酔雲庵

陰の流れ第四部・早雲登場

井野酔雲







観智坊露香







 場面は変わって、近江の国、甲賀の飯道山。

 百日行を無事に終えた下間蓮崇(しもつまれんそう)観智坊露香(かんちぼうろこう)という山伏に生まれ変わって、武術の修行を始めた。観智坊の百日行が終わったのは去年の十二月の十九日だった。観智坊は昔の太郎と同じように吉祥院(きっしょういん)修徳坊(しゅうとくぼう)に入って、一年間の修行を積むように師の風眼坊から命じられた。午前中は作業として弓矢の矢を作り、午後は棒術の稽古だった。

 丁度、その頃、太郎が光一郎を連れて『志能便(しのび)の術』を教えるために播磨から来ていた。そして、志能便の術の修行者の中には、本願寺の坊主、慶覚坊(きょうがくぼう)の息子、洲崎(すのざき)十郎左衛門がいた。十郎左衛門は変身した蓮崇から、蓮如(れんにょ)が加賀を去った事や、守護の富樫(とがし)次郎と本願寺門徒の争いなど、国元の事情を聴き、急いで加賀へと帰って行った。

 その年の棒術の稽古は六日間だけで終わった。二十六日から翌年の正月の十四日までは稽古(けいこ)も休み、作業も休みだった。新米山伏の観智坊は年末年始の忙しい中、怒鳴られながら山の中を走り回っていた。

 正月の十四日、飯道山に大勢の若者たちが各地から、ぞくぞくと集まって来た。その日は一日中、雪が強く降っていたが、そんな事にはお構いなしに、次から次へと若者たちは期待に胸を膨らませて山に登って来た。その数には観智坊も驚いた。先輩の山伏から話には聞いていたが、まさか、これ程多くの若者が集まって来るとは驚くべき事だった。今年、集まって来たのは六百人を越えていたと言う。山内の宿坊はすべて若者たちで埋まり、山下の宿坊や旅籠屋も若者たちで埋まっていた。

 次の日、若者たちは行場(ぎょうば)を巡り、山内を案内され、後は最後の自由時間だった。観智坊は山から下りられないので実際に見てはいないが、昼間っから遊女屋には若者たちが並んで順番を待っていたと言う。また、この日、若者たちが集まって来る事は有名になっていて、各地から遊女たちが門前町に集まり、不動町の横を流れる小川のほとりに粗末な小屋を掛けて、若者たちを引き入れていたと言う。先輩の山伏たちが言うには、この日、人気の遊女は一日に何十人もの若者をくわえ込むので、しばらくの間は、遊女屋には行かん方がいいと笑っていた。

 いよいよ、次の日から一ケ月の山歩きが始まった。今年も雪が多かった。

 観智坊は若者たちが山歩きをしている間、道場で棒術の基本を習っていた。

 棒術の師範は高林坊だったが、高林坊は毎日、稽古には出られなかった。師範代の西光坊(さいこうぼう)が中心になって教えていた。西光坊は以前、太郎がこの山に来た時、太郎を奥駈道(おくがけみち)に案内した山伏だった。あの当時、西光坊は棒術師範代でも下の方だったが、今では高林坊の代わりを務める程に出世していた。西光坊の下に東海坊、一泉坊、明遊坊(みょうゆうぼう)の三人の師範代がいた。

 棒術の修行者は一年間の若者たちの他に、各地の山から修行に来ている山伏も多かった。山伏たちはしかるべき先達(せんだつ)の紹介があれば、いつでも飯道山に来て修行する事ができたが、最近は修行者の数が多くなっているので、山伏たちもなるべく、正月から修行を始めるようにしていた。今年は棒術の組には十八人の山伏がいた。そして、去年一年間、修行して、さらに、もう一年修行をしようと残っている若者が六人いた。観智坊は彼らと共に棒術の修行に励んだ。

 観智坊が風眼坊の弟子だと知っているのは師範と師範代だけだった。誰もが、四十歳を過ぎている観智坊が、今頃、棒術の修行をするのを不思議がった。観智坊は、その事を聞かれるたびに笑って、若い頃、ろくな事をしなかったので、今になって修行をするのだと言った。師範の高林坊を除き、師範代たちも含め、観智坊は一番の年長だった。知らず知らずのうちに、誰もが観智坊の事を名前では呼ばずに『親爺』と呼ぶようになって行った。

 棒の持ち方すら知らない観智坊だったが、一ケ月のうちで基本はしっかりと身に付けて行った。何も知らなかった事がかえって良かったのかもしれない。自分は年は取っていても、武術に関してはまったくの素人だと年下の者たちから素直に教わっていた。また、人一倍、努力もした。稽古が終わってからも、毎日、その日に習った事を体で覚えようと何回も何回も稽古に励んだ。百日間の山歩きのお陰で足腰は強くなっていたが、腕の力は人と比べると、まったく弱かった。観智坊は毎日、鉄の棒を振り回して上半身も鍛えた。

 一ケ月の山歩きも、ようやく終わった。

 六百人余りもいた若者たちは、ほとんどが山を去って、残ったのは百二十人程だった。その内、棒術組に入って来たのは三十一人だった。新しい若者たちが入って来ると道場も賑やかになって来た。棒術の組には他の武術と違って、初心者の者も結構いた。彼らも剣術や槍術は子供の頃から習っていたが、棒術を習うのは初めてだった。その事を知って、観智坊もいくらか安心した。先輩の山伏たちから、この山に来る若者たちは皆、子供の頃から武術を習っているので、皆、人並み以上の腕を持っている。お前も、奴らが山歩きをしているうちに、基本だけは身に付けないと置いて行かれるぞと(おど)しを掛けられたのだった。

 観智坊は午前は矢作りの作業に励み、午後は遅くまで棒を振り回していた。この山にいる間は武術の事だけを考え、蓮如や本願寺門徒の事は考えないようにしようと思ってはいたが、夜になって横になると、時折、門徒たちの悲鳴や叫びが観智坊を苦しめていた。

 ようやく雪も溶け、春になり、山々の桜が満開となった。その頃になると、観智坊も新しい生活に慣れ、若い修行者たちにも溶け込んで、何人かの仲間もできていた。山伏では、葛城山(かつらぎさん)から来た真照坊(しんしょうぼう)、伊吹山から来た自在坊、油日山(あぶらひさん)から来た東陽坊、愛宕山(あたごさん)から来た流厳坊、多賀神社から来た妙賢坊(みょうけんぼう)の六人と仲よくなり、若い修行者では、野田七郎、小川弥六郎、大原源八、高野宗太郎、野村太郎三郎、黒田小五郎の六人と仲よくなった。野村太郎三郎は伊賀出身で、他の者は皆、甲賀出身だった。観智坊は彼らから『親爺』と呼ばれて慕われていた。

 自分の兄弟子である太郎坊の事も彼らから、よく聞かされた。太郎坊は『志能便の術』を編み出し、若者たちは皆、その術を身に付けたくて、この山に登って来るのだと言う。この山で一年間、修行して、志能便の術を身に付けると、甲賀では一目置かれる存在となると言う。志能便の術を身に付けたお陰で、六角(ろっかく)氏のもとに仕官した者もいる。また、伝説になっている太郎坊に会う事ができるだけでも凄い事なのだと言った。観智坊は彼らから、太郎坊の伝説を耳にたこができる程、聞かされていた。

