沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第二部




12.直撃弾




 三日目の夜には第六外科病棟は患者さんで埋まってしまった。

 翌日、第一坑道の手前が第七外科として新設された。第一坑道と第二坑道をつなぐ中央坑道の方が先だろうと思っていたのに、そこに患者さんを入れてしまうと、後に第一坑道が病棟になった時、手術室から患者を運ぶのに不便なので、手術室から遠い第一坑道から先に埋めて行くのだという。手術室から第一坑道の手前に患者を運ぶには、奥の坑道を通り、看護婦たちの宿舎と二高女の宿舎を通っても行けるが、看護婦たちが反対したらしい。泣きわめいている患者が目の前を何度も通って行ったら、うるさくて眠れない。そうでなくても昼夜を問わず、手術室から悲鳴が聞こえて来て眠れない。もっと静かな所に移動してくれと文句を言っていた。千恵子たちにしても、二高女の宿舎の脇をうるさい患者たちが通らなくなって、ホッとしていた。

 第七外科病棟は収容人数が四十四人で、各病棟より六人が集められて第七外科勤務となった。千恵子たち第六外科からは日勤のアキ子が引き抜かれ、別れて行った。これで第六外科も六人になって、昼夜三人づつになってしまった。その第七外科も三日で埋まり、第一坑道と第二坑道をつなぐ中央坑道に第八外科が新設された。

 二十一日の午後四時頃、千恵子は小百合と佳代を誘って井戸に顔を洗いに行った。爆撃や艦砲の音は物凄く、少しづつ南下しているようだが、頭上を飛んで行く敵機に気を付ければ、富盛はまだ安全と言えた。

 眠そうな顔をしていた佳代が顔を拭きながら、

「ねえ、あたし、今日から第八外科に移ったのよ」と言った。

 千恵子と小百合は驚いて、「えっ」と言ったまま佳代の顔を見つめた。

「夜中、いえ、お昼か。初江に起こされて、第八外科に行ったのよ。幸江と妙子とスミ子がいたわ。それに初江とあたしで五人なの。あたし以外は皆、日勤だったのよ。それでね、初江に第六外科の夜勤はチーコと小百合だから一緒にやろうって言ってね、初江が夜勤になったのよ」

「そんな、佳代が抜けるなんて‥‥‥」千恵子はその後の言葉が出て来なかった。せっかく同じ勤務になったのに一緒に働いたのはたったの六日だけだった。

「でも、第六外科と第八外科はつながってるのよ」と佳代は何でもない事のように言った。「いつでも顔を合わせられるわ。それに、今まで日勤だった初江も一緒なのよ。第五外科には朋美と鈴代もいるし、六人で一緒に、中央坑道をやってると思えばいいのよ」

「そんな事言ったって無理よ」と小百合が怒っている口調で言った。「チーコと二人だけで四十人もの患者さんを看るなんて、どう考えたって不可能よ」

「どこも一緒なのよ。あたしたちだって二人で四十人を看るのよ」

「あたしたちは四十四人よ。四人も多いわ」

「だって、空いてる寝台がいくつかあるじゃない」

「そんなのすぐに埋まっちゃうわよ」

 千恵子は気が遠くなりそうだった。三人いても休む間もない程、てんてこ舞いなのに、たった二人だけであれだけの患者さんの世話なんかできっこないと思った。

「とにかく、やるしかないのよ。あともう少しの辛抱よ。天長節(てんちょうせつ)には日本軍の総攻撃があって、この戦争も終わるわ」

「そうね。やるしかないわね」と小百合も仕方なく言った。

 千恵子は指折り数えて、後八日も頑張れるのだろうかと自信がなかった。

 天長節(天皇誕生日)の総攻撃は正式に発表された訳ではなかったが、二、三日前から噂となって広まって行った。看護婦さんたちも天長節になれば、この戦争も終わるわ。あともう少しよ、頑張りなさいと励ましたし、前線から送られて来た負傷兵たちも天長節には陸海空の総攻撃が行なわれる。沖縄を囲んでいる敵の軍艦は皆、轟沈(ごうちん)されて、上陸した敵兵は袋の(ねずみ)になるだろう。余裕で飛び回っている憎らしい敵機も帰る場所を失って、海の藻屑(もくず)になるだろうと言っていた。誰もがその事を信じ、日の丸の旗を振りながら那覇に凱旋(がいせん)する事を夢に見ていた。

