酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







桜咲く







 満開の桜の花の下、吉崎御坊は門徒たちで賑わっていた。

 石川郡で守護と門徒が戦をして千五百人近くもの戦死者が出た事など、まるで嘘だったかのような浮かれようだった。

 のんきに花見をしている門徒たちを横目で見ながら、慶覚坊と湯涌次郎左衛門は御山に向かって急いだ。蓮如に会う前に蓮崇に会わなければならなかった。

 二人はまず、風眼坊舜香の家に寄った。風眼坊の家は総門の外にあるので、ちょっとした密会をするのに都合がよかった。

 去年の戦の後、門徒たちが前以上に一つにまとまったのはよかったが、吉崎御坊内において勢力争いが始まっていた。蓮如に一番信頼されている蓮崇に対して、蓮如がこの地に来る以前より南加賀において勢力を持っていた超勝寺の一派が対立していた。去年の戦で超勝寺の弟、定善坊が英雄的な戦死をしたため、超勝寺の一派は門徒たちの人気を集め、隙あらば蓮崇を失脚させようとたくらんでいた。

 蓮崇派である慶覚坊は当然、超勝寺派から睨まれていた。慶覚坊が蓮如に会う前に、蓮崇の多屋にでも行けば、超勝寺派の者たちの反発を買う事になるかも知れなかった。今は、本願寺内で派閥争いなどしている時ではなかった。慶覚坊は風眼坊の家で蓮崇と会うつもりでいた。

 風眼坊の家には三人の年寄りが体の具合を診て貰いに来ていた。慶覚坊は風眼坊に合図をすると縁側の裏の方に回って待った。風眼坊はお雪に診察を代わって貰うと慶覚坊のいる方に向かった。

「無事じゃったか」と風眼坊は慶覚坊と湯涌次郎左衛門の二人を見比べながら言った。

「ああ。それにしても、この吉崎の浮かれようは何じゃ。戦の事を知らんのか」

「いや、噂は聞いておる。聞いておるが門徒たちには関係ないと思っておるんじゃ。侍同士の戦じゃと、みんな、思っておる」

「そうか‥‥‥そうじゃったのう‥‥‥で、上人様の御様子はどうじゃ」

「苦しんでおるのう。どんな形にせよ、戦となれば犠牲になるのは名もない門徒たちじゃからのう」

「そうか‥‥‥蓮崇殿はおるかのう」

「おぬしの帰りを首を長くして待っておるわ」

「そうか、風眼坊、頼みがあるんじゃ。蓮崇殿を呼んで来てくれんか。上人様に会う前に、今後の事を相談したいからのう」

「ああ、分かった。それで、ここに呼ぶのか」

「ここなら会った事を気づかれまい。門の中に入るとうるさい奴らがおるからのう。余計な事を勘ぐられたくない」

「分かった。まあ、上がって待っていてくれ」

 風眼坊が蓮崇を連れて来た。

 年寄りたちは帰し、お雪もどこかに消えた。

 風眼坊と蓮崇は慶覚坊から詳しい事情を聴いた。

 負け戦の知らせの後、何人かが、その後の状況を知らせて来たが、湯涌谷衆の事はまったく分からなかった。慶覚坊の話によって、ようやく、すべての状況が理解できた。

「山之内衆か‥‥‥」と蓮崇は唸った。

 蓮崇も山之内衆が守護側に参加していたとは夢にも思っていなかった。

「山之内衆がおるとなると敵の方が圧倒的に有利だったわけか‥‥‥」

「その山之内衆というのは何者なんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「手取川の上流を本拠地とする国人たちじゃ」と慶覚坊は言った。「元々は白山(はくさん)の僧兵たちの集団じゃったが、本宮(ほんぐう)中宮(ちゅうぐう)が争いを繰り返しておるうちに勢力を持って国人化して行ったんじゃ。五千人以上の兵力を抱えておるといわれ、山の中で暮らしておるため山伏のようにすばしっこい。山中で戦をしたら山之内衆にかなう者はおるまい」

「ほう、そんな集団がおったのか」

「この先、何としても、奴らを門徒にしない事には守護を倒す事は難しいかもしれん」

「白山の膝元じゃ、難しいのう」

「山之内衆の事はおいといて、蓮崇殿、わしらは上人様に仲裁を頼みに来たんじゃが、どんなもんじゃろ」

「仲裁か‥‥‥」

「今、越中に五千人もの門徒たちが逃げて行っておるんじゃ。上人様に仲裁して貰って加賀に帰したいんじゃ。湯涌谷に山之内衆が陣を敷いておって帰る事ができん。山之内衆がそういつまでも陣を敷いておるとは思えんが、わしらの方が先に()上がってしまう」

