酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







今川義忠2







 早雲庵の朝は早かった。

 (あるじ)の早雲が早寝早起きなので、富嶽(ふがく)、春雨、孫雲、才雲、荒川坊、寅之助らも皆、早起きだった。中には、多米(ため)や荒木のようにゆっくり寝ている連中もいたが、その二人はどこに行ったのか、未だに戻っては来なかった。

 早雲はここにいる時は必ず、毎朝、海まで走り、一泳ぎするのを日課としていた。夏は勿論の事、冬の寒い朝でも続けていた。正月の末、帰って来た次の朝から、さっそく始めていた。半年振りの事で、さすがにためらいはあったが、小太郎も一緒だったので、無理に強がって海の中に入って行った。当然、負けるものかと小太郎もついて来た。京に行く前は、冬であろうと毎日続けていたので慣れてしまえば何でもなかった。

 今日も、富嶽と寅之助を連れて、海に来ていた早雲だった。孫雲と才雲の二人の弟子にも、一度、やれと命じたが、急にやらせたために風邪を引いて、しばらく寝込んでしまった。だらしないとは思うが、暖かくなってからやらせようと思い、連れて来るのはやめにした。その代わり、二人には毎朝、剣術の稽古をやらせている。寅之助の場合は強制的ではなく、来たければ来いと言っていた。寒いから嫌だと言って、いつもは孫雲たちと木剣を振っていたが、今日は珍しく付いて来た。

 富嶽は四日前に旅から帰って来ていた。甲斐(かい)の国(山梨県)を回りながら、富士山を描いていたと言う。早雲も絵を見せてもらったが、甲斐の国側から見る富士山もなかなかのものだった。そして、久し振りに見る富嶽の絵が、以前と少し変わっていたのを早雲も気がついていた。以前、富嶽の描く絵には人物がいなかった。それが今回の絵には、小さいが人物の姿が描かれてあった。自然の中で働いている人々の姿が、自然の中に調和していた。それは自然というものが厳しさだけでなく、人々に恵みを与えてくれる大きな力を持っているという事を表現していて、見るものに安らぎと暖かさを感じさせる絵になっていた。京に行って家族と再会した事が、富嶽の絵を変えさせたのだろうと早雲は思い、一緒に連れて行ってよかったと思った。

 一泳ぎした後、乾いた布で体をこすっている時、海辺を一頭の馬がこちらに向かって駈けて来た。

「何じゃ、あれは」と富嶽が近づいて来る馬を見ながら言った。

「乗馬の稽古でもしておるんじゃろ」と早雲も馬の方を見ながら言った。

「稽古にしては、えらく急いでおるようじゃが‥‥‥」

「様子が変じゃのう」

「何か叫んでおるようじゃ‥‥‥」

 馬が近づくにつれて、「早雲殿」と叫んでいるように聞こえて来た。

「あれは、五条殿のようじゃぞ」と富嶽は言った。

「らしいな。一体、どうしたんじゃろ。戦に行っておるはずじゃが‥‥‥」

「何か、あったのかのう」

 五条安次郎は二人の側まで来ると馬を止め、馬から飛び降りた。

「よかった。お帰りになっておりましたか‥‥‥」とやっとの事で言うと、安次郎はハァハァと荒い息をしながら早雲を見た。

 富嶽は馬を押えると、安次郎の顔を見て、そして、早雲を見た。

「悪い知らせじゃな」と早雲は聞いた。

 安次郎は(うなづ)いた。

「お屋形様に何か、あったのか」

 安次郎は顔を歪めながら、早雲を見つめ、うなだれるように頷いた。

 ようやく息を整えると、安次郎は小声で、「お屋形様がお亡くなりになりました」と言った。

 今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 寅之助が一人で騒ぎながら波と遊んでいた。

 漁師の小船が沖の方に浮かび、海鳥が飛び回っていた。

 突然、(とび)が舞い降りて来て、悠然(ゆうぜん)と砂浜の上に立ち、海の方を見つめた。

「いつの事じゃ」と早雲は海の方を眺めながら聞いた。

「ゆうべです‥‥‥」

「どうして、また?‥‥‥戦には勝ったと聞いておるが‥‥‥」

「はい、戦には勝ちました。見付城を落とし、首謀者である横地四郎兵衛、勝間田修理亮(しゅりのすけ)の首は取りました。しかし‥‥‥」

 早雲は昨日、小河(こがわ)の長谷川次郎左衛門尉の屋敷で、予定通り戦は勝利を納め、二、三日中には凱旋(がいせん)して来るだろうと聞かされたばかりだった。早雲としては、今日か明日にでもお屋形様が帰って来るので、今日、春雨と一緒に駿府に行き、お屋形様が帰るまで小太郎の家にいようと決めていた。今日は二月の十日で、踊りの稽古のある前の日だった。

 安次郎の話によると、敵の籠もる見付城が落ちたのは二月六日で、七日には首実検を行ない、福島左衛門尉(くしまさえもんのじょう)の高天神城に向かった。八日は一日、兵馬を休め、次の日には駿府(すんぷ)に向けて凱旋する予定だった。ところが、横地城に残党たちが立て籠もって駿府に向かう今川軍を襲うとの知らせが入った。お屋形の義忠はまだ懲りないのかと怒り、次の日、横地城を攻め、皆殺しにしろと命じた。九日、早朝より横地城に向かい、城を囲んで攻め立て、夕方近くにようやく落とす事ができた。お屋形様の命令通り、捕まった者たちは皆殺しにされた。暗くなりかけていたので高天神城まで戻るのは無理だった。そこで、横地城の近くにある新野(にいの)城に向かった。

