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北川殿1
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山伏、風眼坊舜香に戻った風間小太郎は北川殿を囲む塀と濠との間の狭い所に立ち、濠の向こう岸を眺めていた。 正面には広い道の向こうに高い土塁があり、その向こうには北川が流れている。そして、北川の向こうに小太郎夫婦が借りた家があるはずだった。今、その家には誰もいない。今の状況では、いつになったらあの家に戻れるのか分からなかった。 右側に目をやると北川殿を警固している北川衆の家族の住む家々が並び、その向こうに、北川殿と同じように濠に囲まれた二層建ての豪勢な屋敷が見える。昔、将軍様が駿府に来た時に使用したという 小太郎は濠と塀の間の狭い所を歩きながら濠の中を覗いた。濠の幅はおよそ 北川殿には濠はあるが土塁はなかった。土塁を囲むと景観を 小太郎は濠の水を眺めながら、これでは簡単に忍び込めるなと思った。濠に舟を浮かべれば簡単にこちら側に渡れる。わざわざ、舟を使わなくても丸太でも渡せば簡単に渡る事はできる。こちら側に渡ってしまえば、後は塀を越えるのはわけない事だった。これでは門を固めていても何にもならない。忍び込む気になれば、どこからでも入って来られる。まず、四隅に見張り 今、北川殿には早雲を初めとして、早雲庵の住人すべてが詰めていた。お雪と春雨は北川殿の身辺を守り、荒木、多米、荒川坊、才雲、孫雲らは庭園の片隅にある馬のいない廐で寝起きしながら夜警を担当していた。早雲、小太郎、富嶽の三人は屋敷内の広間の隣にある座敷で寝起きしながら北川殿と竜王丸を守っている。 小太郎は屋敷内にいた早雲に一声掛けると、庭で遊ぶ美鈴、竜王丸、寅之助、側で控えている仲居の嵯峨を横目で見ながら急ぎ足で門から外に出た。さらに、お屋形の北門をくぐって浅間神社の門前町に向かった。小太郎も小鹿逍遙から、お屋形に自由に出入りできる 小太郎が門前町に向かった頃、早雲と富嶽はお屋形様の地位を争う各派閥の兵力を計算していた。五条安次郎が帰って来たお陰で、早雲は今川家に関する様々な情報を手に入れる事ができた。兵力は 知行高によって、おおよその兵力を割り出して見ると、 竜王丸派は、朝比奈城の朝比奈天遊斎の五百、小瀬戸城の朝比奈和泉守の二百、 河合備前守派は、江尻城の福島越前守の五百、 中原摂津守派は、朝日山城の岡部美濃守の五百、方上城の岡部五郎兵衛の二百、川入城の由比出羽守の二百、中原摂津守自身の三百で、しめて、一千二百。 その数は騎馬武者だけでなく、徒歩武者の数も入っている。動員できる総人数と言えた。 兵力から言えば、小鹿新五郎派が有利だったが、まだ、お屋形様直属の兵が二百五十騎が残っている。騎馬武者が二百五十騎という事は、 戦に発展する事はないとは思うが、 「中原摂津守は消えそうじゃな」と富嶽は言った。 「いや」と早雲は首を振った。「岡部美濃守はそう簡単に寝返りはせんじゃろう。妹が摂津守の嫡男を産んでおるからのう」 「由比出羽守はどうして摂津守派なんじゃ」 「出羽守の姉が美濃守の奥方だそうじゃ」 「という事は美濃守も出羽守も五郎兵衛も皆、兄弟という事じゃな」 「そういう事じゃ。この三人は他に移る事はあるまい。それより、河合備前守の方が消えそうじゃな」 「福島越前守か」 「そうじゃ。越前守は備前守の奥方が 「成程のう。ありえるな」 「越前守が抜ければ、庵原安房守、興津美作守、蒲原越後守も右にならえと寝返る事になるじゃろう。そうすれば備前守を押す者は一人もおらんという事になる」 「可哀想な事じゃ。そうなった場合、備前守はどうするんかのう」 「自分を裏切った者たちのおる小鹿派にはなるまい。仲の悪い弟を押すという事も考えられんしのう」 「という事は竜王丸派になるという可能性が強いのう」 「ああ。竜王丸殿を補佐するという形で竜王丸殿を押すじゃろうな」 「備前守が竜王丸派になるのはいいが、福島越前守らが小鹿派に乗り換えたら、益々、勢力を強める事になるのう」 「そうじゃな。しかし、福島越前守と福島土佐守は犬猿の仲じゃ。越前守が小鹿派になれば土佐守は出て行くような気もするがのう」 「ふむ。土佐守は初め摂津守派じゃったが、小鹿派に替わり、小鹿派から出たら、どこに行くんじゃ?」 「さあな。岡部氏と仲がよさそうじゃから、また、摂津守派に戻るか、越前守の弟、左衛門尉がおる竜王丸派になるか、まあ、性格的に見て河合備前守を押す事はあるまいが、どっちに付くか分からん」 「問題は天野氏がどこに付くかじゃな」 「もう、今頃は評定に加わっておるかもしれん。もう少ししたら五条殿が知らせてくれるじゃろう」 「五条殿か‥‥‥もしかしたら、五条殿、今回の騒ぎが治まったらやめるかもしれんのう」と富嶽は言った。 「五条殿がやめる?」と早雲は不思議そうな顔をして富嶽を見た。 「ああ」と富嶽は頷いた。「早雲殿が留守じゃった時、五条殿が早雲庵に訪ねて来て、飲み明かした事があったんじゃ。その時、五条殿は遠江進攻が一段落したら、思い切って今川家から 「どうして、また」 「それが、早雲殿のせいらしいのう」 「なに、わしのせい」 「五条殿は若い頃から 「放浪の歌人か」 「連歌師の 「そうか‥‥‥確かに、五条殿は歌作りの才能がある。