『群馬県史』より
- 江戸中期以後、硫黄は火薬に加えて付木、花火、薬種などの普及に伴い、それらの原料として需要が増す。
- 明和元年(1764)10月、江戸の小松屋藤吉、上州木崎村の茂兵衛ら4人が請負稼ぎ人として万座山硫黄採掘の願書を提出し、その許可と運上金の上納を申し出る。この願いは直ちに許され、翌2年から3ケ年の採掘が認 められる。
- 明和5年(1768)から採掘権が中居、門貝、西窪の3ケ村に移り、村請けによる硫黄稼ぎが始まる。
- 明和8年(1771)から硫黄稼ぎ株は新たな開湯権と共に小松屋藤吉の手に移る。以後、藤吉を中心に展開。
- 安永9年(1780)9月、藤吉は白根硫黄採掘の願書を提出するが草津の反対で実現せず。
- 天明3年(1783)、藤吉は江戸と関東一円の売り捌き権を申請し却下される。
- 天明4年(1784)、藤吉が病気のため藤助が再度願書提出し許可され、上州、武州の直売権も認められる。
- 寛政9年(1797)閏7月になると硫黄株は万座温泉株と共に大笹村の黒岩長左衛門に譲り渡される。
- 文化6年(1809)4月、干俣村の小兵衛が白根硫黄の請負人となり、以後断続的ではあるが幕末まで硫黄稼ぎを続ける。
- 天保7年(1836)7月、草津村は白根の硫黄採掘を独占したいと願い出るが認められず、草津村の湯本平兵衛、干俣村の干川小兵衛、大前村の武八、本宿村の力蔵の4人で事業を開始する事になる。
- 弘化2年(1845)3月、大前村の米吉と大笹村の九郎助の二人が硫黄株と小屋を借り受け前記4人の仲間に加わる。
- 万座山は真田氏支配当時から『御立山』と呼ばれ、大前、干俣両村から運上の笹板、雑木板を上納していた。
貞享3年(1686)、幕府領になった後も江戸や原町ほか代官陣屋へ運上板を上納していたが、延享年間(1744〜47)から金納に変わり、百姓持林同様の稼ぎ山となった。大野秣(まぐさ)場の部分を含めて北山と総称され、秣場のへは大前、大笹、干俣、門貝、西窪。中居の山付6ケ村が入会い、麓のかや山には今井、芦生田、赤羽根3ケ村の用益権が認められていた。ところが万座山は幕府が元禄7年(1694)から10年間、江戸の材木商人を入山させて濫伐し、寛政10年には朽木、曲木、節木ばかりで稼ぎにならず、木品の育ちも悪く尺角の用材も出せない有り様となる。しかも、山稼ぎする場所もだんだん遠くなり、干俣からは3、4里、大前からは4、5里も登らなければならなくなった。こうした状況への対応策として、明和年間から山添畑を大々的に切り開くと共に、硫黄稼ぎを取り込んで行った。一方、信州沓掛宿への荷継ぎ宿として栄えていた大笹宿は中期以降、大戸通りが発達して鎌原での継立てが多くなり、宿の衰えが目立つようになる。こうした中で荷継問屋だった黒岩長左衛門が温泉や硫黄などの新規事業に手を染めるようになる。
- 硫黄の作業工程‥‥‥堀子(原鉱の採掘)──釜場(原鉱を砕き水釜に入れて熱する)──絞り(釜から出し麻袋に入れて絞り、さらに砕いて箱詰めし、釜入れして固める)──箱の取り出し(凝固した硫黄の箱を取り出し、底部に膠着した黒砂を斧で切り落として製品とする)
- 弘化3年(1846)、山頂での稼ぎ人足は延べ1386人、5月から11月までの7ケ月間、1ケ月20日間作業に従事するとして1日10人余りの人足が稼働していた。人足の出身は渡り者が多かった。
- 硫黄の流通は幕府が厳重に取り締まり、売り捌き先は江戸7軒の硫黄問屋に限られていた。
- 文政8年(1825)、白根、万座の硫黄出荷量は1ケ年1200箇(1箇正味10貫目)。
- 明礬は白色無定形の粉末で媒染剤、製革、製紙などに広く用いられた。
- 寛政9年(1797)4月、万座、白根の山麓で明礬層が発見され、採掘願いが出される。
- 中之条町の六斎市‥‥‥隔月1と6の日。取引品目は塩、茶、薪炭、木綿、煙草、麻、穀物、板木、貫木、藁 荷縄、筵。
