

 四千人の門徒の内、一千人近くが敵に斬られたり、川に落ちて溺れたりして死んで行った。何とか、その場から逃げる事ができた者たちも、執拗な残党狩りにあって殺された者も多かった。

 倉月庄の三人の内、大場越中守が戦死し、連れて行った兵の半数以上が倉月庄に戻る事は無かった。その他、武将では山上庄の中川三郎右衛門の代理として来ていた和気六郎左衛門、手取川の笠間兵衛の代理として来ていた鹿島九郎左衛門、大桑庄の荘官、大桑讃岐守(さぬきのかみ)も戦死していた。

 善福寺順慶、浄徳寺慶恵、和田長光坊、高坂四郎左衛門の四人は、敵の向こう側にいるはずの湯涌谷衆と合流しようと敵の中を突破した。ところが、敵の後ろに湯涌谷衆はいなかった。彼らは湯涌谷の連中が、すでにやられている事を知らない。とんでもない負け戦になったのは、湯涌谷衆が攻め下りて来ないからだと腹を立てながら湯涌谷へと登って行った。

 彼ら四人は、それぞれ逃げ道を失い、必死になって敵中を突破して敵の後に出た。そして、同じ考えを持って敵中を突破して来た連中と会い、一時は戻って、後から敵を討とうとも考えたが、どう考えても勝ち目はない。とりあえずは湯涌谷衆と合流して、やり直そうと考え、手持ちの兵をまとめ湯涌谷へと向かった。総勢百人足らずだった。敵は後から追っては来なかった。

 湯涌谷に近づき、様子がおかしいと気づいたのは高坂四郎左衛門だった。

 旗が違うと四郎左衛門は言って、一行の足を止めた。今回の戦では『南無阿弥陀仏』の旗は掲げず、それぞれが代々伝わる旗印を使っていた。善福寺も浄徳寺も長光坊も、湯涌谷衆の旗印など知らなかった。

「今回の戦のために、新しく旗を作ったのだろう」と長光坊は言った。

「そうじゃよ。あんな所に敵がおるわけがない」と善福寺も言った。

「いや。あの旗は山之内衆じゃ」と四郎左衛門は言った。

「なに、山之内衆?」

 皆の顔に一瞬、恐怖が走った。

 皆、山之内衆の存在を忘れていた。確かに、山之内衆は次郎派だった。しかし、誰もが、今回、山之内衆が動くとは思ってもいなかった。

 山之内衆とは手取川の上流を本拠地とする国人らの連合だった。山の中を本拠地としているため、普通の武士たちとは違って、山の中を自由に走り回り、少人数での奇襲攻撃を得意とする武装集団だった。湯涌谷衆と性格的に似ている集団だったが、規模が全然違った。山之内衆は少なくとも湯涌谷衆の三倍以上の兵力を抱えていた。

「確かに山之内衆じゃ」と浄徳寺が言った。「蓮台寺城を攻める時、わしらの陣の隣に山之内衆の陣があったので覚えておるが、あれは確かに山之内衆の旗印じゃ」

 山之内衆は攻めては来なかった。味方だと思っているのかもしれない。しかし、このまま進む事はできなかった。

「どうする」と善福寺が言った。

「ここは敵から丸見えじゃ。逃げたら攻めて来るかもしれん」と浄徳寺は言った。

「攻めて来たら攻めて来たまでじゃ。この人数ではとても戦えまい」と長光坊が言うと皆、頷き、山の中に入って行った。幸いに山之内衆は攻めては来なかった。

 一行はそのまま山の中を進み、四郎左衛門の砂子坂道場に行き、湯涌谷衆がどうなったのか情報を集めた。







 うぐいすが鳴き、桃の花が咲いていた。

 吉崎御坊の書院の広間から、蓮如は庭園を眺めていた。

 吉崎の地に来て四回目の春だった。

 ようやく、長い冬も終わったな、と蓮如は思った。

 蓮如も年には勝てなかった。自分では健康なつもりでも、北陸の厳しい冬はこたえていた。寒さに耐え切れず、体のあちこちに痛みを感じるようになっていた。幸い、今年の冬は風眼坊が適切な処置を取ってくれたため、例年程の辛さはなかったが、やはり、春が来るのが待ち遠しかった。

