文明九年、春1
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雪に埋もれている大河内城下の新年は、加賀で毎年、迎えていた新年と似ていたが、異国の地で、しかも、豪勢な武家屋敷で迎えた新年は、自分が 観智坊は太郎から 正月は太郎も何かと忙しく、観智坊の相手をしている暇はなかった。観智坊の事は五郎に任せていた。鳥居弥七郎が来た事によって、太郎は五郎を 陰の衆二十一人は正月の半ばに各地に散って行った。行き先は前回と同じだったが、八郎たち三人だけは前回の 正月も末になると、太郎にも暇ができて、観智坊とゆっくりと会う事ができた。太郎は観智坊を 観智坊は太郎がお茶を点てる 不思議な事だった。一年余りの修行によって、物の見方まで変わっていた。以前の観智坊だったら、太郎の動きに隙のない事は分からない。ただ、ぼうっと太郎の動きを見ていたに過ぎなかった。また、他人の強さというものも分かるようになっていた。以前は、相手を見て、自分より強いという事は分かっても、どれ位強いかなど分からなかった。今では、相手の目付きや肩や腰の動きから、どれ程の腕を持っているか分かるようになっている。不思議な事だったが、以前、自分より絶対に強いと思っていた武士たちでさえも、実際に強いと思われる者は、ほんの僅かしかいないという事が分かった。観智坊は改めて、飯道山の武術の質の高さというものを感じていた。そんな観智坊でも、今、目の前でお茶を点てている太郎の強さが、どれ程のものなのか分からなかった。 観智坊は五郎から志能便の術、ここでは『 観智坊は五郎から陰流の棒術も習っていた。これも、飯道山で習った棒術とは違って、一撃必殺の技だった。飯道山の棒術は打って受け、また、打って受け、敵の態勢が崩れた所を狙って勝つというものだった。それらの技を使うには腕の力がものをいった。観智坊が井戸掘りの後、見る見る上達して行ったのも腕の力が付いたからだった。ところが、陰流の技は違った。腕の力よりも敵の動きの一瞬の隙を狙って打つというものだった。 陰流では太刀先の見切りというものを重要視していた。太刀先の見切りとは、敵の太刀先がどこを通るかを見極める事だった。それを見極める事ができれば、最小限の動作で、敵の攻撃を避ける事ができる。最小限の動きで、攻撃を避ける事ができれば、一々、敵の太刀を自分の太刀で受ける必要もなかった。棒術においても同じだった。敵の棒の動きを見極める事ができれば、一々、受ける必要もない。敵が攻撃を仕掛けるのと同時に攻撃を掛ければ、一瞬のうちに敵を倒す事ができる。陰流の技は、決して、敵の攻撃を受ける事なく、一瞬のうちに決まる技ばかりだった。身に付けてしまえば怖い者なしと言えるが、身に付けるまでは大変な事だった。 観智坊は五郎を相手に棒で戦ったが、飯道山での一年間が、まるで、嘘だったかのように相手にならなかった。観智坊が必ず当たると打った一撃は、すべて、ぎりぎりの所でかわされて行った。何度、打ってみても五郎の体には当たらず、五郎の体はフワッフワッと風に舞う木の葉のように、観智坊の一撃を避けていた。そして、五郎は簡単に観智坊を打つ事ができた。 観智坊は棒を握る事を許されず、刀を手に持って、毎日、木に止めた 観智坊は雪に埋まった広い道場の片隅で、毎日、紙切れを相手に戦っていたのだった。 太郎の点てたお茶を飲みながら、観智坊は床の間に飾ってある『夢』という字を見ていた。まさしく、夢を感じさせる字だと思った。観智坊が掛軸を見ているので、「 「夢庵殿が‥‥‥あの、夢庵殿というのは何者なのですか」 「何者なんでしょうか」と太郎は笑いながら首を傾げた。「わたしにもよく分かりません。不思議なお人です」 「はい、確かに不思議なお人ですね。殿のお弟子さんの一人なのですか」 「弟子だなんて‥‥‥わたしの方が夢庵殿から色々な事を教わっております」 「そうですか‥‥‥」 「陰の術の方はどうですか」と太郎は観智坊に聞いた。 「はい。山崎殿より色々と教わっております。ここに来て、本当に良かったと思っております。ここに来て、飯道山で習った事は、ほんの基本だった事が身にしみて分かりました。わたしは飯道山で一年間、修行して、師範代を倒した事で、少々、天狗になっておったような気がします。もし、あのまま加賀に帰っておりましたら、自分の強さに自惚れて、不覚を取ったに違いありません。ここに来て、上には上がおるという事がはっきりと分かりました」 「そうですか。それは良かった。武芸を修行するに当たって、自分の腕に自惚れて、天狗になるという事が一番の戒めです。天狗になった時、それは身を滅ぼす事となります。