六月一日
今日は山の口開け、山の草刈りが解禁となる。二百頭もの馬を飼っている鎌原村では、 江戸から帰って三日間は、真面目に稼業を手伝っていた市太も仕事に飽きて、いつものように観音堂裏の若衆小屋でゴロゴロしている。 市太と勘治が勝手に江戸に行ってしまい、いがみの権太と渡海屋のおとくの役は他の者に代えろという意見が出たらしい。若衆頭の杢兵衛が二人を庇い、帰って来てから演技を見て、ダメだったら替えようという事になった。江戸から帰って来たその晩に市太、草津に行ってしまった勘治は次の晩に、それぞれ演技を披露して無事に合格点を貰った。暇を持て余していた二人は、この小屋でたっぷり稽古を積んでいたのだった。 おろくの父親が怪我をしてから、市太は毎晩のように見舞いに行って、おろくと会っていた。舞台の上の自分を見せたくて、稽古を見に来いと誘うのだが、忙しいのか一度も来ない。それでも、市太は気長に構えて、何としても、おろくをものにしようと考えている。 市太がおろくと会っている事を知って、おなつは怒り、若衆小屋にも顔を出さなくなった。勘治はすっかり真面目になって、市太たちとは遊ばない。最近、若衆小屋に集まって来るのは惣八、安治、丑之助、そして、時々、鉄蔵が顔を見せるくらいだ。惣八とおなべの仲は続いているらしいが、おなつが来ないので、おなべも一人では来なかった。 「おい、市太、おめえ、おろくに夢中になってるようだけど、あんな女のどこがいいんでえ」と惣八が市太の江戸土産、北尾 「いい女だんべが」と横になって、おろくの事を考えていた市太は言う。 「まあ、いい女には違えねえけどよ、面白くも何ともねえ女だぜ。一緒に遊ぶっちゅう女じゃねえや。まさか、おめえ、嫁にするつもりなのか」 「馬鹿野郎、勘治じゃあるめえし、そんな事ア考えた事もねえよ」 「ただ、一発やりてえだけか」 「まあな。あのすました顔で、どんなよがり声をあげるのか見てみてえのよ」 「それなら簡単じゃねえか。どこかで待ち伏せでもして、やっちまえばいい」 「そうもいかねえ。なかなか、うちから出ねえからな。まず、何とかして、うちから出さなくちゃアならねえ」 「へっ、気の長え話だ」 「それより、おめえは何を企んでるんでえ」 「なアに、俺もちょっと一発やりてえのがいてな」 惣八は艶本から顔を上げるとニヤリと笑う。「見てるだけでゾクゾクッと来るんだ」 「ほう。おなべはもう飽きたのかい」 「そうじゃねえけどよ。たまにはな‥‥‥実を言うと俺ア諦めてたんさ。丑の奴が 「何だ、おめえ、他人の嚊を狙ってんのか。誰なんでえ、 「おい、安、誰にもしゃべるなよ。いいな」 「わかってるよ」と平賀源内が書いた『 「実はな」と惣八は回りを見回してから小声で言った。「おまんなんだ」 「何だと。あの馬医者野郎の嚊のおまんか」市太はびっくりして起き上がり、惣八の顔をじっと見つめる。 惣八は真面目な顔してうなづく。 「確かに、おまんは八兵衛にゃア 「勿論、慎重にやらなきゃならねえ。だが、あそこんちはガキもいねえし、親もいねえ。八兵衛が出掛けちまえば何とかなりそうだ」 「そうかもしれねえがよ、気を付けろよ。おまんはお頭の妹なんだぜ」 「そんなのわかってらア。八兵衛は小道具の担当だからな、俺も手伝うって事になったんだ。ちょくちょく出入りしてりゃア、いつかはうまく行くぜ」 「おめえだって、気の長え事を言ってるじゃねえか」 「目的を達成するにゃア 「なに、 「先生の受け売りさ。