 石川郡浅野川流域での戦の事は、蓮如の耳にも入っていた。

 蓮如は詳しい事情を聴くために蓮崇を呼んだ。蓮崇が書院に入って来ると蓮如は広間の方から声を掛けた。蓮崇は廊下を回って蓮如の側まで来ると座り、(かしこ)まった。

 蓮如は庭園の方を向いたまま縁側に腰を下ろすと、「一体、どうしたというのじゃ」と蓮崇に聞いた。「どうして、戦なんかが始まったんじゃ」

「はい」と蓮崇は言ったが、なかなか答えなかった。

「詳しく、申してみい」

「はい。実は、守護の富樫次郎殿が無理難題を押し付けて来て、いきなり、門徒たちを攻めて来たのです」

「無理難題とは何じゃ」

本所(ほんじょ)に年貢を送れという事です」

「本所に年貢を送るのは当然の事じゃろ。無理難題ではない。それを守らん門徒たちの方が悪い」

「門徒たちも、決して年貢を払わないわけではありません。富樫家の家督争いも終わり、ようやく平和が訪れて、門徒たちも今年からはちゃんと年貢を払うつもりでおりました。ところが、次郎殿は去年の分を払えと言って来たのです。さもないと荘園横領のかどで成敗すると‥‥‥」

「去年の分が払ってないのなら、払えばよいではないか」

「払いたくても払うべきものがありません。去年の収穫の時、丁度、戦の最中でした。その時の収穫のほとんどは兵糧米となりました。余った兵糧米も、戦の後、家を無くしたり、行く当てもない門徒たちのための炊き出しに使ってしまいました」

「すべてか」

「すべてとは言えません。国人たちの中には、どさくさに紛れて溜め込んでおる者たちもおるでしょう。しかし、今回の戦で、そんな余裕を持っておった者はほんのわずかです。皆、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って戦っておりました。石川郡に関しては去年の末、守護のために多額の米を払っております。野々市の守護所の蔵が空っぽだったため、何だかんだと理由を付けて門徒たちから米を集めました。門徒たちも次郎殿の事を共に戦った仲間だと思えばこそ、米を送ったのです。その恩も忘れ、急に手の平を返したように、門徒たちをいじめにかかったのです」

「信じられん」

「信じられなくても事実です。木目谷の高橋新左衛門殿は国人と言っても、浅野川の運送に携わる者たちの頭領といえる者です。事実、荘園の横領などしてはおりません。ただ、浅野川流域にある大桑庄と若松庄の荘官が身を守るために本願寺の門徒となり、この間の戦の時、高橋殿と共に出陣したというだけの事です。大桑庄にしろ、若松庄にしろ、去年までは戦続きで、不当な銭を守護に絞り取られ、また、年貢を運ぶにしろ、輸送する手だてもなく、送る事はできませんでしたが、今年からは必ず送るつもりでおったのです。それなのに、守護の次郎殿は不意を襲って、抵抗もできない門徒たちを殺して、高橋殿たちを追いやったのです」

「なぜじゃ。なぜ、守護はそんなむごい事をするんじゃ」

「本願寺の存在が恐ろしいからです。次郎殿は前回の戦で、本願寺門徒によって弟の幸千代殿がやられるのを()の当りにしました。次に狙われるのは自分だという脅迫観念があるのです。そこで、勝手な名目を掲げて高橋殿を攻め、門徒たちへの見せしめにしたのです。門徒たちにすれば、この加賀の国に戦がなくなってくれれば、それでいいのです。無理な事さえ言わなければ、門徒たちは決して守護に逆らうような事は致しません。ちゃんと、上人様の教えを守って、守護に従い、毎日を一生懸命に暮らし、念仏を唱えた事でしょう。しかし、守護のやり方は余りにも汚なすぎます。門徒たちが守護に刃向かえない事をいい事に女子供までも殺したのです」