「上人様の仲裁で、守護は兵を引くかのう」と蓮崇は言った。

「国人門徒たちに荘園を本所に返す事を誓わせる」

「しかし、守護側の本当の目的はその事ではないからのう。初めから無理難題を押し付けて門徒を攻めて来たんじゃ。そう簡単に兵を引くとも思えん。今の状態でおれば、守護とすれば本願寺の兵力削減に成功した事になるからのう。せっかく、加賀から追い出した門徒をまた戻すような事はするまい」

「しかし、荘園を返せば守護側も門徒らを攻める理由がなくなります」と湯涌次郎左衛門は言った。

「おそらく、国内にある荘園すべての年貢、去年、納めなかった年貢のすべてを本願寺の手によって本所のもとへ納めろと言い出すじゃろう」

「そんな無茶な‥‥‥」

「元々、守護にとって、荘園をどうのこうのというのは表向きの名目に過ぎん。本当の所は本願寺の兵力を削減する事じゃ。現に善福寺殿、浄徳寺殿、石黒殿、高橋殿といった本願寺の武将が越中に逃げておる。彼らを戻すような事はするまい」

「と言う事は、わしらは加賀には戻れないのですか」

「一応、上人様には仲裁を頼んでみよう。ただ、上人様の力でもどうにもならんとは思う」

「やはり、実力で奪い返すしかないのか」と慶覚坊は言った。

「山之内衆を寝返らせるしかないのう」

「それまでに、五千もの門徒たちは干上がってしまう」

「いや、その事は、越中の門徒たちに上人様よりお願いしてもらう。わしは医王山(いおうぜん)を使えないかと思っておるんじゃが、どうじゃろう」

「医王山海蔵寺か‥‥‥」

「医王山は浅野川の輸送が止まってしまったので困っておるはずです」と次郎左衛門は言った。

「医王山は前回の戦の時、どんな動きだったんじゃ」と蓮崇が次郎左衛門に聞いた。

「前回の時は動きません。もう、かなり以前になりますけど、医王山は富樫家の相続争いに巻き込まれて加賀側の所領のほとんどを奪われ、痛い目に会っております。それ以来、加賀に背を向け、越中の石黒氏と手を結んでおるようです。応仁の乱の時は西軍として動きましたが、加賀にはあまり首を突っ込まなかったようです。わしらが門徒になるに当たっても医王山は別に文句を言うわけではありませんでした。礼銭さえ、ちゃんと納めれば、門徒になろうと全然、気にしませんでした。如乗上人様が本泉寺を医王山の山麓に建てた当時、本願寺は叡山(えいざん)末寺(まつじ)になっておりましたから、本願寺というのは天台宗の中の一派の念仏門だろうとしか思っておらなかったのでしょう。お陰で、医王山の回りは門徒だらけになりました。今頃になって、初めて、本願寺というものの恐ろしさに気づいたという所でしょうか。わしが思うには医王山も、そのうち、山そっくり本願寺の門徒となるような気がします」

「医王山の衆徒というのはどれ位おるんじゃ」と慶覚坊は聞いた。

「減って来ております。それでも、まだ、山の裾野に末寺が散らばっておりますから、多く見て五千という所でしょうか。すでに、加賀でも越中でも末寺の幾つかは本願寺に転宗しております」

