酔雲庵

時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲





天狗




 五月二十一日、徳川家康と穴山梅雪は長谷川藤五郎の案内で京都と堺を見物するため、安土を発って上洛した。

 家康を見送ると、信長は堀久太郎を使者として備中の藤吉郎のもとへ送った。信長自身もまもなく出陣するに違いないが、小田原から風摩小太郎はやって来なかった。

 夢遊とお澪は、間に合わないのではないかとハラハラしながら待っていた。

 鴬燕軒の庭園に咲く紫陽花(あじさい)が雨に濡れている。

 夢遊とお澪は紫陽花を眺めながら、茶室でお茶を飲んでいた。

「早いわネ。もうすぐ半年になるのネ」とお澪が池を眺めながら言った。

「何が半年なんじゃ?」と夢遊は屋根から落ちる雨垂れを見ていた。

「夢のようなお正月からよ」

「そうか、もう、そんなに経つのか‥‥‥今だって、わしは夢のようじゃぞ」

 夢遊は、涼し気な単衣(ひとえ)を着て雨を見ているお澪を見た。

「あたしだってそうだけど、いつまで続くのかしら?」

 お澪は夢遊をチラッと見てから、天目(てんもく)茶碗の中のお茶を覗いた。

「仕事が終わったら、小田原に帰るのか?」と夢遊は聞いた。

「帰らなければならないわ。信長様が死んだら、向こうは忙しくなるもの」

「そうじゃな。わしも忙しくなるのう。しかし、また、会えるじゃろう」

「そうネ、会えるわよネ」

 お澪は立ち上がって、縁側に出た。

「ネエ、このおうちはずっとこのままにしておいてネ。あたしたちの愛の巣なんだから」

「愛の巣か‥‥‥うむ、そうしよう。そなたとの約束をまだ、果たしてねえからのう」

「なあに、約束って?」

「満開の梅を眺めながら、一緒に風呂に入る事じゃ」

「そうだったわネ」とお澪は笑って湯殿を眺めた。「来年の春、実現するかしら?」

「梅が咲いたら、迎えに行くさ」

「小田原まで?」

「どこまでも」

「待ってるわ。あたしも来られたら来る」

 翌日、風摩太郎が父親、小太郎を連れてやって来た。二人とも山伏の姿をしていた。

 夢遊が思わず、頭を下げてしまう程、風摩小太郎は貫録があり、目に見えない凄みが感じられた。

 小太郎は挨拶の後、夢遊から状況を聞くと、大きくうなづいた。

「そなたの事は太郎から聞いた。そなたが羽柴殿の陰である事も聞いた。そなたは羽柴殿を信長の後継者とするため、弔い合戦をやらせるつもりでいるとか?」

 小太郎は落ち着いた静かな目で、夢遊を見ていた。

「はい。そのつもりです」と夢遊は答えた。

 夢遊は小太郎という男の人間的な大きさに圧倒されていた。

「うむ。わしらの目的は信長を殺すだけじゃ。信長が死ねば、わしらは引き上げる。その後、十兵衛が勝とうと羽柴殿が勝とうが、わしらは手出しはしない。ただ、十兵衛のもとにも甲賀者がかなりいる。気を付ける事じゃ」

 もうすぐ日が暮れるというのに、小太郎父子はすぐに、明智十兵衛の城下、坂本へと向かった。

 夢遊とお澪は次の日、船で坂本に行き、城下にある小野屋を目指した。使い番の頭、半兵衛も組紐(くみひも)を売る行商人に扮して、配下の者たちを連れて坂本に移った。

 坂本城下は戦の準備で慌ただしく、侍や町人が大声でわめきながら大通りを行き来していた。

 小野屋に太郎はいたが、小太郎はいなかった。昨日の夜、城に入ったまま、まだ、帰って来ないという。

「大丈夫かのう」と夢遊は客間の縁側から、城を見上げながら心配した。

「大丈夫よ」とお澪は自信あり気に言った。「あたし、十兵衛様の事を色々と調べてみたの。そしたら、結構、苦い思いをしてるのよ」

「信長を恨んでるのか?」

「多分ネ。まず、三年前に十兵衛様は丹波の八上城を攻めた時、お母様を人質にして、波多野左衛門大夫様を降伏させたの。十兵衛様は左衛門大夫様を安土に送ったけど、信長様は降伏を認めないで殺しちゃったのよ。お陰で十兵衛様のお母様は殺されたわ」