わたしも、その事では苦い経験がございます。この月影楼の一階の柱に天狗の面が飾ってあります。一階は、わたしの修行の場でもあります。わたしは戒めのため、天狗の面を飾り、そこを天狗の間と称しております」 「天狗の間ですか‥‥‥」 「はい。ここは夢の間です」 「夢の間ですか‥‥‥」 「ところで、観智坊殿、陰の術を何に使うつもりなのでしょうか。差し支えなければ、お教え願えないでしょうか」 「はい、それは‥‥‥」と言ったきり、観智坊は黙ってしまった。 「陰の術というのは、実はまだ、完成してはいないのです」と太郎は言った。「術というのは実際に役に立たなければ意味がありません。特に、陰の術というのは城や屋敷に忍び込む術も含まれております。この術は城や屋敷の防備が堅くなれば、それに合わせて変化させなければなりません。わたしが初めて陰の術を作ったのは、もう五年以上も前の事です。その五年の間で、城の造りも変化して来ました。各地で戦が長引いているお陰で、今の城は五年前の城よりも、ずっと警戒も厳しく、濠や土塁も深く、高くなってきております。早い話が、五年前の陰の術をそのまま、今、使っても役に立たないと言えます。陰の術は時と共に移り変わって行かなければならないのです。今、わたしが飯道山から呼んだ二十人程の者たちが、情報を集めるために各地に飛んでいます。彼らの目的は陰の術を使って、あらゆる情報を手に入れる事は勿論ですが、陰の術の不備な点を改めるというのも目的なのです。観智坊殿が陰の術を何に使うのかは分かりませんが、それに合わせて陰の術を考えるというのも、陰の術を完成させるために役に立つのです。もし、よろしければ、わたしに教えてほしいのです」 観智坊は、本願寺の裏の組織を作りたいという事を太郎に告げた。太郎には、本願寺というものが、どんなものなのか知らなかった。太郎がその事を聞くと、観智坊は喜んで、本願寺の事を話してくれた。本願寺の 太郎は本願寺の組織というものに驚いた。蓮如が書いた『御文』という、教えを分かり易く書いたものが、十日もしないうちに、その組織に乗って加賀の国中に広まって行くと言う。十日もしないうちに、何万もいるという門徒たちの耳に蓮如の書いた御文が伝わり、蓮如が一言、戦を命じれば、何万もの門徒たちが一斉に立ち上がると言うのだった。門徒たちは百姓や河原者、山や海の民たちが多いとは言え、何万もの人たちが立ち上がれば、武士たちを倒す事も可能となる。また、観智坊の話によると、武士である国人たちの多くも、生き残るために本願寺の門徒となり、指導的立場にいると言う。 「それだけの組織があれば、裏の組織は必要ないでしょう」 一通り、観智坊の話を理解すると太郎は観智坊に聞いた。 「それが、表の組織を使って戦を起こす事はできないのです」と観智坊は言った。 「よく分からんが?」 「表の組織は、上人様の教えが下々の者たちまで伝わるように作られた組織です。縦のつながりはありますが、横のつながりがないのです。勿論、近くの者たちはお互いにつながりはあります。しかし、北加賀の者と南加賀の者たちは、まったく、つながりがありません。今、加賀の門徒たちはバラバラです。門徒たちを一つにまとめる事ができるのは上人様だけなのです。ところが、上人様は門徒たちが戦を始める事に絶対、反対です。しかし、このままでは門徒たちは不当な扱いを受け、守護たちの思いのままになってしまいます。門徒たちは本願寺の門徒になった事で、ようやく、人並みに生きる事が分かり始めて来たのです。わたしは門徒たちのために守護と戦おうと決心しました。それには横のつながりを強化して裏の組織を作らなければならないのです」 「うむ‥‥‥それで、具体的にはどういう風に作るつもりなんです」 「はい。まず、若い者たちに陰の術を教えます。そして、各道場に配置します。そして、あらゆる情報を素早く、つかみます。敵の動きが分かれば、対処の仕方も分かりますから」 「うむ。すでに、表の組織が出来ているのだから、その組織を利用すればいいわけですね」 「はい」 「その道場というのは、どれ位あるのですか」 「およそ、二百位あると思います。加賀だけですが」 「加賀だけで二百ですか‥‥‥それは大したものですね。しかし、その道場に若い者たちを入れるとなると大変な事ですね。一人だけでは身動きが取れないし、少なくとも二人は必要でしょう。そうなると四百、予備として百、合わせて五百人は必要となりますね」 「五百人ですか‥‥‥」と観智坊は唸った。 「長期戦になりそうですね」と太郎は言った。 観智坊は頷いた。「それは覚悟しております」 「観智坊殿も大変な仕事を背負い込んでしまいましたね」 「はい。しかし、裏の組織を作るには、一旦、本願寺を破門になった、わたしだからこそ、できると思っております」 「そうかもしれません。表の顔があると自由に動く事は難しいですからね。それだけ大きな組織を作るとなると裏側に専念しなければならないでしょう」 「はい。わたしも表には出ずに裏の世界に専念するつもりです」 「頑張って下さい。わたしも陰ながら応援させていただきます」 「ありがとうございます」 いつの間にか、日が暮れ掛けていた。 太郎と観智坊は、その後、遅くまで裏の組織作りに関して話し合った。
