酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







再会







 雲一つない秋空が広がっていた。

 近江の国の野洲(やす)川沿いをのんびりと歩いている旅人の一行があった。

 風眼坊舜香、お雪、下間蓮崇、弥兵の四人だった。風眼坊と蓮崇は侍姿のままだったが、お雪は女の姿に戻っていた。

 加賀の国、軽海郷を出てから十三日が過ぎていた。

 一行は軽海から本泉寺に向かい、蓮崇は家族に別れを告げた。そして、湯涌谷に行き、そこで弥兵と別れるつもりでいたが、弥兵は、どうしても付いて行くと言い張った。蓮崇は、自分はすでに本願寺を破門になった身だから、一緒に来ても肩身の狭い思いをするだけだと言って説得した。弥兵は、それなら自分も破門になるから一緒に連れて行ってくれと言い張った。結局、蓮崇の方が負けて、弥兵は付いて来る事となった。

 その後、越中に入り、飛騨(岐阜県北部)、美濃(岐阜県中南部)を抜けて近江に入り、ようやく、飯道山の裾野までやって来た。二、三日は、ここで旅の疲れを取り、播磨に向かうつもりでいた。

 蓮崇は湯涌谷を下りてから、ずっと、沈んだ顔をして(うつむ)きながら歩いていた。風眼坊やお雪が冗談を言って笑わせようとしても、蓮崇はただ頷くだけで笑おうとはしなかった。旅の疲れもあるだろうが、この数日間で急に年を取ったかのように妙に老け込んでしまった。時が解決してくれるだろうと思い、風眼坊は蓮崇の事を気に掛けないようにしていた。

 一行は飯道山の裾野を回って飯道山の門前町へと入った。

 ここも昔のような活気はなかった。風眼坊が四天王として活躍していた頃は、毎日、信者たちが行き交って賑やかだったが、年が経つにつれて信者の数が減っているようだった。他の寺院と違って信者が減っても、武術修行者の数は年を追う事に増えているので、飯道山の財政が苦しくなるという事はないが、やはり、淋しいものがあった。

 風眼坊はお雪と蓮崇たちに、この山の事を説明しながら花養院へと向かった。

 蓮崇は風眼坊の説明を聞いているのかいないのか、時折、顔を上げて回りを見るが、暗い顔をしたままだった。

 風眼坊は花養院に行くのに、何となく気まずい思いがあった。お雪を何と言って、松恵尼に説明したらいいのだろうか迷っていた。蓮崇の娘という事にして、何とか、ごまかそうとも思ったが、松恵尼は勘が鋭い、(だま)し通せるとは思えなかった。成り行きに任せるしかないと覚悟を決めて、風眼坊は花養院の門をくぐった。

 相変わらず、子供たちが賑やかだった。

「もしかして、あの子たちは孤児?」とお雪は聞いた。

「そうじゃ」と風眼坊は答えた。

「ここの院主さんは松恵尼殿といってな。孤児たちを引き取って世話をしておるんじゃよ」

「風眼坊様」と金比羅坊の娘、おちいが寄って来た。

「しばらくじゃな」と風眼坊は言った。

「風眼坊様は本当は何者なんですか」とおちいは聞いた。

「はあ?」

「昔は行者(ぎょうじゃ)さんでした。この前はお医者様でした。そして、今度はお侍さん、一体、本当は何なんですか」

「本当は何なんじゃろうのう」と風眼坊は笑った。「最近、わしにも分からなくなってしまったわ」

「おかしいの」おちいはフフフと笑った。金比羅坊の娘とは思えないほど可愛い笑顔だった。

「親父殿から何か連絡あったか」と風眼坊は聞いた。

 おちいは笑いながら頷いた。「もう少ししたらお屋敷が完成するから播磨に来いって」

「ほう、お屋敷か‥‥‥凄いのう」

「お父さん、太郎坊様の年寄衆(としよりしゅう)っていう役に就いたんですって、年寄衆って偉いの?」

「年寄衆か、凄いのう。おちいちゃん、年寄衆っていうのは殿様の次に偉いんじゃよ」

「ほんと、凄い」

「おちいちゃんも播磨に行ったら、お姫様じゃのう」

「あたしがお姫様? やだあ、風眼坊様ったら」

「おちいちゃん、松恵尼殿はおるか」

「あっ、そうだ、忘れてたわ。楓様に女の子が生まれたのよ。それで、松恵尼様、播磨に行ったの」

「なに、楓殿の子供がのう。そいつはめでたい事じゃ。初めての子供か」

「いいえ。風眼坊様、御存じなかったの。上に男の子がいるわ。百太郎(ももたろう)さんていうの」

「ほう。男の子もおったのか、知らなかった‥‥‥松恵尼殿はいつ頃、帰って来るんじゃ」

「よく分からないけど、お祭りまでには帰って来るんじゃない」

「お祭り? そうか、もうすぐ祭りじゃのう。そう言えば、去年、ここに来たのも祭りの前じゃったな。あれからもう一年か‥‥‥」

「風眼坊様。仲恵尼(ちゅうけいに)様、御存じでしょう」とおちいが言った。

「仲恵尼? 誰じゃろ」

「仲恵尼様は風眼坊様の事、知ってるのよ。風眼坊様がお山で剣術を教えていた頃、ここにいたんですって」

「‥‥‥ああ、思い出したわ。懐かしいのう。その仲恵尼殿が今、ここにおるのか」

 おちいは頷いた。

 仲恵尼というのは、当時、まだ二十歳そこそこだった松恵尼を補佐していた尼僧だった。風眼坊も当時はまだ二十歳そこそこで、松恵尼に会うために花養院に忍び込んでは、仲恵尼に怒られていた。風眼坊にとって仲恵尼は鬼よりも恐い存在だった。