 新野氏は今川一族で、横地氏より今川家から独立しようとの誘いを受けていたが断り、城を堅く閉ざしていた。横地、勝間田氏が攻めて来はしないかと冷や冷やしながら回りの状況を見守り、お屋形様が遠江に出陣して来た時には、すぐにお屋形様に従い、見付城を落とす戦に参加していた。お屋形様が高天神城で休養していた頃は自分の城に帰って、長年、(おびや)かされていた横地氏が滅びた事を心から喜んでいた。

 安次郎はお屋形様の命で、一足速く新野城に向かい、これからお屋形様が来る事を告げ、そのまま、新野城でお屋形様が来るのを待っていた。しかし、新野城に到着したお屋形様には、もはや息が無かった。横地城から新野城に向かう途中、残党に夜襲され、流れ矢に当たって、そのまま息絶えたと言う。

「流れ矢でお亡くなりになったのか」と富嶽が聞いた。

「そういう話です。お屋形様の胸と腹に矢が深く刺さっておりました」

「甲冑は身に着けておらなかったのか」と早雲が聞いた。

「はい。小具足(こぐそく)姿でした。横地城の残党を片付け、一安心しておったのでしょう」

「そうか‥‥‥」

 小具足姿とは、陣中でくつろぐため、籠手(こて)臑当(すねあて)佩楯(はいだて)などの小具足だけを身に着け、(かぶと)(よろい)の胴をはずした姿の事である。兜と胴さえ着ければすぐに戦えるので、武将たちはよく、この姿でくつろいでいた。義忠ももう戦は終わったと思い、その小具足姿のまま馬に乗り、新野城に向かったため、やられてしまったのだった。

「早雲殿。お願いがございます」と安次郎は言った。「実は竜王丸(たつおうまる)殿の事ですが、危険な状況にあると言えます」

「何じゃと?」

「わたしが気を回し過ぎるのかもしれませんが、何となく、気になります」

「家督争いか?」

「はい。竜王丸殿がまだ小さすぎます」

「誰か、家督を狙っておる者がおるというのか?」

「分かりません。しかし、お屋形様が急にお亡くなりになったとなると、今まで、そんな事を考えなかった者でも欲が出て来ます」

「うむ」と早雲は頷いた。「それは言えるのう。竜王丸殿はまだ六歳じゃ。この乱世を乗り切るのは大変な事じゃ。国人(こくじん)たちが騒ぎ出すかもしれんのう」

「はい、何が起こるか分かりませんから、早雲殿に北川殿の側にいて欲しいのです」

「分かった、そうしよう。駿府の方へはこれから知らせに行くのか?」

「そうです。正式な使いはわたしが最初ですが、しかし、もう知っている者もいるかもしれません」

「うむ‥‥‥わしもすぐに行く。早く、知らせた方がいい」

 安次郎は頷くと馬にまたがり、駈け出して行った。

「大変な事になったのう」と富嶽は馬を見送りながら言ったが、早雲はすでに、そこにはいなかった。

 早雲庵を目指して走っていた。

 富嶽は寅之助を呼ぶと、慌てて早雲の後を追った。

 文明八年(一四七六年)二月の十日、早雲を初め、早雲庵に住む連中の人生が変わった節目となる日だった。

 駿河の海はいつもと同じく、朝日を浴びて輝いていた。







 駿府のお屋形は、いつもと変わってはいなかった。

 警戒が厳重になっているという事もなく、人々がコソコソと内緒話をしているという事もなかった。まだ、お屋形様の死を知っているのは上層部の者たちだけなのだろう。

 北川殿も普段とまったく変わりがなかった。

 早雲は早雲庵にいる全員を引き連れて駿府にやって来た。全員で北川殿に押しかけるわけにもいかないので、富嶽、孫雲、才雲、寅之助を小太郎の家に待機させ、山伏になった小太郎とお雪、春雨の三人を連れて行く事にした。お雪は前回の踊りの稽古の時より、一緒に行く事になっていた。踊りの稽古をするのに、笛の曲があった方が上達すると春雨が言うので、お雪も引き受ける事にしていた。

 小太郎にはそのまま、ずっと北川殿にいてもらい、身辺警固についてもらうつもりでいた。小太郎一人では北川殿の出入りできないので、早雲と一緒に中に入り、そのまま、いてもらう事にした。風眼坊に戻った小太郎は、早雲がお屋形様の蔵の中から貰って来た貫禄のある錫杖を突きながら三人の後に従った。

 北川殿の門番の吉田喜八郎は、「今日はまた、随分とお早いお出ましで」と四人を迎え入れた。

 小太郎が前来た時とは違って山伏姿だったのに少し驚いていたが、早雲がうまく説明すると納得した。小太郎は京にいた頃、お屋形様と出会い、お屋形様の祈祷師(きとうし)として側に仕えていた。駿河に来いと誘われていたが、ようやく下向して来た。前回、町人の格好をしていたのは、初対面に山伏の姿で北川殿の子供たちを(おどろ)かしては悪いと思い、わざとあんな格好をさせたが、これが本当の姿じゃと説明した。喜八郎は小太郎の姿を改めて見ながら、確かに、子供たちが見たら怖がりそうな山伏だと思った。