 前線からの患者さんも増え、首里の状況も次々に伝わって来た。十七日には市役所、師範学校、第二国民学校が炎上して、十八日には首里城、一中、第一国民学校、それに琉球王国の王様だった尚侯爵(しょうこうしゃく)様のお屋敷も燃えてしまった。南風原もひどい有り様で、二十一日には陸軍病院の外科壕が直撃弾を受けて、多数の患者さんが亡くなったという。

 千恵子は首里にいる弟と安里先輩、おばあちゃんと従姉妹(いとこ)の陽子と幸子、それに、南風原にいる姉と浩子おばさんの無事を祈りながら、悪い事は考えないようにして小百合と二人で必死に働いた。

 第六外科で共に働いている古堅(ふるげん)看護婦も一生懸命だった。初めの頃、衛生兵との密会の噂があったので、少し変な目で見ていた所があったけど、苦労を共にするうちに、そんな偏見は吹き飛んでいた。看護婦の中には生徒たちに、あれをやれ、これをやれとやたら命令ばかりする人もいるけど、古堅看護婦はそんな事はなく、まず、自分で見本を見せて、こうやるのよと教え、何でも自分から進んでやるので、千恵子たちも怠けるわけにはいかなかった。

 その日、仕事が終わった後、千恵子たちが井戸端で話し込んでいると古堅看護婦が第八外科の仲村看護婦と一緒にやって来た。千恵子たちは思い切って噂の事を聞いてみた。

 一緒にいた仲村看護婦が笑い出して、「まったく、下らない事がすぐに広まるのね」と言って首を振った。

「そう、あなたたちもその噂を知ってたの。何か、みんなの見る目がおかしいなって思ってたのよ」そう言って古堅看護婦は真相を教えてくれた。古堅看護婦が会っていたのは負傷兵を運んで来た同郷の衛生兵で、突然の再会に驚いて、家族の事などを聞いていただけだという。

「なあんだ、そうだったんですか」と千恵子たちも笑って、「誤解していてすみませんでした」と謝った。

「どうせ、軍医さんたちの噂だろうけど、そんなの一々、真に受けちゃ駄目よ、ろくな事を言わないんだから」と仲村看護婦は少し怒った顔をして言った。その仲村看護婦はいいおっぱいをしてると噂されていた。それは間違いないようだった。体を拭く度にブラウスの下でプルンプルンと揺れていた。

 二十二日の夜、二人の患者さんが亡くなった。一人は背中に重傷を負って、さらに右足を切断された患者さんで、苦しみながら水が欲しいと言って亡くなった。何度も目にしていた死に方だったけど、もう一人の患者さんは初めて見る死に方だった。右足と右腕を切断した患者さんで快方に向かっていると思っていたのに、突然、切断した足が紫色に(ふく)れ上がって悪臭を放ち出した。古堅看護婦に聞くとガス壊疽(えそ)を起こしたという。早く手術をして腫れている部分を切り落とさないと毒が体内に回って危険だと古堅看護婦が手術室に何度も行って掛け合ったけど駄目だった。手術室には次々に運ばれて来る瀕死(ひんし)の重傷患者が何人も順番待ちをしていて入れる余地はなかった。苦しんでいるのを目の前にしながら施す(すべ)もなく、その患者さんは惨めな姿になって夜明け近くに亡くなってしまった。

 予想を上回る負傷兵の数に衛生材料の不足も目に見えて来ていた。毎日交換していた包帯は一日置きとなり、化膿(かのう)止めや痛み止めの注射も節約された。本土から補充する予定も、敵に海上を封鎖されている今の状況では不可能だった。天長節まで頑張るのよ、というのが合言葉のように繰り返された。