「五千か‥‥‥その五千が本願寺側に付いたら反撃できん事はないのう」

「まあ、作戦の方は後で練るとして、まずは上人様に会いましょう。上人様の仲裁に、守護側がどう答えるか、その答え方によっては、こっちの動きも変わるかもしれません」

「わしは、何か手伝う事はないかのう」と風眼坊が口を挟んだ。

「風眼坊殿、実はあるのです」と蓮崇は言った。

「越中と吉崎を結ぶ連絡か」と慶覚坊は言った。

「いえ、それは、わたしの方から誰かを送ります。風眼坊殿にしてもらいたいのは医者として負傷者の手当です」

「そうか、そうじゃったのう。一体、どれ位の負傷者が出たんじゃ」

「重傷の者たちのほとんどは亡くなってしまったらしいんじゃが、まだ、百人以上の者が、ろくな治療もできず、善福寺に収容されておるそうです」

「百人以上か、そいつは大変な事じゃ」

「風眼坊殿、お願いします」

「分かった。さっそく準備に掛かるわ。百人もの負傷者がおるとすれば、充分な薬も用意せんとな」

 蓮崇がまず、御山に戻った。

 しばらくしてから慶覚坊と湯涌次郎左衛門は御山に向かった。

 二人と入れ違いにお雪が帰って来た。風眼坊はお雪にわけを話して旅の支度を始めた。

 桜の花弁が風に舞っていた。







 湯涌次郎左衛門の願い通り、蓮如によって、門徒たちが加賀に戻れるように守護に頼んでみたが、その願いは聞き入れられなかった。

 あっさりと、守護のやる事に本願寺が口出しするべき事ではない、と言い、今回、加賀から追い出したのは、荘園を横領した不届きな国人共であって、本願寺とは関係ない。飽くまでも追い出されたのが門徒だと言い張るのなら、本願寺こそ荘園を横領している張本人と見なして、守護としては退治しなければならなくなる。本願寺とは前回、共に戦った仲である。今更、仲たがいをしたくはない。口を挟まないで貰いたい、と白々しくも言い切っていた。

 そうまで言われては、上人様とはいえ、どうする事もできなかった。

 三月の二十二日、風眼坊は潮津(うしおつ)の道場から、去年の戦の時、共に負傷者の治療に当たった、元、時宗の者たち数人を呼び寄せ、お雪を連れて船に乗り、海路、犀川(さいがわ)河口の湊、宮腰(みやのこし)へと向かった。宮腰からは、そのまま犀川をさかのぼって、大桑の善福寺に向かって行った。

 吉崎の二十五日の恒例の講が終わると蓮崇は軽海(かるみ)の守護所に、守護代の山川三河守に会いに行った。牽制(けんせい)のためであった。北加賀のように不意を襲われないように、江沼郡、能美郡内にある荘園の横領は一切しないという、国人門徒による起請文(きしょうもん)を持って行ったのだった。

 軽海の守護所には、まだ、去年の戦の跡が生々しく残っていた。

 軽海郷は軽海潟と呼ばれる湖に囲まれ、古くは加賀の国府の置かれた地であり、また、軽海潟を囲むように白山中宮八院と呼ばれる大寺院が建ち並び、白山中宮への入り口として古くから栄えていた。

 富樫氏が守護職に就いて以来、国の中心は野々市に移されたが、軽海郷は南加賀の中心地として、依然、栄えていた。守護所の回りに武家屋敷が建ち並び、商人や職人たちも町を作って住み、城下町といえるたたずまいだった。ただ、守護所はまだ、城といえる程の防備を持ってはいなかった。

 守護所は政務を行なう場所であり、中には守護代の住む屋敷もあったが、簡単な土塁と濠に囲まれているだけだった。応仁の乱以前は、国人たちがどんなに力を持ったとしても、守護所に攻め込んで来るという事は考えられなかった。幕府の権威というものが、それをさせなかった。しかし、応仁の乱になり、幕府が二つに分かれて争うようになると、幕府の権威も失われて行き、守護だからといって安心していられる時代ではなくなった。

 応仁の乱の時、次郎政親が加賀に入部し、幸千代に攻められ、簡単に敗れて山之内庄に逃げて行ったのは、守護所が大軍に攻められた場合に持ちこたえるだけの機能を持っていなかったからだった。次郎を追い出した幸千代はその事を知っていたため、守護所に入るのをやめて、新たに山の上に蓮台寺城を築いた。守護所には狩野伊賀入道が入り、守りを固めるために広い濠を掘り、高い土塁を築いた。それでも、本願寺門徒の大軍の攻めに会って持ちこたえる事はできなかった。

 蓮崇は馬上から、何本もの矢が刺さったままの土塁を眺めながら、空濠に沿って守護所の門へと向かった。あちこち崩れかけている土塁とは対象的に、土塁の中では桜の花が満開だった。

 蓮崇は庭園に面した会所(かいしょ)に案内され、三河守が現れるのを待っていた。腕自慢の二人の若い者を伴って来てはいたが、胸の中は心細さと恐ろしさで一杯だった。もし、ここで襲われでもしたら逃げる事は難しかった。

 若い頃、本泉寺の如乗のもとで修行をし、如乗からは読み書きを初め、色々な事を教わったが、武術だけは教わらなかった。如乗が棒術の名人で、蓮崇にも教えてやると言ったのに、自分は武術などやる(がら)ではないと、いつも断っていた。どうせ、稽古なんかしたって強くなれるわけはないと自分で決めていた。そのくせ、武士には憧れていて、如乗が持っていた兵書を読み漁った。まさか、蓮崇も本願寺が戦などするとは思っていなかったが、なぜか、自分が大将になったつもりで戦の作戦を立てたりするのが好きだった。単なる道楽として、兵書を読み漁っていたのだったが、それが、今、こうして役に立っている。あの時、少しでも武術を習っていたら、もっと役に立っていただろうにと後悔していた。

