酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







岡部美濃守







 藁科(わらしな)川の河原に赤とんぼが飛び回り、夜になれば秋の虫が鳴く季節となっていた。

 北川殿と竜王丸に会った数日後、太田備中守は中原摂津守の青木城下の客殿に入っていた。

 手引きをしたのは伏見屋銭泡だった。早雲庵にいた頃、銭泡は摂津守にも岡部美濃守にも茶の湯の指導をした事があった。銭泡は青木城下に行って摂津守と美濃守に会い、備中守が今川家を一つにするために、竜王丸派の重臣方と会う事を望んでいると告げた。

 摂津守も美濃守も備中守が駿府屋形に入ったと聞いて、やはり、小鹿派の味方をするつもりかと思っていたが、備中守が中立の立場として竜王丸派の意見も聞きたいと分かると、喜んで備中守を迎える事にした。備中守を味方にする事ができれば、小鹿派を倒す事もわけない。備中守に葛山播磨守(かづらやまはりまのかみ)の本拠地を攻撃して貰えば、播磨守は本拠地に帰らなくてはならなくなる。そうすれば、残るは福島越前守(くしまえちぜんのかみ)を何とかすれば、今川家は一つになる事も可能だった。美濃守はさっそく、備中守を迎える準備を始めた。

 備中守が青木城下の客殿に入ったのは七月二十四日だった。その日は清流亭の時と同じく歓迎の宴があり、重臣たちは顔を出さなかった。

 次の日、備中守は摂津守の屋敷内にて摂津守と対面し、同屋敷内の広間において竜王丸派の重臣たちと語り合った。

 岡部美濃守、朝比奈和泉守、斎藤加賀守、堀越陸奥守、三浦次郎左衛門尉、福島土佐守、長谷川法栄、天野兵部少輔、天野民部少輔、福島左衛門尉、朝比奈備中守、伊勢早雲らの、それぞれの意見を聞いた後、太田備中守は、これからどうするつもりか、と聞いた。

 美濃守は、備中守に是非とも味方になって小鹿派を倒す事を主張した。福島土佐守も美濃守の意見に賛成したが、他の者たちは同意しなかった。できれば、関東の軍勢の力は借りたくはないと誰もが思い、できれば話し合いによって事を解決したいと願っていた。

 早雲が、竜王丸をお屋形様とし、小鹿新五郎を後見という事にして、今川家を一つにしたらどうか、と提案した。美濃守は早雲を睨みながら顔を真っ赤にして怒った。摂津守派と竜王丸派を一つにまとめたのは早雲だった。その早雲が、今度は小鹿派と手を結ぼうと言う。摂津守派の美濃守が怒るのは当然だった。福島土佐守も早雲をなじった。天野兵部少輔も早雲のやり方は汚いと言い張った。しかし、元、竜王丸派の者たちは、それしか方法はあるまい、と早雲の意見に賛成した。

 ここに集まっている者たちは、まだ誰も早雲と備中守がつながっているという事を知らない。また、備中守が小鹿派の者たちに、竜王丸派と一つになるように画策(かくさく)している事も知らない。ただ、元、竜王丸派の者たちは前以て、早雲から相談を受け、小鹿派と手を結ぶ事に同意していた。

 備中守が駿府屋形に滞在していた頃、早雲は美濃守にそれとなく、小鹿派と手を結んだらどうかと聞いてみたが、そんな事、問題外じゃと相手にされなかった。摂津守派の岡部美濃守、岡部五郎兵衛、福島土佐守、この三人を落とせば、後はうまく行くのに、それは難しい事だった。早雲は自分の力でこの三人を落とす事ができないと悟り、備中守に頼んだのだった。備中守は青木城に入る以前から、この場に座る重臣たちの意見はすべて、早雲から聞き知っていたのだった。その日、備中守は皆の意見を聞くだけにとどまり、自らの意見は口に出さなかった。

 客殿に帰ると備中守はのんびりと湯を浴びた。湯から出ると、また御馳走攻めが待っていた。昨日に引き続き、広間には仲居たちが山のような料理をずらりと並べている。備中守はその様子を横目で眺めながら居間の方に向かった。

