『図説 浮世絵に見る江戸吉原』より
- 振袖新造は花魁のようにお歯黒をせず白歯だった。
- 切見世の揚げ代は1ト切(約10分)が100文だった。梅毒に犯されたものも多く、当たれば死ぬとさげすまれ『鉄砲女郎』と呼ばれた。
- 吉原は東西180間、南北135間。ここに俗にいう『遊女三千』の他、妓楼の人々、日常生活に必要な雑貨や食品を扱う商店、本屋、質屋、銭湯、職人、手習師匠、芸人など一万人近くの人口を有する町が形成された。
- 仲の町を挟んで左右に妓楼の並ぶ通りが交錯する。右側手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側手前から伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目。堺町は明和の火災でなくなる。
- 揚屋町は新吉原移転のおりに揚屋を一か所に集めた所から名付けられるが、揚屋制度が廃れると、茶屋、裏茶屋、商家と芸人の住む町となる。
- 大門は板葺き屋根つきの冠木門で、意外に簡素にもの。大門は夜明けと共に開けられ、夜4つ(午後10時)に閉ざされた。
- 遊女が大門を出るためには抱え主の許可を得た上で、通行を認めた切手を所持する必要があり、一般の女もまた、茶屋の発行する切手を手に入らなければ大門をくぐる事はできなかった。
- 大門から水道尻まで吉原を南北に貫く長さ135間の通りがメインストリートの仲の町。
- 仲の町の両側の引手茶屋では通りに畳敷きの揚縁を出している。
- 火の見櫓は水道尻に安永7年(1778)に建てられたが、天保以後はなくなる。
- 五丁町の入り口には木戸があり、両側に紅殻格子の遊女屋が連なり、通りの中央には天水桶とたそや行灯が一定間隔に並んでいた。
- 妓楼の階段が入り口に背を向けてつけられているのは乱暴者やお尋ね者を捕まえる際、階段からすぐ外へ出られない配慮から。
- 吉原駕籠は日本橋から大門までの約1里半を小一時間で行き、料金は2朱。
- 柳橋から山谷堀まで三十町、猪牙(チョキ)舟は148文。
- 聖天町から吉原入口の衣紋坂まで8丁の距離。俗に土手八丁と呼ばれた。堤の周囲には田圃が広がり、木立越しに妓楼の屋根が見下ろせた。堤の両側には葦簾(ヨシズ)張りの掛茶屋が並ぶ。
- 初会では遊女は口もきかず、側に寄る事もできないが、太鼓持ちや女芸者が座をもり立ててお開きとなる。
- 吉原には指を切る道具一式を売る店があった。切った小指は錫の香箱に入れて心中立ての相手の男に渡された。
- 夜明けと共に、近くの非人溜まりから来た非人たちが通りの掃除を始めた。
- 妓楼の内湯は朝5つ半(9時)頃から始まり、居続け客から先に入った。
- 吉原の髪洗い日は毎月27日。7月だけは13日に行い、その日は元旦と並んで年2回だけの貴重な休日となった。毎月の髪洗い日は夕7つまで廓の営業を休んだ。
- 寛保元年(1741)、六代目高尾太夫は播州姫路15万石の大名、榊原政岑に1800両で身請けされた。
- 安永4年(1775)、松葉屋瀬川は烏山検校に1400両で身請けされた。
- 天明3年(1783)秋、松葉屋六代目瀬川は越後屋の手代に身請けされた。
- 天明8年(1779)、松葉屋七代目瀬川は茶の湯好きで、松前藩の公子、松前広文(文京)に500両で身請けされた。
- 4月1日から座敷着は綿入れから袷に、5月5日から袷が単衣になる。9月9日から冬衣装。
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