「実は、北川殿も京でわしと会っておったんじゃが、北川殿は思い出す事ができんのでな、こうして、今日は山伏姿に戻ってやって来たわけじゃ」と小太郎は言った。

 早雲たちが思っていた通り、喜八郎はお屋形様が戦死した事は知らなかった。すでに、五条安次郎によって重臣たちには知らされているはずだった。果たして、北川殿は知っているだろうか。早雲も小太郎もまだ知らされていないだろうと思っていた。

 小太郎はさっそく北川殿に仕えている者たちの事を調べていた。門の所には喜八郎の他に侍が二人いた。裏門にも何人かいるはずだし、交替人員もいるだろう。屋敷内には男の姿はないようなので、警固の侍は十人前後に違いないと思った。十人では少ないような気もするが、この屋敷は濠と土塁に囲まれた今川屋形の中にあるし、また、お屋形様の屋敷ともつながっている。いざという時はお屋形様の屋敷から警固兵が来るのだろう。

 北川殿は驚いて四人を迎えた。踊りの稽古は明日のはずだった。

「明日よりも今日の方が日がいい、と小太郎が言うので、こうして、朝早くからやって参りましたが、御迷惑だったでしょうか」と早雲が聞くと、北川殿は首を振って、いつもと変わらない嬉しそうな顔をして四人を迎え入れた。

「迷惑だなんて、とんでもありませんわ。早く、明日にならないかと思っていたくらいですから」と北川殿は笑った。

「しかし、ちょっと早過ぎましたかな」と早雲は聞いた。

「いいえ。ほんとに今日はいい日ですわ」

 さっそく、美鈴の踊りの稽古が始まった。まず、春雨がお雪の笛に合わせて踊り、美鈴は北川殿の隣りに座って春雨の踊りを見ていた。少し離れて、二人の侍女に挟まれて竜王丸が座って見ている。その隣に乳母(うば)に抱かれた千代松丸がいた。小太郎は早雲と一緒に部屋の隅に畏まって座り、一同を眺めていた。

 春雨は踊り終わると美鈴を(うなが)し、今度は二人で踊った。小太郎は美鈴の踊りを見るのは初めてだったが、なかなかうまいものだと思った。可愛いらしく、ほほえましかった。踊り終わると今度は新しい踊りの稽古だった。春雨がまず見本を見せ、その後、美鈴に踊りの動きを丁寧に教えた。

 早雲が座ったまま北川殿の側に擦り寄って行き、小声で何やら話しかけた。北川殿は頷くと立ち上がった。侍女の一人が立ち上がろうとしたが、北川殿はそのままでいいという素振りをして押えた。

 北川殿と早雲は部屋から庭に下りて、庭園の中に建つ茶屋に向かった。

 早雲は、今日は兄として話さなければならない事があるので聞いてほしいと言って、北川殿を茶屋に誘った。北川殿は、急に改まって何の話だろうと一瞬、ためらったが、きっと春雨さんと一緒になって、駿河に腰を落ち着ける事に決めたのに違いないと勝手に思い込み、兄の話を聞く事にした。

 茶屋は四畳半の座敷で、回りに半間幅の縁側が付いていた。北側には床の間と違い棚があり、村田珠光(じゅこう)流の四畳半の茶室になっていた。床の間には墨で描いた桃の絵が掛けてあり、違い棚には香炉(こうろ)茶壷(ちゃつぼ)が飾ってあった。花入れも置いてあったが、花は差してなかった。東側の障子越しに屋敷の中を見る事ができたが、美鈴が踊っている姿は見えなかった。部屋の隅に座っている小太郎と侍女が一人見えるだけだった。

「兄上様、ようやく、覚悟をお決めになったのね」と笑いながら北川殿は言った。

「北川殿、落ち着いて聞いて下さい」と早雲は厳しい顔をして言った。

「兄上様、一体、どうなさったのです。今日の兄上様は何となく変ですわ」

「はい‥‥‥世の中というのは、まったく思うようには行かないようです。川の流れと同じように、世の中は流れております。決して、止める事はできません。まして、流れを変える事など、できるはずがございません」

「はい‥‥‥」

「京の都で戦が始まって、もう十年近くになりますが、戦が終わりになるどころか、各地に広がり、今もどこかで戦は行なわれております。わしは各地を旅して何度も悲惨な光景を見て参りました‥‥‥」

