酔雲庵

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉

井野酔雲





10.駿府




 暑い夏が終わったかと思うと、秋を通り越して、急に寒い冬がやって来た。人間だけでなく天候までもが狂っていた。

 藤吉郎が駿河の国の府中、駿府(すんぷ)(静岡市)に来て二ケ月が過ぎていた。

 京の都を知らない藤吉郎だったが、華やかな駿府の都は、まるで京都のようだと思った。城下の町も清須や岩倉とは比べものにならない位に規模が大きく、大通りにはいくつもの大きな蔵を持った商人の屋敷が誇らしげに並んでいる。尾張では滅多にお目にかかれないお公家さんや、偉そうなお坊さんが大勢の供を引き連れて大通りを歩いているのは珍しかった。戦に出掛ける鎧武者は向かう所敵なしと言える程、勇ましく、きらびやかな着物を着た女たちは、まるで天女のように美しい。この世の極楽ではないかと思う程、人々は皆、幸せそうで穏やかだった。

 駿府屋形と呼ばれている今川氏の城も大きく、幅広い堀と土塁に囲まれている。土塁が高いため、中がどうなっているのか見えないが、華麗な楼閣のような高い建物がいくつか見え、時にはその中にいる人影を見る事もある。まるで天上界の人を見るような気持ちで藤吉郎は楼閣を見上げた。

 駿府に二ケ月間いて、今川家が東海一の大名だという事はいやという程、藤吉郎にはわかっていた。清須の殿様や岩倉の殿様なんか、今川家と比べたら、ほんの小さな存在だった。今川家の重臣たちの方が、あの二人の殿様よりも、ずっと立派な城に住んでいて、もっと大勢の家来を持っていた。今川家こそ自分が仕えるべき所だと心に決めていたが、今川家の侍になるのは思っていた程、簡単な事ではなかった。

 藤吉郎は駿府屋形の北西にある浅間明神の門前町の外れにある木賃宿に泊まり、針を売りながら細々と暮らしていた。場末の木賃宿にいて藤吉郎は様々な人たちを見て来た。岩倉の木賃宿ほどひどくはなかったが、同じような人々が出入りしていた。仕事を捜しに田舎から出て来た者も多かった。しかし、仕事を見つけるのは容易な事ではなかった。毎日、朝から晩まで仕事捜しに出掛けるが見つからず、銭がなくなって追い出される者もいた。可哀想だとは思うが、その日暮らしの藤吉郎にはどうする事もできなかった。

 藤吉郎と同じように夢を抱いて、駿府にやって来た者も何人かいた。

 有名な絵師になるため、遠江(とおとうみ)の山の中から出て来た伝吉という男は毎日、いかがわしい枕絵(まくらえ)を描いては売り歩いていた。枕絵というものを初めて見た藤吉郎は、「すげえ」と言いながら、おおらかに抱き合っている男女の姿に釘付けになった。

「こういう絵は実際に見ながら描くの」と藤吉郎が聞くと、伝吉は首を振った。

「有名な絵画きになれば、一流の遊女の裸を見ながら描くが、わしのような売れない絵画きは頭の中で想像しながら描くんじゃ」

「へえ、凄いね」

「いや、何種類かの決まった形があるんじゃよ。描きたいように描いたからって、売れるもんじゃねえ。売れる絵というのは決まってるんだ。毎日、毎日、同じ絵を描くのは飽きたわい。早く、自分の絵を描きてえよ」

 駿府では有名な武将や遊女たちの似絵(にせえ)が流行っていた。伝吉もそんな絵を描くために駿府に出て来たが、無名な絵画きが無名な人を描いても売れるはずがなく、かと言って、有名な人を描きたくても相手にされない。似絵を描くには本人を目の前にしなければ描けなかった。藤吉郎は伝吉が描いた似絵を見せてもらったが、うまいものだと感心した。城下で売られている似絵と大して変わらないと思うが、名前が売れていないと駄目だという。絵師になるのも容易な事ではないと感じた。