それもまた、いいかもしれん‥‥‥五条殿に宗祇殿の事を知らせるのをすっかり忘れておったわ」 「早雲殿は宗祇殿を御存じで」 「前回の旅の時、偶然にお会いしたんじゃ。宗祇殿のもとで修行するのもいいかもしれんのう」 「そうですか‥‥‥」 「五条殿の事は家督が決まってからじゃ。本人も今はそれどころではあるまい」 「そうでしょうな」 小太郎が部屋に入って来た。 「戦になったら、ここから、どこかに移った方がいいのう」と小太郎は言った。 「それは分かっておる」と早雲は言った。 「戦になりそうな雰囲気になったら、竜王丸殿は安全な所に移す。じゃが、その時期が問題じゃ。竜王丸殿がお屋形から出れば、家督の候補から降りたと思う者も出て来るじゃろう。誰かにお屋形を占領されでもしたら、それこそ不利になる」 「ぎりぎりの時まで、ここに踏ん張っておるというわけじゃな」 「そうじゃ。何事もないような振りをしてな」 「この屋敷に忍び込むのは簡単じゃ。忍び込む気になれば、どこからでも入れる。攻めるのに易く、守るのに 「そこを何とかするために、おぬしがおるんじゃろ」 「まあ、そうじゃがの。大っぴらに見張り櫓を建てるわけにも行くまい。やり辛いわ」 「見張り櫓か‥‥‥今更、そんな物を建てたら反竜王丸殿派を刺激する事になりかねんわ。何も知らないで悲しみに暮れておると思わせておいた方がいい」 「分かっておるわ。しかし、敵の動きが分からんというのは辛いのう。太郎坊でもおれば、敵の屋敷に忍び込んで敵が何を話しておるのか、すぐに分かるのにのう」 「陰の術か」 「そうじゃ」 「おぬしもできるんじゃろう」 「ああ、できる。しかし、わしがここから抜けたら、こっちが心配じゃ。敵が竜王丸殿を暗殺するために誰かを忍び込ませるとしたら、その誰かというのは山伏に違いない。多米や荒木たちも腕は立つが、山伏のやり方というものを知らん。荒川坊は山伏じゃが頼りないしのう。わしがおらなくては心配で任せられんわ」 「成程のう。陰の術というのは、こういう時に役に立つのか。わしも習えばよかったのう‥‥‥小太郎、駿河にも飯道山の宿坊はあるんじゃないのか」 「ある。じゃが、富士の裾野の大宮じゃ。ここからじゃ遠すぎる。また、行ったとしても、陰の術を心得ておる山伏などおらんじゃろう」 「そこの浅間神社にはおらんのか」 「そこにいる山伏は皆、今川家とつながりのある山伏ばかりじゃ。誰が誰とつながりがあるのか分からん、使うのは危険じゃ」 「という事は、そこの山伏がここに忍び込んで来るという事も充分、考えられるんじゃな」 「そういう事じゃな」 「そうか‥‥‥山伏が出て来るか‥‥‥まさか、こんな事になるとは思ってもおらんかったが、おぬしを駿府に連れて来てよかったわ。山伏の事は山伏にしか分からん。小太郎、頼むぞ」 「ああ、何とかせにゃのう」 踊りの稽古が始まったようだった。お屋形様の死の知らせを受けてから踊りの稽古はやめていたが、北川殿もようやく立ち直ったとみえて、昨日からまた始められていた。踊りを踊っている美鈴も、それを見ている竜王丸も、まだ、父親の死を知らなかった。北川殿は子供たちにそれを言い出す事はできなかった。早雲たちも時期を見てから、改めて教えた方がいいと思い、知らせてはいなかった。 早雲と小太郎と富嶽の三人はお雪の吹く笛の調べを耳を澄ませて聞いていた。
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今の状況を左右する程の勢力を持つといわれる天野氏は百騎近い兵を引き連れて駿府にやって来た。今川家の重臣となっている天野氏は二人いた。 三氏は今川屋形の二の曲輪内にある各自の屋敷に入ると、その日は、お屋形様の遺骨が納められている宝処寺に参じて焼香をした。翌日より、お屋形様の屋敷内で行なわれている評定に参加したが、各自の意見はバラバラだった。 三氏の中で一番勢力を持つといわれる天野兵部少輔は河合備前守を押し、民部少輔は竜王丸を押し、天方山城守は小鹿新五郎を押した。兵部少輔は、長男が亡くなった場合は次男が継ぐのが当然だと主張し、民部少輔は、お屋形様の嫡男がいるのなら、たとえ幼くても嫡男が継ぐべきだと主張し、山城守はしばらく中立を守って、それぞれの意見を聞いていたが、小鹿新五郎を押す葛山播磨守の話に動かされ、お屋形様には、それに最もふさわしい者がなるべきだと小鹿派になった。兵部少輔と民部少輔は普段から仲が悪いとみえて、その場でも喧嘩騒ぎになりそうだったという。 三氏が加わった事によって、竜王丸派の兵力は二千五百、小鹿新五郎派は二千六百、河合備前守派は二千二百、中原摂津守派は変わらず一千二百という具合になった。摂津守派を除き、ほぼ互角という様相になっていた。果たして、これからどう進展して行くのか、誰にも見当さえつかなかった。 小太郎は多米、荒木、荒川坊らと一緒に塀の外側と内側に鉄菱を撒いていた。 「こんな武器があったとは知らなかったのう」と多米は言った。 「こいつを踏ん付けたら足に穴があくぜ」と荒木は言った。 「お前ら、自分で撒いた鉄菱を踏ん付けるなよ」 「荒川坊の奴が踏ん付けそうじゃな」と多米が笑った。 