六月九日
村芝居を上演するには役者は勿論の事、 衣装はお頭の妻おすみが中心になって 大道具は舞台の背景や建物、樹木や岩などで、大工の八右衛門と 小道具は役者が身につけたり、手に取ったりする小物で、担当しているのは馬医者の八兵衛。妻のおまんと一緒に小道具を集めている。子供がなく、二人だけで暮らしているので、家の中は小道具で埋まっていた。 おろくのお陰で衣装ができたので、市太は惣八を誘って、小道具を見に八兵衛の家に向かっていた。先月の末に噴火した浅間山も静まり、ここ二、三日、いい天気が続いている。ようやく、夏らしい暑さになって来た。 「おまんはどうでえ。うまく行きそうか」と市太は惣八の顔色を窺いながら聞く。 「勿論さ」と惣八はニヤニヤしながら、「おめえの方はどうなんでえ」と市太を見る。 「まあな、うまく行ってるよ」市太も昨夜の事を思い出しながらニヤニヤする。 「負けたとしても、おろくを抱けるわけだ。楽しみだぜ」と惣八は肘で市太を小突く。 そんな事は絶対にさせねえと思うが、顔には出さず、「俺だって、おまんを抱けるたア楽しみだ」と市太も強がる。 「そいつは俺の 「なに言ってやがる。おめえの 「まあ、お互え頑張ろうぜ。勘治じゃねえがよう、俺アおまんをものにしたら、スッパリと 「ほう」と言いながら、市太は惣八の顔を見る。惣八は遠くの方を見つめていた。 「稼業に励むのか」と市太は聞く。 「まあな。江戸屋の旦那から 「へえ。しかし、万座の炭は 「そうなんだが、干小の旦那もあっちこっち手を広げてるから、炭まで手が回らねえんだんべ。詳しい事ア知らねえが、その話が決まりゃア俺がやる事になる。親父ももう年だからな、そろそろ、俺も身を固めねえとな」 「おなべと一緒になるのか」 「親同士も決めてるらしいし、一人で村を出るより、おなべと一緒の方がいいだんべ」 「その 「そういうこった。だがな、やたらと 「そういやア、路考んちは隣だったっけ。奴も桔梗屋の姉さんを先生に寝取られて、今度はおまんを狙ってんじゃアねえのか」 「そうじゃねえんだ。おまんが路考の衣装を縫ってんだよ」 「ほう、路考の衣装はおまんが縫ってんのか」 「奴は三幕目で 「ああ、知ってるよ」 「ほう、そうかい。いい線行ってるようじゃねえか」 「まあな。おめえじゃねえが、一発決めて、江戸におさらばするんさ」 「それにしてもよう、おろくなんか、そんなにいいかね。まあ、 「てめえこそ、気を付けるこった。八兵衛に見つかったら、それこそ片輪にされるぜ。怪我した馬を 「わかってらア。そんなドジは踏まねえ。それより、おめえ、稼ぎ口は決まったんか」 「決まらねえ。どうにかならアな。鉄蔵の兄貴もいるしな」 「兄貴はまだ 「ああ。おかよが首を長くして待ってらア」 「おかよも本気で惚れちまったようだな。兄貴と一緒に江戸に行くのかなア」 「さあな。兄貴もまだ、それ程、売れてる絵画きじゃねえからな、まだ、 「 諏訪の森を越え、桔梗屋を過ぎて二軒先の左手に延命寺への参道がある。延命寺は浅間大明神の 参道の向かいに勘治の家、鶴屋がある。江戸から帰って、すぐに草津に行った勘治はその後、今月の四日、おゆうに会いに草津に行った。その時は、市太と惣八も、おなつ、おなべを連れ、鉄蔵とおかよも一緒に行った。鉄蔵は大喜びで絵を描きまくっていた。桐屋という料理屋にいる雪之助も呼んで、大騒ぎをして楽しんだ。 おゆうは思っていたより元気だった。 