六月二十四日
昨夜、おゆくに勧められて飲み過ぎた鉄蔵の具合が悪く、村を出たのは昼過ぎだった。 狩宿まで送って行った市太と幸助が村に帰って来たのは、日もすっかり暮れて真っ暗になっていた。幸助と別れた市太は 「大丈夫か」と聞くと、「大丈夫よ」と明るい声で言う。 市太はおろくの手を取って、「お嬢様、今晩はどこに行きやしょう」 「市太郎様のお好きな所へなんなりと」 「今夜は星が降るようだ。観音堂へと 「あい」 二人は寄り添いながら観音堂へと向かった。 「おかよさんはどうでした」 「もう見ちゃアいられねえや。強がっていながらも半分は泣きべそだ。たっぷり、別れを惜しめって置いて来た」 「やっぱりね。でも、一人で大丈夫かしら」 「なアに、村の者が年中、狩宿まで行ってる。誰かを捕めえて一緒に 「そうね。馬方してる人で、おかよさんを知らない人はいないもんね」 「そうさ。おかよに頼まれりゃア、鼻の下を伸ばして馬に乗せて帰って来らア」 「でも、鉄蔵さんもいなくなっちゃって、村も淋しくなるわね」 「そうだな。兄貴はいい奴だったよ」 「若旦那はまた会えるからいいじゃない」 「その若旦那ってえのはやめろって言ったろ」 「ごめんなさい、市太さん」 「江戸には行きてえが、おめえと別れがたくなって来たぜ。おめえと一緒に行けりゃア文句なしなんだがな」 「あたしはダメです。うちの者を放っては行けないもの」 「桔梗屋の姉さんじゃねえが、早いとこ、おめえの兄貴の嫁さんを捜さなくちゃアな」 「難しいわ。兄さん、目が見えないんだもの」 「目が見えなくたって、立派なお師匠じゃねえか。本も読めねえのに浄瑠璃をすっかり覚えちまうなんて、ほんとに 「兄さんはいいけど、寝たきりの母ちゃんに、手に負えない叔父さんもいるもの。無理よ」 「そう簡単に無理なんて言うなよ。無理かどうかやってみなけりゃわからねえ。捜せばいるかもしれねえよ」 二人は石段を昇って、観音堂に着くと空を見上げた。まさしく、降るような星空だった。 「あたしね、いつもお星様にお願いをしてたのよ」夜空を見上げたまま、おろくが言った。 「どんな願いだ」と市太はおろくの横顔に聞いた。 「母ちゃんが起きられるようになりますように。兄さんの目が見えますように。叔父さんがまともになれますようにって」 「自分の事ア願わねえのか」 「あたしの事なんか諦めてたもの」 「それがよくねえんだよ。おめえはすぐに諦める。諦めてちゃア何も始まらねえ」 「だって‥‥‥ほんとは若旦那、いいえ、市太さんとこうなるように願ってたわ。まさか、かなうなんて思ってもいなかったけど」 「俺だって、おめえとこうなりてえと願ってた。かなうなんて思ってもいなかったさ」 「嘘ばっかり」 「ほんとさ。おめえが俺なんか相手にしてくれねえと思ったもんさ」 「そんな事ないよ」 「だって、おめえ、なかなか、うちから出てくれなかったじゃねえか」 「あの時は怖かったの。市太さんがあたしに声を掛けてくれるなんて信じられなかったし、あたしをからかって、みんなであたしの事を笑ってるんだろうって思ったのよ」 「なんだ、おめえ、そんな事、思ってたのか」 「そう。怖かったの」 「それで、あんなにおどおどしてたんだな」 「そうよ。いつ、みんなに笑われるかと思って」 「つまらねえ事を考えやがる」 「だって、信じられなかったんだもの。今でも信じられない。みんなと一緒に、お酒を飲んだり、一緒に騒いだり‥‥‥ほんとはあたし、みんな、死んじゃえばいいって願った事もあるわ」 「みんなって家族がか」 「そう。