「そんな‥‥‥わしだって踏みはしませんよ」と荒川坊が塀の向こう側から顔を出して言った。 「何じゃ。お前、そんな所で聞いておったのか」 「しかし、ほんとに、ここに誰か忍び込んで来るのかのう」と荒木は言った。 「疲れたのか」と小太郎は聞いた。 「いや、疲れはせんが、毎日、退屈じゃ」 「そろそろ、 「博奕もそうじゃが、 「そうじゃな。毎日、天女のような綺麗どころを眺めておるが、どうする事もできん。あれは目の毒じゃな」 「誘いを掛けたらどうじゃ。同じ女子じゃぞ」 「飛んでもない。同じ女子かもしれんが、わしらとは住む世界が違い過ぎる。とてもとても、話をするのも恐ろしい位じゃ」 「意気地のない事じゃのう」 「風眼坊殿。風眼坊殿の奥さんのお雪さんは、加賀の国の守護の側室だったのを、風眼坊殿が横取りして来たと聞きましたが本当なのですか」 「何じゃと。早雲から聞いたのか」 「はい」 「あいつも下らん事を言うのう。お雪にとっては嫌な思い出じゃ。本人の前ではその事を口に出すなよ」 「じゃあ、やっぱり本当だっんですね」 「ああ」 「凄いのう。わしらにはそんな大それた事など、とても真似ができんわ」 「何も、そんな事を真似する事もないわ‥‥‥女子が抱きたくなったのなら、昼間、行って来てもいいぞ。夕方までに戻ってくればのう」 「ほんとですか」 「ああ。先はまだ長そうじゃしの。たまには憂さ晴らしをせん事には続かんじゃろ」 荒木と多米は顔を見合わせて頷きあった。 お屋形様の屋敷の方から五条安次郎が見知らぬ二人の武士を連れてやって来た。小太郎は後の事を皆に任せると屋敷の方に向かった。 安次郎が連れて来た武士はお屋形様の 挨拶の済んだ後、二人は持って来た絵地図を広げた。早雲、小太郎、富嶽の三人が絵地図を覗き込んだ。この場合、木田と入野は今川一族であり、今川家の家臣でもあり、普通なら、早雲、小太郎、富嶽の三人が公的な場で同座できる身分ではなかったが、今川家の長老である小鹿逍遙入道の計らいによって、特別に早雲は竜王丸の執事、小太郎と富嶽は竜王丸の奉公衆という身分になっていた。要するに三人は竜王丸直属の家臣という事になり、先代のお屋形様の家臣だった彼らと公式の場でも同座する事ができた。なお、荒木、多米、荒川坊、才雲、孫雲、寅之助らは早雲の家来という事になり、春雨、お雪は北川殿の侍女という事になっていた。 絵地図には、今川屋形の本曲輪、二の曲輪、城下の建物の配置が描かれてあった。駿府の町は西に阿部川、北に北川、南に鎌倉街道に囲まれ、東側に城下の入り口、大手門があった。東側から城下町、二の曲輪、本曲輪と並び、本曲輪の西側に阿部川が流れ、北側に浅間神社の門前町かあった。本曲輪の大きさはほぼ五町(約五百五十メートル)四方、二の曲輪も同じ位の広さであり、城下町はかなり広いが、浅間神社の門前町のように人家が密集しているわけではなく、田畑もかなりあった。 本曲輪には守護所とお屋形様の屋敷を中心に重臣たちの屋敷が並び、二の曲輪にも重臣たちの屋敷がいくつかあるが、主に奉公衆たちの屋敷が並び、城下には下級武士や町人の家々があった。 早雲たちは、それぞれの重臣たちの屋敷の位置を頭の中に入れた。河合備前守、中原摂津守兄弟の屋敷はお屋形様の屋敷の西側に向かい合って建ち、小鹿新五郎の屋敷はお屋形様の屋敷より少し離れ、本曲輪の西門の近くにあった。 今まで知らなかったが、河合備前守派の大物である福島越前守の屋敷はお屋形様の屋敷の東側にあり、北川殿のすぐ側にあった。北川殿の様子を見張る気になれば簡単に見張る事のできる距離だった。今まで、その屋敷の事を特に気に止めた事はなかったが、これからは気を付けなれればならなかった。 中原摂津守派の岡部美濃守の屋敷は福島越前守の屋敷の東隣にあった。そこからは北川殿を見張る事は不可能と言えた。 小鹿派の大物、葛山播磨守の屋敷は本曲輪ではなく、二の曲輪内にあり、二の曲輪の北側にある広い馬場の南側にあった。二日前に来た天野氏、天方氏の屋敷も葛山屋敷の近くにあった。 「伯耆守殿に葛山播磨守殿、両天野殿の屋敷の様子を探ってもらい、兵庫頭殿に本曲輪の重臣たちの屋敷を探ってもらおうと思っております」と安次郎は言った。 「失礼じゃが、お二方の御家来衆は皆、竜王丸殿派なんでしょうな」と小太郎が聞いた。 「いえ。それは分かりません」と木田伯耆守が言った。「奉公衆は一族、重臣たちの子弟たちで編成されております。当然、各自の親兄弟の所属している派閥を支持すると言えるでしょう。しかし、任務に当たっている時は飽くまでも立場は中立です」 「中立か‥‥‥」 「わたしらは部下たちに誰々の屋敷を見張れとは命じません。何事も起こらないよう、すべての屋敷を見張らせます」 「おお、それでいいんじゃ。すべての様子が知りたいんじゃ」と早雲は言った。 「はい、何か不穏な動きが起こった場合はすぐに知らせに参ります」 「お願いいたします。わしらがお屋形内をうろつくわけには行かんので、そなたたちが情報を知らせてくれると本当に助かるわ」 「はい」と二人は頷いたが、「しかし、今月一杯は知らせる事ができますが、来月からは難しくなります」と伯耆守は言った。 「なぜじゃ」と早雲は聞いた。 「一月交替で警固の場所が変わります。わたしは来月、詰の城に移り、兵庫頭殿は休みとなります」 「休みか。