 観智坊は一度、太郎坊に会った事があった。師の風眼坊から噂は聞いていたが、実際に目にして、思っていたよりも若い男だった。若いが山伏としての貫禄はあった。かなり、修行を積んでいるという事は分かったが、あの男がこの山で、これ程、人気があり、伝説になっていたとは知らなかった。また、師の風眼坊の事も年配の山伏たちから聞いていた。風眼坊もこの山では伝説となっている有名人だった。師といい、兄弟子といい、凄い人たちだと思った。自分も負けられないとは思うが、二人のように有名になる事などありえなかった。師の風眼坊が自分の事を弟子だと公表しなくて良かったと観智坊は心から思っていた。公表されていたら、これが風眼坊の弟子か、と師や兄弟子まで笑われる事になりかねない。観智坊は二人を笑い者にしないためにも、精一杯、頑張っていた。

 棒術は不思議な武術だった。観智坊はただ、棒なら人を殺さなくても済むと思って、迷わず棒術を選んだが、棒でも簡単に人を殺す事ができる事を知って驚いた。棒術というのは、刀の代わりに棒を持って、ただ、打ったり受けたりするものだろうと簡単に考えていたが、もっと、ずっと奥の深いものだった。棒というものは使い方によっては、刀にもなるし、槍にもなるし、薙刀にもなるという事をまず学んだ。持ち方も色々とあって、構え方、打ち方、突き方、受け方にも色々とあった。基本を身に付けた観智坊が、次に教わったのは敵を突いたり、打ったりする場所、すなわち、急所だった。人間の体には幾つもの急所と呼ばれる場所のある事を観智坊は知った。そこを打ったり、突いたりすれば、人間は簡単に死ぬと言う。観智坊は立木を相手に、敵の急所を狙って打ったり突いたりする事を毎日のように稽古した。

 この山で教えているのは武術だった。自分の身を守るなどという生易しいものではない。敵をいかに確実に素早く殺せるかを訓練しているのだった。稽古中に怪我をする者も多かった。軽い怪我なら山を下りる事はないが、重傷を負ってしまえば、自分の意志に拘わらず、山を下りなくてはならなかった。皆、一ケ月間、歯を食いしばって雪の中を歩き通し、一年間の最後に行なわれる志能便の術を楽しみにしているのに、怪我をして山を下りるのは悔しくて辛い事だった。観智坊は絶対に怪我をして山を下りるわけには行かなかった。もう後がなかった。怪我をして山を下りてしまったら、もう二度と師の前には出られないし、それ以上に、蓮如の前に出られなかった。観智坊は怪我だけはしないように、いつも、心を引き締めて稽古に励んでいた。

 四月の暑い日だった。観智坊は飯道神社の前で以外な人物と出会った。奈良の小野屋の手代(てだい)平蔵(へいぞう)だった。平蔵は蓮台寺城(れんだいじじょう)(いくさ)の時、本願寺のために加賀まで武器を運んでくれた男だった。平蔵には観智坊が蓮崇だとは気づかなかったが、観智坊にはすぐに分かった。観智坊は声を掛けた。平蔵は信じられないという顔をして観智坊を見ていたが、話を聞いて納得した。しかし、蓮崇が飯道山にいたとは夢でも見ているようだと驚いていた。

 平蔵が飯道山に来たのは、やはり、本願寺の事だった。飯道山で作っている矢を、今度、小野屋が取り引きする事になったのだという。今、各地で戦があるため、矢の需要は高かった。しかし、戦が長引いているお陰で供給の方も昔に比べて、かなり多くなり、奈良の興福寺(こうふくじ)と京の延暦寺(えんりゃくじ)が座を仕切って、各地で生産されていた。飯道山も延暦寺の座に入って矢の製作と販売をしていたが、飛ぶように売れるという程でもなく、蔵の中には眠っている矢もかなりあった。そこで、小野屋としては刀や槍を飯道山に提供し、代わりに矢を手に入れるという事に決まった。飯道山としても矢を処分して、他の武器を手に入れたかったのだった。小野屋は手に入れた矢を、そっくり加賀に運ぶつもりでいた。飯道山としても矢の使い道までは聞かなかった。飯道山自身が敵味方なく、矢を売っている。商売に政治は抜きというのが建前(たてまえ)だった。

 観智坊は平蔵から加賀の状況を聞いた。越中に追い出された本願寺門徒は、未だに加賀に帰れないでいる。守護の富樫次郎は蓮如がいなくなった事によって、強きになって門徒たちを苦しめている。門徒たちは指導的立場にあった蓮崇と慶覚坊が加賀から消えたため、一つにまとまらず、あちこちで一揆騒ぎは起こるが皆、守護方にやられていると言う。特に北加賀は富樫の言いなりとなってしまい、南加賀では超勝寺(ちょうしょうじ)の者たちが頑張っているようだが、守護代の山川三河守(やまごうみかわのかみ)に丸め込まれるのも時間の問題だろうとの事だった。観智坊は平蔵から加賀の状況を聞くと、自分が強くなって加賀に戻らなければならない、加賀に帰って裏の組織を作り、門徒たちを一つにまとめなければならない、と改めて決心を固めた。

 観智坊はその日、夜中まで鉄棒を振り続けて、とうとう気絶してしまった。







 五月の中頃、観智坊のような男でも問題を起こした。

 一ケ月の山歩きが終わって三ケ月目、修行者たちも山の生活に慣れて気が緩み、ちょっと山を下りてみようと思う者が毎年、必ず現れた。太郎の時もそうだったが、山を下りる事は大目に見られた。修行が辛くて、夜逃げする者もいたからだった。しかし、山を下りて、また山に戻って来るのは具合が悪かった。戻って来た者は必ず捕まり、何かしらの罰を受けた。その罰に耐えられなくて逃げ出す者もいた。

 今回、観智坊はいつもの仲間、野田、小川、大原、高野、野村、黒田らに山を下りて、ちょっと酒を飲んで来ようと誘われた。観智坊はやめろと止めたが、彼らは聞かなかった。山を下りて行くのを黙って見ていられなかった観智坊は仕方なく彼らと一緒に山を下りた。見つかって、山から追い出されはしないかと冷や冷やしながら観智坊は彼らに従った。山の中を抜けて山を下りた七人は小さな飲屋に入って、酒を一杯だけ飲むと、すぐに山に戻った。彼らも見つかりはしないかと冷や冷やしていたのだった。彼らにとっては、山を抜け出して酒を飲んで来れば、それだけで満足だった。ほんの一時だったので、ばれる事はないだろうと、それぞれ、自分の宿坊(しゅくぼう)に帰って休んだ。観智坊のいる修徳坊では、観智坊がいつも遅くまで道場で稽古しているので、少し位、遅くなっても、誰も変だとは思わなかった。観智坊は、ばれなくて良かったと安心して眠りに就いた。

