太田備中守1
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梅雨が終わり、暑い日が続いていた。 今川家は二つに分かれたまま、阿部川を挟んでの睨み合いが続いている。 今年の梅雨は例年に比べて雨量が多く、阿部川は倍以上の幅になって勢いよく流れていた。そんな阿部川を初めて見る小太郎は勿論の事、四年目になる早雲でさえ驚いていた。何度も川止めがあり、浅間神社に参拝に来た旅人たちは阿部川を挟んで立ち往生している。藁科川と阿部川の間に陣を敷いている主戦派の福島土佐守や岡部五郎兵衛も今年の阿部川の水量には驚き、戦どころではなかった。両方の川の水 梅雨も終わって、ようやく水嵩も減っては来たが、流れる位置が変わっていた。小鹿派が陣を敷いている二本の阿部川の間は広くなり、下流の方では二本の流れは近づいていた。藁科川も幾分、東の方に流れを変えていた。 両天野氏が竜王丸派に付かざる得ない状況となって、東遠江もようやく落ち着き、遠江勢の重臣たちも駿府に戻って来ていた。兵力から言えば竜王丸派が圧倒的に有利になっていても、戦を始めるわけにも行かず、かといって話し合いで解決する事もならず、膠着状態が続いたままだった。今の状況を変えるには何かが起こらなければ無理と言える。たとえば、外部の敵が駿河の国に攻めて来れば、今川家は一つにまとまる事も考えられるが、今川家を倒して駿河を乗っ取ろうとたくらむ程の有力な大名は回りにはいなかった。 残るは、小鹿派が助っ人に頼んだ相模の国の守護、 六月二十七日、ついに、扇谷上杉氏の軍勢が駿府にやって来た。 三百騎余りの軍勢を率いていたのは、扇谷上杉氏の家宰(執事)である太田 太田備中守が八幡山に陣を敷くと、待っていたかのように小鹿派の福島越前守が挨拶にやって来た。越前守は備中守を駿府屋形に迎えようとしたが、備中守は疲れたからと言って断った。越前守は八幡山の山中にある八幡神社内の 越前守は宿坊の客間にて備中守に今の状況を詳しく説明して、力になって欲しいと頼むと日暮れ前に帰って行った。越前守が帰った後には、越前守が差し入た数々の贈り物が山のように残った。その品々の中には関東ではなかなか見られない 備中守と越前守が話し合っている頃、石脇の早雲庵に、小太郎が備中守が来た事を伝えに来た。早雲はその事を小太郎から聞くと、「そうか‥‥‥太田備中守殿が来られたか」と大きく頷いた。 「三百騎程引き連れて八幡山に陣を敷いている」と小太郎は言った。 「八幡山にか‥‥‥駿府屋形には入らなかったんじゃな」と早雲は聞いた。 小太郎は頷いた。「しかし、分からんぞ。さっそく、福島越前守が出迎えに出掛けた。そのうち、お屋形の方に移るかもしれん」 「そうか、越前守が動いたか‥‥‥」 小太郎は浅間神社の門前町の家を出た後、早雲庵を本拠地として駿府屋形を探っていたが、距離があり過ぎて不便なので、駿府の城下のはずれにある木賃宿に薬売りの商人として泊まっていた。北川殿がお屋形から出た今となっては、山伏、風眼坊に戻る必要はなくなり、返って山伏姿でいれば、風眼坊を捜している葛山播磨守に見つかる危険もあった。小太郎は近江から来た商人に扮して、三浦次郎左衛門尉より貰った過書を利用して、お屋形内を自由に行き来していた。 「備中守殿が八幡山にいる内に会っておきたいものじゃな」と早雲は言った。 「おぬしが一度、会ったとかいう武将が備中守だといいんじゃがな」 「なに、こっちが覚えておっても向こうは覚えてはおるまい」 「栄意坊を連れて来れば良かったのう」と小太郎が、ふいに言った。 「栄意坊?」と早雲は 「やっと思い出したんじゃよ。