七月一日
いよいよ、舞台作りが始まった。大工の八右衛門と 一幕物ではないので、舞台上の場面は幕の合間に次々に変わる。それを手際よくやらなければならないので、大道具を担当する者たちは大変だった。三幕目の最初の場面は船問屋の渡海屋、次が 市太と勘治も八右衛門を手伝って花道作りをやっている。 「やっぱり、花道がねえと 「ここを通って、『 「おう、いいなア」と市太は『暫』の 「俺たちが 「そうと決まったわけじゃねえ」 「 「わからねえよ」 「俺としちゃア、おめえに最初の掟破りをしてもらいてえがな、 「誰が村八分だと」と八右衛門が口を出す。 「何でもねえんだ」と勘治が首を振る。 八右衛門は勘治と市太の顔を見比べてから声を出して笑う。「おめえたち、あまり悪さをするんじゃねえよ。惣八みてえに役を降ろされちまうぞ」 「わかってるよ」 「噂をすりゃア何とやらだ。 惣八が木箱を抱えて、やって来た。 「おーい、惣八、おめえ、何やってんだ」 市太が呼ぶと、惣八は二人に気づいて、「見たとおりさ」と近寄って来た。 「何でえ、その箱は。差し入れか」 「なに言ってやがる。小道具に決まってべえ」 「小道具だと。それじゃア、おめえ、まだ懲りずに、おまんのうちに出入りしてんのか」 「しょうがねえ。八兵衛に頼まれたんだ」 「八兵衛に頼まれただと」市太は勘治と顔を見合わす。 「そうさ。昨日、お山が焼けて、また、怪我人が出たんべえ。馬も何頭か怪我したらしくてな、八兵衛の奴、そっちが忙しくて、小道具まで手が回らねえそうだ。そこで、俺にやってくれってな」 「八兵衛が忙しいのはわかるが、おめえに頼むたア余程の間抜け野郎だな」 「それがよう、 「何でえ、その意外な運びってえのは」 「ここじゃア何だ、後で話すよ」 「おい、 「後だ、後。おめえらも忙しいだんべ。そうだなア、昼飯時に桔梗屋に来てくれ」 そう言うと惣八は舞台の方へと行った。 「何でえ、ありゃア」 正午の鐘が鳴った後、市太と勘治が桔梗屋に行くと惣八は待っていた。他所から来た馬方たちで店は混んでいる。惣八は二人を誘って店を出た。 「おい、昼飯を食うんじゃねえのか」 「話が聞きてえんだんべ。ここじゃア、ダメだ。そうだ、おめえの部屋に行くべえ」 惣八は一人で決めるとさっさと鶴屋に向かった。 「ここに来るのも久し振りだな」と惣八は懐かしそうに勘治の部屋を見回す。 「 「そうだな。それもいいかもしれねえ」 「ダメだ。おゆうと一緒になるために親の機嫌を取ってるってえのに、おめえらが出入りし始めたら、何もかもぶっ壊しだ」 「それより、何でえ。さっきの続きを聞かせろよ」と市太は 「実はな」と惣八は市太と勘治の顔を眺め、気を持たせてから話し始める。「今朝早く、うちに八兵衛がやって来たんだ。とうとう殴り込みに来やがったかと俺ア覚悟を決めて出て行った。どうせ、一度は話を付けなきゃならねえからな。うちの者たちが心配そうに見守っていやがったんで、俺は平気な顔を装って出て行った。奴は観音堂まで俺を誘って、途中、一言もしゃべらなかった」 「観音堂じゃア 「いや、まだ誰もいなかった。奴はお山を眺めながら俺に言ったんだ。おまんとは別れるつもりだったとな」 「なに、ほんとかよ」と勘治が驚く。 「ほんとさ、俺もたまげたぜ」 「それじゃア筋が通らねえじゃねえか。何で、よりを戻したんでえ」と市太も納得できない。 「まあ、聞きねえ。八兵衛が言うにはな、あの騒ぎがあって、思い切って別れるつもりだった。ところが、うちの親父が謝りに行って、何もなかった事にしてくれって頼んだんだ。 「それじゃア、今も別れるつもりでいるのか」 「そうらしい」 「女がいるのか」 「ああ、中居村にいるそうだ」 「追分の女郎の外にも女がいやがったのか」 「追分の方はもうとっくに切れてるらしい。おまんに気づかれそうになったんで、追分の女郎を持ち出したんだそうだ」 「へえ。それで、おめえとおまんの仲を許したってえわけか」 「そこまではっきりとは言わねえが、小道具の事を頼むって言われた」 「ほう。その小道具の中に、おまんも含まれるってえ事か」勘治が笑いながら言う。 「馬鹿言うな。おまんは小道具なんかじゃねえ」 「そうむきになるなよ」と市太がなだめる。