「信長はどうして、降伏して来た者を殺したんじゃ?」

「左衛門大夫様は降伏する前、一年半も籠城(ろうじょう)してたのよ。今頃、降伏しても遅いって殺しちゃったんじゃない。それと、十兵衛様が信長様の許しを得ないで降伏させたから、怒ったのかもしれない」

「信長に母親を殺されたというわけか」

「本当はお母様じゃなくて、伯母様だっていう噂もあるけど、身内を殺されたのは確かだわネ。それに、四国の事も十兵衛様は気に入らなかったみたい。十兵衛様は信長様に命じられて、四国の長宗我部(ちょうそかべ)様と講和して姪御(めいご)さんを嫁がせたのよ。四国の事は自分に任せてくれるんだろうと思ってたのに、信長様は長宗我部様を討伐(とうばつ)する事に決めたの。そして、三男の三七様(信孝)を四国平定の大将に命じたのよ。十兵衛様はガッカリしてると思うわ。それに、性格的な問題もあるみたい。律義で真面目な十兵衛様は信長様の進歩的な考えに付いて行けなくなったのかもしれないわ」

「あれが進歩的な考えか?」

「寺社の権力を奪って、商人や職人たちを座から解放したのは進歩的な考えよ。比叡山の焼き打ちや本願寺門徒の殺戮(さつりく)はやり過ぎだけどネ」

「伊賀攻めもじゃ」

「そうネ。十兵衛様は信長様のやり方を苦々しく思ってるわ。十兵衛様が信長様を殺す動機は充分にあるのよ」

「うむ。動機はあるかもしれんが、信長の襲撃など簡単な気持ちではできまい。下手をすれば、主殺しの汚名を着せられ、滅び去る事もあるんじゃ」

「でもネ、回りの状況を見れば、十兵衛様に有利な事ばかりなのよ。柴田様は北陸にいて上杉氏と戦ってるでしょ。滝川様は関東よ。羽柴様は備中で毛利氏と戦ってる。丹羽様はまだ安土にいるけど、間もなく四国に向かうはずよ。徳川様は京都見物してるし、十兵衛様が信長様を殺しても、すぐに刃向かって来る敵はいないのよ。信長様が亡くなれば、織田家はバラバラになるわ。十兵衛様が京都と安土を押さえて、上杉氏、毛利氏、それと北条氏と同盟すれば、生き残れない事もないわ。十兵衛様は徳川様と仲がいいようだから、徳川様と同盟するかもしれないわネ」

「ふーむ」と夢遊は唸った。「信長を()るには、まさしく、絶好の機会じゃな。十兵衛がうまく乗ってくれるといいがのう」

 風摩小太郎が帰って来たのは、その日の夜だった。

「どうでした?」と太郎が駈け寄ったが、小太郎の顔は明るいとは言えなかった。

「一晩中、話し合ったんじゃが、十兵衛はうなづかなかったわ‥‥‥悩んでおる」

「ダメじゃったのか‥‥‥」と夢遊はうなだれた。

「いや、ダメとは言えん。何とかねばって、暗号を決めて来た」

「暗号?」

「ああ、奴がやる気になったら、その暗号を西之坊に伝えてくれと言ってある」

「どんな暗号なのです?」と太郎が身を乗り出して聞いた。

 皆、小太郎に注目した。

「『時は今』じゃ」と小太郎は言うと、皆の顔を見回しながら、うなづいた。

「時は今‥‥‥十兵衛様が西之坊様にそう言えば、十兵衛様は信長様を襲撃するのネ?」

 お澪は小太郎にそう言うと、夢遊の顔を見つめた。

「時は今か‥‥‥」と夢遊もつぶやき、小太郎を見ると、「それはいつなんじゃ?」と聞いた。

「分からん。奴はじっくりと考えてからじゃねえと行動に移す事ができん性質(たち)じゃ。だが、一旦、決めた事は必ず、実行する。奴の決心が固まるまで、ジックリと待つしかあるまい。それなりの準備をしてのう」