太田備中守という名、どこかで聞いた事あったんじゃが、よう思い出せなかったんじゃ。それが、備中守が江戸城から来たと聞いて、ようやく思い出したわ。栄意坊の奴、江戸城に三年近くも 「何じゃと‥‥‥そいつは本当なのか」 「ああ。もう、十年以上も前の事じゃ」 「備中守にも会っておるのか」 「備中守の客人として江戸城におったそうじゃ」 「ほう。栄意坊がのう‥‥‥」 「詳しくは知らんのじゃが、栄意坊の奴、飯道山を下りて関東に旅に出て、 「ほう。そんな事があったのか‥‥‥」 「しかし、栄意坊がおらんのではどうしようもないのう」 「いや。本人がおらなくとも備中守と共通の知人がおるというのは大分、有利じゃ」 「まあな。今の状況では、おぬしも竜王丸殿の伯父という立場では備中守に会いに行けまい」 「越前守の兵もおる事じゃろうしな。備中守が会うと言っても越前守は許すまいのう」 「そこで、栄意坊の名を出して、以前、栄意坊が世話になったお礼を言うというのを口実に、山伏として備中守に会うというのはどうじゃ」 「わしも山伏になるのか」 「そういう事じゃのう」 「うむ」と早雲は頷いた。「そうするかのう。とにかく、一度、会っておけば、この先、有利となる事は確かじゃ」 「さっそく、今晩、出掛けるか」と小太郎は聞いた。 「今晩か‥‥‥栄意坊のお礼を言うのに、夜、訪ねるというのも変な話じゃ。怪しまれて断られれば、二度とその手は使えなくなる。明日の方がいいんじゃないかのう」 「そうじゃな。最初が肝心じゃ。 「ああ。明日の朝にしよう」 「ところで、富嶽たちがおらんようじゃが、どこかに行ったのか」と小太郎は聞いた。 「富嶽と多米、荒木の三人は朝比奈城じゃ」 「北川殿の警固か」 「いや、警固というより北川殿の武術指導じゃ」 「北川殿の武術指導? 竜王丸殿じゃろう」 「いや、北川殿じゃ。北川殿は今、武術に凝っておられるのじゃ」 「北川殿がか‥‥‥信じられん」 「わしも信じられんわ。あれ程、武術に熱中するとはのう」 早雲は北川殿に 「ほう。富嶽が弓術をのう。かなりの腕なのか」 「昨日、才雲が様子を見に行ったが、百発百中だと言う。多米や荒木など問題にならん程の腕らしい」 「人は見かけによらんもんじゃのう。富嶽が弓術の名人だったとはのう」 「ああ。頼もしい奴じゃ」 「富嶽が北川殿に弓術を教えておるのなら、多米と荒木の二人は何しておるんじゃ。あんな山の中に、あの二人がよくおられるもんじゃのう」 「山の中には違いないが、古くからの朝比奈殿の本拠地じゃ。城下には市も立つし、ちょっとした盛り場もある。博奕も打てるし、女も抱ける。ここにいるよりは羽根を伸ばせるんじゃう」 「成程な」と小太郎は笑った。「ここにおったんでは大っぴらに遊びにも行けんからのう。理由はどうであれ、しばらく、ここから出て遊びたかったという事か‥‥‥」 「そういう事じゃ。あの二人も奴らなりによくやってくれたからのう。今の所はここにおってもする事はないし、北川殿を守ってくれと一緒に行かせたんじゃ」 「山賊どもは何しておるんじゃ」 「毎日、泥だらけになって働いておるよ。奴らも変わったもんじゃ」 「何をやっておるんじゃ」 「梅雨時に川が 「ほう。奴らがのう。あの 「ああ。奴が先頭になってやっておるわ。最近は皆、顔付きまで変わって来ておる。奴らがここに来てから、なぜか、ここに子供らが集まって来るんじゃ」 「奴らはガキの面倒も見ておるのか」 「ああ。 「ただでか」 「無論じゃ」 「山賊がガキどもに読み書きを教えておるのか‥‥‥変われば変わるものよのう」 「まったくじゃ‥‥‥話は変わるが、小太郎、お雪殿がおぬしに会いたがっておったぞ。