 風眼坊たちは客間に通され、仲恵尼と会った。もう五十歳を越えているはずなのに、相変わらず威勢のいい尼さんだった。

「風眼坊か、懐かしいのう。何しに、また舞い戻って来たんじゃ」

「何しにと言ってものう。やはり、ここは、わしにとって故郷みたいなもんじゃからのう」

「何を言っておる、お目当ては松恵尼だろうが。生憎、松恵尼は留守じゃ。当分、帰って来んじゃろう。残念じゃったな」

「仲恵尼殿には、かなわんのう。松恵尼殿が目当てで来たわけじゃないわい」

「ふん、分かるものか。松恵尼はいくつになっても綺麗じゃからのう。男どもが擦り寄って来るのも当然じゃがのう」

「仲恵尼殿はいつから、ここに?」

「今年の春からじゃ」

「今までどこに」

「伊勢の多気(たげ)じゃ」

「ほう、北畠の所におったんですか」

「そういう事じゃ。どうじゃ、わしがいなくなってから松恵尼とはうまく行ったか」

「何を言っておるんです。松恵尼殿は男なんか近づけません」

「そうかのう。あんな、うまそうな女子は滅多におらんのにのう。おぬしでも落ちなかったか。勿体ない事よのう」

「まったく、仲恵尼殿にはかなわんのう。松恵尼殿にも面と向かってそんな事言っておるんですか」

「ああ、言うとも。しかし、松恵尼は不思議な女子(おなご)じゃ。もう四十は過ぎておるはずなのに、どう見ても三十位にしか見えん。松恵尼と一緒におると、わしだけが年を取ってしまったような錯覚に落ちいるわ。わしが男じゃったら絶対にものにするがのう」

「手ごわいですぞ」

「分かっておるわい。ところで、そこにおる別嬪(べっぴん)は何者じゃ」

「ああ、そうだ、紹介します」

 風眼坊は、お雪、そして、蓮崇と弥兵を紹介した。

「風眼坊の妻です」とお雪は言ってしまった。

「なに、おぬしの嫁御か‥‥‥ほう、若い女子をたらし込みおったのう」

「別にたらし込んだわけではないがのう。成り行きというもんじゃ」

「ほう、成り行きね‥‥‥そう言えば、栄意坊の奴も若い女子を連れて戻って来おったわ。どいつもこいつも若い女子に手を出しおって」

「栄意坊が戻って来た?」

「ああ。お山で槍を教えておるわ」

「ほう、栄意坊の奴、今、お山におるのか。あいつに会うのも久し振りじゃのう」

 風眼坊はお雪を花養院に残し、蓮崇と弥兵を連れて飯道山に登った。







 山の中に、木剣の打ち合う音が響いていた。

 蓮崇と弥兵の二人は、不思議な所に来たというように辺りをキョロキョロ見回していた。風眼坊は二人に飯道山の事を説明しながら赤鳥居をくぐった。

 不動院に顔を出してみたが、高林坊はいなかった。

 道場の方に向かう途中で高林坊とばったり出会った。

「よう、どうした、また、武器の買い付けか」と高林坊は笑いながら言った。

「いや、あれはもう終わりじゃ。今日は栄意坊に会いに来たんじゃ。奴はいつ戻って来たんじゃ」

「おう。まだ来たばかりじゃ。二ケ月位前かのう、突然、フラッと現れてのう。わしはまだ、見てはおらんが女子と一緒じゃ。奴もようやく身を固める気になったようじゃのう」

「それで、奴は今、槍を教えておるのか」

「おお、そうじゃ」

 高林坊は風眼坊の後ろにいる蓮崇をじっと見ていた。

「‥‥‥勧知坊(かんちぼう)殿じゃないのか」と高林坊は蓮崇に聞いた。

「高林坊、その勧知坊というのは何者じゃ。ここに来る途中で会った山伏も、蓮崇殿を見て、勧知坊じゃないかと言っておったが」

「人違いか‥‥‥そうじゃろうのう。しかし、似ておる。そっくりじゃ」

「何者なんじゃ」

「もう二十年も前になるかのう。一年間だけじゃったが、奴はおぬしの代わりに剣術を教えておったんじゃ。かなりの腕じゃった。その頃、勧知坊殿とおぬしがやったら、どっちが強いかというのが、よく噂になったもんじゃった」