「それで、八兵衛とおまんはいつ別れるんだ」 「祭りが終わったら別れるって言ってた」 「そうか。で、おめえはおまんと一緒になるのか」 「そのつもりだ」 「おまんは 「いいさ。どうせ、俺ア次男だ。跡継ぎなんかいらねえ」 「まあ、よかったじゃねえか。とにかく、祭りが終わるまでは騒ぎを起こさねえこったな」 「わかってるよ。じっと我慢さ。てえ訳だ。まあ、おめえたちも頑張れや。さてと、飯でも食いに行くか」 惣八は言いたい事を言うと浮き浮きしながら部屋から出て行った。 「いい気なもんだぜ、まったく」 「なあ、惣八とおまんはどうなんだ」と勘治が市太に聞く。 「何が」 「家柄さ」 「おまんはお頭の妹だ。親父は村役人をしてたしな、惣八んとこと同じだんべ」 「そうか。面白くも何ともねえな」 「惣八の奴もいよいよ身を固めるか」 「あとはおめえだけだ」 「畜生、何かいい手はねえのかよう」 「難しいな」 二人も桔梗屋に向かった。年寄りや 「何かあるのかい」と市太が勘治に聞く。 「また、 「へえ。延命寺でも始まるのか。観音堂でもやってるし、 「それだけじゃねえよ。熊野権現でも 「村の不幸で銭儲けか。許せねえ奴らだな」 「許せねえたってしょうがねえ。信じる者がいるんだからな。おめえんちの爺さんだって、永泉坊とかいう 「あの山伏は爺ちゃんが信じるだけあって、ただ者じゃアねえぜ」 「みんな 「そうじゃねえんだ」と市太は言う。「永泉坊の話によると、お山を静める事アどんなに偉え行者でもできねえんだそうだ。自然の力ってえのは偉大で、祈祷なんかじゃ左右できねえ。永泉坊がやってる祈祷はお山を静めるんじゃなくて、観音様にすがって、村人たちの無事を祈ってるそうだ」 「へえ。村人たちの無事をねえ。うめえ事言うじゃねえか。それならうまく行くかもしれねえ」 桔梗屋で昼飯を食べると、二人は舞台作りに戻った。今日は大丈夫だろうと安心していた八つ(午後二時)頃、浅間山が唸り始めた。揺れも加わって来て、作業は中断となった。 晴れ渡っていた青空はあっと言う間に薄暗くなり、灰がチラチラ降って来る。浅間山を見ると黒煙を天高く吹き上げていた。 「ここにいてもしょうがねえ。俺ア帰るぜ。近えうちに草津に行くつもりだからな、親の機嫌を取らなきゃならねえ」 勘治は帰って行った。市太は観音堂へと向かった。昨日より信者たちの数は増えていた。二十人はいるようだ。特に女衆が多い。毎日のように砂や石が降って来るので、工夫して綿入れの 観音堂内に入りきれず、前の庭に座り込んで一心に祈っている者たちを横目に見ながら、市太は浅間山を眺めた。この世のものとは思えない凄い眺めだったが、もう見慣れている。天まで貫く黒煙の太い柱を眺めながら、市太はおろくの事を思っていた。 親子の縁を切り、おろくと一緒になったとしても、うまく行くたア思えねえ。親父に頭を下げて馬方をやって、ろくに作物も取れねえ畑仕事に精を出し、朝から晩まで働いてもギリギリの生活だんべ。かといって、このまま、おろくと別れて江戸に行きたかアねえ。 勘治のようにおろくを誰かの養女にして、嫁に迎えるという手もあるが、一緒になってから何をしたらいいのかわからねえ。一緒に江戸に出るのは無理だんべ。となりゃア、ここにいて何かをやらなけりゃアならねえ。一体、何をやりゃアいいんだ‥‥‥ 突然、大音響と共にグラッと揺れた。市太は 浅間山を見ると黒煙の中に 「大丈夫だ。落ち着け、落ち着くんだ」と誰かが怒鳴っている。 やがて、砂が降って来た。 聞き慣れた声がしたので振り返って見ると、おなつがいた。おなべも一緒だった。そして、おかよの兄、長治と隣に住む伊八がいた。二人とも市太より一つ年下、二人にはおなつとおなべは勿体ねえとは思ったが、余計な口出しができる立場じゃない。見て見ぬ振りをして、手拭を被ると揺れる石段を駈け降りた。
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鎌原村大変日記の創作ノート
1主要登場人物 2追分宿の図 3鎌原村の図 4江戸の図 5吉原の図 6年表 7浅間山噴火史 8浅間山噴火史料集 9群馬県史 10軽井沢三宿と食売女 11田沼意次の時代 12平賀源内 13歌舞伎役者 14狂言作者と脚本 15鎌原村の出来事 16鎌原村の家族構成