 風摩小太郎は太郎を残して、京都に向かった。作戦を成功させるために現場を調べ、忍びたちを配置させるためだった。

 夢遊、お澪、風摩太郎の三人は、十兵衛が西之坊に暗号を言うのを待ちながら、坂本城下の小野屋で待機していた。

 翌日の昼過ぎ、夢遊はジッと待っている事ができず、「ちょっと、十兵衛の顔を見て来るかのう」と言い出した。

「そうネ。顔色を見れば、十兵衛様にやる気があるかどうか分かるかもネ。会ってくれるかどうか分からないけど、行ってみる?」とお澪も行く気になっていた。

「ちょっと待ってくれ」と横になっていた太郎が止めた。「二人が一緒に行くのはまずいと思うがのう」

「アラ、どうして?」とお澪は聞いた。

 太郎は上体を起こすとお澪を見た。

「十兵衛殿はそなたが北条家とつながりのある事を知っている。当然、今回の作戦に加わっていると思うだろう」

「もしかしたら、十兵衛はわしの正体も知っているのか?」と夢遊は刀を腰に差しながら聞いた。

 太郎はうなづいた。

「西之坊から聞いて、知っている可能性はあります」

「わしと藤吉郎の事もか?」

「多分」

「そうか、そうなると確かにまずい事になるのう。北条家と藤吉郎がつながってると思われてしまう」

「そうです。羽柴殿が今回の作戦に加わっている事が十兵衛殿にバレてしまうと、十兵衛殿は信長を襲撃した後、羽柴殿を警戒します。そうなると、羽柴殿の弔い合戦は難しくなりますよ」

「うむ。まさしく、その通りじゃ。わしは何も知らねえ振りをして、一人で行った方がいいな」

 夢遊はお澪を見た。

「そうネ。あたしはやめておくわ。小太郎様の後にあたしが顔を出したら、なんか催促してるみたいだしネ」

 夢遊は小野屋にあった高麗(こうらい)茶碗を土産に持って坂本城に向かった。

 城内は戦の準備に慌ただしく、十兵衛に会うのは難しいと思われたが、十兵衛は機嫌よく夢遊を迎えた。

「よう来たのう。丁度、そなたの事を考えていた所じゃ」

 十兵衛は夢遊を四階建ての天守の最上階に案内した。生憎、天気が悪く、空は雲で覆われ、琵琶湖は鉛色に輝いていた。

 十兵衛は琵琶湖を眺めながら、「わしはすでに、五十を過ぎてしまった」とポツリと言った。

「上様にお仕えして、もう十五年になる。十五年間、わしは脇目も振らずにガムシャラに生きて来た‥‥‥色々な事があったわ」

 夢遊は黙って、十兵衛の話を聞いていた。何となく、いつもの十兵衛とは違っていた。

「わしはの、そなたの生き方を時々、うらやましいと思う事があるんじゃ。そなたは茶の湯にも詳しく、連歌にも詳しい。様々な書物も読んでいて知識も豊富じゃ。そのくせ、そんな物は何でもないというような顔をして遊んでいる‥‥‥最近のう、わしは過去を振り返って、わしの生き方は正しかったんじゃろうかと思うんじゃ。別の生き方もあったんじゃないだろうかと思うんじゃよ。わしにはそなたのような気ままな生き方はできん。しかし、もっと他の生き方があったんじゃないかとのう」

