萩原進著『天明三年浅間山噴火史』より
- 同6月18日、爆発。田代、大笹、大前、鎌原へ小石3寸積もる。
- 同6月27日、28日からほとんど休みなく爆発する。
- 同7月7日の夜明けを待って、沓掛、追分の村人は逃げ出す。
- 同7月8日午前10時頃、大爆発し、やがて沈静する。
- 鎌原村152軒のうち、高き所の3軒を残し、すべて流失する。
- 全滅した村は鎌原村、坪井村、長野原村、新井村で、西窪村、芦生田村は大きな損害を受ける。
- 天明4年7月、大笹関所番は鎌原浜五郎、西窪治部左衛門、栃原郷蔵、沼田定右衛門。
- 同、大笹宿の下は松原であったが火砕流にやられて小砂利に変わっていた。
- 鎌原浜五郎の身内は残らず変死する。鎌原の村人9人程他国にいて死を免れる。
- 鎌原村の死者、477人。93人生き残り。外に奉公出稼ぎの者39人。
- 草津街道‥‥‥高崎─室田─三ノ倉─大戸─須賀尾─横壁─(琴橋を渡る)─長野原─坪井─草津。
- 信州街道‥‥‥豊岡─室田─権田─大戸─須賀尾─狩宿新田─鎌原─大笹─鳥居峠─信州へ。
- 長野原は1軒も残らず流され、319余人死失、馬80疋余死す。災害前は立派な宿場だった。
- 長野原の雲林寺も流失埋没し、30年後の文化10年に再建される。
- 坪井村の長者小林助右衛門の屋敷も埋没するが、一家合わせて90余人残らず後ろの山に逃れ生き残る。
- 坪井村の吾妻川対岸にあった新井村も1村埋没してしまう。
- 鎌原村の生存者を8月末に呼び集め、草の家を1軒広く作り、このうちに固まりいて、それぞれの家業に精出し露命をつないだ。御公儀より金200両賜る。
- 被災後、鎌原を視察した勘定吟味役根岸九郎左衛門鎮衛(やすもり、1737−1815)。根岸は後に吟味役から勘定奉行となり、さらに江戸の南町奉行となる。1776年、勘定吟味役となり、1784年、佐渡奉行となり、1787年、勘定奉行に昇進し、1787年12月、従五位下肥前守に敘任、1798年11月、南町奉行となる。随筆書『耳袋』を残す。
- 大笹村の問屋であり名主であった黒岩長左衛門と干俣村の干川小兵衛。
- 干川小兵衛は鎌原から逃げて来た者5、60人を匿った。
- 幕府の役人が吾妻郡に来たのは7月22日。正式の公儀の見分役ガ到着したのは2ケ月後の9月。鎌原村に代官篠山十兵衛にが見分に見えたのは11月4日、根岸は12月26日。岩鼻代官(?)の原田清右衛門とその配下は幕 府の見分役の一部配下と共に早くに現地に入り応急の対応をする。
- 鎌原の生存者のうち、夫婦が揃っていたのは20人程。
- 鎌原の復旧工事は見分を終えた9月頃より始まった。御救普請で日当は17文。
- 10月18日、代官より金100両という工事費が鎌原村に渡る。11月に60両、12月に150両。
- 12月23日、安治郎、富松、千之助の3組の婚礼が行われる。
- 天明4年1月までに11軒の新築ができる。間口5間半梁間3間が組頭と百姓代の2軒、他は5間梁間2間半。
- 天明3年5、6月、三原山にて鹿のなく声たびたびあり。
- 同7月7日より8月下旬まで天気悪く、晴れる日は7日ばかり。
- 同9月、三ノ倉、室田、武州児玉郡渡瀬村の梨子林檎花が咲く。
- 同11月、群馬郡村上、小野子、本宿、山にてツツジの花が咲く。
- 天明4年の麦が以外に豊作だったため、夏頃よりいくらか好転する。
- 鎌原村の復旧に熊本藩(細川越中守重賢、1720−1785)は12万両の巨額の支援をした。
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