六月二十八日
しばらく、なりを静めていた浅間山がまた、活動し始めた。昨日、朝から日が暮れるまでゴロゴロ唸っていて、今日の昼は太い黒煙を吹き上げ、灰と砂を降らせた。観音堂では熊野の その時、市太は巴屋にいた。おろくと観音堂裏の若衆小屋で会って、送って行った後だった。巴屋には勘治と幸助がいて、昨日の続きを真剣に話し合っていた。 「おい、おろくと会ってたのか」とニヤニヤした顔付きの市太に勘治が声を掛けて来る。 「まあな」と市太はそっけなく答える。 「覚悟は決めたんだんべえな」 「何でえ、覚悟ってなア」 「決まってべえ。おろくと 「所帯を持つのはいいが、その後、どうすんでえ。俺がやる事はこの村にはねえ」 「今みてえに、おろくんちの畑仕事をしてりゃアいいだんべ」 「なに言ってやがる。そんなの 「できるわけがねえって、できなけりゃア、おめえ、生きちゃア行けねえだんべ」 「ちょっと待てや。おめえ、何か勘違えしてねえか。俺がおろくんちに婿に 「なに寝ぼけた事言ってやんでえ、なあ」と勘治は幸助と顔を見合わせて笑う。「おめえの親がおろくを嫁に迎えると思ってんのか。おめえのおっ母は 「何だと、 「そうさ。それだけの覚悟がいるってこった」 「まさか、そこまではするめえ」 「考えが甘えぜ。おめえんちは問屋なんだぜ。しかも代々、年寄役も務めてる。そんなうちが村の 「くそっ、勘当されたら、俺ア生きちゃアいられねえぜ」 「そうさ。毎日、朝から晩まで汗水流して働かにゃアならねえ。おろくと一緒になるってえのはそういう事だ」 「くそったれが‥‥‥おめえの方はどうなんでえ。おめえだって同じだんべ。勘当されてもおゆうと一緒になるのか」 「いや、俺は勘当されねえ。おゆうは草津の 「なに都合のいい事をいってやがる。そんなうまく行くかい」 「大丈夫だ。 「ふん、てめえはうめえ 「仕方ねえんだ。おめえが勘当されてまで、おろくと一緒になりゃア、他の奴らも覚悟を決めるってえもんだ。おきよだって、勘当されても幸助と一緒になるし、おめえの妹だって、勘当されても安と一緒になるってえもんだ。そうして、だんだんと掟を破って行って、しめえには掟なんかなくしちまうんだ」 「へっ、要するに俺アいけにえってえわけかい」 「そうだ。下らねえ掟を潰すためのいけにえだ。だがな、決して、無駄にはならねえぜ」 「畜生、毎日毎日、砂にまみれて畑仕事かよ」 「馬方だってできる」 「へっ、勘当されたうちに頭を下げて、馬方すんのか」 「おろくとずっと一緒にいられるんだぜ」 「市太、頼むぜ。俺たちのためにもよう。おめえが見本を見せりゃア、みんな、覚悟を決めるに違えねえ」 幸助がそう言った時、家がグラッと揺れた。 「何でえ、また、お山が焼けたのかよう」 「大丈夫だんべえ。大した揺れじゃねえ」 その後、小刻みな揺れが続いた。市太は家に帰り、横になってからも勘治が言った事を考えていた。ようやく、ウトウトしだした頃だった。雷が落ちたような物凄い音がして、寝ていた体が飛び上がる程の大揺れが起きた。 市太は慌てて隣の部屋に声を掛けた。 「おい、大丈夫か」 「兄ちゃん、怖いよう」 「早く、外に出るんだ」 市太は妹のおさやとおくらを両脇に抱えて外へと向かった。小揺れが始まった時、明かりはすべて消したので、家の中は真っ暗だ。囲炉裏の辺りから兄、庄蔵が叫んだ。 「早く、外に出ろ。市太、爺さんを頼むぞ」 市太は二人の妹を中庭に出すと、すぐに離れにいる市左衛門の所に行った。声を掛けると、すでに市左衛門は縁側から外に出ていた。祖父を連れて中庭に戻ると皆、集まっている。 「おめえたちは村を回って、火の用心を確かめて来い」 父親に言われて、市太と庄蔵は表通りへ飛び出した。 真っ暗の中、人々があちこちでざわめいている。馬のいななきと野良犬の鳴き声がやかましい。市太はおろくの事が心配になって来た。寝たきりの母親と 浅間山はゴーゴー唸り、大地の揺れは続いている。まるで、酔っ払っているかのように足元がおぼつかない。おまけに空から砂が降って来た。 「火の用心、火の用心」と叫びながら、市太はおろくの家に走った。惣八に声を掛けられ、惣八にも見回りを頼んだ。 「わかった」と言うと惣八は市太と反対の方に走って行った。 おまんの家に行くつもりかと思ったが、他人の事まで構ってはいられない。おろくの家の前には誰もいなかった。 「おろく、大丈夫か」と叫びながら、市太は家の中に入って行く。暗くて、何も見えない。馬が騒いでいるだけで、声を掛けても返事はなかった。 「おい、若旦那か」と声を掛けられ、入り口の方を見ると男が立っている。 