酔雲庵

無住心剣流・針ヶ谷夕雲

井野酔雲










 慶長五年(一六〇〇年)九月、関ヶ原の合戦が起こった。豊臣秀吉の死後、二年めに起きた天下分け目の決戦であった。当時、武芸者は八歳の少年だった。

 関ヶ原の合戦の一月前、武芸者は父と母と三人で楽しい夕飯を食べていた。ささやかな暮らし振りでも、少年にとっては暖かい家庭だった。

 その日、一日中、家の外は騒々しかった。馬はいななき、荷物を山積みにした荷車が何台も走り、長い槍をかついだ足軽たちが大勢、(よろい)を鳴らせながら通って行った。夜になっても、その行軍はやまなかった。街道のあちこちに篝火(かがりび)が焚かれ、松明(たいまつ)を持った軍勢が不気味な音を響かせていた。

 少年の家は武蔵の国、針ケ谷村(埼玉県岡部町)にあった。当時、針ヶ谷村を鎌倉街道が通っていた。江戸から兵糧を積んだ小荷駄(こにだ)隊が関ヶ原に向かう徳川秀忠の部隊と合流するため、鎌倉街道を上野(こうづけ)の国(群馬県)、高崎城へと行軍していた。

「まったく、いつまで続くんでしょう」と母が耳をふさぐようにして言った。

「もう少しの辛抱だ」と父は平気な顔をして答えた。

「戦なんて早く終わってくれればいいのに」

 母は不安そうな顔をして締め切ってある窓の方を眺めた。

「どこで戦をしてるの」と少年は母に聞いた。

「遠くの方よ」

「じゃあ、ここは関係ないんだね」

 母は窓の方を見つめたまま答えてくれなかった。少年は父を見た。

 父は笑うと、「ここは大丈夫だ。心配しなくてもいい」と頼もしそうに答えた。

 父は以前、北条(ほうじょう)氏に仕えていた武士だった。近くにあった鉢形(はちがた)城の城主、北条氏邦(うじくに)の家臣だった。少年が生まれる三年前に北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、父は刀を捨てて農民となった。少年は父から戦での活躍を聞いていたが、父がそんな勇ましい侍だったとは信じられなかった。

「北条家は豊臣秀吉に滅ぼされた。その秀吉も亡くなった。これからどうなるのか、今度の大戦でそれが決まる」

 父は灯火を見つめながら、そう言った。でも、少年にはよくわからなかった。ただ、遠くの方で大きな戦が始まり、大勢の侍たちが、そこに向かっているという事がわかっただけだった。

「お父は戦に行かないの」と少年は聞いた。

「徳川も豊臣も、わしから見れば敵じゃ。敵に仕える気などないわ」

「ふうん」と少年が言った時だった。

 誰かが入り口の戸を叩きながら怒鳴った。「おおい、開けろ!」

 母は顔色を失い、父を見つめた。

「侍じゃ。お前らは隠れろ」と父は小声で母に言った。

 母はうなづくと少年の手を引いて土間の隅にある(むしろ)の中に隠れた。少年は母に抱かれながら、筵の中から耳を澄まして外の様子を窺っていた。

「開けろ! こら、開けろ!」

 侍たちは戸を叩きながら騒いでいた。

 父は戸を開けた。

「何をしておる。さっさと開けんか」

 酔っ払った足軽が三人、入って来た。粗末な甲冑(かっちゅう)を身に付けた人相の悪い足軽だった。

「おい、酒はあるか」と馬面の足軽が錆びた槍を向けながら聞いた。

「申し訳ございません。お酒はありません」と父は頭を下げた。

「なに、酒がないだと」と髭だらけの足軽が父を小突き、家の中を見渡した。

「それじゃあ、女を出せ」と太った足軽が怒鳴った。

「女もおりません」

「嘘つくんじゃねえ」

 三人の足軽は土足のまま板の間に上がり、家の中を荒らし回った。

「やめてくだされ」と父が言っても小突かれるばかりだった。

 とうとう少年と母は見つかり、引きずり出されてしまった。

「いい女じゃねえか」と太った足軽はニヤニヤしながら母に抱き着いた。

「おっ母に何するんだ」と少年は足軽に飛び掛かって行ったが、蹴られて転んでしまった。

「やめろ!」と父は棒を手にして掛かって行った。

 太った足軽は父の棒に頭を打たれて倒れた。

 母は倒れている少年のもとに行った。少年は母と一緒に土間の隅に戻った。

 父は棒を構えて二人の足軽に向かっていた。「この野郎!」と足軽たちは父に槍を向けた。

 父は二つの槍を相手に戦っていた。

 少年は母を守りながら、戦っている父を見ていた。以外にも父は強かった。もしかしたら勝てるかもしれないと思った。

 馬面の足軽が父の棒に打たれて槍を落とした。槍を落とした足軽は刀を抜いて、父に掛かって行った。父はもう一人の槍を相手にしながらも、うまく刀をよけた。

 その時、倒れていた太った足軽が起き上がり、刀を抜くと横に払った。

「危ない!」と少年は叫んだ。

 父は斬られ、驚く程の血が噴き出した。さらに槍で喉を突かれて、父は倒れた。

 少年は悲鳴をあげながら父のもとに行った。

「畜生!」と言いながら、父が持っていた棒をつかむと足軽に突進した。

 少年は思い切り蹴られて、気を失ってしまった。気が付いた時には、母は着物を剥がされて無残な姿で死んでいた。

 両親の葬式を済ませると、村人たちが止めるのも聞かずに少年は旅に出た。三人の足軽たちを追って高崎の城下へと向かったが、すでに軍勢はいなかった。軍勢の後を追うように中山道を西へと歩いて行った。