 ところが、次の朝、観智坊を訪ねて師範代の西光坊がやって来た。西光坊は観智坊が山を下りた事を知っていた。

「観智坊殿、まずいですよ」と西光坊は言った。「お山を下りた事が見つかってしまいました」

「えっ?」と観智坊は驚いて、身を硬くした。

「よく、お山を下りて酒を飲んでおったのですか」と西光坊は聞いた。

「いえ‥‥‥初めてです。わしは‥‥‥」

 みんなに誘われて、と言おうとして観智坊は口をつぐんだ。他の者たちも見つかってしまったのだろうか‥‥‥

「観智坊殿が一人で飲屋に入って行く所を見た者がおったのです」と西光坊は言った。

 一人で、と西光坊は言った。観智坊はみんなの最後に付いて飲屋に入った。もしかしたら、他の者は見られなかったのかもしれないと思った。

「どうして、一人でお山を下りたのです」

「それが‥‥‥どうしても酒が飲みたくなって‥‥‥」

「酒ですか‥‥‥酒なら、お山におっても飲む事はできたのに‥‥‥しかし、お山を下りた事がばれてしまったからには、他の修行者たちの手前もあるし‥‥‥」

「お山を下りなくてはならないのですか」と観智坊は心配しながら聞いた。

「いや。お山は下りなくてはいいが、それ相当の罰を受けなければならんのじゃ」

「どんな罰です」

「まだ、決まっていません。しかし、かなり厳しいものとなるでしょう。今後、お山を抜け出す者がおらなくなるように、観智坊殿は見せしめとならなければならないのです」

「見せしめか‥‥‥」

「太郎坊殿を御存じですね」と西光坊は聞いた。

「ええ。わしの兄弟子にあたるお方です」

「その太郎坊殿も一年間の修行中、お山を抜け出しました」

「えっ、太郎坊殿が‥‥‥」

 西光坊は頷いた。「罰として、(かね)をお山の上に引き上げたんですよ」

「鐘?」

「ええ。鐘撞堂(かねつきどう)のあの鐘です。あの鐘を里から、見事、引き上げたんですよ。おまけに、雨まで降らせましたよ」

「その話は聞きました。鐘を上げたのは、お山を抜け出した罰としてやったのでしたか」

「そうです。不思議な事に、毎年、必ず、誰かがお山を抜け出します。去年は三人が抜け出しました。罰として、三人は山の東側に深い(ほり)を掘らされました。掘り挙げるのに一ケ月以上も掛かったかのう。その濠は今、みせしめ濠と呼ばれております。そのうち、掘った三人の名前と共に、このお山の伝説の一つになる事でしょう」

「そうですか‥‥‥」

「まあ、午後までには観智坊殿の罰も決まるでしょう。午前中はいつも通り、作業に行き、午後になったら、覚悟を決めて道場に来る事ですね」

「はい。お山を下りなくても済むのでしたら何でもいたします」

「うむ」と頷くと西光坊は帰って行った。

 観智坊の罰は決まった。修行者たちの宿坊に新しく井戸を掘る事だった。前にあった井戸は、飯道山を城塞化するためにあちこちに濠を掘ったので干上がってしまった。修行者たちは毎朝、吉祥院の側にある井戸まで水を汲みに行かなければならなくなった。百人以上もの修行者たちが暮らしている宿坊の側に井戸がないのは不便なので、観智坊に井戸を掘る事を命じたのだった。

 一人で井戸を掘るのは難しい仕事だった。まして、どこでも掘れば、水が出て来るというものでもない。井戸を掘るには専門とする井戸掘り人足が必要だった。彼らは長年の勘によって土地を見て、水の出る所を探り当てる事ができた。飯道山にも井戸掘り人足はいたが、今、六角氏の本拠地、観音寺城に行っていた。戦が長引くに連れて、飯道山は甲賀の国人や郷士らと共に六角氏と手を組んでいた。六角氏が観音寺城を拡張するというので、飯道山からも職人や人足たちが助っ人として出掛けて行った。観智坊に井戸掘りを命じた師範たちも観智坊に井戸が掘れるとは思ってはいない。一ケ月程、修行者たちの見守る中で、穴を掘り続ければ、それで、立派な見せしめとなる。一ケ月間、穴を掘って水が出なくても、それはそれでいいと思っていた。専門家が戻って来たら、改めて、井戸の事を頼むつもりだった。

 観智坊は干上がってしまった井戸を見た後、山内のあちこちに掘った濠を見て歩いた。そして、濠を掘った時に水が(にじ)み出て来なかったかを聞いて回った。観智坊のその行動は、井戸掘りを命じた師範たちにとって予想外な行動だった。師範たちは、観智坊はすぐに穴を掘り始めるだろうと思っていたが、そんな気配はなく、三日の間、観智坊は山内を歩き回って絵図面を書き、掘るべき場所を捜していた。師範たちを初め、修行者たちも皆、興味深そうに観智坊の行動を見守っていた。観智坊のやる事はまるで専門家のようだった。もしかしたら、本当に井戸を掘るかもしれないと期待する者たちも出て来た。

 観智坊は以前、吉崎御坊を作る時、中心になって職人や人足たちの指図をしていた。井戸を掘るのも見ていたし、後に、抜け穴を掘る時、(かね)掘りたちが、どうやって深い穴を掘って行くのかも見ていた。実際に井戸を掘った事はなかったが、地面の中にどのように地下水があるのか、およその事は知っていた。

 ここの井戸が涸れたという事は、井戸の下にあった地下水が、どこかに流れ出てしまったに違いないと思った。観智坊は山の中をあちこち歩いて見て、南側の濠が、その原因だった事に気づいた。南側の濠を掘った時、水が滲み出て来て、止める事ができず、今、その濠は池のように水が溜まり、水はさらに溢れて、流れ出していると言う。もう、その地下水は使えない。新しい地下水を見つけなければならなかった。あちこちの濠を調べた結果、涸れた井戸よりも深く掘らなければならないという事は分かったが、どこを掘ったらいいのかは分からなかった。前の井戸の深さはおよそ五丈(約十五メートル)だった。それ以上深く掘らなければならない。しかも、たった一人で‥‥‥

 観智坊と一緒に山を抜け出した六人は申し訳なさそうに、観智坊のする事を見つめていた。観智坊は、みんなの事はばれていないから、絶対に口に出すなと口止めした。そして、自分の分まで棒術の修行に励んでくれと頼んだ。彼らは黙って頷いた。

 前の井戸は食堂(じきどう)と米蔵の間にあった。あったと言うよりは、井戸の近くに食堂を建てたと言った方が正しい。百人以上の食事を作る食堂の台所が、一番、井戸を必要としていた。新しく井戸を掘るとすれば、やはり、食堂の側の方がいい。観智坊は食堂の回りを一回りしてみたが、どこを掘ったらいいのか分からなかった。観智坊は本願寺の阿弥陀如来(あみだにょらい)様にすがる事にした。無心になって、ひたすら祈った末、ここだというお告げがあった。

 そこは前の井戸より三(けん)程、北の地点だった。食堂からも遠くはない。観智坊は場所を決めると、西光坊に頼んで、地の神を(しず)め、水が沸き出るように祈祷(きとう)して貰った。観智坊も西光坊と共に一心に阿弥陀如来様に祈った。

 次の日から観智坊の穴掘りが始まった。一丈程までは順調に進んだが、その後、岩盤に突き当たった。観智坊はまず、掘った穴の回りを板で固定してから岩盤に取り掛かった。岩盤は手ごわかった。一日中、掘り続けても少しも進まなかった。そればかりでなく、生憎と梅雨に入ってしまった。観智坊は穴の上に屋根を掛けてから作業を続けた。屋根を掛けても雨は入って来た。特に、夜の間に雨は穴の中に溜まり、毎朝、雨水の汲み上げから始めなければならなかった。毎日、朝から晩まで泥だらけになって、穴掘りに熱中していた。観智坊は元々、何かを始めると、その事に熱中する性格だった。本願寺の門徒になったのもそうだったし、特に普請(ふしん)(土木工事)や作事(さくじ)(建築工事)は好きだった。観智坊は武術の事も忘れて、穴掘りに熱中した。

 穴を掘り始めて一ケ月が過ぎた。

 二尺程の厚さの岩盤を何とか砕き、深さ三丈(九メートル)程の穴が掘れたが、水は出ては来なかった。師範の高林坊は、ここまで掘れば、もういい、と言ったが、観智坊はやめなかった。今、このままでやめてしまったら、これから先、何もかもが中途半端になってしまうような気がして、どうしてもやめられなかった。棒術の修行はやりたかったが、この仕事を途中でやめるわけには行かなかった。また、穴の中で、たった一人で土と格闘していると、自然が持っている力というものを思い知らされ、これも一つの修行に違いないと思うようになっていた。長雨で地盤が緩み、泥土に埋まった事もあった。太く長い木の根に邪魔された事もあった。穴が深くなるにつれて、雨水を掻い出すのも、掘った土を外に出すのも一苦労し、色々と考えなければならなかった。