 以前、午前中に回って来た治療班も午前中だけで見回る事はできなくなり、夕方まで掛かって治療して回った。本部勤務だった晴美たちも治療班に加わって頑張っていたけど、それでも、すべての患者さんを見回る事はできず、治療は一日置きになっていた。

 夜勤明けでぐっすり眠っていた千恵子は寝台の揺れと物凄い音で目が覚めた。目を開けても何も見えなかった。夢でも見ているのかと思ったが、悲鳴や怒鳴り声が聞こえて来て、ただ事ではないようだ。寝台に上体を起こして目をこすっていると、

「チーコ、大丈夫」と言いながら誰かが駈け寄って来た。見ると砂埃が舞い上がっている中に小百合と佳代と初江の顔があった。三人の後ろでは鈴代と信代が砂だらけになっていて、頭の砂を払っていた。

「何があったの」と千恵子は慌てて寝台から降りた。

「何があったのじゃないわよ。とにかく大変なんだから」と小百合は言った。でも、小百合自身も何が起こったのかわからないようだった。

「ねえ、向こうが大変みたいよ」佳代が第八外科の方を見ながら言って、第八外科に入って行った。

「ねえ、何があったの」と第七外科から出て来た由紀子が第八外科の方を見て、「わぁ」と叫んで第八外科に入って行った。

「何があったのよ」と言いながら千恵子たちも由紀子の後を追った。

 第八外科の患者さんたちが砂だらけになって騒いでいた。中央坑道と第二坑道が交わる四つ角の辺りは砂埃が舞っていて、伊良波看護婦と真栄城看護婦、佳代と由紀子、第八外科の幸江たち、第六外科の悦子たちが固まって、薬剤室の方を見つめていた。他の者たちはそれ程ではないが、佳代は砂にまみれて真っ白だった。

「ねえ、何があったの」と千恵子は佳代に聞いた。

 佳代は黙ったまま、奥の方を指さした。薬剤室の方はひどい有り様だった。ランプが消えてしまったので奥まで見えないが、艦砲にやられて落盤したようだった。

「しっかりしろ」と誰かが言っていて、二人の衛生兵が砂だらけになって、咳をしながら濛々(もうもう)たる土煙の中から現れた。

 千恵子たちが呆然と立ち尽くしていると入口の方から駈け込んで来た衛生兵たちに邪魔だと怒鳴られた。

「あなたたちも戻りなさい」と言って伊良波看護婦と真栄城看護婦は勤務者を連れて職場に戻って行った。千恵子たちは邪魔にならないように様子を見守った。

 入口から次々に衛生兵がやって来て、「大丈夫か」と叫びながら薬剤室の方に入って行った。土煙がようやく消えて、衛生兵たちが持って来たランプや懐中電灯に照らされて中の様子がよく見えた。そこには信じられない光景があった。驚く程の土砂が坑道内に溢れていて、向こう側にある手術室が全然見えなかった。

 衛生兵たちが、金井中尉殿、小川少尉殿、野中伍長殿、北井伍長殿と叫びながら土砂を掘り起こしていた。薬剤室の方までは見えないが、様子からして、すっかり土砂に埋まってしまったようだった。薬剤師の金井中尉と小川少尉、千恵子たちが病院壕を探検した時、案内して来れた野中伍長、それに北井伍長が薬剤室にいたらしい。みんな、大丈夫だろうかと心配していると高良婦長が現れて、「心配ないわ。あなたたちは休みなさい」と言った。

「野中伍長殿は大丈夫なんですか」と信代が聞いた。

「まだわからないけど大丈夫よ。あなたたちは休みなさい。あなたたちが倒れたら患者さんたちが苦しい思いをするのよ」

 換気が悪くて湿気も多い穴蔵暮らしが一月近くも続き、栄養不足と疲労が重なって、倒れてしまった生徒が三人いた。人手が足らない今、千恵子たちも貴重な存在になっていた。倒れないためには最低でも充分な睡眠を取らなくてはならない。後の事は衛生兵たちに任せて、千恵子たちは寝台に戻った。