 居間では銭泡が待っていた。

「やあ、帰っておったか。御苦労じゃったのう」と備中守は銭泡をねぎらった。

 銭泡は今日も、上杉治部少輔を訪ねて望嶽亭に行っていたのだった。

「随分とご執心(しゅうしん)のようじゃな」と備中守は部屋を抜けると庭園に面した縁側に行って腰を下ろした。

「治部少輔殿がご執心なのはお茶よりも女子(おなご)です。まったく見てはおられません」と銭泡も縁側に行き、備中守の側に座った。

「ほう、女子にご執心か‥‥‥酒を召し上がらんお方じゃから、それも仕方あるまい。国元に帰られたら、今のような極楽な気分には(ひた)れまいからのう」

「まさに極楽です」と銭泡は苦笑した。「新しい女子が次から次へと参りますからね。しかし、お酒も召し上がらずに、よく、あんな真似ができると感心いたします」

「ほう、どんな真似をしておるんじゃ」と備中守は扇子(せんす)を扇ぎながら聞いた。

「それは、とても口に出して言えるような事では‥‥‥」

「何じゃ。勿体振らずに申してみい」

「それが‥‥‥」

「治部少輔殿の女子好きは有名じゃ。どうせ、破廉恥(はれんち)な事じゃろう」

「はい。破廉恥の極みと申せましょう」

「益々、聞きたくなったわい。教えてくれ」

「あの有り様を口ではとても申せませんが‥‥‥治部少輔殿は気に入った女子の(しも)の毛を剃るのがお好きのようで‥‥‥」

「何じゃ?」と備中守は目を丸くして、銭泡を見た。

「今日、わたしが訪ねた時、丁度、その最中でございました」

「その最中?」

「はい。その、剃っている最中でした」

「女子のあそこをか」

 銭泡は頷いた。

「おぬし、それを見たのか」

「どうしてもとおっしゃるもので‥‥‥」

「ほう、治部少輔殿が女子の股座(またぐら)を剃っているのを見たと申すか‥‥‥まさに破廉恥の極みじゃのう。それで、女子の方は喜んで、そんな真似をさせておるのか」

「いえ、剃られておる女子は恥ずかしくて泣いておりますが、見ている女子たちは自分も同じ目に会っておるので、中には囃し立てておる者もございます」

「そうか‥‥‥変わった事をする御仁じゃな。わしも一度、そんな光景を見てみたいものじゃ」

「およしになった方がよろしいかと存じます。剃られている女子が可哀想で見ておられません」

「そうか‥‥‥そうじゃろうのう。他にも変わった事をしておるんじゃろう」

「昼間からあの有り様です。夜になったら何をしておられるのか、わたしにはとても想像すらできません」

「じゃろうの‥‥‥それで、茶の湯の方はどうなんじゃ」

「はい。越前守殿から、かなり高価なお茶やお茶道具が届きますので、贅沢なお茶会をやっておられます。不思議なものでお茶会の時だけは女子の事もすっかり忘れて、まるで別人のように熱中しておられます」

「ほう。女子の事も忘れてか‥‥‥」

「はい。女子たちにも茶の湯を教えておりますが、まことに厳しい教え方でした。中には泣いてしまう女子もおりました」

「まったく不思議な御仁じゃ」

 備中守の接待役を仰せつかった木田伯耆守(きだほうきのかみ)が宴会の用意ができたと呼びに来ると、備中守は銭泡を連れて広間に向かった。

 広間には着飾った美女たちが並んで備中守を迎えた。

「こちらも極楽のようですな」と銭泡は備中守に言った。

「まさしく。わし一人ではとても手に負えん。伏見屋殿も極楽気分を味わってくれ」

「いえいえ、わたしは正月より、ずっと極楽気分でおります。あまり、いい思いばかりしておりますと乞食坊主に戻れなくなってしまいます」

「なに、今は成り行きに任せておればいい。地獄の覚悟さえしておれば極楽に溺れる事もあるまい」

 備中守と銭泡は若い女たちに囲まれて、山海の珍味を味わい、うまい酒を楽しんだ。

 備中守が青木城に滞在している間、趣向を凝らした宴会は毎晩行なわれた。清流亭にいた時もそうだったが、さすがに今川家の城下だと備中守は感心していた。江戸にいたら見る事のできないような芸人たちが豊富に揃い、歌人、連歌師、絵師などの文化人も数多く住んでいた。備中守は、今晩はどんな奴が現れるかと毎晩の宴会を楽しみにしていた。勿論、重臣たちの評定も数度行なわれたが、摂津守派は竜王丸派の意見には絶対に同意しなかった。