 梅雨も終わり、暑い日々が続いた。

 観智坊の穴掘りは続いていた。穴の深さは六丈(約十八メートル)を越えていたが、水の出て来る気配はなかった。観智坊も毎日、休まず働いていたので、疲れがかなり溜まっていた。さすがに、観智坊も弱きになっていた。もしかしたら、いくら掘っても水など出て来ないのではないかと焦りが出ていた。しかし、ここまで掘って、やめるわけにはいかない。水が出て来る事を信じて掘り続けるしかなかった。

 観智坊は知らず知らずの内に念仏を唱えながら掘り続けていた。観智坊は何かに取り憑かれたかのように、宿坊に帰る事もなく、暗くなると穴の側で眠り、夜が明けると穴の中に入って行って掘り続けた。外も暑かったが、穴の中は物凄く暑かった。観智坊と一緒に山を下りた六人が心配して、水を運んでくれたり、飯を運んでくれたりしてくれた。それでも観智坊の体は日増しに衰弱して行き、頬はこけ、目はくぼみ、気力だけで穴を掘っているようだった。観智坊の唱える念仏だけが穴の中から不気味に聞こえ、気味悪がる修行者たちもいた。

 夜が明け、いつものように観智坊は穴の中に入って行った。いつものように念仏を唱えた時、ふと、何かを感じた。阿弥陀如来様がほほ笑んだような気がした。阿弥陀如来様ではなく、それは蓮如だったかも知れなかった。そして、蓮如が言った言葉を観智坊は思い出した。

 願い事をかなえてもらうために念仏を唱えてはいけない。阿弥陀如来様はすでに、みんなの願いをかなえていらっしゃるのだ。その事に気づき、その事に感謝する気持ちになって、念仏を唱えなければいけない‥‥‥

 観智坊はその事に気づいた。観智坊は感謝の気持ちを込めて念仏を唱えた。そして、穴を掘った。水が滲み出て来た。水はじわじわと広がって行き、観智坊の足を濡らした。

 観智坊は水を見つめながら、本当に阿弥陀如来様に感謝して念仏を唱えた。そして、大声で、「やった!」と叫んだ。

 観智坊の掘った穴から水が出て来た日は六月の二十八日だった。観智坊が井戸掘りを命じられてから四十五日目の事だった。その日、二十八日は親鸞忌(しんらんき)だった。毎月、本願寺では報恩講(ほうおんこう)の行なわれる日だった。観智坊は改めて、自分が本願寺の門徒である事を感じ、親鸞聖人、蓮如上人、阿弥陀如来様に感謝した。

 観智坊の掘った井戸は、修行者たちから『念仏の井戸』と呼ばれるようになり、その井戸から水を汲む者は、誰に言われたわけでもないのに、念仏を唱えてから水を汲むようになって行った。







 井戸を掘り遂げた観智坊は、再び、棒術の道場に戻った。

 一月半振りに握った棒だったが、不思議と体の一部のように感じられた。毎日、(すき)(くわ)を持って力仕事をしていたため、知らず知らずのうちに腕の力が付き、棒を構えていても、棒を持っているという意識はなく、本当に体の一部のようだった。一月半も休んでいたとは思えない程、棒が自由自在に使えるようになっていた。

 観智坊は七月の半ば、初級から中級に進んだ。

 観智坊と共に山を下りた野田、小川、大原、高野、野村、黒田の六人も皆、腕を上げていた。彼らは観智坊に言われたように、観智坊の分まで修行を積んでいた。彼らにとって、自分たちの身代わりとなって、朝から晩まで、泥だらけになって井戸を掘っている観智坊を見るのは辛かった。観智坊がどこか遠くの所で井戸を掘っていれば、彼らだって別に気にはしなかっただろうが、観智坊は彼らが暮らしている宿坊の敷地内で井戸を掘っていた。見たくなくても、毎日、見ないわけには行かなかった。彼らは死に物狂いで穴を掘っている観智坊を見るたびに、観智坊の分まで修行に励まなければ観智坊に申し訳ないと思った。彼らは真剣に修行をするようになり、どんどんと腕を上げて行った。彼ら六人も観智坊と一緒に皆、初級から中級に進んだ。

 井戸を掘った後、観智坊の人気は上がって行った。棒術組の修行者たちからだけでなく、他の組の修行者たちからも『親爺』と呼ばれるようになり、何かと相談を受けたり、頼りにされるようになって行った。そんな中、棒術組にいる神保(じんぼ)新助、中山次郎五郎の二人は、なぜか、観智坊たち反抗的だった。観智坊は二人から何を言われても別に気にもしなかったが、彼の回りにいる六人は、その二人とよく言い争いをしていた。争いの原因となるのは、いつも観智坊の事だった。観智坊の事を老いぼれと言い、どうせ、この山にいるのも、何か悪い事をして隠れているに違いないと言ったり、観智坊が掘った井戸の事も、あんなの誰でも掘れる。老いぼれだから一月半も掛かったが、俺たちが掘れば一月で掘れると言っていた。観智坊は六人に対して、相手にするなと常に言っていたが争いは止まらなかった。修行者の中でも二人の棒術の腕がかなり上なので、腕に溺れて、言いたい放題の事を言っても、誰も敵対しなかった。二人は、さらに天狗になって行った。

 観智坊の回りにいる六人は、神保と中山の二人を、この山にいるうちに何としてでも倒したいと観智坊と一緒に、毎日、夜遅くまで修行に励んだ。

 八月の末、とうとう、六人の中の大原と神保が決闘をしてしまった。大原はいつものように、夕飯を済ました後、観智坊と一緒に稽古をしようと思って道場に向かった。道場にはまだ、誰もいなかった。その時、たまたま通り掛かった神保が一人で道場にいる大原に声を掛けた。

「お前らが、いくら、稽古を積んでも無駄だ。無駄な事はやめて、さっさと(くそ)でもして寝ろ」

「何だと!」と大原は棒を構えた。

「ほう、面白い。俺とやる気か」

「お前のその鼻をへし折ってやる」

 大原も毎日、遅くまで稽古に励んでいたので、幾分、自信を持っていた。もしかしたら、勝てるかもしれない。奴に勝てば修行者の中では一番の腕になる。よし、やってやろうと燃えていた。

「ふん。怪我をするぞ」と神保は鼻で笑った。

「その言葉、そっくり、お前に返してやる」

 神保は道場の隅に建つ小屋の中から棒を持って出て来ると、ニヤニヤしながら大原の方を見て、「よし、いつでも掛かって来い。鍛えてやる」と言って棒を構えた。

「よし」と大原もと言うと棒を構えた。

 神保は大原の構えを見ながら、思っていたよりできるなと思った。簡単にあしらってやるつもりだったが、気を緩めると、こっちがやられるかもしれなかった。神保は構え直して、本気を出してやろうと決めた。

 大原の方は初めから本気だった。神保の構えを見て、もしかしたら勝てるかもしれないと思っていた。

 二人が棒を構えて睨み合っている時、観智坊が道場に来た。観智坊は、「やめろ!」と怒鳴った。

 観智坊の声が合図だったかのように、二人はお互いに近づいて行き、棒を振り上げた。

 一打目はお互いに避けた。

 観智坊は二人の間に割って入ろうとした。しかし、遅かった。大原の二打目をぎりぎりの所で、はずした神保は大原の右腕をしたたかに打った。

 観智坊が二人を分けた時、大原の顔は苦痛に歪み、彼の右腕は力なくぶら下がっていた。

 小川と高野が道場に入って来た。異様な雰囲気に気づくと、二人は大原の側に駈け寄って来た。二人は大原の右腕を見ると、かっとなって神保を睨み、神保に飛び掛かろうとした。観智坊は二人を止め、大原を不動院に連れて行かせた。不動院には修行者たちの怪我の治療を専門にしている医者がいた。