 下段の寝台はさほどでもないが上段の寝台は砂だらけだった。上段に寝ていた鈴代と信代が文句を言いながら砂だらけの毛布をはたいた。二人だけでなく上段に寝ていた者たちが毛布をはたいたので通路は埃だらけになって、とても眠れる状況ではなかった。千恵子はトヨ子の毛布をはたいてやった。鼻と口を手拭いでふさいで、砂埃が治まるのを待っていると米田軍曹が慌ててやって来て、千恵子たちに、「お前ら、みんな、無事か」と聞いた。

「みんな、無事です」と奥の方から初江がやって来て言った。

「そうか」とうなづくと米田軍曹は薬剤室の方に飛んで行った。

「さっき、朋美が教えてくれたんだけど、看護婦さんたちの所も大変らしいのよ」と初江が言った。

「えっ」と言うなり千恵子は奥の方へ走った。

「どうしたの」と言いながら信代たちも後を追って来た。千恵子たちが奥の坑道に出た時、佳代と小百合が戻って来た。

「駄目よ。怒られるわ。早く休みなさいってさ」

 千恵子たちは奥の坑道を覗いた。手術室の辺りが明るくなっていて、衛生兵たちが薬剤室の方から流れ込んで来た土砂を掘り返しているようだった。手術室の前には、いつも手術待ちの負傷兵が並んでいた。昼間は夜ほど多くはないが、それでも、三、四人は並んでいただろう。その人たちが埋まってしまったのかもしれなかった。艦砲弾の落ちる中、必死になって病院にたどり着いたのに、病院内で艦砲弾にやられるなんて可哀想すぎた。

 手術室の近くに軍医や看護婦たちがいるので、千恵子たちは仕方なく引き返した。朋美の寝台の所で佳代と小百合が話し込んでいた。

「チーコ、古堅さんが怪我したらしいのよ」と小百合が言った。

「えっ、古堅さんが」と千恵子は聞き返した。古堅看護婦の寝台は手術室に近かった。あの辺りも土砂崩れしたのだろうかと心配になった。

「古堅さんは大した怪我じゃないけど、仲村さんは足の骨を折ったみたいよ」と朋美が言って、詳しく説明してくれた。

 千恵子たちが中央坑道の方に飛んで行ったように、奥の方に寝ていた朋美たちは手術室の方に飛んで行った。奥の坑道も土煙が凄く、ランプも消えていてよく見えなかったが、本部の方から軍医や衛生兵たちがやって来て、ランプをあちこちにぶら下げたのでよく見えるようになった。薬剤室のある第二坑道は土砂ですっかり埋まっていた。看護婦たちの寝台も手術室の方から数えて三つめまでが崩れ落ちていた。一つめと二つめの寝台は誰もいなかったのでよかったけど、三つめに古堅看護婦と仲村看護婦が寝ていた。上に寝ていた古堅看護婦の寝台が下で寝ていた仲村看護婦の上に落ちて来て、古堅看護婦が手を怪我して、仲村看護婦が足を怪我したという。

「手術室勤務の金城(きんじょう)さんはその時、薬剤室にいたらしいんだけど、数秒の差で助かったらしいわ。土砂を被ったけど、幸い、かすり傷だけですんだみたい」

「危機一髪だったのね」と小百合が言った。

「そう、危機一髪よ。金城さんで思い出したけど、薬剤室にいた金城一等兵さん、土砂の中から掘り出されて、全身打撲だったらしいわ。骨は異常ないようだって軍医さんが言ってたわ」