 廊下の(きし)む音と共に、供を一人連れた三河守が現れた。

「結構な頂き物を頂戴したそうで、かたじけない事ですな」と言いながら部屋に入って来ると、三河守は正面に座った。

 決まり切った挨拶の後、本題に入ると、三河守は始終、機嫌のいい顔をして蓮崇の話を聞いていた。蓮崇の話が終わると、分かりましたと国人門徒たちの起請文を受け取った。

「蓮崇殿、言って置きますが、わしのやり方は北加賀とは違います。わしとしては、これから先、本願寺とはうまくやって行こうと思っております。わしも、この地に来て、色々と本願寺の事を学びました。上人様の書かれたという御文とやらも拝見いたしました。上人様というお人は大したお人じゃと、わしも感服している次第です。本願寺の教えには、戦というものはない。前回、戦に踏み切ったのは、幕府からの奉書のためだという事も充分に分かっております。わしは、お互いにいがみ合いをするよりも、お互いに相手の事をよく知り、相手を理解すれば、何も、血を見る事はないと思っております。わしは、この軽海の地に生まれ、四歳までここにおりました。太平の世じゃったら、わしは、ずっと守護代として、この地におった事でしょう。わしは二度も、京と加賀を行ったり来たりしております。守護が替わるたびに、守護代も替わるというわけで、わしは四歳の時、京に行き、十八まで京におりました。十八の時、また、守護が替わり、今度は親父が守護代となり、また、家族と共にこの地に戻って来ました。わしは三十三の時、親父の跡を継いで守護代となりました。そして、三十五の時、また、守護が替わり、わしは守護代を解任され、また、京に移りました。そして、十年経って、今、ようやく、この地に戻ったというわけです。どうして、加賀の守護が、こう何度も入れ替わるのか御存じですかな」

「さあ、そういう難しい事は、わたしにはよく分かりませんが」

「元を正せば、富樫家の家督争いなんですが、その家督争いに、幕府の上層部の勢力争いが絡んでおるのです。応仁の乱の頃は、細川氏と山名氏、その前は、細川氏と畠山氏、それらの勢力争いが、この加賀の地において行なわれておるのです。加賀の地には、幕府の奉公衆の領地がかなりあります。幕府内で勢力を広げるためには、将軍様の直臣(じきしん)である奉公衆の支持を得なければなりません。そのために、自派の者を加賀の守護職に就け、奉公衆の領地を管理させて、年貢を確実に京に送らせねばならなかったのです。お屋形様(次郎)も、ようやく、手に入れた守護職を、幕府の思惑で、いつ替えられるか分かったものではありません。今、国内において、争いなどしている暇はないのです。この国を一つにまとめる事が、まず、先決なのです。このまま、戦など続けて行けば、必ず、幕府は介入して来ます。細川氏に対抗する勢力が現れ、もし、本願寺に付けば、もう、我々の意志ではどうにもならなくなります。わしらも本願寺も、幕府に躍らされる結果となるのです。わしは何とかして、この国を一つにまとめたい。蓮崇殿、そなたも、どうか、わしに協力して下され」

「山川殿が、そういうお気持ちでしたら、本願寺としても喜んで協力いたします。ただ、守護側の皆が、山川殿のようなお考えを持っておるとは納得致しかねます」

「分かっておる。そなたは北加賀の守護代、槻橋近江守の事を言っておるのじゃろう。近江守は、まだ、この国の事を分かっておらんのじゃ。奴はずっと京にいて、お屋形様の側に仕えておったんじゃ。四年前、お屋形様と一緒に加賀に進攻して来るまで、ずっと京におった。この国の事など全然、知らん。ただ、お屋形様のためじゃ、と言って、本願寺を倒す事を主張しておるんじゃ。年寄衆の本折(もとおり)越前守が近江守の後押しするもんじゃから、他の者たちは何も言えん。ああいう結果となってしまったんじゃ」

「山川殿から、本願寺は守護に敵対はしないと、よく説明して下さい」

「わしが言っても無駄なんじゃ。すでに、野々市において、本願寺を倒せ、という雰囲気が充満しておる。わしが、本願寺と手を結ぶなどと言ったら、わしまで闇討ちにされそうな雰囲気じゃ」