「兄上様、兄上様はもう武士には戻らないとおっしゃりたいのですか」

 北川殿は首を少し傾げて、ほほ笑みながら早雲を見ていた。

 早雲は首を振って北川殿から視線をそらし、床の間の掛軸の桃の絵を見つめた。

「わたしは兄上様がお側にいてくれたらそれでいいのです。お嫁さんの事はもう」

「北川殿!」と早雲は口を挟んだ。「お屋形様が、お屋形様が昨日の夜、お亡くなりになりました」

「え?‥‥‥何です‥‥‥急に、そんな‥‥‥」

「お屋形様がお亡くなりになりました‥‥‥信じられないでしょうが、事実です」

「そんな‥‥‥」北川殿は大きな目をさらに大きくして、じっと早雲を見つめていた。

 時が止まってしまったかのように北川殿の表情は変わらず、重苦しい沈黙が流れた。

 お雪の吹く笛の調べが、やけに悲しく聞こえていた。

「落ち着いて下さい」と早雲は言った。

 早雲は北川殿の顔をまともに見ている事ができなかった。膝の上に置いていた北川殿の両手は強く着物を握り締めていた。

 しばらくして、北川殿は、「どうしてです」と小さな声で言った。その言葉には何の感情も感じられなかった。

 早雲は顔を上げた。

 悲しみが大きすぎたのか、北川殿の顔は気が抜けたように、ぼうっとしていた。涙は流れていなかった。じっと我慢してるに違いなかった。幸いに、北川殿の姿は屋敷からは見る事はできなかった。今の所は、北川殿以外の者にお屋形様の死を気づかれたくはなかった。もし、家督争いが生じた場合、竜王丸の命が危険にさらされる事になる。この屋敷内にも敵の回し者がいないとも限らなかった。正式に知らせが来るまでは回りの者たちには黙っていた方がいいような気がした。

「敵の残党の流れ矢にやられたそうです。今朝、五条殿が慌てて訪ねて来て知らせてくれました。五条殿はそのまま、こちらに向かったので、今、こちらにいる重臣の方々は知っておるはずです」

「どうして、わたしに知らせてくれないのです」

「分かりません。しかし、こういう事はたとえ重臣の方々といえども、身内の者でないと、なかなか言えないのかもしれません」

「お屋形様の弟の備前守(びぜんのかみ)殿がいらっしゃるはずです」

「多分、知らせを聞いて、すぐにお屋形様のもとに向かったのだと思います」

「そうですか‥‥‥」

「五条殿は北川殿と竜王丸殿の事を心配して、わたしに知らせました。五条殿が言うには、家督争いが生じるかもしれないと言っておりました」

「家督争い?」

「はい。普通なら家督は竜王丸殿でしょう。しかし、竜王丸殿はまだ六歳です。お屋形様になるには若過ぎます」

「竜王丸はお屋形様の嫡男(ちゃくなん)です。たとえ、六歳でも跡を継ぐのが当然です」

「分かっております‥‥‥わたしは今川家の内情は詳しく存じません。竜王丸殿が跡を継ぎ、お屋形様の弟の河合備前守殿と中原摂津守(せっつのかみ)殿の二人が後見になれば、うまく行くと思っております。しかし、五条殿はひどく心配しておりました。五条殿は今川家の内情をよく知っております。その五条殿が心配しておるという事は、今川家の家督を狙っている者がおるのかもしれません。誰だか分かりませんが、もし、そんな者がおるとすれば、竜王丸殿の身に危険が迫っておると言えます」

「竜王丸が殺されると?」

「かもしれません。幕府を初め、あちこちで家督争いをしております。戦の原因はすべて、家督争いだと言ってもいい程です。本来、大名たちの家督争いが生じた場合、それをうまく裁くのが幕府の役目です。それなのに、幕府が家督争いを始めたものですから、示しがつきません。皆、自分の欲のために家督争いを始めておるのです。今川家もその家督争いを始めるかもしれません。誰もが、お屋形様の嫡男である竜王丸殿が跡を継ぐのが筋だとは分かっております。しかし、竜王丸殿より他の者を家督にした方が自分の利益になるとすれば、その者を押す事となるでしょう」

「わたしにはどうしたらいいのか分かりません」

「しばらく様子を見ましょう。そこで、お願いがございます。この事はまだ北川殿の胸の中だけにしまっておいて下さい。お辛いでしょうが、まだ、お屋形様の死を御存じない事にしておいて下さい。そうしないと内緒でわたしに教えてくれた五条殿の立場がなくなってしまいます。それと、小太郎夫婦をこの屋敷にしばらく置いてもらえないでしょうか。小太郎なら何が起こっても竜王丸殿を守り通す事でしょう。お屋形様が北川殿に付けた御祈祷師として置いてもらいたいのです」

「はい。助かります‥‥‥兄上様、お屋形様がお亡くなりになって、わたしには今、兄上様しか頼るお人がおりません。なにとぞ、よろしくお願いします」

 北川殿の目には涙が溜まっていた。

「はい。わたしに出来る限りの事はさせてもらいます。御安心下さい。きっと、竜王丸殿を今川家のお屋形様にしてみせます」

 早雲はそう言ってから、何という事を言ってしまったのだろうと後悔した。この場の雰囲気から、つい言ってしまったが、果たして、そんな約束をして果せるものか自信がなかった。しかし、言ってしまった以上、自分の命に代えてでもやらなければならなかった。

「お願いします」と言いながら北川殿は顔を隠して泣いていた。

 声を殺して泣いている北川殿を見ながら、この年になって、ようやく自分の出る幕がやって来たのかと、ふと思った。

 北川殿と竜王丸殿を助けようと決心した早雲は、何となく若い頃に戻ったかのように、胸の中で何かが燃え始めたのを感じていた。それは生きがいというものかも知れなかった。特にこれといってやるべき事もなく、時の流れに身をまかせて来た自分に、ようやく、やるべき事が見つかった。やらなければならない事が見つかった。可愛い妹とその子供たちを守るために、命まで賭けようとしている自分が不思議だったが、結果はどうなろうと、もう進むしか道はなかった。







