天明三年(一七八三)四月八日
夕暮れの中、薄煙りを上げている浅間山。その南を走る ♪浅間根越しの 誰が歌うか、哀愁を帯びた三味線に乗せて馬追歌が流れて来る。中山道が 浅間根越しの小砂利の中に可憐に咲くアヤメとは彼女たちの事。夜ともなれば山の中の宿場とは思えない程、そこだけが明るく、まるで 「油屋でございます。お泊まりなさいませ」 「日野屋でございます。お泊まりなんし」 「もし、柳屋でございます」 街道に面した旅籠屋から化粧した女たちが道行く男たちを誘っている。鼻の下を延ばして、ニヤニヤしながら女に連れられて行く者。聞こえない振りをして足早に逃げて行く者。中には無理やり女に引っ張り込まれる旅人もいる。 「おい、放しやがれ。腕が抜けらア」 「腕なんか抜けたっていいのさ」 「なに言ってやんでえ。腕が抜けたら、おまんまが食えねえ」 「おまんまなんかより、もっとうまいもんがあるんだよ。ねえ、お泊まりよ。いい思いさせたげるからさア」 「おう、そうか。どうせ、どこかに泊まらにゃアならねんだ。姉さんの世話になるか」 「あんた、いい男だねえ」 「なに、それ程でもねえやな」 旅人は嬉しそうに油屋へと入って行く。 「おい、見ろや。あのウスノロめ、お竹ババアにとっ捕まりやがった」 「へっ、ざまアねえや。ぶったぐられるぜ」 「まったく、あのババアもよくやるぜ。もう 「なに言ってやがる。おめえだって、お竹にゃアさんざ世話になってるべえ」 「ありゃア騙されたんだ。ババアめ、八つも年をさばよみやがって」 「ほんとの年はなんぼか知らねえが、いつまでも若えババアだよ」 油屋の隣、 今日は浅間山の山開き。村の代表たちとお山に登り、 問屋の次男の 「あら、お竹姉さんはいい人よ。面倒味がいいって評判なのよ」 市太の 顔付きは優しいけれど気は強く、馴染みになってからもう二年、何度、痴話喧嘩したか数え切れない。もう二度と会うまいと他所の女郎と遊んでみるが、何だか物足りない。なぜか、会いたくなって、また来るという 「らしいな。ここんちで言ったら、お梅姉さんのようなもんかの」と勘治が席に戻りながら、お浜に聞く。 「お梅姉さんじゃないよ。お波姉さんだよ」 「ほう、お梅は面倒味がよくねえのか」 「お梅姉さんはね」と勘治の相方のお滝が言ったが、お浜の顔を見て口をつぐんだ。 大きな目に小さな口元が可愛らしいお滝はばつが悪そうな顔をしてうなだれる。三人の中では一番若い。つい最近、善光寺の門前町から流れて来たという。勘治の馴染みのお紋には、すでに客がついていた。仕方なく呼んだのだが、以外と可愛い。勘治は機嫌をよくして 「お梅姉さんが何だって」 勘治が聞いてもお滝は首を振るばかり。 「そんな事、言えないわよ」と惣八の相方、お政が言う。「また、いじめられるものねえ」 お政は惣八の馴染み。痩せギスで、いつも青白い顔をしている。かといって 「新入りだってんで、お梅姉さんにいじめられたんじゃねえのか」と勘治は俯いているお滝の顔を覗く。 「そんな事ないよ。ねえ、お滝ちゃん」とお政が庇う。 「お梅姉さんは男にゃア優しいが、女にゃアうるせえってこったな」 「違うったら。そんな事、お梅姉さんには絶対に言わないで」 「わかった。わかった」 鈴を鳴らしながら宿場に戻って来た馬がいななき、客引きの女たちの声も一段と高くなって来た。日もすっかり暮れ、街道に並び建つ旅籠屋の掛け 外を眺めていた市太と惣八も席に戻って、酒を飲み始めた。 「おい、なんか景気のいい奴をやってくれ」市太が言うと、 「あいよ」とお浜が三味線を弾き始め、江戸から来た旅人から教わったという ♪松という字は 「君に離れて気が残るか。そいつアうめえ」 「あたしの気持ちさ。市つぁん、わかってくれるかえ」 お浜は三味線を脇に置くと、横目で市太を眺めながら 「わかるからこうやって、はるばるやって来たんだんべ」 「なに言ってんの。この前来たのはいつだっけ」 「そうさなア、そう言やア、ここんとこ御無沙汰だったな」 「ちゃんと知ってるよ。永楽屋さんとこのお園さんに入れあげてるそうじゃないか」 「なに言ってやがる」と市太は動揺して、「ありゃア、ほれ、付き合えで、ちょっと面ア出しただけよ」と言い訳をする。 「ねえ、惣さんも永楽屋に行ったの」お政が惣八をジロッと睨む。 