「そうなのですか‥‥‥ところで、山之内衆ですが、どうして、今回の戦に参加しておるのです。山之内衆は南加賀の管轄ではないのですか」

「わしも、山之内衆の動きには、まったく気づかなかったんじゃ。迂闊(うかつ)じゃった。前以て分かっておれば、何としてでも止めたんじゃがのう。山之内衆の頭領の河合藤左衛門の娘が、槻橋近江守の弟のもとに嫁に行っておるんじゃよ。その関係で、今回の戦に参加したんじゃと思うがのう。困ったもんじゃよ」

「山川殿の力で、越中に追いやられた門徒たちを戻して貰う事はできませんか」

「それは、できん。わしが北加賀の事に干渉すれば、今度は、南加賀の事に奴らは干渉して来る事になる。そうなったら南でも戦が始まる事になるぞ」

「山川殿でも、どうする事もできませんか‥‥‥」

「しばらく、様子を見る事じゃな。近江守も、続けて、どこかを襲うという事もあるまい。ただ、門徒たちに守護の力というものを見せておきたかったのじゃろう。この後、門徒たちがおとなしくしておれば、近江守としても不意に攻めるような事はするまい」

「分かりました。門徒たちにおとなしくしておるように命じます」

 せっかく来たのだから、ゆっくりして行ってくれ、と山川三河守は蓮崇たちを自分の屋敷の方に連れて行った。守護所内のあちこちで修築の工事が行なわれていた。

「わしがここに戻って来た時、それはもうひどい有り様じゃった」と三河守は修築現場を見ながら言った。「もう二十年も前になるがのう。ここを大々的に建て直したんじゃ。今でもよく覚えておるが、立派な守護所じゃった。たとえ、将軍様がいらしたとしても充分に持て成しのできる位の建物じゃった。それが今はこの有り様じゃ。この前の戦の時、ここに五千もの兵が籠もったというんじゃから無理もないが、この有り様で、一冬、過ごしたのじゃからな。まったく、ひどいもんじゃったわ。これじゃあ、家族を呼ぶ事もできん」

 三河守は蓮崇に内々の話があると言い、二人の従者を隣の部屋に控えさせ、奥の間において簡単な食事を取りながら密談を交わした。

 三河守の話は蓮崇にとって驚くべき事だった。富樫家の家臣にならないか、と言うのだった。

「門徒のままでも構わん、武将として歓迎する。そなたが富樫家の家臣となれば、国人門徒たちも被官となるじゃろう。そうすれば、守護と本願寺が争わなくても済む。おかしいとは思わんか。どうして、守護と本願寺が争わなくてはならんのじゃ。守護というのは国をまとめるのが役目、本願寺は人々を法によって救うのが役目。それぞれ、目的は別のはずじゃ。守護側の武士の中に、本願寺の門徒がいても構わんのじゃないのかのう。例えば、わしは禅宗じゃが、わしの家臣の中には浄土宗もおれば天台宗、真言宗などもおる。しかし、お互いに宗派によって争う事などせん。どうして、本願寺だけが争い事をするんじゃ。わしには分からん」

「本願寺の門徒たちは下層階級の者たちが多いのです。彼らは今まで、支配する者にただ、服従しておっただけで、自分というものを持っておりませんでした。それが門徒になる事によって彼ら同士で手を結ぶ事になり、ようやく、今の世の中というものが見え始めたのです。はっきり言って、今の世の中は権力者中心の世の中です。彼らの存在はあまり重要視されておりません。権力者たちから見たら彼らは人間以下の存在でしょう。今までの彼らは、そんな自分たちをただ諦めの目で見ておりました。自分たちの力で世の中を変える事などできるはずはない。そう思って苦しい毎日を生きて来たのです。そんな彼らの中に、本願寺の教えは広まりました。念仏を唱えれば極楽浄土に行けるという教えは、苦しい毎日の中で一つの支えとなったのです。やがて、門徒同士は結ばれ、今まで、自分の住む村の事しか考えられなかった門徒たちは、隣村の事や遠く離れた村の事なども耳にしたりして視野を広げて行きました。そして、去年の戦です。門徒たちは自分たちのような者でも、力を合わせれば世の中を変える事ができると実感したのです」

「そして、今度は、わしらを倒すというわけか」

「いえ、まだ、そこまでは誰も考えてはおらんでしょう。ただ、門徒たちは太平の世を願っておるのです。富樫家がこの国をひとつにまとめ、戦のない世の中にしてくれれば、門徒たちは何も言わないでしょう。ただ、今回の石川郡で起こったような事が、度々、続けば、門徒たちも黙ってはおらんでしょう。上人様がどう止めようとしても、門徒たちは蜂起するかもしれません。門徒たちも生きております。生命(いのち)(おびや)かされる状況にまで追い込まれれば、上人様が何と言おうと戦わなければなりません」