「どうかしたのですか?」と夢遊は聞いた。

 十兵衛は夢遊の顔を見ると、かすかに笑って首を振った。

「最近、何となく、疲れてのう。そろそろ隠居でもして、のんびり暮らしたいと思ったんじゃ」

「御冗談を‥‥‥上様はまだまだ、十兵衛殿に働いてもらうつもりでおりましょう」

「じゃろうの‥‥‥わしの跡継ぎ、十五郎の奴もまだ十四じゃ。あと五、六年は働かなくてはなるまい」

 十兵衛は高麗茶碗の礼を言い、毛利攻めが終わったら、これでお茶を飲もうと言った。

「そうじゃ、安土の池田町に連れて行ってくれんか。噂に聞く、そなたの豪遊振りを一度、見たいと思っていたんじゃ」

 十兵衛は陽気に笑った。しかし、その目は暗く沈んでいた。

 小野屋に帰るとお澪と太郎が、十兵衛の様子を聞いて来た。

「よく分からんわ」と夢遊は答えた。「戦が終わったら、池田町に連れて行ってくれと言いおった」

「遊女屋に?」とお澪が首をかしげた。

「豪遊したいと言ったんじゃ」

「十兵衛殿は欲求不満なのか?」と太郎が眉を寄せて首をひねった。

「奥方様はお亡くなりになったけど、側室はいるんじゃないの?」

「当然、いるじゃろうな。欲求不満と言っても女子じゃなくて、ハメをはずして馬鹿騒ぎしてえんじゃねえのか?」

「かもネ。十兵衛様はお酒も飲まないし、真面目過ぎるものネ。でも、十兵衛様があなたと一緒に池田町で遊んでたら、気が狂ったんじゃないかって思われるわよ」

「口先だけじゃろう。実行には移せんな」

「十兵衛殿も馬鹿騒ぎをしたいと思う事はあるけど実行はできない。そういう欲求不満が溜まってるんじゃないですか。だとすると、それが爆発して信長を襲撃する事も充分、あり得ますよ」太郎はそう言って、大丈夫だというように、うなづいた。

「だといいんじゃがな」

 夢遊のもとには使い番衆によって各地から情報が集まって来た。

 坂本にいる角右衛門は薬売りに扮して、明智の忍びを調べていたが、愛宕(あたご)山の山伏、西之坊が怪しいと言って来た。夢遊は西之坊は風摩の仲間だと教えた。

「西之坊は風摩ですか‥‥‥さすがですね。十兵衛は西之坊をかなり信頼しているようです。多分、西之坊が中心になってると思いますが、甲賀者もいます。飯道山の薬売りからたどって行ったら、葛城(かつらぎ)又五郎という男が見つかりました」

「葛城又五郎か‥‥‥」

「御存じですか?」

「奴の兄貴なら知ってる。兄貴は六角氏に仕えていて信長に殺されたはずじゃ。弟が十兵衛に仕えていたとはのう」

「どうします?」

「うむ。十兵衛が信長を殺すとなれば、奴は喜んで働くじゃろう。手を引けと言っても引くめえな。しばらく、様子を見るか‥‥‥十兵衛が決心した後、奴が命じられて備中に行くような事があったら、消せ。信長の襲撃に加わるようじゃったら放っておけ。風摩が始末してくれるじゃろう」

 長浜にいる権右衛門からは、藤吉郎の奥方様たちを逃がす準備は整ったと知らせて来た。伊吹山麓に適当な場所を見つけ、食料や衣料、武器に薬など必要な物資は皆、運び込んだという。

 京都の宗仁からは、毛利と明智につながりのある者はすべて調べ上げ、見張りを付けてあると言って来た。信長の長男、信忠は信長の馬廻衆と共に妙覚寺(みょうがくじ)に入り、家康の接待をしながら、信長の宿所となる本能寺で盛大なお茶会を催す準備をしている。噂によるとお茶会は六月一日の模様と知らせて来た。

 備中高松にいる郷右衛門からは、高松城は水攻めにあって、城下一帯は水の中に埋もれてしまったが、二十一日に五万近くにも及ぶ毛利の大軍が攻め寄せて来て、今、藤吉郎の軍と睨み合っていると知らせて来た。