 その日の夕方になって、小鹿逍遙入道(おじかしょうようにゅうどう)がやって来た。侍女(じじょ)萩乃(はぎの)が応対に出て、至急、お話があるとの事ですと北川殿に告げた。

 北川殿は次男の千代松殿と奥の間で休んでいた。茶屋から戻って、無理に明るい表情をしていたが、やはり、悲しみを隠せなくなったのだろう。踊りの稽古が終わると、疲れたからと言って奥に下がって行った。美鈴は縁側で、お雪から笛を習っていた。竜王丸は庭で、小太郎を相手に木剣を振っていた。早雲と春雨の二人は昼飯を御馳走になると帰って行った。

 逍遙入道はお屋形様の屋敷の方からやって来た。庭園を横切る時、竜王丸が山伏を相手に木剣を振っているのを見ながら、不思議そうな顔をしていたが、山伏に向かって軽く頭を下げると、急ぎ足で屋敷の玄関に向かった。

 逍遙入道は萩乃に用件を告げると、玄関から入って最初にある広い板の間の隅に控えた。北川殿の屋敷の中は東と西に分かれ、東側が(おおやけ)の対面に使う場所で、西側が私的な生活の場所だった。逍遙入道の座っている板の間の北側に上段の間があり、北川殿はそこに座って家臣たちと対面する。早雲も初めて北川殿と対面した時はそこに控えていたが、今はそこに座る事はなく、直接、西の間まで行って北川殿と会っていた。上段の間の隣には十二畳の座敷があり、客に軽い食事を持て成す場合は、その部屋が使われていた。

 北川殿は支度を整えると上段の間に上がった。上段の間のすぐ下の両脇に侍女の萩乃と菅乃(すがの)が控えた。萩乃に言われて、逍遙入道は部屋の隅から上段の間の正面に移動した。

 決まりきった挨拶が済むと逍遙は顔を上げたが、北川殿の顔をまともに見る事はできなかった。喉の中程まで来ている言葉も、なかなか言い出す事はできなかった。

「何か、重要なお話とか」と北川殿は聞いた。

「はい、実は‥‥‥ところで、庭で竜王丸殿のお相手をしておる行者(ぎょうじゃ)殿はどなたですかな」

「風眼坊殿ですか、風眼坊殿は京の伊勢家より、わたしの様子を見にいらっしゃったのです。剣術の名人ですので、お屋形様に頼んで、竜王丸の剣術師範にお願いしようと思っております」

「京からお越しになったのですか」

「はい。お屋形様が京に行かれた時、お屋形様とお会いになったと言っておりましたが、小鹿殿もお会いになったのではありませんか」

「さあ。覚えておりませんが‥‥‥どちらの行者殿ですか」

「大峯山の大先達(だいせんだつ)です」

「ほう。大峯山ですか‥‥‥はい。もしかしたら会ったかもしれません」と逍遙は言ったが、そんな記憶はなかった。ただ、大峯山の山伏が幕府に出入りしていたのは知っていた。幕府が今川家を探るために派遣したに違いないと思った。

「その風眼坊殿は、いつから、駿河の国にいらっしゃるのです」

「先月の末です」

「そうですか‥‥‥」

「風眼坊殿の事をわざわざ聞きに参ったのですか。それより、お屋形様はいつ凱旋して来るのでしょう」

「はい、実は‥‥‥お屋形様の事ですが‥‥‥」

「はい」

「実は、お屋形様はお亡くなりになりました」

「え? 今、何と申しました」

「お屋形様がお亡くなりになりました‥‥‥」

「お屋形様が‥‥‥そんな、信じられません」

 北川殿はうまく芝居をした。急に悲しみのどん底に落とされて、今にも気絶してしまいそうだった。

 逍遙入道はお屋形様が討ち死にした状況を説明しながらも、顔を上げて、北川殿の顔が見る事はできなかった。

「小鹿殿、後の事、よろしくお願いします」と北川殿は扇で顔を隠しながら言った。

「はい、畏まりました」と逍遙入道は深く頭を下げた。

 上段の間の(ふすま)が閉められた。

 侍女の二人が部屋から出て行った。

 逍遙入道は頭を下げたままだった。この時、逍遙入道は今川家のために、北川殿を助け、幼い竜王丸殿を皆で守り立てて行こうと決心していた。

 しばらくして、萩乃が戻って来た。

「北川殿の御様子はいかがじゃ」と逍遙入道は聞いた。

「はい、かなり参っているようです‥‥‥しかし、信じられません。お屋形様がお亡くなりあそばすなんて‥‥‥」

「ああ。わしだって信じられんわ。ついこの間、勝利の知らせを聞いたばかりじゃ。それなのに、こんな事になろうとは‥‥‥戦には死は付きものじゃが、まさか、お屋形様が‥‥‥まあ、何事も起こらんとは思うが、一応、念のために、ここの守りだけは厳重にしておいた方がいいのう」

「はい。吉田殿にお願いしておきます」

「うむ。ただ、この事はまだ内密にしておいてくれ。お屋形様の死が公表されるまでは、あらぬ噂が立っては困るので、外部の者には絶対、喋ってはならん。いいな」

「はい」

「北川殿の事を頼むぞ」

「はい」

 逍遙入道は帰って行った。

 庭園を通る時、元気に木剣を振っている竜王丸が見えた。まだ、六歳なのに父親を亡くすなんて可哀想な事じゃと思った。そして、自分の幼い頃の事を思い出した。逍遙入道も八歳の時、父親を亡くし、家督争いに巻き込まれた。何も分からなかった自分は大人たちに振り回され、辛い子供時代を送っていた。竜王丸には、そんな人生を歩ませたくはないと思った。