2
二人の山伏とそれに従う下男が馬に乗って走っていた。 もう、春であった。大河内の城下にはまだ雪が残っていたが、姫路の辺りまで来ると、風も暖かく、ようやく、冬も終わったと感じられた。今年は一月が 馬に乗っているのは太郎と観智坊と弥兵だった。 観智坊は二ケ月余り、太郎のもとで修行に励んでいた。太刀先の見切りも体で覚え、陰流の棒術の『 加賀から戻った八郎より、加賀の状況と共に蓮如の居場所も聞いていた。加賀の状況は、冬に入っているため、 太郎の方は飯道山に向かっていた。孫次郎の百日行が二月五日に 二人は摂津の芥川(高槻市)で別れ、観智坊は南に向かい、太郎は東に向かった。 太郎が飯道山に着いたのは四日の昼過ぎだった。馬をいつもの農家に預けると、花養院に顔を出し、 夢庵が使っていた文机だけが、ぽつんと岩屋の中に置いてある。その文机の上に一冊の書物が置いてあった。それは、前回来た時、夢庵に頼んでおいた『 一通り、夢庵の書物に目を通すと、太郎は奥駈け道に向かった。今頃、行けば、丁度、 しはらくして、孫次郎がやって来た。 太郎は岩陰に身を隠した。明日の満願の日まで、孫次郎の前に出たくはなかった。たとえ後一日だけだとしても、気の緩みは禁物だった。もし、太郎が今、顔を出して、孫次郎の気が緩んで、明日、歩けなくなったとしたら、また、最初からやり直さなければならない。太郎は黙って見守るだけにした。泥だらけになってはいたが、孫次郎の足取りは軽かった。回りの景色を楽しんでいるような余裕も感じられる。これなら大丈夫だ。よく、あの厳しい時期に一人で歩き抜いた。太郎は拍手を送りたいような気持ちで、孫次郎の後姿を見送ると岩屋に戻った。太郎は 飯道山を越えて、柏木の 足は自然と『夕顔』に向いていた。 「今日は太郎坊じゃない。火山坊として大峯から来たんだ」と太郎は小声で夕顔に言った。 夕顔は笑うと、「それは遠くから、わざわざ、火山坊様」と言って、酒の支度をしに奥に入った。 三人の客は宮大工のようだった。門前町にある寺院の修築をしているらしかった。年配の者と若い者が何やら言い争い、もう一人の男が二人をなだめていた。 夕顔は太郎に酒を持って来た時、ごゆっくりと言ったきり奥から出ては来なかった。太郎は夢庵の事を聞きたかったが、話し出すきっかけさえつかめないまま、一人、酒を飲んでいた。 どうしたんだろう。 俺が突然、来たので怒っているのだろうか。 やはり、来るべきではなかった‥‥‥ 太郎は夕顔が持って来た酒を飲んだら帰ろうと思った。夕顔は、太郎が頼みもしないのに、三本のとっくりを持って来ていた。太郎が『 夕顔は三人を見送ると暖簾をしまった。 「もう、店じまいか」と太郎は聞いた。 「そう。今日は気分が悪いの」と夕顔は軽く笑って言った。 「そうか」と太郎は頷き、「俺も帰るわ」と言った。 「まだ、お酒、残ってるんでしょ」 「ああ、あと少し」 「それ、飲んでからでいいわ」 「そうか‥‥‥」 夕顔は太郎の横に腰掛けると酒を注いでやった。 「あたしねえ。あなたが今日、現れるような気がしてたわ」と夕顔は太郎の手を撫でながら言った。 「いつもの勘かい」 「そう、と言いたいけど町中の噂よ」 「噂?」 「そう。今、太郎坊様のお弟子さんが百日行をしてるでしょう。明日が満願の日だから、明日、太郎坊様が来るってもっぱらの噂よ」 「そうか、そんな事まで噂になるのか」 「あなたに関する事は何でも噂になるの。ここだけじゃないわ。あたし、伊賀の国にいた事あるけど、伊賀でも、あなたの噂は聞いたわ」 「どんな噂だ」 「一昨年の暮れの事よ。あなたはお弟子さんの風光坊様と一緒に、ここに来て、かつての教え子たちの所に現れて、何人かを選んで、京の 「へえ、京の愛宕山にか」 「そういう噂だったわ。あなたの事は甲賀、伊賀では常に注目されているのよ」 「それじゃあ、俺がここに来た事も噂になるのか」 「あたしが言い触らせばね。でも、今、ここにいるのは太郎坊様ではなくて、火山坊様でしょ。