十
冷たい風の中、五郎右衛門は朝から木剣を振り続けていた。 昼頃、和尚がのっそりと現れた。 「おっ、また棒振り禅を始めたな」と言いながら目を細めた。そして、空を見上げると、「雪が降りそうじゃのう」と言った。 五郎右衛門も木剣を降ろすと空を見上げた。 「この辺りは雪が多いのですか」 「いや、それ程でもない。じゃが、一冬に二、三度、一尺(約30センチ)余りも積もる大雪が降る」 「一尺か‥‥‥」 五郎右衛門は辺りを見回した。 ようやく、雪が溶け始めたというのに、まだ、雪が降るのかと顔をしかめた。 「今年はそんな大雪が二度あった。今度降れば三度めじゃな。しかし、それが最後じゃろう。まもなく、春が来る」 まもなく、春か‥‥‥ 春が来る前に何とかしなくては‥‥‥と思っていたのに、一向に進展しなかった。 「昔、ここに大きなお寺があったそうじゃ」と和尚は杖で、泥だらけの空き地を示した。 五郎右衛門も昔、ここに何かがあったのだろうとは思っていた。今は荒れ果てているが、広々とした平地は人によって作られたように思えた。 「あの岩屋で大勢の僧が修行を積んでいたらしいのう」 「いつ頃の事です」 「五百年以上も昔の事じゃ」 五百年以上も昔と言われても五郎右衛門には見当もつかなかった。百年近く前に、上泉伊勢守が赤城山のふもとにある 和尚は首をすくめると綿入れの襟を合わせた。 「お鶴から、上泉伊勢守殿がここで修行していたと聞きましたが、本当の事なのですか」 「確かな事はわからん。しかし、これ程の修行場はなかなかない。伊勢守がここを見逃すはずはあるまい」 「確かに‥‥‥」 「わしも若い頃、あの岩屋で修行した事があった。不思議な岩屋じゃ‥‥‥夢の中に観音様が出て来たわ」 「えっ、和尚も」 五郎右衛門は驚いた。あの観音様の夢を和尚も見たというのか。 「やはり、おぬしも見たのか」と和尚は五郎右衛門を見上げ、ゆっくりとうなづいた。 「はい。夢に観音様が現れました」 「なかなか、悩ましい観音様じゃったろ」 「はい」 五郎右衛門はあの生々しい夢をはっきりと思い出していた。裸同然の格好で、その気にさせといて、後もう少しという所で変身してしまい、それから後は五郎右衛門を怒らせては喜んでいた着膨れした憎たらしい観音様を。 「あの岩屋の主じゃな。あそこに籠もる者の夢の中に必ず、現れる」 和尚は立ち木のかたわらにある石の上に腰を下ろした。 「若い者をあそこで修行させた事があったが、観音様に悩まされてのう。わけのわからん事をわめきながら下界に下りて行った者が何人もおった。中には谷底に身投げして死んだ奴もおる‥‥‥魔物のような観音様じゃ。おぬしはどうやら打ち勝ったらしいの」 勝ったのかどうかはわからなかったが、悩ましい観音様はあれ以来、現れなかった。 「なんとか」と五郎右衛門は答えた。 「うむ」と和尚はうなづいた。 「わしも悩ませられた‥‥‥修行中、出て来るなと思うと出て来て、出て来てくれと願うと出て来てくれん。わしが観音様に出会ったのは、もう四十年あまりも前の事じゃ。その後、何度か、あそこに籠もったが現れる事はなかったわ。もう、あそこにはおらんのじゃろうと思っておったが、やはり、まだ、おったか。もう一度、会いたいもんじゃ‥‥‥」 五郎右衛門は同じ経験をし、もう一度、観音様に会いたいと言った和尚に親近感を覚えた。目の前にいる和尚が四十年前、あの観音様に翻弄されたのかと思うと、何となく可笑しかった。 「いい 和尚は 「はい。透けるような薄い着物をまとった美しい女子でした」 「女子か‥‥‥わしの時は 「稚児?」と今度は五郎右衛門が怪訝な顔をして和尚を見た。 「それはそれは可愛い稚児じゃった‥‥‥観音様は稚児に化けて、わしを誘ったんじゃ。わしは観音様の誘いを断り続けた。毎晩、毎晩、観音様は現れて、わしを悩ませ続けた。しかし、わしは観音様のお陰で悟る事ができたんじゃ。わしはその晩、お礼を言おうと待っていたんじゃが、観音様はついに現れなかったんじゃよ」 「和尚は 「あの時はな。わしは京都で修行してたんじゃが、一人の稚児に狂い、この山に逃げて来たんじゃ。その事を観音様は知っておられて、その稚児以上の稚児の姿となって現れたんじゃろう」 「成程‥‥‥」 五郎右衛門は遠くの山を眺めた。 江戸に残して来たお雪の姿が思い出された。お雪はわしを慕っていてくれた。しかし、わしはお雪より剣の道を選び、旅に出た。お雪の事はきっぱりと諦めようと心に決めていたのに未練は残っていた。あの観音像を彫っていた時も、お雪の面影を知らず知らずに彫っていたのかもしれない。 