「そなたが門徒の代表として守護所に入り、わしらと相談の上で、(まつりごと)をやって行く事はできんのか」

「難しいでしょう」

「どうしてじゃ」

「今の本願寺の組織は、教えを広めるための組織で、門徒たちを支配するための組織ではありません。各道場の上に寺院があり、その上に古くからの大寺院があり、その上に吉崎御坊があります。しかし、実際に門徒たちを握っているのは道場です。たとえ、大寺院とはいえ、教え以外の事を命じたとしても、道場主がその命令に従うとは考えられません。門徒たち全員に命令を下す事ができるのは、吉崎におられる上人様、ただお一人だけなのです。たとえ、わたしが上人様に認められて、ここに入ったとしても、ここで決められた事を門徒たちに命じて、それが守られるかどうか自信はありません」

「そなたの命には従わんと言うのか」

「多分‥‥‥」

「そうか‥‥‥しかし、そなたが富樫家の武将になると言う事は考えてみてくれ」

「はい‥‥‥」

 蓮崇は二人の従者を連れ、守護所を後にした。

 三河守の言った言葉が頭の中を巡っていた。

 武将‥‥‥

 その言葉には子供の頃から憧れていた。朝倉氏の猶子(ゆうし)となったのも、その憧れからだった。富樫家の武将になる。悪くない話だった。三河守は、門徒のままでいいから武将になってくれと言った。しかし、今の状況ではそれは難しい事だった。その事はしばらく保留にしておくしかあるまい、と蓮崇は思った。

 それよりも北加賀の事を何とかしなくてはならなかった。南加賀は山川三河守が守護代でいる限り、問題はないだろう。越中に追い出された門徒たちを何とかして加賀に戻す事はできないものか、と考えながら蓮崇は吉崎に向かっていた。







 桜の花も散り、若葉の季節となっても、北加賀の状況は変わらなかった。

 山之内衆は引き上げる事なく、湯涌谷に落ち着いていた。浅野川の運輸も山之内衆によって再開され、そのまま住み着いてしまうのではないか、と思われる程だった。

 浅野川の運輸に頼っている医王山にとって、物資さえ、ちゃんと運んでくれれば、それが木目谷衆だろうと、山之内衆だろうと文句はなかった。

 守護の権限により、湯涌谷の地は、今まで、山之内衆が富樫次郎のために尽くして来た恩賞として、湯涌谷衆を倒した(あかつき)には、山之内衆に与えるという取り決めができていた。その取り決めがあったので、山之内衆は、わざわざ雪の積もる山の中を通ってまで湯涌谷を攻めたのだった。

 山之内衆は初めから、この地に腰を落ち着けるため、今まで厄介者(やっかいもの)だった部屋住みの次男、三男らで隊を組み、攻め込んで来ていた。彼らは今まで、肩身の狭い思いをして来たため、守護から与えられた新しい領地を守る事に必死だった。

 木目谷の地は高尾(たこう)若狭守に与えられていた。野々市の守護所では、防備が完璧でないため、高尾若狭守の領地の高尾の山の上に、新しく次郎の城を建て、その裾野に屋敷を建てる事となっていた。すでに普請作業も始まり、高尾若狭守に代わりの地として木目谷が与えられていた。

 湯涌谷も木目谷も闕所(けっしょ)(没収された土地)として、守護の権限によって勝手に家臣に与えてしまい、越中に追い出された門徒たちが戻る事は不可能に近かった。

 善福寺順慶、浄徳寺慶恵、和田長光坊の三人が二俣の本泉寺に行き、勝如尼を口説いてみたが、越中の門徒を動かす事はできなかった。慶覚坊は医王山に登り、海蔵寺の衆徒たちに協力を頼んだが、加賀の事には干渉したくはないと断られた。また、手取川流域の国人、安吉源左衛門と笠間兵衛にも使いを出し、出陣を願ったが、門徒全員が動かない限り、勝ち目はないと言って、守りを固めるだけで動こうとはしなかった。

 四月になると、再起を図るために越中にて待機していた三千もの兵たちは武装を解き、頼れる者がいる者はそれらを頼り、いない者は何人かづつにまとまって手取川の安吉、笠間、河北潟の伊藤、江沼郡の熊坂など有力門徒を頼って散って行った。

