酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







再会その二







 夕べ降った雪が、五寸程、積もっていた。

 人の足跡など、まったくない奥駈け道を、朝日を浴びながら山伏姿の早雲が歩いていた。

 今日で七十二日目だった。

 蓮崇は、まだ歩き続けていた。

 髭は伸び、髪は伸び、腰の回りの余計な肉はすっかりなくなり、昔の蓮崇の面影はまったくなかった。目がギラギラと輝き、野生の獣を思わせるような張り詰めた雰囲気が回りに漂っていた。

 一番先を歩く早雲も変わって来ていた。

 初めの頃、一休禅師の幻と戦いながら俯き加減で歩いていた早雲も、今は晴れ晴れとした顔付きで、回りの景色を眺めながら余裕を持って歩いていた。

 本物の禅とは何か、という問題に囚われていた早雲だったが、その答えが出ていた。

 百日行も一歩一歩の積み重ね。

 毎日の暮らしも一瞬一瞬の積み重ね。

 一瞬一瞬をおろそかにしないで生きていければ、それでいいのではないか‥‥‥

 形はどうでもいい。坊主であってもいいし、坊主でなくてもいい。禅であってもいいし、念仏であってもいい。

 自然のように無理なく、あるがままでいればいい。

 女に関しても無理に抑える事なく、自然に任せて、抱きたくなったら抱けばいい。ただ、その女に心を囚われる事があってはならない。女だけでなく、地位とか、銭とか、物とか、どんな物や事にも心を囚われてはならない。

 一瞬一瞬、何事にも囚われないで、常に自由自在の境地でいられればいい。

 早雲は一瞬、一瞬、一歩、一歩を楽しみながら自然の中を歩いていた。

 阿星山から金勝山に向かう途中だった。

 早雲は妙な物を目にして立ち止まった。

 岩の上に天狗が座っていた。

 幻でも見ているのだろうか、と早雲は目をこすった。

 天狗の姿は消えた。消えたと思ったら、今度は違う岩の上に現れた。

 どちらの岩も簡単に登れるような岩ではないし、一瞬のうちに移動など、できるはずがなかった。朝っぱらから狐か狸に化かされているのだろうか、と早雲はまた目をこすった。

 天狗はまた消え、また別の岩に移動した。

 一体、どうした事だ。

 すっかり迷いが晴れて、いい気持ちでいたのに、今頃になって幻を見るとは‥‥‥

 早雲はその場に座り込んで、天狗を睨みつけた。

 天狗は何も言わず、早雲を見ては、あちこちの岩に移動していた。

 蓮崇がやって来て、道に座り込んでいる早雲を見た。

 早雲は首で天狗の方を示した。

 蓮崇も天狗を見た。

 一瞬のうちに違う岩の上に移動する天狗を見て、蓮崇も自分の目を疑った。

 風眼坊がやって来て、早雲と蓮崇を見、二人が見ている天狗に目をやった。

「小太郎、いつから、あんな物が出るようになったんじゃ」と早雲は風眼坊に聞いた。

 風眼坊は天狗を見ながら笑っていた。

「何が、可笑(おか)しい」

「太郎じゃ」と風眼坊は言った。

「太郎?」

「ああ。おぬしも知っておろう。愛洲の太郎じゃ」

「なに、あいつか‥‥‥あんな凄い事ができるのか」

「なに、簡単な事じゃ。天狗が二人おるんじゃ。もう一人はわしの伜じゃ」

 風眼坊は天狗に向かって、「久し振りじゃのう。太郎と光一郎、出て来い」と言った。

 岩の上に二人の天狗が現れた。天狗は面を外した。

「お久し振りです。師匠」

「お久し振りです。父上」

 太郎と光一郎は岩から降りると奥駈け道にやって来た。

 風眼坊は蓮崇を先に行かせた。

 話す事はお互いに、いくらでもあった。

 太郎と光一郎は金勝山まで一緒に歩くと別れた。

 その日は花養院に行って、松恵尼と会い、楓と子供たちの事を話し、その後、望月三郎と久し振りに会って、夜になってから飯道山に登り、風眼坊たちのいる吉祥院に顔を出した。

 吉祥院の一室で、太郎と光一郎は風眼坊と早雲に会った。蓮崇は吉祥院の中の修徳坊で、修行中の山伏と共に読経をしていた。

 修徳坊は以前、太郎が世話になっていた宿坊だった。

「ここに来るのも久し振りです」と太郎は言った。

「久し振り? 毎年、年末にはここに来るんじゃろう」

「いえ。最初の一年間はここにおりましたが、その後、ここには泊まっておりません」

「どこの世話になっておるんじゃ」

「山の中から通ってるんです。いい所があるんです。後で、師匠にも教えます」

「ほう、山の中に岩屋でもあるのか」

「凄い岩屋ですよ」と光一郎が言った。「父上も見たらびっくりするでしょう」

「そいつは楽しみじゃのう」

「百日行はいつ終わりますか」と太郎は聞いた。

「十二月の十九日が満願じゃ」

「十九日ですか。それが終わったら播磨に来てくれませんか。今、新しい城下町を作っておるんです。まだ、完成はしてませんが、いい所ですよ」

「そのつもりじゃ。新九郎と一緒に行くつもりじゃったんじゃ」

「そうですか。それはよかった。楓も会いたがっております」

「子供が二人もおるそうじゃのう」

「はい。男の子と女の子です」

「太郎よ」と早雲が言った。「しかし、立派になったもんじゃのう」

「あの時は随分とお世話になりました」と太郎は笑いながら頭を下げた。「でも、京に着いた途端にいなくなっちゃって、あれから大変だったんですよ。右も左も分からないし、京という所は恐ろしい所でした」

「あの時の相棒はどうした」

「あの時、別れたきり会っておりません。堺に行くと言って別れました。わたしは一人、逃げるようにして故郷に帰って来ました。そして、山の中で剣術の稽古をしている時、師匠と出会ったのです。今のわたしがあるのも、お二人のお陰です。お二人に会わなければ、今頃、水軍の大将になっていたかも知れませんが、世の中の事など全然分からず、狭い世界の中で生きていた事でしょう」