 二人が大原を不動院に連れて行くと、観智坊は神保に近づいた。

 神保は棒を持ったまま、うなだれていた。

「今日の所は帰った方がいい」と観智坊は言った。

「‥‥‥仕方なかったんです」と神保は言った。

「騒ぎが大きくならないうちに、今日の所は帰った方がいい」

「はい‥‥‥」

 神保は棒を観智坊に渡すと宿坊の方に帰って行った。

 やがて、黒田と野田と野村がやって来た。観智坊は大原と神保の事を三人に話し、この事はしばらく黙っているように頼んだ。三人は怒りに顔を震わせ、絶対に許せないと(わめ)いたが、観智坊は何とかして三人をなだめた。三人は納得して不動院に向かった。

 大原の腕の怪我は重傷だった。骨が砕けていた。うまく行けば骨がつながり、元に戻る事も考えられるが、このまま使えなくなる事も考えられた。もし、元に戻るとしても、一月の間は右腕を使う事はできないだろう。大原としては絶対に山を下りたくはなかったが、山を下りるように命じられた。怪我をしてから三日後、大原は仲間に見送られながら山を下りて行った。

 あの事件が起きてから、大原の仲間だった五人は、絶対に大原の仇を打ってやると、神保を倒そうと稽古を積んでいた。一方、神保の方はあの時以来、人が変わったかのように、おとなしくなっていた。いつも一緒にいた中山とも離れ、独りで孤立していた。

 九月十四日から始まる祭りの準備で忙しい頃だった。観智坊は寿命院(じゅみょういん)の前の石段に一人で腰掛けている神保の姿を目にした。何か思い詰めているようなので観智坊は側に行って声を掛けた。

 神保は顔を上げたが何も言わなかった。

「どうしたんじゃ」と観智坊は言って隣に腰を下ろした。

 しばらく黙っていたが、神保はボソボソと話し始めた。

「俺、お山を下りようと思っています。このまま、お山にいても稽古に身が入りません」

「まだ、あの時の事を気にしておるのか」と観智坊は聞いた。

 神保は頷いた。「奴は俺の事を恨んでおるでしょう。でも、あの時、ああするしかなかったのです。俺は奴があれ程までに腕を上げていたとは知らなかった。簡単にあしらってやるつもりだったが、そんな余裕はなかった。真剣にやらなければ、俺の方がやられると思った‥‥‥俺は奴の打って来る棒を必死で避けて反撃した。手加減をする余裕なんて、まったく、なかったんだ‥‥‥結果はああなってしまった。しかし、それはほんの一瞬の差だった。もしかしたら、俺の方がああなってしまったかもしれなかった‥‥‥」

「そうじゃったのか‥‥‥みんなはお前がわざとやったに違いないと思っておるぞ」

「分かっております‥‥‥みんながどう思おうと構わない。ただ、大原の奴だけには本当の所を伝えたいんだ」

「そうか‥‥‥それで山を下りるのか‥‥‥しかし、山を下りたら、もう二度と戻っては来れなくなるぞ」

「分かっております。しかし、今のまま、ここにいても、大原の事が気になって修行にならない」

「そうか‥‥‥」

「修行なら、やる気になれば、どこにいてもできます。しかし、今、大原と会っておかないと、一生、後悔するような気がするのです」

「そうじゃな‥‥‥自分の気持ちはごまかせんからのう。自分でそう決めたのなら、やるべきじゃ」

 神保は観智坊を見つめながら頷いた。「観智坊殿、今まで、すみませんでした。俺も本当は観智坊殿たちと一緒にわいわいやりたかった。しかし、俺にはできなかった。つまらない意地を張っていたのです‥‥‥すみませんでした」

「そんな事は別にいいんじゃ」と観智坊は笑った。

 神保も笑った。神保の笑顔を見たのは初めてだと観智坊は思った。

 神保は観智坊の事を親爺と呼んで、山を下りて行った。

 その後、神保と大原の間で何があったのか分からないが、飯道山の祭りの最後の日、神保と大原は揃って山に登って来た。神保は人が変わったかのように陽気だった。大原の怪我も順調に回復に向かっているとの事だった。二人は修行者たちの宿坊に挨拶に来た。二人があまりにも仲がいい事に、皆、びっくりしていた。神保が急に山からいなくなったので、逃げて行ったに違いないと思っていた五人も、二人の様子に驚き、訳を聞くと、皆、神保の事を許して、以前のわだかまりはすっかりと消えた。

 その後、神保と大原の二人は、里にて一緒に棒術の修行に励み、時折、山に顔を見せに来ていた。







 賑やかな飯道山の祭りも終わり、秋も深まって行った。

 観智坊がこの山に来て、すでに一年が過ぎていた。長かったようで、短かった一年だった。この山に来て観智坊は色々な事を学んだ。今まで考えてもみなかった様々な事を知った。体付きや顔付きまでも、すっかりと変わり、もう、どこから見ても立派な山伏だった。

 観智坊はすっかり生まれ変わっていた。

 若い者たちから『親爺、親爺』と慕われ、今の生活に充分に満足していた。棒術の腕も自分でも信じられない程に上達して行った。若い者たちの面倒味がいいので、先輩の山伏たちからも、このまま、この山に残らないかと誘われる事もあった。今のまま修行を積んで行けば、ここの師範代になる事も夢ではないとも言われた。

 観智坊もすでに四十歳を過ぎていた。先もそう長いわけではない。加賀の事は気になるが、果たして、自分が加賀に戻ったとして、一体、何ができるのだろうか、裏の組織を作るといっても、そう簡単にはできないだろう。自分がしなくても、誰かがやるに違いない。加賀の事は門徒たちに任せて、自分はここで新しい人生を送ろうと考えるようになって行った。やがて、師範代になる事ができれば、家族を呼んで、この地で暮らそう。そして、息子をこの山に入れて鍛え、加賀に送ってもいい。自分がこれから何かをやるより、若い息子に託した方がいいかもしれないと思うようになって行った。

 若い者たちに囲まれて、観智坊は毎日、楽しかった。若者たちは観智坊を頼って色々な相談を持ちかけて来た。観智坊は親身になって相談に乗り、解決してやった。観智坊は若者たちから、一年間の修行が終わったら、是非、うちに来てくれと誘われたり、一緒に酒を飲もうと誘われたり、女遊びをしようと誘われたり、引っ張り凧だった。観智坊も皆のために、どうしても師範代にならなければならないと稽古に励んでいた。

 観智坊の一日は夜明け前の修徳坊の掃除で始まり、本尊の阿弥陀如来の前での法華経(ほけきょう)の読経をし、朝飯を食べると矢作りの作業場へと行き、午後は棒術の稽古だった。

 十月の初めの事だった。観智坊がいつものように読経を済ませ、自分の部屋に戻ろうとした時、仏壇の片隅に見慣れた字の書かれた紙切れが目に付いた。一瞬、誰の字だったか分からなかったが、その字に懐かしいものを感じた。観智坊は仏壇に近づいて、その紙切れを手に取って調べた。それは蓮如の書いた『御文(おふみ)』だった。勿論、蓮如の自筆ではない。誰かによって写されたものだった。よく見れば、全然、蓮如の筆跡とは違った。しかし、観智坊には一瞬、それが蓮如の自筆のように見えた。目の錯覚だったかと観智坊は思い、その御文を読んでみた。