「ほう、そんな奴がおったのか、初耳じゃな。一年間で山を下りて、その後、どこに行ったんじゃ」

「わしもその頃、葛城(かつらぎ)山に戻っていたんで詳しい事は知らんのじゃが、六角氏の争い事に巻き込まれて戦死したらしい」

「何じゃ、死んじまったのか」

「ああ。しかし、よく似ておるわ」

「蓮崇殿も災難じゃのう、死んだ者に間違えられるとはのう」

「まあ、もし、生きておったとしても、もう六十に近いはずじゃ。いつまでも、あの頃と同じ顔をしておるわけないからのう。あの頃の勧知坊殿にそっくりなんじゃよ」

「ふうん。勧知坊ね‥‥‥そいつは髪を剃っておったのか」

「ああ。真言の行者じゃった」

 四人は槍術の道場に向かった。

 栄意坊の方は風眼坊を見て、すぐに分かったようだったが、風眼坊の方は栄意坊が分からなかった。栄意坊には(ひげ)がなかった。

「風眼坊!」と(わめ)きながら栄意坊は飛んで来た。「久し振りじゃのう。どこ行っておったんじゃ」

「おぬし、髭を剃るとなかなかいい男じゃのう。髭のないおぬしの顔、初めて見たぞ」

「わしが剃ったら、今度は、おぬしが口髭を伸ばしたのか」

「ああ。ちょっと町医者をやってたもんでな」

「町医者?」

「おう。気楽に町人暮らしを楽しんでおったのよ」

「ちょっと待ってろ」と栄意坊は道場に戻ると師範に一言、言って戻って来た。

 蓮崇は修行者たちをじっと見ていた。

「懐かしいのう。何年振りじゃ」

「さあな。おぬしと一緒に四国まで旅したのが最後じゃったのう。あれから色々な事があったわ」

「わしも色々とあったぞ」

 五人は不動院の方に向かった。

 槍術の道場の隣には剣術道場があった。蓮崇は剣術道場もじっと見ていた。

「高林坊、剣術道場に慶覚坊、いや、火乱坊の伜がおるはずなんじゃが知らんか」

「なに、火乱坊の伜? そんな事、聞いておらんぞ」

「やはりのう。洲崎(すのざき)十郎左衛門という名じゃ。なかなか、素質のある奴じゃ」

「ほう、火乱坊の伜がここにおるのか」と栄意坊は驚いた。「火乱坊の奴は今、何をしておるんじゃ」

「後で教えてやる。わしはついこの間まで奴と一緒じゃった。この蓮崇殿も一緒じゃ。奴と一緒に戦をしておったわ」

「ほう」

 不動院で一休みし、今夜、『とんぼ』で飲む約束をして、風眼坊と蓮崇と弥兵は山を下りた。

 山を下りる前、蓮崇は風眼坊にもう一度、道場を見たいと言い、風眼坊は喜んで蓮崇を道場に連れて行った。棒術道場を見て、剣術道場に来た時、十郎左衛門が二人に気づいた。十郎左衛門は稽古をやめて、師範に何かを言うと近づいて来た。

「風眼坊殿と蓮崇殿、お久し振りです。一体、どうしてここへ」

「ちょっとな、用があってな」と風眼坊は言った。

「そうですか‥‥‥風眼坊殿、ここは凄いです。本当に来て良かったと思います」

「そいつは良かった。親父の名前は出しておらんようじゃな」

「ええ、親父は親父です。俺は親父を乗り越えるつもりです」

「そうか、親父を乗り越えるか、頼もしい奴じゃ。後三ケ月じゃ、頑張れ」

「はい。もうすぐ、天狗太郎とも会えます。頑張ります」

「おお、そうか、十二月になれば太郎坊が来るんじゃのう」

「はい。志能便(しのび)の術を習います」

「志能便の術か‥‥‥」

「志能便の術とは何です」と蓮崇が聞いた。

「いつか、蓮崇殿に話したじゃろう。わしの弟子の太郎坊が編み出した『陰の術』の事じゃよ」

「ああ、陰の術ですか‥‥‥」

「ここで一年間の修行に耐えた者だけに、最後の一ケ月間、その志能便の術を教える事になっておるんじゃ」

「風眼坊殿、天狗太郎は風眼坊殿のお弟子さんなのですか」と十郎が驚いた顔して聞いた。

「おお、知らなかったのか。わしのたった一人の弟子じゃ」

「風眼坊殿が天狗太郎の師匠‥‥‥そいつは凄いや。その事を知っていたら、加賀におった頃、風眼坊殿からもっと教わればよかった」

「なに、加賀におった頃のわしは医者じゃよ。人を倒すのではなくて、人を助けるのが仕事じゃ」

「お二人は、しばらく、ここにおるのですか」

「そうじゃのう。長旅で疲れたから、二、三日はのんびりするつもりじゃ」

「そうですか、山を下りられないのが残念です」

「後三ケ月の我慢じゃ。頑張れよ」

 十郎と別れると、三人は槍術、薙刀術の道場を回り、飯道寺と飯道神社を参拝して山を下りた。

 山を下りる頃には日が暮れかかっていた。

 蓮崇は、ずっと何かを考えているようだったが、風眼坊はあえて声を掛けなかった。本願寺のために、若い者たちをここに送って鍛えようと思っているのだろうが、本願寺を破門になってしまった蓮崇には、もう、それはできない。蓮崇に本願寺の事を忘れさせるには時の流れに任せるより他はなかった。

 花養院に戻るとお雪を連れて、松恵尼の経営する旅籠屋『伊勢屋』に移った。

 伊勢屋から『とんぼ』はすぐ側だった。風呂に入って旅の疲れを取り、夕食を済ますと風眼坊と蓮崇は『とんぼ』に向かった。弥兵も誘ったが、わしが行っても話が分かりませんからと遠慮して旅籠屋に残った。







 旅籠屋『伊勢屋』の正面に『不動町』と呼ばれる盛り場があった。この一画には、小さな居酒屋が並んでいた。『とんぼ』という店は、この一画の中で一番古い店だった。小さな店のほとんどは、二、三年もすれば名前が変わって行ったが、『とんぼ』だけは変わらず、久し振りにここに来た山伏たちは必ず、『とんぼ』の親爺の所に顔を出していた。

 『とんぼ』には、まだ、誰もいなかった。

「不景気そうじゃのう」と風眼坊は親爺に声を掛けた。

「おお、風眼坊か‥‥‥一年振りか。今度は医者をやめて侍になったのか」

「浪人じゃ。仕官口はないかのう」

「おぬし程の腕があれば、どこでも仕官できるわ。その気があればの話じゃがな」

「残念ながら、その気がないんで困っておるわ‥‥‥どうじゃ、景気いいか」

「最近はさっぱりじゃ」

「お山の連中もあまり来んのか」

「来ない事もないが景気は悪いのう。お山に登る信者たちの数が減っておるからのう。遊女屋なんか、かなり、こたえておるようじゃ。最近になって遊女の数が減って来ておる。ただ飯を食わせておくわけにはいかんからのう」

