五月二十五日
市太と勘治が吉原で、いい気になって遊んでいる時、郷里鎌原村では大騒ぎが起きていた。浅間山がまた噴火したのだった。 二人が旅立って三日目の十五日の昼過ぎ、なりをひそめていた浅間山がゴロゴロと唸り出し、黒い煙を吹き上げ、鎌原村は大揺れした。畑に出ていた村人たちは立っている事もできず、地にひれ伏しながら不安そうに浅間山を見上げた。 市太がいないので、家を出る事を許された惣八は安治と一緒に観音堂裏の おなつとおなべは『鶴屋』から『扇屋』に移った雪之助の部屋で、義太夫の稽古をしていた。三味線を抱え、二階の部屋から転がるように階段を降りて外に飛び出した。浅間焼けを初めて目にする雪之助は青ざめ、恐ろしさに身を震わせた。 その日の揺れは 市太の祖父、市左衛門はやはり、 その時は二日だけで何とか静まり、一日様子を見て、次の日から田植えが始まった。田植えが始まれば、娘たちものんきに義太夫をやってはいられない。おなつやおなべも朝早くから 参勤交代で六月から信州須坂のお殿様の江戸詰めが始まるため、須坂藩の 村中が大忙しのそんな頃、おゆうが 須坂藩の荷物も運び終わり、田植えも一段落した次の日、二十五日の朝、浅間山が再び、ゴロゴロ言い出した。その日は朝から雨降りで、浅間山の灰が混じって黒い雨が降って来た。揺れはそれ程ひどくはないが、地鳴りはいつまでも続いた。村人たちは皆、仕事を休み、家に籠もってお山が静まるのを祈った。 昼近く、雨も小降りとなり、家で退屈していたおなつはおなべを誘って観音堂に登り、若衆小屋に顔を出した。例のごとく、惣八と安治がいた。芝居で惣八と一緒に 「ねえ、何の悪巧みをしてるのよ」とおなつが覗き込む。 「何だ、おめえらか、脅かすねえ」 「真剣な顔して何やってんの。あんたたちがそういう顔してる時はどうせ、ろくでもない事考えてるんでしょ」 「そうじゃねえ。ただ、こいつの相談に乗ってただけだ」惣八は丑之助を 「また誰かに振られたのかい」とおなつとおなべは顔を見合わせて笑う。 名前の通り、丑のように体格だけは立派だが、ノロノロしていて顔付きも間が抜けている。およそ、女にもてる男ではない。 「この 「物好きもいるもんだね。早く、口説いた方がいいよ。相手の気が変わらないうちにね」 「ところがよう、そいつが嫁入り 「何だって。他人の嚊? まったく、何を考えてんだい。一体、誰なのさ」 「それがな、彦七の嚊、おしめさ」 おしめの名を聞いた途端、おなつとおなべは腹を抱えて大笑い。おしめは丑之助や惣八より一つ年上で、嫁入り前は男たちに騒がれた器量よし。今はもう二歳の息子の母親になっているが美しさは衰えていない。そのおしめが丑之助など相手にするはずがない。丑之助の独りよがりの思い込みに違いなかった。 「馬鹿じゃないの、まったく。おしめさんがおまえなんか相手にしやしないさ」 「そうとも言えねえぜ」と安治が言う。「彦七だってウジウジした野郎だ。まったく、おしめは彦七なんかにゃア 「そうね」とおなべがうなづく。「彦七さんはおっ母さんの言いなりみたいだし、 「そういやア、田植えん時、おしめとおくにが大喧嘩してたっけな」 「そうなのよ。おっ母さんがおくにさんの味方をしてて、おしめさん可哀想だった」 「ほんとなのか。おしめさん、いじめられてんのか」と丑之助がのんびりした口調で聞く。 「あの調子じゃア、うちん中でも、いじめられてるかもね」 「そんなの、俺ア許さねえ」真面目な顔して丑之助が言うと、おなつとおなべはまた大笑いする。 