- 原町の六斎市‥‥‥隔月1と6の日。取引品目は塩、茶、薪炭、真綿、木綿、麻布、米穀。
- 大笹宿‥‥‥1と6の日。取引品目は茶、薪炭、煙草、木綿布、綿。
- 鎌原宿を通過する荷物は草津で消費される酒、米、江戸に送られる硫黄。
- 信州街道‥‥‥高崎──下室田──三ノ倉──大戸(関所)──本宿──須賀尾──狩宿──関所──小宿──鎌原──大笹(関所)。一般に信州街道と言うが、信州側からは大戸通りと呼ばれる。
- 沓掛道‥‥‥大笹あるいは鎌原あるいは狩宿──分去茶屋──峰の茶屋(鼻田峠)──沓掛あるいは追分。
- 近世中期以降は沓掛道より大笹村から大戸通りの方が北信3藩(飯山、須坂、松代藩)の年貢米や武家荷物の輸送路として大きな役割を持つようになった。
- 松代の真田家は6月、飯山の本多家も6月、須坂の堀家も6月に中山道を通過した。
- 宝暦6年(1756)、真田藩は米2000駄を大戸通りで江戸に送る。翌年、堀藩は米100駄、本多家は米120駄を江戸に送る。
- 大笹関所は4人が任じられ、2人づつが30日交代、狩宿も4人が2人づつ15日交代で務めた。
- 天明3年5月27日、近村の村々では灰が降ったので桑を洗って蚕に食べさせた。
- 同6月18日、夜の5つ時に大噴火あり、大笹、干俣周辺に砂が降る。
- 同6月18日、浅間山麓の田代、大笹、大前、鎌原へ小石が3寸ほど降る。
- 同6月27、28日、大岩、四万村にことごとく灰が降り、鉄砲玉のような砂が混じって降った。野良仕事をしていた人たちはみなわが家へ逃げ帰った。
- 同7月に入ると風向きが西風に変わり、噴煙は東に流れる。
- 農家では馬を飼っていたが、秣場の青草がすべて枯れ馬草がなくなり、やむなくただ同然で手放す者もいた。
- 吾妻川の橋はすべて落ち、対岸に矢文で連絡した。長野原の琴橋、須川橋、弁天橋、岩下村と三島村を結ぶ万年橋、北牧村と南牧村をつなぐ三国街道の杢の橋も落ちた。
- 天明3年11月5日、黒岩長左衛門は出立し、原町で矢島五郎兵衛、山口六兵衛と合流して出府し、19日に江戸に着き、幕府の勘定所へ出頭する。勘定所では大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門の3名に対し、銀10枚を与え、一代帯刀と永代苗字を許す。また、原町の五郎兵衛と六兵衛には銀3枚を与え、一代帯刀と永代苗字を許す。
- 天明4年正月24日にも長左衛門と小兵衛は代官所渋川仮役所へ出頭を命じられ、27日に安左衛門と3人で救援活動の内容の取り調べに答えている。
- 鎌原村の延命寺は東叡山御末寺(天台宗)で浅間大明神の別当、鎌原氏の祈願所。本尊は薬師如来。
◇1829年4月、鎌原村明細帳
・江戸へ42里。沓掛へ5里余。追分へ6里余。大笹関所へ2里。狩宿関所へ2里。
・御関所遠見役、昼夜2人宛。
・浅間山腰御留山御山見2人。鎌原村平蔵、大前村喜三次。毎月一日替わりに山廻りをする。
・諏訪大明神の宮守は与惣右衛門。
・家数39軒、人数男女合183人。
- 宝永4年(1707)、鎌原村の問屋は市左衛門。組頭は次左衛門。
- 安永8年(1779)8月、鎌原村の名主は儀右衛門。
- 天明3年12月23日、安治郎、富松、千之助、祝言を挙げる。
百姓代半兵衛 (間口5間半×梁間3間)
組頭市太郎 (間口5間半×梁間2間半)
百姓清之丞 (間口5間半×梁間2間半)
百姓市助 (間口5間半×梁間2間半)
百姓儀八 (間口5間半×梁間2間半)
百姓長次 (間口5間半×梁間2間半)
百姓甲八 (間口5間半×梁間2間半)
百姓丑之助 (間口5間半×梁間2間半)
百姓千右衛門 (間口5間半×梁間2間半)
百姓次郎右衛門(間口5間半×梁間2間半)
百姓惣八 (間口5間半×梁間2間半)