参道を過ぎると百姓代を務める仲右衛門の家があり、その隣は組頭の新右衛門、新右衛門の娘、おきよは娘義太夫をおなつと競い合っている。おきよに惚れているのが幸助で、奥手の幸助はおきよの前に立つと何も言えない。おきよを美人絵に描いて口説こうと鉄蔵から教わって、今、描いているらしいがどうなる事やら。おきよの家の隣は二代目の権太をやった孫右衛門、その隣は大工の八右衛門、一軒おいて桶屋の利右衛門の家がある。利右衛門の妹、おみよといい仲なのが、幸助の弟の伊之助。兄と違って手が早い。桶屋の隣が安治の家で、通りを挟んで向かいが馬医者、八兵衛の家だった。 鎌原村には馬が二百頭もいるので何かと忙しい。おまけに馬方たちも年中、怪我をしている。病気の治療はできないが、怪我の治療は八兵衛が任されていた。 惣八が夢中になるのもわかる程、おまんはいい女だった。お頭、杢兵衛の妹で、嫁に行く前は惣八の家のすぐ近くに住んでいた。惣八よりも四つ年上で、ガキの頃からずっと憧れていたらしい。 「あ〜ら、若旦那じゃない。お珍しいこと」 そう言ったのはおまんではなく、権右衛門。「今度のお芝居じゃ、若旦那とのからみの場面がなくて残念だわ。来年は是非とも、やりたいわね」 「そうだな」と市太も愛想笑いをしながらうなづく。 「惣やんはまたお手伝い? 毎日、大変ね」 「うるせえ。俺アな、先生に頼まれて手伝ってんだ」 「そうだったわね。あんたんちはお金持ちだから、いい小道具を買い集めてよ」 「うるせえってえんだよ」 「おかみさん、気を付けた方がいいわよ。惣やんはおかみさんがお目当てなのよ」 「何を言ってやがるんだ。この野郎」 「まあまあ、二人ともよしなさい。そんな事ないわよ、ねえ。惣八さんは小道具に興味を持っただけなのよ。小道具 おまんが入れてくれたお茶を飲んでいると、近所の馬を診に行っていた八兵衛が帰って来た。路考は若葉の 『義経千本桜』の四幕目、 八兵衛は三度笠に 「まあ、こんなもんだんべ」 「他の物はいいが、この煙草入れに煙管はサマにならねえな」と市太は言う。 「そいつは俺が前に使ってた物だ。重要な場面に使う煙管だと、もっと大振りのを捜すんだが、ちょっと一服するだけだ。それでもいいと思ったんだ。何なら、おめえが自分のを使っても構わねえよ」 「そうするよ。こいつを使う」と腰の煙草入れを示す。 「ああ、そうしな。権太の小道具は簡単だったが、 市太は八兵衛が集めた小道具を色々と見せてもらった。今まで、小道具の事などあまり考えなかったが、様々な小道具を見せてもらうと、小道具の重要さというものが身にしみてよくわかった。 惣八が八兵衛に頼まれて小道具を捜しにどこかに行くと、市太も八兵衛夫婦と別れて、ブラブラと表通りに出た。このまま、おろくの家に行きたかったが、父親がいるので行きづらい。昨夜、一緒に酒を飲んで、芝居話で弾んだが、やはり、苦手な存在だった。 桔梗屋の前の用水では汗をかいた馬が六頭、水を飲んでいる。桔梗屋を覗くと他所から来た馬方たちが休んでいる。忙しそうなので、顔を出すのはやめ、古着屋の前を通るとおなつに声を掛けられた。おなつに誘われるまま、おなつの部屋に行き、おなつが弾き語る『お染久松』を聞いていた。 「ねっ、もし、あたしが舞台に上がったら、江戸に行っても、これで何とかなるわよね」 おなつはすっかり、市太と一緒に江戸に行くつもりでいた。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成