休みの時はどうするんじゃ」 「戦が起これば戦に行く事になりますが、戦がなければ、それぞれ、本拠地に帰ります」 「そなたも帰るのか」 「はい。今年は年末年始と休まずに詰めていたので、二月遅れの正月だと思って、のんびりするつもりです」 「そうか‥‥‥正月休みか。で、来月、本曲輪を守るのは誰なんじゃ」 「三番組です。頭は 「葛山備後守‥‥‥」 「はい、葛山播磨守殿の弟です」 「来月は葛山播磨守の弟が、ここの警固に当たるのか‥‥‥まずいのう」 「二の曲輪は?」と小太郎は聞いた。 「二番組です。頭は 「蒲原というと備前守派じゃな‥‥‥来月は情報を得るのは難しそうじゃのう」と早雲が言って、小太郎を見た。 小太郎は腕を組みながら絵地図に目をやったが、顔を上げると、「休みの者たちが警固に加わる事はできんのか」と聞いた。 「命令が下ればできます。というか命令に従わなければなりませんが、勝手に加わる事はできません。皆、自分たちの仕事に誇りを持っておりますから、違う組の者が命令もないのに警固に加わるとなれば、そこの勤務に当たっている者たちが黙ってはいないでしょう」 「それぞれの組が仲が悪いと言う事か」と早雲が聞いた。 「いえ、そうではなくて、 「成程のう。皆、奉公衆である事に誇りを持っておるんじゃな」 「はい」 「となると、今月中にけりが着く事を願うしかないが、それは難しいじゃろう。来月、葛山氏がここを警固するとなると、何となく危ない気がするのう」 「ああ、何事も起こらんとは言いきれんのう」と小太郎が言った。 「まあ、来月の事は置いといて、今月のこれまでの動きを聞こうか」 本曲輪を守る入野兵庫助の話によると、昼間は皆、おとなしくしているが、夜になると動きが激しくなると言う。特に、お屋形様の候補に上がっている三人の屋敷には、入れ代わり立ち代わり、人が出入りしている。人が出入りしていると言っても、重臣たちが直々に訪れているわけではなく、使いの者たちが書状を持って行き来しているらしかった。各自が重臣たちを自分の派閥に引き込もうと誘いを掛けているようだった。勝手に領地を与える約束をしているのかもしれない。しかし、今の所は武力に訴えようとしている者はいないようだった。 二の曲輪を警固している木田伯耆守の話によると、両天野氏、天方氏、葛山氏の屋敷にも、夜になると本曲輪からの使いの者たちが頻繁に出入りしていると言う。ただ、葛山氏と両天野氏の屋敷は近くにあるが、それらの屋敷の間を行き来している者はいないらしい。両天野氏と葛山氏が手を結べば、それだけで二千近くの兵力を持つ事となり、かなりの勢力となる。そして、彼らが小鹿新五郎を押す事となれば圧倒的に有利な立場に立つ事となる。絶対に天野氏と葛山氏を結び付けてはならなかった。 二人は今の状況を早雲たちに話し終わると、お屋形様となるべき人、竜王丸殿と対面した。 竜王丸は上段の間に北川殿と一緒に座り、二人を見下ろしながら、「今川家の事、よろしく頼むぞ」とはっきりした声で言った。 二人は竜王丸から直接に声を掛けられるとは思ってもいなかったので驚き、そして、畏まって頭を下げた。この瞬間に、二人は竜王丸殿をお屋形様にしなくてはならないと心から感じていた。 それは早雲が考えたものだった。今まで、竜王丸が直々に家臣たちと対面する事はなかった。しかし、お屋形様の候補に上がっている以上、なるべく表に出て、家臣たちに顔を覚えて貰わなくてはならなかった。たとえ六歳の子供であろうと、上段の間に座って、家臣たちに一声掛ければ、家臣たちは感激するものだった。そして、それは亡きお屋形様の事を思い出させる事にもなった。亡きお屋形様に世話になった者なら迷わず、竜王丸をお屋形様にしなければならないと思うに違いなかった。早雲は北川殿に、訪ねて来る者たちには身分の上下に関係無く、なるべく、竜王丸と対面してもらうよう頼んだ。 木田伯耆守と入野兵庫頭の二人は竜王丸と会い、感激しながら帰って行った。
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北川殿も最近、武将たちの出入りが激しくなっていた。 昼間は、お屋形様の屋敷で評定が続いているため訪れる者もあまりいないが、評定が終わる夕方頃になると、竜王丸派の武将たちが毎日、入れ代わり立ち代わり訪れて来た。 初めて訪れる武将たちは、五条安次郎または長谷川次郎左衛門尉に連れられてやって来る。今日も、次郎左衛門尉に連れられて遠江から来た天野民部少輔がやって来て、竜王丸と対面して、早雲たちと型通りの挨拶をすると帰って行った。民部少輔は早雲や小太郎と同じ位の四十代の半ば、小柄だが貫禄のある男で、温和そうで礼儀正しかった。 民部少輔が帰ると、久し振りに小鹿逍遙がやって来た。かなり疲れているようだった。逍遙は屋敷に上がろうとしたが、急に向きを変えて、早雲に手招きすると庭園内にある茶屋に向かった。早雲が茶屋に行くと逍遙は縁側に腰を下ろし、池を眺めていた。 「評定の方はいかがですか」と早雲は声を掛けながら逍遙の隣に腰を下ろし、池の中を眺めた。 数匹の鯉が気持ちよさそうに、のんびりと泳いでいた。 「もうすぐ、桜が咲くのう」と逍遙は言った。 「そう言えば、盛大な花見をやる予定だったとか聞いておりますが‥‥‥」 「予定じゃったが、今年は無理のようじゃのう。