「しかし、不思議な縁じゃな。京で別れて、こんな所で再会するとはのう」

「縁というのは本当に不思議です。会いたいと思っても、会えない時はどうしても会えないし、会える時は無理をしなくても自然に会う事ができます」

「大峯に来たんだってのう」と風眼坊が言った。

「はい。山の中を捜し回りました」

「奥駈けは歩いたか」

「熊野の本宮まで行って、また戻って来て、あちこち捜し回りました」

「丁度、入れ違いだったんじゃ」

「はい。仕方なく、諦めて、(しょう)(いわや)に籠もって、座り込んでから帰って来ました。

「笙の窟か‥‥‥確か、あの頃、あそこで千日行をしておる聖人がおらなかったか」

「おりました。丁度、満願の日に立ち会う事ができました」

「そうか、見事に千日行をやり遂げたか‥‥‥」

「はい。満願の日、妙空聖人殿は座ったまま成仏(じょうぶつ)なされました」

「なに、座ったまま亡くなったのか」

「はい。穏やかな顔をして成仏なさいました。聖人様は今、窟の側の土の中で眠っております」

「そうか、あの聖人様は成仏したのか‥‥‥」

 栄意坊がやって来た。

「よう、太郎坊、久し振りじゃのう」と大声で言いながら入って来たが、太郎には分からなかった。

「栄意坊じゃよ」と風眼坊が言った。

「栄意坊殿‥‥‥どうしたんです。髭がないから分かりませんでしたよ」

「はっはっは、人間、時が経てば変わるもんじゃ」

「女ができたんじゃ」と風眼坊は説明した。

 栄意坊は太郎の側に座り込むと、「何年振りじゃ。確か、百地(ももち)の弥五郎の所、以来じゃのう。いや、懐かしいのう」

 風眼坊は栄意坊に伜の光一郎を紹介した。

「ほう、おぬしにこんな立派な息子がおったとは驚きじゃのう。親父よりでっかいんではないか」

「ああ。わしよりも背が高いわ」

「ふーん。火乱坊の伜といい、おぬしの伜といい、伜がこんなに大きくなっちゃあ、わしらは年を取るわけじゃ」

「そうじゃな。年の経つのは早いもんじゃ」と早雲も言った。

「太郎、殿様になったそうじゃのう」と栄意坊は言った。

「殿様だなんて‥‥‥小さな城の主です」

「小さな城でも大したもんじゃ。大きな屋敷で暮らしておるんじゃろう」

「ええ、まあ」

「栄意坊殿も一度、播磨に来て下さい」

「お前も行くか」と風眼坊は栄意坊に言った。「わしら、百日行が終わったら、太郎と一緒に播磨に行くんじゃが、お前も行かんか」

「うむ、行きたいが無理じゃのう。わしはここに来たばかりじゃからな。正月の一番忙しい時期に抜けるわけにはいかんのじゃ」

「そうか、正月だったのう。来年の正月は太郎のもとで迎える事になりそうじゃの」

「はい。大歓迎です」

 百日行の最中なので、一緒に酒を飲むわけにもいかず、太郎と光一郎は栄意坊と共に山を下り、栄意坊が是非、うちに寄って行けと言うので、栄意坊のうちに行って、三人で昔話をしながら酒を飲んだ。

 栄意坊の妻は落ち着いた感じの小柄な美人だった。栄意坊が大男なので余計に小さく見えたが、仲のいい夫婦だった。

 太郎と光一郎は栄意坊と遅くまで酒を飲み、その晩は泊めて貰った。







 風眼坊が百日行をしている間、お雪は花養院の孤児院の子供の面倒を見ていた。

 蓮崇の連れの弥兵は、松恵尼の屋敷にいる義助(よしすけ)のもとに預け、義助と共に畑仕事や屋敷の留守番をしていた。

 松恵尼は九月十三日に、金勝座と一緒に播磨の太郎の所から飯道山に帰って来た。

 次の日から飯道山の祭りが始まり、門前町は賑やかだった。

 松恵尼は花養院に戻って来て、子供たちと遊んでいるお雪を見て、仲恵尼に、誰なのと聞いた。

 仲恵尼は、あの娘は風眼坊のおかみさんだ、と言った。風眼坊が今、お山で百日行をしているので預かっている。なかなか腕のいい医者で、子供たちの面倒もよく見てくれていると説明した。

「風眼坊殿のおかみさん?」と松恵尼は聞き返した。

「はい。ちょっと若過ぎる感じですけど、なかなか、いい娘ですよ。子供たちもすっかりなついています」

「そう‥‥‥」と言いながら、松恵尼は庫裏の縁側からお雪を見ていた。

 風眼坊は一体、どういうつもりなんだろう、と思った。熊野に奥さんがいるくせに、あんな若い娘を奥さんとして連れて来るなんて。しかも、わたしの所へ‥‥‥

「風眼坊殿が百日行をしてるんですって」と松恵尼は仲恵尼に聞いた。

「はい。まだ、始めたばかりです。今日で六日目かしら」

「どうして、また、百日行なんて始めたの」

「それが、詳しい事は分からないんですけど、お連れの方が急にやりたいと言い出したらしいんです。それで、風眼坊殿と早雲殿が付き合って一緒にやってるみたいですよ」

「えっ? 早雲殿も一緒なの」

「はい」

「それで、お連れの方っていうのは?」

「本願寺のお坊さんのようです」

「本願寺のお坊さんが百日行を?」松恵尼は訳が分からないといった顔をして仲恵尼を見た。

「何でも、本願寺を破門になって、今度、山伏になるんだとか‥‥‥」

「何だか、よく分からないわね」

「お雪さん、呼びましょうか。お雪さんなら詳しい事情を知ってると思いますけど」

「えっ? ええ、そうね。呼んで貰おうかしら」

 松恵尼はお雪と対面した。

 何となく、変な気持ちだった。

 お雪は楓よりも若そうだった。松恵尼から見れば、娘と言ってもいい程の若さだった。当然、風眼坊から見ても娘のように若い娘だった。どうして、風眼坊が、こんな若い娘なんかを連れて来たのか理解できなかった。

 松恵尼は自分を抑えようとしていたが、嫉妬の気持ちを抑える事はできなかった。それでも冷静を装って、お雪の口から、風眼坊がどうして百日行を始めたのか、その理由を聞いた。

 お雪は松恵尼を見ながら、素直に綺麗な人だと思った。しかし、今日は、何となく、機嫌が悪そうだという事も感じていた。つんと澄まして庭の方を見ている松恵尼に、お雪は事の成り行きを説明した。

 黙って話を聞いていた松恵尼は、お雪の話が終わると、お雪の方を見て、「と言う事は、急に百日行をする事になったというわけなのね」と聞いた。

「はい。本当は播磨の国に行く予定でした。ところが、急に蓮崇様が先生のお弟子さんになりたいと言い出して、百日行をする事になったのです」

「それに、早雲殿も付き合っているのね」

「はい」

「それで、あなたをここに預けたのね」

「はい。松恵尼様、わたしをここに置いて下さい。お願いします」

「他に行く所はないんでしょ」

「はい」

「仕方ないわね‥‥‥しっかり、子供たちの面倒を見るのよ」

「はい。ありがとうございます」とお雪は頭を下げた。

 松恵尼はお雪を見ながら、どうして、わたしが風眼坊の女の面倒を見なけりゃならないの、と腹を立てたが口には出せなかった。

 播磨にいた時、太郎に新しい女ができた事を知って、じっと我慢しなけりゃ駄目よ、と楓に言い聞かせて来たばかりだった。まさか、自分が楓と同じ立場になるなんて思ってもみない事だった。