「それは、本当なのか」

「本当です。今回の戦で亡くなった門徒たちは百人近くおりますが皆、武器を手にしておりません。いつものように仕事をしている所を襲われ、殺されたのです」

「ひどいのう‥‥‥」

「ひど過ぎます」

 蓮如はしばらく、黙っていた。

 蓮崇は蓮如の背中を眺めながら、蓮如の痛い程の苦しみを感じていた。

「それで、今はどんな状況なんじゃ」と蓮如は弱々しい声で聞いた。

「高橋殿たち、木目谷の衆は湯涌谷に逃げ込んで守りを固めております。敵は木目谷を占領して湯涌谷を睨んでおります」

「戦になるのは時間の問題というわけか」と蓮如は振り向いて、蓮崇の顔を見つめた。

 蓮崇は頷いた。

「今、慶覚坊殿を現地に向かわせ、守護に刃向かってはならん、と伝えさせました。しかし、すでに身内の者を無くした門徒たちもおります。何も悪い事などしておらんのに殺されたのです。門徒たちも、このまま黙っておるとは思えません」

「なぜじゃ。なぜ、こう争い事ばかり起こるのじゃ。わしは争いをさせるために門徒たちを増やしたのではない‥‥‥もう、どうしたらいいのか、わしには分からん」

「上人様、何とかして門徒たちを助けなければなりません」

「分かっておる。分かっておるが、どうする事もできん‥‥‥」

頼善(らいぜん)殿が近江から戻って来次第、わたしは現場に行って参ります」

「いや、今すぐに行ってくれ。そして、何とかうまい具合にまとめてくれ。そなたは次郎殿とも面識があるはずじゃ。何とか話し合いで解決するように努力してみてくれんか。戦はもう懲り懲りじゃ」

「畏まりました。早速、明日の早朝、現場に向かいます」

 蓮如は頷いた。

 その苦しそうな顔を、蓮崇はまともに見られなかった。

 蓮崇は蓮如を残して書院を後にした。

 自分の多屋に戻って来た蓮崇を待っていたのは不幸な知らせだった。

 蓮崇は、野々市から急いでやって来た物見の者から、本願寺門徒が守護勢に完敗したという、信じられない事実を聞いた。

 物見の報告によると、田上に集まった門徒五千人余りが浅野川の谷間にて挟み討ちに会い全滅したと言う。慶覚坊は湯涌谷に行ったままで、湯涌谷衆がどうなったのかは分からない。すぐに、新しい情報が届く手筈になっていると物見の者は言った。

 蓮崇は現場に行く事を延期する事にした。状況が分からないまま現地に行っても、対処の仕方が分からない。慶覚坊が無事なら必ず、戻って来るはずだ。それまで待ってみようと思った。

 それにしても、五千人もの門徒が全滅したとは信じられない事だった。しかし、敵は戦の専門家である武士である。ただ、兵の頭数だけを頼んで勝てる相手ではなかった。敵も戦を仕掛けて来たからには、それなりに周到な作戦を練っての事に違いなかった。蓮崇としても、野々市に見張りを置き、敵の動きを探ってはいたが見抜く事はできなかった。多分、蓮崇が思うに、敵の作戦を担当しているのは守護代の槻橋(つきはし)近江守に違いなかった。越前の一乗谷にて近江守とは何度か会った事があった。奴なら富樫家のために、本願寺門徒の弱体化を計るために、どんな手段でも取りかねなかった。

 蓮崇は物見の者に、引き続き野々市を見張るよう命じて下がらせると、しばらく、一人で考え事をしていたが、やがて、立ち上がるとフラッと外に出て行った。





大桑善福寺跡



倉月庄疋田




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