 風のまったくない、うだるような暑さだった。

 裏山では蝉が一時も休まず鳴きまくっている。おまけに(はえ)までもが、うるさくまとわり付いて来る。

 岡部美濃守は摂津守の屋敷の離れで、摂津守と摂津守の側室、朝日姫と会っていた。

 朝日姫は美濃守の妹だった。しかも、朝日姫は摂津守の長男と次男を産んでいた。摂津守の正妻は三州殿と呼ばれ、今川家の一族である三河の木田氏だった。正妻の三州殿には二人の娘がいたが、男の子には恵まれなかった。摂津守の跡を継ぐのは朝日姫の産んだ男の子だった。美濃守の甥に当たる子が摂津守の跡を継ぐ事になるので、美濃守は摂津守をお屋形様にしようと躍起になっていたのだった。

「何じゃと。早雲が小鹿派と手を結ぼうとたくらんでおるじゃと‥‥‥」

 摂津守は胸を広げて、扇子で風を入れていた。

「はい」と美濃守は頷いた。「竜王丸派の者たちは皆、早雲に同意しているようで‥‥‥」

「わしを見捨てて新五郎の奴を後見にすると言うのか」摂津守は苦々しい顔をして吐き捨てた。

「そのようですな」

「一体、どうなっておるんじゃ。約束が違うぞ。そなたは太田備中守を味方にすれば、小鹿派など蹴散らして、お屋形に入れるのも時間の問題じゃ、そう申しておったじゃろう」

「それが、備中守殿も煮え切らん。何を考えておるんだか、さっぱり分からんのじゃ」

「兄上様、どうなるんですの」と朝日姫が額の汗を拭きながら美濃守に聞いた。

「何とかする。何とかせにゃならん」

「そうじゃ」と摂津守は扇子で自分の膝を叩いた。「何とかせにゃならん。絶対に何とかせにゃならん。お屋形の座を諦めて、竜王丸の後見に収まったものを、今更、後見の座さえも諦められるか」

「そうよ、兄上様、何とかして下さいね」

「うるさい」と美濃守は蝿を扇子で払った。

「備中守を何としてでも味方にするんじゃ」と摂津守は怒鳴った。「備中守さえ味方にすれば、早雲など、どうにでもなる。備中守を味方にして葛山播磨守の本拠地を攻めるんじゃ。播磨守がいなくなれば後は越前守だけじゃ。越前守の本拠地、江尻津を攻めれば越前守も抜ける。そうなれば、お屋形にいる小鹿勢など簡単に蹴散らせるわ。のう、美濃、内密に備中守と会って備中守を口説き落とせ」

「兄上様、そうして、お願いよ」

 美濃守は摂津守と朝日姫を見ながら、決心を新たにすると頷いた。「分かりました‥‥‥やってみましょう」

 朝日姫の離れから去ると美濃守は城下の自分の宿所に帰って、使いの者を備中守の滞在する客殿に送った。使いの者はすぐに帰って来た。

 美濃守は備中守に会いに出掛けた。

 美濃守は木田伯耆守の案内で庭に面した一室に通された。

 部屋には誰もおらず、備中守が庭で刀を振っているのが見えた。縁側に一人の娘が座って備中守を見守っていた。美濃守の見た事のない娘だった。

「さすが、備中守殿ですな。武芸の方も怠りがないというわけですか」と美濃守は縁側に出ると庭の備中守に声を掛けた。

「これは美濃守殿、わざわざ、どうも。いや、いや、お陰様で最近、うまい物ばかり食べて綺麗所に囲まれておりますので体が鈍りましてな。このまま関東に戻ったら、戦どころではありませんからのう」