お雪と別れて、すでに六年が経ち、わしの心の中で膨らんで行ったお雪の面影が、あの観音様の姿だったのかもしれない‥‥‥しかし、お雪はあんな飲ん兵衛ではない。お雪よりは、お鶴の方に似ている。もしかしたら、観音様はわしがお鶴に会う事を知っていて、お鶴に化けたのか。それとも、観音様がお鶴に化けて、わしをもてあそんでいるのか。 五郎右衛門はお鶴の事を和尚に聞いてみた。 「京都にいた頃、わしはあいつの亭主をよく知っておったんじゃよ。おぬしと同じように武芸者での。おぬしと同じ新陰流の使い手じゃった」 「えっ、新陰流? お鶴の亭主も新陰流を使ったのですか」 「そうじゃ。 「疋田 「そうか、さすがに新陰流には詳しいの」 お鶴の亭主、川上新八郎が新陰流の使い手だったとは驚きだった。試合をする時、お互いに流派を名乗る時もあるし、名乗らない時もある。五郎右衛門は新陰流と名乗った相手と試合をした事はなかったが、名乗らない相手で、新陰流を使うなと思った事は何度かあった。その中の一人が新八郎だったのだろうか。五郎右衛門には思い出せなかった。 「お鶴の亭主はよく、わしの所で座禅を組んでおったんじゃよ。お鶴と一緒になってからも二人でわしの所にやって来てはのろけておったわ。二人が一緒になってから一年位経って、わしは京を離れ、ここに戻って来たんじゃ。わしがこっちに来てから亭主は武者修行と称して旅に出たそうじゃ。そして、そのまま帰らぬ人となった。去年の事じゃ。そして、今年の正月、突然、お鶴は訪ねて来た。亭主の仇を討つと言ってな。お鶴の亭主は武蔵の国で 「まだ、諦めてはいないようです」と五郎右衛門は言った。 「そうか‥‥‥もしかしたら、おぬしに助っ人でも頼んだのか」 五郎右衛門はうなづいた。 「まあ、おぬしが助っ人をするのも構わんが、できれば、お鶴を修羅の道から救ってやってくれ。おぬしならできるじゃろう」 和尚は慈悲深い目で五郎右衛門を見ていた。 お鶴は和尚に自分が仇だという事を言っていないようだった。五郎右衛門は首を振った。 「わしには、まだ、人を助ける事などできません」 「まだ、悩んどるのか」 「和尚、教えてくれ。新陰流を忘れろとは、どういう事なんじゃ」 「まだ、そんな事を言っとるのか」 和尚の目付きが変わった。『喝!』と怒鳴るかと思ったが、困ったもんじゃ、と言った顔をして五郎右衛門を見ていた。 「わしにはわからん」と五郎右衛門は木剣を振り下ろした。 「それじゃよ。その構えをやめる事じゃ」 五郎右衛門は自分の構えを見た。自分で意識したわけではないのに、 「構えをやめる?」 「そうじゃ。いちいち構えるな。構えあって構えなしじゃ。行くな戻るな、たたずむな、立つな座るな、知るも知らぬも。喝!」 それだけ言うと和尚は帰って行った。 五郎右衛門は木剣を持ったまま、たたずんでいた。 「行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも‥‥‥何じゃ、こりゃ‥‥‥構えあって構えなしじゃと‥‥‥くそ坊主め、わけのわからん言葉を並べやがって‥‥‥くそったれ!」 五郎右衛門は立ち木を思い切り木剣で殴った。休まず、殴り続けた。頭の中にかかっている 日暮れ前、お鶴が小唄を歌いながら酒をぶら下げてやって来た時、五郎右衛門は立ち木の側に倒れていた。 「ちょっと、五右衛門さん、そんな所で寝てると風邪ひくわよ」 お鶴は五郎右衛門を揺すり起こそうとしたが無駄だった。 「どうしたんだろ。死んじゃったのかしら」 お鶴は小川から水を汲んで来て、五郎右衛門の顔をめがけて思いきりぶっ掛けた。 ウーンと唸ると五郎右衛門は気が付いた。 「五右衛門さん、駄目よ。あたしに内緒で死んじゃ」 「冷てえじゃねえか」と五郎右衛門は立ち上がると顔を拭い、木剣を拾った。が、木剣は二つに折れていた。木剣を投げ捨て、近くに置いておいた刀を手に取って腰に差し、静かに抜くと上段に振りかぶった。そして、気合と共に振り下ろした。 「違う‥‥‥」と言いながら五郎右衛門は厳しい顔をして立ち木を睨んだ。 「どうしたの」とお鶴は五郎右衛門の顔を覗いた。 「倒れる前、何かがわかりかけたんじゃ。何かが‥‥‥」 五郎右衛門はもう一度、刀を振りかぶり、振り下ろしたが、首を振って、「違う」とつぶやいた。 「もうすぐだわね」とお鶴は言うと岩屋に向かった。 次の日も、吹雪の中、五郎右衛門は倒れるまで立ち木を打っていた。そして、お鶴が水を掛けると目を覚ました。
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