五月二十七日
そのまま治まるかに見えた浅間の噴火は、次の日の夕方七つ(午後四時)頃、またもや、大音響と共に大揺れした。その時、市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。半兵衛と一緒に明日、運ぶ荷物の荷造りをしていた。 「くそっ、延命寺の 昨日の大爆発ほどではないが、煙の量は増えている。 「若旦那が柄にもねえ事をしたから、お山の鬼が騒ぎ出したか」半兵衛は市太を見ながら苦笑した。 「よしてくれよ」 「冗談じゃ。それにしても、昨日のような怪我人が出なけりゃいいがな」 家の中から兄の庄蔵と叔父の弥左衛門も飛び出して来て、浅間山を見上げた。 「まったく、いつまで続くんだ」 「そいつがわかりゃア世話はねえ」 大揺れは一度だけだった。地鳴りは続き、灰が降って来た。仕事が終わると市太は手拭いで頬被りして、おろくの家に向かった。父親の見舞いを口実に、おなつにやろうと買って来た江戸土産の銀の おろくの家の前に来た時、ふと三治の姿が目に入った。村の外れ、おすわが嫁いだ源七の家の前辺りに一人で立っている。気になって側まで行ってみると、何と用水の中に小便をしていた。山から引いた用水は村人にとって井戸水と同じ、そんな所に小便をされたらたまらない。市太は慌てて、三治を捕まえた。 三治は平気な顔して小便をしている。市太は三治の向きを変えた。長小便を終えると市太を見て、「ハハ、若ランナらア」と指をさした。 どうやら、市太の事はわかるらしいが、馬のような 「まったく、世話の焼ける野郎だぜ。おろくも可哀想なこった」 見ている方が恥ずかしくなるので、三治の着物の 「お山の鬼が怒ってなア、鹿の母ちゃんが泣いてらア、ハハハ」 市太は訳のわからない事を言っている三治を引っ張って、家に連れ帰った。おろくは夕飯の支度をしていた。三治が出歩いていたのを知らなかったらしい。市太が連れて来てくれた事に恐縮して、何度も謝った。 父親は昨日のように囲炉裏端にはいなかった。部屋の方で寝ているという。甚太夫と松五郎の姿も見えない。市太は父親の具合を聞いてから、江戸土産だとそっけなく言って、おろくに簪を渡すと家を出た。おろくが三治を押さえて、後を追って来た。 「こんな高価な物、あたし、いただけません」 「ただの土産だ。気にすんな」 「でも‥‥‥」 「みんなの世話ばかりしてねえで、たまには自分の事も 「でも‥‥‥」 市太はおろくの手から簪を取るとおろくの髪に差してやった。 「似合うぜ」 おろくは恥ずかしそうに頭を下げた。 「それじゃアな」 おろくと別れた市太は鉄蔵のいる幸助の家に向かった。昨日、観音堂で別れて以来、ほったらかしだった。もっとも、飽きもせずに絵を描いてばかりいるので世話はないが、連れて来た客人を放ってばかりもいられない。また、浅間山を描きに行って、いないかもしれないと思いながら声を掛けると幸助の妹、おはつが出て来て、鉄蔵はいるという。 部屋中に紙クズを散らかして、鉄蔵は絵を描いていた。浅間山を描いているのかと覗くと、なんと美人絵を描いている。 「あれ、兄貴、誰です。そいつア村の娘ですか」 「おう、村の娘だ。誰だかわかるかい」 「誰と言われてもなア。難しいや」 「ちょっと待て」と鉄蔵は失敗して丸めた紙切れを拾っては広げて、「違う。あれ、どこに行っちまったんだ」と言いながら、何かを捜している。 「あった。こいつだ」と広げて見せた絵は同じ美人絵だったが背景も描いてあった。 「こいつアお茶屋ですね。お茶屋といやア、わかった。 「おかよってえのか。いい名だ」と鉄蔵は自分で描いた絵を眺めながらうなづく。「昨日も今日も巴屋で昼飯を食ったんだよ」 「そうだったんですかい。まあ、おかよはいい女だ。それにしても、兄貴、どうして、おかよを見ながら描かねえんです」 「まあ、そうしてえんだが、何となく、声を掛けづらくてな」 「兄貴もわりと気が小せえんですね」と市太はニヤニヤする。 「そうじゃねえ。亭主持ちだったら騒ぎになると思っただけだ」 「へえ、 「まあな。調子にのって絵を描いてたらな、亭主が出て来やがって、とんだ目に会った」 「おかよは 鉄蔵は嬉しそうに目を輝かせ、「本当かい、そいつは」と確認する。 「ええ、多分。前に栄次ってえ色男といい仲だったが、奴も嫁を貰っちまったからな。栄次と別れてからは噂も聞かねえな」 「へえ。あれだけの器量よしなのに、村の若え者は放っておくのかい」 「別に放っておくわけじゃねえけど、どこか堅えとこがあるのかなア。