 いつか、てっけえ蔵を建てるんだと口癖のように言っている紙売りの半次は毎晩、銭を数えてはニヤニヤしていた。酒も飲まず、女もやらず、ろくな飯も食わずに、ただ、銭を溜める事だけに熱中していた。重い銭を肌身話さず持ち歩き、回りの者たちを泥棒のような目で見ては警戒していた。銭が心配なら、もう少し増しな宿屋に泊まればいいものを宿代が勿体ないからと場末の安宿に泊まっていた。

 盲目の琵琶法師は毎晩、杖を突いて花街に出掛けて行き、平家物語を語っていた。目が見えないのに難しい物語を覚え、夜道を平気で歩いている。どうして、そんな事ができるのかと聞いても、笑って答えてくれないが、目明きの者が想像する以上に辛い目にも会い、厳しい生き方をして来たのに違いなかった。世の中には凄い人がいるものだと感心し、琵琶法師の曲を聞く度に、もっと強く生きなければと思った。

 藤吉郎と同じように今川家に仕官するために駿府に来たという五助は、偉そうに三尺余りもある太刀を腰に差して得意になっていても、顔付きはまだ子供だった。藤吉郎より十日近く遅れてやって来て、藤吉郎の顔を見ると馴れ馴れしく寄って来た。

「おめえ、どっかで会ったような面だな」と五助は言った。

 藤吉郎は五助を見上げた。やけに背の高い男だと思っただけで見覚えはなかった。

「知らねえな」と藤吉郎は答えた。

「そうか‥‥‥すまねえ」と五助は引き下がって行った。また、すぐにやって来て、自分の名を名乗り、話しかけて来た。話していくうちに同じ目的を持っている事と同い年だという事がわかり、次の日から一緒に仕官口を捜し回った。ところが、五助は飽きっぽく、三日目にはやめてしまい、「焦ったってしょうがねえや。気楽に待てば仕官口は向こうからやって来らあ」と、毎日、ゴロゴロしていた。

 その四人が藤吉郎と一緒に、いつまでも、その木賃宿に滞在している仲間だった。

 木賃宿の近くには遊女屋や飲み屋がいくつも立ち並ぶ盛り場があり、夜になると賑やかな音楽が聞こえ、酔っ払いたちが騒いでいた。そこは琵琶法師の仕事場だったが、他の三人には縁のない所だった。時々、藤吉郎は盛り場に針を売りに行って、遊女たちと世間話をしていた。遊女の中には、藤吉郎の好みの女もいたが、客になる程の銭はなかった。五助と二人で、伝吉の枕絵を借りて、自らを慰めていた。

 毎日、毎日、針を売り歩いているので、駿府の城下は隅から隅までわかった。けれども、今川家に仕えるための手づるは見つからない。武家長屋に行って、小者(こもの)でもいいから仕官口はないかと聞いても、よそ者は駄目じゃと相手にされず、父親の名を出しても、知っている者など一人もいなかった。

 色あせた紅葉(もみじ)模様の派手な綿入れを着込んだ藤吉郎は阿部川(安倍川)の河原に座り込んで、これからどうしようか、と考えていた。

 直接、今川家に仕えようと思うから難しいのかもしれない。まずは今川家の家臣に仕える事から始めなければならないのだろうか。

 藤吉郎は横になって目を閉じた。(まぶた)に浮かぶのは吉乃の姿だった。最後の日、水浴びをした後、「待っている」と言った時の吉乃の笑顔だった。

 吉乃は今、十四歳。いくら待っていると言っても、姉のように十八になっても嫁に行かないという事は考えられない。父親はあれ程の大尽、貰い手はいくらでもいる。しかも、あれだけの美女を男どもが放っておくわけがない。嫁入り話が決まる前に、立派な侍に出世して帰らなければならない。二年が勝負だと藤吉郎は見ていた。二年以内に何とかしないと吉乃は他の男のもとに嫁いでしまう。

「よし、遠江の掛川に行ってみよう」と藤吉郎は決心した。

 掛川には今川家の重臣、朝比奈氏がいた。まず、朝比奈氏の小者から始めて、今川家の重臣になってやろうと考えた。藤吉郎がニヤニヤしながら吉乃を迎えに行く時の夢を見ていると、誰かの叫び声で現実に戻された。