 金城一等兵は国頭出身の人で薬剤室の前を通ると必ず、冗談を言って笑わせる面白い人だった。無事でよかったと千恵子たちは喜んだ。

「薬剤室の前に並んでいた患者さんたちはどうなったの」と千恵子は聞いた。

「一人だけ埋まったらしいの。でも軽傷の患者さんで自力で這い出して来たみたい。砂だらけになって手術室にいたわ」

「そう、よかったね」千恵子たちはひとまず安心して、自分の寝台に戻った。

 すでに砂埃も治まっていて、ぐっすり眠っている子もいた。千恵子も横になった。眠ろうと思っても、ここが落盤したらどうしようと心配で眠れなかった。眠っている間に生き埋めになって死にたくはなかった。それでも疲れているので、うとうとしていたら、また寝台が揺れて目が覚めた。

「ひどいわ、もう」と言いながらトヨ子が寝台を直していた。あれ、寝坊したのかしらと千恵子は慌てて起きた。

「小百合ったら起こしてくれればいいのに」と独り言を言うと、

「チーコ、なに寝ぼけてるのよ」とトヨ子が笑った。「まだ一時過ぎよ」

「えっ、どうして、トヨ子、帰って来たの」

「勤務異動があったのよ。あの騒ぎで少し遅れたんだって。あたしは第十外科の夜勤になったのよ」

「第十外科? 次は第九外科じゃないの」

「第九もすぐにいっぱいになるだろうからって、一緒に作ったらしいわ」

「へえ、そうだったの」と言ったものの、第九外科と第十外科がどこにできたのか、千恵子にはわからなかった。

「ねえ、第九と第十ってどこなの」

「第九は奥の坑道よ。あそこは片側しか寝台がないから第二坑道から第四坑道までを看るんだって。寝台の数は四十二よ」

「そこで寝ていた衛生兵の人たちはどこに行くの」

 トヨ子は上の方を指さした。「この上に採石場の跡があってね、そこを掘り抜いた壕があるらしいわ。そこが衛生兵たちの宿舎になっていて、そこに移るって言ってたわ」

 上の壕というのは前に笠島伍長から聞いた事があった。千恵子たちが寝心地が悪いと寝台の文句を言うと、寝台があるだけ上等なんだ。ほとんどの衛生兵たちはここに入れず、上にある採石場で雑魚寝(ざこね)をしていると言っていた。三角兵舎を使わなくなってから患者用の寝台を運び入れたけど、それでも全員には行き渡らなかったという。

「第十外科は第二坑道に作るらしいわ。でも、薬剤室の土砂を片付けてからみたい。それと、あそこが通れなくなっちゃったんで、手術室も上の壕に移るって言ってたわ」

 新設の第九外科と第十外科がいっぱいになれば、もう入る余地はなかった。もしかしたら、あたしたちもどこかに追い出されるのかしらと千恵子は心配した。でも、天長節まであと六日だし何とかなりそうだと思った。

「あたしと房江が夜勤なのよ」とトヨ子は言った。何げなく聞いていた千恵子はしばらくしてから驚いた。

「ねえ、今、房江って言わなかった」

「言ったわよ」

「房江は第六外科にいるのよ」

「だから、房江も第十外科に異動になったのよ」

「そんな馬鹿な。房江が抜けたら日勤も二人だけになっちゃうじゃない」

「仕方ないのよ。どこもみんな四人体制になったのよ」

「そんな‥‥‥」

 夜勤だって二人だけで大変なのに、飯上げが二度もある日勤を二人だけでできるはずはなかった。食罐を早く返さなければ炊事班の人に怒られるし、一々、患者さんの食事の世話までしてあげる時間なんかなかった。

「でもね、第十外科ができるまで、他の病棟の助っ人をすればいいんだって。今晩からあたしが第六の助っ人に行くからよろしくね」

「えっ、ほんとなの」

「ほんとよ。どうせ、三日目の夜には第十外科もできて、患者さんが入って来るだろうけどね」

 たとえ二晩だけでもトヨ子が来てくれるのはありがたかった。トヨ子が一緒だとなぜか心強かった。

「古波蔵さんも一緒なのよ」とトヨ子は嬉しそうに言った。

 千恵子たちが夜勤になった後もトヨ子はずっと日勤だったので、古波蔵看護婦と一緒に騒いでいたようだった。時々、食罐を洗いに来たトヨ子と井戸端で出会い、古波蔵看護婦の噂を楽しそうに話すのを聞いて羨ましいと思っていた。日勤に移ろうかと小百合と相談した事もあったけど、そうなると佳代と初江に会えなくなってしまうので我慢していた。