火山坊様の事は誰も噂しないわ」 「そうか‥‥‥火山坊の噂はないのか‥‥‥」 「火山坊様が大峯山に行って、帰って来なかった時、噂は流れたわ」 「どんな噂だ」 「火山坊様は酔っ払って、大峯山で死んじゃったって」 「火山坊は死んだのか」 「そういう噂はあったわ。でも、一月もしないうちに、誰も、火山坊様の事を言わなくなった」 「そうか‥‥‥太郎坊とは、えらい違いだな」 「でも、あたしは太郎坊様より、そんな火山坊様をずっと待っていたの‥‥‥今日、あたし、賭けをしたの。太郎坊様がきっと、ここに戻って来る事は分かっていたわ。でも、太郎坊様がこの店に来るかどうかは分からない。あたし、賭けたの。もし、太郎坊様がここに来たら‥‥‥」 「ここに来たら?」 「ここに来たら、あたし‥‥‥いいの、もう、太郎坊様は来なかったんだから。来たのは火山坊様だった‥‥‥」 「夕顔、お前は今、幸せなのか」と太郎は聞いた。 夕顔は頷いた。しかし、その顔は幸せそうには見えなかった。 「あたし‥‥‥」 夕顔は太郎に酒を注ごうとしたが、とっくりは空になっていた。 「ねえ、あたしんちで飲まない?」 「いいのか」 「いいの。火山坊様が帰って来てくれたんだもの」 太郎は夕顔の家に行って続きの酒を飲んだ。 夕顔は太郎の事を太郎坊とは呼ばずに、火山坊と呼び通した。火山坊は酔っ払って、大峯山で死んでしまうような情けない山伏だった。しかし、夕顔は、そんな火山坊の方が有名な太郎坊より好きなようだった。太郎は、これから先も火山坊として夕顔と付き合って行こうと思っていた。 夕顔は本当の所、もし、太郎坊が店に来てくれたら、南蔵坊と別れて、太郎坊に付いて行こうと決めていた。太郎坊は城を持っている武将だった。南蔵坊より、ずっと財産も持っている。こんなちっぽけな店より、立派な店を播磨の国で持てるに違いない。南蔵坊の 火山坊と夕顔は
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暖かかった。 満願の日にふさわしい、いい天気だった。 やがて、孫次郎が泥だらけの足で力強く歩いて来た。 太郎の姿を見付けると立ち止まって、「師匠‥‥‥」と言ったが、何となく元気がないようだった。 百日間の様々な事を思い出して、感慨無量なのだろうと思った。 「よく、やった」と太郎は言った。 「師匠‥‥‥」と言って孫次郎は顔を伏せた。 「百日間、歩き通すのは辛い事だ。様々な心の 「師匠、実は‥‥‥」 「どうした。後、もう少しだ。頑張れ」 「実は、師匠、今日が満願ではないのです」と孫次郎は言った。 「なに」太郎は数え間違えたかな、と思った。「今日じゃなかったか。明日か」 「いえ。今日で、まだ、十一日目なのです」 「何だと、十一日目だ?」 「はい、すみません。途中で、やめてしまったのです」 「途中でやめた?」 「はい。八十六日目でした。急に腹が痛くなって、どうしても、歩けなくなってしまったのです」 「八十六日まで歩いて、やめてしまったのか」 「はい、すみません」と孫次郎は頭を下げた。 「どうしても、続けられなかったのか」と太郎は聞いた。 孫次郎は力なく頷いた。「駄目でした」 「そして、また、始めからやり直したのか」 「はい」 「八十六日間、歩いて、また、始めからか‥‥‥」 「すみません‥‥‥」 「‥‥‥仕方がないな」と太郎は孫次郎を見ながら残念そうに言った。「今日で十一日目なんだな」 「はい」 「分かった。また、満願の日に来る。今度こそ、歩き通せ」 「はい」 「行っていいぞ」 「はい」孫次郎は頭を下げると阿星山の方へと歩いて行った。 「馬鹿な奴だ」と言うと太郎は岩から下りた。 そのまま帰ろうかと思ったが、一応、孫次郎の事を高林坊に聞いてみようと思った。八十六日間も歩いて、腹痛くらいで、やめてしまうとは考えられなかった。後十四日で終わるというのに、途中でやめたのは何か訳があるに違いない。何かあったからこそ、孫次郎は、せっかく、八十六日も歩いたのにやめてしまったのだ、と太郎は何かあった事を願いながら飯道山に登った。 高林坊は知っていた。 高林坊も孫次郎からは腹痛で途中でやめてしまったので、また、初めからやり直すと言われたという。高林坊も腑に落ちなかったが、孫次郎は腹痛だと押し通した。もう一度、やる気があるのなら、やり直せと言ったという。それから何日かして、 高林坊が詳しく聞くと、その日、商人の女房は用があって大津に行った帰りだった。供を二人連れていたが、一人の方は重要な知らせを持たせて先に帰したと言う。女房は供の老人と一緒に街道を歩いていたが、突然、腹痛に襲われて歩けなくなってしまった。供の老人は荷物を背負っていたため、女房をおぶう事もできず、何とか、観音の滝の 困っていた所に来たのが孫次郎だった。