「そうか。不景気か‥‥‥」

「戦場が儲かるといって、遊女たちを引き連れて戦場に行った者もおったが、どうなった事やら」

「戦場に女子を連れて行ったのか‥‥‥確かに儲かるかもしれんが、女子たちが可哀想じゃのう」

「ああ、可哀想じゃ」

「ついこの間も遊女の一人が首を吊ったわ。可哀想な事じゃ」

「首を吊ったか‥‥‥」

「首を吊るのもおれば、足を洗って飲屋を出すのもいる。世の中様々じゃ」

「ほう。遊女が店を出したか」

「お山のお偉いさんが後ろに付いておるんじゃろ」

「じゃろうのう」

「戦で大儲けした奴もおるんじゃ。人々を救うべきお山が、先頭になって戦の後押しをしておるんじゃから世も末じゃ。まあ、そんな事は今に始まったわけじゃないがのう。わしは、おぬしが医者をやっておると聞いて嬉しかったぞ。あれだけの腕を持ちながら戦に参加しないで、戦の負傷者の治療をしておるとはのう。さすがじゃのう」

「なに、成り行きじゃ‥‥‥そうじゃ、親爺、聞きたかった事があったんじゃ」

「何じゃ」

「去年の暮れ、太郎坊の奴は来たのか」

「おお、来たとも。弟子を一人連れて、現れたわ」

「弟子? どんな奴じゃ」

「八郎坊とかいったのう。とぼけた奴じゃった。あれで、志能便の術など教えられるのか、と思う程の調子者じゃったわ」

「そうか、八郎坊か‥‥‥」

「今年も、もうすぐじゃな。今、播磨の方におるとか言っておったが、太郎坊の奴、一回りも二回りも大きくなったようじゃった。貫禄が付いて来たわ」

「そうか、貫禄が付いて来たか‥‥‥これから、播磨に行ってみようと思っとるんじゃ。会うのが楽しみじゃわ」

「太郎坊も、そなたに会いたがっておったぞ」

「奴はここに来たのか」

「ああ。最後に恒例の飲み会があるじゃろ。その帰りにフラッと来て、寄って行ったわ」

「そうか、ここで飲んで行ったか‥‥‥やはり、親爺に聞けば何でも分かるのう。親爺は、ここの(ぬし)じゃのう」

 高林坊と栄意坊が揃って入って来た。

「ほう、四天王のうちの三人のお揃いか、珍しい事じゃのう。後の一人は全然、見んのう」

「後の一人の息子が今、お山におる」と風眼坊は言った。

「なに、火乱坊の息子がおるのか‥‥‥そろそろ世代交代の時期か‥‥‥みんな、年を取ったという事じゃのう」

 酒を飲みながら、四人は別れて以来のお互いの事を話し合った。話はいつになっても尽きなかった。

 蓮崇は興味深そうに三人の話を聞いていた。蓮崇にはまったく縁のない話だったが、黙って聞いていた。三人が羨ましかった。皆、一流の武芸者だった。ここの親爺が言う通り、武士になれば一角(ひとかど)の武将になる事は確かだった。しかし、彼らは自分の腕を売るという事はしなかった。

 慶覚坊(火乱坊)の話になった。蓮崇は本願寺の事を二人に説明した。蓮崇の話を聞いて、高林坊も栄意坊もようやく、火乱坊が何をしようとしているのか分かったようだった。

「火乱坊の奴、そんな事をしておったのか」と栄意坊は言った。

「羨ましい奴よ。奴は本願寺のために命を張っておる」と風眼坊は言った。

「そうか、命を張っておるか‥‥‥」と高林坊は言った。

 高林坊は四人の中で一番真面目な男だった。

 四天王と呼ばれていた頃、初めに山を下りたのは栄意坊だった。次に風眼坊と火乱坊が山を下りた。最後に残った高林坊は責任者として各道場をまとめなくてはならなかった。それでも、各道場にそれぞれ四天王に代わる後継者もでき、高林坊は風眼坊たちが山を下りた二年後には葛城山に帰った。他の三人は山を下りるとフラフラと旅に出たが、高林坊は旅には出ず、まっすぐに葛城山に帰った。葛城山に帰って嫁を貰った。

 高林坊は葛城山の先達(せんだつ)として信者たちの面倒を見ていた。やがて、子供も生まれ、高林坊は大先達となり、葛城山の修行者たちの面倒も見るようになった。そして、飯道山を去ってから十年後、飯道山に武術道場を作り、その中心となっていた親爺と呼ばれる山伏が訪ねて来た。親爺は高林坊に、自分の後継者となって飯道山の武術道場を盛んにしてくれと頼んだ。他の三人はどこにいるのやら、まったく、分からん。高林坊だけが頼りだと言われて頼まれた。

 高林坊は飯道山に戻る決心をして、家族を連れて飯道山にやって来た。それから、すでに八年が経っていた。そして、このまま、死ぬまでここにいるだろうと思っていた。決して、ここでの仕事が嫌なわけではないが、高林坊にしても、火乱坊や風眼坊、栄意坊のような気ままな事がしてみたかった。火乱坊の話を聞いて、羨ましいと思ったのは高林坊も同じだった。ここにいて、毎日、同じ事をしているより、火乱坊のように命を懸けて何かをしてみたかった。