 御文は今年の七月に書かれたものだった。どこの誰が写したのかは分からない。内容は、いつもの御文と同じような事が繰り返し書かれてあった。観智坊はその御文を読みながら、胸の奥に熱い物を感じていた。自然と涙が溢れ出て来て止める事はできなかった。涙で目が曇り、最後まで読めなかった。観智坊はその御文を読みながら、蓮如と初めて会った時から、別れた時までの事を一瞬の内に思い出していた。

 観智坊はその御文を握ったまま、棒術の道場へと走って行った。

 道場には誰もいなかった。

 観智坊は片隅に建つ武具小屋に入って、思いきり涙を流した。

 様々な事が急に思い出された。

 若くして死んだ母親‥‥‥

 本覚寺に奉公に出て、こき使われた事‥‥‥

 本泉寺の如乗との出会い‥‥‥

 娘、あやの病死‥‥‥

 そして、蓮如との出会い‥‥‥

 今の観智坊がいるのは蓮如のお陰だった。蓮如と会わなければ、自分は本願寺の一門徒として終わっていたに違いない。蓮如あってこその自分だった。

 蓮如はすでに六十歳を越えている。六十歳を過ぎても蓮如は門徒たちのために戦っていた。それを四十歳を過ぎたから、そろそろ、楽をしようと考えていた自分が恥ずかしく思えた。自分は蓮如よりも二十歳も若いのだ。加賀の事も、誰かがやるから、自分がやらなくてもいいと思っていた自分が恥ずかしかった。誰かがやるからではなく、自分がやらなければならないのだった。自分はその事をやるために、この山で修行しているのだった。やれるかどうかが問題ではなかった。やらなければならない事をやれる所までやり通す事が重要なのだ。特に、本願寺の裏の組織を作るという事は山伏となった観智坊にしかできない仕事だった。辛い事も色々とあったが、この山で若者たちに囲まれて暮らしているうちに、いつの間にか、その事を忘れて、楽な方、楽な方へと考えるようになってしまっていた。

 観智坊はその日、小屋の中で、加賀で起こった事をすべて思い出し、決心を新たにした。

 修徳坊に帰って、御文を誰が持って来たのか聞いて回ったが、誰もそんな事を知らなかった。みんな、それが蓮如の御文という事さえ知らない。結局、誰か信者が持って来たのだろうという事となり、観智坊はその御文を貰う事ができた。誰がここに持って来たのか分からないが、観智坊は、その誰かに感謝した。もし、その御文を見なかったら、観智坊の一生が変わってしまったかも知れなかった。観智坊はその御文を今後の(いまし)めとして、常に、肌身離さず持っている事に決めた。

 その日から、観智坊は今まで以上に稽古に励んだ。この山で師範代になる事は諦め、加賀に戻るために稽古に励んだ。この山を下りるまで後三ケ月もなかった。三ケ月のうちで、身に付けられる事はすべて身に付けたかった。

 今まで棒術の稽古をする時、相手も棒術だった。しかし、山を下りて敵と実際に戦う場合、相手も棒で掛かって来るとは限らない。刀の事もあるし、槍の事もあるし、薙刀の事もある。あるいは弓矢や手裏剣のような飛び道具の事もあるだろう。山を下りたら、すべての物を相手にしなければならない。

 観智坊は稽古が終わった後、他の組の修行者たちに頼み、稽古を付けて貰う事にした。剣術組の大久保源内、槍組の牧村右馬介(うまのすけ)、薙刀組の西山左近の三人がよく付き合ってくれた。三人共、同じ武器同士で稽古するより、ためになると言って喜んで付き合ってくれた。

 剣術を相手に戦うのは棒術とそれ程は変わらなかったが、槍や薙刀を相手にするのは難しかった。また、木剣を相手にするのと真剣を相手にするのとでは全然、違った。木剣なら棒で受けても切られる事はないが、真剣の場合、下手をすれば棒を切られる事も考えられる。切られる事を想定した上で戦わなければならなかった。切られないようにするためには樫の棒を鉄板か鉄の棒で補強するか、樫の棒のままで使うなら、絶対に刀の刃を受け止めない事だった。敵が打とうとして来た瞬間に刀の横面、(しのぎ)を払うか、敵の太刀筋を見極めて避けるしかなかった。槍や薙刀の場合も、真剣だと思って稽古に励んだ。

 観智坊は山を下りるまで、一時も無駄にしたくはなかった。眠る時間も惜しんで武術に熱中した。休みたいと思ったり、怠け心が起きると、蓮如の御文を読んで心を励ました。

 四十を過ぎた親爺が頑張っている姿を見て、若い修行者たちもやる気を出していた。毎年、夜遅くまで稽古に励んでいる者が何人かいたが、今年は異例だった。どこの道場も十人以上の者たちが夜遅くまで稽古に励んでいる。そして、今まで、組が違うと余り交流もなかったが、今年は違う組同士の者たちがお互いの腕を磨くために協力し合っていた。

 武術総師範の高林坊もこの現象には驚いていた。夜遅くまで稽古に励んでいる若者たちを見ながら、自分たちの若かった頃の事を思い出していた。高林坊が四天王と呼ばれていた頃、修行者の数は今程、いなかったが、師範も修行者も皆、若く、夜遅くまで稽古に励んだものだった。あの頃は道場も一つしかなく、剣術も棒術も槍術も薙刀術も皆、一緒になって稽古に励んでいた。違う得物(えもの)を使う者と稽古をする事は、同じ得物同士で稽古をするよりも、ずっと学ぶものが多かった。高林坊自身も風眼坊、栄意坊、火乱坊らを相手にして腕を磨いて行った。その事は分かっていたが、修行者の数が多くなるにつれて、自然と組に分かれて修行するようになり、それが当然の事のようになってしまった。

 高林坊は観智坊が他の組の者と稽古しているのを見て、その当時の事を思い出した。そして、これは是非ともやらなければならないと思った。月に一度位は他の組の者と稽古ができるようにしようと高林坊は思った。高林坊は観智坊に、忘れてしまっていた重要な事を思い出させてくれた事に陰ながら感謝していた。

 観智坊は太郎坊とは違って、格別な強さというものはないが、若い者たちを引っ張って行く、何か不思議な魅力を持っているのかもしれないと高林坊は思った。風眼坊が観智坊を自分の弟子にすると言った時、はっきり言って、風眼坊がふざけているのだろうと思っていた。百日行をすると言った時も、観智坊が歩き通すとは思ってもいなかった。観智坊が見事に百日行をやりとげ、棒術組に入って来た時も、ただ、一年間、頑張れと思っただけだった。まあ、一年間、稽古に励めば、人並み程には強くなれるだろうと思っただけで、別に何も期待はしなかったし、一々、気にも止めなかった。ところが、観智坊がこの山にいる事によって、山の雰囲気は変わって行った。若者たちが皆、やる気を出して修行に励んでいるのだった。こんな事は今までにない事だった。毎年、何人かの者が遅くまで修行に励んでいた。太郎坊がそうだったし、太郎坊の弟子となった、光一郎、八郎、五郎がそうだった。毎年、二、三人はそんなのがいた。しかし、今年は二、三人どころではなかった。修行者の半分近くの者たちが、観智坊に影響されて遅くまで稽古に励んでいる。

 高林坊は改めて、観智坊という男を見直した。自分には見抜く事ができなかったが、観智坊という男には、風眼坊が弟子にするだけの何かがあるのかもしれないと思うようになって行った。

 高林坊はその日から観智坊という男を陰ながら見守る事にした。







 早雲と小太郎が駿河にて活躍して、竜王丸をお屋形様にする事に成功した頃、観智坊は下界の事とはまったく隔離(かくり)されて、武術だけに熱中していた。

 十一月になり、枯葉も散って、寒さも厳しくなって来ると、観智坊はこの山にいる時間が短くなった事を気にして、やたらと焦り始めていた。山を下りるまで、もう二ケ月もなかった。時はどんどん過ぎて行くが、まだまだ、身に付けるべきものは色々と残っていた。気持ちが焦れば焦る程、厳しい稽古を積んでいるのにも拘わらず、上達はしなかった。持ち慣れている棒までが重く感じ、自分の思うように振れなかった。