 松恵尼は風眼坊の妻ではない。風眼坊がどこで、どんな女と付き合おうが、松恵尼は平気だった。自分が知らない所で、知らない女と付き合おうが、そんな事は関係なかった。しかし、ここに女を連れて来るなんて許せなかった。しかも、その女の面倒まで見させるとは絶対に許せなかった。腹の中は風眼坊に対する怒りで煮え繰り返っていた。

 その日はそれだけの会話で終わった。次の日からは祭りの準備で忙しく、お雪の事など構っていられなかった。

 祭りも終わり、一段落した頃、松恵尼は再び、お雪を呼んだ。

 お雪は花養院の近くの家に、仲恵尼と一緒に暮らしていた。太郎と楓が一緒になって初めて暮らした家の隣の家だった。

 松恵尼はお雪が現れると、今度はお雪の身の上を聞いた。

 松恵尼はお雪の顔を見ていると、また、風眼坊に対する怒りが涌き上がって来るのを抑える事ができなかった。なるべく、お雪の顔を見ないように冷静を装って話を聞いていた

 お雪の身の上は予想もしていなかった程、悲惨なものだった。そして、お雪を地獄から救ったのが風眼坊だったと聞いて、お雪の気持ちも分かるような気がした。

 お雪には頼れる人は風眼坊しかいなかった。風眼坊はお雪を地獄から救ってくれただけでなく、新しく生まれ変わったお雪の生き方までも教えたのだった。お雪にしてみれば、風眼坊は掛け替えのない恩人であり、尊敬のできる男だった。尊敬の念が、いつしか愛情に変わったのは当然の成り行きだった。お雪にとって風眼坊のいない世界は考えられず、風眼坊としても、お雪一人を加賀に置いて来る事はできなかった。

 松恵尼はお雪の身の上を聞いて、お雪に同情し、お雪を地獄から救った風眼坊を偉いと思った。頭では二人の関係を理解する事ができても感情は別だった。お雪の身の上を聞いた後でも感情を抑える事はできなかった。

 お雪はよく子供たちの面倒を見ていた。病気の治療も適切だった。子供たちからも好かれ、一緒に働いている尼僧や近所の女の子たちの評判もよかった。松恵尼もお雪の事を認めていたが、心のわだかまりを取る事はできなかった。

 百日間は長かった。

 毎日、お雪を見ているうちに松恵尼の心のわだかまりも少しづつ溶けて行った。

 お雪は風眼坊と松恵尼の関係を知らない。そして、お雪には何の悪い所もなかった。お雪に当たるのは筋違いだった。一緒に暮らしている仲恵尼から、お雪は百日行をしている風眼坊の身を案じて、毎日、念仏を唱えているという。仲恵尼が、風眼坊は何度も百日行をしているから心配ないと言っても、心配そうな顔をして風眼坊の身を案じている。その姿はいじらしい程だという。風眼坊はあんないい娘にそれ程までに思われて果報者だと仲恵尼は言った。松恵尼は自分の心に素直に生きているお雪が羨ましかった。自分には決して真似のできない事だった。

 松恵尼はお雪に負けたと感じていた。

 松恵尼はお雪を呼んだ。

「雪が降って来たようね」と松恵尼は外を見ながら言った。

「はい」とお雪も外を見た。

「ありがとう」と松恵尼はお礼を言った。

 子供の一人が風邪をひいて熱を出し、お雪は一晩中、看病していた。ようやく、今朝になって熱も下がり、食事も取れるようになっていた。松恵尼はその事に対してお礼を言った。

「いえ‥‥‥」とお雪は言って、松恵尼を見た。

 何となく、いつもと違うような気がしていた。今までと違って松恵尼が自分を見る目に優しさが感じられた。

「これから、山歩きもきつくなるわね」と松恵尼はお雪を見ながら言った。

 いつも、松恵尼はなぜか目をそらしながら話していたが、今日は違っていた。優しい目をしてお雪を見ていた。

「はい‥‥‥」とお雪は答えた。

「今日で何日目かしら」

「はい。七十三日目です」とお雪は迷わずに答えた。

「そう‥‥‥もう少しね。心配しなくても大丈夫よ。風眼坊様はお山の事なら何でも知ってるから。百日行をするのも、もう五回以上になるんじゃないかしら。蓮崇殿って言ったかしら、その人も頑張るわね。ここまで来れば最後まで歩き通すでしょうね」

「はい」

「ねえ。今まで、子供たちの面倒をよく見てくれたお礼と言っては何だけど、今晩、わたしに付き合ってくれないかしら」

「はい、でも‥‥‥」

「あなた、お酒は飲めるんでしょ」

「はい、少しなら」

「今晩、一緒に飲みましょ。たまには女同士で飲むのもいいものよ」

「はい」

 お雪は、その晩、松恵尼と旅籠屋『伊勢屋』の一室で、二人だけで御馳走を食べて酒を飲んだ。

 松恵尼は尼僧姿ではなかった。お雪は松恵尼から、この旅籠屋が松恵尼の物だという事を聞いて驚いた。

 松恵尼は酒を飲みながら風眼坊の若い頃の事をお雪に話した。勿論、自分と風眼坊の関係は話さなかったが、若き日の風眼坊の活躍は知っている限りの事をお雪に話した。

 お雪は目を輝かせて松恵尼の話を聞いていた。

 酔うにつれて、松恵尼は自分の身の上も話し始めた。

 お雪は、松恵尼が自分と同じように殿様の側室だったという事を知った。側室だった事は似ていたが、殿様を恨んでいたお雪と、殿様を愛していた松恵尼の違いは大きかった。

 お雪はその晩、普段、見られない松恵尼の別の面を知った。

 夜、遅くまで、二人は話をしながら酒を飲んでいた。

 次の朝、目が覚めると、すでに松恵尼はいなかった。枕元に、今まで休まずに働いていたので、今日は一日、ゆっくり休みなさい、と置き手紙が置いてあった。

 お雪はその手紙を見ながら、何となく、松恵尼に母親を感じていた。

 十二歳の時、母親を亡くしてから、今まで母親というものは忘れていた。それが、昨夜、松恵尼と一緒に過ごして色々な事を話し合った。

 母親が亡くなってから、お雪には親身になって話を聞いてくれるような人はいなかった。叔母の智春尼はいたが、あの頃は(かたき)討ちの事しか考えていなかったため、心を打ち明けるという事はなかった。加持祈祷(かじきとう)の後は、叔母にはこれ以上、迷惑を掛けられないため、叔母に頼るのはやめていた。風眼坊には何でも話せたが、やはり、男と女では違った。

 その日から、お雪は松恵尼に母親を感じるようになり、松恵尼に何でも話せるようになって行った。松恵尼もまた、お雪の事を楓に代わる娘のように思うようになり、親身になって話を聞くようになって行った。