たまには、会いに行った方がいいぞ」 「わしも会いたいわい。しかし、北川殿の事を思うと、そうはしてられまい。早いうちに、竜王丸殿をお屋形様にして駿府屋形に戻って貰わなくてはのう」 「そうじゃのう‥‥‥まずは、何としてでも備中守殿を味方に付けなくてはならん」 日が暮れる頃、在竹率いる山賊らが汗と泥で真っ黒になって、どやどやと帰って来た。 早雲庵は急に騒がしくなった。 山賊たちが村人たちのために働くようになってから、頼んだわけではないのに、村の娘たちが早雲庵の飯の支度をしに来てくれていた。春雨とお雪がいなくなってから女気のなかった早雲庵も、村娘たちのお陰で、何となく華やいだ雰囲気となっていた。 小太郎も村娘たちの作ってくれた夕飯を御馳走になり、今晩はここに泊まる事となった。
2
日が暮れても、暑さは弱まらなかった。 縁側に出て、うちわを扇ぎながら、早雲と小太郎は酒をちびちびと飲んでいた。 山賊たちも仕事の後の酒を飲んでいるらしく、山の南側から賑やかな声が聞こえて来ていた。村娘たちもまだ、いるらしい。時折、甲高い笑い声が聞こえて来た。 そんな晩、珍しい客がやって来た。 一人の僧侶と見るからに浪人と分かる三人の武士だった。 僧侶は茶人の 「やあ、お久し振りです。暑いですな」と銭泡は笑いながら早雲たちに頭を下げた。 「銭泡殿‥‥‥一体、どこにおられておったのです」と早雲は驚いた顔をして銭泡を迎えた。 「はい。色々とありまして」と銭泡は笑った。「しかし、ここも随分と変わりましたなあ」 「ええ。住人が増えましたので‥‥‥」と早雲は銭泡の後ろにいる浪人を見た。 三人の浪人の内の一人に見覚えがあった。 早雲が頭を下げると、その浪人も頭を下げた。 信じられない事だったが、その浪人は太田備中守、その人に間違いなかった。着ているものは粗末な 「失礼ですが、太田備中守殿では」と早雲は浪人に声を掛けた。 浪人は頷くと、「早雲殿ですな。お噂は伏見屋殿から伺っております」と言った。 小太郎は、備中守がここにいる事が信じられない事のように状況を見守っていた。 「お二人はお知り合いでしたか」と銭泡は二人を見比べていた。 「いえ。知り合いと言える程ではありません」と早雲は言った。 「一度、お会いしましたな」と備中守は言った。 「覚えておいででしたか」 「確か、早雲殿は鹿島、香取に向かわれている時じゃった」 「はい。もう二年前の事です」 「伏見屋殿から早雲殿のお噂を聞き、もしや、あの時の御坊が早雲殿ではないか、と思っておったが、やはり、そうであったか」と備中守は笑った。 「不思議な事もあるものですね」と銭泡は早雲と備中守の顔を見比べた。 「たった一度しか会った事がないのに、しかも、お互いに名乗りもせずに、お二人とも、その時の事を覚えておられるとは、まったく、不思議な事じゃ」 「縁というものかもしれんのう」と備中守は言った。 「はい」と早雲は頷いた。そして、銭泡を見て、「しかし、驚きですな。銭泡殿が備中守殿を御存じだったとは」と言った。 「いえ、わしらも京で一度会っただけなんです」と銭泡は笑った。 「そうでしたか‥‥‥」 早雲は四人を庵の中に迎え入れ、孫雲と才雲の二人に簡単な酒の用意をさせた。 「それにしても、銭泡殿、よく、ここまで来られましたね。途中、大勢の軍勢が陣を敷いておられたでしょう」 「はい、驚きました。阿部川を挟んで、河原には武装した兵で埋まっておりました。運がよかったのです。阿部川を渡った所で、斎藤加賀守殿と出会いました。早雲庵に帰るところだというと、途中まで兵を付けてくれました」 「加賀守殿と出会いましたか、それは運がよかったですね」 「はい。