 毛利軍は信長が大軍を率いてやって来る事を知っているので、安国寺恵瓊(えけい)を使者として講和を求めて来たが、藤吉郎は美作(みまさか)(岡山県北東部)、伯耆(ほうき)(島根県西部)、備中(岡山県西部)、出雲(島根県東部)、備後(広島県東部)の国を織田方に引き渡し、高松城主の清水長左衛門の切腹を条件としたため、交渉は難航している。交渉中のため、すぐには攻めて来ないと思うが、もし、敵の気が変わって攻めて来れば、藤吉郎は危機に陥るだろうとの事だった。

 毛利の本拠地、安芸(あき)(広島県西部)に行ったくノ一からは、まだ連絡は来なかった。

「六月一日なのネ?」とお澪が夢遊に聞き直した。

「一日にお茶会をやるらしい。となると信長が京都に行くのは前日の五月二十九日という事かのう」

「そして、二日には 中将(ちゅうじょう)様(信忠)と一緒に備中に向かうのネ」

「多分な」

「という事は十兵衛様が信長様を襲うのは二十九日の夜か、一日の夜しかないわ。あと五日しかないのよ」

「五日か‥‥‥短えのう」

 夢遊は寝そべると天井を眺めた。

「黄金の方は大丈夫なの?」

「いや、まだじゃ」

「のんきネ。間に合わなくなるわよ」

 お澪は夢遊の顔を覗き込んだ。

「信長が死んでから、すぐにやる事もあるめえ。孫一が危険なんじゃ」

 夢遊は下からお澪の顔を見上げ、お澪の膝の上に頭を乗せた。

「そうか、孫一様は信長様の後ろ盾で雑賀をまとめたんだったわネ。信長様が亡くなったら困る立場にいるのネ」

「そうじゃ。奴が鉄砲隊を率いて邪魔して来たら困るんじゃ。奴に知らせるのはギリギリでいい。信長が死んだと知れば、奴は間違えなく話に乗って来る」

「でも、あまり、のんびりしてると黄金はどっかに行っちゃうかもよ。信長様が出陣した後、誰かが留守を守るんでしょ。その人が盗んじゃうんじゃないの?」

 お澪は夢遊の茶筅髷(ちゃせんまげ)で遊んでいた。

「いや、黄金は地下の蔵の中にある。あそこに入る鍵は信長以外、持ってはいめえ」

「壊すかもしれないわよ」

「うむ、その可能性はある。だが、安土の留守を守る者は信長に信頼されてる奴じゃ。信長が殺されたとしても子供たちはいる。跡を継ぐべき者が来るまで、城を守るに違えねえ」