「おーい、藤吉郎」と誰かが呼んでいる。

 起き上がり、後ろを振り返ると五助が走って来る所だった。長い陣羽織の裾をひるがえしながら手を振っている。

「やっぱり、ここにいたか」と五助は長い太刀を腰からはずすと藤吉郎の隣に座り込んだ。「おめえは河原が好きだな」

「水の音を聞くと落ち着くんだ」

「へえ、おめえは川の側で育ったんか」

「いや、そうじゃねえが‥‥‥何か用か」

「ああ、銭が入ったんだ」と五助はニヤッと笑った。「今晩こそ、遊女屋に繰り出そうと思ってな」

「何をしたんだ」と藤吉郎は聞いた。

「ちょっとな」と五助はとぼけた。

「また、盗っ人の真似をしたんだな」

「取られる方が悪いんだよ。今の世の中は取った者の勝ちよ」

「おめえ、侍になるって故郷(くに)を出て来たんじゃねえのか」

「そうさ。でもな、侍どもは戦をして国の取りっこをしてる。俺がわずかばかりの銭を取ったからって罪にはなるまいに。それに、侍になる前に飢え死になんかしたら元も子もねえだろ。な、天からの恵みだと思って、今晩は遊ぼうぜ。そして、明日はお別れだ。俺はここを出る」

「明日、ここを出る?」藤吉郎は五助の顔を見つめた。

 五助はうなづいた。「ここにいたって侍奉公なんかできっこねえ。俺は小田原に行く」

「小田原?」

「箱根の向こうの関東さ。小田原は北条氏の都でな、ここ以上に栄えてるそうだ」

「へえ、関東か‥‥‥」

「おめえも一緒に行くか」

「いや、俺は掛川に行く」

「掛川? 朝比奈備中守(びっちゅうのかみ)の家来になるんか」

「できればな」

「つてはあるのか」

「ない」

「つてもねえのに行ったって、しょうがねえ。俺と一緒に関東に行こうぜ」

 関東の地も見てみたいと藤吉郎も思った。しかし、関東は遠すぎた。関東の地で偉くなったとしても尾張に帰るのは難しいような気がした。

「駄目だ」と藤吉郎は首を振った。「俺は掛川に行く」

「まあ、いいか。とにかく、今晩でお別れだ。なあ、盛大に騒ごうぜ。最後ぐれえ、いい女子(おなご)を抱いてよ、いい思い出にしようぜ」

「おい、おめえ、まさか、紙売りの銭を取ったんじゃねえだろうな」

「馬鹿言うな。あんな野郎の銭なんか取るか。言っておくがな、俺は弱い者いじめはしねえんだ」

 誰からどれだけの銭を盗んだのか知らないが、「俺に任せておけ」と五助は得意気にさっさと遊女屋の暖簾をくぐって行った。

 那古野の城下で行った遊女屋よりは増しだったが、それ程、高級といえる店ではなかった。勇み足で遊女屋に誘った五助も、こういう所は慣れてないとみえて、少し、おどおどしていた。もっとも、藤吉郎と同い年で遊女屋に慣れているはずはなかった。

 案内された部屋に入ると五助はキョロキョロと部屋の中を見回して、「まずまずだな」と知ったかぶりをして、うなづいた。

 藤吉郎は部屋の窓から外を眺め、「まずまずだな」と五助の真似をした。

 窓の外にはすぐ黒い板塀があり、何も見えなかった。窓の下を覗くとゴミだらけだった。

「ここは若え娘が多いって評判なんだ」と五助は自慢気に言った。

「へえ。下調べをしたのか」

「そりゃ、そうさ。婆あには当たりたくはねえからな」

 腰の曲がった婆あが酒と肴を持って入って来た。二人をジロッと睨むと、「ごゆっくり」と言って、ニヤニヤしながら出て行った。

 五助は婆あが消えると顔を歪めて、「まずは飲むか」と座り込んだ。

 二人は明日の別れを惜しんで酒を飲み交わした。

 五助は伊賀の国(三重県西部)、石川村の生まれだった。宮大工の職人だったが、親方と喧嘩して故郷を飛び出し、流れ流れて駿府まで来たという。図体はでかいくせに身が軽く、高い塀でも簡単に乗り越えるという特技を持っていた。本人は侍になるんだと言っているが、どこまで本気なのかわからない。一応、腰に立派な太刀を差していても、錆び付いていて抜く事はできなかった。どこかの戦場で拾った物に違いない。藤吉郎のように行商をやっているわけではなく、こそ泥をやって旅を続けて来たようだった。