備中守殿には早雲庵に居候しておる浪人者に扮していただきました」 「これは、わざわざ、どうも」 「いや。伏見屋殿よりお噂を聞き、ぜひ、お会いしたいと思っておりましたので、こうして付いて来たわけです。突然、お訪ねして申し訳ない」 「いえいえ、わたしらも明日、備中守殿にお訪ねしようと思っておったところです」 「そうでしたか」 「ところで、備中守殿は栄意坊を御存じとか」と早雲は聞いた。 「栄意坊‥‥‥懐かしいのう」と備中守は目を細めて言った。「いい奴じゃった‥‥‥今頃、どうしておる事やら‥‥‥早雲殿は栄意坊を御存じなのですか」 「はい。共に飯道山で修行した事もございました」 「飯道山か‥‥‥栄意坊から、その話はよく聞いたものじゃ」 「その飯道山の四天王の一人がここにおります」と早雲は小太郎を備中守に紹介した。 「風眼坊‥‥‥うむ、確かにその名は聞いた事ある。ほう、そなたが四天王の一人か‥‥‥懐かしいのう。それで、今、栄意坊はどこにおるんです」 「飯道山におります。飯道山で若い者たちに槍術を教えております」 「そうか‥‥‥まさか、早雲殿の口から栄意坊の名が出るとは夢にも思わなかったわ。世の中、広いようで狭いものよのう」 「まことに‥‥‥銭泡殿と備中守殿がお知り合いだったというのも以外な事です。しかも、こんな時に備中守殿と一緒に銭泡殿が帰って来るとは‥‥‥まったく、不思議じゃのう」 「わたしが村田 「そうでしたか、珠光殿のもとでお会いしておられたのですか」 「はい。わしも珠光殿から茶の湯を教わりたかったのですが、時がありませんでした。今回、伏見屋殿が江戸に来てくれましたので、珠光殿の茶の湯を教わる事ができました。長年の念願が 「そうでしたか‥‥‥」 「ところで、早雲殿、とんだ事になりましたなあ。おおよその事は福島越前守殿より伺いましたが、早雲殿のお考えをお聞きしたいのですが‥‥‥」 備中守は以外にも単刀直入に聞いて来た。早雲にとっても、その方が話し易かった。 「結論から申しましょう。わたしの願う所は、竜王丸殿をお屋形様にし、小鹿新五郎殿を後見とする事です」 「成程。竜王丸殿に小鹿新五郎殿か‥‥‥中原摂津守殿はいかがなさるおつもりじゃな」 「諦めていただくよりありません」 「今更、諦めるじゃろうかのう」 「今川家のためにも、諦めていただくより他に道はありません」 「うむ‥‥‥」と備中守は早雲の顔を見つめた。早雲の心の中まで探っているような目付きだった。 「備中守殿、備中守殿のお考えもお教え願いたいのですが」と早雲は聞いた。 「わしの考えのう‥‥‥わしの考えというよりは、上杉氏の考えとしては、今川家が元のように一つになってくれれば、それが一番いいと思っておるんじゃ。関東も今、利根川を境に東西に分かれて争いが続いておる。 「その事を聞いて安心致しました。備中守殿にお願いがございます。小鹿派の重臣たちを説得して頂きたいのですが‥‥‥わたしは竜王丸派の重臣たちを説得致します」 「竜王丸殿をお屋形様に、小鹿新五郎殿を後見という事でじゃな」 「はい。今の今川家を一つにするには、それしか方法はないようです」 「うむ」と備中守は頷き、しばらくしてから、「やってみましょう」と言った。 「ありがとうございます」と早雲は頭を下げた。「ただ、備中守殿がわたしに会ったという事は内緒にしておいた方がいいように思います。小鹿派の重臣たちも備中守殿のおっしゃる事なら聞くかもしれませんが、わたしが 「分かりました。わしが早雲殿と初めて会うのは、今川家が一つになる時という事ですな」 「はい。そう願いたいものです」 その後、小太郎より小鹿派の重臣たちのたくらみや、暗躍している山伏の事などを備中守に知らせた。 難しい話が終わると、銭泡の旅の事や備中守の江戸城の事や茶の湯、連歌の事など夜更けまで話し続け、夜明け前、備中守は銭泡と一緒に、小河湊から長谷川法栄の船に乗って阿部川の向う側に帰って行った。