俺も言い寄った事アあるが簡単に振られちまった」 「へえ、おめえが振られたとはな」 「兄貴、こんなとこでゴチャゴチャ言ってても始まらねえ。さっそく、巴屋に行って一杯やろうぜ」 「おお、そうだな。俺はあまり飲めねえが」 「なアに、兄貴の好きな甘え物もあらアな」 二人が出て行こうとした時、幸助と弟の竹吉が畑仕事から帰って来た。 「まったく、まいったぜ。そこら中、灰だらけだ」ブツブツ言いながら、手拭いで灰を払っている。 「おい、幸助、これから巴屋で一杯やるんだが、おめえも行かねえか」 「そうか、いいな。先に行っててくれ。 「伊之助はどうした。今日は馬方か」 「そうじゃねえ。さっきまで一緒だったんだ。あの野郎、さかりがついた犬みてえに 「おみよか。仲のいいこったな。じゃア、先に行ってるぜ」 日が暮れ、辺りはすっかり暗くなっていた。暗い中を灰が雪のようにチラホラ降っている。 二人は提燈も持たずに諏訪明神の森の前を通り過ぎた。通りの反対側におなつの家が見えた。古着屋から明かりが漏れている。おなつを誘おうかと思ったが、今晩はやめにした。 諏訪の森を過ぎて三軒目が巴屋。通りを挟んで正面にあるのが市太の家。問屋の前にあるので、馬方たちの溜まり場になっている。 二人が暖簾をくぐって店に入ると錦渓と安治が酒を飲んでいた。 「あれ、先生、珍しいとこで会いますね」と市太は気軽に声を掛ける。 「何が珍しい。わしはすぐそこに住んでいる」 そう言う錦渓の声には刺があった。あまり機嫌がよくないようだ。錦渓はちょっと先にある『江戸屋』の離れを借りている。江戸屋は江戸にいる小松屋の出店のようなものだった。 「いつもは桔梗屋でしょ。姉さんと喧嘩でもしましたか」 「うるさい。たまには 「ほう、そうですか」 「おまえこそ、どうした。今日はおなつと一緒じゃねえのか」 「たまには男同士で飲むさ」 「昼間、おなつが一人で例の小屋にいたぞ。おゆうが草津に行っちまってから、おめえらもバラバラになっちまったようだな。勘治の奴は急に真面目になって稼業に精出してるし、惣八の奴は丑之助とつるんで何かを 「惣八と丑がつるんでる?」 「ああ、さっきまで、そこでコソコソ内緒話をしてたよ」 「へえ。何を企んでんだ、あいつら」 「さあな。どうせ、ろくな事じゃアあるまい」 「いらっしゃい」とおかよが出て来た。 酒と汁粉を頼むと市太はおかよに鉄蔵を紹介した。 「あら、江戸の絵画きさんだったの。何となく、この辺の人とは違うとは思ってたけど」 「役者絵で有名な勝川 「あら、そう。今度、あたしにも見せてよ」 「おめえも描いてもらやアいいじゃねえか」 「やだ。そんな、あたしなんて」 「いや。おめえなら、いい美人絵になるぜ」 「いやねえ、若旦那ったら」 おかよは市太をぶつ真似をして、奥へと消えた。 「兄貴、まんざらでもねえみてえだぜ」と市太は小声で鉄蔵に言う。 「そうか。客に対する愛想だろ」 「いや、そうじゃねえ。おかよが兄貴を見る目がいつもと違わア」 「おだてるねえ」 おかよは江戸の話が聞きたいと市太たちの所に座り込んで、一緒に酒を飲んだ。鉄蔵もおかよにお酌され、苦手な酒を少し飲んだ。 野良着を着替えた幸助が来て、錦渓が帰ると安治も加わった。 「おい、おかよ、いい男はできたのか」と市太は単刀直入に聞いた。 「なに言ってんのよ。あたしが男っ気がないのは知ってるくせに。若旦那がおなつと一緒んとこを見て、いつも 「へっ、俺を振ったのはどこのどいつだ」 「あん時はさ、傷の痛手が治ってなかったんだよ。今になって、惜しい事をしたと悔やんでるんさ」 「いつの間にか、お世辞もうまくなりやがったな」 「一癖も二癖もある連中を相手にしてるからねえ」 「まあ、この店はおめえで持ってるようなもんだ。男っ気があったら客が来なくなるか」 「そんな事アないけどさ。この仕事好きだからね。今はまだやめたくはないよ」 「江戸の『笠森おせん』じゃねえけど、おめえも美人絵に描かれりゃア有名になるぜ」 「鎌原おかよだな」と幸助が その夜、おかよは上機嫌だった。暖簾をしまった後も市太たちと付き合い、遅くまで飲んでいた。市太も知らなかったが、おかよは酒が強かった。いくら飲んでも平気な顔して笑っている。これだけ強かったら、男が口説こうと思っても、先に酔い潰れてしまうだろう。 酒が飲めない鉄蔵は漬物を突っ突きながら、おかよに江戸の話を面白おかしく聞かせていた。おかよは目を輝かせて聞いている。幸助と安治も興味深そうに聞いていた。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成