 高林坊には三人の子供がいた。十六歳の娘と十四歳の息子と十一歳の息子だった。娘を嫁に出し、息子たちがもう少し大きくなったら、この山を下りようか、と最近、本気になって考えていた。別に何をするという当てもないが、ここを離れて何かがしたかった。蓮崇と風眼坊の話を聞きながら、火乱坊に会ってみたいと高林坊は思っていた。

「加賀か‥‥‥」と栄意坊が言った。

 栄意坊は風眼坊と同じように、今まで、ずっとフラフラしていた。何かをしたいのだが、何をしたらいいのか分からず、一ケ所に長くいる事もなく、フラフラしていた。

 二年前、百地(ももち)弥五郎の所を去って東国に旅立った。そして、三河の山の中で一人の女と出会った。山奥に小屋を建てて、女は一人で暮らしていた。

 栄意坊は不思議に思って、女に近づいた。女は警戒して小屋に逃げ、刀を手にした。栄意坊が何を言っても聞かなかった。女は自分の首に刀を当てた。栄意坊は女から離れた。女の住む小屋は小川のほとりに立っていた。栄意坊は小川を渡り、女の小屋の対岸に小屋を建てて、そこで暮らし始めた。

 山奥に二人だけでいるのに、お互いに何も喋らずに一ケ月が流れた。

 誰も、こんな山奥には入って来なかった。

 一ケ月が過ぎ、お互いに何も喋らなかったが、次第に、気持ちは通じ合うようになっていた。栄意坊は川で魚を取ると女の方に放り投げてやったりした。時には、女の方から木の実などをくれる事もあった。

 二ケ月が過ぎた。

 ある日、大雨が降って川の水は増え、栄意坊の小屋は流された。女の小屋は大丈夫だった。雨がやみ、川の水が引けると、栄意坊はまた、小屋を建てようとした。女がそれを見ながら栄意坊を手招きした。栄意坊は川を渡って、女の小屋の方に向かった。

 女はようやく、栄意坊を信用して自分の身の上を語った。

 女の名前はお(えん)といい、戦に負けて、家も土地も失い、亭主と子供を連れて山に逃げて来た。他にも家来たちが何人かいたが、途中ではぐれてしまい、お円と亭主と子供と家来の一人が、ここにたどり着いた。ここに小屋を建て、隠れて暮らしていたが、昨日のような大雨に会って小屋は流され、その時、子供も流されてしまった。

 子供を失い、お円は悲しみ、亭主は跡継ぎを無くしたと半狂乱になったという。跡継ぎを亡くしてしまったら、お家の再興はできない、わしは一人でも敵と戦うと亭主は山から出ようとした。一緒にいた家来は亭主に命じられ、偵察をしに山から出て行った。しかし、それきり戻っては来なかった。亭主は家来が裏切ったと思い込み、お円に八つ当りをした。子供はまた作ればいいと慰めたが駄目だった。亭主はとうとう、お円を置いて山から出て行った。亭主が山から出て行ってから、もう四年も経っているという。

 栄意坊は、まだ、亭主を待っているつもりか、と聞いた。

 お円は首を振った。

 二年目までは待っていたが、それから後は、もう諦めたと言う。山から出ようと思ったが、どうやって出たらいいのか分からないし、山から出ても頼る人はいない。ここに隠れていれば誰も来ないし、生きて行く事はできる。尼僧になったつもりで、子供と一族の菩提(ぼだい)(とむら)いながら、一生、ここで暮らそうと覚悟を決めていたという。

 その後、二人は一つの小屋で、一冬を過ごした。

 栄意坊もお円も幸せだった。誰にも邪魔されないで、二人とも子供に返ったように、二人だけの時を充分に楽しんだ。そして、春になり、二人は山を下りた。

 お円の亭主の消息は分からなかった。両親は亡くなっていた。

 栄意坊はお円を連れて飯道山に来た。高林坊に頼み、お円と暮らすために槍術の師範となった。二人は山のふもとの宿坊の立ち並ぶ一画に小さな家を借りて住んでいた。

 火乱坊の話から、女の話になり、栄意坊は事の成り行きをみんなに話した。

「ほう。今が一番、幸せな時じゃのう」と風眼坊は言った。

 栄意坊は照れながら頷いた。

「いつか、おぬしから死んだ女の事を聞いた事があったな。おぬしが女と暮らすのは、それ以来じゃな」

「ああ。そうじゃ。もう二十年も前の事じゃ。わしは、おれいが死んだ後、死ぬつもりじゃった。死ぬつもりで戦に出た‥‥‥しかし、死ねなかった‥‥‥」

「死ねなくてよかったわけじゃ。お円殿に会えたんじゃからな」

「まあ、そうじゃのう。しかし、お円はおれいにそっくりなんじゃよ。顔は似ておらんがのう。仕草とか、性格とか、そっくりなんじゃ」

「それで、おぬしはその女の側を離れなかったんじゃな」

「不思議な事に離れられなかったんじゃ」

「ほう、離れられなかったと来たか」と高林坊は笑った。

「実は、わしも若い女房ができたんじゃ」と風眼坊が今度は言った。

 風眼坊はお雪との出会いから話した。蓮崇も知らない事だった。皆、面白がって風眼坊の話を聞いていた。

 夜は更け、客たちは入れ代わっていたが、四人の話はいつまで経っても尽きなかった。一番最初から一番最後まで居座っていた。店の親爺は朝までやっていても構わんぞと言ってくれたが、親爺の言葉に甘えるわけにもいかないのでお開きにした。このまま、伊勢屋に行って飲もうと誘ったが、栄意坊は帰りたそうだったので無理に引き留めなかった。

