五条安次郎
1
山々が色付き始め、あちこちで、冬の準備が始まっていた。 十月になって、太田 重臣たちも一人、二人と国元に帰って行った。遠江から来ていた者たちは、天野氏も含め、皆、帰って行った。蒲原越後守、由比出羽守、矢部 葛山播磨守は備中守と会ってから、まるで、人が変わったようだった。もしかしたら、早雲を暗殺するかもしれないと思われる程、早雲と敵対していたくせに、清流亭で会ってからは手の平を返すように、親しみを持って、やたらと早雲に近づいて来た。 早雲殿、早雲殿と言って、毎日のように用もないのに、北川殿に訪ねて来ては世間話をしていた。今川家の重臣たちも、その変わりように呆れていた。 初めのうちは早雲たちも、また、何かをたくらんでいるに違いないと警戒していたが、播磨守の態度は、見ていておかしくなる程、素直だった。まず、初めに気を許したのは北川殿だった。北川殿は、播磨守が 最後の日、播磨守は北川殿に別れの挨拶をしに来た。早雲たちに是非、葛山に来てくれと勧め、正月にまた来ると言って、八ケ月も滞在していた駿府を後にした。 早雲と小太郎は播磨守を城下のはずれまで見送った。 「おかしな奴じゃったのう」と小太郎は馬上の播磨守を見送りながら言った。 「まったくじゃ」と早雲は苦笑しながら頷いた。「あんな奴は初めてじゃ」 「策士には違いないが正直者じゃ。自分が正しいと思えば、とことんやり通すが、間違ったと気づけば、すぐに間違いを改めるという奴じゃな」 「らしいのう。人の上に立つ者は正直でないと家来たちが付いては来んからのう。ああいう大将の家来になった者は働きがいもあるじゃろうのう」 「ぼやぼやしておると、小鹿新五郎の奴は、あいつに駿河の半国、取られる事に成りかねんぞ」 「新五郎だけじゃない。竜王丸殿も立派な大将に成らなかったら、奴に駿河を取られるかもしれん」 「立派な大将に成らんと思うか」と小太郎は早雲を見た。 「いや。なる」と早雲は力強く頷いた。 「わしもそう思うわ。なかなか利発な子じゃ。ただ、これからは並の大将では生きては行けんじゃろう。備中守殿も言っておられたが、名門というだけでは駄目じゃ。名門である事を忘れ、民衆たちの心をとらえ、国人たちを含めて、民衆たちを一つにまとめなければならん」 「本願寺の蓮如殿のようにか」 「まあ、そうじゃが。直接に民衆たちの中に入って行くお屋形様でなくてはならんのじゃ。お屋形様が百姓たちと直接、話をしたからと言って、お屋形様の価値が下がるわけではない。お屋形様は何をやってもお屋形様なんじゃ。身分など関係なく、すべての者たちの事を親身に思えるようなお屋形様になって欲しいんじゃ」 「小太郎、おぬし、竜王丸殿が成人するまで、ここにおってくれんか」と早雲は言った。 「なに?」と小太郎は早雲を見た。本気で言っているようだった。 「後十年もここにおるのか」と小太郎は少し戸惑ったような顔をして、早雲に聞いた。 「ここにおって竜王丸殿を導いてやって欲しいんじゃ。勿論、わしもやる。しかし、世の中は色々な見方があるという事を教えるには、色々な人が回りにおった方がいいと思うんじゃ。なに、改まって何かを教えなくてもいい。時々、側に行って、それとなく教えてやればいい。どうじゃ、やってくれんか」 「先の事までは分からんのう。十年と言えば長いからのう。後、十年、生きられるかも分からん。まあ、当分はここにおるとは思うがのう」 「うむ。頼むぞ」 二人が北川殿に帰ると五条安次郎が待っていた。 安次郎は引き続き 「ご無沙汰しております」と安次郎は早雲と小太郎に言った。 何となく、いつもの安次郎ではないような気がした。 「どうしたんじゃ。何かあったのか」と早雲は安五郎の顔を覗き込んだ。 「いえ。別に‥‥‥」と安次郎は首を振った。 「小鹿新五郎殿が何かをたくらんでおるとでもいうのか」と小太郎が聞いた。 「いえ。新五郎殿は何もしておりません。うるさい重臣たちもいなくなったと、今頃はのんびり、昼寝でもしておられるでしょう」 「昼寝とはいい気なもんじゃのう」と小太郎は笑ったが、早雲は真顔で、「五条殿」と声を掛けた。 「五条殿の目から見て、新五郎殿は竜王丸殿が成人なさる十年間、立派に今川家を治める事ができると思うか。正直に答えてくれ」 「それは大丈夫だと思います」と安次郎は答えた。「重臣たちが一つになって、新五郎殿を守り立てて行けば、今川家は安泰だと思います」 「そうか、それを聞いて安心じゃ」 「早雲殿」と今度は安次郎が真顔で早雲に声を掛けた。「今日は、相談したい事がありまして参りました」 「何じゃ」と早雲は安次郎を見た。 安次郎は早雲と小太郎を見てから、視線をそらして、「実は、今川家をやめたいと思っております」と言った。 