花見どころか、お屋形様の葬儀の日取りも決まってはおらん」 早雲は何も言わずに、逍遥の横顔を見つめていた。 「今の今川家の状態をお屋形様が見たら嘆かれる事じゃろうのう」と逍遥は言った。「皆、言いたい事ばかり言っておって、ひとつにまとめようと思う奴など一人もおらんわ‥‥‥しかも、わしの伜までもが重臣たちに躍らされて、お屋形様になる夢を見ておる‥‥‥」 「逍遙殿は反対なのですか」 「反対じゃ。備前守殿と摂津守殿が辞退したら、竜王丸殿が成人するまで伜が補佐するというのなら分かるが、備前守殿、摂津守殿と共に、お屋形様の座を争うなどとは以ての他じゃ。たとえ、お屋形様になれたとしても 逍遥は早雲の顔をちらっと見てから、また、池を眺めた。 「わしは子供の頃、今の竜王丸殿のように家督争いに巻き込まれたんじゃ。竜王丸殿と違う所は、叔父と甥で争うのではなく、わしは兄たちと争ったんじゃ。争ったと言っても、当時のわしはまだ七歳で、竜王丸殿と同じで何も分からん。大人たちの成すがままとなって、兄たちと争い、わしは駿府から追い出された。家督は上の兄が継ぐ事となり、わしは十一歳の時、ようやく、母親と一緒に駿府に戻る事ができた。駿府に戻って来ても、お屋形内に住む事はできず、小鹿の地で、母親と二人で暮らしておった。やがて、成人し、兄であるお屋形様に仕える事となったが、お互いに昔のしこりが消える事はなかった。当時も家中に派閥があって、お屋形様に反発する者たちが、わしの回りに集まって来るようになった‥‥‥若かったわしは、そんな取り巻きに囲まれて、いい気になっていた時期もあったが、いつも、心の中に風が吹いているような空しさがあったんじゃ。わしは心の中で、いつも武士をやめたいと思っておった‥‥‥やがて、お屋形様が亡くなった。お屋形様は亡くなる時、初めて、兄上として自分に接してくれた。兄上は、わしに子供の事を頼むと言って息を引き取った。わしは兄上に言われた通り、兄上の子であるお屋形様を補佐して来た。そして、お屋形様の供をして京まで行き、帰って来ると、わしは伜に無理やり跡を継がせて隠居した。もう、お屋形様も立派になったし、わしの役目は終わったと思ったんじゃ。伜はもう少し隠居をするのを待ってくれと頼んだが、わしは聞かなかった‥‥‥わしは伜を突き放すようにして、跡目を継がせたんじゃ。伜もようやく一人立ちができるようになったと、わしは喜んでいた。しかし、こんな事になろうとは‥‥‥」 逍遙は入道頭を撫でながら、池の中に浮かぶ水草を見つめていた。 「逍遙殿の本当のお気持ちをお教え願えませんか」と早雲は聞いた。 「わしの本当の気持ちか‥‥‥わしは竜王丸殿が跡を継ぐべきじゃと思っておる。そして、誰かが竜王丸殿の後見として、竜王丸殿が成人なさるまで、お屋形様の代行をしてくれる事を願っておる」 「誰かと言うのは」 「備前守殿じゃ」 「そのように話を進めてみたらいかがです」 「無駄じゃ。わしがそのように提案しても、竜王丸殿が跡を継ぐと決まった訳ではないと言われ、話はまた振り出しに戻る。毎日、評定を重ねていても、毎日、同じ事を繰り返しやっているだけじゃ。少しの進展もないわ」 「そうですか‥‥‥天遊斎殿も逍遙殿と同じ意見なのですか」 「同じじゃ‥‥‥天遊斎殿の方がわしより、ずっと参っている事じゃろう。跡継ぎの 「天遊斎殿の跡継ぎの方は大丈夫なのですか」 「肥後守殿の嫡男がおられるが、まだ十歳じゃ。しかし、三男の 「次男の方は?」 「次男は備中守殿じゃ。掛川城の城主になっておる。今更、戻るわけにも行くまい」 「そうだったのですか、備中守殿は天遊斎殿の次男でしたか」 「朝比奈家はそれでうまく行っておるのに、今川家はどうしようもないわ」 「これから、どうなって行くのでしょう」 逍遙は池を見つめながら首を振った。 「早雲殿、しばらく、ここにいさせてくれんか」と逍遙は顔を上げると言った。 「はい。構いませんが‥‥‥」 「情けない事に、今のわしには、ゆっくりできる場所がないんじゃ」 逍遙は力なく笑うとまた、池に目を落とした。 早雲は逍遙を茶屋に残すと庭に出た。寅之助と竜王丸が 屋敷の中では美鈴がお雪に字を習っていた。 早雲が縁側から屋敷に上がろうとした時、台所の方で甲高い悲鳴が聞こえた。 早雲は素早く、悲鳴のした方に向かった。台所に行くと、小太郎が仲居の桜井を抱き抱えていた。桜井は苦しそうに首を押えながら 小太郎は早雲を見上げ、首を振った。 悲鳴を聞いた者たちが台所に集まって来て、茫然と立ち尽くしていた。 早雲は春雨とお雪に指示して、女子供を台所から出した。 「毒殺じゃ」と小太郎は言った。 早雲は桜井が食べたらしい料理を眺めた。 「一体、誰が」と早雲が言った。 「とうとう、こんな騒ぎが起こってしまった‥‥‥」と逍遙が言った。 逍遙も悲鳴を聞いて、慌てて台所に来ていた。 「トリカブトじゃな」と小太郎は言った。「早雲、悲鳴を上げたのは長門じゃ。 「分かった」と早雲は頷いた。 「わしは、ここを片付ける。ここを清める事ができるのはわししかおるまい」 「そうじゃな。頼むぞ」 「この娘はどこの娘じゃ」と早雲は誰にともなく聞いた。 「三浦殿です」と答えたのは門番の小田だった。 「確か、三浦殿の 逍遙はすぐに三浦屋敷に向かった。 