 浄徳寺慶恵も、和田長光坊も、善福寺順慶も、慶覚坊も、ひとまず加賀に帰った。大桑の善福寺は戦場近くだったが、今回、表向きは戦に参加していなかったので無事だった。順慶は何食わぬ顔で善福寺に戻って行った。それでもまだ、越中には木目谷衆、湯湧谷衆ら二千人近くの兵と二千人余りの避難民が残り、井波瑞泉寺、松寺永福寺、土山坊(どやまぼう)の三ケ所に分散した。

 浅野川流域の国人門徒を国外に追放する事に成功した守護代の槻橋近江守が、次に狙っていたのは、やはり、手取川流域を押える安吉源左衛門と笠間兵衛の二人だったが、この二人を倒す事は容易な事ではなかった。

 二人の本拠とする地は、手取川の支流がいく筋も流れている広々とした平野だった。木目谷の時のような不意討ちなどできなかった。彼ら二人も当然、荘園の横領はしていた。攻めるのに大義名分はあった。しかし、攻めても絶対に勝てるという確信はなかった。すでに、彼らはあちこちに砦を築き、守りを固めていた。そこを攻めるとなると短期間でけりが着くとは言えない。長期戦になれば、土地感の明るい敵の方が圧倒的に有利だった。しかも、越中に追いやった者たちが戻って来て、後方から攻めて来るという可能性も充分にあった。山之内衆に前回のごとく、手取川流域の土地を(えさ)に誘ってもみたが、山の中ならともかく、平地での戦は得意ではないと断って来ていた。

 まともに攻めて勝てない事を知ると槻橋近江守は、何とかして寝返らせるか、最悪の時は、刺客(しかく)を使って首領である二人の暗殺まで考えた。とりあえずは、手取川の近くの松任(まっとう)城の城主、鏑木兵衛尉(かぶらぎひょうえのじょう)に探りを入れさせた。兵衛尉の伜、右衛門尉は守護の富樫次郎の姉婿だった。

 鏑木兵衛尉は応仁の乱が始まり、幸千代が西軍として加賀国内で勢力を強めていた頃、幸千代方になるという条件で、幸千代の姉を息子の嫁に貰った。しかし、本願寺と組んだ次郎が有利になる事によって、兵衛尉は次郎方に寝返った。幸千代の姉は次郎の姉でもあったため、長男である次郎が富樫家の家督を継ぐのが正当だという理由から、兵衛尉は寝返った。また、松任には本願寺の寺院、本誓寺があり、鏑木の家臣たちの中にも門徒となっている者が何人もいた。

 鏑木兵衛尉は守護代、槻橋に命ぜられるまま安吉源左衛門と笠間兵衛を訪ね、富樫家の被官にならないかと勧めてみたが効果はなかった。

 久し振りに彼らと会ったが、二人共、以前とはまったく変わっていた。以前は二人共、確かに武士だった。配下に河原者たちを大勢抱えているにしろ、彼らは武士に違いなかった。ところが、今回、二人共、烏帽子(えぼし)も被らず、見るからに河原者の親方という感じで、武士であるという事を忘れてしまったかのようだった。富樫家に仕えてくれと頼んでみても、すでに、本願寺の坊主として阿弥陀如来様に仕えている。今更、武士に戻って富樫家に奉公するつもりはないと、あっさりと断られた。ただし、わしらは守護に敵対するつもりはさらさらない、ともきっぱりと言った。

 守護に敵対しないと言った二人の言葉は、充分に信じられるものと見た鏑木兵衛尉は、その事を守護代槻橋に伝えたが、槻橋はそれだけでは満足しなかった。槻橋は内密に、安吉源左衛門と笠間兵衛の二人を事故のように見せかけて暗殺するように命じて来た。

 鏑木兵衛尉は断ったが、槻橋は、兵衛尉が断れば、伜の右衛門尉に命じると言って来た。右衛門尉はお屋形様の義理の兄上に当たるお人だ。お屋形様のためになる事なら断る事はあるまい、と兵衛尉を(おど)して来た。伜に、そんな汚い仕事をさせるわけには行かなかった。

 仕方なく、兵衛尉は引き受けた。それにしても槻橋のやり方は汚かった。前回の不意討ち、そして、今回の闇討ち。たとえ、お屋形様のためとはいえ卑劣なやり方だった。

 闇討ちを引き受けた兵衛尉は、松任城に帰ると何日かの間、部屋に籠もったまま考え事をしていたが、何を思ったのか、供も連れずに城を出ると本誓寺に向かった。

 兵衛尉は長い事、考え続け、本願寺の法主である蓮如に一度、会ってみようと決心をした。安吉にせよ、笠間にせよ、守護である富樫家の被官になるよりも、本願寺の坊主を選んだのは、なぜなのか。その事が兵衛尉には理解できなかった。