「なに、やめる?」早雲も小太郎も驚いて、安次郎を見つめた。 「はい」と安次郎は頷いた。「これは突然、思い付いた事ではないのです。前々から考えていた事なのです」 「連歌の道に入るという事か」と早雲は聞いた。 「はい。今が一番いい機会のような気がします。今を逃したら、もう、自分は好きな連歌の道に入れないような気がするのです」 「うむ。確かに、今はいい機会とは言えるが‥‥‥」 「実は、もう決心しました。早雲殿には一言言ってから旅に出ようと思いまして‥‥‥」 「そうか‥‥‥決心してしまったのなら仕方がないのう。自分が決めた道を行くしかあるまい」 「はい‥‥‥」 「新五郎殿の許しは得たのか」 「はい」 「そうか‥‥‥新五郎殿は引き留めたか」 「いえ。やめたいと言ったら、ただ頷いただけで、訳も聞きませんでした。竜王丸派だった自分がいなくなって清々している事でしょう。祐筆は何人もおりますから」 「そうか‥‥‥それで、これから、どうするつもりなんじゃ」 「とりあえず、京に出て 「そして、弟子になるのか」 「はい、必ず」 「そうか」と早雲は頷いてから、小太郎の方を見て、「五条殿に嬉しい知らせと嬉しくない知らせがあるんじゃ」と言った。 「何ですか」と安次郎は二人を見比べた。 「今回の騒ぎで言いそびれてしまったんじゃが、実は、この前の旅の時、わしは宗祇殿とお会いしたんじゃよ」 「えっ! 早雲殿が宗祇殿と?」 安次郎は飛び上がらんばかりに驚き、目の色まで輝いていた。 「小太郎も一緒じゃった」 「早雲殿は宗祇殿を御存じだったのですか」 「いや、偶然だったんじゃ。宗祇殿は今、近江 「近江の甲賀におられるんですね」 「そうじゃ。ただ、宗祇殿は弟子は取らないそうじゃ。嬉しくない知らせとはその事じゃ」 「えっ、どうしてです。もう弟子はいらないという事ですか」 「もう、じゃなくて、まだ、じゃ」と小太郎が言った。 「まだ?」 「わしらも驚いたんじゃが、宗祇殿は、自分はまだ修行中の身と言って、弟子をお取りにならんそうじゃ」 「えっ? という事は宗祇殿には、今までお弟子さんはいなかったと言うのですか」 「そうらしいのう。今、 「夢庵殿?」 「おお。面白い男じゃ」と小太郎は笑いながら言った。 「面白いし、ちょっと変わった男じゃな。きっと、五条殿と気が合うに違いない」と早雲も笑っていた。 「夢庵殿ですか‥‥‥」 「年の頃は三十の半ばという所かのう。五条殿より少し年上じゃな。しかし、いい男じゃ」 「わしの弟子に太郎坊というのがおってのう」と小太郎が言った。「今、赤松家の武将になっておるが、その太郎坊と夢庵殿が知り合いになってのう。夢庵殿を通じて宗祇殿に出会ったというわけじゃ」 「夢庵殿は連歌だけじゃなく、茶の湯も一流らしい」と早雲が言った。「村田 「へえ。ほんとに面白そうなお人ですね。是非、会ってみたいものです」 「うむ。わしらから夢庵殿に手紙を書いてやる。夢庵殿を訪ねて行かれるがいい。後は、そなた次第じゃ。わしの見た所、宗祇殿の弟子になるのは並大抵ではないと思うが、やるだけ、やってみるさ。それと、五条殿、 「はい。噂だけは聞いておりますが、何でも、突拍子もない事を平気でやる禅僧だとか‥‥‥しかし、偉い和尚さんだと伺っております」 「うむ。確かに偉い。一休殿は本物の禅を実行している唯一のお方じゃろう。宗祇殿も珠光殿も一休殿のもとで禅の修行をなさっておるのじゃ」 「宗祇殿が一休禅師のもとで修行なさったのですか」 「そうじゃ。他にも、能の役者だとか、絵師だとか、一流の芸人たちで、一休殿のもとで修行した者は多い。本物の禅は、すべての道に通じるものがあるんじゃよ。もし、そなたが一休禅師のもとで修行する気があれば訪ねてみるがいい。そなたがこの先、どんな道に進むにしろ、一休禅師のもとで修行をした事は必ず、役に立つ事じゃろう」 「早雲殿はやはり、一休禅師のもとで修行していたのですね」と安次郎が聞いた。 「修行という程の事もしてはおらんが、わしが、こうして頭を丸めたのも、一休殿の影響というものじゃな」 「そうだったのですか‥‥‥」 「わしが手紙を書いてやる」 「ありがとうございます。わたしは本当に幸せです」 安次郎は感激して、目に涙を溜ていた。 「本当は、今川家をやめて旅に出ると決めましたが、不安でたまらなかったのです。果たして、自分が銭泡殿のように乞食をしてまで旅を続ける事ができるかどうか、不安でたまりませんでした。すべてを失っても、連歌の道に生きて行く覚悟が本当にあるのだろうか不安でした。それが、宗祇殿の居場所まで分かり、しかも、早雲殿が書状まで持たせてくれるなんて、まるで、夢のようです。