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伏見屋銭泡が太田備中守を連れて早雲庵に訪ねて来るとは、早雲も小太郎も考えてもみない事だった。世の中、思ってもいない事が起こるものだと、二人は備中守と銭泡を送り出すと不思議がった。 銭泡は去年の九月、早雲と富嶽が京に向かった後、早雲庵を後にして関東に旅立った。駿河に滞在している時は、早雲と一緒にお屋形様を初め重臣たちの屋敷に招待されて、茶の湯の指導に当たっていた。重臣たちからは多額の礼銭を貰っていたが、困っている人たちのために使ってくれと早雲庵の留守を守っていた春雨に渡し、来た時と同じく無一文に粗末な衣だけを身に付けて関東に向かって行った。春雨には、年末には帰って来ると言って出て行ったが、結局、昨日まで何の連絡もなく、突然、物凄い 銭泡は箱根を越え、関東に入ると相模の国(神奈川県)を抜けて 初めて見る関東の地は広かった。見渡す限り草原が続いている。歩いても歩いても人家が見つからない事が何度もあった。それでも、村人たちは親切で、遠くから来た旅の僧を充分に持て成してくれた。 月日の経つのは早かった。 武蔵の国を抜け、 途中、戦の場面にも遭遇したが、京での戦を経験している銭泡の目には、何となく、戦ものんびりしているように思えた。土地が広いため騎馬武者中心の戦で、河原とか広い草原で行なわれるため、村々が戦の被害に会う事は 年の暮れ近く、武蔵の国を南下して、そのまま駿河の国に帰るつもりだったが、銭泡は腹をこわしてしまった。軽い食当たりだろうと歩き続けたが下痢が続いて体中の力が抜け、とうとう道端に倒れ込んでしまった。 これで、わしも終わりか‥‥‥ それもいいじゃろう‥‥‥ やりたい事はやって来た。そろそろ家族の待つ冥土とやらに旅立つか‥‥‥ 銭泡は覚悟を決めて目を閉じた。 悪運が強いのか、銭泡は助けられた。 銭泡を助けたのは 銭泡は自得軒の客間で目を覚まし、初めて道真を見た時、どこかの僧に助けられたと思って思わず合掌をした。しかし、道真は僧ではなかった。 道真の住んでいる隠居所は武家屋敷の作りで、家来も大勢いて、道真は若い側室と一緒に風雅に暮らしていた。隠居する前はかなり有力な武士だったに違いないとは思ったが、その正体は分からなかった。 銭泡が道真の正体を知ったのは正月の事だった。ひっそりとしていた自得軒が、年が明けると様々な人が挨拶に訪れて来た。そのほとんどが立派な身なりをした武士だった。武士たちの話から道真と名乗る老人が、元、 太田道真ともあろう人が、ただの乞食坊主である自分を助けて充分に持て成してくれた事に銭泡は心から感謝し、道真のために訪ねて来た客たちに茶の湯で持て成す事にした。 銭泡の茶の湯の 関東でも名のある武将たちは皆、村田珠光の名を知っていて、茶の湯を 正月には江戸城にいる息子、備中守も挨拶に訪れて来た。道真は得意になって息子に銭泡の茶の湯を披露した。備中守は目を丸くして驚いた。どうして、親父の所に珠光流の茶の湯を知っている者がいるのか信じられなかった。話をして行くと備中守と銭泡は京において面識があった。 銭泡が珠光の弟子になった年、備中守は上京して将軍義政に 備中守は、すぐにでも銭泡を江戸城に連れて行って茶の湯を習いたいと思ったが、父親の道真は銭泡を離さなかった。