死んだとはいえ、重臣の姪である娘を土間に横たえて置くわけにはいかなかった。小太郎は娘を抱き抱えて、板の間の上に横たえ、 当時、死に対する恐怖は現代人が想像する以上のものがあった。死にそうな病人が出た場合は、病人は死ぬ前に屋敷から出された。身分のある者は 小太郎はさっそく 早雲は仲居の長門から事情を聞いたが、誰がいつ、毒を入れたものかまったく分からなかった。お屋形様の死の知らせを受けてから、早雲は仲居たちに交替で、北川殿の食事の毒味をさせていた。仲居たちが作った料理を仲居たちに毒味をさせるというのも変な事だったが、もしもの事を考えて、あえて命じた。仲居たちも絶対に安全だと思いながらも、朝晩交替して毒味をしていた。 今朝、毒味をしたのは西尾という仲居だった。今朝は何の異状もなかった。そして、夕食の毒味の担当だった桜井が死んだ。桜井は 早雲は侍女と仲居を全員集めて事情を聞いた。侍女の二人は食事作りには手を出さないが、毒を入れる事はできるので、一応、呼んでみた。三芳という仲居がいなかった。今日は休みで、朝から出掛けていて、まだ帰って来ないと言う。仲居たちの話によると、昼過ぎから料理の仕込みを始め、おおよその準備ができたので一休みしていたと言う。 彼女たちが作る料理は、北川殿母子を初めとして北川殿に仕える者たち三十人近くの食事だった。数が多いので、なかなか大変だった。朝早くから食事の支度を始め、食事が終わったら後片付けをし、また、夕食の支度にかかる。ほとんど、休む間もない程、忙しかった。 今日は久し振りに早めに準備が終わったので、ちょっと一休みをしていた時、あの騒ぎが起こったと言う。いつもは毒味は料理が出来上がった時、皆の見ている前で行なわれていたが、桜井と長門の二人はふざけて毒味をしたらしかった。 お吸い物を作ったのは休憩に入るすぐ前だった。そうすると、毒を入れたのは仲居たちが休憩に入って台所に誰もいなくなり、長門と桜井が台所に入って来るまでの 若い長門と嵯峨の二人は早雲の尋問の間、ずっと泣いていた。他の女たちも涙こそ見せなかったが、突然の事件に気が動転していた。いつも冷静な侍女の 台所には、すでに桜井の遺体はなかった。三浦氏から頼まれたという河原者たちが数人来て、丁重に運んで行った。 小太郎は仲居たちを一列に並ばせると、塩を掛けながら 早雲は門番たちの所に行き、一人一人から怪しい者を見なかったかと聞いてみたが、毒が入れられたとみられる時刻に、入って来た者も出て行った者もいなかった。 表門には清水、小島、大谷の三人が守り、裏門は小田と山崎の二人が守っていた。吉田、村田、久保、中河の四人は夜警なので、村田と久保は家に帰り、吉田と中河は侍部屋で休んでいた。吉田はさっきの悲鳴を聞いて、台所に飛び込んで来たが、中河はそんな騒ぎも知らずに、ぐっすり眠り込んでいた。 「いつから寝ておるんじゃ」と早雲は吉田に聞いた。 「昼頃かのう。仕事が終わって、朝方、久保と話をしていたようじゃったが、久保が家に帰ると酒を飲み始めて、昼近くになって寝たらしいのう」 「そうか。久保はいつ頃、家に帰ったのか分かるか」 「そうじゃのう。仕事が終わってから半時程、話し込んでいたかのう」 「村田は?」 「村田は仕事が終わったらすぐ帰ったが‥‥‥内部の者を疑っているんですかい」 「毒を入れたと思われる時刻に門を出入りしたものはおらんのじゃ。という事は、下手人は内部におるという事になるのう」 「やはり、竜王丸殿の命を狙っていたのかのう」 「じゃろうな」 「恐ろしい事じゃ‥‥‥しかし、その毒とやらは、どうやって手に入れたんじゃろうのう」 「トリカブトか‥‥‥小太郎の話によると、わりと簡単に手に入って、少量で人を殺す事ができるそうじゃ」 「恐ろしいのう」と吉田は身震いした。 「中河と村田と久保の三人は白じゃな。もう一人おらなかったか」と早雲は聞いた。 「ああ。山本の奴は今日は休みじゃ。明日は夜警じゃから、どうせ、明日の夕方まで帰って来んじゃろう」 「朝から出掛けておるのか」 「いや。昼過ぎまでゴロゴロしてたようじゃったが。どうせ、北町の遊女屋にでも行ったんじゃろう」 「浅間神社の門前か」 「そうじゃ。入れ上げている 「そうか‥‥‥まあ、一応、聞くが、怪しい奴を見なかったか」 吉田喜八郎は首を振った。 「じゃろうの。ここからじゃ裏口も台所も見えんからのう。それじゃあ、誰か毒を入れそうな者に心当たりはないか」 喜八郎はまた、首を振った。 「そうか‥‥‥敵が誰だか分からんが動き始めた事は確かじゃ。これからは何が起こるか分からん。今まで以上に気を付けて見張ってくれ」 「はい。畏まりました」と喜八郎は真剣な顔をして頷いた。 早雲も頷くと表門の方に向かった。