 高林坊と栄意坊の二人は帰って行った。

 風眼坊と蓮崇は二人を見送る伊勢屋に向かった。

「みんな、いい奴じゃろう。わしらは若い頃、一緒に騒いだ仲間なんじゃ。三人が揃ったのは、もう五年以上前じゃったのう。慶覚坊の奴が来れば、二十年振りに四人揃うんじゃがのう。奴は当分、それどころではないのう」

「羨ましい事です」と蓮崇は言った。

「何を言っておる。わしは、そなたが羨ましかったわ。本願寺のために生きておる仲間が大勢、おるんじゃからな」

「もう、いません」

「いや、それは違う。そなたが破門になったからといって、たとえば、慶覚坊じゃが、奴はそなたが破門になっても、以前のごとく仲間じゃと思っておるはずじゃ。慶覚坊だけじゃないじゃろう。慶聞坊だって、蓮如殿だって、みんな、そなたの事を忘れる事はない」

「しかし、わしにはもう何もできません」

「そうかな。それは、そなた次第じゃ」

「どういう意味です」

「破門になったとしても、そなた次第で、本願寺のために生きる事はできる」

「それは、どういう意味です」

「それは自分で決めるしかない」

 伊勢屋に帰るとお雪はもう寝ていたが、弥兵は寝ずに待っていた。

「さて、ゆっくりと寝るか。蓮崇殿、たまには、昼頃まで、のんびり寝てみるのもいいもんじゃぞ」と風眼坊は言うと、お雪の寝ている部屋に入った。

 蓮崇は弥兵を連れて、隣の部屋に入った。

「もう、お前はわしの下男ではない。ただの連れじゃ。わざわざ、わしを待っておる事はない。先に寝ておってもいいんじゃぞ」

「へい」

「もう寝ろ」

「へい。蓮崇殿は、まだ寝ないのですか」

「わしも寝る」

 弥兵は横になった。

 蓮崇は座り込んだまま、風眼坊の言った事を考え込んでいた。

 風眼坊は、破門になっても本願寺のために何かがやれる、と言った。しかし、そんな事ができるとは思えなかった。

 蓮崇は夜が明けるまで、考え続けていたが結論は出なかった。







 風眼坊は昼近くまで、のんきに寝ていた。この地に来ると風眼坊はすっかり安心して高鼾(たかいびき)をかいて眠っていた。

 お雪は朝早くから起きて、弥兵を連れて町をブラブラと散歩し、花養院まで来て子供たちと遊んでいた。子供の中の一人が腹をこわしたというので、お雪は診てやった。

 それを見ていた妙恵尼と孝恵尼は、お雪の適切な処置に驚いた。まだ若い娘が、これ程までも医術を心得ているとは信じられない事だった。さっそく、お雪の事は仲恵尼に告げられ、お雪は仲恵尼に呼ばれた。

 お雪は仲恵尼に、風眼坊から教わったという事を話した。

 仲恵尼はお雪から、加賀の国で戦の負傷者を治療して回ったという事を聞き、何度も頷きながら、あの風眼坊がそんな事をしていたのか、と涙を溜めて喜んでいた。まるで、母親が息子の事を聞いているかのように、お雪の話を聞いていた。

「そうか、風眼坊がのう‥‥‥そうか、そうか」と仲恵尼は何度も言った。

 お雪は、そんな仲恵尼を見ながら風眼坊の昔話を聞いていた。

 お客が訪ねて来て、仲恵尼は部屋から出て行った。

 お雪は子供たちの所に戻った。しばらくして、お雪はまた呼ばれ、一人の僧侶と会わされた。その僧侶を風眼坊の所に連れて行ってくれと頼まれた。

 その僧侶は風眼坊の事をよく知っていた。伊勢屋に行く途中、僧侶はしきりに、「懐かしいのう」と言いながら町を眺めていた。

 お雪に向かって、「小太郎も若いのう」と一言、笑いながら言ったが、自分と風眼坊の関係は話してくれなかった。

 お雪が僧侶を連れて部屋に行くと、風眼坊はまだ寝ていた。

 起こそうとして、お雪が部屋に入って行こうとしたら僧侶は引き留めた。

 僧侶はそおっと部屋に入って行き、風眼坊の頭の下の枕を蹴飛ばした。

 風眼坊の動きは素早かった。

 枕が飛ぶのと同時に起き、側に置いておいた刀を手に取ると、刀身を半分程抜いて構えた。僧侶の方も持っていた杖を構えていた。

 お雪もとっさに帯に差してある笛をつかんでいた。

 緊張していた風眼坊の顔がだんだんと緩んで、「新九郎か」と言った。

 僧侶は頷いた。

「脅かすな」と言うと風眼坊は刀を納めた。

「若い女子を女房にして、腑抜けになってはおらんかと心配してやったんじゃ」

「余計なお世話じゃ。しかし、どうしたんじゃ、どうして、ここにおる」

「おぬしの方こそ、どうしてここにおるんじゃ。わしはおぬしが駿河に来るじゃろうと待っておったが、いつになっても来ん。まあ、こんな若い女子と一緒にいたら、それも無理ない事じゃがのう」