まず、わしが習ってからじゃ、と言い張り、とうとう、備中守は諦め、親父が習ったら絶対に江戸城にお送りしてくれと約束すると帰って行った。 銭泡は三月の初めまで道真の自得軒に滞在し、道真に茶の湯の指導をしながら、あちこちの武将たちの屋敷に招待されて道真と共に出掛けたりしていた。その間にも、江戸城からは、まだか、まだか、と何度も 江戸城は備中守によって二十年程前に建てられた城だった。当時の一般的な城とは異なり、山の上にあるのではなく、小高い丘の上に建つ城だった。当時は山の上に 当時、利根川は熊谷の辺りから南下し、岩槻の辺りで荒川と合流して江戸城の東を通って江戸湾に流れていた。この利根川を境にして関東は東西に分かれ、東側を古河公方が押さえ、西側を関東管領上杉氏が押さえていた。江戸城は下総、上総の敵に対するために建てられた前線に位置する城だった。 平川(神田川)を外濠に利用し、丘の上は深い空濠によって三つに区切られ、南側が 城下から坂道を上って大手門をくぐると、そこは広々とした外城となる。外城には大きな 中城には備中守の家族らの住む 根城は塀によって二つに区切られ、手前には奉行所を中心に重臣たちの屋敷や大きな蔵が並んでいた。向こう側には公式の場である広間を持つ 丁度、桜の花の満開の頃、江戸城に入った銭泡は根城の西側に建つ含雪斎に案内され、ここを我家と思って使ってくれと言われた。含雪斎は八畳敷きの部屋が四つからなる書院で、各部屋は豪華な絵の描かれた 江戸城には武将は勿論の事だが、武将以外の文化人の出入りも多かった。京から戦を避けて来た公家たちも何人か城下に住んでいたし、旅の禅僧、連歌師、芸人らが備中守を訪ねて集まって来ていた。中でも、江戸城のすぐ近くの品川津の鈴木 銭泡も道胤とは気が合い、道胤の案内で、各地の名所に連れて行ってもらったり、道胤の屋敷で催される 駿河守護、今川 六月になり、福島越前守の家臣が今川家のお屋形、小鹿新五郎の代理として江戸城を訪れた。備中守は家臣たちに出陣の準備を命令して、越前守の家臣と共に修理大夫が陣を敷いている 銭泡は、備中守が駿河に出陣する事を聞き、駿河で世話になった早雲の事を備中守に話した。早雲が先代のお屋形様の忘れ形見、竜王丸殿の伯父に当たる人だという事を知ると、備中守は興味深そうに早雲の事を色々と聞いて来た。銭泡は、早雲の事が心配なので、是非、自分も一緒に連れて行ってくれと頼み、備中守の軍勢と共に江戸城を後にし、駿河に向かったのだった。
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駿府の城下は混乱していた。 阿部川で小鹿派と竜王丸派の軍勢の睨み合いが続いているさなか、今度は関東から軍勢がやって来た。今度こそ、戦が始まるに違いないと城下に住む者たちは大慌てだった。皆、戸締りをして荷物をまとめ、近くに避難する場所のある者は逃げ、逃げ場のない者は、戦が起こらない事を祈りながら事の成り行きをじっと見守っていた。関東から来て八幡山に陣を敷いた軍勢は茶臼山の軍勢と同じく、不気味に駿府屋形を睨んだまま動かなかった。 やがて、七月になると、大将の太田備中守が駿府屋形に迎えられ、本曲輪の西南に建つ客殿、 茶臼山山麓に陣を敷いている堀越公方の軍勢の大将、上杉 望嶽亭も清流亭も、北川殿の側に建つ道賀亭も皆、濠に囲まれ、庭園を持つ二層建ての客殿で、将軍 清流亭では備中守を持て成すための準備に怠りなかった。福島越前守も葛山播磨守も備中守の機嫌を取るのに夢中だった。越前守は備中守を味方に引き入れるため、播磨守は今回の事より、さらに先の事を考えて備中守の関心を引こうとしていた。 