 逍遙入道はしばらく、竜王丸を見ていたが、また、屋敷に戻ると萩乃を呼んだ。

 萩乃に風眼坊を呼んでくれと頼み、逍遙入道は風眼坊と対面した。

「やはり、風間殿であったか」と逍遙入道は小太郎の山伏姿を眺めながら言った。

「お久し振りです」

「この間は医者じゃったが、今度は山伏なのか」

「はい。医者になる前は山伏でした。北川殿から竜王丸殿に剣術を教えてくれと頼まれまして、こうして、山伏に戻ったというわけです。町人のままでは、ここに出入りする事はできないと言われたものですから」

「成程のう」

「お屋形様に正式な許可を得るまでは、本当は出入りできないのですが、今日は美鈴殿の踊りの稽古があるというので、早雲と共にやって参りました」

「そうじゃったのか。で、早雲殿は?」

「昼過ぎに帰りましたが、わしたちは、ここのすぐ近くに家を借りたものですから残っておるのです」

「ほう、駿府に住んでおるのか」

「はい。浅間神社の門前で町医者を始めましたが、客がさっぱり来ません。毎日、暇を持て余しておりましたので、今日は北川殿もゆっくりして行ってくれとおっしゃいますし、竜王丸殿も剣術の稽古に励んでおりますので」

「ふむ、そうか、町医者を始められたか‥‥‥北川殿から伺ったんじゃが、大峯山の山伏だとか」

「はい」

「大峯山では武術も盛んなのか」

「いえ。大峯山では(もっぱ)修験(しゅげん)(ぎょう)が中心です。近江の国の甲賀に飯道山という山がございまして、そこでは若い者たちに武術を教えております。わたしは、そこで剣術の師範をしておった事もあったのです」

「ほう。剣術の師範をのう。教える事には慣れておるというわけじゃな」

 逍遥入道は庭で木剣を振っている竜王丸を見た。目を細めて見つめていたが、小太郎に視線を戻すと、「風間殿、どうです、しばらく、こちらにいてもらえませんかな」と言った。

「はい、そのつもりで町医者を始めましたが‥‥‥」

「いや、そうではなくて、この北川殿にいて貰いたいんじゃ」

「はあ?」と小太郎はとぼけた。

「実は風間殿、信じられん事じゃろうが」そう言って逍遥入道は言葉を切ると、小声で、「お屋形様がお亡くなりになったんじゃ」と言った。

「何ですって。北川殿から、もうすぐ凱旋して来ると伺っておりますが」

 逍遥は頷いてから、静かに首を振った。「敵の残党に夜襲されて、昨日の夕方、お亡くなりになったんじゃ」

「そんな‥‥‥信じられませんな」

「しかし、事実じゃ。北川殿にもたった今、お知らせしたところじゃ」

「‥‥‥そうですか」

「風間殿、そなたが今、ここにいるのも何かの縁じゃろう。このまま、ここにいて、北川殿と竜王丸殿を守ってくれんか」

「はい。そんな事でしたら‥‥‥しかし、北川殿と竜王丸殿の身に何か危険があるとおっしゃるのですか」

「それは分からん。何もない事を願っておるが、何が起こるか分からんのじゃ。今川家にも色々と派閥とやらがある。それを一つにまとめるのは難しいかもしれん‥‥‥」

「分かりました。北川殿と竜王丸殿の身は命に代えてでもお守りいたします」

「そうか、頼む。そなたがいてくれれば一安心じゃ」

 逍遙入道は帰って行った。

 小太郎にとって予想外の事だった。逍遙入道から正式に頼まれれば、堂々とここにいる事ができる。屋形に出入りするための過書(かしょ)も貰う事ができるだろう。うまくすれば、お屋形様の屋敷にも出入りできるかもしれない。こいつは幸先(さいさき)がいいと思いながら、小太郎は竜王丸の待つ庭へと下りて行った。







 小太郎が竜王丸と剣術の稽古をしていた頃、浅間神社の門前町にある小太郎の家では、早雲庵の住人たちが集まって今後の対策を練っていた。

 早雲は北川殿を去る時、北川殿の門番の頭である吉田喜八郎をここに連れて来て、お屋形様が亡くなった事を告げた。吉田は今川家の家来というよりは北川殿の家来だった。北川殿のためなら命を賭けてでも働くだろうと判断した早雲は、真実を告げ、小太郎と共に北川殿を守ってくれるよう頼んだ。さらに早雲は、今、北川殿に仕えている者たちの素性を吉田より聞いて書き留めた。この先、どうなるか分からないが、身内の中に敵になる者が現れないとも限らない。一応、調べておいた方がいいと思った。

 北川殿の侍女は萩乃と菅乃の二人だった。彼女たちは北川殿の執事(しつじ)のような役目で、北川殿の経済管理や訪ねて来る客の接待を担当していた。萩乃は伊勢氏の出身で、北川殿と一緒に京から来た侍女だった。三十の半ば位の年で、見るからに頭の切れそうな女だった。菅乃の方は二十代の半ば、今川家の重臣、朝比奈氏の出身で、やはり、才女と呼ばれるような感じの女だった。『源氏物語』をすっかり暗記しているような女に見えた。