 備中守は刀を納めると、娘から手拭いを受け取り、汗を拭きながら、「美濃守殿、しばらくお待ち下さい。すぐに着替えて参ります」と言って隣の部屋に上がった。

 娘も後を追うように隣の部屋に消えた。

 その娘はおよのだった。清流亭を出る時、そのまま連れて来て、今では備中守の側室のように側に仕えていた。

 しばらくして、備中守はさっぱりした顔をして一人で現れた。

「わざわざ、お越し頂いて申し訳ない事です」と備中守は軽く、頭を下げた。

「当然の事です。備中守殿は大切なお客人ですから」

「ところで、急なお話とは?」

「はい。実は備中守殿の本心をお聞きしたいのです。このままでは、何度、評定を重ねたとしても結果が出るとは思われません。今の状況になる以前、駿府屋形において行なわれた評定とまるで同じです。このまま行けば必ず、誰かが武力に訴える事となるでしょう。備中守殿がこの先、どうしたいと考えておられるのか、そこの所をはっきりと伺いたいと思いまして、こうして訪ねて参ったわけです」

「わたしの本心ですか」そう言って備中守は少し間を置いてから、「本心をはっきりと言えば、戦は避けたいという事です」と言った。

「もっともな事です」と美濃守は頷いた。「戦を避けたいというのは我々としても同感です。しかし、今川家を一つにまとめるためには、最小限の戦は覚悟しなければならないとも思っております。我々としては備中守殿に我々の味方になっていただき、駿河に進攻していただきたいと願っております。葛山播磨守の本拠地を攻撃さえしていただければ、それだけで、我々は小鹿派を倒し、以前のごとく、今川家を一つにまとめる事ができます」

「ふむ。しかし、以前のごとくとはならんじゃろう。わしらとしても今川家のために、ただ働きするわけにはいかん。播磨守殿の本拠地位は恩賞として頂きたいものじゃ」

「はい。その事は当然の事として考えております」

「うむ。しかしのう、わしもその事は考えて播磨守殿に言ってみたんじゃ。播磨守殿も困っておられたようじゃったが、播磨守殿はなかなかの曲者(くせもの)じゃ。美濃守殿のお考え通りに筋が運ぶとは思えんのう。わしらが播磨守殿を攻めたとしたら、播磨守殿はあっさりと降参するじゃろう。そして、わしらの先鋒として駿府目指して攻めて来るじゃろうと見たがどうじゃな」

「うーむ。確かに‥‥‥確かに、それはあり得ますな。播磨守にとっては自分の領地さえ広がれば、今川家など、どうなろうとも関係ないと思っているに違いない」

「そうじゃろうのう。わしの見た所、播磨守殿は今川家が争いを続けていた方が都合がいいと思っているようじゃな」

「ふむ」

「それにのう、小鹿新五郎殿は扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の一族でもあるんじゃ。それがまた、厄介な問題じゃ」

「扇谷上杉氏が新五郎殿を応援しているという事ですか」

「まあ、そういう事じゃ。今、上杉氏は一つになって古河の公方様と対抗しておるが、上杉氏同士でも勢力争いのようなものがあってのう。今、関東の上杉氏は四つに分かれておるんじゃ。山内(やまのうち)、扇谷、犬懸(いぬかけ)宅間(たくま)の四つじゃ。中でも一番の勢力を持つのは関東管領(かんれい)である山内上杉氏じゃ。次が扇谷上杉氏というわけじゃ。山内上杉氏は、上野(こうづけ)、武蔵、伊豆の三国の守護職(しゅごしき)に就き、扇谷上杉氏は相模の守護職に就いておるんじゃ。扇谷上杉氏の当主は修理大夫(しゅりのたいふ)殿(定正)じゃが、修理大夫殿にも野心があるんじゃよ。山内上杉氏より強い勢力を持って、やがては関東管領になるという野心じゃ。そんな折り、駿河のお屋形様に一族の小鹿殿がなるかもしれないと聞き、修理大夫殿は駿河の国を扇谷上杉氏の勢力範囲にしたいと考えるのは当然の事じゃ。修理大夫殿は小鹿新五郎殿を駿河のお屋形様にするために、このわしをこの地に送ったというわけじゃ」

「それが本心だったのですか」

「いや。それは修理大夫殿の願望じゃ。修理大夫殿はそう願うが、実際問題として考えると、そううまく行くはずはない。わしらがここまで進攻して来て、そなたたちと戦って簡単に勝てるとは思えん。長期戦となるのは、まず間違いあるまい。わしらが駿河を手に入れようと、はるばる、こんな所まで来ているうちに、古河(こが)の公方様が暴れ出すのは目に見えている。わしらは挟み打ちにあった形となり、勢力を広げるどころか、勢力を弱める結果ともなりかねんのじゃ。実の所、わしらとしても、今、駿河に進攻して来る事など、できんというわけじゃ。しかし、今の状況が長く続けば、どうなるかは、わしには分からん。修理大夫殿が小鹿新五郎殿を助けるために駿河に進攻せよ、と命じれば、わしが止めようとしても無理じゃろうのう。そうなったら、わしは何としてでも関東の留守を守らなくてはなるまい」