 やがて、若い娘が二人、やって来た。若いと言っても二人よりは年上だった。

「あーら、可愛いお客様」と大きな目をした少し太めの娘が言った。

「あれ、針売りのお猿さんじゃない」と細面の小柄な娘が言った。

「なんだ、おめえ、この店に来た事あんのか」と五助が不思議そうに聞いた。

「違うよ。この前、この人が俺の針を買ってくれたんだ」

「そうか。でも、おめえも隅に置けねえな」

「景気いいじゃない。どうしたの」と小柄な娘が酒を注ぎながら聞いた。

「明日、こいつと別れるんで別れの宴なんだ」

「そう、旅に出るのね。どこに行くの」

「西の方さ」

「俺は東だ」

「それで、お別れなのね」

 太めの娘は鈴虫、小柄な娘は(ほたる)といい、藤吉郎の好みは蛍の方だった。五助が銭を出している手前、五助が蛍を気に入ったら諦めるつもりだった。うまい具合に、五助は鈴虫の方が気に入ったらしく、お前は蛍だと目で合図してきた。お互いに好みが違ってよかったと藤吉郎は蛍に面白い話をしては笑わせた。

 五助は気前よく酒をどんどん注文したが、それ程、酒が強いわけでもなく、少し飲んだだけで顔を真っ赤にしていた。藤吉郎もあまり飲めなかった。今の二人は酒よりも女の方に飢えている。五助が慣れない手つきで鈴虫を抱き寄せると蛍は藤吉郎の手を引いて隣の部屋に案内した。

 隣の部屋には布団が敷いてあった。藤吉郎は布団の側にちょこんと座った。蛍は藤吉郎の横に座ると藤吉郎にもたれ掛かって来た。

「あたしね、あなたを見てると別れた弟を思い出すの。何となく似てるのよ。この前、あなたが針を売りに来た時、一瞬、弟だと思ったわ。それで、針を買ったのよ」

 蛍は藤吉郎を見て笑った。藤吉郎も意味もなく笑い、「弟さんは今、どうしてるんですか」と聞いた。

「わからない。あたしも弟も人買いに売られたのよ。あたしはここに来たけど、弟はどこに行ったのかわからないわ。あなたみたいにたくましく生きていてくれればいいんだけど」

「蛍さんも売られたの」

「そうよ。ここにいる娘はほとんど、親に売られて、ここに来たのよ」

「どうして、親が子供を売るんだ」

「貧しいからに決まってるでしょ。でも、あたしの父親は違うわ。決して、貧しくはなかった。母親が病気で亡くなると、父親はすぐに他の女に手を出したの。そして、あたしたちが邪魔になったから人買いに売ったのよ」

「ひでえ父親だな」

「ひどすぎるわ‥‥‥あんなの父親なんかじゃない。地獄に落ちるといいんだわ」

 蛍はきつい顔をして灯台の光を見つめていた。どこからか(つづみ)の音に合わせて陽気な唄が聞こえて来た。いい気分で遊んでいる客がいるらしい。

 藤吉郎は今まで、自分の家が貧しいと思っていた。しかし、世の中にはもっともっと貧しい家もあり、貧しくなくても、兄弟が別れ別れになってしまう不幸がある事を知った。蛍の事を思えば、藤吉郎の家族は貧しいながらも、みんな一緒に生活しているだけでも幸せなんだと思い直した。