老人は孫次郎に助けてくれと頼んだ。孫次郎は苦しそうな女房を見た。老人から訳を聞いたが、今、信楽まで行くわけには行かなかった。信楽は遠すぎた。信楽まで行ってしまえば日が暮れてしまい、飯道山には帰れなくなる。八十六日間、歩き通し、後十四日で百日行が終わるというのに、今更、どんな理由があっても、やめるわけには行かなかった。孫次郎は老人に断って、観音の滝の前で 真言を一心に唱えている最中、観音様が仕切りに、助けてやれと言っている声が聞こえて来た。孫次郎はそれを打ち消そうとしたが駄目だった。孫次郎はこんな時、師匠だったら、どうするだろうか、と考えた。師匠なら絶対に助けるだろうと思った。百日行は初めからやり直せばいい。もし、あの女房を見捨ててしまったら死んでしまうかもしれない。人を見殺しにして百日行をやり遂げたとしても、一生の間、助けなかった事を後悔するに違いなかった。孫次郎は百日行を諦め、女房をおぶって信楽に行った。 女房は信楽焼きを扱う商家『 太郎坊の名は信楽でも有名だった。信楽から飯道山に登り、太郎から『志能便の術』を習った者も何人かいた。しかも、孫次郎が助けたおかみさんの息子も去年、飯道山に登り、太郎坊から『志能便の術』を習っていたのだった。息子の名前は小川新太郎といい、孫次郎と同い年だった。新太郎はこの店の長男で、やがてはこの店を継ぐ事となるが、当時、商人にも武術は必要だった。商人といっても小川家は元々、この辺りの郷士だった。武士でもあり、商人でもあり、名主でもある。広い土地も持ち、大勢の百姓たちも抱えていた。 孫次郎は、太郎坊の事を色々と聞かれたが、太郎から、ここでは播磨の事は黙っていろ、と言われていたので 孫次郎は、また、やり直すから大丈夫ですと言い、ただ、この事は改めて百日行が終わるまで黙っていて下さいと頼んだ。見事、百日行が無事に終われば、孫次郎がここのおかみさんを助けた事は美談となるが、もし、やり遂げられなかったとしたら、おかみさんは悪者になってしまう恐れがあった。主人は孫次郎の言う事に同意して、見事、百日行が終わるまでは誰にも喋べらないと約束した。 新太郎には妹がいた。お夏という名の十六歳の娘だった。人買いに売られた孫次郎の妹と同い年だった。しかし、孫次郎には妹というよりも一人の異性として意識していた。 孫次郎はお夏を一目、見た時から胸がドキドキしていた。孫次郎は三日間、山路屋の世話になった。孫次郎が帰ろうと思っても主人は帰してくれなかった。また、改めて百日行を始めるのなら、栄養を充分に取って体調を整えなければならないと言って、栄養の付く物を色々と出してくれた。孫次郎もお夏の側にいたかったため、引き留められるまま世話になっていた。息子の新太郎とも仲良くなり、妹のお夏とも散歩をしたり、色々な事を話す事もできた。いつまでも、お夏の側にいたいと思ったが、そうも行かない。世話になった山路屋のためにも、何としてでも百日行を成功させなければならなかった。別れる時、お夏は孫次郎に小さなお守りをくれた。孫次郎はそのお守りを首に下げて、飯道山に帰った。孫次郎の心の中からお夏の面影はいつまでも消えなかった。 孫次郎は高林坊に告げて、改めて百日行を始めた。 山路屋の主人、弥平太は孫次郎との約束はあったが、高林坊だけには一言、言っておいた方がいいと思い、飯道山に出掛けた。事の一部始終を告げて、孫次郎の事を見守ってくれと頼んだ。高林坊は、そんな事があったのかと孫次郎の事を見直していた。八十六日まで苦労して歩いて、人助けをしたにも 太郎は高林坊から、その話を聞くと納得した。よく、やったと言ってやりたかった。もし、助けを求めている者を置き去りにして百日行をやり遂げたとしても、そんなのは何の自慢にもならなかった。もし、そんな男が武術を身に付ければ、それは凶器にしかならない。そして、その凶器は、やがて身を滅ぼす事となろう。太郎の作った『陰流』は、人を助けるための武術だった。無益な争い事を避けるための武術だった。決して、人を 「いい男を見つけたな」と高林坊は言った。 「はい」 「わしも、時々、奴の事を見守ろう」 「ありがとうございます。また、満願の日に来ます」 「うむ。観智坊の奴はどうした」 「蓮如上人様に会いに出掛けました」 「そうか」 山を下りる頃には、もう日が暮れていた。 夕顔の顔がちらついて来たが太郎は行かなかった。孫次郎が世話になったという『山路屋』に向かった。最近、太郎も茶の湯をやるため、陶器に興味を持つようになっていた。茶人たちから信楽焼きの評判も聞いていた。お礼を言うのと同時に、ちょっと信楽焼きでも見て来ようと思った。太郎は馬に乗って仏師の格好のまま出掛けた。 