母ちゃんも父ちゃんも、叔父さんも兄さんも、姉さんも弟の松も、みんな、死んじゃえばいいって‥‥‥みんながいなくなれば、あたしは好きな事ができるのにって」 「おめえがそんな事を考えるたア見直したぜ」 「なに、それ」 「じっと我慢してるだけじゃア、ダメさ。たまには怒らなけりゃアな。俺なんか、うるせえ親父と兄貴なんか死んじまえって年中、思ってらア。兄貴がいなくなりゃア、うちを継げるからな。なにも村を出る事もねえ」 「ほんとは村を出たくないのね」 「おめえと別れてまで出たかアねえよ。かと言って、村に残ってもやる事がねえ」 「やっぱり、江戸に行くのね」 「 「そう‥‥‥」 「今頃、兄貴とおかよもこうやって星を見てるかな」 「そうね」 市太がおろくを抱き寄せようとした時、突然、後ろから声が掛かった。 「ねえ、若旦那なの」 二人はビクッとして振り向いた。声の主はおゆくだった。 「何だ、姉さんか。脅かさねえでくれ。こんなとこで何してんだ」 「よかった」とおゆくはホッとして胸を撫でた。「若旦那とおろくちゃんなら大丈夫ね」 「何が大丈夫なんでえ」 「ちょっと来てよ」 おゆくに連れられて若衆小屋に行くと、小屋の中に 「先生」と市太は思わず叫んだ。 「おい、声がでけえぞ」と錦渓は人差し指を立てて口に当てた。 市太は回りを見回して、誰もいない事を確認してから、「先生、 「村を追い出されたからって、何も持たずにノコノコ江戸には帰れねえ。帰った振りして、隠れて 「村の者に見つかったら半殺しにされますよ」 「だからこうして隠れてるんじゃねえか」 「隠れるったって、ここは危ねえ。若え者が逢い引きに使ってんだ。俺たちだったからよかったものの、他の奴に見つかりゃア、すぐに村の者に知れちまう」 「それはわかってたけどさ」とおゆくが言う。「まさか、店ん中で会うわけにゃアいかないだろ。それで、ここに来たんだけど、どっか、いい隠れ家はないもんかねえ」 「急に言われてもなア」 「なに、ちょっと二人で会えりゃアいいんだ。わしは今、山ん中の炭焼き小屋に隠れてる」 「今の時期、炭焼き小屋は 「わかってる。充分に気を付けるさ」 「先生、まず、その格好を変えた方がいいんじゃねえですか」と市太は言う。 「なに、格好を変えるのか」 錦渓は自分の着物を見回した。確かに市太の言う通り、浪人姿は江戸でこそ目立たないが、こんな田舎では目立ってしまう。 「それじゃア、すぐに先生だってわかっちまう。馬方の格好がいい。馬方なら、どこにでもいる。ちょっと見ただけじゃアわからねえ」 「そうねえ、それはいい考えよ」とおゆくも納得。 「俺がちょっくら、うちから持ってくらア。先生、ちょっと待っててくんねえ」 市太は家に行こうとして振り返り、おろくに声を掛ける。 「おめえ、どうする。まだ、大丈夫か」 「えっ、そうね、大丈夫だと思うけど」 「お父さんがうるさいんでしょ。今日は帰った方がいいわよ。また明日、会えるんだし」 おゆくが言うと、おろくは市太を見つめてうなづいた。 市太はおろくを送ってから家に帰り、 「どうだ。馬方に見えるか」と錦渓は聞くが、何かが違う。 「頭が違うのよ」とおゆくが言った。 錦渓は師匠の源内を真似て 「そうか。奴も 「まだ、蔵ん中です」 「奴も調子に乗り過ぎたな。一度でやめときゃアいいのに」 「一度でやめときゃアいいって、そりゃ、どういうこってす」 「何だ、おめえ、知らねえのか。惣八の奴、捕まる四、五日前、おまんをものにしたって喜んでたぜ」 「そいつア、ほんとですか」 「ほんとさ。