「ごめんなさいね」と蛍は藤吉郎の手を取って笑った。「あたしなんか、まだ、いい方よ。世の中には、もっと不幸な人がいっぱいいるわ」

「もっと不幸な人?」

「そうよ。阿部川の船着き場の辺りに行ってごらんなさい。不幸な人がいっぱいいるから」

「船着き場なんてどこにあるの」

浅間(せんげん)様の門前の市場を左に真っすぐ行けばいいのよ。でも、あんな所に行ったって針なんか売れないわ。逆に、身ぐるみを剥がされるかもしれないわよ」

「へえ、そんな恐ろしい所があるのか‥‥‥」

「あるわ。表面だけを見ると駿府は素晴らしい都だけど、裏を見れば恐ろしい所よ」

 蛍は立ち上がると明かりを吹き消し、着物を脱ぎ始めた。下着姿になると藤吉郎を布団に誘った。

「今晩はゆっくりと眠れそうだわ」と慣れた手つきで藤吉郎の着物を脱がせた。

 窓から入って来る月明かりで、蛍の白い肌が怪しく光っていた。藤吉郎は我慢しきれず、蛍の下着を剥がして襲い掛かった。

 翌朝、藤吉郎と五助はサッパリした満足顔で遊女屋を後にした。

「それじゃあな」と藤吉郎が別れようとすると、「ちょっと待て」と五助は引き留めた。

昨夜(ゆうべ)な、考えたんだ。鈴虫が東はよくねえって言うんだ。東に行けば寿命が縮まるって言うんだよ。それで、俺も西に行く事に決めたわ。旅は道連れっていうからな。いいだろ」

「好きにしろよ」

「おう、好きにするわ。俺も西に向かう。掛川までは一緒だな」

 二人は浅間明神の市場に向かった。朝早くから市場は賑わっていた。

 同い年なのに二人の背丈は対照的だった。藤吉郎は人並み以下で、五助は人並み以上に背が高い。藤吉郎が猿なら、五助は馬といった取り合わせだ。猿と馬の二人連れは市場の人をかき分け、東に向かい、阿部川の船着き場に出た。

 蛍の言った通り、船着き場の回りの河原は見渡す限り、みすぼらしい掘っ立て小屋が並んでいた。駿府の町中は一通り歩いたつもりだったが、こんな外れまで来た事はなかった。

 藤吉郎は掘っ立て小屋の方に行ってみた。

「おい、どこに行く。渡し舟はこっちだぞ」

「ちょっと商売だ」

 ぶつぶつ言いながらも五助はついて来た。藤吉郎はいつものように、「針はいらんかね」と言いながら、掘っ立て小屋の中を歩き回ったが、返事をする者など当然いなかった。

 ボロをまとった乞食や人相の悪い河原者が人を寄せ付けない目付きで二人を見ていた。中には子供や病人もいるが、皆、感情を殺した何とも言えない表情をしている。驚く程の人々が狭い河原にひしめき合って暮らし、何とも言えない悪臭が漂っていた。赤ん坊の死体が当たり前のように捨ててあり、それを犬が食べているかと思えば、血だらけになって牛の死体を解体している者もいる。両足のない男が手で歩いているかと思えば、顔中ただれて鼻の欠けた女が狂ったように(かね)をたたいている。

 駿府の城下が極楽なら、ここは、まさしく地獄だった。駿府の都にこんな一面があったなんて藤吉郎には信じられなかった。

「おい、早く、出ようぜ」と五助が小声で言った。

 藤吉郎も気味悪くなって、五助とくっつくようにして、その場から離れた。

 五助は溜め息を大きくつくと、「あんな所で商売なんかできるわけねえだろ」と愚痴った。

 藤吉郎もうなづき、「ひでえ所だな」と顔をしかめた。

「ありゃ、人間のゴミ溜めだ。あんな風にはなりたくねえな。もしかしたら、鈴虫は俺が関東に行ったら、あんな風になるって予測したんかな」

「多分、そうだろうよ。こそ泥なんかやってたら、今にバチが当たってああなる」

「脅かすなよ。ああ、やだやだ」

 二人は渡し舟に乗って阿部川を渡ると西へと向かった。






駿府屋形



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