「でも、古波蔵さんは日勤なのよ。夜勤は久田(くだ)さんなの。あの人、大丈夫かしら。何か頼りないわね。第九の方は上原さんと渡嘉敷さんだって」

「渡嘉敷さんも異動になったの」と千恵子は聞いた。渡嘉敷看護婦は第六外科の日勤だった。

「看護婦さんも各病棟に昼夜一人づつになったんだってさ。さて、寝るか」トヨ子は上の寝台に上がり込んだ。

 伊良波看護婦と古堅看護婦が異動にならなくてよかったと思いながら千恵子も横になった。

 四時頃、小百合に起こされ、千恵子たちはトヨ子を誘って井戸端に向かった。第一坑道の入口の方に第七外科が新設されて以来、千恵子たちは奥の坑道を抜け、第五坑道を通って外に出るようにしていた。病棟を通れば、必ず、患者さんたちに声を掛けられて、無視するわけにもいかず、いつになったら外に出られるかわからないからだった。

 古堅看護婦が寝ていた寝台は崩れ落ちていた。その隣も、その隣もつぶれていた。第二坑道はロープが張られて通行止めになっていて、山のような土砂で埋まっていた。

「あたし、見たのよ」とトヨ子が言った。

 何を、と言うように皆がトヨ子の顔を見た。トヨ子が何かを言おうとしたら、手術室から薬剤師の中島少尉が出て来た。いつも、金井中尉と一緒に薬剤室にいたけど怪我をしているようではなかった。千恵子たちは慌てて敬礼をした。中島少尉は軽く答礼すると暗い顔付きでロープをくぐって土砂に埋まった薬剤室の方に行った。手術室の方を見ると、いつの間にか手術台がなくなっていて、土砂の中から掘り出したのか、砂で汚れた薬品類や梱包された包帯類が置いてあった。

「手術台はどこ行ったの」と佳代が言った。手術室が上の壕に移って、薬剤室がここに移った事をトヨ子が説明した。

「ねえ、何を見たの」と小百合がトヨ子に聞いた。

「井戸端で話すわ」とトヨ子は言った。

 皆、うなづいて、先へと進んだ。左側に並ぶ寝台に衛生兵たちの荷物はなくなっていた。すでに、上の壕に移動したらしい。三つめの寝台に古堅看護婦がいた。

「大丈夫ですか」と千恵子は思わず声を掛けた。

「大丈夫よ」と古堅看護婦は軽く笑った。左手に包帯を巻いているので、千恵子たちが気にしていると、「心配ないわ。ただのかすり傷よ」と左手を動かして見せた。

「よかった」と千恵子はホッとした。

「ただ、仲村さんが足を骨折しちゃってね、第六外科に入院してるのよ。よろしくお願いね」

「第六外科に仲村さんが‥‥‥」

「複雑骨折じゃないから、すぐに治ると思うけど」

「はい、わかりました」と千恵子は小百合とうなづき合って古堅看護婦と別れた。

「ここが第九外科になったら、通りづらくなるわね」と初江と佳代が話していた。

 すでに第九外科には六人の患者さんが入院していた。

「よお、べっぴんさんがお揃いでお見舞いに来てくれたとはうれしいね」と患者さんが言った。見ると薬剤室にいた金城一等兵だった。体中に包帯を巻いて、下の段に横になっていた。

「大丈夫ですか」と千恵子たちは金城一等兵の側に行った。

「まいったよ。何の前触れもなく、突然、天井が落ちて来るんだからな。何もわからないまま、気がついたら土砂に埋まってたよ。俺は金城看護婦に頼まれて、包帯を運ぶ途中だったから打撲だけですんだらしい。もし、薬剤室にいたら重傷を負っていただろう。あの時、薬剤室には金井中尉殿、野中伍長殿、北井伍長殿、谷口上等兵殿、そして、俺がいて、金城看護婦がいたんだ。谷口上等兵殿が助かって左手を骨折したっていうのは聞いたけど、他の人たちの事は教えてくれないんだ。君たち、知らないか」