「まあ、焼くな。しかし、不思議な縁じゃのう。みんな、お山の力に引かれるように、ここに集まって来るのう。栄意坊も今、ここにおるんじゃ」

「なに、栄意坊もおるのか」

「ああ、夕べ、『とんぼ』で飲んだんじゃ。こいつは今晩も飲む事になりそうじゃのう。しかし、その頭、なかなか似合っておるのう。火乱坊の奴も今、そんな頭をしておる」

「なに! 火乱坊もおるのか」

「いや、火乱坊は加賀じゃ。ついこの間まで、わしらは加賀におったんじゃ」

 二人はさっそく話し込んでいた。

 お雪は側に座って、二人のやり取りを聞いていた。そのうちに蓮崇も現れ、話を聞いていた。

 蓮崇は一睡もしなかったと見えて、やつれた顔をしていた。

 話が一段落すると、風眼坊は早雲と蓮崇と共に山に登り、お雪と弥兵は花養院に行った。

 山の上では風眼坊が来ている事が噂になっていて、風眼坊は修行者の前で剣術を披露しなければならなかった。

 風眼坊と早雲は木剣を持って試合をした。腕は風眼坊の方が上だったが、早雲の腕も大したもので、今いる師範以上の腕を持っていた。

 修行者たちは目を見張って、二人の技の冴えを見ていた。

 蓮崇も二人の動きをじっと見ていた。

 蓮崇にとっても風眼坊の腕を見るのは初めてだった。実際にこの目で見て、驚かずにはいられなかった。越前の大橋勘解由左衛門(かげゆざえもん)の師匠だったと話では聞いていたが、凄いものだった。これだけの腕を持っていれば、戦に出ても向かう所、敵なしだろうと思った。慶覚坊が風眼坊を本願寺の門徒にしたかった訳も充分に納得できた。蓮崇は風眼坊の強さを見て、さらに自己嫌悪に陥って行った。

 その晩、早雲も加わって、また『とんぼ』で一緒に飲んだ。その晩の話題の中心は、やはり、早雲だった。頭を丸めて東国に旅立って以来、四年振りに飯道山に来たのだった。

 今回、早雲が戻って来たのは娘を嫁に出すためだった。

 早雲には十七歳になる娘が一人あった。早雲は十八年前、居候(いそうろう)していた伊勢駿河守貞高の薦めで、同じ伊勢一族の娘を嫁に貰っていた。子供は娘一人だけだった。妻と娘は京に戦が始まってから、妻の実家に預けたままだった。僧侶として駿河に行ったため、妻と娘を呼ぶ事はできなかった。また、呼んだとしても、知らない土地に来るような妻ではなかった。知らない土地に行くより、一族のもとにいれば何不自由なく暮らして行く事ができる。妻にとって、早雲など、いてもいなくてもいい存在だった。早雲の方でも妻の我がままを持て余していた。妻の所に戻る気はなかった。妻の所に戻れば、また、幕府に仕えなければならなくなるだろう。もう、幕府との縁は切りたかった。(わずら)わしい事など考えず、駿河で気楽に暮らしていた方が楽しかった。しかし、一人娘の事は気になっていた。その娘も、どうせ、一族の者の所に嫁いで、退屈な日々を送る事になるだろうが、早雲が口出しする事はできなかった。せめて、嫁に行く時位は祝ってやりたかった。

 知らせを受けると早雲は駿河を後にして京に向かった。無事、娘も嫁に行き、早雲は早々と京から離れた。

 早雲は今回、京に行くに当たって、是非、会いたい人がいた。

 それは一休禅師だった。駿河では早雲は一休禅師の弟子で通っていた。しかし、面識はあっても弟子ではなかった。早雲は正式に弟子にはなれないにしろ、もう一度、一休と会って教えを受けたかった。

 早雲は京を出ると、一休のいる(たきぎ)村(京都府田辺町)の酬恩庵(しゅうおんあん)に向かった。

 一休は早雲の事を覚えていてくれた。しかし、教えを請う事はできなかった。一休はお(しん)という盲目の女と一緒に暮らしていた。

 早雲は一瞬、目を疑った。一休ともあろう禅師が女犯(にょぼん)を犯していた。早雲も一休の風変わりな行ないは知っていた。しかし、それは、今の禅宗の在り方を批判するための行動だと思っていた。まさか、実際に、女と一緒に暮らしているとは思ってもいなかった。

 早雲は、一休とお森という女のやり取りを見ながら、見なければよかったと後悔した。

 早雲はほんの少しの間、一休と話をしただけで酬恩庵を後にした。

 一休を見損なった、と思った。

 昔はあんな人ではなかった、と思った。

 一休の禅こそ、本物だと信じていた。

 一休は、どうして、あんな風になってしまったのだろう。

 早雲は歩きながら考えていた。考えながら、本物の禅とは一体何なんだろう、と思った。

 女と一緒に暮らせば、禅者ではなくなるのだろうか。

 禅とは、そんなものではないはずだった。

 禅とは何か、という答えを見つけるため、早雲はもう一度、酬恩庵に戻る事にした。

 早雲は一休とお森の仲睦まじい生活を見守りながら、本物の禅とは何か、真剣に考えた。

 座禅をするだけが禅ではない。

 常住坐臥(じょうじゅうざが)、すべてに置いて禅の境地でいなければならないはずだ。

 禅は大寺院の中にいる坊主だけのものではない。人間本来の姿で生活し、その生活の中に生きていなければ無意味と言えた。

 一休は本物の禅をさらに進め、それを実践しているのかもしれない‥‥‥と早雲は考え直した。

 形式にこだわり過ぎていたのかもしれないと思った。世を捨て、禅の世界に生きようと、頭を剃って禅僧のなりをした。確かに禅僧の格好をしていれば、回りは早雲を禅僧と見てくれた。正式に出家したわけではなかったが、駿河では早雲禅師で通っていた。回りから偉い和尚さんだと言われ、得意になっていた。しかし、反面、偽者だとばれやしないかと心配した事もないわけではなかった。今回、一休を訪ねたのも、本当の所を言えば、一休の正式の弟子となって、できれば、一休から印可状を貰い、本物の禅僧になりたかったからだった。そんな思いで訪ねた一休の姿を見て、早雲は初め、失望した。しかし、そのうちに、一休に思いきり殴られたような衝撃を感じるようになって行った。