 伊勢屋を出ると、お雪は飯道山を見上げた。

 山の上は真っ白に雪化粧していた。お雪は、今も山の中を歩き続けている風眼坊たちの事を思い、心の中で念仏を唱えた。







 志能便(しのび)の術は十一月二十五日の七つ(午後四時)からだった。いつもなら前日に着いて、次の日から志能便の術を教えていたが、今回は十九日の夜には、太郎はもう飯道山に着いていた。

 今回、こんなにも早くここに来たのは、早く師匠の風眼坊に会いたかった事もあるが、それだけではなかった。かつての陰の術の教え子に会って、その中の何人かを播磨に連れて行こうと思ったからだった。彼らを連れて行き、播磨において諜報活動をさせようと思っていた。

 伊助や次郎吉たちは太郎の重臣となってしまったため、以前のように、あちこちに潜入して情報を集めるという事はできなくなっていた。勿論、伊助や次郎吉たちもそれぞれ、自分の家来を使って情報集めはしていたが、太郎は自分に直属の諜報機関が欲しかった。陰の術を身に付けた者たちを使って実際に情報を集めれば、置塩城下の状況も、敵の状況も分かる事は当然だが、さらに、陰の術の不備な点も分かるだろう。足らない所が分かれば、さらに、陰の術を完璧なものにできると思っていた。

 太郎は飯道山に着いた次の日、奥駈け道で風眼坊と早雲に再会すると、望月三郎の屋敷に向かった。

 この屋敷は、陰の術の発祥の地と言える所だった。太郎たちが三郎を助けて、この屋敷を襲ったのは、もう六年も前の事だった。あの時以来、太郎は陰の術の師範となった。次の年から修行者たちに教え始め、去年までに太郎が陰の術を教えた者たちの数は三百人を越えていた。その三百人のうち、部屋住みのままブラブラしている者がいたら播磨に連れて行こうと思っていた。

 三郎と会うのは二年振りだった。

 三郎は今、出雲守(いずものかみ)を名乗り、二年前に嫁を貰って、生まれたばかりの男の子がいた。三郎は忙しそうだったが、太郎の顔を見ると喜んで、早速、仲間たちを呼んでくれた。

 集まったのは、芥川左京亮(さきょうのすけ)、杉谷与藤次(よとうじ)、野田五郎、野尻右馬介(うまのすけ)、葛城五郎太、池田平一郎と庄次郎の兄弟、隠岐右近(おきうこん)、神保兵内(へいない)の九人だった。皆、師匠の太郎坊が来たと聞いて、慌てて飛んで来たのだった。

 芥川左京亮は望月三郎と共に太郎とは同期で、一緒に望月屋敷を襲撃した仲間だった。襲撃の後、三郎の妹のコノミと一緒になり、すでに二人の子持ちだった。

 杉谷与藤次、野田五郎、池田平一郎、隠岐右近の四人は、太郎が初めて陰の術を教えた者たちだった。まだ、陰の術は正式に飯道山で教えるという事にはなっていなかったが、杉谷らに教えてくれとせがまれ、太郎は皆の稽古が終わってから一ケ月足らず、陰の術を教えた。

 野尻右馬介と葛城五郎太、神保兵内の三人は、次の年の教え子だった。太郎が正式に陰の術の師範となったが、楓と共に故郷、五ケ所浦に帰っていて、十一月に飯道山にやって来て教えた者たちだった。

 池田平一郎の弟の庄次郎は、一昨年の教え子で、光一郎たちと同期だった。庄次郎だけが太郎坊の素顔を知らなかった。庄次郎は太郎坊の素顔が見られると思って楽しみにして来たが、何と、太郎坊が火山坊と同一人物だったと知って信じられないようだった。

 しばらく見ないうちに、皆、立派な武士になっていた。やがて、彼らが甲賀を背負って立つ者たちだった。

 太郎は彼らに、自分が赤松家の武将になった事を告げ、陰の術の教え子の中に播磨に来たい者がいたら知らせてくれと伝えた。

「なに、おぬしが赤松家の武将になった?」と三郎が不思議そうな顔をして聞いた。

 太郎は事の成り行きを簡単に皆に話した。太郎の話をききながら皆、驚いていた。

「播磨か‥‥‥わしも是非、行ってみたいのう」と芥川が言った。

「おぬしは長男じゃろ。無理じゃ」と三郎が手を振った。

「次男や三男で、ブラブラしてる奴を捜して貰いたいんだ」と太郎は言った。

「ここに一人、おります」と池田平一郎が弟を示した。

「師匠、俺、行きます」と弟の庄次郎が言った。

「おぬし、来てくれるか」

「はい。師匠の側にいれば、もっと修行できるし‥‥‥」

「そうか、来てくれるか。そいつは有り難い」

「何人位、連れて行くつもりなんだ」と三郎は聞いた。

「そうだな。十人、いや、二十人位、連れて行くつもりだ」

「二十人か‥‥‥その位なら、すぐ集まるだろう」

「そうか。しかし、無理に二十人も集める事はない。向こうも戦の最中だ。向こうで陰の術を実践するとなると、かなり危険な目にも会う事となる。悪くすれば、二度と、この地に帰れないかもしれん。それでも、行きたいと思う者だけでいいんだ」

「戦をやっておるのは、ここも一緒だ。すでに、おぬしの教え子の何人かが戦死しておる」

「聞いたよ‥‥‥残念な事だ」

 太郎は、来月の末、志能便の術の稽古が終わるまでに、何人でもいいから、そんな奴を捜してくれと頼み、話題を変えて、甲賀に来ている夢庵の事を皆に聞いた。

 夢庵から詳しい居場所は聞かなかったが、金色の角の牛に乗って、あんな目立つ格好をしていれば、すぐに見つかると思っていた。案の定、夢庵の事は皆、知っていた。

「おぬし、あんな奴と知り合いなのか」と芥川が顔をしかめながら聞いた。

「ああ。色々と世話になったんだ」

「へえ。一体、何者なんじゃ」

「茶人であり、連歌師でもあり、笛吹きでもあり、お公家さんでもあり、兵法者でもある不思議なお方だ」

「あいつが兵法者?」と三郎が驚いた。

「不思議な棒術を使う。それに、陰の術も身に付けている」

「えっ、陰の術も?」三郎が信じられないと言った顔付きで、皆の顔を見た。

 みんなも口をポカンと開けて驚いていた。

 太郎は笑いながら、「播磨の俺の城下にも武術道場があって、そこで、一年近く、修行していたんだよ」と説明した。

「へえ。それじゃあ、わしらの仲間だな」

「そういう事だ。なかなか面白いお方だ。知り合いになっておくと何かとためになるぞ」

 夢庵肖柏は、柏木(水口町)の野洲川の側にある飛鳥井(あすかい)権大納言雅親(ごんのだいなごんまさちか)という公家の屋敷内に、種玉庵(しゅぎょくあん)宗祇(そうぎ)という連歌師と一緒にいるとの事だった。

