六月二十三日
舞台では三幕目の『 市太とおろくは仲よく見物。今晩は市太の出番はない。 「そろそろ行くか」と市太はおろくの手を引いて、おかよの店、巴屋に向かった。 「今日はほんとにすみませんでした」とおろくは謝った。 「なに、気にするねえ。どうせ、昼間はやる事がねえんだ」 「父ちゃんも助かったって言ってます」 「おめえを連れ出すにゃア、とっつぁんの機嫌を取らなけりゃならねえからな。お陰で 「はい」とおろくは少し赤くなる。 昨日、今日と仕事に精出し、何とか、小石も片付けた。おろくの父親も感謝して、昨夜は芝居の稽古がないのに、市太と出掛けるのを許してくれた。市太はおろくを自分の部屋に連れて行き、江戸芝居の役者番付や役者絵を見せて、有名な役者の話を聞かせ、ついでに土蔵に連れ込んで、しっぽり濡れた。 巴屋には鉄蔵、幸助とおきよが来ていた。 幸助はおきよを美人絵に描いて贈り、やっと、自分の気持ちを伝える事に成功した。おきよの方もまんざらでもないらしい。 「あら、お揃いで。いらっしゃい」とおかよが笑顔で迎える。 「おめえ、 「大丈夫さ。こうなる事は最初からわかってたのよ。平気、平気」と強がりながら、おかよはお勝手の方に引っ込んだ。 「あたしも手伝った方がいいわね」とおろくもお勝手の方に行く。 市太はうなづいて、座敷に上がり込む。 鉄蔵は煙草をふかし、幸助は鉄蔵の手帳を眺めながら一人で唸っている。朝から晩まで絵を描いているので何冊めの手帳かわからない。風景、人物、虫や花、目につく物は何でも描いていた。 市太の祖父、市左衛門のために茶の湯の掛け物を描き、市左衛門が茶の湯仲間に見せびらかすと、わしにも描いてくれと引っ張り凧になった。鉄蔵は喜んでサラサラと絵を描いた。大笹の黒長に頼まれて 「兄貴、扇屋の仕事は終わったのかい」市太は鉄蔵の隣に座り込んで聞く。 「ああ、やっと終わったぜ」 「兄貴も忙しかったなア」 「お陰で、 「また、吉原に入り浸りですかい」 「いや、今度は深川さ」 「深川か。あそこにゃア 「江戸に来たら連れてってやるよ」と鉄蔵は笑う。「深川は吉原ほど金がかからねえからな」 「そいつアありがてえ」 「おろくとうまく行ってるようだが、おめえ、別れられるのか」 「そいつなんだ。今はちょっと別れられねえ。あと一月でどうなるか。 「つれえが、今の俺はまだ半人 「兄貴の腕は確かなんだ。有名になる事ア間違えねえや」 「いや、まだまださ。上には上がいるもんだ。ここに来て、何とか、俺の絵ってえもんがつかみかけて来た。江戸に帰って、またやり直しだ」 「早く有名になって下せえよ。村の者たちもみんな応援してるんだ」 「ああ、見ていてくれ」 桔梗屋のおゆくがとっくりを抱えてやって来た。 「なんだ。まだ、みんな揃ってないのかい」 「やあ、姉さん、わざわざ、店を閉めてまで来てくれて 「なあに、たまにはお客になって、とことん飲むのさ」 「おい、姉さん、また、酔い潰れるまでやるつもりかよう」と市太が顔をしかめる。 「この間の冷や酒はきいたねえ。でも、うまかったろ。ちゃんと持って来たからね、みんなで飲もうや」 芝居の稽古も終わり、勘治、安治、仙之助、おさやとおみやもやって来て、鉄蔵の送別会が始まった。普通だったら、当然、この場にいるはずの惣八、おなつ、おなべの顔はない。惣八は未だに土蔵から出してもらえないし、おなつとおなべは、それぞれ、市太、惣八との仲が気まづくなり、芝居の稽古で顔を合わせても口もきかなかった。 おろくは市太の隣に当然のように座って、ちょっぴり酒を飲みながら、みんなの話を聞いていた。 「おまんだけど、どうやら、八兵衛とよりを戻したらしいぜ」と安治が言うと、待ってましたとおゆくが話に乗ってくる。 「おすみから聞いたんだけどね。一時は離縁するって話まで行ったらしいよ。おまんは子供ができないだろ。跡継ぎを産まない女なんか、いらないって言ったらしいのよ。おすみも子供ができないからね、くやしいって、あたしに おすみはお頭、杢兵衛のおかみさんで、おゆくとは同い年、愚痴を言い合う仲だった。 「それで、どうなったんだ」と市太が聞く。 「お頭が何とか説得したみたい。結局、おまんと惣八は何もなかったみたいね」 「でも、あん時、おまんは帯を解いてたんだんべ」と幸助も興味深そうに話に加わる。 「それがさ、その帯は芝居で使う帯だって言うんだよ。おまんは路考の衣装を担当してたからね、筋はちゃんと通ってるのさ」 「それにしたって、路考は帯を解いたおまんの姿を見てるんだんべ」 「部屋ん中は暗かったからね、はっきりとは見てないらしいのよ。散らかってる帯を見て、暗闇ん中に惣八とおまんが二人っきりでいたんで、路考は大騒ぎしたんだよ」 「それじゃア、蔵ん中に閉じ込められた惣八は馬鹿みたってえ事か」 「世間体が悪いからしょうがないさ。 