 蓮如という男の噂は聞いているが、まだ、この目で見た事はない。守護代の槻橋のやり方は、完全に本願寺を敵として見ている。槻橋のそのやり方は気に入らないが、この先、守護側でいるとなれば、敵の親玉を見ておく必要があった。どうしても一度は会わなければならないと決めた兵衛尉は、突然、訪ねて行っても会ってはくれないだろうと思い、本誓寺の住職、憲誓(けんせい)に紹介状を頼みに来たのだった。

 兵衛尉は憲誓に安吉や笠間から聞いた蓮如の話をし、それが本当なら自分も本願寺の門徒になりたいと言い、蓮如に会うための紹介状を頼んだ。憲誓は喜んで紹介状を書いてくれた。

 その日から三日後、吉崎御坊の書院の一室に、蓮如と対座する鏑木兵衛尉の姿があった。蓮如の話を聞いているうちに、兵衛尉はすっかり蓮如の(とりこ)になってしまっていた。蓮如の口から出る言葉は、すべて、蓮如自身の体の一部であるかのような重みがあった。しかし、その重みというのは人を威圧するような所はなく、聴いている者たちを優しく包み込むような大きな心を感じさせた。

 それは蓮如自身の魅力であった。これだけ本願寺が栄えたのは、蓮如による組織作りと、その組織を利用して配った『御文』であったが、何よりも、法主である蓮如という人格に惹かれ、蓮如に帰依(きえ)した他宗の坊主や武士たちが多かったためであった。

 鏑木兵衛尉は、蓮如に会ったその日のうちに蓮如に帰依し『徳善(とくぜん)』という法名を貰った。まったく、予想もしてない展開だった。後先の事も何も考えずに蓮如に帰依してしまった。自分が本願寺の門徒となった事により、富樫次郎の姉婿となっている息子を苦しい立場に追い込む結果となってしまったが仕方のない事だった。

 徳善となった鏑木兵衛尉は後悔はしていなかったが、これからどうしたらいいのか、改めて、考え直さなくてはならなかった。

 蓮如は、徳善が門徒になった事によって難しい立場に立たなければならない、という事を理解し、何か困った事があれば執事の蓮崇に相談してみるがいい、と言った。

 徳善も蓮崇の名は耳にした事があった。蓮如に最も信頼されている人物で、しかも、戦になれば軍師をも勤めると言われている男だった。せっかく、ここまで来たのだから、その男に会わない手はないと、さっそく、蓮崇の多屋に向かった。

 蓮崇の多屋には、越中から戻って来た慶覚坊と和田長光坊がいた。

 長光坊の兄は越前本覚寺(ほんがくじ)蓮光だった。本覚寺と超勝寺は共に越前にあり、去年の戦の前は共に協力して事に当たっていた。戦の時、超勝寺の定善坊が英雄的な死を遂げたため、超勝寺の兄弟は調子に乗って、蓮崇と対立するようになって行った。吉崎御坊の多屋衆は二つに分かれるという事になって行ったが、本覚寺は蓮如が吉崎に進出して以来、ずっと蓮崇派だった。

 超勝寺を後ろで操っているのは、二年前に蓮如によって超勝寺の住職の座を降ろされ、隠居させられた定地坊巧遵(じょうちぼうぎょうじゅん)だった。その事は蓮崇も気づいてはいても気に掛けないようにしていた。

 巧遵は一門の身でありながら蓮如の教えに背き、本堂に歴代住職の連座像を掲げ、上段の間にふんぞり返るように座って、門徒たちと共に酒を飲み交わしていたという。その場を蓮如に見られて言い訳もできず、すぐ、その場で、まだ九歳だった長男に住持職を譲り、隠居させられた。巧遵は、あの場に突然、蓮如が現れたのは、蓮崇が陰口を利いたせいだと思っているが、蓮崇にそんな覚えはまったくなかった。

 鏑木兵衛尉は蓮崇と慶覚坊と長光坊に歓迎された。

 蓮崇も慶覚坊も長光坊も、今回の戦の事には一切触れず、蓮如の事について色々な話をしてくれた。兵衛尉は三人に誘われるまま、共に酒を飲み交わし、(わずら)わしい事をすべて忘れて楽しい一時を過ごした。

 次の日、兵衛尉は蓮崇に、守護代の槻橋近江守が次に狙っているのは手取川だと告げ、吉崎を後にした。





軽海守護所跡



松任城跡




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