 太郎は次の日、光一郎を連れて夢庵を訪ねた。

 飛鳥井雅親が公家だというので、風雅な公家屋敷を想像していたが、実際の屋敷は濠と土塁に囲まれていて武家屋敷と変わりがなかった。違う所と言えば、侍たちの溜まり場である遠侍(とおざむらい)主殿(しゅでん)に付属していない位だった。

 門の前には二人の武士が薙刀を持って守り、土塁の隅には誰もいなかったが、見張り櫓まであった。

 太郎は門番に、飯道山の太郎坊だと名乗り、夢庵殿に会いたいと告げた。さすが、地元だけあって門番も太郎坊の名は知っていた。しかし、太郎を目の前にして、太郎があまりに若いため、不思議そうな顔をしていた。それでも取り次いでくれた。しばらくして、夢庵が現れた。相変わらず派手な格好だった。

 夢庵は太郎たちを見ると笑いながら、「やあ、来たな」と言った。

「お久し振りです」と太郎と光一郎は挨拶した。

「いつからじゃ、陰の術を教えるのは」

「二十五日からです」

「そうか、まあ、入れ。宗祇殿を紹介するわ」

 正門をくぐって左側にある中門をくぐると、正面に屋敷があり、屋敷の右側に広い庭園があった。その庭園の右側に大きな御殿が二つ建ち、ここまで入ると、やはり、公家屋敷という優雅さが感じられた。

 夢庵は太郎たちを正面の屋敷に連れて行った。この屋敷が『種玉庵』という宗祇の住む屋敷だと言う。

 飛鳥井家は代々、和歌と蹴鞠(けまり)の師範を継ぐ家柄であり、この辺り一帯を領する荘園領主でもあった。この屋敷は飛鳥井家の別荘のようなもので、京の屋敷が戦によって焼かれたため、当主の雅親は家族と家来を連れて、ここに避難していた。

 連歌師の宗祇は応仁の乱の始まる前に関東の方に旅に出て、そのまま各地を回って連歌の指導をし、二年前の秋頃、ここに落ち着いて、雅親より和歌の教えを受けながら古典と連歌の研究に没頭していた。

 太郎と光一郎は夢庵に案内されて、宗祇と会った。

 二人共、連歌師というのは夢庵しか知らなかった。宗祇という男も一風変わったお公家さんに違いないと思っていたが、全然、違っていた。

 宗祇は墨染衣を着た僧侶だった。年の頃は五十歳を越えた老人だった。

 太郎たちが部屋に入った時、宗祇は庭園の方を向いて文机(ふづくえ)に座って何かを真剣に読んでいた。夢庵と共に太郎たちは宗祇の後ろに控えて座った。しばらくして、宗祇は机から顔を上げて振り返った。

 夢庵は宗祇に太郎たちを紹介した。夢庵は太郎の事を赤松日向守とは言わなかった。飯道山の山伏、太郎坊だと紹介した。

 宗祇はしばらく、山伏姿の二人を見ていた。

「わしも飯道山にはお参りしました。噂には聞いておりましたが、本当に武術の盛んな所ですな」とゆっくりとした静かな口調で言った。

「太郎坊殿は、わしの武術の師でもあります」と夢庵は言った。

「ほう。お若いようじゃが、なかなかなものですな」

 宗祇は太郎に飯道山の武術の事など色々と訪ねた。そして、関東を旅した時、香取、鹿島に行き、そこでも武術が盛んだったという事を太郎たちに話してくれた。

 太郎は初め、宗祇は堅苦しい感じの人だと思ったが、実際、話してみて、そんな事はないと感じた。夢庵と同じく宗祇も各地の大名たちと親交を持っていて、色々な事を知っていた。連歌や和歌とは、まったく関係の無い事も色々と知っていて、太郎が話す武術の事も興味深そうに聞いていた。

 半時(はんとき)程、宗祇と話をすると太郎たちは夢庵と一緒に部屋から出た。

 夢庵は太郎たちを土塁の上の見張り櫓の上に連れて行った。

「なかなかいい所じゃな」と夢庵は右手に見える飯道山を眺めながら言った。

「夢庵殿、宗祇殿というお人は禅僧なのですか」と太郎は聞いた。

「まあ、一応は禅僧じゃのう。若い頃、相国寺(しょうこくじ)で修行しておったらしいからのう」

「相国寺?」

「将軍様が建てた京の大寺院じゃ。戦で焼けてしまったがのう」

「そうですか‥‥‥」

「わしがここに来てから二ケ月になるが、宗祇殿はまだ、わしを弟子にしてくれんのじゃ」と夢庵はこぼした。

「えっ、お弟子さんになってないのですか」と太郎は驚いて、夢庵の顔を見た。

 夢庵は頷いた。「宗祇殿はまだ修行中の身、弟子など持つ身ではないとおっしゃるんじゃ」

「あの年で、まだ修行中なのですか」

「だ、そうじゃ」

「凄いお人ですね。あの年になってまで修行を続けてるなんて‥‥‥それで、夢庵殿はどうするつもりなんです」

「弟子になるさ。ここまで来たんじゃ。一番弟子になってやる」

「わたしは知りませんが、宗祇殿って有名な連歌師なんでしょ。それなのに、まだ、お弟子さんもいないなんて不思議ですね」

「ああ。わしも驚いた。わしは宗祇殿は大勢の弟子に囲まれて暮らしておると思っておった。しかし、わしがここに来た時、宗祇殿の側には一人の僧がおっただけじゃった」

「その人も、宗祇殿のお弟子さんになろうとしているんですか」

「そうだったらしいが、わしが来ると、諦めて出て行ったわ」

「えっ、出て行った?」

「ああ。その僧は宗祇殿と一緒に関東の地をずっと旅をして回っておったそうじゃ。その僧だけじゃなく、四、五人おったそうじゃが、皆、宗祇殿が弟子にしてくれないもんで、諦めて出て行ったそうじゃ。最後に出て行った僧も、諦めて出て行きたかったんじゃが、宗祇殿を一人残して行く事もできず、わしが来た途端に逃げて行ったと言うわけじゃ」

「そうだったのですか‥‥‥でも、どうして、みんな、そう簡単に諦めちゃうんですか」

「宗祇殿と一緒におれば分かるが、宗祇殿は今、真剣に古典の修行をしておられる。まさに真剣じゃ。人を寄せ付けないという所がある。普通の奴らじゃ、逃げ出したくなるじゃろうのう」