「観智坊殿、疲れが出て来たんですよ」と野村が言った。

「稽古ばかりではなく、時には休む事も重要です」と小川は言った。

「いや、休む暇などない。もう、時がないんだ」

「観智坊殿、これは聞いた話ですけど、武術の稽古をしていて行き詰まった時は、何も考えないで座り込むのがいいそうですよ」と黒田が言った。

「座り込む?」

「はい。座禅と言うんですか、静かに座って、無になるんだそうです」

「無になる?」

「はい。何もかも忘れて座るんです。そうすると、何かがひらめくそうです」

「ひらめくのか‥‥‥」

 観智坊は以前、風眼坊から、そんなような事を聞いた事があった。何かが分からなくなった時は、すべてを忘れて座っていると自然と心が落ち着き、物事が解決する事もあると風眼坊は言っていた。観智坊は自分が焦っているという事を自覚していた。焦ってはよくないという事も以前の経験から知っている。しかし、この焦りを止める事はできなかった。焦るな、焦るな、と思えば思う程、さらに焦っている自分を感じていた。このままでは駄目だった。こんな気持ちのままで、この山を下りる事はできなかった。

 観智坊は黒田の言うように、しばらく、何も考えないで座ってみようと思った。黒田に座り方を教わると、観智坊はすぐに、その場に座り込んだ。

「観智坊殿、こんな所に座っては体を冷しますよ。部屋に帰ってから座って下さい」

 黒田がそう言ったが、観智坊は返事をしなかった。仕方なく、その場にいた野村、小川、黒田、西山の四人は観智坊に従って、寒い道場内に座り込んだ。半時程して、寒さに耐えられず、四人は帰って行ったが、観智坊は一人で座り続けた。

 何も考えるな、と言っても無理だった。次々に頭の中に考えが巡った。一つの考えを打ち消すと次の考えが出て来て、それを打ち消すと、また、違う考えが現れた。

 最初に出て来たのは、観智坊が実際に今、答えが出ないで焦っている武術の事だった。木剣を構えている大久保の姿が頭の中に浮かび、大久保に対して、どう戦おうかと考えを巡らした。大久保の事は忘れろと打ち消すと、今度は薙刀を構えた西山の姿が浮かび、観智坊はまた、薙刀に対して、どう戦おうか考えた。それを打ち消すと、今度は槍を構えた牧村が現れ、次には、棒を構えた西光坊が現れた。次々に色々な相手が現れ、ついには、太郎坊も現れ、師の風眼坊までもが現れた。観智坊はそれらを皆、打ち消して行った。

 武術の事から、ようやく離れる事ができたと思ったら、今度は加賀の本泉寺に置いて来た家族の事が頭に浮かんだ。本泉寺にいる妻や子供たちの姿が、実際に見ているかのように浮かんだ。息子の乗円(じょうえん)が娘のすぎと一緒に、蓮如の作った庭園の掃除をしていた。やがて、妻の妙阿(みょうあ)勝如尼(しょうにょに)と一緒に出て来て庭園を眺めていた。丁度、庭園の向こうに日が沈む時で、蓮如の作った庭園は極楽浄土のように美しかった。その光景を頭に浮かべ、いい気持ちになっていた観智坊だったが、それも慌てて打ち消した。

 無になるん、無に‥‥‥

 しかし、それは難しかった。

 次に現れたのは妻の姿だった。肌衣(はだぎぬ)姿の妻は布団の中で観智坊を誘っていた。観智坊は妻の体に飛び付いて行った。やがて、妻の顔は若い娘に変わった。それは、観智坊が加賀を離れて蓮如と共に近江の大津にいた頃、観智坊が囲っていた娘だった。娘は大胆な姿態で観智坊を誘った。女は次々と違う女に代わって行き、あられもない姿で観智坊を誘った。観智坊はニヤニヤしながら女たちに挑んで行った。

 観智坊は我に返って、頭を振ると頭の中の思いを断ち切った。

 わしは何を考えておるんじゃ。確かに、女には飢えている。しかし、今はそんな事を考えてはいられないんだ。山を下りれば、女なんて好きなだけ抱けばいい。今は、そんな事を考えている暇はないんだ‥‥‥

 とにかく、何も考えるな‥‥‥

 考えるな、考えるな、と思っても、頭の方は言う事を聞かない。

 蓮如の顔が浮かんで来た。蓮如は息子たちに囲まれて笑っていた。大津の順如(じゅんにょ)がいた。波佐谷(はさだに)蓮綱(れんこう)がいた。山田の蓮誓(れんせい)がいた。そして、実如(じつにょ)蓮淳(れんじゅん)蓮悟(れんご)がいた。そこが、どこなのか観智坊には分からなかったが、蓮如は幸せそうだった。慶覚坊(きょうがくぼう)慶聞坊(きょうもんぼう)下間頼善(しもつまらいぜん)が現れた。そこでは一揆は起こらないのだろうか、皆、(なご)やかな顔をしていた。

 蓮如の幸せそうな顔をもっと見ていたかったが、場面は急に変わった。そこには痩せ衰えた子供たちの姿があった。女たちが泣いていた。男たちは武器を持って戦の支度をしていたが、絶望的な顔色だった。そこは、越中の瑞泉寺(ずいせんじ)の横にある避難所だった。木目谷(きめだに)の高橋新左衛門の姿があった。何だか急に老け込んだようだった。以前のような精悍(せいかん)さはなく、死んだような情けない目付きだった。新左衛門は本願寺の裏の組織を作るために頑張っているはずだった。それなのに、これは一体、どうした事なんだ‥‥‥

 場面はまた変わった。次に浮かんで来たのは吉崎御坊だった。観智坊は北門をくぐって懐かしい御坊への坂道を登っていた。本堂が見えた。そして、御影堂(ごえいどう)庫裏(くり)、書院が見えた。観智坊は庫裏の側で遊んでいた蓮如の子供たちを思い出した。観智坊は庫裏に入った。蓮如はいなかった。また、旅に出たんだなと思った。書院に顔を出した。執事(しつじ)の下間玄永がいるだろうと思ったが、玄永はいなかった。書院では本覚寺蓮光(ほんがくじれんこう)超勝寺(ちょうしょうじ)の三兄弟、浄徳寺慶恵(じょうとくじきょうえ)定地坊巧遵(じょうちぼうぎょうじゅん)善福寺順慶(ぜんぷくじじゅんきょう)が何やら密談を交わしていた。観智坊は超勝寺の者に近づいては駄目だと蓮光に言ったが、お前は何者だ、と言われ、吉崎御坊から追い出されてしまった。蓮崇だと言っても、蓮崇は破門された。のこのこと、こんな所には来られまいと言って相手にされなかった。観智坊は「上人様!」と叫んだ。

 知らず知らず、観智坊は本当に叫んでいた。

 目を開けると、もう、夜が明けようとしていた。

 東の空がうっすらと明るくなりかけていた。どの位、座っていただろうか、結局、心を無にする事はできなかった。様々な思いが頭の中に浮かんでは消え、何の解決にもならなかった。観智坊は東の空を見つめながら、どうしたらいいのだろうと考えていた。その時、人の気配を感じて、観智坊は振り返った。