なあ、市太、どっちが先にものにするか賭けるか」 「いいとも、何を賭ける」 「そうさなア」 「おい、賭けるんはいいがよう、ものにしたってえ証拠はどうすんでえ。口先だけじゃア信じられねえぜ」 「証拠か。確かにそいつア難しいや。まさか、見てる 「ここに連れ込みゃアいいんじゃねえのか」と安治が口を挟む。「前もって俺たちに知らせりゃア、とっくりと見届けてやるよ」 「何だと、おめえたちの前でやれってえのか」 「ちゃんと隠れてるさ。その後、 「おう、そいつは面白え」といつの間にか、惣八が見ていた艶本を横取りして眺めていた丑之助もニヤニヤする。「おろくにおまんか‥‥‥こいつア楽しみだ」 「冗談じゃねえ。おろくを念仏講なんかさせられるか」市太はつい本気になって怒る。 「あれえ、市太、本気で惚れたんじゃあるめえ」 「本気じゃねえさ。本気じゃねえけど‥‥‥おめえはどうなんだ。おまんを廻しても構わねえのか」 「ああ、構わねえよ。どうせ、人様の嚊だ」 「決まったな」と安治は手を打つ。「後は何を賭けるかだ」 「おめえはそいつを賭けろ」と惣八は市太の腰に下げた煙草入れを指さす。 「こいつア江戸で買って来たばっかだ」 「勝ち目がねえならやめるか」 「そんな事アねえ。畜生、気に入ってんだが、いいだんべえ。おめえは何にする」 「俺アおめえが 「おう、それなら、いいだんべ」 「よし決まった。俺たちが 「それじゃア、さっそく、俺ア外堀を埋めに出掛けるぜ」 惣八が得意になって出て行こうとすると、丑之助が引き留めた。 「ちょっと、俺の方はどうしたらいいんでえ」 「おめえの方は難しいわ。二歳のガキはいるし、おっ母もいる。おまけに 「そんな‥‥‥俺アどうしたらいいんでえ」 「おめえは諦めろ。その方がいい」と市太も言って、二人は小屋から出て行った。 「なあ、安、いい 「難しいよ。諦めな」安治は本を読んでいて相手にしない。 「おめえも冷てえな。そういう奴だったのかよ」 「わかったよ。何かいい筋書きを考えてやらア」 安治が丑之助に恋の手ほどきをしている頃、市太はおろくの家にいた。まだ歩く事もできない甚左は、市太が毎日、見舞いに来るので恐縮している。おろくは嬉しそうに市太を迎えるが、共通した話題もなく、話は弾まない。今晩、芝居の稽古があるから必ず来てくれと言って別れた。 芝居の舞台は諏訪明神の森の中にあった。初めの頃は まだ、大道具も小道具もなく、衣装もない。しかし、 「さすがの若旦那も振られたようだね」とおなつが寄って来て、笑いながら言う。 「うるせえ」 「 「うるせえってえんだよ」 「それにさ、おゆうと勘治と同じで、あんたとおろくは家柄が違うんだよ。勘治は親を説得して、おゆうを嫁に貰うって稼業に励んでるけど、どうなるかわかったもんじゃない。今までに家柄が違う者が一緒になった試しなんかないのさ。勘治の親だって、いざとなりゃア反対するに決まってる。勘治がおゆうの事を自然に忘れる事を願ってんだよ。おろくなんか忘れなよ。どうにもならないんだからさ」 「くそっ、何が家柄だ。馬鹿馬鹿しい」 「そう思うのはあんたの家柄がいいからさ。身分の低い者はただ諦めるしかないんだよ。おゆうのようにね。あんたがおろくに近づけば近づく程、おろくは悩む事になるんだよ。今のうちに手を引いた方がいいよ。お互いのためにね」 「うるせえ」と市太は怒鳴ったが、おろくの事は諦めて、その夜、おなつとよりを戻した。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成