「修理大夫殿は新五郎殿がお屋形様になる事を願っておりますか‥‥‥」

「そうじゃ。修理大夫殿が駿河進攻を命ずる前に、今川家を一つにまとめん事には、今川家は危ない事になりそうですな」

 美濃守は黙ったまま、庭の方を見つめていた。

「わしの調べた所によると、今川家には葛山殿だけではなく、西の方にも危険な者を抱えておるようですな」と備中守は言った。「上杉勢が駿河に進攻して来れば、それに呼応するように、西の方でも騒ぎが始まり、今川家は滅亡という事もありえますぞ」

「西の方の危険な者とは天野氏の事ですか」

「さよう。天野氏も葛山氏と同じく今川家の被官となってはいるが、今の領地は元々、今川家から貰ったものではない。自力で広げたものじゃ。今川家が弱くなれば当然、今川家には背く。いや、今川家が弱体化する事を願っているのかもしれんのう」

 美濃守は微かに頷いて、また庭に目をやった。

「美濃守殿、小さな欲に囚われていると大きな損を致しますぞ」と備中守は言った。

 美濃守ははっとして備中守を見た。

「ここの所は我を捨て、今川家の事を考えないと、とんだ事になってしまいますぞ。わしは何度か、美濃守殿のお噂は耳にした事があります。しかし、今回の美濃守殿の行動はどうも腑に落ちませんな。いつも公明正大である美濃守殿とは思えません。今川家のために、もう一度、考え直してみては頂けませんか」

 美濃守はしばらく黙っていたが、備前守を見つめながら頷いた。

「さて、話はこれ位にして、どうです、お茶でもいかがですか」と備中守は笑った。「美濃守殿もなかなか、お茶にはうるさいと伏見屋殿より聞いております。どうぞ、茶屋の方に用意させましたので、一服いかがです」

「はあ、どうも‥‥‥伏見屋殿がお茶を?」

「いえ、伏見屋殿も忙しいようで、今日もまた、望嶽亭の方に出掛けております。」

「望嶽亭というと、治部少輔殿の所へ?」

「はい、治部少輔殿も今川家が元通りに戻らない事には国元へは帰れず、毎日、苦しんでおられるようです」

「そうですか‥‥‥」

「さあ、どうぞ」

 美濃守は備中守に案内されるまま、庭園内に建つ茶屋に向かった。







 早雲庵を小雨が濡らしていた。

 暑い夏も終わりに近づき、秋になろうとしていた。昨日までの暑さが嘘のように、今日は肌寒かった。

 早雲が孫雲、才雲、荒川坊を引き連れて、早朝の海での一泳ぎから戻って来ると、以外な人物が早雲庵の縁側に腰掛けて待っていた。

 供侍を二人連れた岡部美濃守だった。

 美濃守は太田備中守と二人だけで会った時から、ずっと悩んでいた。確かに、備中守の言う通りだった。我欲を捨て、大局の立場に立って考えなければ、今川家を滅亡に追い込む事に成りかねなかった。しかし、頭では分かっていても、摂津守の屋敷に戻って、摂津守や妹、甥の顔を見て、何とかしてくれと迫られると、そう簡単に考えを変えられるものではなかった。

 備中守は半月程、青木城下の客殿に滞在して、また八幡山に帰って行った。その間、重臣たちの評定は数回行なわれたが、結論の出る事はなかった。福島土佐守と天野兵部少輔が小鹿派と手を組む事に猛反対していたが、美濃守は不気味に黙り通していた。

 備中守が八幡山に戻った後、美濃守は今川家のために我欲を捨てる決心をした。今川家を一つにまとめるには、早雲の言う通り、竜王丸をお屋形様にして、小鹿新五郎を後見とする以外にはなかった。摂津守を説得するのは難しい事は分かっていても、しなければならなかった。