備中守は清流亭に入り、二階の回廊からの眺めを楽しむと、御馳走の用意された広間には向かわず、 治部少輔は堀越公方、足利 治部少輔は機嫌よく備中守を迎えた。 治部少輔は二階から富士山を眺めながら、女たちに囲まれてお茶を飲んでいた。 治部少輔は酒が飲めなかった。酒が飲めないかわりにお茶にはうるさく、二十四歳まで京にいて将軍義政の側近く仕えていたため、 いい所に来た、是非、備中守殿のお 治部少輔は備中守の茶の湯の腕を知っている。女たちの見守る中で恥をかかせてやろうとたくらんでいたが、そのたくらみは見事に裏切られた。備中守は信じられない程の 治部少輔には信じられなかった。一体、いつの間に、これ程の腕を上げたのか、村田珠光、あるいは、その弟子が関東に下向して来たというのを聞いてはいない。もし、下向して来たとすれば、自分のもとに寄らないわけがない。備中守が一体、誰から習ったのか、まったく納得の行かない事だった。 「見事じゃな」と治部少輔はお茶をすすりながら言った。 「ありがとうございます。名人と言われる治部少輔殿に誉められ、稽古に励んだ甲斐がございました」と備中守は頭を下げた。 「備中、一体、どなたの指導を受けられたのじゃ」 「治部少輔殿は京の商人だった伏見屋殿を御存じでしょうか」 「いや、知らんが‥‥‥」 「伏見屋殿は村田珠光殿のお弟子さんです」 「ほう。珠光殿のお弟子か、その伏見屋から習ったと申すのか」 「はい。伏見屋殿は幕府にも出入りしていた商人でしたが、応仁の乱で店を焼かれ、頭を丸めて銭泡と名乗って関東にやって来たのです」 「思い出したわ」と治部少輔は手を打った。「伏見屋と言えばかなりの店構えじゃったが、伏見屋があの店をたたんだのか‥‥‥信じられん事じゃ」 「財産もすべて使い果して、無一文になって旅に出たそうです」 「ほう。無一文になってのう。関東に来たのなら、わしの所に寄ってくれれば歓迎したものを‥‥‥」 「伏見屋殿は乞食坊主として旅をしていたようです。あれだけの腕を持ちながら、茶の湯の事は一切、口には出さずに、腹を空かしながら旅を続けていたようです。わたしの親父が道に行き倒れていた伏見屋殿を助け、 「真の佗び茶というものを実践しておったという事か‥‥‥」 「そのようです。しかし、あそこまで徹底する事は、普通の者には真似のできない事でしょう」 「うむ‥‥‥それで、伏見屋はまだ越生におるのか」 「いえ。わたしと共に、この地に来ております。伏見屋殿は関東に旅立つ前、ここの先代のお屋形様にもお茶の指導をしたとの事で、お屋形様がお亡くなりになられたと聞くと、一緒に連れて行ってくれと‥‥‥今、清流亭におります」 「そうか、清流亭におるのか。備中、頼む。ここに伏見屋をよこしてくれ。積もる話もあるしのう。将軍様や珠光殿の事も聞きたいしのう」 「はい、かしこまりました」 「頼むぞ。それとのう、今川家の事もそなたに任せるわ。わしもやるだけの事はやったが、どうも、わしの手には負えんようじゃ。そなた、今川家をまとめてくれ。今川家が争いを始めたら伊豆の国も騒ぎ出して、公方様も危なくなる。公方様と言っても直属の兵が少ないのでのう。伊豆で騒ぎが起きたら静める事も難しい事となろう。何としてでも、今川家を元のようにしてもらわん事には困るのじゃ。頼むぞ」 「はい、かしこまりました。できるだけの事をするつもりでおりますが、治部少輔殿にも、何卒、この備中にお力添えをお願い致します」 「うむ。分かっておる。力が欲しい時には、いつでも言って来るがいい」 備中守は深く頭を下げると望嶽亭を後にした。 