「看護婦の金城さんはかすり傷だけだって聞いたわよ」と小百合が言った。

「そうか。よかった」

「看護婦さん、水をお願いします」と金城一等兵の隣に寝ている患者さんが苦しそうな声で言った。千恵子たちは回りを見回した。第九外科の勤務者の姿はなかった。

「まったく、幸江と留子は何してるのよ」とトヨ子が文句を言いながら、患者さんに水をあげた。

「看護婦さーん」と別の患者さんが呼んだ。第二外科の方から澄江が顔を出して、千恵子たちを見て、「あら」と驚き、「みんなして井戸に行くの」と聞いた。

「ここの勤務者はどこに行ったのよ」と初江が患者さんに尿器を渡しながら文句を言うと、

「手術室の引っ越しのお手伝いに行っちゃったのよ」と澄江が言った。「六人しかいないから、あたしたちに看ろって言ってね。まったく、一人置いて行けばいいのに、上原さんたら二人を連れて行ったまま、いつになっても戻って来ないのよ」

「まあ、頑張ってね」と澄江を励まして、千恵子たちはその場を離れた。

 第五坑道への曲がり角の先にローソクが灯され、三人の遺体が並べてあった。金井中尉と野中伍長と北井伍長だった。千恵子たちは遺体の前に立ち尽くしたまま呆然となっていた。まさか、死亡者が出るなんて思ってもいなかった。知っている人が三人も急に亡くなってしまうなんて信じられなかった。毎日のように患者さんたちの死を見ていても、身近な人が亡くなるというのはまったく違う事だった。知らずに涙がこぼれて来た。千恵子たちは遺体の前に座り込んで、丁寧に両手を合わせた。

 野中伍長の笑顔が浮かんで来た。夜勤だった真栄城看護婦が第八外科に移って日勤になってから、古波蔵看護婦が二人を会わせてやって、うまく行っているって喜んでいたのに、突然、こんな事になるなんて‥‥‥

 みんな、しんみりとしながら第五坑道から外に出た。第五坑道は斜めに掘られてあるので、富盛集落の井戸に行くには近かった。でも、振り返って見ても、艦砲弾が落ちた薬剤室の上は見えなかった。

「あたし、見たのよ」と井戸端に着くとトヨ子は話し始めた。

 お昼ちょっと前、トヨ子は飯上げに行こうと第三坑道の入口の所で外を眺めていた。破壊された三角兵舎は綺麗に片付けられて、病院壕の前は広場になっていた。今朝は何もなかったのに、何本も杭が打ち込まれ、その上に木の枝葉で擬装した漁網(ぎょもう)が被せてあった。病院壕がいっぱいになったら、あそこに収容するのだろうかと思いながら見ていると、第三外科の芳江と恵美が、「お先に」と言いながら先に出て行った。一緒に行くはずの正美は患者さんに捕まったのか、なかなか来なかった。

「まったく、正美は何やってるのよ」と文句を言いながら第四外科の方を見ていたら、突然、飛行機の爆音が聞こえて来た。

「おーい、気をつけろ」と入口の番をしている歩哨兵(ほしょうへい)が芳江たちに叫んでいた。

 トヨ子は防空頭巾を被って、その場に身を伏せて空を見上げた。どんよりとした雲の中を北の方から低空飛行で近づいて来る敵の爆撃機が一機、チラッと見えた。物凄い爆音に耳を(ふさ)いだ時、ドカーンという爆発音と共に地がグラッと揺れて、壕も揺れた。天井からパラパラと土砂が落ちて来た。恐る恐る顔を上げるともう爆撃機の音は消えていた。壕の奥の方から悲鳴や騒ぎ声が聞こえて来た。