「夢庵殿は大丈夫なのですか」

「ここの主の飛鳥井殿というのは、わしの歌の師匠でもあるんじゃよ。言ってみれば、今の所、わしと宗祇殿は兄弟弟子という関係じゃ。わしもそのつもりで宗祇殿と付き合っておるし、宗祇殿もわしを対等に扱っておる。じゃから、わしもここにおる事ができるんじゃ。今のわしは宗祇殿の所に居候しておるんじゃなくて、宗祇殿と一緒に飛鳥井殿の所に居候しておるんじゃよ」

「そうだったのですか‥‥‥」

「なあ、太郎坊殿、わしをどこかに連れて行ってくれんか」

「えっ?」

「ここにばかりおるのも飽きたんでな。おぬし、知り合いも多いんじゃろ。誰か、面白い奴を紹介してくれ」

「面白い奴ですか‥‥‥」

 太郎は、面白い奴と言われて、すぐに思い浮かべたのは年甲斐もなく、百日行をしている師匠の風眼坊と早雲だった。あの二人なら夢庵とも気が合うかもしれないと思った。

「分かりました」と太郎は言って、夢庵を連れて飛鳥井屋敷を出た。

 夢庵は例の牛には乗って来なかった。

 三人は太郎と同期だった三雲源太の家に向かった。







 志能便の術が始まった。

 太郎は今年の教え子を一人も知らなかった。ただ、師匠の風眼坊から、教え子の中に火乱坊の伜がいる事を聞いていたが、風眼坊は名前を教えてはくれなかった。自分で捜せと言う。自分で捜せと言われても、太郎は火乱坊を知らない。知らない人の伜なんて分かるわけないと言っても教えてはくれなかった。

 今年、最後まで残っていた修行者は八十五人だった。

 今年から太郎は天狗の面を被るのをやめた。例年のように、太郎は光一郎と共に智羅天の岩屋から雪の中を毎日、通った。今年は風眼坊たちの百日行がまだ続いているため、雪の上に足跡が残っていて、いつもよりは歩き易かった。

 百日行をしているのは三人から四人になっていた。

 新たに夢庵が加わったのだった。夢庵の場合は百日ではなく、ほんの一月だったが、面白そうだと言って一緒に歩いていた。

 夢庵が面白い奴に会わせてくれというので、太郎は夢庵を飯道山に連れて行き、風眼坊と早雲を紹介した。太郎が夢庵の事を連歌師と紹介したため、風眼坊は興味なさそうだったが、早雲の方が話に乗って来た。

 早雲の口から宗祇の名前が出た。早雲は、宗祇が今、この飯道山と目と鼻の先にいると聞いて、びっくりしていた。百日行が終わったら是非、会わせてくれと夢庵に頼んでいた。

 話が弾むに連れて、夢庵は早雲と以前、どこかで会った事あるような気がすると言い出した。確かに、早雲の方も会った事あるような気がしていたが、夢庵という名の連歌師は聞いた事がなかった。早雲が以前、伊勢新九郎という名で幕府に出仕していた事があったと言うと、夢庵はようやく思い出した。

「新九郎殿でしたか。義視殿の側近をなさっておりましたね。一度、今出川の御所でのお茶会に、師の珠光殿と出た事がありました」と夢庵は言った。

「そうか、そうじゃた、やっと思い出したわ。そなたは、あの頃は連歌師というより珠光殿のお弟子さんじゃった」

「はい。あの頃は連歌よりもお茶に夢中でした」

「なに、珠光殿のお弟子さん‥‥‥」と風眼坊が言った。

 村田珠光の名前が出た事で、風眼坊も興味をおぼえて話に加わって来た。

 風眼坊が珠光に会った事があると言うと、今度は早雲と夢庵の二人がびっくりした。

 三人の話題はお茶に移って行った。

 夢庵は今、駿河にいる銭泡こと伏見屋も知っていた。ただ、伏見屋が無一文になって乞食坊主をやっていると聞いて、信じられない事のように驚いていた。

 風眼坊が、珠光が加賀に蓮如に会いにやって来たと話すと、夢庵は加賀の一揆の状況を風眼坊から詳しく聞いていた。加賀の江沼郡には夢庵の実家、中院(なかのいん)家の荘園があるが、年貢の届きが悪いと言う。

 太郎は三人の話を聞きながら不思議なもんだと思っていた。一見した所、何の共通点もないように思えるが、お互いに何らかの共通点を持って、つながっていた。どう見ても、お茶なんかに縁のなさそうな師匠までもが村田珠光を知っている。三人の共通する知り合いに、茶人の珠光がいるというのは、何となく変な気がしていた。

 次の日から、夢庵は奥駈け道を一緒に歩く事となった。

 太郎と光一郎は志能便の術の始まる初日、例のごとく、突飛(とっぴ)な現れ方をして修行者たちを驚かせた。

 今年は、播磨の月影楼にて工夫を重ねたため、新しい技がかなり入っていた。

 基本はやはり、鉤縄(かぎなわ)を使っての木登りと手裏剣だったが、さらに、新しく作った道具を紹介して、その使い方を教えた。それらの道具はほとんど、城や屋敷に潜入するための道具で、常にすべてを持ち歩くのは不可能だった。一応、こういう物があり、こういう使い方をするというのを教えるもので、さらに、各自で工夫するようにと教えた。

 最近、どこに行っても戦が続いているため、城や屋敷は以前よりも守りが堅くなっていた。深い濠を掘り、高い土塁に囲まれ、見張りも厳重だった。そういう城や屋敷に忍び込むには、さらに高度の技術を必要とした。

 以前、鉤縄は高い所に登る時に利用したが、今回からは幅広い濠を渡る時にも利用できる事を教えた。縄を木と木の間に水平に張り、そこを修行者たちに渡らせた。修行次第でこういう事もできるようになると、まず、風光坊(光一郎)に錫杖でバランスを取らせながら縄の上を歩かせた。修行者たちはポカンとした顔をして、縄の上を歩いている風光坊を見上げていた。

 濠を渡り、土塁を乗り越え、屋敷内に侵入したとして、次は敵に発見されないような隠れ方を教えた。木陰、月影などの陰を利用した隠れ方を教え、さらに、敵に発見された時の逃げ方も教えた。鉄菱(てつびし)を撒いて逃げる、目潰しを使って逃げるなど、敵のちょっとした隙を利用して逃げるやり方を教えた。

 屋敷の潜入の仕方も、天井裏に入るやり方と床下に潜るやり方を教え、不動院を使って実際に演じてみせた。

 その他、大勢の敵兵の数え方、濠の幅や深さ、土塁の高さなどの測り方なども教えた。

 一ケ月はあっという間に過ぎて行った。

 太郎はまだまだ教えたい事が色々あったが、後は各自が工夫して、自分だけの志能便の術を身に付けて欲しいと言って、今年の稽古は終わった。

 風眼坊たちの百日行が終わったのは、太郎が志能便の術を教えていた十二月の十九日だった。

 蓮崇はすっかり変わっていた。髪や髭が伸びたのは勿論の事だが、体付きまで、すっかり変わっていた。以前の蓮崇を知っている者が、今の蓮崇を見ても同じ人間だとは絶対に気がつかないだろう。余計な肉はすっかり取れ、自分でも驚く程、身が軽くなっていた。歩く速さも速くなり、早雲や風眼坊たちと同じ速さで歩く事ができた。

