四月十三日
鎌原村を見下ろす西の高台に観音堂がある。 村の中央を走る表通りから、惣八の家『炭屋』と旅籠屋『 村の中程、東側にある諏訪明神の森の中に芝居の舞台があり、その近くにも若衆小屋はある。以前はそこに集まって芝居の稽古をしていた。やかましい婆さんが近くに住んでいて、夜遅くまで稽古をしていると必ず、文句を言いに来た。それが毎晩の事なので、これでは稽古ができないと村から離れた観音堂の裏に小屋を建てたのだった。その婆さんも三年前に亡くなり、今では下の小屋でも稽古ができるようになった。しかし、下の小屋では 若衆組は十五歳から三十歳までの男たちの組織で、祭礼の奉仕、村内警備、消防、婚姻の仲立ちなど村の行事を中心になって行なっていた。二十五歳から三十歳までを中老と呼び、若い者たちの指導に当たった。 市太と惣八、同い年の安治が芝居の稽古をするためにやって来たのだが、いつしか飽きてゴロゴロしている。そこにやって来たのが、エレキテルで有名な平賀 平賀源内は四年前の安永八年(一七七九)の暮れ、人を殺して投獄され、そのまま牢屋の中で亡くなった。有名な 「やっぱり、ここにいたのね。もう馬方稼業は終わり?」 「やっと終わったよ。まったく、まいったぜ」 草津からのんびり帰って来たら、市太が無断で金を持ち出したのがばれていた。さんざ小言を言われたあげく、 「それにしても、よく逆らわないで、馬方なんてやってたわね」 「俺アな、 「あんた、蔵に閉じ込めるって 「うるせえ、黙れ」 「ほう、若旦那は他人の女房にも手を出すのか」と錦渓が感心する。 「そいつがいい女なんですよ、先生。源七の野郎にゃア 「おう、知っておるぞ」と錦渓はうなづく。「確かに源七の女房はいい女じゃな。あの女房に手を出したか。そいつは面白え。その 「先生、よして下せえよ」 「いや、ひょっとしたら面白え本が書けるかもしれんのでな」 「本て、先生も浄瑠璃を書くんですか」と安治が膝を乗り出して聞く。 「 「先生、『鎌原 「おいおい、おめえ、俺を殺す気かよ」市太が安治の肩を拳で軽く突く。 「市太とおすわがお山に登って、 「馬鹿言ってんじゃねえ」 「そうなると『浅間山心中』の方がいいな。ねえ、先生、『浅間山心中』で行きましょう」 「ねえ、あたしはどうなるのさ」とおなつが口を挟む。 「そうさなア、おめえにはクドキの場面をやってもらう。『酒屋』のお園みてえにな」 「今頃は市太さん、どこにどうしてござろうぞって言うのかい」 「そうさ、いいぞ。ねえ、先生」と安治はすっかり浄瑠璃作者になったつもりでいる。 「心中するのはいいが、それまでの顛末が肝心だ。まずはそいつを聞かせてくれい」 「先生、やめてくれ。俺を 「笑い者にするんじゃない。他人の女房に横 「それじゃア、俺が詳しい話をしてやる」と惣八が話に乗ってくる。 市太がやめろと言うが、おなつたちも詳しい話が知りたいと言い出した。勝手にしろと背中を向けて寝そべる市太を尻目に惣八は話し出す。 「そもそも二人の馴れ初めは、村の外れの 「いい加減な事を言うな」と市太は上体を起こして怒る。「ありゃア夜じゃねえ、まだ日暮れ 「いいじゃねえか。夜の方が絵になる」 「勝手にしやがれ」と市太はまたもや、ふて寝する。 「ねえ、あんたは黙っててよ」おなつは市太の背をたたくと、「それからどうしたの」と先を促す。 「いがみの市太、おすわを暗い森陰に引っ張り込むと口を吸い、 「いいぞ、 「イヤよダメよとおすわは髪を振り乱し、市太の首にしがみつく」 「ちょっとやめてよ」とおすわの妹、おゆうが止める。「姉ちゃんがそんな事するわけないじゃない」 「まあ、とにかく、あの祭りん時、二人はできたんだよ。それから二人はうまく行ってたんだが、突然、次の年の秋、市太はおすわに振られるんだ。あたし、源七さんのお嫁さんになるのってな。市太は『 「それはいいっつうの」とおゆうが睨む。 