「十兵衛様が攻めて来たら?」

「そうなったら、敵に渡す前にどこかに運ぶかもしれんのう」

「とにかく、早い方がいいわよ」

 お澪は夢遊の茶筅髷に巻いてある組紐をほどいてしまった。

「十兵衛が決心を固めたら、新堂の小太郎を雑賀に送るつもりじゃ。間に合わなければ仕方がねえ。後でゆっくりとかき集めるさ」

 夢遊の髷がほどけて、ザンバラ髪になった。

「コラ、やったな」と夢遊は髪を振り乱しながら、お澪を押し倒した。

 お澪は笑いながら、夢遊の下でもがいていた。

 二十六日、十兵衛は答えを出さないまま、小雨の降る中、兵を引き連れて、丹波の亀山(亀岡市)に移った。

 十兵衛を追うように夢遊、お澪、太郎の三人は亀山に移動した。

 太郎はジッと待っている事ができず、山伏姿になって、西之坊のもとへ出掛けた。

 夢遊とお澪は亀山城下の旅籠屋に入り、城内にいる十兵衛を見守っていた。

「久し振りに二人きりになれたのう」と夢遊はニヤニヤしながら、お澪を抱き寄せた。

「そんな場合じゃないでしょうに」とお澪は言ったが、離れようとはしなかった。

「じゃがのう、十兵衛が『時は今』と言ってしまえば、また、忙しくなる。当分、そなたとは会えなくなるからのう」

「どうして、会えなくなるの?」

「どうしてって決まっておろう。わしは備中に行く。そなたは小田原に帰るんじゃろう」

「そんな事、あたし、言ったかしら?」

「しかし、安土はもう終わりじゃ」

 夢遊はお澪を離すと腰を下ろした。

「安土は終わっても、信長様に代わる人とつながりを持たなくてはならないの」

 お澪は夢遊の肩をさわった。

「という事はもうしばらく、こっちにいるのか?」

 お澪はうなづくと、夢遊の前に座った。

「あたしはネ、信長様の跡を継ぐのは藤吉郎様がいいと思ったの。それで、あなたと一緒に備中に行く事に決めたの」

「なんじゃと? 風摩は助けてくれるのか?」

「いいえ。風摩の仕事は信長様を殺す事だけ。後の事には興味はないの。でも、風摩と小野屋は別なのよ。風摩の人たちが小野屋を利用してるのは確かだけど、小野屋は風摩のためにあるわけじゃないのよ。別々な組織なの。小野屋としては藤吉郎様を応援する事に決めたのよ。今まで、小野屋は関東が中心で、関西はただの出先機関に過ぎなかったわ。でも、これからは、それではダメだって気づいたの。北条家のためにも、関西の事をいち早く知らなければ時代の流れに乗り遅れちゃうわ。今のうちに恩を売っておけば、藤吉郎様の新しいお城下に小野屋を出す事ができるでしょ」

「備中に行ってどうするんじゃ? 戦場に行くんじゃぞ」

「知ってるわよ。あたしの配下にも一流の忍びがいるのよ」

「風摩以外の忍びがおるのか?」

「そう。風摩の人たちはあたしの命令じゃ動かないでしょ。あたしだって小野屋の女将として色々と調べる事があるのよ。あなただって商売してるんだから分かるでしょ。儲けるためには、色々な情報を集めなくちゃならないって」

「確かにそうじゃが‥‥‥そなたが忍びを使っていたとはのう。という事はジュリアを捕まえたのは風摩じゃなくて、そなたの忍びじゃったのか?」

「そうよ。あの時点で、風摩は安土にはいなかったわ」

「そうじゃったのか‥‥‥しかし、そなたの店に忍びらしい奴はいなかったぞ」

「なに言ってるのよ。あなたのお店と同じよ。全員が忍びなのよ」

「主人の与兵衛もか?」

「そうよ。ああ見えても、若い頃は戦場を駈け回っていたそうよ」

「そうは見えんの」

「あなたの所の藤兵衛様だってそうでしょ」

「まあ、そうじゃ。あまり血走った者は店に置けんからのう。という事は、そなたもくノ一なのか?」

「一応はネ」

「驚きじゃな。わしはすっかり、そなたに騙されていたわけじゃ。そなたが敵じゃったら、わしはすでに死んでいたのう」

「そうネ‥‥‥琵琶湖に浮かんでいたかもネ」

「恐ろしい女子じゃ」

「いやになった?」とお澪は顔を近づけて来た。

「ますます惚れたわ」

 夢遊はお澪を抱き寄せると、お澪の口に吸い付いた。

「でも、十兵衛様、やる気があるのかしら?」

 お澪は夢遊の首にぶら下がりながら言った。

「明日はもう二十七日よ。あと三日したら信長様は京都に行くわ」

「十兵衛も悩んでるんじゃろう。わしらが一緒に悩んでもどうにもならんわ」

 夢遊はお澪の着物の帯を解いていた。

「そうネ」お澪は笑うと夢遊の体をまたぎ、夢遊を押し倒した。

 翌日、十兵衛は数人の家臣を引き連れ、西之坊と共に愛宕山に登った。風摩太郎は西之坊の弟子に扮して従っていた。

 夢遊もお澪と別れ、使い番の頭、半兵衛と共に山に登った。お澪も付いて行きたがったが、女人禁制(にょにんきんぜい)の愛宕山には入れなかった。

 愛宕山は古くからの修験(しゅげん)の山だった。山頂の奥の院に太郎坊という天狗を祀り、大勢の山伏たちが山中で厳しい修行を積んでいた。天狗信仰と共に山内にある勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)も武士の間で信仰され、戦に明け暮れていた戦国時代には特に崇拝されていた。