山路屋は思っていたより大きな店だった。頑丈そうな高い塀に囲まれていて門には警固の兵までいた。門をくぐると広い庭があり、そこには焼き物がずらりと並んでいる。それらは一般の家庭で使う 「いらっしゃいませ」とは言ったが、あまり歓迎されてはいないようだった。 「何か、御用でしょうか」 「うむ。実は、床の間に飾る花入れを捜しているのだが」と太郎は言った。 「花入れですか、少々、お待ち下さい」と番頭は店の奥に消えた。 花入れを捜しているというのは本当だった。月影楼の三階の床の間に置く花入れが欲しかったのだった。夢庵からも、信楽にいい花入れがあると聞いてはいたが、なかなか手に入れる機会がなかった。孫次郎のお陰で、この店に来たからには、あの床の間に似合う花入れを買って行こうと思っていた。 番頭は戻って来たが、番頭の持って来た物は、太郎が見ても安物と分かる物ばかりだった。太郎も一応は 番頭は引っ込んだが、今度は主人らしい男と一緒に現れた。主人の後ろには新太郎がいた。新太郎は太郎の顔を見て驚いたが、太郎は首を横に振り、口に指を当て口止めをした。主人が持って来た花入れは最高級の物だった。これなら月影楼の三階の床の間にぴったりの花入れだった。夢庵の書いた掛軸とよく調和すると思った。その花入れも夢を感じさせる物だった。太郎はそれを買う事にした。太郎が銀で、その支払いをするのを見て番頭は驚いていた。 「御主人殿に、実は折り入って相談があるのですが」と太郎は言った。 「はい。何でしょうか」 太郎は主人を番頭から離すと、太郎坊と名乗り、孫次郎が世話になった事の礼を言った。主人は驚いて、改めて太郎を見た。若いとは聞いてはいたが、この男が太郎坊だとは信じられなかった。しかし、孫次郎が家内を助けた事を知っているという事は太郎坊に違いなかった。太郎は自分が来た事を口止めし、帰ろうとしたが、主人は、もう暗いからと言って太郎を帰さなかった。 太郎は 主人の弥平太も太郎を歓迎してくれた。驚いた事に弥平太は太郎の正体を知っていた。知ってはいても、息子の新太郎にもその事は話してはいないと言う。弥平太は古くから松恵尼と取り引きをしていた。松恵尼が娘のように育てていた楓が太郎坊と一緒になった事も知っている。しかも、楓が赤松家にさらわれた時、楓を守って播磨まで供をした弥平次は、何と弥平太の弟だった。弥平次は今、小川 太郎は弥平太からお夏という娘を紹介された。お夏は孫次郎を気に入っているようだと言った。弥平太は初めから太郎が播磨で城持ちの武将だと知っていたため、お夏が孫次郎と仲良くなるのを見て見ぬ振りをしていたのだった。太郎の弟子なら立派な武将になる事だろう。その男の嫁にやるのなら悪くはないと思った。播磨には弟もいるし、お夏も淋しくはないだろう。弥平太はお夏が孫次郎と一緒になる事を願っていた。 次の日、太郎は弥平太から持ち切れない程の土産を貰った。太郎がとても、こんなにも持って帰れないと断ると、弥平太は『小野屋』を通して、太郎の城下まで運ばせると言って聞かなかった。太郎は孫次郎の事を頼んで、弥平太と別れ、播磨に向かった。
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蓮如が、ここ、河内の国 越前吉崎を去ったのが一昨年の八月で、その年の暮れまで、 理由は光善坊だけではなかった。淀川沿いにいれば、京の情報を手に入れ易い事と、淀川の水運業に 淀川の川の民の多くは奈良の興福寺と山崎の 応仁の乱のお陰で、淀川の商人たちは景気が良かった。京に長期滞在を続けている西国武士たちの消費する物資のほとんどは淀川によって京に運ばれていた。物資は次から次へと淀川河口に集まり、川船が間に合わない程だった。財力と先見の明のある商人は倉庫を建てて、船を集め、川の民を人足に雇い、運送業に専念した。戦は何年も続き、運送業は儲かった。やがて、勢力の弱い商人は強い者に吸収され、 川の民たちを門徒にすれば、自然、川の民たちを支配する商人たちも門徒になるだろうと思えた。加賀の国では、農民たちが門徒となって国人たちに反発するようになり、やがて、国人たちも生き残るために門徒とならざるを得ない状況となって行った。ここでも、川の民たちが門徒となって団結するようになれば、川の民を支配する商人たちは門徒となるだろう。また、商人たちに取っても門徒となった方が商売を広げる事が容易となるに違いない。彼らは本所である大寺院や大神社に属してはいても信仰を持ってはいなかった。本願寺の門徒になったからといっても、納める物さえ納めていれば本所も文句は言うまい。商人たちに教えを広めても、加賀の国のように戦になる事はないだろう。 