「とにかく、ふたりは森陰で抱き合った。そこを村人に見られ、市太の親父に告げ口をして、市太は蔵に閉じ込められたってえ顛末だ」 「その村人ってえのは 「そいつア今もって謎だ」 「若旦那。その時、おすわを無理やりやっちまったのか」と興味深そうに錦渓が聞く。 「そうじゃねえ。あん時は自然にああなっちまったんだ。おすわは決して逆らわなかった。何も言わなかったけど、あいつ、源七とうまく行ってねえんじゃねえかと俺ア思ったぜ」 「成程な。自然の成り行きか‥‥‥」 「姉ちゃん、好きで源七のお嫁さんになったんじゃないんだよ」とおゆうが言う。「姉ちゃん、今でも市太が好きなんだよ。でも、姉ちゃんは諦めたんだ」 「なに言ってんだ。何を諦めるってんだ」 「あたしにもよくわからないけど、家柄っていうんが違うんだよ」 「家柄だと?」市太は体を起こすとあぐらをかいて、おゆうを見つめる。 「あたし、親たちが話してるのを聞いちゃったんだ。今はみんな、お百姓をしてるけど、この村には昔、お 「そんなの初耳だぜ」と市太たちは驚く。 「あたしだってよく知らないけど、大人たちはみんな知ってるみたい。 「確かに鎌原様は昔はお殿様だったさ。今でもお 「おかしいたってしょうがないじゃない。この村の 「へっ、くだらねえ」 「くだらねえかもしれないがな」と錦渓が真面目な顔をして言う。「今の世の中、すべて家柄とか、身分で成り立ってるんだよ。たとえば、この村にはいねえが 「それとこれとは話が別だよ、先生」 「いや、同じさ。非人も百姓も同じ人間だ。違うとこなんてありゃしねえ。それじゃア、もし、おまえが武士の娘に惚れたらどうする」 「武士の娘になんか惚れるわけがねえ。そんなの、この辺をウロウロしてねえからな」 「あら、一人いるじゃない」とおなつが言う。「鎌原様のお嬢様よ」 「小菊様はまだ十一だ」 「でも、あと五、六年したら、いい女になりそうよ」 「ほう、鎌原様にそんなお嬢様がいらしたのか。丁度いい。もし、おまえがその小菊様に惚れたとして、お手討ちを覚悟で添い遂げようとするか」 「そんなの、なってみなけりゃわからねえ」 「そうだろうな。おすわとおまえの場合、おすわはかなわぬものと諦めたんだよ」 「くそっ、くだらねえ」 「ねえ、あたしんちはどうなのさ」とおなつがおゆうに聞く。「あたしんちと市太んちは身分違いなのかい」 「そんなのあたしに聞いたってわからないよ。ただ、村役人をやってるうちは昔はお侍だったらしいよ」 「あっ、うちのお爺ちゃん、組頭だった」とおなつは大喜び。「お侍だったんだわ。よかったア、市太と同じね」 「ねえ、惣八、あんたんちは村役人なんかやってたの」とおなべが心配そうに聞く。 「さあな、聞いた事もねえよ」惣八は首を傾げる。 「あたしも聞いた事ないけど、どうなんだろ」 「なアに、切り離されるような事んなったら、二人で村を飛び出しゃいいさ。どうせ、俺ア次男坊だ」 「畜生め、そいつを知ってりゃア、俺だっておすわを連れて村を出たんに」市太が悔しがると、 「そうなったら、あたしはどうなんのよ」とおなつがすねる。 「そん時、おめえはまだガキだったんべ」 「そんな事ないよ」 「うちはどうなんだんべ」と安治が深刻な顔して言った。 「おめえは今んとこ誰もいねえだんべ」と惣八がゲラゲラ笑う。 「そりゃそうだけど‥‥‥」 「ほう、惚れた奴がいるのか」 「そりゃア俺だって」 「いるけど、相手にされねえか」 「そうじゃねえんだ。まだ‥‥‥」 「誰でえ、言っちまえよ。力になるぜ、なあ、市太」 惣八が市太に声を掛けても、市太は腕組みして何かを考えている。 「ほんとか。ほんとに力になってくれるかい」と安治は本気になっている。 「おめえだけ相手がいねえんじゃ、こっちが気い使うからな」 「それじゃア言うけど、おさやちゃんなんだ」 「おさやだと。おめえ、まさか」と惣八は市太を見る。 