自分が幸運すぎて、恐ろしい位です。ほんとに、どうもありがとうございます」 「喜ぶのは、まだまだ早いぞ。連歌の世界に生きる事は武士の世界に生きる以上に難しいかもしれん」 「はい。お二人の御恩に報いるためにも、立派な連歌師となって、竜王丸殿のもとに帰って参ります」 「うむ。楽しみに待っておるぞ」 「それで、いつ立つんじゃ」 「明日にでも立とうと思っておりました」 「気の早い事じゃ」 「はい。すぐに実行に移さないと、覚悟が揺らぐと思ったものですから‥‥‥」 「明日立つとなると、今晩は駿河最後の夜となるわけじゃのう。別れの宴を張らずにはおれんのう」と小太郎が笑いながら言った。 「そうじゃのう」と早雲も頷いたが、「しかし、ここではまずいのう」と奥の間の方を見た。 「 「そうじゃのう。ついでに、法栄殿の船に乗せて貰えばいいんじゃないか」 「そんな‥‥‥」と安次郎は首を振った。 「まあ、頼んでみるさ。法栄殿だって五条殿が連歌師になると言えば、喜んで送ってくれるじゃろう」 「わしは、さっそく、法栄殿の所に行って来るわ」と小太郎はいそいそと出掛けて行った。 「 「富嶽殿が?」 「ああ。わしが留守の時、二人で飲んだそうじゃのう。その時の話を聞いて富嶽は、五条殿はやがて武士をやめるじゃろうと言っておったわ」 「そうですか‥‥‥」 「富嶽も連れて行くわ。今、裏門を守っておるから夜はあいておる」 「すみません」 「なに、今回、うまく行ったのも五条殿のお陰じゃ。五条殿がわしらにお屋形様の死を知らせてくれなかったら、今頃、竜王丸殿はお屋形様にはなれなかったかもしれん。お礼を言いたいのはわしらの方じゃ」 「竜王丸殿の事、よろしくお願いいたします」と安次郎は頭を下げた。 「今度、五条殿が駿河に帰って来る頃には、立派なお屋形様となっている事じゃろう」 「はい」 安次郎は北川殿と竜王丸に別れの挨拶をすると、ひとまず帰って行った。 風が強くなり、落ち葉が風に舞っていた。 早いものだった。正月に帰って来て、もう十月だった。今年もあと二ケ月で終わりだった。年を取る毎に月日の経つのは早くなるものだ、と早雲は庭の枯葉を眺めながら、しみじみと思っていた。
2
枯葉の舞い散る十月の半ば、五条安次郎は 駿府最後の宴を駿府屋形内の長谷川法栄の屋敷で催してもらい、次の日には旅立つはずだったが、法栄が、四日後に伊勢に向かう船が出るから、是非、それに乗って行けと勧めたため、安次郎も快く法栄の気持ちを受ける事にした。早雲のお陰で宗祇の居場所も分かったので、自分を励まして、逃げるように慌てて旅立たなくてもいいと思うようになっていた。旅立ちまでの四日間、世話になった人々に挨拶を済ませ、三浦氏の大津城下にいる両親のもとにも挨拶に行く事もできた。 安次郎の父親は 祐筆となった安次郎は、お屋形様からもその才能を認められ、お屋形様の許しを得て、京から下向して来ていた公家から和歌や連歌の修行に励んだ。十六歳になった時、京から下向して来た連歌師、宗祇と出会い、弟子にしてくれと頼んだが、まだ若過ぎる、もっと色々な学問を身に付けなさいと断られた。その後は、宗祇に言われたように様々な学問を身に付けようと熱心に勉学に励んだ。幸い、お屋形様の所持している書物を自由に見てもいいとの許可を得たので、暇さえあれば書物を読んでいた。十九歳の時、再び下向した宗祇と再会して、連歌会に同座する事もできた。宗祇と同座してみて、自分の未熟さが厭という程、分かった安次郎は益々、書物に没頭して行った。 ところが、翌年、嫁を貰うと自然と生活は変わった。以前の様に自由な時間は少なくなり、さらに、その年、応仁の乱が始まった。安次郎はお屋形様と共に京には行かなかったが、優雅に歌などを歌っている時代ではなくなった。お屋形様が京から戻って来ると、さっそく戦が始まった。安次郎もお屋形様と共に戦陣に出掛けた。祐筆だったため、実際に戦をする事はなかったが、安次郎も戦において活躍したいという思いはあった。武士になったからには、歌なんか詠んでいるより戦での活躍が一番ものを言った。 安次郎はひそかに武術の修行に励んだ。基礎はできている。刀鍛冶の子として生まれたので、刀の使い方は幼い頃より父親から仕込まれていた。安次郎は歌の事など、すっかり忘れたかのように武術修行に励んだ。 数度の戦に参加したが、実際に人を殺す事はなかった。しかし、お屋形様の側近らしく、危険な目に会っても そんな頃、突然、北川殿の兄上と名乗る早雲という僧が駿府に現れた。早雲はしばらくの間、お屋形様の屋敷の離れの書院に滞在していた。安次郎はお屋形様や北川殿の使いとして、何回か早雲と会ううちに、今まで忘れていた やがて、早雲は山西の石脇に庵を結んで移って行った。