 早雲は自分がかつて一休と共に語った堕落した禅僧というものに、知らないうちに自分が近づいていたという事に気づいた。二人が語った堕落した禅僧というものは、ろくに修行もしないで、師匠からの印可状ばかり欲しがり、禅僧とは名ばかりで俗世間において出世する事ばかり考えている者たちの事だった。

 禅の世界は自力本願だった。自分の力で悟らなければならず、決して、人から教えられて分かるものではなかった。たとえ師匠であっても、助ける事はできるが教える事はできない。

 一休から見れば、印可状などというのは、単なる自己満足でしかない無用な物であった。禅僧とはいえ、心というものは脆い。自分が開いた悟りを誰かに認められたいと誰もが思う。そして、師匠から印可状を貰って、初めて悟った事を確信する。しかし、一度、悟れば、それで終わりというわけではない。人間、生きている以上、次々に悩みは生まれて来る。それを次々に乗り越える事によって、さらに大きな悟りの境地に達する。悩み、悟り、そして悩み、また悟る、生きている以上、その繰り返しだった。

 本物の禅には印可状など、ないはずだった。

 早雲はその印可状が欲しいために、ここを訪れ、一休の姿を見て、思いきり殴られたような衝撃を感じ、そんな事を考えていた自分を恥じた。一休は自分が考えていた以上に先を歩いていた。早雲は俗世間における形式にこだわっていた自分を恥じた。

 早雲も男だった。女を見ても何にも感じないような木偶(でく)の坊ではなかった。しかし、僧侶の振りをしているため、今まで色欲(しきよく)を抑えて来た。禅僧として、それが当然な事だと思っていた。禅僧としては当然かもしれないが、それは、本物の禅とは言えなかった。

 本物の禅とは、何事にも縛られない、融通無碍(ゆうづうむげ)の境地の事だと思った。欲望を抑えて女を避けているうちは融通無碍の境地とは言えない。何人もの女に囲まれながらも、心を奪われないような境地にならなければならないのだった。

 何事にも囚われず、まったくの自由な境地‥‥‥

 その境地まで行くのは、決して簡単な事ではない。しかし、本物の禅の境地とは、そのようなものに違いないと悟った。

 一休は八十歳を過ぎ、まさしく、その境地に達しようとしているのであった。すでに、融通無碍の境地の中で、お森という女と遊んでいるのかもしれない。

 早雲は一休だけでなく、お森という盲の女も観察していた。この女も一休と同じ境地にいるように思えた。目が見えないため、一休のように苦労しなくても、その境地にたどり着く事ができたのかもしれなかった。

 早雲は晴れ晴れした気持ちで酬恩庵を後にした。そして、久し振りに松恵尼に挨拶をして行こうと思い、飯道山に向かった。

「ほう。おぬし、一休禅師を知っておったのか」と風眼坊は驚いた。

 最近、やけに一休禅師と縁のある風眼坊だった。本人には会った事はないが、一休と縁のある人間に何人も会っていた。彼らは皆、一休を慕っていた。越前の絵師の曾我蛇足(そがじゃそく)、茶人の村田珠光(じゅこう)、彼らは一休の弟子で、蓮如も一休の事は気に掛けていた。そして、新九郎(早雲)までもが、一休の影響を受けていた。

 風眼坊も是非、一度、一休禅師と会ってみたいと思った。

 早雲は今回の旅の事を話すと、今度は駿河の事を話した。いい所じゃから、是非、来てくれと皆に薦めた。

 風眼坊は行くと答えた。しかし、その前に播磨に行くと言った。

「播磨に伜がおるんでな。ちょっと、顔を見て来る」

「ほう。おぬしの伜が播磨におるのか、播磨で何をしてるんじゃ」

「武士になったらしい。そういえば、おぬしも太郎の事、知っておるんじゃったのう」

「太郎?」

「ああ、そうじゃ。応仁の戦が始まった頃、おぬしが京まで連れて行った小僧じゃ」

「ああ、水軍の小伜か‥‥‥確か、奴は花養院にいた娘と一緒になって、愛洲の里に帰ったと松恵尼殿から聞いたぞ」

「ああ。一度は帰ったんじゃがの。しかし、不思議な事があるもんじゃのう。わしがあいつに会う前に、あいつがおぬしと会っておったとはのう」

「ああ、わしも驚いたわ。あの時の小僧がおぬしの弟子になって、このお山で修行をしておったと聞いた時はのう。しかも、陰の術など編み出して、知らん者がおらん程、有名になるとはのう。まったく信じられん事じゃった」

「その太郎の奴が、また、ここに戻って来て、一騒ぎあっての、今、播磨で赤松家の武将になっておるんじゃ。わしの伜は太郎の弟子になって播磨に行き、太郎の家臣だそうじゃ」

「赤松家の武将?」

「ああ、そうじゃ。まあ、詳しい事は後で話す。それより駿河の事をみんなに聞かせろ」

 その日の晩も、遅くまで『とんぼ』で飲んでいた。

 伊勢屋に帰ってからも風眼坊と早雲は話し続けていた。夜が明ける頃になって、ようやく二人は横になった。

 早雲は風眼坊たちと一緒に播磨に行く事になった。駿河に急いで帰る理由はなかった。早雲も太郎と再会したかった。播磨でのんびりして、どうせ、太郎は十一月の末には飯道山に来るはずだから、一緒にここに戻って来て、それから、今度は駿河に向かおうという事に決まった。





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