「冗談じゃねえ」と惣八は慌てて手を振って、「俺アそんなとこにゃア行かねえや」 「ほんとなのね」 「ほんとだとも。市太、助けてくれよ」 市太はニヤニヤしながら酒を飲んでいる。 「一緒だったと言いてえが、あん時ゃア、問屋の集まりだ。惣八は関係ねえ」 惣八は安心して、お政の肩を抱く。 「なっ、俺ア他所なんか、 「まったく、あたしゃア気を揉むよ。それに、村にはいい 「そんな者アいやアしねえや、なア。俺たちゃ村の鼻つまみ者だア。娘っ子なんか、何されるかわかんねえって近寄っちゃア来ねえよ」 「嘘ばっかし。おめえさんちは蔵持ちの炭屋だろ。金持ちで、しかも、いい男とくりゃア、多少、 「おう、そうだ」と惣八が突然、手を打つ。「権太で思い出したが、今年の村祭りの 「惣八、余計な事を言うんじゃねえ」市太は惣八をチラッと睨むが、すぐに自慢気な顔をして皆を見る。 「へえ、すごいじゃない」とお浜は自分の事のように喜ぶ。「いがみの権太っていえば、ちゃんと 「あたりきよ。『 「おめえさんにぴったりの役だね」お浜が言うと、 「まさしく、はまり役ね」とお政も言う。 「それを言うな」と市太はお浜の膝をたたく。「耳にタコができらア。だがな、お陰で 「あら、どうしてよ」 「博奕をしたら、役から降ろされちまうんだよ。つれえがしょうがねえ。芝居が終わるまでは、じっと我慢だ」 「そんな事できるわけないじゃない」とお浜がケラケラ笑うと、 「無理よ、無理」とお政も笑う。二人につられてお滝も一緒に笑っている。 「馬鹿野郎」と市太は怒鳴る。「俺アな、今度の芝居にゃア賭けてんだよ。博奕ぐれえ、やめてやらア」 「嘘ばっかし」とお浜は信じない。「ほんとは隠れてやってんだろ」 「やってねえって言ってるだんべ」市太は信じてくれよという顔でお浜を見る。 「おめえさん、村の 「そんな事ア承知の助さ。俺ア権太を立派にやってよう、村の奴らを 「見返すのはいいけど、博奕の稼ぎがなくっちゃ、ここにも来られないじゃないのさ」 「そこんとこはうまくやるさ。現にこうやって来てるじゃねえか」 「ねえ、ねえ」とお滝が口を挟む。「それって『義経千本桜』でしょ。あたし、人形芝居で見た事あるよ。善光寺さんのお祭りでやってたんだ。いがみの権太ってさ、悪い男なんでしょ。そして、最後には死んじゃんでしょ」 「そうさ。 「ねえ、ちょっと、やってみせてよ」とお浜がせがむと、 「そうか、ちょっとだけだぞ」と市太は得意顔で立ち上がる。 「おきゃアがれ、べら坊め。盗っ人 「なんでえ、それが台詞かよ」と惣八が呆れる。「おめえのいつもの脅し文句じゃねえか」 「馬鹿野郎、ちゃんと 「そんな台詞なら俺にだって言えらア」 「ねえ、惣さんと勘さんはどんな役なの」お政が興味深そうに聞く。 「俺ア 「えっ、勘さんが女形?」女たちは一斉に勘治の顔を見つめる。 「そういえば顔付きが優しいから似合うかもね」とお浜が真顔で言う。 「よせやい」と勘治は照れる。「女なんかやりたかねえのによ、しょうがねえんだ。そいつをやらなきゃ、ただの仕出しになっちまう」 「ねえ、どんな役なの。お姫様かなんかかい」 「そうじゃねえ。お姫様とか静御前とかは鎌原 「なにそれ、鎌原路考って」 「あれ、聞いた事ねえか。鎌原にも有名な女形がいるのよ。 「いや、そんな事アねえよ」と惣八が笑いながら言う。「芝居の出来によっちゃア、おめえも鎌原おかめって呼ばれるかもしれねえ」 「おきやアがれ」 「おい、おめえら、俺の事を何と呼んでるか知ってるか」と市太は女たちに聞く。 「そりゃア勿論、いがみの市太でしょ」 「馬鹿め、そうじゃねえ。鎌原の成田屋(市川団十郎)たア俺の事よ」 市太は得意になって 「おめえさんが、権太を立派にやり遂げたら、あたしだけでもそう呼んであげるよ」 「うるせえ」 「まあまあ、そう怒らんと」 機嫌を直せとお浜は市太に酒を注ぐ。 外はすっかり暗くなり、あちこちから賑やかな声が聞こえて来る。夜はまだ始まったばかり、三人のドラ息子たちの騒ぎは果てしなく続いた。
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追分宿
鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成