 美濃守は朝から晩まで怒鳴りまくる摂津守と泣き(わめ)く朝日姫を相手にを説得に励んでいた。結局、摂津守は美濃守の言う事を納得しなかったが、半ば、諦めたかのように気落ちして行った。さらに、美濃守は摂津守派の者たちを集めて、一時も早く、今川家を一つにまとめなければならない、そのためには、摂津守殿には手を引いてもらうよりはないと言った。初めのうちは皆、美濃守の言う事を聞かなかったが、関東の上杉氏が駿河の国を乗っ取ろうと狙っている事を告げると、美濃守の力強い説得に耳を傾けるようになった。やがて、美濃守が諦めたのならしょうがないと皆、竜王丸をお屋形様にし、小鹿新五郎を後見とする事に賛成してくれた。話が決まると、それぞれが、それぞれの思惑によって行動を開始した。摂津守を諦めたとなると、早いうちに竜王丸派の者と接触をして、新しい今川家内での自分の地位を獲得しなければならなかった。昨日まで竜王丸派の者たちを相手に大声で怒鳴り合っていた者たちが、手の平を返すように竜王丸派の重臣たちに近づいて行った。

 美濃守は何とか摂津守派の者たちを説得すると、その事を竜王丸派の朝比奈和泉守に告げた。和泉守は、これで今川家も安泰じゃと喜び、早く早雲に伝えてやろうと言った。和泉守によると、竜王丸派では今回の事は早雲に任せてあるとの事だった。今回の事は早雲の裏での活躍があって、今の状況にまで来られた。もし、早雲がいなかったら竜王丸は殺され、小鹿派の思い通りになっていたに違いないと言った。噂では早雲が何やらやっていた事は知っていたが、改めて、和泉守から早雲の活躍を聞いて、美濃守は早雲という男を見直していた。

 早雲は竜王丸の伯父であった。普通なら、その立場を利用して今川家中に入って来て、堂々と自分の意見を主張するだろう。しかし、早雲は表に出る事はなく、今川家のために裏側で活躍していた。そんな早雲と自分を比べて、今川家の事も考えずに、ただ、妹の亭主であるというだけで摂津守をお屋形様にする事に固執していた自分が恥ずかしいと、今になって美濃守は後悔していた。美濃守は改めて早雲という男に会いたくなって、こうして、わざわざ、朝早くから早雲庵にやって来たのだった。

「美濃守殿、一体、どうしたのです」と早雲は驚いた顔をして聞いて来た。「こんな早くから。御用がおありなら、わたしの方から出向いたものを」

「いやいや、一度、そなたの(いおり)というものを見てみたかったのでな」と美濃守は言った。「来て見てびっくりしたわ。いくつも庵が建っておるんじゃのう」

「はい。初めは一つだったのですが、いつのまにか住人が増えまして、この有り様です」

「なかなか、いい所じゃ」

「はい。住み易いもので、つい、ここに腰を落着けてしまいました」

 美濃守は笑った。

 久し振りに笑ったような気がした。お屋形様が亡くなってから、毎日、権謀術数(けんぼうじゅっすう)の中に身を置いて、安らぎというものはなかった。早雲庵に来て、小雨の降る中、のんびりと早雲の帰りを待っているうちに、心は安らぎ、自然と口がほころんで来たのだった。

「この雨の中、海の方に行かれていたとか」と美濃守は聞いた。

「はい。ここにいる時は毎朝、海で泳ぐのを日課にしております」

「ほう。泳いでおったのか‥‥‥さぞ、気持ちいい事じゃろうのう」

「一度、始めたら病み付きになります」

「そうか‥‥‥」

「どうぞ、狭い所ですがお上がり下さい」

 美濃守は部屋に上がると部屋の中を見回した。余計な物など何もないと言ってもいい程、質素な暮らし振りだった。美濃守は早雲が茶の湯を(たしな)む事を知っている。美濃守は早雲が住んでいる早雲庵とは村田珠光流の茶室だろうと思っていた。床の間があり、壁には有名な山水画が掛かり、違い棚には名物と呼ばれるような茶道具が並んでいるものと思っていた。しかし、実際の早雲庵には床の間も違い棚もなく、まして、名物と言われる程の茶道具など、どこにも見当たらない。ただ、壁に表装もしていない富士山の絵が飾ってあるだけだった。