おめえに言ってなかったのか」 「そんな事、一言も聞いてねえ」 捕まる四、五日前と言えば、鉄蔵が大笹から鎌原に帰って来た頃だった。その晩、芝居の稽古があって、終わった後、おかよの店で鉄蔵の帰りを祝って、みんなで飲んだ。惣八は何をしていたのか、遅くになってから店に現れた。何も言わなかったが、あの時、おまんと会っていたのだろうか。 「奴は本気だったのかもしれねえな」と錦渓が言った。「本気でおまんに惚れちまったんだろう。だから、おめえには言えなかった。どうせ、惣八は遊びのつもりで、おまんをものしてやるとか言ってたんだろう。遊びなら一発やりゃアそれでおしめえだ。未練を持つなんて 市太は首を振った。「元の 「そうか。惣八の筋書き通りには行かなかったか」 「惣八の筋書きは離縁だったんですか」 「そりゃそうだろう。離縁になりゃア、一緒になれるからな」 「あの馬鹿が、何を考えてやがるんだ」 「おめえも惣八の事が言えるか。江戸に行くって言いながら、おろくとよろしくやってるじゃねえか。まあ、そういうわしも 「何だって? それじゃア、姉さんに会うためにわざわざ、危ねえとこに戻って来たって言うんですか」 「まあ、そういうこった。ところが、面と向かったら、だらしねえ事に言えなくなっちまってな、このザマだ。マゴマゴしてたら月代まで剃られちまう。おい、何とかしてくれ」 「まったく、先生も何やってんでえ」と市太は笑い転げる。 「笑い事じゃねえ」 「それで、先生は姉さんとどうしてえんです」 「まあ、早え話があれだよ」 「抱きてえんですか」 「まあ、早く言えばな」 「そんなら簡単じゃねえですか。二人で大笹でも行って 「おお、そうか。大笹には結構、立派な旅籠屋があったっけな。大笹までなら 「大丈夫ですよ。あそこの問屋は俺の親戚ですから、俺の名前を言って、おみのってえ娘に頼めば何とかしてくれますよ」 「おう、そうか。そいつはありがてえ」 「姉さんが来たら、余計な事は言わねえで、さっさと大笹に行った方がいいですよ。姉さん、先生がいなくなってから毎晩、大荒れなんだから」 「そうか。おゆくは大荒れだったか。そいつア大変だったなア」 「大変なんてもんじゃねえ。大迷惑だった」 「そうか、そうか」と錦渓は急に御機嫌な顔をしてうなづいている。 剃刀と水を持って来たおゆくに錦渓は、「これからすぐ、大笹に行く事になった。一緒に行けるか」と誘う。 「えっ」とおゆくは何の事かわからず、市太を見る。 「二人で相談して、大笹に腰を落ち着けて、明礬捜しをすりゃアいいって事になったんだ」 「あっ、そうか」とおゆくもうなづく。「何もこの村にこだわらなくてもよかったんだ。そうよ、大笹に行けばいいんじゃない」 「それで、先生はどうしても、姉さんと一緒に行きてえんだそうだ」 「えっ、そりゃまあ、あたしは構わないけど」 「よし、話は決まった」 「でも、このままじゃア、うちの者に一言、言ってかないと」 「俺がうめえ事言ってやるから、早く行きなよ。姉さんだって、会いたくてしょうがなかったんだんべ」 「やだよ、若旦那ったら。それじゃア、これ、お願いね」 おゆくは剃刀と水の入ったとっくりを市太に渡すと、錦渓の腕を取って提燈をぶら下げ、いそいそと石段を降りて行った。 「くそっ、とんだ馬鹿見た。こんな事なら、土蔵ん中にしけこみゃアよかったぜ」 市太は仕方なく桔梗屋に顔を出して、おゆくが急用ができて大笹に出掛けた事を告げると、家に帰って小便をして寝た。
|
鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成