 高林坊が道場に入って来た。こんな早くから、何で、高林坊がこんな所に来るのだろうと不思議に思いながら見ていると、高林坊は観智坊の側まで来て座り込んだ。

「どうじゃ、答えは見つかったか」と高林坊は言った。

「いえ‥‥‥」と観智坊は首を振った。

 今まで、高林坊と二人だけで言葉を交わした事はなかった。時折、道場に出て来ても、直接に話した事はなかった。どうして、高林坊がこんな朝早くから自分に声を掛けて来たのか、観智坊には分からなかった。

「壁にぶつかったようじゃのう」と高林坊は言った。

「壁?」と観智坊は聞いた。

「武術というのは不思議なもんじゃ」と高林坊は言った。「稽古を積めば積む程、強くなるというのは事実じゃが、ある程度の強さまで行くと、誰でも必ず、壁に突き当たる」

 観智坊は黙って、高林坊の顔を見つめた。

「太郎坊の奴も壁に突き当たって悩んでおった。そして、その壁を自力で突き破って行った‥‥‥強くなれば強くなる程、その壁というのは大きくなって立ちはだかるもんじゃ。観智坊、そなたも今、その壁にぶち当たったんじゃよ。何としてでも、その壁を突き破らん事には、それ以上強くはなれんぞ」

「壁ですか‥‥‥どうして、強くなると壁に突き当たるのですか」

「どうしてかのう‥‥‥うまく説明する事はできんが、武術というものは、ただ、技術だけでは敵に勝つ事はできんと言う事じゃな。技術というのは教える事はできる。ある程度、技術を身に付けてしまえば、それから先の事は、決して誰からも教わる事はできんのじゃ。自分で身に付けて行くしかないんじゃ‥‥‥武術というのは人と人との戦いじゃ。敵にも心はあるし、自分にも心はある。(やいば)を交わして、構える。誰もが怖いと思う。それは当然の事じゃ。負ければ死ぬ。誰でもその事は考える。敵に勝つためには、その恐れを克服(こくふく)しなければならん。恐れを克服して敵に勝てるようになったとする。敵に勝って満足する。しかし、そこでまた壁にぶつかるんじゃ。敵に勝った。しかし、敵を殺してしまった事に対しての悔いが残るんじゃよ‥‥‥わしも今までに何人かの人を殺した。未だに悔いておる。何であんな事をしてしまったのじゃろうとな。武術というのは、確かに人を殺すための技術じゃ。しかし、わしはそれを越えた所に、本当の武術というものがあるような気がするんじゃ。矛盾かも知れんが、争い事を無くすための武術というものがあるような気がするんじゃよ」

「争いを無くすための武術‥‥‥」

「ああ。よく分からんが、武術には使う者の心というものが多分に作用する事は確かじゃ。心の修行も大切だという事じゃ‥‥‥わしは太郎坊と二度、立ち合った事があった。一度目は完全にわしの勝ちじゃった。太郎坊はその後、再び、百日行をやり、山の中に半年程、籠もった。何をやっておったのかは知らん。山から出て来た時、わしは太郎坊と二度目の立ち合いをした。お互いに構えただけで終わったが、わしは心で太郎坊に負けたと思った。言葉ではうまく説明できないが、太郎坊の大きな心にふわっと包み込まれたように感じたんじゃ。心というのは決して見る事はできないが、武術においては、心の動きというものは大きく作用するんじゃよ。わしが見た所、そなたも今、心の問題で悩んでおると思う。心が何かに囚われておると、体まで自由に動かなくなるもんじゃ。そんな時は稽古を離れて、そうやって座り込む事が一番じゃ‥‥‥わしは、そなたの事を風眼坊から頼まれておった。しかし、わしは今まで、そなたの力にはなれなかった。矢作りの作業の事じゃが、もう、充分に身に付けたじゃろう」

「はい‥‥‥」

「今日から作業はしなくてもいいようにしてやる。思い切り、その壁にぶち当たってみろ」

 そう言うと高林坊は立ち上がった。

「ありがとうございます」と観智坊は頭を下げた。

「なに、そなたがやるだけの事をやったからじゃ」と高林坊は笑った。「精一杯、努力をすれば、必ず、誰かが力を貸すもんじゃ」

 高林坊は去って行った。

 観智坊は、もうしばらく座り続けてみようと思った。ただ、この道場では邪魔になる。観智坊は修徳坊の裏山の中で座り込む事にした。そこで座り込んでみても様々な思いが頭に巡った。それを打ち消しながら観智坊は座り続けた。日差しを浴びて、そのうちに気持ちよくなって、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めたら、もう日暮れ近かった。こんな事では駄目だと思い、気持ちを引き締めて座り続けたが、今度は腹がぐうぐう鳴って来た。考えてみたら今日は何も食べていなかった。食べずに座り続けるか、食べてから、また座ろうか考えたが、腹が減っては戦もできないと思い、修徳坊に帰って飯を食い、また裏山に登った。

 三日目になって、ようやく、無の境地というものが少しづつ分かり掛けて来た。何も考えないでいる事の快感というものが分かり掛けて来た。何となく、自分が自然の中に溶け込んで行くように感じられた。以前、自分は自分で、自然は自然だったものが、自分も自然の中の一部で、自然という大きな力に優しく包み込まれているような、何とも言えない、いい気持ちになって行った。もしかしたら、この自然というのは蓮如上人の言う阿弥陀如来様の事ではないのだろうか、と観智坊は思った。

 阿弥陀如来様に優しく包まれている事に気づけば、自然と感謝の念は起きて来る。観智坊の心の中から、自然と『南無阿弥陀仏』という念仏が起こって来た。それは本当に自然な事だった。その念仏には何の欲も絡んでいなかった。純粋な感謝の気持ちだった。

 観智坊は目を開けた。

 見慣れた自然の姿が、まるで、極楽浄土のように感じられた。観智坊はまた、知らずのうちに念仏を唱えた。まったく無意識の念仏だった。

 観智坊には、ようやく、蓮如が繰り返し、繰り返し言っていた念仏の意味が分かったような気がした。今まで、観智坊が唱えていた念仏は本物ではなかった。蓮如は、阿弥陀如来様の偉大なる心が分かれば、自然と感謝の念仏が心の底から涌き出て来ると、何度も御文で言っていた。頭では分かったつもりでいたが、本当に分かってはいなかった。今、無意識のうちに出た念仏こそが、蓮如が言っていた念仏だったのだと観智坊は思った。

 観智坊は自然に対して合掌をした。本当に阿弥陀如来様に抱かれているような感じだった。

 観智坊は静かにその場を離れると道場に向かった。道場では皆がいつものように稽古に励んでいた。

 観智坊は棒を手にした。井戸掘りが終わった時のように、その棒は体の一部のように感じられた。不思議な事だったが棒も自由に使う事ができた。高林坊の言っていた『壁』というものを乗り越えたようだった。

 稽古が終わり、夜になって、剣術や槍術や薙刀術を相手にしても棒は思うように使えた。心が何かに囚われていると体も自由に使えなくなると高林坊は言っていた。観智坊は剣、槍、薙刀という得物(えもの)にこだわり過ぎていたのだった。敵がこう来たら、ああやって、ああ来たら、こうやろうというような細かい事にこだわり過ぎていたのだった。剣、槍、薙刀をそれぞれ別に考えて、剣でこう来たら、ああやる、槍がこう来たら、ああやる、薙刀でこう来たら、ああやらなければならないと色々と考えた結果、頭の中は混乱し、体の自由が利かなくなったのだった。剣も槍も薙刀も、刃の通る道はただ一つだった。その事さえ見極めれば、皆、同じ事だった。敵の出方によって臨機応変に応えればいいのだった。観智坊はやっと、その事に気がついた。

 壁を乗り越えた観智坊は、また一段と腕を上げて行った。壁を乗り越えた日から七日後、観智坊は上級に上がった。





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