市太は安治の話を聞いていない。おなつたちが急に笑い出したので、どうかしたのかと惣八を見る。 「こいつがおさやちゃんに惚れてんだとさ」 「なに、おさやに惚れてるだと」市太は安治を見る。 安治は神妙にうなづく。 「何を言ってやがる。ありゃアまだガキだ」 「そんな事アねえよ。もう十七だし、おさやちゃんはいい女だ」 「ダメだ、ダメ。おさやはダメだ」 「そんな、力になるって言ったじゃねえか」 「力になってやれば」とおなつが言う。「あたしだって、あんたと会ったのは十七だったじゃないか」 「おさやはおめえなんかと違うわ」 「どう違うのよ。問屋のお嬢さんだから違うってえの」 「そうじゃねえけど、おめえたちとは違う」 「言うんじゃなかった」としょんぼりしている安治。 そこに、「 「何だ、おめえ、何してやがった」惣八が聞くと、 「 「女義太夫だと」 「そうさ、弾き語りをするんだ。雪之助っていって、そいつがまたいい女なんだ。草津に行く途中なんだが、うちの親父がちょっと そう言うと勘治は慌てて戻って行く。 「そいつア面白そうだ。女義太夫なんて噂じゃ聞くが見た事アねえ。行こうぜ、行こうぜ」と惣八と安治が後に続く。 錦渓先生も面白そうだなと付いて行く。娘たちも後を追う。 おなつが戻って来て、「ねえ、あんたは行かないの」と一人残っている市太に声を掛ける。 「女が義太夫を唸るだけだんべ。面白くもねえ。それより、おゆうの話は本当なのか」 「ほんとでしょ」 「何で、今まで黙ってたんだ。一言言ってくれりゃア‥‥‥」 「言えなかったのよ。今まで、そんな家柄や身分なんて知らなかったのに、急に、市太んちとおすわんちは身分違いだからダメだって言われて。おすわも苦しんだ末に諦めたのよ」 「へっ、くだらねえ。それにしたって、すぐに源七の嫁になる事もねえだんべ」 「一緒になれないってわかったから、もう 「畜生め」 「あんた、また騒ぎを起こさないでよ。おすわはもう源七のおかみさんなんだから。 「そんな事ア知るか」 「ねえ、そんな事、いつまでも考えてないで、あたしたちも女義太夫を聞きに行きましょ」 「勝手に行け」 おなつは仕方なく、市太を置いて行く。 「あ〜あ、面白くもねえ」 市太は小屋から出ると観音堂の側まで行き、浅間山を眺めた。いつものように煙を上げている。四日前の恐ろしい地鳴りが嘘だったかのように、青空の下、白い煙を上げている。それにしても四月も半ばになるというのに今年は寒い。 市太は苦笑して、「お〜い、待ってろよ」と石段を駈け降りた。 表通りに出て左に曲がると、すぐ前を 「あら、お おなつの声を聞いて、おろくが振り返った。 「おめえたちも鶴屋に行くのかい」と市太はおろくに聞く。 「はい」とおろくは言ったただけで、すぐに前を向いて歩き続ける。 「お師匠を呼ぶとなると、その女義太夫、余程の腕なのね」とおなつはおろくを真似て、市太と手をつなぐ。 「何やってんだ。みっともねえ」 「いいじゃないよ。たまには」 「うるせえ」と言って、市太は おなつは笑うと、「寒いよ」と言って、市太の 「離れろっていうに」 「いやだ」おなつは駄々っ子のように首を振る。「ねえ、見て、あんたのお爺さんも 「どうやら、義太夫好きがみんな集まるようだな」 「あんたの親父さんは行かないの」 「さあな。朝っぱらからどっかに行ったぜ。まだ、帰って来ねえんじゃねえのか」 観音堂から表通りに出ると、左の角に旅籠屋『 鎌原様は戦国時代からずっと、鎌原村の領主だった。沼田の真田家に仕え、家老も勤める家柄だったが、百年前の 以前、村の者たちはほとんど読み書きができなかった。それでも農作業や馬方稼業には別に不便でもなかったが、村で芝居をするようになると台本が読めなければ話にならない。そこで、鎌原様が教える事となった。市太たちも鎌原様から教わった。 