 山頂の白雲寺(はくうんじ)に着くと十兵衛は本殿に両手を合わせてから、おみくじを引いた。

 夢遊と半兵衛は木陰から十兵衛を覗き、まだ、迷っているなと感じた。

 十兵衛は三度、くじを引いた。三度目のくじを見て、かすかにうなづき、両手を合わせ、頭を下げた。長い間、ジッと拝み、ようやく、顔を上げると西之坊に何やら言った。

 とうとう、『時は今』と言ったなと夢遊は半兵衛と顔を見合わせたが、西之坊はただ、うなづいただけで、十兵衛を奥の院の方に案内して行った。一通り参拝した後、一行は威徳院(いとくいん)に入った。

 しばらくして、京都から登って来たらしい連歌師、里村紹巴(じょうは)らの一行が威徳院に入って行った。紹巴と十兵衛が仲のいい事を知っている夢遊は、あらかじめ、ここで落ち合う事になっていたのかと首をかしげた。

 暗くなる頃、十兵衛が西之坊と共に威徳院から出て来た。威徳院の裏口にいた半兵衛が十兵衛の後を追って行った。夢遊も後を追おうとすると、太郎に呼び止められた。

 太郎は夢遊の顔を見て、首を振った。

「まだ、ダメか。本当に間に合わなくなるぞ」

「素振りには出しませんが、かなり、迷っているようです」

「どこに行ったんじゃ?」

 夢遊は十兵衛の後ろ姿を目で追っていた。

「奥の院の籠もるそうです」

「最後の神頼みか‥‥‥こんな事なら、くじに細工でもしておけばよかったのう」

「ええ‥‥‥今晩が山でしょう。白と出るか、黒と出るか」

「奥の院の太郎坊殿にお願いするしかねえか」

「そうですね」

 二人は本殿に両手を合わせた。

 夢遊は十兵衛を見張るのをやめ、後の事を半兵衛に任せて、知らせを待っているお澪のもとへと暗い山道を駈け下りた。その様はまさしく、天狗のようだった。

 暗闇の中、お澪は山の入り口で待っていた。

「こんな所にずっといたのか? 天狗にさらわれるぞ」

「だって、すぐに帰って来ると思ったもの」

「どうして?」

「だって、十兵衛様は決心を固めて、うまく行くようにお願いしに行ったんでしょ?」

 夢遊は首を振った。

「まだ、決心してないの?」

「ああ、今晩、太郎坊殿とじっくり語り明かすそうじゃ」

「それじゃア、明日の朝か‥‥‥」

「そういう事じゃな」

 夢遊はお澪を抱き上げると、「前祝いと行こう」と旅籠屋を目指して走り出した。

 翌朝、夢遊は夜明け前に山に登った。白雲寺に着いた頃には夜が明けていた。

 途中で、いい知らせを持った半兵衛と出会うに違いないと思ったが、半兵衛は木陰でのんきに眠っていた。太郎は暇そうに境内をブラブラしている。

「まだです」とくたびれたような顔をして太郎は言った。

「太郎坊もダメじゃったのか‥‥‥このまま、山を下りて備中に向かうのか?」

「かもしれません。今、毛利征伐(せいばつ)の戦勝祈願(きがん)のための連歌会をやってますよ」

「朝っぱらから、連歌会か?」

「ええ。百(いん)、詠むそうですから、昼近くまでかかるでしょう」

「紹巴殿が一緒にいたので連歌会をやる事は分かっていたが、決心を固めた後じゃと思っておった」

「決心は固めたんじゃないですか、備中に行くと」

 太郎は両手を広げて、もうダメだと言うように首を振った。

「威徳院でやってるのか?」と夢遊は威徳院を(あご)で示した。

「はい。西之坊殿も一緒です」

「おぬしは連歌はやらんのか?」

「どうも、苦手でして」

「そうか‥‥‥これから、どうしたらいいんじゃ?」

 夢遊は石段に腰を降ろした。

「作戦を立て直すしかないでしょう。ただ、十兵衛殿は風摩の動きを知ってしまった」

「殺すのか?」