また、淀川河畔には運送業に携わる川の民の他にも、摂津の国 蓮如がこの地に来て一年が過ぎていた。蓮如はここに落ち着くつもりはなかったが、光善坊を初めとした河内、摂津の門徒たちは蓮如をここに落ち着かせたいと願っていた。蓮如の意志とは反対に、出口御坊は立派な寺院としての形を整えて行った。 去年の暮れ、蓮如たちが光善坊に呼ばれて、ここに来た時は、葦の生い茂る中にポツンと二軒の家が建っていただけだった。草庵というには立派すぎる家だったが、蓮如は満足して、家族と共にそこに住み着いた。もう一軒の方には供をしていた ここは雪が少なく、冬といっても、吉崎と比べたら、ずっと暖かかった。蓮如は慶聞坊や慶覚坊を連れて、毎日のように淀川の河原を歩いて教えを広めて行った。効果は着々と現れた。また、商人の町として賑わい始めている堺にも、よく足を運んだ。堺には、染め物業を営む 夏の終わりには蓮綱と蓮誓の多屋も完成し、二人は家族と共に移って来た。二人共、蓮如を見習って、毎日のように河原に出ては布教活動に励んでいた。 太郎と別れた観智坊と弥兵は人々で賑わう三島の湊まで来て、対岸を見ながら驚いていた。加賀の手取川も広かったが、目の前の淀川とは比べ物にはならなかった。川幅があり、水量も豊富で、何艘もの船が行き来している。噂には聞いていたが、まさか、これ程、大きな川だとは思ってもいなかった。とても、馬で渡れるような川ではなかった。二人は馬を木賃宿に預けると渡し舟に乗って対岸に渡った。船着き場から葦原の中の道を真っすぐ進むと、突然、目の前に町が現れた。 左右に町人たちの家が並び、その先の左手に塀に囲まれた御坊が見えて来た。右側には、坊主たちの多屋も並んでいる。蓮如は草庵に暮らしていると聞いていたが、これは草庵ではなかった。立派な寺院だった。 観智坊はここまで来て戸惑った。草庵だったら、簡単に蓮如に会う事もできるだろうと思ったが、これだけ立派な寺院に住んでいるとなるとそうは行かない。素性の分からない者が蓮如に会うのは難しかった。かと言って、素性を明かすわけにも行かない。観智坊は弥兵に慶覚坊の多屋を捜して来てくれと頼むと町はずれの葦原の中に隠れて待った。 蓮如に会うまでは自分を知っている者に会いたくはなかった。蓮崇が来たといって騒ぎになれば、蓮如に会えなくなってしまう。観智坊は蓮如の側まで来て、少し動揺していた。自分の今の姿をすっかり忘れている。髪の毛を伸ばし、山伏の格好をし、しかも、顔付きから体付きまで変わっている観智坊を見て、蓮崇だと思う者などいるはずもなかった。 弥兵はすぐに戻って来た。 「早いのう。もう、分かったのか」 「はい。すぐ、そこでした」 「そうか。それで、慶覚坊殿はおったか」 「いえ、おりませんでした」 「どこに行ったのか、聞いてみたか」 「はい。蓮誓殿と一緒に布教に出掛けたそうです」 「なに、蓮誓殿もここにおるのか」 「はい、そのようです」 「慶覚坊殿は留守か‥‥‥」 「上人様にお会いにはならないのですか」 「いや。慶覚坊殿に仲立ちになって貰おうと思ったんじゃが‥‥‥とにかく、慶覚坊殿の多屋に行こう」 弥兵の言った通り、慶覚坊の多屋はすぐそこだった。観智坊がさっき立ち止まった右側にあった多屋が慶覚坊の多屋だった。 観智坊はしばらく立ち止まって思案していたが、意を決して門をくぐった。慶覚坊の 客間には誰もいなかった。何もかも新しく、木の香りが漂っている。部屋は庭に面していたが、庭には草が生い茂っているだけで何もなく、殺風景だった。 観智坊は庭を眺めながら、蓮如が本泉寺の庭園を造っていた事を思い出していた。ここの御坊にも庭園を造ったのだろうか。いや、まだ、この地に来て一年だ。張り切って、布教に歩き回っている事だろう。庭園を造る暇などないだろうと思った。 慶覚坊が帰って来たのは日暮れ近くだった。客間に入って来ると二人を眺め、腰を下ろした。 「わしが慶覚坊じゃが、風眼坊から頼まれて来たと聞いたが‥‥‥」 「はい。飯道山から参りました」と観智坊は言った。 「奴は今、飯道山におるのか」 「いえ、駿河の方におります」 「駿河か、新九郎の所に行ったんじゃな‥‥‥」 「はい」 「それで、わしに何の用じゃ」と言って慶覚坊は観智坊の後ろに控えている弥兵に気づいた。 「おぬしは確か、蓮崇殿の所にいた弥兵ではないか。どうして、こんな所におるんじゃ。蓮崇殿はどうした」 「蓮崇です。お久し振りです」と観智坊は頭を下げた。 「なに? 蓮崇‥‥‥」 「はい」 「本当か」 「はい。今は観智坊露香という風眼坊殿の弟子になりました」 「観智坊露香? 風眼坊の弟子?」 「はい。