- 文化4年(1807)、鎌原村の名主は郷左衛門、年寄は作左衛門、百姓代は市右衛門。
- 天明3年7月、大笹関所の番人は西窪治部左衛門と鎌原浜五郎。
◇鎌原氏
- 鎌原縫殿 (−1684.11) ‥‥‥沼田真田家に使え2360石賜う。1682年より大笹関所番(20俵2人扶持)。
- 鎌原織部 (−1703.8) ‥‥‥1684年より1702年まで大笹関所番。
- 鎌原左門 (−1748.2) ‥‥‥1702年より1742年まで大笹関所番。
- 鎌原要右衛門(−1747.9.3) ‥‥‥1742年より1747年まで大笹関所番。
- 鎌原要右衛門(−1783.11.8) ‥‥‥1747年より1783年まで大笹関所番。
- 鎌原浜五郎 (−1786.11.29)‥‥‥1783年より1786年まで大笹関所番。
- 鎌原泉左衛門(−1842.7.29) ‥‥‥浜五郎の弟。1786年より1842年まで大笹関所番。妻は大笹黒岩長左衛門の娘。
- 鎌原縫殿 (1822−) ‥‥‥1842年より大笹関所番。泉左衛門の婿養子。
『群馬県史、民族』より
- 4月8日、お釈迦様の生まれた日だが特別な行事はしない。甘酒を作って楽しむくらい。
- 5月5日、端午の節句。菖蒲湯を立てる。この日に働くと笑われる。
- 5月、八十八夜の祭りで、獅子舞が奉納され、村内安全、五穀豊饒が祈られる。
- 6月1日からマグサ刈りが始まる。5月から9月まで早朝、馬を曳いて山に草刈りに行く。
- 天台宗寺院では6月8日は伝教会。11月24日は天台会。
- 9月15日、常林寺の『施餓鬼』、僧侶が大勢集まり大般若経をあげた。
- 山の神の事を『十二様』という。十二様は女神なので女はいやがられた。10歳以下の女ならよい。
12日は山へ入ってはいけない。
伐っては悪い木は天狗のオシミ木、トマリ木、遊び木、休み木、腰掛け木などと呼ばれ、二又、三又、一旦分枝したのが合体した窓木、それと同じだが弓状になっているユミハリ木、枝が銚子状になっている銚子口などがある。
- 嬬恋村では十六夜待ちと二十三夜待ち(サンヤサマ)が行われた。農繁期を除いた毎月。
- 若者組(ワケーシ)は男は15歳〜30歳まで、女は15歳から嫁に行くまで(島田衆)。
- 若者組は祭礼の奉仕、村行事を担当、村内警備、消防、水防、婚姻の媒介、集団訓練(生業技術の習得、集団生活への適応、芸能の練習など)
- 若者組にし『掟』があり、村法の遵守、役人衆に対する礼儀、道徳生活に関する諸規定、博奕の禁、飲酒喧嘩口論など悪事の禁、風俗矯正など。
- 村芝居にはチョボ(浄瑠璃語り)と三味線弾きがいなくてはならない。
- 追分節‥‥‥三味を横抱き浅間を眺め、勤めつらいと目に涙。
- 嬬恋村では鳥居峠を越えて信州の渋沢へ物資を運搬し、帰りに食料や日用品を買って来たりした。
- 嬬恋村では楢製の天秤棒、シナ、桐の下駄材などを木炭と共に信州に出し、米、味噌と交換した。
- 家族の呼称 父‥‥‥チャン、オトッチャン、オトウ、トウチャン。
母‥‥‥オッカア、カアチャン、オッカチャン。
祖父‥‥‥ジィ、オジィ。
祖母‥‥‥バァ、オバァ、オバアチャン。
曾祖父‥‥‥ヒィジィ、デッケェジィ。
曾祖母‥‥‥ヒィバァ、デッケェバァ。
兄‥‥‥アンチャン、アニッコ、アニゴ、アニィ、ニイ。
姉‥‥‥アネゴ、アンネェ、ネエ。
伯叔父‥‥‥オジゴ、オンジィ、オッチャン。
伯叔母‥‥‥オバゴ、オンバァ、オバサン。
妻方父母‥‥‥オトッツァン、オッカサ。
長男の嫁‥‥‥義弟妹はアネェ、ネエサン。それ以外の者は名前を呼び捨て。
- 米は2俵で1駄。米1俵は4斗で16貫。
薪は1尺8寸のものは4把で、1尺6寸のものは6把で1駄。
一人で馬をつないで歩けるのは6頭。
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