四月十六日
四月も半ばになるというのに、いつまでも寒い。今朝はまた格別で、 村中が大騒ぎしているというのに、そんな事、どこ吹く風かと例のごとく、暇を持て余しているのは市太、勘治、惣八の三人。観音堂裏の 「こいつアたまらねえや」 寝そべって本を読んでいた惣八が腹を抱えてゲラゲラ笑う。 「そんなにも面白えのか」と勘治が本を覗く。 一見しただけだとただの 「面白えも何もねえ。こいつアすげえよ。人形 「どれ、俺にも読ませろ」 「待て待て、もう少しだ」と惣八は一人笑いながら、本を持って逃げて行く。 「へっ、勝手にしろい」と勘治はつまらなそうに 「なあ、市太、やっぱり、 「ダメだ。今まで何のために我慢して来たんだ。今さら、博奕なんかやれるか」 「チェッ、つまんねえ」 「おめえだって、いい役を貰ったじゃねえか」 「そりゃそうだけどよ、隣村辺りでやりゃア、わかりゃアしねえだんべ」 「そうはいかねえ。博奕を打つんは馬方連中だ。噂はすぐに広まっちまう」 「そうか。それじゃア大笹にでも行くべえ。今日は 「大笹か‥‥‥」と言ったきり、市太は乗って来ない。 「 黒長というのは大笹宿の黒岩長左衛門の事で、この辺りでは有名な金持ち。 「行けるわけがねえや。年中、真っ黒んなって 「あれだけフリがいいのに 「何なら、おめえ、嫁に貰うか」 「いや、結構だ。俺ア遠慮しとくよ」 「たまには面を見てえが、大笹に行きゃア、藤次の奴が待ち構えていやがるぜ」 「くそっ、市日となりゃア、野郎も仲間を連れてウロウロしてるに違えねえ。三人だけで乗り込むんはうまくねえな」 藤次というのは大笹の暴れ者、以前から市太たちとは仲が悪い。顔を合わせれば必ず、言い争いが始まる。それでも、市太は黒長の親戚筋なので、藤次もなかなか手が出せない。ところが、去年の夏祭り、市太らが大笹の 「このままじゃア、祭りにも行けねえぞ。今年は『 「奴も 「畜生め、芝居見物もできねえのか」 「六月までにケリをつけなきゃならねえな」 「黒長の筋から、奴を押せえられねえのか」 「表向きは押せえられるさ。しかし、伯父御の力は借りたくねえ。腰抜けだと思われらア」 「なあ、市太、今、気づいたんだけどよ、もしかしたら、藤次の野郎、おみのちゃんに気があるんじゃねえのか」 「藤次がおみのにか‥‥‥そういやア、奴はおみのが出て来ると急におとなしくなるな。こいつア面白え。奴がおみのに気があるとすりゃア、奴の弱みを握れるかもしれねえ」 「おみのちゃんを利用すんのか」 「ああ、ちょっと待てよ」と市太は寝そべって考える。 勘治は芝居の台本を手に取って眺める。勘治の役は 「どれどれ」と勘治は台本を捨て、目を輝かせて春本を読み始める。 「おい、市太、おめえんちの爺さんが、 縁側から観音堂を眺めながら惣八が言う。 「爺ちゃんが来た?」と市太は起き上がる。 二人の年寄りが 「七十過ぎの爺様が達者なこった」と惣八は 市太の祖父、市左衛門は村一番の物知りで、鶴のような細い体に仙人のような白い もう一人の爺様は小柄だが、がっしりとした体格の坊主頭。今は隠居しているが、長年、山守を務めて年がら年中、山の中を歩き回っていた山男、長兵衛。 山守というのは正式には 「爺ちゃん、そんなとこで何してんだい」 市太が声をかけると市左衛門は振り返り、「おう、芝居の稽古か。結構、結構。うまく行ってるか」と笑いながら近づいて来る。 「まあまあだよ。それより、爺ちゃん、何やってんだい」 「いや、なに、ちょっと、あの 「 「どの煙じゃ。いつもと変わらんじゃねえか」 「だから 「煙がどうしたんだ」と市太が二人の年寄りを見比べる。 「山守の頑固爺いが、お山が危ねえって言うんじゃよ。もう一度、でっけえ浅間焼けがあるって聞かねえんじゃ」 「若旦那もよく聞いてくんな。わしゃア、お山の事は隅から隅まで知ってる。この間の焼け方はな、三十年前のに似てるんじゃ。 「するともう一 「そうさ。気をつけなくちゃアならねえ。お山を甘く見るととんだ目に会う。そん時、お山が静かになった後、わしはお山に登ってみた。てっぺんまで行って来たんじゃ。まったく、ひでえもんじゃった。森が焼けて、真っ黒になった大木がゴロゴロしてやがった。あちこちに、お山から飛んで来たゴツゴツしたでっけえ岩は転がってるし、やっとの事で、お山のてっぺんまで行ってみたら、また、ぶったまげた。 「この間はたまげたが、あれからもう七日が過ぎた。お山の煙も落ち着き、もう大丈夫じゃとわしは言うんじゃがな、こいつは一向に聞かんのじゃ」 「うんにゃア、危ねえ、危ねえ」 「山守の爺さん、おめえはお山の事は何もかも知ってるかもしれねえがよう、ただの取り越し苦労だ。お山は大丈夫さ」 惣八がヘラヘラ笑いながら言うと長兵衛は厳しい顔付きで、「おめえら若造に何がわかる」と本気になって怒りだす。 「いいか、よく聞け」 長兵衛は若衆小屋の縁側に腰掛け、市太、惣八、勘治の三人をちゃんと座らせ、六十年も前の浅間焼けから延々と、あん時はこうだった、そん時はこうだったと語り始めた。 長兵衛は熱を込めて話すのだが、この時、長兵衛の話を信じた者はいなかった。
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大笹宿
鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成