山伏となって、飯道山で一年間、修行を積みました」 「蓮崇殿が飯道山で修行をしておる事は伜から聞いてはおったが‥‥‥」 慶覚坊は観智坊の顔を穴のあくほど見つめた。 「うむ。確かに、言われてみれば蓮崇殿のような気もするが‥‥‥しかし、変われば変わるものよのう」 「分かっていただけましたか」 「うむ。顔付きまで変わってしまったが、目は昔のままのようじゃ。久し振りじゃのう。何の音沙汰もないので心配しておった。飯道山で百日行をしたとか」 「はい。風眼坊殿と早雲殿と一緒に山の中を百日間、歩き通しました」 「そうか、百日行をやり遂げたか‥‥‥それで、その後、飯道山で武術の修行をしておったというのか」 「はい」 「しかし、何で、また、武術など始めたんじゃ」 「本願寺のためです。裏の組織を作ります」 「なに、裏の組織を? しかし、蓮崇殿は本願寺を」 「はい。破門となりました。そこで、生まれ変わって山伏となりました」 「確かに、生まれ変わったとは言えるが‥‥‥」 「ただ、生まれ変わっただけでは裏の組織を作る事はできません。そこで、武術を身に付けました」 「武術を身に付けただけで、裏の組織を作る事ができるかのう」 「陰の術も身に付けました」 「陰の術? 風眼坊が言ってたやつか」 観智坊は力強く頷いた。 「しかしのう。そなたが山伏になって加賀に行ったとして、門徒たちが、そなたの言う事を聞くかどうかじゃ」 「そこで、慶覚坊殿の弟子という事にしていただきたいのです」 「なに、蓮崇殿が、わしの弟子か」 「はい。決して、慶覚坊殿には御迷惑はかけません」 「わしの弟子として加賀に乗り込むのか」 観智坊は慶覚坊を見つめながら頷いた。 「うーむ。わしの弟子にするのは構わんが、わしに敵対している者もおるからのう。一番いいのは、上人様に門徒として認めて貰う事じゃのう」 「それは無理でしょう」 「いや、そなたが蓮崇殿だと気づく者は誰もおるまい。門徒になれるかもしれんぞ」 「上人様に嘘をつくのですか」 「うむ。それでもうまく行くじゃろう。しかし、蓮崇殿の気持ちを上人様にぶちまけてみるのもいいかもしれん。もしかしたら、門徒になれるかもしれん」 「しかし‥‥‥」 「蓮崇殿、そなたが、これから始めようとしておる事は生易しい事ではない。まず、手初めとして、上人様と会って、心の中をぶちまけてみるのもいいのではないかのう。会うのは辛いじゃろうが‥‥‥」 「‥‥‥分かりました。上人様にすべて話してみます」 「うむ。そうじゃのう。さっそく、行ってみるか」 「今からですか」 「早い方がいいじゃろう。話がついたら久し振りじゃ、一杯やろう。慶聞坊の奴も呼んでもいいじゃろ。奴もそなたの事を心配しておったからのう」 「はい。しかし、観智坊が蓮崇だという事は他の者には黙っていて下さい」 「分かっておるわ。今後、そなたは表には出んつもりじゃろう」 「はい。裏に徹するつもりです」 慶覚坊は頷いた。 二人はさっそく、蓮如のいる御坊に向かった。 あれ程、会いたかった蓮如だったが、実際、会うとなると、やはり緊張した。 慶覚坊は観智坊の顔色を 観智坊は頷いた。 「 「棒です」 「成程」 観智坊は 慶覚坊は家の中から 「いくぞ」と慶覚坊は薙刀を構えた。 観智坊も棒を構えた。 薙刀を構えた慶覚坊を見て、観智坊は思っていた以上に強いと思った。さすが、あの飯道山で四天王と呼ばれる程の強さだと思った。しかし、反撃はできないにしろ、避ける事はできると思った。太郎のもとで太刀先の見切りは完全に身に付けていた。 一方、慶覚坊の方は、棒を構えた観智坊を見て、その強さに驚いていた。飯道山で一年間、修行したとは言え、観智坊はすでに四十歳を過ぎ、しかも、武術に関しては、まったくの素人といってもいい程だった。どうせ、大した事はあるまい。ただ、蓮如に会う前に緊張をほぐしてやろうと思い、構えだけを見て、誉めてやろうと思っていた。ところが、観智坊はそんな半端な覚悟ではなかった。たった一年間で、これ程までに強くなるには、並大抵な修行をして来たのではない。死に物狂いの修行を積んだに違いなかった。観智坊は本気だ。絶対に裏の組織を作るだろうと慶覚坊は確信した。 「分かった」と言うと慶覚坊は薙刀を下ろした。 「ありがとうございました」と観智坊は合掌した。 「実際、驚いたわ。蓮崇殿、いや、観智坊殿じゃったな。よくぞ、これ程までに修行を積んだものじゃ。それ程の腕を持っておれば、確かに裏の組織も作れるじゃろう」 慶覚坊は薙刀をしまうと、改めて、蓮如のもとに向かった。
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大河内城下跡
出口御坊跡