 ただ、強くなるんだ。強くなって、あいつらを殺してやるんだと思いながら‥‥‥




 少年は腹をすかして山中に倒れた。

 助けてくれたのは夕霧(ゆうぎり)と名のる女だった。

 夕霧は綺麗で優しかったが、時には恐ろしい程、厳しくもあった。まだ、八歳だった少年は母親のように夕霧になついた。しかし、夕霧は盗賊の(かしら)だった。男の格好をして薙刀(なぎなた)を振り回し、颯爽(さっそう)と馬にまたがり、荒くれ男どもを(あご)で使う勇ましい女だった。

 当時の彼には、夕霧がどうして、男たちにお頭と呼ばれているのかわからなかった。今、思えば、忍びの者だったのかもしれない。ともかく、少年は三年余りを盗賊たちと一緒に山中で過ごした。

 彼にとって、それは楽しい日々だった。少年はそこで初めて本格的に剣術を習った。荒くれ男ばかりだったけど、彼らも根っからの盗賊ではない。北条の落ち武者たちだった。

 北条家が滅び、浪人となっても食う事もままならず、自然の成り行きで食い詰め浪人たちが集まるようになった。この集団もその一つで、夕霧を頭に、浪人たちが五十人近くも集まってできていた。少年が剣術を学ぶのに丁度いい環境といえた。理屈抜きの実践剣法をみっちりと仕込まれた。みんなから、かなり荒っぽく、こき使われたが、強くならなければならないと必死に堪えていた。

 そこでの生活で、少年は徳川家康という男の存在を知った。荒くれ男たちは『家康を倒せ!』と口癖のように言っていた。初めのうちは家康という男が何者なのか、まったくわからなかった。彼らと付き合って行くうちに、関ヶ原の合戦を始めた張本人が家康だったという事がわかって来た。

 彼の両親の(かたき)は三人の酔っ払った足軽から徳川家康という男に変わって行った。

 あっと言う間に、三年の月日は流れた。少年は十一歳になっていた。

 その日、お頭の夕霧は何人かを引き連れて、いつものように仕事に出掛けた。そして、それきり帰って来なかった。(わな)に掛けられて殺されたという。この隠れ家も危ないというので、みんな慌てて逃げて行った。少年は独り取り残された。

「連れてって!」と泣きながら追いかけたが、馬に追いつけるわけはなかった。

 また、独りぼっちになった少年は、当てもなく歩き続けた。




 次に彼を助けてくれたのは、一人暮らしの浪人だった。

 浪人は村はずれに住んでいた。腹をすかせた少年は食べ物のいい匂いに誘われて、その浪人の住む小屋に行った。小屋の中を覗くと、浪人が木を削って何かを彫っていた。少年は興味を引かれ、腹の減っているのも忘れて熱心に浪人の仕事を見ていた。ただの木の(かたまり)が浪人の手によって猫の形になって行った。招き猫だった。

「坊主、面白いか」と浪人は声を掛けて来た。「面白い」と少年は答えた。

 それが縁だった。少年は浪人から彫り物を教わる事となった。彫り物だけでなく、読み書きも習い、そして、新陰流(しんかげりゅう)という剣術も仕込まれた。

 浪人の名は大森勘十郎といった。過去の事はあまりしゃべらなかった。でも、そんな事は少年にとってどうでもいい事だった。なぜか、彫り物を彫るという事が楽しかった。剣術よりも、むしろ木を彫っていた方が好きだった。それでも剣術の稽古は毎日やった。剣術を教えている時の勘十郎は、まるで別人になったかのように厳しかった。

 勘十郎に打たれて気絶する事も何度もあったが、そんな事で親の仇が討てるかと言われると、なにくそっと、決して、へこたれなかった。剣術の腕は見る見る上達して行った。体格も大きくなり、十七歳になる頃には六尺(約百八十センチ)近くの大男になり、勘十郎と互角に戦える程の腕にまで成長していた。

「もう、わしに教える事は何もない。お前には剣の素質がある。伸ばそうと思えばいくらでも伸びる。わしの兄弟子で小笠原源信斎(げんしんさい)という人が今、江戸で道場を開いている。お前は源信斎殿の所に行って、剣を学べ」