「あんたが許すまいとそんなの関係ないのよ」 「こいつはな、ガキの頃からずっと、おしめに惚れてたんだとよ。まったく恐れ入るぜ」 丑之助は照れ臭そうに頭を掻く。 「それならいっその事、おしめさんと子供を連れてさ、駈け落ちでもしたら。村中がみんな、おったまげるわよ。お山焼けなんかよりもっとね」 「駈け落ちなんて、そんな‥‥‥」 「けしかけるなよ。こいつア本気なんだ。思い詰めたら、ほんとにやりかねねえ」 「大丈夫よ。丑が本気だって、おしめさんが相手にするわけないじゃない」 「まあ、そりゃそうだが。おい、丑、他人の嚊なんか諦めてよう、嫁入り前の娘に惚れろよ」 「そうよ。若くて綺麗なのが一杯いるでしょ」 「そうだけどよ。俺なんか誰も相手にしてくんねえもんな」 「それがダメなのよ。やる前に諦めちゃ何もできないでしょ」 「そうさ、丑、当たって砕けろだぜ」と安治がもっともらしく言うと、 「そういう安はどうなのさ。当たって砕けたのかい」とおなつに言われる。 「俺は‥‥‥」と安治は口ごもる。 「おさやに惚れてんだろ。兄貴が留守のうちにものにしてやるって息巻いてたじゃないか。もうすぐ、市太は帰って来るよ」 「わかってるさ。でも、なかなか、うまく行かねえんだ。馬方が忙しかったし」 「馬方なんて昼間だけだろ。やる気になりゃア、いくらでもやれたよ」 「でもよう、おさやはいつも隣のおみやと一緒なんだ。何となく、声が掛けづらくってな」 「おさやにおみやか、二人ともお嬢ちゃんだからね、あんたなんか相手にしないかもね」 「うるせえ」 「いつだったか、おゆうから聞いたんだけどね」とおなべが思い出したかのように言う。「おゆうんちの隣の仙之助がおみやに惚れてるみたいよ。あんたと同じで声掛けられないみたいだけどさ」 「仙之助がか」と丑之助が首を傾げる。 仙之助の家は丑之助の家の隣でもあった。表通りの東側、一番南におしめが嫁いだ彦七の家があり、次が 「仙之助がおみよに気があんのか‥‥‥」 「二人してお嬢ちゃんたちを口説けば」 「うん、そいつはいいかもしれねえ」と安治はうなづくと空を見上げた。「もう、雨はやんだようだな」 「お山はまだ鳴いてるけどね」 「よし、仙之助に会って来るか」 安治はニヤニヤしながら出て行った。 「ねえ、うまく行くと思う」とおなべが惣八に聞く。 「まあ、無理だんべえな」と惣八が言うと、「難しいだんべ」と丑之助までが真面目な顔で言う。 みんなで大笑いしていると安治が戻って来た。 「何でえ、忘れ物か」と惣八が言う間もなく、「おい、おゆうはどこ行っちまったんでえ」と勘治が血相を変えて怒鳴り込んで来た。 「あら、帰ったの。お帰り」とおなつは市太を捜しに行く。 勘治は旅支度のまま、惣八とおなべに詰め寄って、おゆうの行方を聞いている。市太と鉄蔵も石段を登ってやって来た。 「お帰り」とおなつが市太に飛びつく。 「おい、お山がまた焼けたのか」 「そうなのよ。大変だったんだから」 「田圃が灰で真っ白になってたぜ」 「そうさ。田植えしたばかりだってえのに、たまんないよ。それより、江戸はどうだったの。お芝居見て来たんでしょ」 「おう、土産があるんだ」と市太は若衆小屋に上がり込んで荷物を広げる。 勘治はおなべの話を聞きながら馬鹿野郎を連発し、おなつは土産の役者絵を広げてキャーキャー騒ぐ。そんな事はお構いなしに、鉄蔵はさっそく、煙を上げている浅間山を絵に描き始めた。 「馬鹿野郎」と勘治は叫ぶと、そのまま、石段を駈け降りて行った。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成