安次郎は度々、早雲のもとを訪ね、自分も早雲のように生きたいと願ったが、お屋形様が戦に忙しい今、今川家をやめるわけには行かなかった。 そして、突然のお屋形様の討ち死に、今川家の ようやく、自由の身となった安次郎は晴れ晴れとした顔付きで旅を楽しんでいた。遠江の国より西に行くのは初めてだった。見る物、何もかもが珍しく、心は浮き浮きしていた。長谷川法栄の船に乗り、広い海を渡って伊勢の 安次郎は早雲に書いてもらった絵地図を眺めながら歩いていた。 「あれが あそこで、風眼坊殿が剣術を教えていたのか‥‥‥ 宗祇のいる 安次郎は門番に夢庵殿に会いたいと告げた。 「どなたですかな」と門番は安次郎をじろじろ見ながら聞いた。 「元、今川家の臣、五条安次郎と申します」 「今川家? 駿河の今川家ですか」と門番は不思議そうな顔をして聞き返した。 「はい」と安次郎は頷いた。 「少々、お待ちを」と言って門番は屋敷の中に入って行った。 しばらくして、門番は戻って来たが、「夢庵殿は、そなたの事を御存じないとの事です」と素っ気なかった。 「はい。それは当然です。実は、伊勢早雲殿の紹介で参りました」 「伊勢早雲?」 「はい。伊勢早雲殿、それと、風眼坊殿の書状を持っております」 「風眼坊殿の書状をか」 「はい。風眼坊殿を御存じですか」 「当然じゃ。この辺りで、風眼坊殿の名を知らん者はおるまい」 「そうですか。風眼坊殿は今、駿河におられます。わたしは風眼坊殿より夢庵殿の事を伺い、是非、お会いしたいと訪ねて参りました」 「そうか、風眼坊殿は駿河におられるのか‥‥‥待っていなされ、夢庵殿に伝えて参る」 今度は、門番と一緒に夢庵も現れた。 早雲や風眼坊から変わった人だと聞いてはいたが、まさしく変わっていた。夢庵は総髪の頭に革の鉢巻を巻いて、熊の毛皮を身に着けていたのだった。その姿は狩人、あるいは山賊だった。そんな姿をした者が、この屋敷から出て来るとは、まるで、夢でも見ているかのようだった。 「風眼坊殿のお知り合いじゃそうな。よう来られた。風眼坊殿は今、駿河におるのか‥‥‥そうか、懐かしいのう。さあさ、入ってくれ」 夢庵は安次郎を歓迎して、さっさと屋敷の中に入って行った。 門をくぐると正面に大きな屋敷があったが、人影はなかった。夢庵は安次郎を塀で仕切られた左側に案内した。塀の向こう側には正面に屋敷があり、その右側に広い庭園があった。庭園の右側に御殿のような大きな屋敷が二つ並んで見えた。 夢庵は庭園の中の池の側に建つ茶室に安次郎を案内した。 茶室の中は四畳半と狭く、物がやたらと散らかっていた。床の間と違い棚の付いた珠光流の本格的な茶室であったが、お茶を 夢庵は散らかっている物をどけて、安次郎が座る所を作ると、自分は 「懐かしいのう。風眼坊殿は相変わらず、達者か」と夢庵は聞いた。 「はい。書状を預かって来ています」と安次郎は風眼坊と早雲の書状を夢庵に渡した。 「ほう。早雲殿の書状もあるのか。そういえば、早雲殿は駿河に住んでおると言っておったのう。懐かしいのう。去年、二人と一緒に山の中を歩き回ったが、あの時は実に辛かったわ‥‥」 夢庵は二人の書状を時々笑いながら懐かしいそうに読んでいた。 「五条殿と申されるか」と夢庵は書状を読みながら聞いた。 「はい」 「宗祇殿の弟子になるために、やって来たのか」 「はい」 「うむ‥‥‥」 夢庵は二つの書状を読み終わると安次郎に返した。 「駿河の地でも大変だったらしいのう」 「はい。戦になりそうでしたが、お二人の活躍によって何とか無事に治まりました」 「そうか‥‥‥二人の手紙を読んだら、わしも駿河に行ってみたくなったのう」 「いい所です」 「らしいのう‥‥‥それで、宗祇殿の弟子になりたいというのは本当なのか」 「はい。宗祇殿に弟子入りして立派な連歌師になるために、今川家をやめて、こうしてやって参りました」 「うむ‥‥‥難しいのう」と夢庵は首を振った。 「失礼ですが、夢庵殿は宗祇殿のお弟子さんになられたのでしょうか」 夢庵はもう一度、首を振った。「わしがここに来て、もう一年にもなるが、未だに宗祇殿は弟子にしてくれんのじゃ」 「そうだったのですか‥‥‥」 「うむ。しかし、わしは諦めん。弟子にしてもらうまで、ずっと、ここにおるつもりじゃ」 「そうですか‥‥‥」 「まあ、とにかく、一度、宗祇殿に会ってみるか」 「はい。是非、お会いしたいと思っております」 「うむ。じゃあ、行ってみるか」と夢庵は気楽に立ち上がった。 安次郎は胸を躍らせながら夢庵の後に従った。
3