「早雲殿。摂津守殿は後見の座を降りる事に致しました」と美濃守は言った。

「えっ? まことですか」と早雲は信じられないといった顔をして聞いた。

 美濃守は頷いた。「今川家のために」

「そうですか‥‥‥摂津守殿が身を引いてくれましたか。ありがたい事です。これで今川家は一つに戻れます。ほんとに喜ばしい事です」

 早雲は心から喜んでいた。よかった、よかったと何度も言っていた。

「そこで、早雲殿、この事を太田備中守殿に伝えてほしいんじゃが」と美濃守は言った。

「畏まりました」と早雲は頷いた。「銭泡殿が備中守殿のもとにおります。銭泡殿の手引によって備中守殿と会う事はできると思います」

「うむ。しかし、銭泡殿が備中守殿と一緒に駿府に来るとは驚きましたな」

「はい。わたしも驚きました。銭泡殿が備中守殿を知っておったとは」

「ところで、こちらの意見は一つになったが、果たして、小鹿派の者たちがお屋形様の座を竜王丸殿に譲るじゃろうかのう」

「分かりません。しかし、福島越前守殿は同意する事と思います。問題は葛山播磨守殿がどうでるかですね。備中守殿がうまく話を付けてくれる事を願うしかありません」

「確かに‥‥‥早雲殿、お聞きしたいのじゃが、前以て、備中守殿と会っていたのではないかのう」

 早雲は美濃守を見つめながら、「どうしてです」と聞いた。

「銭泡殿じゃ。備中守殿と一緒に銭泡殿も帰って来たとすれば、銭泡殿が早雲殿を訪ねないわけがない。そして、銭泡殿から早雲殿の事を聞けば、備中守殿は内密に早雲殿に会いに来たのではないかと思えるんじゃ」

「成程、さすがですな」と早雲は笑った。「確かに、銭泡殿が備中守殿をここにお連れしました」

「やはり。という事は備中守殿は早雲殿の意見に同意して、その考えのもと、行動していたという事じゃな」

「はい、そうなります。備中守殿も戦にならないように、今川家をまとめようと考えておいででしたので‥‥‥」

「成程のう。備中守殿といい、早雲殿といい、なかなかの名将ですな。今回、今川家の重臣たちは、お二人には頭が上がりませんのう」

「いえ、わたしの立場としては、こうするしかなかったのです。美濃守殿がわたしの立場だとしたら、やはり、同じような事をした事でしょう。ただ、備中守殿は確かに名将と呼ぶにふさわしいお人です」

「確かに」と美濃守は言って、苦笑した。「わしもその事はこの前、二人きりで会った時、嫌という程、思い知らされたわ」

「二人きりでお会いになったのですか」

「備中守殿を味方に引き入れようと勇んで出掛けたが、備中守殿にこてんぱんにやられたわ。やはり、関東のような広い地を舞台に活躍している武将は考える事が大きいわ。備中守殿の話を聞いておると、自分の考えていた事があまりにも小さかった事を思い知らされた。まったく情けない事じゃ」

「備中守殿は常に自分の立場を見極めた上で、相手の立場も充分に考えておられます。相手の立場に立って考えると敵の裏をかく事も可能だと言っておりました」

「相手の立場に立つか‥‥‥言ってしまえば何でもない事じゃが、実際の戦において、それを実行して行く事はなかなか難しい事じゃ。つい、自分の策に(おぼ)れて、敵を(あなど)ってしまう。いつも、冷静な目で自分と敵を見つめて行く事は至難な事じゃな」