「誰だ」 「俺だ。半兵衛だ。みんな、裏庭の方にいる」 「おっ母も大丈夫なのか」 「ああ。俺がおぶって連れ出した」 「そうか。よかった」 裏庭に行くと寝かされた母親の回りに皆が座り込んでいた。 「みんな、大丈夫か」と市太が聞くと、「ええ、大丈夫」とおろくは言った。 脅えているのか、その声はやけに沈んでいる。誰もいなかったら、抱き締めてやりたいがそうもいかない。 「そうか、よかった」市太は一人うなづくと、「半兵衛、みんなを頼む。俺は一回りしてくらア」と通りの方に出た。 「火の用心、火の用心、みんな、大丈夫かア」とあちこちで叫んでいる。 若衆組の者たちが見回りをしているようだ。市太も走り出した。浅間山の方を見上げると時折、雷のように光を放っている。その光によって、真っ黒な煙がモクモクと立ち昇っているのが見えた。まるで、地獄絵でも見ているような、何とも恐ろしい光景だった。このまま、この世が終わってしまうのではと思わせる不気味な眺めだった。 火事も起こらず、怪我をした者も出なかった。大揺れは半時程で治まった。その代わり、降って来る砂の量が多くなって、外に出てはいられなくなった。皆、お山が静まる事を祈って家の中に戻った。 市太は一旦、家に戻って 「まったく、ひでえ目に会った。また、砂が降って来やがった。畜生め、 松五郎がおろくは部屋の方だと顔で示した。市太はうなづいて上がり込んだ。 おろくは真っ暗な自分の部屋にいた。 「もう明かりを付けても大丈夫だんべえ」 市太は囲炉裏から火を貰おうと 「いえ、いいんです。明かりはつけないで」 「どうかしたのか。まあ、明かりなんかなくったって構わねえけどよ」 市太はおろくの側に座って、おろくを抱き寄せようとする。 「若旦那、お話があります」とおろくは身を引いた。 「何でえ、改まって」 「あたし、もう、若旦那とは会えません」 「なに言ってるんでえ。とっつぁんから何か言われたのか。そんなの気にすんな」 「いいえ。もう、お会いできません」 「急に何を言ってんだよ。ついさっき、俺と一緒になるって言ったじゃねえか」 「でも、夢だったんです。若旦那と一緒になるなんて、所詮、夢だったんです」 「夢なんかじゃねえ。現実だ。俺はおめえと一緒になるって決めたんだ」 「ダメなんです。そんな事できません」 おろくはずっと顔をそむけていた。暗くてよく見えないが泣いているようだった。 「どうしたんだ、急に。一体、何があったんだよう」 「何もありません。お願いです。もう、うちには来ないで下さい」 「まったく、何を言ってやがんでえ。だって、おめえ、おかしいじゃねえか。何だって、急に気が変わるんでえ。とっつぁんに何か言われたんだな。同じ権太をやった仲だ。俺の気持ちはわかってくれるだんべと思ってたのに、畜生。俺は諦めねえからな、絶対に、おめえと一緒になる。もう意地でもなってみせるぜ」 市太はおろくの部屋から出て、囲炉裏端に行くと座り込んだ。腰から煙草入れを外すと、 「おろくが言った通りだ」と甚左は俯き、囲炉裏の火を見つめたまま言った。「もう二度とうちには来ねえでくれ」 「どうしてなんでえ」 「そんなのは若旦那もわかってるだんべ」 「俺にゃアわからねえ。今まで何も言わなかったのに、何でそんな事を急に言い出すんだ」 「今まで、おろくにゃア娘らしい事もしてやれなかった。うちに籠もりっきりで友達もいねえ。たまにはみんなと一緒に遊べと言っても、友達もいねえから、みんなの中に 「噂になったって、そんな事アいいだんべ。言いてえ奴にゃア言わせとけばいいんだ」 「いや、ダメだ。若旦那がおろくを思う気持ちはわかる。おろくの方も若旦那に夢中だ。しかし、所詮、二人は一緒にはなれねえんだ。先になって泣きを見るより、今のうちに別れた方がいい」 「いや、俺は諦めねえ。たとえ、うちを勘当されたって、おろくと一緒になる」 「ダメだ。早まっちゃアいけねえ。そんな事をしたら、わしらは生きちゃアいられねえ」 「とっつぁん、何を言ってるんでえ」 「わしら馬方はな、問屋には逆らえねえんだ」甚左は吐き捨てるように言った。 「とっつぁん、もしかしたら、親父が来たんじゃねえのか。なっ、そうだんべ」 甚左は何も言わなかった。市太は甚太夫と松五郎を見た。二人とも顔を背けている。三治を見ると、驚いたような顔して市太を見ていた。 「おい、松、親父が来たんだな」 松五郎は首を振ったが、嘘を付いている顔付きだった。 「畜生、余計な事をしやがって」 市太は凄い
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成