「俺は 「そうだよな。奴にそんな腕はねえぜ」と安治もうなづく。 「でもね」とおゆくが身を乗り出す。「八兵衛とおまんの仲もしっくり行ってなかったのは確かなんだよ。八兵衛は最近、やたらと追分の女郎屋に通ってて、淋しい思いをしてたらしい。そんな時、惣八が毎日のように出入りしてりゃア、なるようになっちまうさ。もし、あん時、お山が焼けなかったら、間違いなく 「姉さんも今、先生がいなくなって、おまんと同じ心境かい」 「ああ、そうさ。淋しくって夜も眠れないのさ。おかよちゃん、あんたも鉄つぁんがいなくなれば同じだよ。覚悟しときな」 「おい」と鉄蔵がおかよを見る。「俺がいなくなったら、淋しくなって、すぐに他の男とできちまうのか」 「なに言ってんのよ。そんな事あるわけないじゃない。一年でも二年でも、あたしはあんたを待ってるさ」 「嬉しいねえ。さすが、俺が惚れた女だ」 「おろくちゃん。あんたもだよ」 おゆくが突然、おろくの名を呼んだので、みんなの視線がおろくに集まる。 「えっ」とおろくは皆の顔を見回す。 「若旦那も芝居が終わりゃア江戸に行くんだろ。淋しくって、毎日、泣いてなくちゃアならないよ」 「そんな‥‥‥」 「ほんとさ。江戸に行きゃア、いい女は一杯いるからねえ。まったく、気が気じゃないよ」 「姉さん、そんな事、言わないで下さいな。あたしも心配になってきた」おかよが鉄蔵の顔を見つめる。 「そうだ。男たちが帰って来なかったら、あたしたち三人で江戸に行こうか」 「そうね、そうしましょ」とおかよはおゆくに賛成。 「おろくちゃん、あんたも行くのよ」 「でも‥‥‥」 「でもじゃないの。あんたはもう充分にうちのために働いて来たのよ。そろそろ、自分の事を考えなさい。姉さんだっているんだし、兄さんがしっかりしたお嫁さんを貰えばいいのよ。ねえ、若旦那、おろくちゃんのために、兄さんにお嫁さんの世話してやってよ。世話好きな、いい人をね」 「そうか。その手があったな」市太は、そいつはいい考えだとおろくを見てうなづく。 おろくも軽くうなづくが、難しいわよという顔付き。 「それにしても、あんた、随分、変わったわね」おゆくがおろくに言う。「今まで、あんたの笑い顔なんて見た事なかったけど、若旦那と仲良くなってから、すっかりいい女になっちゃって」 「ほんとよ。お芝居の事も詳しいんで、あたし、びっくりしちゃった」おかよが言うと、市太の妹のおさやもうなづいて、 「兄さんがお芝居のお稽古におろくさんを連れて来た時、あたし、誰だかわからなかった。何となく、おどおどしていて、兄さん、何で、こんな人を連れて来たんだろうって思ったの。でも、だんだんと打ち解けて来て、だんだんと綺麗になって行くんだもの。あたし、びっくりしちゃった」 「 「なアに、自惚鏡って」 「江戸土産さ」 「へえ、若旦那、おろくちゃんに自惚鏡をやったんだ。あたしも先生から貰ったわよ。あれはほんと、よく写るわ」 「俺もおゆうにやったんだが、えれえ喜ばれたよ」と勘治も言う。「草津は普通の鏡は使えねえそうだ」 「ねえ、兄さん、自惚鏡って何なの」おさやは市太に聞く。 「先生のお師匠が作ったビイドロの鏡さ。銅の鏡なんかより、ずっと綺麗に写るんだ」 「ずるい。兄さん、おろくさんにそんなの買って来て、あたしには 「いいじゃねえか。そのうち、安に買ってもらえ」 「あたしも綺麗になるんなら、そんな鏡が欲しい。ねえ、安治さん、江戸まで行って買って来て」 「おさやちゃん、急に何を言ってんだよ」 「仙さん、あたしにもね」とおみやも言う。 「俺が江戸に帰ったら、みんなに送ってやろう」と鉄蔵が言うと娘たちは大喜び。 「でもな、その鏡のお陰で、おろくが綺麗になったわけじゃアねえ」と鉄蔵は言う。「ただ、自分に自信を持ったから綺麗になったんだよ」 「自信だなんて、そんなの持ってませんよ」おろくは恥ずかしそうに手を振る。 「自信というか、今までは自分の事なんか誰も見向きもしねえと思ってた。ところが、市太が自分を好きになってくれた。市太のためにも綺麗にならなくちゃアならねえって気持ちが、おろくを輝かせたんだ。女ってえなア、いつでも誰かに見られてると思うと綺麗になるもんだ。おかよや姉さんのようにな」 「うまい事、言うじゃない。これで、お酒が飲めれば文句ないんだけどね」とおゆくがおかよを見て笑う。 「いいんですよ。お酒なんか飲めなくたって」 「おやおや、御馳走様」 四つの鐘(午後十時)が鳴ると、おろくは帰ると言い出した。あまり遅くなると明日の晩、出られなくなるので、市太も諦めて送って行った。安治はおさや、仙之助はおみや、幸助はおきよを送り、戻って来ると再び、宴が始まった。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成