清流亭に戻った備中守は、銭泡に望嶽亭に行くように頼むと、三番組の頭、葛山備後守と三浦右京亮に代わって五番組の頭となった福島越前守の弟、兵庫助の待つ広間へと向かった。今回の宴は備中守の旅の疲れを 山のような御馳走を前に、綺麗どころの女たちに囲まれて備中守も機嫌よく酒を飲んでいた。浅間神社から芸人たちも呼ばれて、様々な芸が披露された。城下に住んでいる公家たちも手土産を持って備中守を訪ねて来ていた。相変わらず武装した兵が 夜も更け、宴もお開きとなると備中守はお気に入りの女に連れられ、二階に上がった。 二階には、すでに 「およの」と備中守は隣にいる娘の名を呼んだ。 「はい」とおよのは備中守の顔を見上げた。 「およのは今宵、命じられて、ここに来たのか」 「いいえ」とおよのは首を振った。「わたしがお父上にお願いして参りました」 「自分の意志で来たと申すのか」 「はい」 「なぜじゃ」 「わたしの夫となるべき人は、 「今川家のためにか‥‥‥」 「はい‥‥‥」 「そなたのお父上はどなたじゃな」 「石川 「そうか、越前守殿の御家来衆か」 「備中守様、今川家は前のようになるのでしょうか」 「うむ。難しい事じゃが、やらねばなるまい」 「わたしには難しい事は分かりませんが、お父上から備中守様の事は聞いて参りました。備中守様は関東で有名な立派な武将だとお聞きしました。備中守様なら今川家を一つにまとめて下さるだろうとお父上は言いました。どうか、お願いします、今川家を前のように戻して下さい」 「そなたの目は綺麗じゃのう」と備中守は言った。 およのは顔を伏せた。「申し訳ありません。余計な事を言ってしまいました」 「いや。世の中がこう乱れて来ると、女子といえども強く生きなければならん。自分の思った事をはっきりと口に出すのはいい事じゃ」 およのは顔を上げて、備中守の顔を見つめた。 備中守は空を見上げていた。 およのは備中守の横顔を見ながら不思議な人だと感じていた。どう不思議なのか分からなかったが、およのが今まで見て来た男の人とは違う種類の男のようだった。年は父親程も違うのに父親とは全然違って、その静かな横顔には 幸い、およのの席は備中守と離れていた。およのの隣には備中守の側近の若い侍が座った。その若侍は行儀正しくしたまま、およのに声も掛けなかった。およのの方も酒を注いでやる位で、ほとんど話もしなかった。このまま宴も終わるだろうと、ホッとしていた時、突然、およのは備中守に呼ばれて備中守の隣に座った。 備中守はおよのの名を聞くと、「いい名じゃ」と言ったが、それ以上の事は聞かなかった。ただ、およのの前に空になった酒盃を差し出すたびに、およのはそれに酒を注いでいた。 どうして、わたしなんかが呼ばれたのだろうと、およのは不安で一杯で、どうしたらいいのか分からなかった。宴が終わる頃、およのは隣に座っていた女から耳元で、備中守様を二階にお連れしなさいと命じられた。およのは言われた通りに備中守を二階に案内した。 二階に来て部屋の中の臥所を見た時、およのは恐ろしくてしょうがなかった。ここまで来てしまったら、もう逃げる事はできなかった。いっその事、ここから飛び降りて死のうかとも思った。しかし、備中守と二人きりで夜風に吹かれながら話をしているうちに、およのの感じていた不安や恐怖心は消え、もしかしたら、わたしはこの人と出会うために生まれて来たのかもしれないと、とんでもない事を真剣に思うようになっていた。 備中守はおよのの肩を優しく抱き寄せると部屋の中に入って行った。
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