宗祇は書物の中に埋もれるような格好で『源氏物語』に 安次郎は宗祇と会ったが、弟子にして欲しいと言う事はできなかった。宗祇の姿からは、命懸けで歌の道を極めるという気迫が感じられ、弟子の事を口に出す事さえできなかった。 宗祇は安次郎の事を覚えていてくれた。そして、お屋形様が亡くなった事を告げると信じられないという顔をして驚き、お屋形様に世話になった時の事を色々と話してくれた。 半時程、駿河の思い出話を懐かしそうにすると、また文机に向かって何やら書き始めた。宗祇は安次郎に対して、どうして、ここに来たのかは聞かなかった。未だに、今川家の家臣として、何か用があって出て来たついでに寄ったものだと思っているらしかった。 安次郎は、その日から夢庵の茶室に 安次郎は初め、夢庵が書き物をしていた茶室は夢庵の書斎だと思っていたが、夢庵はその狭い部屋で寝起きしていたのだった。夢庵は好きなだけ、そこにいていいと言ったが、二人で暮らすには四畳半は狭かった。夢庵はそんな事を一向に気にせず、気ままに暮らしていた。 夢庵の話によると、夢庵も宗祇も、この屋敷の主、飛鳥井雅親の和歌の弟子だと言う。二人は兄弟弟子という関係にあり、この屋敷内に住まわせて貰っている。宗祇の住んでいる屋敷は その日の晩、安次郎は夢庵と一緒に屋敷の主人、飛鳥井雅親の招待を受け、夕食を御馳走になった。その席に宗祇は出て来なかった。いつもの事だと言う。宗祇は書物に没頭すると時の過ぎるのも忘れてしまい、食事に来ない事もあり、そういう時は後で差し入れをするのだと言う。 雅親は紛れもない公家だった。年の頃は宗祇と同じ位の六十前後の物静かな人だった。後で聞いて、安次郎は驚いたが、雅親は天皇に 翌日、安次郎は夢庵と一緒に飯道山に登った。裏側の参道から登ったため、あまり賑やかではなく、安次郎は風眼坊の話とは大違いだなと感じた。しかし、山の上まで行くと、そこは山の上とは信じられない程、寺院が立ち並び、大勢の若い者たちが武術の修行をしていた。まさしく、風眼坊の言う通りだった。凄いと安次郎は感激していた。こんな所が実際にあったのかと安次郎は驚きながら、夢庵に連れられて山内を歩き回った。 夢庵は山の中で顔が広かった。山伏たちと気軽に挨拶を交わしていた。山の中を一通り、見て歩くと、安次郎は夢庵に連れられて表参道の方に下りた。表参道側の門前町は賑やかだった。夢庵は いつの間にか、日が暮れていた。 花養院を後にすると、今度は『伊勢屋』という まだ時間が早いのか、店の中には客が三人いただけだった。夢庵と二人で酒を飲み始めると、やがて、二人の山伏がやって来た。高林坊と栄意坊という飯道山の武術師範だと言う。二人とも早雲と風眼坊を知っていて、二人が駿河で何をやっているのか、しきりに聞きたがった。 安次郎は不思議な気持ちだった。今、一緒に酒を飲んでいる三人は、安次郎が今まで知らない世界の人たちだった。安次郎が思いもしない事を色々と知っていた。三人の話を聞きながら、安次郎はこれから先、連歌の世界で生きて行くには、あらゆる世界の事を知らなければならないと感じていた。その晩は遅くまで飲んで語りあった。 安次郎は久し振りに酔い、心の中で思っていた事を初めて人に語った。目の前にいる三人には何でも言えると感じ、心を許したのだった。武士でいた頃、心から話し合えるような友はいなかった。同僚たちは常に回りの者を蹴落として出世する事ばかり考えていた。打ち解けているように振る舞いながら、裏では何を考えているのか分からない者たちばかりだった。ところが、今、目の前にいる三人は、昨日、今日、会ったばかりなのに、安次郎はなぜか、心を許す事ができた。安次郎の話を聞きながら三人は親身になって、あれこれ意見を言ってくれた。 次の日、伊勢屋の一室で目を覚ました安次郎は、夢庵に連れられて山の中に連れて行かれた。いい所に連れて行ってやると言うだけで、夢庵はどこに行くかは教えてくれなかった。かなり険しい山道を歩いて、たどり着いた所は岩々に囲まれた平地だった。まるで、山水画の中にいるような感じだった。正面にそそり立つ岩には洞穴があり、奥が深そうだった。その光景を目にした時、安次郎は思わず、「おおっ!」と声を発した。 そこは、安次郎がいつも夢に見ていた光景に似ていた。こんな光景の中で、気ままに酒を飲み、歌を詠み、琴を鳴らして仙人のように生きるのが安次郎の夢だった。 「どうじゃ、いい所じゃろう」と夢庵は岩屋の入り口から回りを見渡しながら言った。 「はい。こんな所が実際にあったなんて‥‥‥」 「風眼坊殿の弟子に太郎坊殿というのがおってのう。その太郎坊殿がここを見つけたんじゃ。ここは『 「その太郎坊殿の事は風眼坊殿より聞いております」 「そうか。今は播磨で赤松家の武将になっておるが、剣術の名人じゃ。実は、わしも太郎坊殿の弟子なんじゃよ」 「夢庵殿も剣術の名人なのですか」 「いや。