 後半から加わった夢庵が一番遅かった。軽い気持ちで参加した夢庵だったが、山歩きは思っていた以上に辛かった。しかも、季節が悪かった。丁度、雪が本格的に降る頃だった。始めた以上、今更、やめるとは言えず、夢庵は雪の降る中、足を引きずりながらも歩き通した。

 夢庵は風眼坊たちよりも十歳も年が若かった。自分よりも年寄りが百日間も歩くというのに、自分が一ケ月も歩けないのでは、この先、彼らの前には出られなかった。夢庵は歯を食いしばって、約一ケ月間、歩き通した。

 蓮崇は無事、百日行を終えると、正式に飯道山の山伏となって風眼坊の弟子となった。

 蓮崇の山伏名は観智坊露香(かんちぼうろこう)と決まった。観智坊というのは、以前、飯道山にいた山伏で、蓮崇にそっくりだったという勧知坊と同じ名前だった。ただ、字を変えただけだった。高林坊が付けた名前で、今は亡き、その勧知坊に負けない位に強くなれと風眼坊は言った。(いみな)の露香の方は、風眼坊の一番弟子の太郎坊移香と同じく、イロハのロを付けてロ香と名付け、露という字を当てたのだった。

 観智坊露香となった蓮崇は、師の風眼坊より、そのまま一年間、飯道山において武術修行をする事を命じられた。観智坊は棒術の組に入る事となり、宿坊の方はそのまま吉祥院の修徳坊から通う事となった。棒術を選んだのは、やはり同じ武術であっても、棒術なら人を斬る事なく相手を倒せるからだった。武術を身に付ける事を決心した観智坊だったが、心の中には蓮如が常に言っていた、争い事は避けるべきじゃ、という言葉が染み付いていた。それに、蓮如が棒術の名人だと風眼坊から聞いていたため、迷わず棒術を選んだ。

 百日間、伸ばし放題だった髭は剃ったが、髪の方は伸ばすつもりで、そのままだった。山伏としてはまだ短く、兜巾(ときん)を頭に乗せても中途半端な長さで、見栄えはあまりよくないが、本人は全然、気にしてないようだった。

 蓮崇は観智坊になる事によって、完全に生まれ変わろうと思っていた。本願寺の事、蓮如の事を忘れる事はできなかったが、後一年間は本願寺も蓮如も忘れ、ただ、ひたすら、武術を身に付けようと決心していた。そして、最後に兄弟子である太郎坊より志能便の術を習い、北陸の地に戻るつもりでいた。

 百日行が終わった次の日から観智坊となった蓮崇の新しい日々が始まった。

 午前中は作業だった。

 太郎の時は午前中は天台宗の講義だったが、観智坊には天台宗の講義は必要なかった。風眼坊は観智坊を弓矢の矢を作る作業場に入れた。この作業をしているのは若い修行者たちではなく、飯道神社に所属している下級神官たちだった。山伏がその作業に加わる事は無かったが、風眼坊の頼みによって実現した。観智坊は午前中、矢作りの作業をして、午後になって棒術道場に通った。

 観智坊はまったくの素人だった。六尺棒の持ち方さえ知らなかった。修行者の中では一番の年長者でも、ここでは自分は一番の新米なんだと自分に言い聞かせ、自分の息子とも言える程、若い者たちからも素直に教えを受けた。その年の稽古は六日間だけで終わった。

 最後の日、一年間の修行を終えた者たちは試合を行ない、山を下りて行った。

 その日の晩、観智坊の宿坊に慶覚坊の息子、洲崎十郎左衛門が訪ねて来た。十郎は観智坊を見ても蓮崇だと気づかなかった。観智坊の方が十郎に気づいて声を掛けた。十郎はすっかり変わってしまった蓮崇を見て、人間、これ程までに変われるものなのかと信じられなかった。

 十郎は、明日、加賀に帰ると言う。十郎はまだ、蓮崇がなぜ、こんな所で山伏の修行をしているのか知らなかった。

 観智坊は加賀で起こった事を話した。十郎は信じられない事のように観智坊の話を聞いていた。すでに蓮如が吉崎にいない、と聞いた時には言葉が出ない程、びっくりした。

 観智坊は十郎に、父親の慶覚坊を助けて守護の富樫と戦って欲しいと告げ、自分が今、ここで修行している事を伝えてくれと頼んだ。かつての蓮崇は死んだ。自分は山伏に生まれ変わって北陸に行くだろう。それまで、門徒たちの事を頼むと十郎に言った。

 十郎は次の日、急いで、加賀へと向かった。

 十二月二十六日から正月の十四日まで、武術の稽古も矢作りの作業も休みだった。その代わり、年末年始の準備で忙しく、何も分からない観智坊は怒鳴られながらも山の中を走り回っていた。







 夜中から雪が降り続いていた。

 明け方には一尺近くも積もり、まだ降り続いていた。

 風眼坊と早雲と夢庵は飯道山の宿坊から旅籠屋『伊勢屋』に移っていた。お雪と弥兵も一緒だった。

 風眼坊は昨日、飯道山を下りると花養院にお雪を迎えに行った。松恵尼と顔を合わせたくなかったが、松恵尼は風眼坊が来るのを待っていた。

「御苦労様でした」と松恵尼は愛想よく風眼坊を迎えた。

「いや、参ったわ。軽い気持ちで始めたが、年には勝てんのう。多分、今回が最後になりそうじゃ」

「何を情けない事を。そんな事を言ってたら、あんな若い奥さんの相手なんて勤まりませんよ」

「いや、あれには色々と訳があるんじゃ」

「そりゃあ、訳ぐらいあるでしょうとも。まったく、ずうずうしくも、ここに預けて置くなんて、どういう神経してるんでしょ。あなたの頭の中を一度、見てみたいわ」

「仕方なかったんじゃ。何しろ急な事だったんで、ここしか思いつかなかった」

「辛かったわ。百日間も、あなたの若い奥さんと一緒に暮らすのは」

「すまなかった。お雪は子供たちの面倒をよく見てたじゃろう」

「そうね。初めの頃はね」

「初めの頃?」

「もう、ここにはいないの。わたしも女だったわ。あの娘の顔を見てられなくてね、追い出しちゃったのよ」

「お雪を追い出した?」

「仕方なかったのよ。わたしも我慢しようと思ったわ。でも‥‥‥できなかった」

「そうか‥‥‥もう、ここにはおらんのか‥‥‥」

「あなたには悪かったと思うわ。でも、仕方なかったのよ。わたしの気持ちも分かってよ」

「そうか‥‥‥」

 風眼坊は、こんな事になるかもしれないと覚悟はしていた。しかし、松恵尼は絶対に、そんな大人気ない事はしないだろうと確信していた。ところが、松恵尼もやはり女だった。松恵尼の気持ちも分かるが、ここを追い出されたお雪は、西も東も分からない他国で放り出されて、今頃、一人で加賀に向かっているのだろうか‥‥‥風眼坊には放って置く事はできなかった。