 仲居(なかい)衆は八人いた。和泉(いずみ)という女が(かしら)で、その下に三芳(みよし)、西尾、瀬川、淡路(あわじ)長門(ながと)、桜井、嵯峨(さが)という女がいて、主に食事関係の世話を担当していた。彼女たちの出身も皆、今川家の重臣だった。和泉が蒲原(かんばら)氏、三芳が岡部氏、西尾が朝比奈氏、瀬川が長谷川氏、淡路は堀越氏、長門は新野(にいの)氏、桜井は三浦氏、嵯峨は庵原(いはら)氏の出だった。その他に福島(くしま)氏出身の船橋という乳母(うば)がいて、千代松殿の世話をしていた。乳母の船橋は通いで、その他の女たちは皆、住み込みだった。以上が北川殿の仕えている女たちで、皆、北川殿とはうまくやっているらしい。北川殿が細かい事などあまり気にしない性格なので、あれこれ命じる事もなく、和気あいあいとやっているようだった。

 北川殿を警固する北川衆と呼ばれる武士は十人いた。頭は吉田喜八郎で、吉田と共に京から北川殿に付いて来た者に、村田、久保という二人がいたが、早雲の知らない男だった。後の七人は今川家の家臣で、小田、清水、小島、大谷、山本、中河、山崎という名前だった。今朝、喜八郎と一緒にいたのは、久保と大谷という男だった。

 北川殿には出入り口が三ケ所あり、正門に三人、裏門に二人いる事になっていた。あと一つの出入り口、お屋形様の屋敷とつながっている所は夜は閉めるが、昼間は開け放したままになっている。北川殿側には門番はいないが、お屋形様の屋敷側に門番が二人いて、お屋形の義忠及び一部の重臣以外は通さないようになっていた。北川殿にいる十人の侍は交替で門を守り、さらに簡単な雑用なども行なっていた。

 早雲は、最悪の場合、竜王丸が毒殺される可能性もあるかもしれないと思い、喜八郎に食事の事も聞いてみた。初めの頃は京から来た専属の料理人がいたが、その料理人が仲居と駈け落ちしてからは、特別な客が来て特別な料理を出す時は、お屋形様の屋敷から料理人が来るが、普段は仲居たちが料理を作っていると言う。

 早雲は喜八郎に、北川殿の中にも敵がいるかもしれないので、充分に注意して、北川殿の身辺を守ってくれるよう頼んだ。喜八郎が緊張した顔をしたまま帰って行くと、早雲は春雨、富嶽、荒川坊、孫雲、才雲の顔を見回した。寅之助は庭で一人で遊んでいた。

「何かが起こるような嫌な予感がするが、今の所はどうなるのか分からん」と早雲は言った。

「今頃、お屋形では重臣たちが集まっておるんじゃろうのう」と富嶽が言った。

「ああ。お屋形の中で何が行なわれておるかが分かれば、これから、どう対処していいかが分かるが、残念ながら、その事を知る手立てはないわ」

「どんな戦じゃったのかも分からんしのう」

「五条殿が戻って来るまでは、それも分からん」

「もし、家督争いが始まった場合、竜王丸殿の敵となるのは誰なんじゃ」

「お屋形様の弟、二人じゃろうのう。河合備前守殿と中原摂津守殿じゃな」

「その二人の評判はどうなんじゃ」

「二人共、お屋形様をよく助けておったようじゃしのう。あまり、悪口は聞かんのう」

(うつわ)はどうじゃ」

「うむ、器か‥‥‥二人共、お屋形様には劣るようには見えるが、分からんのう」

「お屋形様には側室はおらんのですか」

「おる。しかし、子供の事は聞かんのう。お屋形様が北川殿を迎えた時、三十を越えておった。子供が何人かおってもおかしくはないはずじゃがのう」

「北川殿を迎える時に片付けたのかのう」

「かもしれん。とにかく、嫡男は竜王丸殿という事になっておる」

「竜王丸殿の兄弟で争うという事はないんじゃな。竜王丸殿と備前守殿と摂津守殿で、家督を争う事になるのか」

「家督争いになればな」

「いやだわ。兄弟と甥っ子で争いを始めるの」と春雨は言った。

「武士という者はそういうもんなんじゃ」

「北川殿が可哀想だわ」

「仕方がないんじゃよ。わしらが北川殿を守るしかないんじゃ」

「早雲殿の考えはどうなんです。どうするつもりなんです」と富嶽が聞いた。

「わしの考えか‥‥‥わしは竜王丸殿を跡継ぎとし、二人の弟がその後見になってくれればいいと思っておるんじゃが」

「まあ、普通に考えればそうなるのう」

「ところが、そう単純に決まりそうもないんじゃ。わしが駿府ではなく、石脇の地に草庵を結んだのも、お屋形様の屋敷に居辛くなったからじゃ。わしを幕府の回し者じゃと思う者があって、長居をするとお屋形様に迷惑がかかるような気がして駿府から出たんじゃ。駿河の国は幕府権力の及ぶ最前線にあるんじゃよ。北の甲斐(かい)、東の伊豆、相模(さがみ)は皆、関東の勢力範囲じゃ。今川家は幕府に忠実じゃが、国人たちの中には関東と通じておる者もおるんじゃ。国人たちにしてみれば、遠くにおる幕府よりは近くにおる関東の有力者と手を結んだ方が安心じゃ。お屋形様がしっかりしておって今川家が安泰なら、国人たちも今川家の被官となるじゃろう。しかし、お屋形様が亡くなり、跡継ぎがまだ六歳だとすると国人たちも考える。今川家といっても有力な国人たちの寄せ集めに過ぎん。幕府とつながりのある今川家の傘の下におれば安心じゃと思って、今川家の被官となっておる。お屋形様次第なんじゃよ。このお屋形様なら、わしらの命を預けられると思えば、国人たちは(なび)くが、そう思わなければ国人たちはバラバラになる事じゃろう」