 武芸者は勘十郎の言う通り江戸に向かった。

 江戸はまだ新しい都で活気に溢れ、見る物すべてが田舎出の武芸者には珍しかった。彼は源信斎のもとで剣術の修行に励み、江戸という新しい都で色々な事を学んだ。




 慶長十九年(一六一四年)、武芸者が江戸に来てから五年が過ぎた。また、大戦(おおいくさ)が始まろうとしていた。

 東西の決戦、大坂の陣である。

 武芸者は急いで大森勘十郎のもとに向かった。勘十郎からは何も言って来ない。しかし、彼にはわかっていた。勘十郎は浪人をしながら、この日が来るのをずっと待っていたのだ。西軍に与して一旗あげる事を‥‥‥

 武芸者も勘十郎に付いて行く覚悟を決めていた。勘十郎は五年前と変わらない小屋の中で、甲冑の手入れをしていた。

 武芸者の顔を見ると、「どうして、戻って来た」とそっけない声で聞いた。

「父と母の仇討ちです」と武芸者は刀の(つか)をたたいた。

 勘十郎はしばらく、一回りも大きくなった武芸者を見上げていたが、大きくうなづいた。

「いいじゃろう。戦で本物の(きも)を鍛えろ」

 武芸者は甲冑に身を固め、大森勘十郎と共に馬に乗って大坂へと向かった。

 そして、武芸者は見た。十四年前の関ヶ原の合戦の時、足軽どもが村人を襲い、略奪の限りを尽くしていたのと、まったく同じ光景を‥‥‥

 大坂に向かう食い詰め浪人たちは『お前らのために戦に行くんだ』というのを大義名分にして、村人たちに対して好き勝手な事をしていた。

 武芸者は腹を立て、やめさせようとしたが、どうにも止める事はできなかった。いくら、彼の剣が強くても、何十人もの浪人たちを止める事は到底できなかった。

 武芸者は大森勘十郎と共に真田幸村(ゆきむら)のもとで徳川軍と戦う事になった。武芸者はこの戦で初めて人を殺した。人を殺すという事は余りにもあっけなかった。そして、戦という大きな力の中では、人を殺すという事に対して何の抵抗も感じなかった。

 武芸者は面白いように人を殺して行った。

 大森勘十郎は戦死した。

「戦がどんなものかわかったか。お前は、こんなくだらん戦なんかに巻き込まれてはいかん。犬死になど絶対にしてはいかん。本物の剣の道に生きるんじゃ」

 それが勘十郎の最期の言葉だった。

 大坂冬の陣は講和という形で終わった。

 武芸者は江戸に帰った。

 翌年の夏、再び、大坂の陣があったが、彼は戦には参加しなかった。そして、翌年、徳川家康は死んだ。

 武芸者は師の小笠原源信斎より新陰流の印可(いんか)をもらい、諸国修行の旅に出た。武芸者はただひたすら剣術の修行をしていた。諸国を巡り、他流試合を何度もしては勝ち続けた。

 武芸者が山奥の岩屋に籠もったのは元和(げんな)九年(一六二三年)の正月の事だった。

 大坂の陣が終わり、世の中は徳川幕府の天下となっていた。しかし、まだ、戦国時代の気風を残し、武者修行と称して旅を続けている武芸者が各地にいた。彼らは武芸に命を賭け、実践を重視するため、時には真剣勝負に及ぶ事も度々あった。

 ちなみに、この時期の有名な武芸者を挙げると、一刀(いっとう)流の小野次郎右衛門忠明は六十四歳。忠明は幕府に仕え、将軍徳川秀忠の剣術指南役として六百石を貰っていた。

 示現(じげん)流の東郷藤兵衛重位(しげたか)は六十三歳。重位は薩摩藩に仕え、島津家久の剣術指南役として四百石を貰っていた。

 富田(とだ)流の富田越後守重政は六十歳。名人越後と呼ばれた重政は加賀の前田家に仕え、一万三千石余りを領する武将であった。

 柳生新陰流の柳生但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)は五十三歳。宗矩は幕府に仕え、小野忠明と共に徳川家の剣術指南役として三千石を貰っていた。

 宗矩の長男、十兵衛三厳(みつよし)は十八歳で、徳川家光の小姓(こしょう)をしている。同じく柳生新陰流の柳生兵庫助利厳(ひょうごのすけとしよし)は四十六歳。利厳は尾張の徳川家に仕え、剣術指南役をしていた。

 片山流の片山伯耆守(ほうきのかみ)久安は四十九歳。久安は豊臣秀頼の剣術指南役だったが、豊臣家が滅んで後、周防(すおう)(山口県)の吉川(きっかわ)家に仕えていた。

 二天一流の宮本武蔵は四十歳。武蔵が(がん)流の佐々木小次郎を倒したのが十一年前の事で、この時も武蔵は修行の旅を続けていた。

 本編の主人公はこの時、三十一歳。三十一歳にして、自分の剣に疑問を持ち、岩屋に籠もったのであった。






針ヶ谷村




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