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屋敷に戻ると、三浦 早雲は座敷に入る前に板の間に座って、挨拶をしようとしたが次郎左衛門尉はそれを止めた。 「早雲殿、この際、挨拶は抜きじゃ。そなたも竜王丸殿の家臣になったと聞く。立場は同じじゃ。堅苦しい事は抜きにして詳しい事情を聞かせて下され」 早雲は頷くと座敷に上がり、次郎左衛門尉の向かいに座った。 「何者かが北川殿の召し上がるお吸物の中に毒を入れました」と早雲は言った。 「一体、誰がそんな事を」 「まだ分かりません」 「それで、どうして、そのお吸物をおそよ(桜井)が飲んだのじゃ」 「毒味をしました」 「おそよがか」 「丁度、桜井殿の順番だったのです」 「毎回、毒味をしておったと言うのか」 「はい。今朝も行ないましたが、今朝は何の異状もありませんでした」 「そうか‥‥‥下手人は分からんのか」 早雲は頷いた。「しかし、残念な事ながら内部の者の仕業らしいのです」 「内部の者?」 「はい。毒が入れられたと思われる頃、外部の者の出入りはないのです」 「北川衆が嘘をついているのではないのか」 「それは考えられます。北川衆が怪しいとすると、裏門を守っていた小田と山崎の二人と言えます。この二人が誰かを入れたか、あるいは、二人のどちらかが誰もいない台所に行って、毒を入れたと考えられます。ところが、山崎というのは斎藤氏です。斎藤氏は御存じの通り、竜王丸殿を押しております。斎藤氏の山崎が竜王丸殿の命を狙うとは考えられません」 「もう一人の小田というのはどこの者じゃ」 「矢部氏です。本人はどう思っておるのか分かりませんが、矢部氏は小鹿派でしょう」 「いや、矢部氏には二つある。 「矢部美濃守殿というお方がおられたのですか」 次郎左衛門尉は頷いた。「まさしく、おられたんじゃ。お屋形様と一緒に戦死なされた」 「そうだったのですか‥‥‥小田というのが、どちらの矢部氏なのかは分かりません。後で聞いておきます」 「いや、聞かなくてもいい」 「は?」 「思い出したわ。その小田というのは 「はい。そうですが‥‥‥」 「隼人正殿なら、そんな事をするはずはない。元、奉公衆の 「奉公衆の頭‥‥‥そうだったのですか、知りませんでした」 「他に怪しい者は?」 「はい。その二人の他に毒を入れる事ができたという者は、非番だった北川衆で侍部屋にいた者が三人おります。吉田、中河、山本です。その中の吉田は伊勢家の者で、北川殿と共に駿河に来た者です。絶対とは言えませんが、吉田が竜王丸殿の命を狙うとは思えません」 「あとの二人は?」 「中河は三浦殿の御存じの通り三浦殿の一族です。これも除いてもいいでしょう」 「わしと同族じゃからか」 「それもありますが、騒ぎのあった事も知らずに、今も 「寝た振りをしているのかもしれんぞ」 「その可能性もありますが、あんな大それた事をしておいて、寝た振りをしておるとは思えません。もし、わたしがそんな事をしたとして、悲鳴を聞けば、何が起こったのか心配でじっとしておられないでしょう。何食わぬ顔をして現場に行くような気がします」 「うむ、そなたの言う事も一理あるのう。それで、もう一人はどうなんじゃ」 「もう一人は 「庵原氏というと河合備前守派というわけじゃな‥‥‥女たちはどうなんじゃ。女でも毒くらい入れられるぞ」 「はい。しかし、女たちは白です。女たちは北川殿に食事を出す前に交替で毒味をするという事を知っております。もし、毒を入れるとすれば毒味が終わった後に入れるでしょう。まさか、仲居を殺すために毒を入れたという事は考えられません」 「そうじゃのう‥‥‥という事は北川衆のうちの誰かという事になるのか‥‥‥まあ、誰がやったにしろ、自分の意志でやったわけではあるまい。後ろで糸を引く者がおるはずじゃ。そいつが一体誰かじゃ」 「はい。しかし、恐ろしい事です。お屋形様がお亡くなりになり、まだ、葬儀も済んでおらんというのに、お屋形様の忘れ形見の竜王丸殿を亡きものにしようとたくらむ者がおるとは‥‥‥」 「ここまで来るとはのう‥‥‥誰の仕業か知らんが卑怯な手を使うわ。許せん事じゃ。多分、明日の評定の話題となる事じゃろう」 「もう、噂になっておりますか」 「多分のう。夜だったらともかく、まだ明るいうちから河原者たちが遺体を抱えて北川殿から出てくれば、噂をするな、と言っても無理じゃろう」 「そうですな‥‥‥」 「他の場所ならともかく、北川殿にいつまでも遺体を置いておくわけにもいかん。仕方なかったんじゃ。早雲殿、 「分かりました‥‥‥竜王丸殿にお会いになられますか」 「いや。今日のところは遠慮しよう。また改めて、お目通り願うわ。竜王丸殿の事、頼みますぞ」 三浦次郎左衛門尉は帰って行った。 次郎左衛門尉が見送りはいらんと言ったので、早雲はそのまま座敷に座っていた。 次郎左衛門尉と入れ違いに小太郎と富嶽が入って来た。 「三浦殿は何と言っておった」と小太郎が聞いた。 「桜井は病死という事にするらしいが、事実はすぐにばれる事じゃろうと」 「そうか‥‥‥美鈴殿が泣いておったわ」 「美鈴殿がか‥‥‥可哀想な事をしたわ‥‥‥台所の方は大丈夫か」 「ああ。さっそく、晩飯の支度をしておる」 「そいつはよかった」 「早雲殿、ちょっとした事じゃが、新しい事実が分かったんじゃ」と富嶽が言った。 「何じゃ」 「今日、休みの山本なんじゃが、二日前の日暮れ時、二の曲輪の方から来るのを見た者がおるんじゃ」 「二の曲輪から? 城下にでも行った帰りだったんじゃないのか」 「かもしれんのじゃが、山本はその日、昼番なんじゃ。仕事が終わって、何か用があって二の曲輪に行って、また、すぐに戻って来たという風なんじゃよ」 「誰なんじゃ、山本を見たというのは」 「中河です」 「中河と言えば、三浦氏じゃな」 「ええ。