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六月十三日
市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。祖父に江戸に行きたいと言うと、そうかとうなづいて、江戸にいる知り合いを紹介してやろうと言った。そして、お前は一体、何がやりたいんだと聞いて来た。 「おまえはわしによく似ている。兄貴の庄蔵は父親そっくりの真面目一方だ。まあ、問屋の跡継ぎには丁度いいのかもしれんが、わしから見ると、もの足らん。何かこう、こじんまりとしていてな。おまえにはそうなって欲しくはない。何をやってもかまわんが、ほんとに夢中になれるものを捜せ」 ほんとに夢中になれるものは何なのだろうと考えながら、市太は仕事をしていた。別に問屋の仕事が嫌いなわけではない。だが、跡を継ぐのは兄だった。父親の弟、市太からみれば叔父もいるし、 今日は朝から小雨が降っているのに、大笹から 「なに、兄貴が帰って来たのか」 「今、うちでお昼を食べてるわ」 「そうか。そういやア、俺も腹が減ったな」 市太は側にいた叔父の弥左衛門に一声掛けて、おかよと一緒に向かいにある『巴屋』に向かった。 「大丈夫なの。忙しそうだったじゃない」とおかよは心配する。 「どうせ、俺なんか当てにしちゃアいねえよ」 「そう? 叔父さん、やな顔をしてたわよ」 「年中、ああいう面なんだ。気にすんな」 大笹から来た馬方たちで店の中は混んでいた。おかよの兄嫁おべんと妹のおこうが手伝っている。鉄蔵は座敷の隅の方で茶漬けを食らっていた。市太が声を掛けると手を上げて笑った。 「兄貴、お帰り。いい絵は描けましたか」 「まあな。旦那は喜んでくれたよ。たっぷりとお礼をくれたんで 「そいつアよかった。兄貴がいねえもんだから、何か面白くなかったよ」 「よく言うぜ」 「ほんとさ」 「この前、おなつと大喧嘩しちゃったしね」とおかよが嬉しそうな顔して鉄蔵に教える。 「へえ、あんなに仲よかったのに、どうしてだい」と鉄蔵が不思議そうに聞く。 「それがね」とおかよが市太を見て、笑いながら、「この若旦那、他の女に手を出したのよ」 「なに言ってやがる。まだ、手も足も出しちゃアいねえ」と市太はおかよを睨むが、 「でも、そのうち出すんでしょ」とおかよは平気な顔して言う。 「へえ、あんな可愛い 「それがね、まったく以外なのよ。村でも一番目立たない娘なの。お母さんが寝たきりだからしょうがないんだけどね、何となく暗い娘なのよ」 「ほう。一度、会ってみてえな」 「きっと、今晩、会えるわよ、ねっ」 「多分な」と市太はうなづく。 「今晩、何かあるのかい」 「お芝居のお稽古」 「ああ、そうか。今日は半(奇数)の日か」 「うちからちっとも出ない人が、どうした訳か、ここんとこ、お芝居を見に来るのよ」 「うまくやってるようじゃねえか」 「今んとこはな。先はわからん」と言いながらも、市太の顔は自然とニヤニヤ。 市太も茶漬けで昼飯を済ませると、鉄蔵に聞いてみた。 「兄貴はどうして絵を描いてんです」 「どうしてだと? そんなの理由なんかねえや。描きてえから描いてんだ。描かずにいられねえからさ」 「描かずにいられねえから‥‥‥」 「そうさ。絵だけじゃねえ。俺は 「へえ、兄貴は戯作も書くですか。こいつアたまげた」 「何もたまげる事アねえ。俺より年下の北尾 「へえ、そんな奴がいるんですかい」 「ああ、紅葉山の東に住む京屋の伝蔵で 「大丈夫ですよ。兄貴は負けやしません」 「おめえに言ってもらってもしょうがねえや」 「兄貴、俺ア何をやったらいいんだんべ」 「やりてえ事をやりゃアいいさ」 「そのやりてえ事がわからねえんだ」 「そういう時ア、旅に出りゃアいい。俺もな、自分の絵がわからなくなっちまったのよ。