「御免なさい。本当に、あなたには悪かったって思っているわ」

「いや‥‥‥」

「あの娘の事、心配してるのね」

「いや‥‥‥」

 松恵尼は、お雪の事から播磨の太郎と楓の事に話題を変え、二人の子供たちの事を風眼坊に話していたが、風眼坊の耳には入らなかった。早く、お雪を捜さなければならない、と頭の中はお雪の事で一杯だった。

「松恵尼様」と誰かが呼んだ。

 その声までも、お雪の声に似ていた。

「準備はできた?」と松恵尼は答えた。

「はい。終わりました」

「こちらにいらっしゃいな。あなたの大事な人が帰って来たわよ」

 縁側から顔を出したのは、お雪だった。

 お雪は風眼坊をじっと見つめていた。風眼坊を見つめるお雪の目からは涙がこぼれ落ちて来た。

「松恵尼殿。わしをかついだな」と風眼坊は言った。

 松恵尼は笑った。

「お雪、わたしがあなたをここから追い出したって言ったら、風眼坊様、本気にして、今にもあなたを捜しに行こうとしてたわよ」

「松恵尼様‥‥‥」

「よかったわね」

 お雪の涙はなかなか止まらなかった。涙を流しながらも笑おうとしているお雪を見ながら、風眼坊と松恵尼も何となく湿っぽくなって行った。

 お雪は松恵尼に頼まれて伊勢屋に行っていた。風眼坊と早雲の百日行満願を祝う宴を張るための準備に行っていた。丁度、その時に風眼坊が花養院に来たため、松恵尼は風眼坊に対する恨みの言葉を言って、風眼坊を困らせていたのだった。

 すでにもう、松恵尼はお雪の事を恨んではいなかった。お雪を自分の娘のように思うようになっていた。心の中の葛藤(かっとう)は色々とあったが、それは乗り越えていた。風眼坊に対するお雪の思いは、松恵尼にはとても真似のできないものだった。お雪のためにも松恵尼は風眼坊の事は諦めていた。もっと早く諦めるべきだった。諦めるべきだったが、諦めきれずにだらだらと続いていた。今回がいい機会だと思った。松恵尼はきっぱりと風眼坊の事は諦める事にした。

 その晩、太郎と光一郎、栄意坊も呼んで、風眼坊と早雲の百日行満願と夢庵の一ケ月近くの行の終わった事を祝った。高林坊も呼びにやったが、留守でいなかった。観智坊となった蓮崇は一年間は山から下りられなかった。

 お雪は窓から雪を眺めていた。

 風眼坊はまだ寝ていた。

 隣の部屋では早雲と夢庵も寝ているようだった。

 お雪は昨日、風眼坊の息子、光一郎と会っていた。光一郎はお雪と同い年だった。

 不思議な気持ちだった。光一郎の母親に対して悪い事をしているような気がしてならなかった。光一郎は父親に対して何も言わなかったが、心の中では自分の事を恨んでいるのかもしれないと思っていた。恨まれたとしても仕方なかった。仕方なかったが、もう、お雪は風眼坊から離れる事はできなかった。

 百日行の疲れが出て来たのか、風眼坊はいつまで経っても起きなかった。

 お雪は雪の中、花養院に向かった。風邪を引いている子供が何人かいて、その事が心配だった。

 雪は昼頃、ようやく、やんだ。

 お雪は子供たちと一緒に花養院の境内の雪掻きをしていた。

 風眼坊、早雲、夢庵の三人が晴れ晴れとした顔をして、太郎と光一郎と共に花養院にやって来た。風眼坊は医者の姿に戻り、早雲は禅僧に戻り、夢庵も派手な着物に戻っていた。

 これから太郎の隠れ家に行くと言う。お雪も一緒に行く事にした。

 積もった雪と格闘しながら、ようやく着いた隠れ家は、誰もが驚く程、素晴らしいものだった。特に、夢庵は気に入って、その日から智羅天の岩屋の住人となってしまった。

 その岩屋の前の広場で風眼坊と光一郎は試合を行なった。まだまだ、風眼坊の方がずっと強かった。

 次に太郎は光一郎を相手に陰流の技を披露した。天狗勝の八つの技と、新しく作った二つの技を風眼坊に見てもらった。

「見違える程、強くなったのう」と風眼坊は嬉しそうに言った。

「凄いのう‥‥‥陰流か‥‥‥」と早雲は唸った。

「さすがじゃのう」と夢庵も感嘆した。

 お雪もただ凄いと驚いていた。こんな凄い弟子を持っていたなんて、風眼坊という男は計り知れない人だと思った。

 風眼坊と太郎は試合をしなかった。二人共、一々、立ち会わなくてもお互いの腕が分かっていた。太郎はまだまだ、師匠にはかなわないと感じていた。風眼坊の方は相打ちになるだろうと思っていた。

 夕方になり、太郎は光一郎を連れて飯道山に行き、志能便の術を教え、暗くなってから戻って来た。その晩は、みんなして岩屋に泊まる事となり、焚火を囲んで語り明かした。

 太郎はここの主だった智羅天の事を皆に話した。そんな事があったのか、と風眼坊も驚きながら話を聞いていた。

 二十四日、志能便の術は終わった。

 二十五日の晩、恒例の武術師範の宴会があり、志能便の術師範の太郎坊、志能便の術師範代の風光坊、元剣術師範の風眼坊、そして、早雲と夢庵も特別に招待された。早雲は弓術師範として、夢庵は志能便の術の師範代として参加していた。

 いつものように料亭『(みなと)屋』の宴会が終わると、一行は『とんぼ』に移った。

 相変わらず無愛想な親爺も、さすがに風眼坊たちの顔を見ると嬉しそうに迎えた。

 そして、次の日の早朝、夢庵に送られて、太郎、光一郎、風眼坊、お雪、早雲の五人は馬に乗って、播磨の国、大河内城下に向かって行った。

 弥兵は観智坊(蓮崇)が山から下りて来るまで、待っていると言って付いては来なかった。

 いい天気だった。

 五日前に積もった雪は、もう溶けてなくなっていた。

 朝日を浴びて山に積もった雪が輝いていた。

 今年もあと僅かで終わりだった。

 五頭の馬は朝日を浴びながら、飯道山の門前町を後にして行った。




陰の流れ《愛洲移香斎》第三部 本願寺蓮如 終 





望月屋敷




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