わしはただ、自分の身を守る程度じゃ」と夢庵は笑った。 夢庵は岩屋の中を案内してくれた。岩屋の中は想像していたよりもずっと深く広かった。迷路のように道が入り組み、部屋がいくつもあり、岩屋の中は暖かかった。 夢庵は観音様の壁画の描かれた一番広い部屋の中で焚火を焚くと、持って来た酒を飲み始めた。安次郎は夢庵の姿を眺めながら羨ましいと感じていた。まさしく、夢庵は、安次郎の夢見る自由人だった。西行法師のように 「夢庵殿、宗祇殿はいつになったら弟子を持つようになるのでしょうか」と酒を飲みながら安次郎は夢庵に聞いた。 「分からん。しかし、わしが思うには、来年あたりから宗祇殿も動き出すような気もするんじゃ」 「来年ですか」 「ああ。宗祇殿は今年の正月、初めて将軍様の連歌会に参加したんじゃ。宗祇殿の名声も一部の者だけでなく、京の町人たちの噂にも上り始めておる。京の戦もそろそろ終わろうとしておるしのう。来年になれば、宗祇殿がまだ古典の研究をしたいと願っても、世間の方が黙ってはおるまい。宗祇殿はあちこちから連歌会の招待を受けるじゃろう。そうすれば、弟子も取らなくてはならなくなると思うがのう」 「来年ですか‥‥‥」 「どうする、来年まで待つか。わしは別に構わんぞ。あそこにおりたければ、おっても構わん」 「はい‥‥‥」 来年までと言っても、まだ二ケ月半もある。二ケ月半もの間、何もしないで、夢庵の四畳半に居候するわけにはいかなかった。 「わしの所が嫌なら、ここにおっても構わん。ここなら誰にも気兼ねする事もない。この岩屋の事を知っておるのは、太郎坊殿と早雲殿と風眼坊殿だけじゃ。飯道山におる山伏でさえ、ここの事は知らん。ここに籠もって書物でも読んで暮らすか。書物なら飛鳥井殿の屋敷に幾らでもあるぞ。めったに読めないような貴重な物まである。飛鳥井殿は何でも自由に貸してくれる」 「はい‥‥‥しかし‥‥‥」 まだ、駿河から出て来たばかりだった。どうせ、来年まで待つのなら、ここに籠もるよりは各地を旅して見たかった。京の都も見たいし、南都奈良も見たい、琵琶湖も見たいし、瀬戸内も見たい。見たい所はいくらでもあった。安次郎は来年まで旅をしようと思った。 「夢庵殿は一年もの間、何をしていたのですか」 「わしか‥‥‥わしは今と同じような事を一年間、やっておったのう。飯道山で修行者たちに剣術を教えた事もあったし、盛り場で飲んだり、女を抱いたり、花養院で子供たちと遊んだり、ここに来て、一人静かに 「そうでしたか‥‥‥」 「ここに来て一年になるが、住んでみるとなかなかいい所じゃよ、ここは」 「はい‥‥‥」と安次郎は焚き火越しに夢庵を見た。うまそうに酒を飲んでいた。 「話は変わりますが、飯道山で修行している若い者たちは、皆、この辺りの者たちなのですか」と安次郎は聞いた。 「いや」と夢庵は首を振った。「最近は遠くから来る者も多いらしいのう。甲賀、伊賀の者たちが半数以上だが、伊勢、大和、加賀辺りから来る者もおるらしい」 「修行したい者は誰でも修行できるのですか」 「いや、とんでもない。毎年、正月の十四日に受付があるんじゃ。年々、修行者の数は増えて来て、五百人以上も集まって来るんじゃ。わしも今年の正月、集まって来る修行者たちを見たが、それは物凄い数じゃった。まるで、祭りのようじゃ。集まった五百人は一ケ月の間、朝から晩まで、休まず山の中を歩かされるんじゃ。わしも一ケ月程、歩いたが、あれは、かなりきつい修行じゃ。早雲殿や風眼坊殿は平気な顔して百日間も歩き通した」 「百日間も?」 「ああ、そうじゃ。あれは去年の十二月じゃった。雪の降る中、歩き通したんじゃ。今思うと、よく歩けたと思うわ」 「それで、修行者たちも一ケ月間、山の中を歩くのですか」 「そうじゃ。第一関門というわけじゃ。その山歩きによって、耐えられない者たちは次々に山を下りて行くんじゃ。結局、一ケ月経って、残るのは百人ちょっとというわけじゃ。その百人ちょっとが山に残り、一年間、武術を習うんじゃ」 「へえ‥‥‥という事は、あの山で修行するためには、正月の受付をして、一ケ月間の山歩きをしなければならないという事ですか」 「そういう事じゃ」 「武術の修行をするのも大変なんですね」 「ああ、大変じゃな。それだけじゃなく銭もかかるんじゃよ」 「銭?」 「ああ。いくら武術の素質があっても、所詮、銭のない者は飯道山で修行すらできんのじゃ」 「そうですか‥‥‥夢庵殿、宗祇殿の弟子になるのにも銭がいるのでしょうか」 「さあな。銭はいらんとは思うが、それ相当の物を見せん事には無理かもしれん」 「それ相当の物?」 「ああ。