「外は異状ない。どうやら病院壕の上に爆弾を落として行ったようだ」外を眺めながら歩哨兵が言った。

「トヨ子、大丈夫」と正美の声がして、振り向くと、正美はトヨ子のすぐ後ろで身を伏せていた。

「どこに落ちたの」と正美は青い顔をして言った。首を振ったトヨ子に中央坑道の辺りで誰かが騒いでいるのが見えた。天井のランプが落ちてしまったのか、奥の方は真っ暗になっていた。

「向こうが大変みたい」とトヨ子は言って、正美の手を引いて中央坑道の方に向かった。患者さんたちが騒いでいたが、それどころではなかった。第四外科は真っ暗になっていた。

 トヨ子と正美は一人で残っていたトミを大声で呼んだ。

「一体、何があったのよ」とトミが暗闇の中から咳をしながら出て来た。無事を喜んでいたら、奥の方からランプが近づいて来て天井に吊るされた。明かりの下に見えたのは土煙の中にいる二人の衛生兵と上原看護婦だった。上原看護婦はトヨ子たちの所に来て、「みんな、無事ね」と確認してから、「こっちは大丈夫だから、飯上げに行って来なさい」と言って、トミを連れて行った。トヨ子たちは仕方なくその場を離れた。

 入口の所で飯上げから戻って来た芳江たちと出会って、敵の爆撃機から爆弾が落とされた様子を聞き、さらに炊事場で詳しい様子を聞いた。擬装したテントを張っただけの炊事場では自分たちがやられると思い、敵機を見た途端にその場を離れて、サトウキビ畑に身を隠した。トヨ子がチラッと見た通り敵機は一機だけで、低空飛行で近づいて来ると爆弾を落として飛び去って行った。あれは確かに炊事場を狙ったに違いない。たまたま狙いが外れただけだ。別の場所に移動した方がいいかもしれないと言っていたという。

「艦砲じゃなかったんだ」と千恵子たちは驚いていた。いよいよ、ここも敵に狙われ始めた。那覇や首里みたいに爆弾が雨のように降って来るのだろうかと恐ろしさに身震いした。

 以前、職場への行き帰りに通っていた薬剤室の前が通れないので、千恵子たちは第八外科を通って、第六外科に行かなければならなかった。通り抜けるまで見ていてと佳代と初江に頼んで、何とか通り抜けた。その代わり、第五外科の朋美と鈴代が第六外科を通り抜ける時は千恵子と小百合が患者さんたちを見ていた。

 古堅看護婦は第四外科を通って来たようだった。千恵子たちを見ると、「頑張りましょ」と手を上げて笑った。

 仲村看護婦は一番手前の下段の寝台に寝ていた。左足を石膏(せっこう)で固められ、千恵子たちを見ると、「ごめんなさいね。迷惑かけちゃって」と軽く笑った。

「早くよくなって下さい」と言って、千恵子たちは飯上げに行った。

 トヨ子が言っていたように炊事場の位置が変わっていた。広場の中央辺りにいたのが隅の方に移って、以前より増して擬装していた。炊事場から病院壕の方を見ると、薬剤室の上辺りの樹木が何本も倒れ、土砂を被った草木が白くなっていた。大きな穴が空いているのだろうが、そこまでは見えなかった。

 炊事班の人たちは炊事場が狙われたに違いないと言っているけど、広場に作られた何だかわからない施設が陣地を作っていると間違われて狙われたような気がした。

 帰って来ると古堅看護婦と一緒にトヨ子が患者さんの世話をしていた。千恵子と小百合は、よかったねとうなづき合った。

 その夜、亡くなった三人のお通夜が行なわれた。僧侶だったという鈴木上等兵が一晩中、お経を唱えていて、時折、千恵子たちの職場にも聞こえて来た。野中伍長の陽気な笑顔が思い出されて、悲しくなって来たけど、苦しんでいる患者さんたちから絶えず声を掛けられ、悲しんでいる暇はなかった。







山部隊第一野戦病院の推定図



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