「仕方ないでしょう。信長にしゃべる前に消さなければならないでしょうね」

「馬鹿な奴じゃな。どうせ、殺されるのなら、信長を殺せばいいものを」

 連歌会が終わるのを待っていてもしょうがないと夢遊が帰ろうとした時、西之坊が威徳院から出て来て、二人の所にやって来た。

 その顔付きは、ただ事ではなかった。

「言ったんですね?」と太郎が聞いた。

 西之坊は重々しく、うなづいた。

「十兵衛の奴、発句(ほっく)で言いおったわ」

「ナニ、連歌に使ったのか?」

「時は今、天が下しる五月(さつき)かな‥‥‥」

 夢遊と太郎は西之坊の言った句を口にした。

「わしはドキッとして、脇句をなかなか付けられなかったわ」

「どう付けたんですか?」と夢遊は聞いた。

「水上まさる庭の夏山、と付けた。庭を眺めて詠んだだけじゃ。ハッとしたのは、わしだけじゃなかったぞ。紹巴も十兵衛の発句には驚いたはずじゃ。十兵衛の心を読んだかもしれん‥‥‥とにかく、十兵衛はやる気じゃ。早く、知らせてくれ」

 半兵衛は起きて、西之坊の話を聞いていた。夢遊にうなづくと京都へと飛んで行った。

 夢遊と太郎も半兵衛を追って飛ぶような速さで山を下りた。

 参道は途中で二手に分かれ、真っすぐ行けば京都へ行き、右に曲がれば亀山だった。半兵衛と太郎は真っすぐ、京都へと向かった。

 水尾の先で夢遊は風摩小太郎と出会った。お互いに風のように駈けていたので、すれ違ってから気づいて、振り返った。

 知らせが遅いので、京都から亀山に行き、お澪から聞いてやって来たという。

 夢遊から話を聞くと、「よし」と小太郎はうなづき、夢遊を木陰に誘い、「そなたに頼みがあるんじゃ」と言った。

 何事かと夢遊は小太郎を見た。

「京都の準備は整った。絶対に失敗しないように配下の者を配置した。そこで、そなたに頼みたいのは、そなたの忍びが京都で動かないようにしてほしいんじゃ」

「は?」

「同士討ちを避けたい。本能寺を明智の大軍が襲撃すれば、京都は大混乱におちいる。違う目的を持った忍びが動けば、必ず、ぶつかる。一々、敵か味方か確認している暇はあるまい」

「しかし‥‥‥」

「そなたの目的は信長の死を毛利に知らせないようにする事じゃろう?」

「はい」

「信長を殺した後、わしらが明智の忍びを倒す。それと、そなたが調べさせた明智と毛利の関係者も見張り、毛利のもとへ行く使いの者は始末する。それなら文句はあるまい」

「そこまで、やっていただければ、こちらとしても備中に集中できますから」

「うむ、そうしてくれ。ただし、信長が殺されたとなれば、その噂はアッと言う間に広がって行くじゃろう。その噂までは止める事はできんぞ」

「はい。それはわしらがやっても同じ事です」

「頼むぞ」

 小太郎は山中を通って、京都へ向かった。

 夢遊は亀山に帰り、待機していた使い番の勘八を長浜へと飛ばし、新五はそのまま亀山に置いて十兵衛の動きを見張らせ、明智の忍びを追って亀山に来ていた角右衛門は備中に飛ばせた。

 旅籠屋に帰った夢遊はお澪にすべてを話し、お澪と共に安土へと向かった。途中、京都の我落多屋に寄り、宗仁に小太郎の話を告げ、京都にいる助右衛門を備中に向かわせるように命じた。

 十兵衛の決心を聞いた途端に、お澪は変わった。一時も無駄にできないため、夢遊はお澪を気遣いながら走ったが、お澪は着物の裾をまくって、平気な顔をして夢遊の後を付いて来た。

「まさしく、くノ一じゃな」と言うと、「あなたに負けないわよ」と目を輝かせて笑った。





目次に戻る      次の章に進む



inserted by FC2 system