今は、宗祇殿はひっそりと一人で古典に没頭しておられるが、宗祇殿が活動を始めれば、弟子になりたいと思う者は、それこそ何百人と現れて来るじゃろう。その中から弟子に選ばれるとなると、自分の才能を表現して、宗祇殿に認められなくてはならんと思うがのう」 「自分の才能を表現するんですか‥‥‥」 「うむ」 確かに、夢庵の言う通りだった。宗祇程の人の弟子になるには、自分を表現して見せなければならない。安次郎は、今まで書きためた自分の作品を持って来ていた。その作品を宗祇に見せて、宗祇が認めてくれるか、というと自信はなかった。宗祇はあの年になっても書物に没頭して古典の研究をしている。そんな宗祇から見たら、自分の作品など薄っぺらな人真似としか映らないだろう。どうしたらいいのか、安次郎には分からなかった。 夢庵は焚火を眺めながら気楽に酒を飲んでいた。夢庵は宗祇と兄弟弟子であった。宗祇が弟子を取る事になれば、夢庵が一番弟子になるのは間違いない。しかし、自分が二番弟子になる可能性はほとんどなかった。 「どうした、夕べ、飲み過ぎたか」と夢庵は笑った。 「いえ」と安次郎は力なく首を振った。 夢庵は意味もなく笑って、岩屋の中を見回した。 「ここの岩屋は不思議な岩屋じゃ。わしはここに来る時はいつも一人じゃった。太郎坊殿より、ここを自由に使ってもいいと言われたが、ここに誰かを連れて来たのは、おぬしが初めてじゃ。夕べ、一緒に飲んだ二人は太郎坊殿の師匠にあたる人たちじゃが、ここの事は知らない。どうして、おぬしをここに連れて来たのかは、わしにも分からん。何となく、この岩屋に、おぬしを連れて来いと言われたような気がして連れて来たんじゃ。おぬし、どうして、ここに来たのか分かるか」 「さあ、分りませんが‥‥‥ただ、険しい岩の中を抜けて、この岩屋を初めて見た時、何となく、前に見た事があったような懐かしさを感じた事は確かです」 「そうか‥‥‥やはり、何かつながりがあったんじゃのう。おぬし、しばらく、ここでのんびり暮らせ。ここにいると世俗の事などすっかり忘れ、生まれ変わったかのような気分になれるぞ」 「はい‥‥‥」 酒を飲み干すと、夢庵はそのまま眠ってしまった。 「不思議なお人だ」と安次郎は夢庵を見ながら
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安次郎は夢庵の言うように、智羅天の岩屋に籠もってみようと思った。そのための準備のため、一度、飛鳥井屋敷に戻って来ていた。安次郎が夢庵を訪ねて、この屋敷に来た時から、すでに八日が過ぎていた。 夢庵はいい遊び相手が来たと、安次郎をあちこち引っ張り回した。 最初の日は夢庵と名づけられた四畳半で、紙屑の中で寝たが、次の日から様々な所に連れて行かれた。次の晩は高林坊、栄意坊たちと酒を飲み、伊勢屋という立派な旅籠屋に泊まり、その次の晩は結局、智羅天の岩屋で夜を明かした。 夢庵は酒を飲んで眠ったまま、朝まで起きなかったのだった。安次郎は腹を減らしたまま、ろくに寝る事もできなかった。ようやく、夜明け近くになって眠りについたかと思うと、夢庵にたたき起こされ、飯を食いに行こうと山を下りた。 伊勢屋に戻って食事をして腹一杯になると、今度は体でも動かすかと飯道山に登って武術道場に向かった。道場にはまだ、誰もいなかった。稽古が始まるのは午後からだと言う。夢庵は勝手に道場に入ると木剣を見つけて、安次郎にも渡し、無理やり稽古をさせられた。安次郎も武術の稽古は一通りしているので、夢庵なんかに負けるものかと思っていたが、まったく相手にならなかった。夢庵は思っていたよりもずっと強かった。やがて、修行者たちがぞろぞろとやって来た。夢庵は剣術の師範とも親しいらしく、若い者たちに教えてやってくれ、などと言われていた。夢庵は遠慮して剣術道場を後にすると、今度は棒術の道場に向かった。 棒術の道場には、この間、一緒に飲んだ高林坊がいた。夢庵は高林坊に挨拶をすると、一人の山伏を安次郎に紹介した。風眼坊の弟子で その後、不動院という宿坊に行って、山伏たちと無駄話をして山を下り、また、伊勢屋に戻るのかと思っていると、『七福亭』という遊女屋に連れて行かれた。好きな女を選べと安次郎に言うと夢庵は馴染みの女を連れて、さっさと奥の方に行ってしまった。仕方なく、安次郎は 今日は天気がいいから山歩きをしようと、酒をぶら下げて飯道山の山頂まで登り、さらに奥駈けと称する山道を太神山まで歩いた。山歩きに慣れていない安次郎はくたくただった。本当なら一日で往復するんだと言われたが、そんな気力はなかった。その夜は こんな夢庵といつまでも付き合っていたら体がもたない。安次郎は智羅天の岩屋に一人で籠もって書物でも読もうと決心をした。 