「竜王丸殿では駄目じゃと言うんですか」

「立派な後見人がおらなけりゃ駄目じゃ。国人たちの納得のいく後見人がな」

「誰です、それは」

「分からん」と早雲は首を振った。

「うむ‥‥‥長谷川殿に聞いたら、その辺の事情が分からんかのう」

「そうじゃ。長谷川殿なら分かるかもしれん。しかし、今頃はお屋形に行っておるじゃろうのう」

「そうか、そうじゃろうな」

「早雲様はお屋形様のお屋敷には入れないんですか」と春雨が聞いた。

「入れるさ。入れるが重臣たちが評定(ひょうじょう)をしておる所には入れん」

「そうよね」

「しかし、行ってみるしかないかのう。ここにおってもしょうがないからの。何か分かるかもしれん」

「それじゃあ、わしは遠江に行って今川軍の様子でも見て来るかのう。何かが分かるかもしれんしな」

「そうじゃな。とにかく、あらゆる情報を集めん事にはどうしょうもないわ」

 富嶽は荒川坊、才雲、孫雲を連れて遠江の国に向かい、早雲はお屋形様の屋敷に向かった。

 お屋形様の屋敷はいつもと変わりなかった。門番はまだ、お屋形様の死を知らされていないようだった。顔見知りの男がいたので、早雲は、河合備前守殿がこちらにおると聞いて来たがおるか、と聞いてみた。

「備前守殿はお出掛けになりました」と門番は言った。「お屋形様のお出迎えの準備があるとかで、大津城(島田市)の方に行かれました」

「すると、ここの留守は誰が守っておられるのじゃ」

「はい。小鹿(おじか)御隠居(ごいんきょ)様がいらっしゃいました」

「逍遙殿が来ておるのか」

「はい」

「お屋形様は、いつ、凱旋して来るのじゃ」

「さあ、よくは分かりませんが、まもなくだと思います。お屋形様を出迎えるために各地から重臣の方々がいらっしゃっておりますので」

「ほう、お偉方が集まっておるのか」

「はい。どうやら、また、お見えのようで‥‥‥」

 大手門から数人の騎馬武者が入って来るのが見えた。

「あのお方はどなたじゃ」

蒲原越後守(かんばらえちごのかみ)殿でございます」

「なにやら、忙しそうじゃの。わしが顔を出しても相手にされまい。出直して来るわ」

 早雲はそう言うとお屋形様の屋敷から離れた。やはり、重臣たちは集まっていた。しかし、お屋形様の死はまだ公表するつもりはないらしい。お屋形様の死を隠したまま凱旋して来るようだった。一旦、駿府に戻って来てから戦死ではなく、病死と公表するつもりなのだろうか‥‥‥

 跡目を決めてから公表するつもりなのかもしれないとも思った。

 早雲は北川殿に顔を出した。もしかしたら、北川殿にも内緒にしておくつもりかもしれなかった。早雲の顔を見ると、吉田喜八郎が飛んで来て早雲を裏の方に引っ張って行った。

「どうしたんじゃ」

「小鹿の御隠居様がお見えです。北川殿にお屋形様の事を告げたようです」

「ほう。逍遙殿が来られたのか‥‥‥」

「はい。今、風間殿と話しております」

「なに、小太郎と?」

「はい」

「逍遙殿が小太郎と会っておるのか‥‥‥」

「はい」

「わしは顔を出さん方がよさそうじゃの。逍遙殿が帰るまで、どこかに隠れさせてくれ」

 早雲は喜八郎たちの侍部屋で待つ事にした。しばらくして、喜八郎が小太郎を連れて来た。

「うまく行ったぞ」と小太郎は笑いながら言った。

「逍遙殿と何を話したんじゃ」と早雲は聞いた。

「世間話よ。わしに北川殿を守ってくれと言ったわ」

「そうか、そいつは都合がいい」

「今川家の長老から直々に頼まれたという事は、堂々とここにおられるというわけじゃ」

「うまく行ったのう。逍遙殿がおぬしに北川殿の事を頼んだという事は、逍遙殿は竜王丸殿に跡目を継がせるつもりでおるのかもしれんのう」

「話し振りからみて、そんな感じじゃったな」

「長老殿がそのつもりでおるなら騒ぎは起こらんかもしれん」

「だといいんじゃがな」

 早雲は喜八郎から聞いた、この屋敷にいる者たちの事を小太郎に説明し、お屋形様の屋敷に重臣たちが集まっている事を告げて、北川殿には会わずに帰った。

 一日が暮れようとしていた。何となく慌ただしい一日だった。何事も起こらない事を祈りながら、早雲は春雨と寅之助の待つ小太郎の家に向かった。





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