てめえの絵が売れねえもんだから、師匠の真似したり、 「自分が描きてえ絵を描くんですか」 「そうさ。それしかねえのよ」 「描きてえ絵を描くか‥‥‥」 「絵だけじゃねえよ。何だってそうだ。最初は誰でも他人の真似から始まる。だが、真似ばかりしてたって始まらねえ。自分のものってえもんを出さなくちゃアな」 「自分のものか‥‥‥」 馬方たちが入れ替わり立ち代わり入って来るので二人は店を出た。まだ、小雨がシトシト降っている。 「兄貴、観音堂でも行きますか」 「例の小屋か。それより、おめえが惚れた女ってえのに会ってみてえな」 「えっ、おろくにですかい」 「おかよの話じゃ、年中、うちにいるってえじゃねえか。うちに行きゃア会えるんだろ」 「まあ、会えるには会えるんだが、親父がうるせえからな」 「親父もうちにいるのかい」 「こないだの浅間焼けで怪我して、まだ、仕事ができねえんだ」 「そういやア、そんな事を言ってたな。 「ああ、そうなんだ」 「よし、行こう」と鉄蔵は南の方に足を向ける。 「兄貴、本気なんですか」と市太は後を追う。 「ああ、本気さ」 「まいったなア」 「何がまいるんだ。おめえだって会いてえんだろ」 「まあ、そりゃア会いてえけど‥‥‥」 「会いたけりゃ会えばいいんだ。何も遠慮する事アねえ」 「別に遠慮してるわけじゃねえけど」 「ちょっと待て」と鉄蔵は急に立ち止まった。「その娘だけど、そこんちに、ちょっと気のふれた野郎がいねえか」 「ええ、いますよ」 「ああ、あの娘か。会った事あるぜ。そうか、あの娘に惚れたのか‥‥‥よし、行こう。この前、絵に描こうとしたら断られたんだ」 「えっ、兄貴がおろくを」 「あれは絵になるぜ。是非とも描かなくちゃアならねえ」 市太は鉄蔵に引っ張られるようにして、おろくの家に行った。うまい具合に、おろくは用水の水を汲んでいた。市太が近づいて来るのに気づくと、顔を上げて微かに笑った。 「やあ」と市太は声を掛ける。 「お出掛けですか」とおろくは聞いて来た。 おろくの家は村の南の外れの方だった。真っすぐ行けば山の 「いや、おめえの顔を見に来たのさ」と市太が照れ臭そうに言う。 「えっ、昼まっから酔ってるんですか」おろくは市太と鉄蔵の顔を見比べる。 「若旦那はおめえさんに酔っちまったらしい」と鉄蔵が口を挟む。早くも手帳を広げ、矢立てから筆を出していた。 「兄貴がおめえを絵に描きてえってんで連れて来たんだ」 「そんな、あたしなんか」 「すまねえな。ほんのちょっとの間だ。じっとしていてくんねえ」 鉄蔵はスラスラと筆を動かした。市太は後ろから手帳を覗き込んだ。あっと言う間に、おろくの顔が写された。 「やっぱり、兄貴は 鉄蔵はおろくに絵を見せた。 「これがあたしなの。信じられない。わざと綺麗に描いたんですね」 「そうじゃねえ。紛れもなく、こいつアおめえだよ」 市太がそっくりだと言っても、おろくは信じない。 「そうだ」と市太は手を打った。「おめえにいい 「そんな‥‥‥」 「今晩、持って来るよ」 「そんな、いいんです」 「なに、遠慮するなよ」 「あの、あたし、もう行かなくちゃ」 「今晩、迎えに来るからな」 おろくは恥ずかしそうに、うなづいて家の中に入って行った。 「いい娘だな。おめえに気があるようだ。だが、 「別に変わっちゃアいねえ。好きになった女がたまたま、そうだっただけだ」 「そうかねえ。まあ、いいや、おめえの事だ。好きにするがいい」 鉄蔵は市太の顔を見ながらニヤニヤ笑う。 「兄貴、何がおかしいんでえ」 「何となく、俺に似てると思ってな」 「兄貴に似てる? 俺が」 「そうさ。簡単に手に 「へえ、兄貴もそうなのかい」 「まあな。ちょっと 二人は顔を見合わせて笑うと道を引き返して、観音堂裏の若衆小屋へと向かった。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成