その日、中河は休みで、昔の仲間が駿府に来ているというので、三浦殿の屋敷に行っておったそうじゃ。三浦殿の屋敷は本曲輪の大手門の側にあるんじゃ。日が暮れたんで帰ろうと思ったら、大手門をくぐって来る山本を見たそうじゃ。中河は山本に声を掛けようと思ったが、山本は走って帰ってしまったそうじゃ。帰って来て、その事を山本に聞いたら、山本は人違いじゃろうと、とぼけたらしい。しかし、中河は絶対にあれは山本だったと言うんじゃよ」 「臭いな」と小太郎は言った。「二の曲輪というと葛山の屋敷がある」 「天野氏、天方氏の屋敷もある」と早雲は言った。 「山本という奴は、奴らとつながりがあるのか」と小太郎は聞いた。 「分からん。奴は庵原氏じゃ。庵原氏は河合備前守派じゃ。備前守派と言えば天野兵部少輔じゃが、兵部少輔はまだ来たばかりじゃ。山本とつながりがあるようにはみえんがのう」 「となると葛山か」 「それも分からんのう。とにかく、本人から聞くしかあるまい」 「まずは、その山本が第一候補と言うわけじゃな」 「早雲よ、門番たちは仲居たちが毒味をしておったという事を知らなかったのかのう」と小太郎は聞いた。 「知っておる者は知っておるじゃろうな。いや、あれだけ、何が起こるか分からんから、警固を怠るなと言って来たんじゃ。知らん方がおかしいと言えるのう」 「そうじゃろう。もう毒味を始めてから八日にもなる。同じ屋敷に住んでおりながら、そんな事を知らんはずがないわ」 「という事は、やはり外部の者の仕業と言うのか」 「どうやって忍び込んだのかは分からんが、その可能性も考えられるという事じゃ。例えばじゃ。この屋敷の門番と同じ格好をして、屋敷の回りをウロウロしておったとしても誰も怪しまんじゃろう。濠の中に何かを落とした振りをして、濠に木を渡し、濠を渡ったとしても怪しむまい。今のところ昼間の警固は表門と裏門だけじゃ。門番たちも昼間から賊が忍び込む事はあるまいと思って、橋の上まで出て回りを見張るという事はない。北面に関しては完全に盲点と言える。人通りも少ないしの」 「忍び込めると言うのか」 「忍び込める」 「忍び込んで、台所から人がいなくなるのを待っておったと言うのか」 「多分、蔵の裏に隠れておったのじゃろう」 「蔵の裏か‥‥‥確かに蔵の裏なら裏門を守る門番からは見えんし、台所の様子を見る事はできるのう。何か見つかったか。どうせ、もう調べたんじゃろ」 「残念ながら何も見つからん」 「誰かが隠れておったという証拠はなかったのか」 「あった。しかし、賊じゃない。多分、竜王丸殿と寅之助の仕業じゃろう。鉄菱が撒いてあるから塀の側には近づくなと言ってあるのに、言う事などきかん。弱ったもんじゃ」 「手掛かりは無しか‥‥‥最初からやり直してみるしかないのう」 早雲は屋敷内にいる者たちの名前を紙に書き並べた。 「一人づつ消して行くしかあるまい」 春雨が静かに入って来た。 「北川殿の御様子はどうじゃ」と早雲は春雨に聞いた。 「はい。ようやく、落ち着きました。子供さんたちを連れて、ここから出て行くとおっしっておりました。でも、どこにも行く所がないと言って泣いております」 「そうか‥‥‥ここから出て行くとおっしゃっておったか‥‥‥」 「そうじゃろうのう」と小太郎は言った。「身近にいた仲居が一人、毒をもられて亡くなったんじゃからのう。こんな恐ろしい所から逃げたいと思うのは当然の事じゃ」 「仲居たちはどうじゃ」と早雲は聞いた。 「悲しみを堪えて、仕事をしています」 「そうか、辛いじゃろうのう‥‥‥早い所、下手人を挙げないと、さらに犠牲者が出るかもしれんな」 「頭を使う事はおぬしにまかせるわ。わしはもう一度、見回りをして来る」と小太郎は言うと出て行った。 早雲は頷いて、小太郎を見送った。春雨も小太郎の後姿を見送っていたが、急に思い出したように、「早雲様」と声を掛けた。「今、台所を覗いて気づいたんだけど、毒はお吸物の中に入れたんじゃなくて、お塩とかお味噌とかに入れたんじゃないかしら」 「何!」と早雲は言うと、そのまま飛び出して行った。 富嶽もすぐに後を追った。 二人は台所に行くと、「毒味はしたか」と怒鳴った。 仲居たちは早雲の血相に驚いて、立ち尽くした。 最年長の和泉が首を振った。 「塩と味噌は使ったか」 「はい、それは‥‥‥」 「まだ、誰も食べてはおらんな」 「はい」 「毒味は待て、塩か味噌の中に毒が入っておったという事も考えられる」 「調べる方法はないものかのう」と富嶽が回りを見回しながら言った。 「小太郎じゃ。奴は薬の専門家じゃ。奴なら分かるじゃろう」 富嶽がさっそく、小太郎を呼びに行った。春雨と侍女の萩乃が台所の入り口の所に立って見守っていた。 しばらくして、小太郎は孫雲と才雲の二人に 「危なかったのう。もう少しで、もう一人死ぬところじゃったわ」 仲居の 「すまんのう。もう一度、作り直してくれ」と早雲は仲居たちに言った。「味噌なしでな。簡単な物でいい。北川殿も分かってくれるじゃろう」 小太郎は他にも毒を入れられそうな物はないかと調べていた。 早雲と富嶽は座敷に戻った。毒は見つかったが、下手人に関しては余計分からなくなっていた。
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