広い敷地を有する鎌原様の屋敷の前を通り過ぎると、おなつの家、古着屋の『栄屋』があり、二軒おいて『桔梗屋』という茶屋がある。鎌原屋敷から桔梗屋までの道の反対側は諏訪明神の森になっていて、参道の入り口、鳥居の脇に 桔梗屋の前を通ると、「ちょいと、若旦那」と声を掛けられた。 振り返ると桔梗屋の女将、おゆくが 「鶴屋さんに行くんでしょ。あたしも行くわ、ちょっと待ってて。まあ、おなっちゃん、随分、仲がおよろしいこと」 「女義太夫が来たんじゃ、姉さんも負けられねえな」市太が言うと、 「なに言ってんのよ」とおゆくは市太をぶつ真似をする。「あたしのなんか、まだ聞かせられないわよ。噂じゃア、えらい 「やっぱり、負けられねえと思ってんじゃねえか。相変わらずの強がりだ」 「あら、そんな事ないわよ。最近、めっきり弱気になっちゃったわ」 「どうした、何かあったのかい」 「最近、若旦那が来なくなっちゃったからね」 「なに言ってやがる。 「先生はダメさ。訳のわからないもんに夢中になっててさ。変わり 「早く行こう」とおなつが市太の袖を引く。焼け 「さて、お手並みを拝見と行きましょ」 おゆくはおなつが睨むのも平気な顔で市太に寄り添う。 鶴屋の二階の客間には、女義太夫の雪之助を囲んで、二十人余りが集まっていた。三味線を抱えた雪之助は噂通りの別嬪だった。江戸っ子だけあって、あか抜けていて、何もかもが 「どうだ、 「あれだけの玉がよく、江戸を出て来たな」 「色々と訳ありなんだんべ」 勘治の父親、 一番前には五郎助、おなつの父親、政右衛門と惣八の父親、弥惣治がいる。旅籠屋『扇屋』の旦那、 甚太夫は幼い頃に失明し、十五の頃より市太の祖父、市左衛門から三味線を習い、音に対して物凄く敏感で物覚えもいいので、軽井沢の師匠について本格的に義太夫節を学んだ。二十一の時、修行を終えて村に戻り、以来、村の旦那たちに教えていた。 二列目には鶴屋の二軒隣にある髪結い床の隠居、六兵衛、旅籠屋『桐屋』の旦那、三太夫、『枡屋』の旦那、平太夫、そして、市太の祖父、市左衛門も妹のおさやを連れて座っている。おさやの隣には平太夫の娘おみや。おさやとおみやは隣同士の仲よしだった。その後ろに観音堂から来た錦渓、安治、惣八におなべ、勘治におゆうがいて、市太、おなつ、おゆくが座り、一番後ろの隅に、甚太夫を連れて来たおろくが小さくなって座っていた。 「さあ、雪之助さん、自慢の喉をみんなに聞かしてやって下さい」 五郎助が言うと、雪之助は軽く笑ってうなづき、三味線を構え、音を合わせてから義太夫節を語り始めた。 「年のうちに春を迎えて初梅の、花も時知る野崎村、 三年前に大坂の竹本座で初演された『新版 終わった後、おなつが教えてくれと言い出すと、おゆくまでもが言い出して、旦那衆も娘たちが 旦那衆がよかったよかったと言いながら引き上げると、雪之助は娘たちに囲まれ、質問攻めに会っていた。 「さてと、わしも遊んでばかりもいられねえ。山歩きをして来るか」と錦渓も出て行く。 何も言わず隅に控えていたおろくが立ち上がり、甚太夫の手を引いて帰ろうとした。 「おめえは教えてもらわねえのか」市太がおろくに声を掛けると、 「あたしも習いたいけど、でも、ダメなの」と首を振る。 おろくは寂しそうに笑って去って行った。 「ねえ」とおろくの後ろ姿を見ていた市太の袖をおなつが引っ張る。 「あんな暗い女なんか、どうだっていいじゃない。それよりさ、あたしにもできると思う」 「やりゃアできるだんべ。親父の 「まったく冷たいんだから、あんたも習いなさいよ」 「俺ア今、 「忙しいたって、お稽古なんかちっともしてないじゃない」 「まだ間があらア。やっぱり、 「そうなってから慌てないようにね。舞台で恥かいたら、みっともないわよ」 「うるせえ。恥なんかかくか」 ゴーンゴーンと
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成