山に籠もる用意も整い、いよいよ明日は岩屋に向かう晩だった。 安次郎は夢庵の四畳半で寝そべっていた。 夢庵は文机に向かって、ここに来てから一年の間に宗祇から聞いた事を書きまとめていた。安次郎は不思議そうに、そんな夢庵を見ていた。何事にもこだわらないで、成すがままにという気ままさがあるかと思うと、宗祇から聞いた事を一々書き留めておくという几帳面な所もあった。飽きっぽい所があるかと思えば、一心に一つの事に熱中する事もある。まるで、何人もの人間が夢庵という体の中に生きているようだった。まったく捕え所のない人だと思った。 安次郎は床の間の壁に飾ってある『肖柏』という字を見ていた。安次郎は祐筆をしていただけあって、書に関しては結構、詳しかった。初めて見た時は別に何も感じなかったが、何度も目にしているうちに何となく気になる字だった。流れるような、うまさというのはないが、力強く、字そのものが、まるで生きているかのように感じられた。一体、誰が書いたものだろうか、ただ、肖柏と書いてあるだけで、署名もないし 「夢庵殿、その掛軸はどなたが書いたのですか」と安次郎は聞いた。 どうせ、答えてはくれないだろうと思ったが、以外にも、夢庵は手を止めて振り返ると、真面目な顔をして安次郎を見た。「おぬし、字は分かるか」 「はい。少々は」 「どう見る?」 「味のある字だと思いますが」 「どう味がある?」 「はい。厳しさの中に暖かさが‥‥‥」 夢庵は掛軸を見つめ、「さすが、今川家の祐筆だっただけの事はあるな」とゆっくりと頷いた。 「どなたが書かれたのですか」 「一休禅師殿じゃ」 「えっ、一休禅師」と安次郎は起き上がって正座をすると、改めて書を見つめた。 「まさしく、おぬしの言うように、この字には厳しさと暖かさが同居しておる。まさに、一休禅師殿、そのものなんじゃ」 「一休禅師殿の書でしたか‥‥‥」 「おぬし、一休禅師殿を知っておったのか」 「はい。噂だけは‥‥‥今回、もし機会があれば訪ねてみよ、と早雲殿より言われておりました」 「そうか‥‥‥そう言えば、早雲殿は一休殿のお弟子さんじゃったのう」 「やはり、そうでしたか‥‥‥」 「詳しい事は知らんが、一休殿のもとで修行をした事は確かじゃ」 「肖柏というのは、どういう意味なのですか」 「一休殿が、わしに付けてくれた名前じゃ。わしの名は夢庵肖柏というんじゃよ」 「という事は、夢庵殿も一休禅師殿のお弟子さんだったわけですか」 「いや。一休殿のもとで修行した事はあったが、正式な弟子ではないのう。わしの茶の湯の師匠、村田珠光殿が一休殿のお弟子さんじゃ。宗祇殿も正式な弟子ではないが、一休殿のもとで修行をなさっておるんじゃよ」 「そうですか‥‥‥でも、名前を貰うというのはお弟子になったようなものなんでしょう」 「さあ、どうかな。一休殿、独特の 「どうして、肖柏という名前になったのですか」 「本当はのう」と言って、夢庵は紙に何やら書くと安次郎に見せた。 その紙には『小伯』と書かれてあった。 「本当は小さい伯なんじゃよ」 「小さい伯?」 「昔、 「へえ‥‥‥」 「その時のひらめきで、ただ、そう書いたのだろうと思うが、わしは気に入っておるんじゃ。だから、こうして表装して大切にしておるというわけじゃ」 「一休禅師殿ですか‥‥‥一体、どんなお人なのです」 「どんなと言われてものう。言葉で言い表せるようなお人ではないのう。しいて言えば、鏡のようなお人かのう」 「鏡のようなお人?」 「うむ」 鏡のような人と言われても、安次郎には何だか、さっぱり分からなかった。 「どういう意味です」と安次郎は聞いた。 「言葉で説明するのは難しいのう。鏡というのは顔とかを映すじゃろう。一休殿は、その人の心を映すとでも言おうかのう」 夢庵はしばらく間をおいてから、話を続けた。 「一休殿のもとで修行をすれば分かるが、一休殿の側におると、不思議と自分というものが見えて来るんじゃよ。本物の自分の姿と言うものがな。わしらが普段、自分だと信じておるものは、実は 「禅ですか‥‥‥」 「おぬし、山に籠もって書物を読むのもいいが、一休禅師殿のもとで修行するのもいいかもしれんぞ。何もかも捨ててみて、生まれ変わって見るのもいいかもしれん。その後、どうしても連歌の道に入りたかったら戻って来るがいい。一休殿のもとで修行した事は決して無駄にはなるまい」 「はい‥‥‥」と安次郎は頷いた。 「会ってみれば分かる。おぬしなら一休禅師殿の偉大さが分かるはずじゃ」 安次郎は岩屋行きを変更した。 次の朝、世話になった飛鳥井雅親、宗祇、夢庵に挨拶をすると、
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