「はい。確かにそうです」

「早雲殿、お願いしますぞ。備中守殿と共に小鹿派を説得して下され」

「はい。畏まりました」

「何やら、ここにいるとホッとするのう」と美濃守は外を眺めながら言った。

「駿府とは一山離れておりますから、こちらは静かです」

「いや、それもあるがのう。何となく、新鮮な雰囲気があるのう、ここには」

「そんなもんですか‥‥‥」

「和尚さん、おるかね」と近所の村人が、いつものように訪ねて来た。

「お客のようじゃが」と美濃守が言った。

「いえ、いいんですよ」と早雲は笑った。「別に用があるわけではないんですから」

 村人は早雲庵の中をチラッと覗くと、「お客さんですか、失礼、失礼」と言いながら消えた。

「何者じゃ」

「近所の者です。よく遊びに来るんですよ」

「遊びに?」

「はい。いつの間にか、ここは、この辺りの村人たちの寄り合い所みたいになってしまって、年寄り連中やら子供たちが集まって来るのです」

「ほう、村の寄り合い所か‥‥‥早雲殿も変わっておるのう」

「いえ。わたしはただの僧ですから、村人たちの中に入って行かないと、ここで暮らして行くわけには行きませんので」

「失礼じゃが、お屋形様のお世話になっていたのではなかったのか」

「いえ、こちらに移ってからは、その件はお断り致しました。住む所さえあれば、わたし一人、食う事位、何とでもなりますから」

「そうじゃったのか‥‥‥」

「わたしが今までここで暮らして来られたのも、村人たちのお陰だったというわけです」

「ふーむ。そなたも欲のないお方よのう。先代のお屋形様に頼めば、立派な寺の一つも建ててくれたじゃろうに」

「性分と申しますか、わたしはどうも大きな屋敷というのは苦手でして、この位の庵が一番、住み良いのです。それに、立派な屋敷を持ちますと屋敷に縛られてしまいますから」

「屋敷に縛られる?」

「はい。わたしはよく旅に出ます。旅に出る時も、ここはいつも開けっ放しです。旅から帰って来ると、必ず、見ず知らずの者が我家のごとくに住んでおります」

「見ず知らずの者がここにか」

「はい。でも、わたしはそれでいいと思っております。誰でも気軽に利用してこそ、この庵も価値があると思っております。わたしは旅に出ると、この庵の事はすっかり忘れてしまいます。旅に出た時は旅の事しか考えず、もし、別の地に落ち着く事になったとしても、それはそれで構わないと思っております。ところが、立派な屋敷に住んでおりますと色々な物を集めます。それは、やがて財産となり、もし、旅に出るとすれば厳重に戸締りをしなければなりません。そして、旅の間にも屋敷の事が心配となるでしょう。必ず、屋敷に帰って来なくてはならなくなるでしょう。屋敷に縛られる事になるのです」

「成程、本来無一物の境地でいたいという事じゃな」

「その通りです。なるべく、その境地の近くにおりたいと願っております」

 急に賑やかな娘たちの声が聞こえて来たかと思うと、どやどやと娘たちが台所に入って来た。おはようございます、と元気よく早雲に挨拶をすると、それぞれが抱えて来た野菜やら米やらを使って食事の支度を始めた。

「いつも悪いのう」と早雲は娘たちに礼を言った。

「ここにも、下女はちゃんとおるようじゃのう」と美濃守は娘たちを見ながら言った。

「いえ、下女ではありません。村の娘たちが、わざわざ、食事を作りに通ってくれておるのです」

「村の娘が、ただでか」

「はい。その代わり、ここにいる者たちが毎日、村に出て行って、村人たちのために働いております」

「ほう、浪人風の者たちが何人かいたようじゃったが、奴らが村に出て行って働いているというのか」

「はい。村人たちのために河川の堤防を築いたり、用水を引いたり、朝から晩まで泥だらけになって働いております」

「あいつらがか。信じられんのう。奴らもただ働きなのか」

「銭にはなりませんが、村人たちからは充分な差し入れがございます」

「ふむ‥‥‥早雲殿、そなたは変わっておられるのう。伊勢家という名門の出でありながら、百姓どものために働いておるとはのう」

「時代はどんどん変わって来ております。これからは土地を直接に耕している百姓たちを大切に扱わないと、彼らも国人たちと手を結び、守護大名に反抗して来る事でしょう。すでに、近畿の方では、力を持った国人たちが百姓たちと共に大名に反抗するという事が頻繁(ひんぱん)に行なわれております」

「一揆という奴じゃな」

「はい。一揆です」

「この駿河では、そんな事は起こらん」

「はい。そうは思いますが油断は禁物です。新しい今川家は以前よりも増して、家臣たちが団結しなければならないと思いますが」

「それは勿論の事じゃ。二度と分裂しないように、しっかりと家中をまとめなくてはならん」

 美濃守は村娘たちの手作りの料理を食べると帰って行った。それは決して贅沢な食事とは言えないが、気持ちのこもった暖かい料理だった。





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